徒然日記「多事某論」 楽天支部
1
第73回「バカの壁・再」61(その2)~中国『遺棄』化学兵器問題再々々考~勢い余ってその1からの続き。まだまだ妄言は続きます。Re[1]:軍命令による武器の引き渡し。(07/15) 2005年07月23日 21時23分38秒 (kimdongsung)(つづき)元兵士の証言や復員資料として私が調べたものでは1.チチハル市に駐屯していた関東軍化学部の隊員らは,8月13日,上官の命令を受けて,付近を流れる嫩江に毒ガス兵器を投棄した。2.チチハル市フラルキ区に駐屯していた訓練部隊の隊員は,戦争終結後,上官の命令を受けて,付近の地中に毒ガス兵器を埋めた。3.湖南省湘潭県に駐屯していた支那派遣軍第6方面軍第11軍の自動車第3連隊の隊員らも,8月20日,部隊の保有している毒ガス兵器を隠密裏に処理せよとの命令を地区司令部から受けて,付近を流れる湘江に毒ガス兵器を投棄した。4.日本人中学校の生徒が赤弾、青弾、黄弾の車両積み込みに従事した。車両ごと海中に投棄する旨聴かされた。5.広東の第23軍は「特殊弾などを沖合いに船で捨てた」6.敦化の第16野戦兵器廠は「終戦と同時に化学戦弾薬だけ埋設を開始したが武装解除まで完了しなかった」7.軍属としてハルビン市郊外の関東軍駐屯地に派遣され、・・45年8月ごろ、上官の命令で兵士たちとともに赤や黄の目印がついた毒ガス弾を弾薬庫内から選び出し、敷地内の古井戸に木箱ご投げ入れた。8.バンコックの第18方面軍は3000発のガス弾をメナム川に投棄した。(1,2,3は判決文、4,5,6,8「日本軍の毒ガス兵器(松野誠也著 凱風社)」、7は毎日新聞)など結構あります。■まぁ裁判で認定された三件は以前検証しているのでいいとしましょう。次に行くと>4,5,6,8「日本軍の毒ガス兵器(松野誠也著 凱風社)」とあったのでどんな本なんだろうとググってみました。詳しい内容は「日本軍の毒ガス兵器(松野 誠也・著)○凱風社●版元ドットコム」にありまして>紹介>〈貧者の核爆弾〉といわれる大量破壊兵器がなぜ開発されてしまったのか、日本国内や中国で今でもしばしば発生する被災事件をどう理解したらいいのか、戦後60年経っても形成されない日本人の歴史認識とこの問題はどう関連しているのか――日本軍が毒ガスという禁断の兵器に手を染めていった過程をモデルケースとして検証することによって、現政府が推進する憲法改正や戦争加担システム構築の持つ〈犯罪性〉も浮かび上がってくる。まずは事実の共有を、と著者は右傾化する日本に警鐘を鳴らす。もうこの紹介の時点でお腹いっぱいなわけですが・・・>目次>第1~5章 略>第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦出ました。私の心証では政治的・学術的に中立な学者は「アジア太平洋戦争」という単語を使いません。で、版元は「凱風社」だそうですがこれまた随分な出版社で・・・(汗)よくもまぁよくもこんな出版社の本を資料として引用して来るもんだと呆れかえるわけで。でまぁこの8件をよくよく見てみると終戦前1件(No.1)終戦後3件(No.2・3・6)日時不明4件(No.4・5・7・8)と、これらが全て真実だと仮定しても終戦前のは明らかに遺棄でしょうが、終戦後のは>4.日本人中学校の生徒が赤弾、青弾、黄弾の車両積み込みに従事した。車両ごと海中に投棄する旨聴かされた。>5.広東の第23軍は「特殊弾などを沖合いに船で捨てた」など、日本本土で行われた米軍による海洋投棄を彷彿とさせる記述があることから、日本軍が遺棄したと認定するには根拠薄弱です。しかも全ての事例に共通しているのは「命令者の明確な記述がない」という事ですね。1.上官の命令2.上官の命令3.地区司令部の命令4.命令者記述なし5.命令者記述なし6.命令者記述なし7.上官の命令8.命令者記述なしとまぁ単に「上官の命令」と書かれているだけで上官の命令がなんに基づくものなのかという記述がありません。例えば「接収側から遺棄せよとの命令がありそれを受けた『上官の命令』により」であれば日本軍による遺棄ではありません。しかもその3の「地区司令部の命令」とはいったい何なんでしょうかね?で、その地区司令部を調べているときに面白いことを発見したんですが>3.湖南省湘潭県に駐屯していた支那派遣軍第6方面軍第11軍の自動車第3連隊の隊員らも,8月20日,部隊の保有している毒ガス兵器を隠密裏に処理せよとの命令を地区司令部から受けて,付近を流れる湘江に毒ガス兵器を投棄した。と、ここでは湖南省湘潭県に駐屯していたのは支那派遣軍第6方面軍第11軍の自動車第3連隊(某S氏注・自動車34連隊の間違い)と書かれています。しかし「陸軍部隊最終位置」によれば>第6方面軍 岡部直三郎大将 18期 漢口 > 略>>第6方面軍管下 第11軍 笠原幸雄中将 22期 全県> 第11軍管下 第58師団 川俣雄人中将 28期 全県> 第11軍管下 独立混成第22旅団 米山米鹿少将 22期 全県> 第11軍管下 独立混成第88旅団 皆藤喜代志少将 26期 全県>>第6方面軍管下 第20軍 坂西一良中将 23期 衡州> 第20軍管下 第64師団 船引正之中将 25期 瀬陰> 第20軍管下 第68師団 堤 三樹男中将 22期 衡州> 第20軍管下 第116師団 菱田元四郎中将 23期 衡州> 第20軍管下 独立混成第81旅団 専田盛寿少将 30期 湘潭> 第20軍管下 独立混成第82旅団 桜庭子郎少将 25期 株州> 第20軍管下 独立混成第86旅団 上野源吉少将 24期 永豊> 第20軍管下 独立混成第87旅団 小山義己少将 27期 リン県まぁなんということでしょう~(劇的BeforeAfter風と冗談はさておき終戦時に湖南省湘潭県に駐屯していたのは支那派遣軍第20軍管下独立混成第81旅団と言うことが判明しました。で、支那派遣軍第6方面軍第11軍は同じ湖南省の全県に駐屯していたとあります。また終戦時に湖南省湘潭県に駐屯していたと言われた第6方面軍第11軍所属の独立混成第八八旅団の戦闘について詳しい「独立混成第八八旅団戦記」を見れば>4.全県反撃戦>その後、7月25日に、軍は桂林を撤収し、全軍が全県に集結しました。方面軍の指令だと、この全県を軍は一ヶ月確保する必要がありますが、既に第三、第十三、第三四師団は他の方面に転進してしまいました。>残った兵力というと、 第五八師団、独立混成第二二旅団、独立混成第八八旅団と、僅かな軍直轄部隊のみで、全県はともかく、その後の広大な平地が続く華南省での後退作戦は寒い限りでした。と言う記述があり>一応、追撃を少しだけ続け、戦場の整理を終わったあと、第十一軍は全県からの撤退を開始しました。その開始日は1945年8月15日。全県付近での勝利は、文字通り日本陸軍の最後の会戦での勝利となったのです。と8月15日には命令に基づき全県からの撤退を開始しています。湘潭は湖南省の真ん中より東よりの省都である長沙市の一寸下にあり、全県は湖南省とその東の広西省の州境側の街だそうですから撤退に際して通過したのならともかく「湖南省湘潭県に駐屯していた」と書くのは明らかに間違っているのではないでしょうか?ちなみにあの毛沢東は湖南省湘潭市出身だそうで、湘潭市から西北へ45kmの所の韶山と言うところが出身地なんだとか。閑話休題もののついでに部隊の方も調べてみました。しかし、この「支那派遣軍第6方面軍第11軍自動車34連隊」と言う部隊がいくら調べても出てこないのです。部隊名に「自動車」と付く部隊は「独立自動車大隊」や「独立自動車中隊」、輜重連隊の下に編成された「兵站自動車中隊」などが確認できます。例えば先程出てきた支那派遣軍第20軍麾下独立自動車第81大隊材料廠の上級部隊である独立自動車第81大隊は第三次湘桂作戦に投入されています。で、「自動車連隊」という編成は結局「自動車第一連隊」以外確認できませんでした。しかもその自動車第一連隊も隊史が出ているお陰で存在が分かった程度で、いつ編成されたなどの詳細は不明です。とふと思い立って軍板質問スレで質問したらもう返事が返ってきました(汗)742▼ 名前:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE(投稿日:2005/07/26(火) 21:52:32 t/vTD81K)>>672 自動車連隊とは、関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を編成したのが始まりで、六個の連隊が編成されましたが、16年の関特演でこれらは独立自動車大隊に改変されました。 同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました。 その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり、傘下には連隊長以下人員700名、自動車300両を装備しました。 お尋ねの自動車34連隊とは自動車第三十四連隊として昭和16年5月に沙洋鎮で編成された部隊です。 編成以来十一軍に所属し、湘桂作戦(大陸打通作戦)中の編成表でも軍直轄部隊に含まれています。 終戦時の所在地は中支。■うーむ、軍板質問スレ恐るべし。部隊は存在し第11軍に所属していたところまでは事実のようですね。後はその自動車第三十四連隊が終戦時に湖南省湘潭県に駐屯していたかどうかという点ですねぇ。当方でも公刊戦史など当たれる資料は当たろうと思っていますが、この付近の適当な地図など皆様からの情報提供お待ちしています。書きかけ何となくその3へ続く
2005.07.23
閲覧総数 96