1

素晴らしい!これほどの知的興奮をもたらす新書は、なかなかお目にかかれません。あまりにも細分化が進んでしまった人文・社会科学。音楽史も、その例外ではありません。立ちふさがる分厚い専門書の壁。ピアノを弾いていて、バッハ以前の時代に、ちょっと興味をもった学生。歴史に興味をもった一般クラシックファン。美術鑑賞が好きで、そのためにも音楽史をちょっと知っておきたい人。そんな人でも軽い気持ちで読める『通史』は、今音楽史の周辺ではまったくないという。そこで、筆者は蛮勇をふるって、西洋音楽史の『通史』を書く……だけではないのが、この本の素晴らしさ。その音楽が、なぜそこに存在しているのか、それを知ってもらいたい。音楽の源流まで訪ねながらも、「ヨーロッパ観光ガイド」にも耐えうる、そんな新書を書きたい…… その意図は、本書の隅々まで行き届いていて、成功をおさめています。ちょっと、こちらが言葉を失ってしまうくらい凄い。ただちに、本屋でお求めいただいて、この感動を味わってもらいたいほどです。これを読まずして何を読む! 簡単に紹介しておきましょう。いや、簡潔な紹介ができるか、すこし自信がありませんが…。● 西洋芸術音楽とは、知的エリート(僧職・貴族)に支えられた、 主に伊・仏・独を中心とした「紙に書かれ設計される」音楽文化のことであるラテン語・単旋律のグレゴリオ聖歌にはじまる、西洋音楽。フランスを中心とした、3拍子音楽(3位一体?)。9世紀頃になって、聖歌に付随するオルガヌムという旋律が登場して、あの「垂直」構造が生まれ、12世紀になって音の長さ=音価が表記できる記譜システムがあらわれる。聖歌は、お経と同じ。自然と節回しが生まれるもの。それなのに音の長さをなぜ指定するのか。そこに「言葉」から「音楽」が独立してゆく過程があらわれているという。そんな中世音楽は、そもそも聴かれることを必要としていない。音楽は数学、数的秩序、世界の超越的秩序の表れという考えは、西洋音楽史の底流にあるという。14世紀には、「祈りの音楽」から「楽しむための音楽」が登場し始め、2拍子の登場程度で大騒ぎするのが面白い。● イタリア音楽が覇権をにぎる、ルネサンス、バロック音楽● イタリア・フランスの「王侯生活を彩る祝典のための音楽」と対照的な、 ドイツ・バッハの宗教音楽楽しむための美しい旋律、ルネサンス音楽。それは、フランドルからイタリアへと受け継がれ、世俗曲から旋律を借用して宗教曲が作られ、モンテヴェルディ、パレストリーナといった「作曲家」をうむ。名もない「職人」に止まらない「芸術家」としての自意識の出現。そんな音楽文化は、商人の国、オペラの発祥地でもある、ヨーロッパの「音楽の都」ヴェネツィアで爛熟する。ルネサンス音楽とバロック音楽の分水嶺は、1600年頃。「和音」・「不協和音」の発見と、不協和音のもつ表現力を使った作曲技法の登場こそ、そのメルクマールだという。バロック音楽は、三和音、長調・短調の区別、拍子感をもち、我々にもなじみが深い。その音楽は、大きな秩序=「通奏低音」と、音色・音量・楽想で対照的なものを「協奏(競争)」させる「対照から生じるダイナミズム」を特徴とする。その結晶は、喜怒哀楽の情動表現をフルにつかう、オペラ芸術。同じ歌詞・旋律をみんなで歌うルネサンス期までのスタイルから、たった一人の主役が伴奏楽器を従える「通奏低音と旋律」のスタイルへの転換は、絶対王政の成立とパラレルでもあるらしい。「時代遅れ」なバッハは、なぜバロックの集大成、大作曲家とされたのか。「途方もなく書けて」「演奏して面白い」バッハ評価こそ、この本のキモ。この部分、必読でしょう。● 「万人に開かれた音楽」古典派の出現● 「音楽への愛」で結ばれる、公衆と作曲家の公共空間を支えた、 楽譜出版と、交響曲をメイン・レパートリーにすえる公開演奏会の出現対位法と通奏低音が消え、旋律のみになった古典派。古典派では、バロック的な交替・対照に止まらない、ソナタ形式――――2つの対立が、「対話(展開)」をへて、やがて「和解(再現部)」に至る>――――が出現して主流になる。そんな古典派の音楽とは、交響曲と弦楽四重奏に見られるように、「公的なものと私的なもの」の絶妙な均衡、「晴れがましさ」と「親しさ」の調和にあるという。喜劇オペラを華々しい活動の場にして、数十ものキャラクターにまったく違う主題音楽をつけて、きちんと描きわけながらも「形式」を瓦解させない。それどころか、それらの主題を終幕において、自然に統合させてしまう、天才、モーツアルト。それに対して、意思と形式、「横溢する生」と自己規律の完璧な調和の下で、「言うべきことはすべて言いきった」充実感とともに、「万人に開かれた(集団へ熱狂的に没入する次元まで切り開いた)」「限りなき昂揚」の音楽を世に送りだした、ベートーヴェン。なぜベートーヴェンの音楽が、近代市民社会であれほど崇敬され、日本にまで影響を及ぼしたのか。19世紀初頭、近代市民社会における労働の成立と、ベートーヴェンの主題労作の技法の同時代性に注目する、テオドール・アドルノを援用する筆者。 「ベートーヴェン=勤労の美徳の<音の記念碑>」というイメージは、クラシックになじみのない人間には、たいへん斬新な観点ではないか。(長くなったので、分割。明日の次号を応援してください) 評価 ★★★★☆価格: ¥819 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 7, 2005
閲覧総数 152
2

更新が滞りがちで、申し訳ありません。本書によれば、経済学的思考とは、社会の様々な現象について、人々のインセンティブ構造とその意志決定メカニズムから考え直すことであるという。世間に潜む身近な疑問や社会格差を、インセンティブと因果関係の精査を通して考えてみよう!。そう呼びかけるこの本は、数字や常識などに騙されない、そんな思考を身につけるための必読本となっています。参考のためサワリをご紹介しておきましょう。● 女性はなぜ背の高い男を好むのか? →高身長には、運動部加入によって組織運営する能力が身に付くプレミアム があり、親が子供に残せる最も重要なものも「身長」らしい● イイ男は結婚しているのか? →イイ男には経済力要素もあるが、結婚したからイイ男になった、のが正解● フリーエージェント制やドラフト制弱体化は、戦力バランスを崩すのか? →そもそも一人勝ちは、球団参入・売買規制の存在と、球団が「利潤最大化」 を追求せず、スポーツのスリルを愉しまないファンによって生じるという。 さまざまな平等措置が必要になるのは、これらが満たされないためである。● 大学教員を働かせるには? →終身雇用は低給料のメリットがあるが、研究インセンティブが生じない。 全部任期制だと、新任教員にポストを取られる危険性から能力が劣るもの が選ばれ易い。終身雇用と任期制をミックスさせ、適切な評価制度が必要● リスクを嫌うはずのエンジニアはなぜ「職務発明報酬」を支持するのか? →一審で200億円の算出された青色発光ダイオードの「職務発明報酬」。本 来革新的な発明はリスクが極めて高い。本来企業の方が導入したい成果 主義的賃金制度を技術者が求めるのは、リスクが不透明で上司が満足な 指示を出せない中で結果を出している「個人の成果」意識反映、もしく は危険愛好的な自信過剰の反映であるらしい。● 日本的雇用慣行は崩壊したのか? →不明。終身雇用労働者は全体の2~3割にすぎないし、「団塊の世代」の 人口の巨大さという中期的要因も無視できない。● 年功賃金はネズミ講か? →間違い。労働者の生産性が考慮されていない。企業の未積立年金・退職 金債務に顕れたようにネズミ講に近いが、合理的システムとしても存在可能● なぜ年功賃金制度は存在するのか?人的資本か?インセンティブ・供託金 機能か?適職探しか?生計費か? →どれも完全には説明できない。技能が陳腐化していないことが必要だし、 解雇しない中でインセンティブもおかしい。職種が少ない企業でも成立して いるし、生計費モデルはそもそも設計して給料と対応させることが難しい。● なぜワークシェアリングが定着せず、人は失業を選ぶのか? →賃金カットをすると、優秀な社員のみ賃金維持を求めて流出しやすい上、 優秀さを自負する労働者は解雇の方を支持しやすい。また損失局面で は、人は俄然危険愛好的になり現状維持を選びやすい――「損失回避」 とよぶ――などが絡み、3割カットになる位なら、人は人員整理をもとめ てしまうらしい。自然災害などの対策についても、災害保険によってリスクを個人的にカバーさせるだけではなく、危険な地域に居住しながら未対策の家屋に、高額な税金をかける仕組がよいという。サッカー界における人種差別は、実証的分析の結果、ファンではなくオーナーの方にあるらしい。また若者の年金未納付は、「団塊の世代」の年金給付削減を政治的理由から行えない状況に対する反乱であるという。プロ野球の名監督は、誰なのか。また、失業はどうして犯罪や自殺と結びついてしまうのか。人間は死亡時期さえも経済的インセンティブで変えてしまう(スレムロッド教授)などの、インセンティブ理論の浩瀚な紹介は、知的好奇心をもつものにとって、たいへん刺激的なものになっています。とくに、最終章、所得格差と再分配を論じた部分は、著者の専門分野だけに、入門書としては白眉の部分でしょう。『下流社会』など、ジャーナリスティックな浅薄で煽り立てるだけのアプローチに対する、厳しい批判になっています。現在の所得格差拡大は、急激な高齢化と世帯構造変化(核家族化)によるもの。高所得層における共稼ぎ(女性のライフスタイル変化)なども影響を与えているものの、そこまで顕著な所得格差の拡大はみられないという。所得格差拡大は、80年代であって、90年代ではない。むしろ名目賃金の低下などが、中年以上を直撃して、実態以上の格差拡大感をもたらしているという。若年層の所得格差拡大、高年齢層での格差縮小という傾向が、1990年代以降見られること。IT革命は、学歴間賃金格差の拡大をもたらすものの、単なるパソコン習熟者増加のような対策を打ち出すのではなく、分析・解析能力の高い高学歴者の供給で対応すべきこと。どんどん所得税徴収率が減少している、世界でもっとも「小さい政府」の一つ日本。そんな社会で「小さな政府」を目指すことが唱えられ、人々が「失業」に怯えているのは、ある種の喜劇ではないのか。むしろ、所得分配機能を高め、セーフティネットを重視するべきではないのか。「転職」可能性に支えられた生涯所得概念(イタリアはジニ係数が低いにも関わらず、生涯所得格差で見ると、アメリカと変わらない)の重要性とともに、この著作から教えられることは非常に多い。ただ、どうだろう。人々のインセンティブ構造を正確に測定して、その構造をかえてゆくことによって、人々の行動そのものを変化させていく…この発想は、どんなに有効な社会設計のアプローチであるとはいえ、なかなかムカつかせるものがあるのではないだろうか。我々は、知らず知らずの内に、見も知らぬ制度設計者がもくろんだ、身体内のインセンティブ構造への働きかけを通して、行動が制御されてしまっているのだ。マクドナルドが、顧客の回転数をあげるためわざと固いイスを使い、ゴルフの賞金制度が、競争のインセンティブを持続させるため決勝トーナメントで苛酷な賞金格差、バラツキがある予選では賞金格差を設けないと使い分けるように。インセンティブ操作の対象にすぎない、われわれ。自由なはずの我々は、すでにインセンティブ構造を通して、自由をとっくに失ってしまっているのかもしれません。軽妙な面白さを醸し出す反面、なにやらウソ寒い冷たさを感じてしまったのは、評者の深読みのしすぎではないはずだ。社会の統治技術という側面をもつ、経済学。それは有用であるがゆえの宿命なのでしょう。考えさせられる点が多い、お薦めの一冊、といえるかもしれません。ぜひご一読ください。評価 ★★★価格: ¥819 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Jan 24, 2006
閲覧総数 280
3

(承前)● 「時代を超えた独の偉大な音楽VS軽薄な仏伊の流行音楽」の図式確立● 上記のどちらも、「労働する市民を感動させる」音楽では同じロマン派公共空間に自作をアピールする作曲家たち。そこでは、音楽を公正に判断する「批評」という営為が欠かせない。また19世紀、音楽学校が成立するようになると、徒弟間で作曲を学ぶ形式は廃れ、専攻別に分かれて器楽演奏を学ぶようになる。過去の優れたレパートリーを学ぶには、「名作」が必要。かくて18世紀、現代音楽が上演されていた演奏会は、19世紀ロマン派以降、「過去の不滅の傑作」を上演する演奏会に変容して、「不滅の音楽を書かねばならない」という強烈な歴史意識が現れるようになる。19世紀、近代市民社会の成立。巨大オーケストラによるハッタリと物量作戦、演奏技術開発、観衆のマス化、スター演奏家の出現。その果てに、19世紀「音楽の首都」パリでは、宮廷社交文化を引きついで上流ブルジョアを受容者とする、グランド・オペラとサロン音楽が大流行する。ロッシーニやマイヤベーヤなど、外人に占められたフランス音楽界。普仏戦争の敗北後、フランス人作曲家たちの印象派音楽が、小泉首相の好きなワグナー、サロン音楽、場末音楽、エキゾチズムの影響を受けつつ、「古典に帰る」を旗印にして誕生する。ところがドイツでは、概念を欠いた純粋な響きであるが故に、器楽曲(交響曲・弦楽四重奏など)を究極の詩(芸術)と見たロマン派詩人を介して、音楽とは宗教的敬虔で接すべきもの、擬似宗教的な性格をもつものになる。深さや内面性を重視して、器楽音楽を崇拝して音楽を「傾聴」する文化は、ここに由来するという。その「神なき時代」の宗教音楽は、グスタフ・マーラーで頂点に達する。「調性」(シェーンベルク)「拍子感」(ストラビンスキー)などの破壊をもって、クラシック音楽は自己崩壊する。● ロマン派的な「実験」「過去の名曲演奏」「広く受け入れられる曲作り」 の「3位一体」が分裂してしまった20世紀第一次世界大戦で、ロマン派は作曲のみならず演奏においても完全に終焉して、「新即物主義」「新古典主義」にとってかわられる。音響素材開拓の絶望から「歴史の進歩」「オリジナリティ崇拝」というロマン派的音楽観を否定して、「パロディ」(新古典主義)を作る動き。その一方では、断固として「歴史の進歩」と「未曾有の音響」を求めることを止めない「十二音技法」が登場してくる。「何の規則もない所に、独創性は存在しない」以上、いずれもクラシック音楽崩壊後の「型」を再建・回復するための回答という共通性があるという。20世紀後半以降の3つの音楽の潮流、前衛音楽、巨匠によるクラシック名演、ポピュラー音楽は、いずれも19世紀のロマン派音楽の遺産の上にある。ポピュラー音楽も、旋律構造・和音・楽器・「市民に感動を与える」点では、ロマン派の後継者、クラシックと地続きにすぎないらしい。いかがでしたでしょうか。なによりも、音楽史という素材でありながら、ここまで西洋の政治・経済・文化・思想全般に目配せする離れ業には、驚くほかはありません。サロンで弦楽四重奏曲を楽しむ姿。それは、『のだめカンタービレ』で「貴族?」呼ばわりされるような御伽噺ではなく、18-19世紀の中産階級の普通の嗜みでもあったのです。そういった中産階級の生活が、写真などをふんだんに交えながら語られる。なんという楽しさか。音楽でこそ、文学作品の最も深い<言葉を超えた理念>に肉薄できる! そのロマン主義芸術運動は、標題音楽・交響詩へとつながり、また音楽はシニフィエもシニフィアンもない絶対的なものとする絶対音楽の理念を生む。それは、フォルマリスムの先駆けにもなるというのも、「ふむふむ」感が漂っていてすばらしい。いたるところまで目配せが効いています。ただ、すこし残念なのが近代部分。おおむね『オペラの運命』(中公新書)で言い尽くされていて、あまり新鮮な感じがしない。音楽家としてはともかく、批評家としては素晴らしい吉松隆などを読んでいると、あまり斬新さが感じられない。できれば参考文献では、アドルノ以外も、目配せしておいた方がよかったのではないだろうか。さらに、20世紀後半では、「実験」「過去の名曲演奏」「広く受け入れられる曲作り」が一体となったものに、ジャズをあげて評価する部分は、ジャズ~クラシックファンである私がみても、ちょっといただけない。まるでジャズが前衛とポピュラーのミックスであるからこそ、評価されているみたいじゃない(たしかにそんな時代もあった)。しかも、その際出てくるのが、マイルス・デイビスの関係者ばっかりである上、1960年代後半には、前衛とポピュラーの分化がおきているといわれても…。ジャズ固有の前衛さ、モードについての検討がなされていないので、いささか軽薄に移ってしまう。エレクトリック・ジャズ全盛だった、1970年代はどうなるんだろう?そもそもプログレッシブ・ロックなんかは関係ないの?う~ん微妙。そんな疑問点などをすこしばかり感じるものの、そんなもの些細なものにすぎません。リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」をクラシック音楽への「決別」として描いた、この人の『「バラの騎士」の夢』(春秋社 1997年)と並んで、すばらしい作品に仕上がっています。ぜひ、お楽しみください。 評価 ★★★★☆価格: ¥819 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 8, 2005
閲覧総数 52
4

本日は、しょうがないので書評をやめて、反日デモについてかく。やりたくないんだけどねえ。だいたいなあ、日本のマスコミとウヨクはバカか?なんじゃこりゃ。↓毎日:「愛国無罪はええじゃないか」http://www.mainichimsn.co.jp/shakai/wadai/news/20050414k0000e070076000c.html讀賣も産経は、論外だからまあいい。煽られて騒ぐ連中は、本当にバカではないのか?とおもってしまう。要するに、中国でふきあれる「愛国無罪」は、「われわれが暴れるのは愛国の心情からだ。官憲は邪魔立てするな!」という叫びなんだそうだ。愛国だから許されるという意味なんだそうだ。それで焚きつけられて怒っているらしい。バカも休み休みいえばいい。そもそも「愛国無罪」って、主要な出典が分かってるか?1936年11月23日、「七君子事件」というものがあった。そのころ国共両党は、内戦の中にあった。それを憂い、国民党と共産党の一致団結と抗日をもとめていた、全国救国会運動の指導者たち。かれら逮捕されちゃった。国民党は、彼ら救国会の運動を共産党の運動とみなしていたのですな(実際、繋がりのあった人は多かったのです)。そこで七君子は、裁判などを通じて「愛国無罪」の論陣をはる。それだけではない。かれら逮捕された「七君子」たちを救え!!。救国会の陰のリーダーであった孫文夫人・宋慶齢は、「救国入獄運動」を大々的に展開することになる。つまりですな、「愛国無罪」という標語と、その後の歴史的系譜を整理すればこうなる。「愛国には罪はない。もしあるとすれば、われわれも犯罪者なのだ。われわれを逮捕しろ!!国を救うためにみんな七君子とともに入獄しよう!」。その後、西安事件がおき、潮流がかわる。かれら七君子は、日中戦争開始後釈放されることになる。36年12月の西安事件とともに、無茶苦茶有名な事件です。一言で言えば、「愛国無罪」は由緒正しい、反政府運動のスローガンなんですよ。あんまり知らないでしょう。「愛国無罪」をかかげるとき、それは中国では「7君子」にまつわる政治儀礼の再演に他ならない。「われわれが暴れるのは愛国の心情からだ。官憲は邪魔立てするな」のはずがないじゃないの。後段の「救国入獄」が略されていることくらい、バカでもわかる。政府ならなおさら。そして、そこで「愛国無罪」を掲げてデモが繰り広げられるその意味。「愛国をかかげる我々を逮捕できるなら逮捕してみるがいい」これ、「中国政府への挑発」以外の何があるんかいな。マスコミはアホか。意味がまるで逆であることを知らない。「愛国無罪」は、中国政府に向けたデモ隊の脅し「でも」あることをまるで理解できていない。なぜ、「愛国無罪」「救国入獄」は問題になるのか。なんで中国政府は、デモに弱腰になってしまうのか。あたりまえだ。「愛国無罪」のもつ以下のテクスト。そこの「愛国」の部分に「投石」や「不買運動」、「七君子」の部分に「投石した犯罪者の逮捕」とやらを入れてみたらいい。↓↓↓↓「七君子を救おう!。愛国には罪はない。もしあるとすれば、愛国心をもつわれわれも犯罪者なのだ。われわれを逮捕しろ!!国を救うために七君子とともに、みんなで入獄しようじゃないか!」↑↑↑↑不買運動や投石くらいならまだいい。これを「日本人狩り」にかえたらどうなる?おまけに反政府運動に火をつけた上で、やられてしまった日には。中国政府は対応できない。てか中国人はやりかねないのだな。不満がマグマのようにたまってることは、今さらゆうまでもないでしょう。日本人を殺害して、「愛国無罪」をとなえ居直る「君子」。それを讃え「救国入獄」をとなえてデモをやる人々。想像してみたらいい。今のおぞましさの比じゃない。しかも、逮捕したら最後、中国共産党は国民党と同じことをした政権になりさがることになる。だから、反日デモという名の反政府運動を鎮圧しない。自然鎮火をまつ。その証拠に、政府が拘束したとされる、上海殴打事件で拘束された人の「名前を明らかにされていない」ことをみたらいい。されてしまったら、いったいどうなってしまうのか?尖閣諸島に上陸して強制送還された中国人みたいに、「君子」よばわりされちまうでせう。記憶にあたらしいことでしょう。ありゃホントに不愉快じゃった。白状すると、評者はこの反日デモが楽しみで楽しみで仕方がない。個人的には、「救国入獄」がどのような「変奏曲」となるのかが知りたいからだ。これが、「業」というもの、なんでしょうね。中国は非民主的、反日的という。それは正しい。しかし、歴史をよくみてみることをすすめたい。戦前日本。反日にみえた国民党に暴支膺懲を叫んで、よりタチのわるい共産党を招いた。共産党を叩くのはいいさ。でも共産党よりタチのわるいやつらを招くことにもなりかねん。中国人のカウンターエリートは、共産党エリートよりタチが悪い連中でないと断言できるのですか??わたしにはそんな勇気はありません。北宋は、遼に圧迫された恨みつらみから、金と同盟を結んで遼を滅ぼした。そしてその金に北宋は滅ぼされた。南宋は、金に圧迫された恨みつらみから、元と同盟を結んで金を滅ぼした。そしてその元に南宋は滅ぼされた。あんまり野暮なことはいいたくないけど、歴史はくりかえさせるのだけは止めて欲しい。まったく。というわけで、明日から書評レビューに戻りたいとおもいます。
Apr 17, 2005
閲覧総数 529
![]()

![]()