文豪のつぶやき

2005.06.15
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カテゴリ: 新撰組
幕末みたいな乱世になると、不思議な人物が出てくるらしい。
清河八郎のことである。
清河は東北出羽清川村の富裕な大名主で酒造家の家に生まれた。
武士ではないが、実家の斉藤家が戦国の頃まで有力な豪族であったので、郷士というべきであろう。
幼少の頃から、抜けるような秀才で、腕も立ち、度胸もある。
青年の頃、江戸に上り学問は東条一堂、剣は千葉周作の北辰一刀流を学んだが、どちらもぬきんでたという。
特に頭の回転は速く、のちのかれの人生がそれを物語っている。
何でも出来る天才的な策謀家、といったところであろうか。

この勉学の中でかれは尊皇攘夷に傾いていくがこの頃幕府を倒してやれ、と思っていたのはおそらく彼しかいないのではないか、というより俺が将軍になってやるとまで思っていたふしもある。一介の百姓上がりの浪士がである。まさに怪物である。

江戸で学んで数年後、かれの機略の人生は始まる。
かれは、幕臣松平主税介(時代劇などで有名な松平長七郎の子孫)を知り、その縁で山岡鉄舟ら幕臣と縁を結ぶ。さらに水戸の過激浪士とも交友を始める。
その後、老中安藤対馬守暗殺計画、失敗するや武州川越に潜居、しかしこのときもみずからを将軍になぞらえ川越幕府とうそぶいている。
川越潜居が幕府に知れると、京に飛び、京都尊攘派の大物田中河内介と獅子王院宮を擁して京の征夷大将軍をつくり、全国の浪士を集めるという計画を立てた。
このため、清河は浪士集めのため九州を中心に遊説を始める。
この計画は失敗したが、清河の感化を受けた浪士たちは続々京に集まり、尊皇攘夷の名のもとに殺戮を繰り返した。文久の暗殺の季節である。
清河は再び江戸に戻り、自らまいた種であるが、殺戮荒れ狂う京の鎮圧のためと称し、幕臣を動かし、将軍上洛の直前ともあって、京都を鎮護する浪士組を結成する。
この234人の浪士組の中に道場ごと参加した近藤勇らがいる。
清河は京都に着くや、幕軍であるこの浪士組を天皇軍にすりかえ、この浪士組で幕府を討つために、江戸に向かって進軍するという。
イラクに派遣された自衛隊が、イラクに着くやいなや、イラク軍になって日本を攻撃するようなものである
まさに清河は機略家である。

江戸に戻った浪士組も新徴組として将軍護衛の任にあたる。
清河は江戸に戻るや、めげずに横浜外人居留地襲撃を計画するが文久三年(1863年)4月13日夕刻、麻布一の橋畔で、さんざん手玉に取った幕府の放った刺客によって暗殺される。暗殺したのは佐々木唯三郎、後に竜馬殺しとされた京都見廻組の組頭になる。
なお、清河の暗殺場所が、清河八郎研究第一人者の小山勝一郎氏、作家の司馬遼太郎氏らは麻布赤羽橋とされているが史家の野口達男氏がこれを訂正され、麻布一の橋とされているのでこれを参考にさせていただいた。
山岡鉄舟が百世に一人といった清河は背景を持たず、己の才覚のみで乱世を渡り、明治のための肥やしになって消えていった。不思議な人物である。







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最終更新日  2005.06.15 15:01:51
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