文豪のつぶやき

2008.07.17
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カテゴリ: 時代小説
白井の手配で二人は遠戚にあたる三田の小間物屋の使用人に身を変えた。
 白井と矢口は高田に行くのに海路づたいを歩くことに決めた。三田から高田までの間はおおむね幕府の直轄領になっており、幕府が瓦解した今は無政府状態に近く、容易に往来が出来る。
 二人は柏崎、直江津と過ぎてゆく。
 矢口は藩主連枝の育ちのためか、この町人の変装がすっかり気に入ってはしゃいでいる。 それに見るものすべてが珍しいらしく、道中、柏崎の遊廓に昼間から上がろうといいだしたり、日蓮ゆかりの番神堂に寄ろうといったりして白井を困らせた。
(のんきでいいよな)
 矢口を横目で見ながら白井はぼやいた。

 高田城下の旅籠にはいったのは三月三十一日の夕刻。
 白井は早速旅籠の若い衆に金を握らせて官軍の情勢を窺いに出した。
 やがて若い衆は帰ってきた。

 官軍といってもその数二百五十人であるがそれにしても一人もいない。
「お城にでもいるのではないですか」
 と矢口はとりとめもない。
 それより、ここまで来たのですから春日山城に参りませんか、と矢口は云った。
 春日山城は上杉謙信公の城である。
 そこにお詣りに行きましょう、と矢口は云った。
 白井はとりあわずにさらに官軍の異変を八方手をつくして調べた。
 やがて、判明した。
 三月十九日に越後全藩の重役に勅命を出した直後、江戸の総督府からすぐ江戸へ急行せよとの命令があり、その日の内に早々と高田を立ち去ったということであった。
 白井らが高田に入った時には官軍はすでにいない。
「三田へ帰りましょう」

 官軍が去ってしまった以上高田にいても意味がない。
 矢口はよほど町人の姿が気に入ったのか、この旅が終了することを残念そうにしている。
「そうだ、白井さん」
 矢口は目を輝かせ、
「私たちも官軍を追って江戸までいきましょう。江戸がどうなっているか探索ですよ」

(馬鹿な事を云ってやがる)
 と白井はあきれた。
 江戸へいくまでの間、道という道は官軍に埋めつくされている。
この素性のあやしい町人姿の二人はたちまち殺されてしまうだろう。
「帰りますよ」
 白井は立ち上がった。
 矢口もやむなく立ち上がった。

 四月に入った。
 越後は再び騒がしくなって来た。
 官軍に追われた衝峰隊と名乗る旧幕軍が越後に入ってきたのである。
 旧幕臣古屋佐久左衛門率いる八百名の軍が江戸を脱出、関東各地を転戦しながら会津に向かっている。
 これが群狼のごとく、洋式化した長岡藩だけを除き、越後の守旧の弱小藩を洞喝した。
三田藩も例外ではない。
 いかに勇猛な上杉軍団の末裔とはいえ、たかだか百名程度のしかも、三百年も前の旧式の武装ではひとたまりもなく潰えさるであろう。
 衝峰隊は三田藩に五千両要求した。
 三田藩の蔵にある金のすべてである。
 この時期、官軍はまだ越後にはいっていない。
 北陸道先鋒総督府が去ったあと、山県らを軍監にした部隊がようやく京都で結成され、北陸を北上しつつある。
 篠原は切歯厄腕しながら官軍の越後入りを待っていたが、やむなく古屋ら衝峰隊のいる新潟へ単身向かった。
 無論時間稼ぎのためである。
 新潟へは朝出れば、昼には着く。
 明け方早く屋敷を出た。
 篠原が三田の領地である礼拝を過ぎた頃、後ろから二人の武士が馬で追ってきた。
 篠原は馬を止めた。
 見ると伊藤と白井であった。
「何だっや」
 篠原が云った。
「おめさん、あいつら狂犬だで、おらたちも一緒につきあうっや」
 伊藤はにこっと笑った。
「伊藤さん」
「なあに、おらと白井がおればむざむざと斬られはすまい。おめさんにはもうちっと長生きしてもらわねばな」
 伊藤ははにかんだ。

 篠原らは弥彦村で早い昼食をとると、新潟へはいった。
新潟は幕府直轄領であったが昨年大政奉還がおこなわれてより、統治する権能者がいなくなり無法状態となっている。
 そこに衝峰隊が入り、狼藉を働いたため店という店はすべて戸が閉じられている。
(ここまでひどくなっているのか)
 篠原は城下を馬で歩きながら思った。
 伊藤も白井も無人の荒れ果てた町並みを見て息を飲んでいる。
(政治の瓦解とはおそろしいものだ)
 篠原は思わざるをえない。
 社会とは法と秩序で護られている。しかしそれを行使する力が失われれば、社会は崩壊し、法と秩序の上で生活している力無き者たちは路頭に迷わざるをえない。
(商家の中のか弱き者たちの啜り泣く声が聞こえてきそうだ)
 篠原は三田の民たちの顔を思い浮かべた。

 会見の場は新潟城下の商家の一室。
 衝峰隊は、大将格の古屋佐久左衛門、副将格の今井信郎の二人が会見した。
 篠原は最初、官軍が越後に来るまでの時間稼ぎのため、無能家老を装いくどくどと話をした。
「われらはお手前の愚痴を聞きに来たのではない」
 いきなり、今井が吠えた。
 この男、目が尋常ではない。
(何十人も斬り殺しているな)
 篠原の後ろで平伏している伊藤や白井はそう思った。
剣士というよりも殺人嗜好者と云ったほうが近い。
 今井は京都の見廻組の元幹部で新選組とならんでその剣は勤皇の命知らずの志士を恐れさせた。
 余談になるが、この前年の十月土佐の巨魁坂本龍馬と中岡慎太郎が今井らによって暗殺されている。
 伊藤は短気だ。
 思わず剣の柄に手をかけた。
 白井も足袋を脱いだ。
 室内で争闘になった場合、下が畳敷なので足袋だと足がすべる。そのため裸足になった。
 白井はそういう点喧嘩馴れしている。
 今井はそれをじっと見据えている。
(やむをえぬ)
 馬鹿を装い、話をうやむやにして帰るつもりであったが通用しそうもない。
 篠原は目で伊藤と白井を制すると、古屋らの方を見た。
 その目は、先ほどまでの無能家老のそれではなく、聡明な輝きを帯びている。
 篠原は今井の殺気を受け流しつつ云った。
「では、はっきり申そう。わが藩は藩主が幼少でござる。しかも、先月藩主になられたばかり、藩情はまだおさまっておりませぬ。不肖、それがしが藩政をまかされておりまする。その藩の顔ともいうべきそれがしにそういうお言葉、小藩といえどもわが藩は武によってその名を知らしめた上杉の藩風。話にならないのなら武によって、決着あるのみ。ここで斬りあいをするもよし、帰って合戦もまたよし如何」
(さすがは篠原)
 と思ったのは伊藤。
 喧嘩の駆け引きがうまい。
 ここでよしんば斬りあいになり篠原が倒れたとなると、小藩とはいえ篠原は一国の首相である。越後諸藩の政情は勤皇に傾く。
 無論、今井が切りかかってきても上杉軍団の末裔、喧嘩する度胸はある。
 間に割って入ったのは、古屋である。
 古屋は篠原の意図を見抜いた。
 それに古屋率いる衝鋒隊が越後で評判が悪いことを知っている。
 歴とした武士団ではなく無法者の寄せ集めなのである。
 だから、行く先々で強盗、強請、殺人とし放題の事をしてきている。
 今井はその最たるものであろう。
 いまここで篠原と喧嘩になれば越後を全部敵にまわすことになる。
 古屋は篠原に向かい、
「貴殿も色々と事情はござろう。わかり申した。」
 ということで軍資金差し出しのことは不問になってしまった。
 篠原らは今井の睨みつける形相のなか、悠々と立ち去った。

 閏四月、官軍は浸水するようにひたひたと越後国へ入り込んできた。
 十九日、再び高田に集結した官軍は二手に分かれ、二十八日、土佐藩の岩村精一郎引きいる一隊は小千谷を占領、長州藩の山県狂介引きいるもう一隊は柏崎に入った。旗幟不鮮明な長岡藩を攻略するためである。
 柏崎から三田までわずか四里。
 たちまち三田藩全土に緊張感が走った。
 時あたかも田植えの季節である。
三田の領民たちは不安におののき、三田陣屋へ押しかけた。
 青木らは領民への対応で忙殺された。
 篠原は青木らを集め、
「いよいよ官軍が来ました。私はこれから会いに行ってまいります。あとのことはたのみます」
 と領民への対応を頼み、柏崎へとんだ。





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最終更新日  2008.07.17 11:39:46
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