文豪のつぶやき

2008.07.20
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カテゴリ: 時代小説
 五月に入った。
 この時期、越後の情勢は切迫してきている。
 長岡藩執政河井継之助は官軍と会見することを決意、五月一日小千谷の官軍に使者を送った。
 官軍はこれを了承し、あくる五月二日河井は供一人を連れ小千谷に乗り込んだ。
 会見場所は官軍の本営慈眼寺。
 河井は会見相手が高名な西郷隆盛ではないにせよ、それに比する例えば、薩摩の黒田了介か長州の山県狂介だと思っていた。
 が、出てきたのは、二十三才の若造であった。
 河井は失望した。
 若造の名は岩村精一郎という。

 幕末動乱期の幸運児の典型で、のち逓相、男爵、枢密院顧問。むろん明治後はなにするなく生涯を終える。
 余談になるが、岩村には兄と弟がいる。
 兄は精一郎と同様、薄っぺらい人物で精一郎と同様明治期をうまく遊泳し男爵にまでなっている。
 弟は林有造という。
 この時期はまだ少年であったため、明治初期に出現する。
 林は、
「謀反人でも林は玄人」
といわれた人物である。
 明治初期、武士の反乱により、西郷隆盛、江藤新平らが次々と滅んでゆくなか、板垣退助の懐刀として、日本中に自由民権の運動を広げてゆく。

 岩村は河井を知らなかった。
 むろん、河井の背景にある軍事力も。

 そういう偏見の中、河井は説いた。
 要旨は、
 一、長岡藩は独立国である。官軍にも旧幕軍にも組しない。
 二、今は国内戦争をしているときではない。そんな事をしていると外国に植民地にされてしまう。
 三、長岡藩が官軍と旧幕軍の主力である会津藩との仲介の労をとろう。

 しかも河井の説き方は嘆願というものではなく、非難するような言い方である。
 もし、これが受け入れられない場合は「大害ガ生ズル所」とまで云っている。
 長岡藩が許さない、ということであろう。
 これはもはや脅しである。
 岩村はせせら笑った。
(こいつ狂人か)
 それはそうであろう。
 岩村は田舎の家老が血迷ったと思った。
 岩村にしてみればわずか七万四千石の小藩が官軍に喧嘩を売っているとしか思えない。
 河井は河井で自らを侍むところが強く独善的になっている。
 むろんその背景にはわずか七万四千石の小藩をその才能で近代的な軍事藩に仕立てあげたという自負がある。
 会見はたちまち決裂した。
「帰れ」
 岩村は席を立った。
 河井は再三、交渉を願い出た。
 が、聞き入れられず、河井はついに長岡へと帰路についた。

 翌、五月三日奥羽越列藩同盟に加入した長岡藩は旗幟鮮明にし、官軍に襲いかかった。
 世に言う北越戦争はこうして幕をきっておとされた。
 後の北越戦争指揮官になった山県有朋が、
「夏でも寒し越の山風」
と詠った悲惨な戦争のはじまりである。

 慈眼寺の会見の交渉破談の話は静かに流れ出た。
 三田藩で一番最初にこの報を聞いたのは篠原。三日の早暁である。
 篠原は小千谷の官軍本営に人を入れている。
 その伝令が河井が長岡へ去るのを見届けると、すぐさま信濃川を駆け渡り篠原に注進した。
 篠原は床の中でこれを聞いた。
(戦さがはじまる)
 篠原は跳ね起きると伝令にべとにもこの旨伝え、陣屋に来るようにと命令した。
 そして自らは、着替えももどかしく太子堂へ向かった。
 太子堂には五人ともいたがまだその情報は伝わっていなかった。
 篠原は官軍と河井の決裂を告げた。
 伊藤が云った。
「篠原、おめさんには随分世話になったなあ。俺等はこれから脱藩する」
「どうしても行くか」
 篠原は宮下の白井説得不調の話は聞いている。こうなれば友情として太子堂組をつつがなく長岡へ到着させねばならない。おっつけ伊藤の父である超愛国者の押見八郎太がこの報を聞き、追手となるだろう。
「これを持っていけ」
 篠原は懐から一枚の紙を取り出すと伊藤に渡した。
 藩境である地蔵峠を通行する通行手形である。
 三田から長岡にはいる場合、通常は刈羽をぬけ沖見峠を越えてゆく。
 街道になっているため道は広くゆるやかである。しかし、長岡領との藩境にある山を迂回してゆくため道のりはある。
 地蔵峠は道らしい道はないが、長岡へは最短である。ただし、急な斜面を背の高い草をかきわけ、けものみちにそって越えるしかない。
 藩境の地蔵峠のふもとには番所がある。
 そこを通るための手形を渡した。
「すまん」
 太子堂組は頭を下げた。
「私はこれから陣屋に上がって時間を稼ぐ」
 そういうと篠原は太子堂を出、陣屋に向かって歩きだした。
 五人は表に出ると遠ざかる篠原の後姿に再び頭を下げた。
 が、篠原は振り返らない。
 篠原の姿が見えなくなった時、矢口が横にいた白井に声をかけた。
「白井さん、家に帰って姉上さまに最後の挨拶を」
「し、しかし」
「なあに、気にするな」
 と伊藤が云った。
「汝をここまで育ててくれたんじゃないか、わしらは支度をして飯田神社で待ってる。さあ行ってこい」
 伊藤は白井の背中をどん、と突き出した。
 白井は照れくさそうに笑うと、
「半刻後に飯田神社で」
 屋敷に向かって駆けだした。
 白井を見送った後、矢口が伊藤のほうを振り向き、
「伊藤さん。あなたも家に戻ってください」
 と云った。
 伊藤だけが太子堂組の中で唯一妻子持ちである。
「いや、俺は」
「伊藤さん。もう会えなくなるんですよ」
 矢口は云った。
「わかった」
 伊藤はそういうと駆けだした。
 伊藤を見送った後、矢口が、
「さて、われわれはどうする」
「親父殿の顔を見たってしょうがねえや」
 青木が云った。
「そりゃそうだ」
「それではわれわれは準備をするか」
「こんな事ならいい娘の一人もつくっておくんだったな」
 加藤が云った。
「おめさんに来てがあるかよ」
 青木が云った。
 加藤は、
「そりゃあ三国一の良い婿じゃもの」
「そうだ。そうだ。まっこと、加藤は三国一の花婿じゃ」
 矢口が手をたたいて笑った。
「馬鹿いってないで、支度をするか」
 矢口はそういうと加藤の尻をたたいて太子堂の中に入っていった。

 一方篠原の使いから連絡をうけたべとは伊藤の家に向かった。
 伊藤とは仲違いしたまま別れたくないという気持ちがある。
 太子堂にゆけば、他の者がいる。
 べとは二人きりで話をしたい。
(伊藤さんのことだ。子供に会うために一度家に戻るだろう。それを待ち伏せすればよい)
 べとは歩きながらそう思った。
(しかし大変な事になったな)
 顔が上気しているのがわかった。
 藩主の馬廻役が揃いも揃って脱藩するのである。しかも彼らは近い将来、藩の首脳になるべき地位にある。
 三田藩史上空前の出来事である。
 べとの心の中には暗澹たる思いが広がっていった。
(ともかく、俺は篠原さんを信じてついてゆけばよい)
 べとは自身にそう言い聞かせると暗い気持ちをふりきるように駆けだした。





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最終更新日  2008.07.20 11:39:52
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