文豪のつぶやき

2008.07.20
XML
カテゴリ: 時代小説
 白井は屋敷へ入るなり、お幸と竹蔵を客間に呼んだ。
「姉上、竹蔵さん、いよいよ河井先生が戦さを起こしました」
 お幸も竹蔵も黙って聞いている。
「私はこれから脱藩致します」
「俺あ悪いから席をはずすよ」
 竹蔵が立ち上がりかけた。
 竹蔵にすれば姉弟の今生の別れに他人がいるのはばつが悪いと思っている。
 白井はそれをとどめた。
「いえ、竹蔵さん、ご同席下さい」

「姉上さま長々お世話になりました。一馬このご恩は一生忘れません」
 ふかぶかと頭を下げた。
 お幸はにっこり笑った。
「一馬さん、私のことは一切忘れてしっかりおやりなさい。ご武運をお祈り致しております」
 白井は竹蔵のほうに向き直ると、
「竹蔵さん、姉上さまのことくれぐれもよろしくお願い申し上げます」
 そういうと再び頭を下げた。
 竹蔵は腕を組んだままでいたが、
「白井ちゃん、姉上さまのことは心配しないでください。この俺が命に代えても」
 頭をふかぶかと下げた。
「では」

「一馬、元気で」
 お幸は一言云った。
 白井は頷くと屋敷を飛び出た。

 白井が去ると、今までこらえていたお幸がいきなり突っ伏して泣きだした。
(あわれだな)

 それは、科を負って家祿が没収されるからではなく、お幸が手塩にかけて育てたこの世にたった一人の肉親の最愛の弟が永遠の別れになるかもしれないというお幸の切なさを思ってのことであった。
 竹蔵は思わずお幸を抱き寄せた。
 お幸は驚きもせず、竹蔵の胸に顔をうずめた。
(今、俺にしてやれることはこんなことぐらいしかない)
 お幸は子供のように泣きつづけた。
(白井ちゃん、俺あどんなことがあってもお幸さんを護ってやるぜ)
 竹蔵はお幸をきつく抱くとそう呟いた。

 伊藤には娘がいる。
 年はまだ三才である。
 名は、菜摘という。
 伊藤はこのたった一人の娘を溺愛した。
 妻の加代は、過去三度流産している。
 本来ならば石女として離縁するか、伊藤の家格ならば妾をもつのが普通である。
 事実、伊藤の岳父伊藤義清も妾をもつことをそれとなく勧めた。
 無論、伊藤は女好きであり、三田領内の大和田の遊廓では伊藤の名は有名である。
 しかし、伊藤は婿入りの気兼ねからか妾をもつことを拒んだ。
 伊藤家は、加代が一人娘である。跡取りがなければ名門伊藤家は終には途絶えてしまうであろう。
 妾の件が義父義清からあったときも、伊藤は笑って和やかに拒否した。
 なおも義清がいうと伊藤は、
「それならば、義父上様が妾をとって我らの弟なり妹なりおつくりになって跡を継がせればよろしゅうござる。さすれば私ども夫婦はこの家を出て二人で暮らしまする」
 と眉間に皺を寄せ答えた。
 加代は後にこの話を義清から聞いて涙をこぼしたという。
 それほどこの夫婦は仲がよい。
 その伊藤に女児が誕生した。
 伊藤は狂ったようにこの女児を愛した。
 その伊藤がこれからこの女児に最後の別れにゆく。
 夜がしらじらと明けてきた。
 伊藤はいつもの見慣れた道を家にむかって歩いてゆく。
 その頭上を山から下りてきたのかうぐいすが啼いている。
「うぐいすがないておるのう」
 何年か先、菜摘が大きくなったらやはりこのうぐいすの声を聞いてなんらかの感慨をもつのであろうか、と伊藤は思った。
 しかし、それは伊藤が今こうして最愛の娘に別れを告げにいく時に切なく聞こえるうぐいすの声ではないだろう。
 本来、うぐいすの声は春に聞く明るい音色であるが、こうして切なく聞くうぐいすの声もあるのだな、と思うと伊藤は泣けてきた。
 やがて、林が切れると伊藤の屋敷が見えてきた。
 伊藤は唇を噛み、声を忍びつつ歩いた。
 ふと見ると門の所にべとが立っている。
 伊藤は慌てて涙をごしごし拭くと、べとのそばに寄っていった。
「なんじゃ」
 べとは伊藤の顔を見ると、にこやかに笑った。
 べとはじっと伊藤を見つめている。
 伊藤は気恥ずかしそうに、
「この前はすまんかったのう」
 頭を下げた。
「篠原さんから聞きました」
 そういうとうつむいた。
 伊藤はべとの横顔を見た。
 その表情は大人の顔になっている。
(驚いたな)
 今までべと、べとと少年を揶揄し内心軽侮していたが、今見る横顔は頬から肉付の良さがなくなり引き締まった顔をしている。
(この一ヶ月の篠原の下での苦労がこの顔を造り上げたのか)
 伊藤は思わず云った。
「菜摘を菜摘をたのむ」
 そういうとべとの前で土下座をした。
 べとはじっと伊藤を見ていたが、やがて伊藤の前に正座して座るとその手を握り、
「伊藤さん、安心して行ってください」
 そして、立ち上がると、
「伊藤さん時間がありません。早くご家族の人と今生の別れを」
 踵を返すとさっと道を駆けていった。
 伊藤はその後ろ姿に手を合わせた。

 伊藤は屋敷に入っていった。
 そして、加代を呼ぶと眠っている菜摘に盛装をさせるように云った。
「いよいよでございますか」
 加代は小さな声でいった。
「うむ」
 伊藤が短く云った。
 加代が盛装をさせた菜摘をつれてきた。
 菜摘は眠そうに目をこすりながら伊藤のもと来たが伊藤の顔を見ると、
「ととさま」
 と抱きついてきた。
 伊藤はしばらく菜摘を膝の上の乗せていた。が、やがて床の間の上座に座らせ、自分は下座に下がり菜摘を眺めていた。
(菜摘を目にやきつけておく)
 ともすれば、涙で愛娘がかすみそうになるのをこらえながら伊藤は目をこらした。
 菜摘は首を傾げながら愛くるしい顔で伊藤を見ている。
 伊藤はやがて加代のほうを見た。
 加代はうなずくと、
「さあさ、もう一度おやすみしましょうね)
 菜摘を抱くと伊藤に一礼し、部屋を出た。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008.07.20 15:28:11
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: