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今から50年前、ニール・イネスやスキャフォールドのメンバーらが集まった音楽とコントの合わさったプロジェクト、グリムス。そのステージ活動の初期においてドラムスを演奏してたマイケル・ジャイルズの姿が確認できる唯一の画像に彩色。おまけ、マクドナルド&ジャイルズ画像
Apr 4, 2022
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9月末に引っ越して以来、生活優先で音楽の私物は二階に放置してました。そこそこ片付いてきたので、書籍や楽器とともにレコードとCDもそろそろ棚に収めることに。引越の際、様々なテープやディスク類と同じく、レコードも飲料水のダンボール箱に詰めて運びました。以前よく買い物に行ってたスーパーが、これら空き箱をレジ脇に積んであって、いくらでも貰えたので、引越の際2tトラックを借り、様々な小物やメディアを何十個ものこの箱で運んだわけです。結構丈夫で重宝しました♪9月までいた借り住まいでもコンパクトに積んでおけるので大いに利用してたのですが、引っ越してからは用済み。まだ全部中身を出した訳ではありませんが、大量の空き箱が出る予定。とここで、以前借り住まいでレコードを箱に入れたまま並べたら、結構便利だったのを思いだし、棚に分類するにあたって利用することに。結構丈夫なんです。飼い猫にレコードで爪をとがれたり、舐められるのも防げますw 昔猛烈に買ってたころと違ってだいぶ処分したので、今はLPもこんなもんです。EP盤シングルは自作の専用木箱に入ってます。で、その箱を今度は横にして積み上げてCDラックにしてみました。最初の写真のように、三方を内側に折り曲げ、一方のみ外側に折り曲げてます(地震の際の転倒防止w)。側面と背面をテープで固定し、他の棚の間に挟んで安定させています。ちなみに一番下は足代わりの空き箱です。直接CDを突っ込むと奥に行きすぎるので、カラのCDケースを奥においてストッパーにしてます。見た目はモロダンボールですが、作った本人は結構面白がってますw まだ箱があるのでまたつくるかも。猫用の遊具とか。最初はCDラックとか本棚を買わないとと思っていたのですが、CDやレコードを処分すると今度はラックが不要になってしまうと考えてこんなことをやったと、まあこういう訳なのです。
Oct 25, 2011
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ゴードン・ハスケルらにより1970年代半ばに結成されたバンド、ジョーについて過去当ブログでも度々取り上げて参りました。すっかりこのバンドの事について紹介しきったつもりでした。しかし、実はもう一枚彼らのレコードが存在し、それも日本のみ限定のレコードがあったのを先日知らされました。 それが今回お題にさせてもらうドラゴン・スープレックス(ドラゴン藤波のテーマ)です。78年作品で既にハスケルはバンドから抜けていますが、メル・コリンズが参加しております。ジョー - ドラゴン・スープレックス (ドラゴン藤波のテーマ)(1978) Joe - Dragon Suplex (Theme of Dragon Fujinami) CBS SONY 06SP 222 CreditHiroshi Kato : guitar, vocal Jim Russell : drums, syndrum, percussion Kuma Harada : bass Steve Tatler : vocal, percussion Andrew Barfield : vocal, percussion Robert Bailey : keyboard Ken Freeman : freedom strings synthesizer Ray Warleigh : alto sax Mel Collins : tenor sax Malcolm Griffiths : trombone Martin Drover : trumpet Peter Swettnam : recording engineer Recorded at Jackson Recording Studio England SIDE A : DRAGON SUPLEX SIDE B : I NEVER GIVE UP words and music by H.Kato, K.Harada Joeは元々1976年にブリン・ハワースのバックバンドをしていた3名で結成されたユニットで、バンドとしては77年にバンド自身の名義でシングルJoe - How Can I Resist / Sweet Annabelle (1977 GTO GT84)を発表。 他に山口百恵のロンドンレコーディングアルバム「ゴールデン・フライト」、ツイスト企画アルバム「いかすぜジャック/ツイスト決定盤」を制作していた事を以前も取り上げました。そして、78年にこのシングル「ドラゴン・スープレックス」を出すわけですが、ゴードン・ハスケルのインタビューを読み返すと、「ジョーの後にクリフ・リチャードのツアー(77年の夏から)に参加した」という件があったので、この1978年時点では既にバンドから抜けていたようです。 しかし、私自身も大のプロレス者だった割には、この藤波選手のテーマソングにJoeが関わっていたことは全く知らずにおりました。しかしツイッターでフォローさせていただいているザ・ししおどし様からのご指摘により今回このシングルを購入してご紹介している次第です。貴重な情報をありがとうございました。 シングル盤ライナーによるとWWWFジュニアヘビー級タイトルを藤波選手が獲得した事で作られたナンバーだという事です。レコーディングスタジオも山口百恵のリズム録りやツイスト決定盤と同じジャクソン・スタジオ。ウィングス、ブライアン・フェリーなど様々なレコーディングをこなしているセッションミュージシャン連中を集めていると記されています。尚、この曲はその後別のバンド、ミノタウロス演奏ヴァージョンがCDなどに収められているそうですが、JoeヴァージョンはCD化されていないそうな。78年の発売当時、メル・コリンズの華麗なサックスがプロレス会場やテレビ放送で散々流されていたのにも全く気が付く事が無かったので本当に盲点でした。もちろん既にご存知の方にとってはなにを今更と思われるでしょうね♪ドラゴン・スープレックス
Jun 5, 2012
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キングクリムゾンを脱退したメンバー達のうち、消息が掴めなかったアンドリューの行方を捕捉しました。(2008年6月現在)音楽界を1980年頃に去った後、子供の頃から馴染んでいたヨットの腕を生かし、英王国ヨット協会にてインストラクターとして指導したり、操船でスキッパーとして、ヨットマスターとしてその手腕を奮っていたそうです。ちなみにヨット協会の名簿は会員以外閲覧できないので、御了承ください。だいぶお年を召されていますが、あの射抜くような眼差しと男らしい風貌は昔のまんまですね。 ゴードンがクリムゾンのコンサートリハに嫌気が差して脱退した時、同じ様にリザードの収録で苦渋を呑んだアンディが追従して脱退した経緯が、近年シド・スミスの著書で紹介されたのは朗報でした。リタ・ファーローの無責任な記述の様なクビではなかったことがハッキリして良かったです。 ちなみに彼は現在主にギリシャの島々を巡る一ヶ月ほどのツアー企画の船長をしているそうです。 乗客たちは日本円で40万から50万円くらいの予算でアンディの操船するヨットに載り、美しい海を旅するようです。何にせよ、御健在なのが判ったのが嬉しいですね。 ★ かわってコチラは、シド・スミスのブログです。21馬鹿バンド等貴重な画像が見られるのがお勧めです。 6/20追記:以前もMcCullochの読み方でブログを書いたが、読み方は本人の家系によりけりだそうだ。本人がどういう発音で言うかによる。同じ綴りでも読みが違うケースはままあること。実際本人や周囲が彼をどの様に呼んでいたのか?音楽界を去った今となってはどうでもいいことか。マクロックだろうが、マックローだろうが、マクローチだろうがw もしMcCullochの先祖がスコットランド系だったりしたら、発音がマックロッホという事になってしまい、ややこしい悩みがまた増えることとなる(自爆)。ちなみにAndrewも正確にはアンドルーというのが本来の発音には近いそうである。
Jun 19, 2008
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実に単純なことであるが、75年のグリーンスレイドのライブ音源のメンバー紹介部分で確認できた。「次の曲はドラムフォークです。アンドルー・マカーロック」紹介をしているのは声からしてたぶんデイブ・グリーンスレイド。その部分の音声以上、コレにて完結w ちゃんちゃん♪過去ブログAndrew McCullochの名前の読み方を今更考えてみるAndrew McCullochの近況
Jul 9, 2008
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Andrew McCulloch2枚目の時点で契約はしたが、前バンド(ジェイコブスラダー)の件やリハ不足が絡み、キング・クリムゾンでは三枚目のリザードでのみ参加したドラマー。名のほうは、Andyと省略されているケースも多いけどwさて、問題は姓の方なのだ!セカンドネームマカロックなのか?マクローチなのか?読み方には正直弱ります。このブログではマクローチで書いてきたけど、他の人のサイトを読んでも、過去に出回った様々な文献を見てもバラバラ・・・ならば!ネット時代の今日である。他の著名人の読みと見比べてみてはどうだろうと思い立ったのである。ナカナカいい考えかな?↓結果↓☆マカロック(マッカロウ、マッカロク、マカラック)で読まれている人エコバニのイアン・マカロック元ウィングスのヘンリー・マカロック形式ニューロンモデルのマカロック1986年生まれの女性ギタリストのゾーイ・マッカロック★マクローチで読まれている人俳優のカイル・マクローチ元ウィングスの故ジミー・マクローチ(マカロックと書く人もいる)スヌーカの世界選手権出場者のイアン・マクローチ06年キリン杯で来日したスコットランドのサッカー選手、リー・マクローチ日本の同じ漢字の苗字で読み方が違うように、綴りが同じでも違ったりするのだろうか?ちと混乱気味です。余談だが、Googleでウェブ全体でAndrew McCullochの検索をすると英国の家電通販店、その名もずばり「Andrew McCulloch」というお店にぶち当たりますwwwあのアンディの店だったら笑えますな。(まあ日本にも個人名のお店ありますものね、マツモトキヨシとかみたいに)案外同姓同名の人はいるようで役者さんやダイソン社のエンジニアも同じ綴りでしたw※08年 6/20追記:コチラに消息を書きましたhttp://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/200806190000/※2 08年7/9追記:結論をコチラに書きました。完結編 Andrew McCulloch の読み方
Jan 17, 2008
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グレッグ・レイクらとのShylimbsやKing Crimson、Fields、Greensladeなどに参加し60年代末から70年代末に活躍した元ドラマー、Andrew McCullochさん。以前よりたびたび取り上げてきたように彼は現在ヨット指導者として、また観光ヨットの船長として生活しています。最初に確認した当時はギリシャ周辺の海域をテリトリーにしてましたが、近年ギリシャの世情が不安定な為、観光にも深刻な影響があるといわれており、彼の近況がとても心配でした。で、現在アンディ本人が関わるヨット観光の企画自体が一新され、トルコ周辺での観光ヨットとして新たなスタートを切った模様です。なんにせよお元気で何より。Turkey Sailing Holidayshttp://www.turkeysailingholidays.com/
May 13, 2013
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生来あまのじゃくなもので現在では余り注目も知られてもいないバンドをもう一丁!アフター・ザ・ファイアーという英国のロックバンド。ピーターバンクスというイエスの初代ギタリストと同名異人のテクニカルなキーボードプレイヤーがいるグループで、82年にDer Kommissar(MCハマーがヒット曲でパクった元歌)という世界的にヒットも出し、深夜に放送されていたオールナイト・フジなんつー女子大生の番組の洋楽情報でも紹介なんぞされたりもしていたな。実はバンド自体の歴史は古く70年代初期から続いているのだ。で、当初はプログレを標榜していたようで78年あたりだったかプログレ情報同人誌「ロックボトム」の英国ライブレポートで「ナショナルヘルス」と共にそのステージの模様が紹介されていた。散々色んな廃盤を聞きかじっていた当時でも彼らの幻の1STLP:Signs of change は聴く機会に恵まれなかったので、内容がわからない(自主制作で4千枚プレスだったらしい)。メインボーカルのアンディ・ピアシーがまだギター担当(メジャーデビュー後はベースになった)で、ステージじゃ50歳くらいのヴァイオリン奏者も参加したりしていたそうだが、どんな感じのサウンドだったのかなぁ?この78年のLPがきっかけか翌79年にはCBSとメジャー契約しデビューとあいなる。しかし時代はパンクムーブメントを経て既にポストパンクの混沌とした状況。テクノチックな演奏とメンバーもお洒落ないでたちで見た目がすっかり変わっていた。メジャー1作目となる LAZER LOVE は、当時出回りはじめたポリフォニック・シンセサイザーのサウンドが時代を感じさせるポップでスマートな作品。プロデューサー陣がまた豪華でRupert Hine, Muff Winwood, Rhett Davious, John Leckieとバンドメンバー。One Rule For You と Laser Love2曲が本国でもスマッシュヒットしたらしい。LP2曲目のインスト曲JOYもプログレともテクノとも違うハイスパートでキャッチーな方向性を示し、他の楽曲もカーズ等が80年代に想像した音楽性を先取りした感があった。80年代にはラップやファンク要素も取り入れたりしていたのだけど、まだこの頃はまだデビューしたての初々しさが瑞々しい。83年までバンドは活動したらしく、その後ピーターは日本のメーカーAKAIのシンセやマルチトラッカーのデモンストレーター等をしていて、当時のカタログや紹介記事で目にする事もあった。現在はATF2としてピーター・バンクスを中心に活動を再開しているが、当時とはメンバー構成も違い、ピアシーは参加していない。
Jun 12, 2005
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60年代末、ゴードン・ハスケル作レイジー・ライフをシングルでカバーし、オーストラリアでヒットさせたバンドHeart'N'Soul。このバンドの情報をまとめたサイトがあります。ここにある動画だと、彼らがテレビ出演して唄った映像が1969年の9月8日ということが書かれております。また、現在入手不能な彼らの楽曲を聴くことも可能です。Heart 'n' Soul by Philip Prideauxhttp://atmoslas.com.au/show/Heart-n-Soul/start.htm
May 21, 2012
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意図してるわけじゃないのですが、海外のミュージシャンによるキース・エマーソンを想うエピソードがまだ出てきているので、僭越ながら毎度のなんちゃって意訳です。ジョン・アンダーソンが昔の面白話を披露してくれてます。ジョン・アンダーソン「やあ皆さん、こんにちは。 今日キース・エマーソンを思い出すのは、1969年にイエスがキース・エマーソンのナイスとアイルランドをツアーを共にした事です。それはそれは波乱に満ちた演奏旅行となりました。(※訳注1969年7/18ベルファスト、ウルスターホール。7/19ダブリン、ナショナルボクシングスタジアム(2ショー)。7/20コーク、ハイバーニアンフットボールスタジアム(電圧不足OR暴動で中止?)。) 我々のツアーは、ベルファストでのギグの後、ダブリンのスポーツアリーナで行い、その後コーク(港町)に行きました。今思い起こすとイエスも非常に若い頃の売れ初めた時期で、ボンゾドッグドゥーダーバンドらも一緒になり、乗る者全てクレージーな連中が赤いバスへと押し込められ、アイルランドを反対側へと移動していたのです。 私達は途中途中でパブを見つけるたびに停車していたので、コークについたときは、控えめに言っても車中のみんながちょっぴりハッピーになりました!何しろココでのギグは良く来てたサッカー場で行われるからです。 でも肝心のステージの作りは最悪だったし、ショー全体で使われる電気プラグが「たったひとつ」しか用意されてなかったので、我々全員が「こんなんで出来るか!」と文句を言いました。 ボンゾのドラマーは毎回彼らのクレイジーショーで花火を使ってたんですが、ショーの終わりでドラムを爆発させていて、私たちがパブで一杯やろうと最寄の店を探してる時も彼は爆破させようとしていたんです。 あー、ロックンロール!ショーで何が起きたのか我々が知る頃には、私達はパブでパ-ティの最中。その事態を知らされた時キースは、彼に祈りを捧げるとホンキートンクピアノを弾き始め、その場の我ら全員で唄ったのを懐かしく思い出します。 その後ちょっと問題が発生。会場のファン大勢がパブに押しかけてきてしまったのです。それから数時間、ショーの再開を望むファン全てが制御不能な状態になり、我々が何を言っても収拾が付かなくなりました。年長で人の良いキースがちょっと事態を収めようと試みましたが、逆に殺気立ってしまい、そこでパブのマスターが叫びました。「お前ら全員静かにしてテレビ見ろ!」丁度「月面着陸*」の映像が流れていて、だれもがテレビに釘漬けになりました。(*人類初の月面着陸、アポロ11号) 私たち、イエス、ナイス、そしてボンゾバンドの面々はパブの裏口から飛びだしてバスの中に転がり込むとそのまま空港へ直行し、ロンドンの家まで戻ったんです。 私は今でもあのコークの夜のとんでもない狂騒から家まで戻る帰途が笑いに包まれてた事まで全てを思い起こします。「月面着陸!」ソレは僕達だ!!!!!ありがとうキース、祝福を・・・愛と光を ジョン」以上です。原文だけだと意味が伝わらない部分がありますが、前座のボンゾドッグバンドの起こした騒動で後のイエスやナイスの出番がすっとんで、イベントが中止になったようにも読めますが。文献を漁ると「電圧不足でショーがキャンセルになった」とも書かれてます。アイルランドツアーの資料はほとんど無いので詳細は不明です。※2017年7月31日追記当時のツアーの記念写真だとかボンゾドッグバンド、イエス、ナイスの各メンバー、そしてライターのクリス・ウェルチがいるそうです。
Apr 10, 2016
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2015年3月19日に心臓麻痺でこの世を去ったマイケル・ブラウン氏(享年65歳)。 1960年代に、レフト・バンクにおいてそのセンス溢れる楽曲で注目を浴び、70年代には前期ストーリーズでも活躍した作曲家/鍵盤奏者。日本においてもザ・タイガース他GSバンドの多くがカバーした「いとしのルネ」の作曲者として知られていました。 近年は身体が弱り、表立った活動はありませんでしたが、晩年2013年4月にニューヨークでのレフト・バンク・リユニオン・コンサートで登場し、プリティ・バレリーナを演奏している映像が残されています。既に弱りきっており、介添え無しでは登場も出来ないほどでしたが、観客の暖かい拍手に手を挙げて応えていました。The Left Banke w/ Michael Brown - Pretty Ballerina (live) 往年のレフト・バンク映像からTHE LEFT BANKE "WALK AWAY RENEE" 1966 全米チャート最高位5位そして永遠のエヴァーグリーンであり続ける名曲THE LEFT BANKE- "SHE MAY CALL YOU UP TONIGHT" モンタージュとして出したアルバムよりMontage - Desiree 残念ながら以前あったマイケル・ブラウン在籍時のストーリーズTVCM映像が現在無くなってるので、当時の楽曲を。1972年の1stアルバム(全米LPチャート最高位182位)からStories - High and Low 1973年エディー・クレーマーを招聘、バンドと共同プロデュースで制作されたセカンドLP(全米29位)から
Oct 21, 2015
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