PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

chusan55

chusan55

カレンダー

コメント新着

hijimasako@ Re:敗戦後の学校・・・2学期始まる・・・菊池校長(02/04)  こんにちは。戦後のことをよく知ってい…
たかさん@ Re[1]:黒部ダム完成・・・想い出は湖底に沈む(10/25) flamenco22さんへ 今はダムの底にある平…
non@ Re:朝鮮戦争始まる・・・レッドパージ(05/23) それはマッカー”サー”ではなく、マッカー”…
アイリッシュタイムズ@ Re:七人の侍・・・黒澤映画の最高傑作(07/27) この映画を名画座で年始に見て、コロナ禍…
背番号のないエース0829 @ Re:憧れのハワイ 「堂々と公演 !! ~ 沖縄県立八重山農林…

フリーページ

2011年07月04日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

昭和27年(1952年)の昔 に戻ります。

昭和27年(1952年)4月初め 、私は SK大学 に出勤して、助手の辞令を受け、その後、庶務係長に伴われて、各講座や事務部などにあいさつ回りをしました。働く人生の始まりです。

大学に昇格したとはいうものの、建物は以前の専門学校の時のまま。研究室は、旧農林学校時代の武道場の建物を仕切って改造したものでした。


SK大学の研究室棟
旧武道場の建物を仕切って改造した研究室棟

大学での教員の 職階 は、現在では、 教授・准教授・助教 教授・助教授・助手 というのが大学教員の職名でした。

初任給は 月額7500円 。今からすると、「 ホントか ? 」と言われそうな金額ですが、これが大学卒の公務員給与の標準でした。まだ、1万円札も5千円札も100円硬貨もない時代です。

家に食費を出し、姉に少しながら小遣いを進呈し、奨学資金の返済をすると、半分くらいが残るだけでした。

卒業直前に父が死んで、親なしになった身では、衣服を始め、身の回りの品を、自分の収入でそろえねばなりませんでした。

父が死ぬ前から決まっていた兄の結婚。父の忌明けを待って自宅で挙式し、家族に兄嫁が加わりました。

卒業前に、講座のN教授から、

     「 SK大学に就職したら、当分はTA助教授の研究の手伝いをするのだぞ

と言われていましたが、研究の手伝いより前に、朝早く出勤して部屋の掃除、寒い時期には石炭ストーブ焚きなども、毎日の仕事のうちでした。

カボチャ の研究をしていました。戦時中から戦後の食糧不足の時期には、サツマイモと カボチャ の研究をする人が多かったのです。TA助教授もその一人でした。


ブログカボチャの古い品種.jpg
カボチャ品種のいろいろ(右・ニホンカボチャ 中・クリカボチャ 右・ペポカボチャ)

研究の前に、材料の カボチャ カボチャ は1株で2坪ほどに広がるので、いくつもの品種を栽培するには広い面積がいります。

現代、スーパーなどで売られている カボチャ は、国内産も輸入品もほとんどが “えびす” 系の クリカボチャ で、 日本カボチャ はわずかですが、当時は、まだ 日本カボチャ もかなり店頭に出ていました。


カボチャ畑
カボチャ畑

それまでは、農場に栽培の応援を頼んでいたそうですが、私が勤務したので応援が減らされました。私は3人の専攻生と一緒に、約300坪の研究圃場(ほじょう)の、 耕起 (こうき)から栽培中の 中耕 (ちゅうこう) 除草 (じょそう)など、すべてを担当しました。


クリカボチャの花
クリカボチャの花  左・雄花 右・雌花

カボチャ の花が咲き始めると、翌日の研究用に、前日の夕方、つぼみに袋をかけて昆虫の侵入を防ぎ、翌早朝、花をいくつも切り取って、研究室の冷蔵庫に入れる、また、翌年のタネを採るために、 受粉 (じゅふん)して再び袋をかける、こんな仕事が続きました。

畑仕事は天候次第。栽培期間中は、日曜も祝日も休みなし。給料をもらう身になって、最初にやらされる下働きの仕事の始まりでした。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011年07月04日 11時09分23秒
コメント(1) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: