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「外は敵で満ちている! だがここは我らが生まれ育った土地だ。何も恐れることはない。敵の本陣まで一気に走り抜き、高虎を討つことのみ考えろ。倒れた仲間は見捨てろ。たとえそれが身内であってもだ。よいな!」「(兵士たち一斉に)おう!」本作は、アニメの「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ、アッパレ!戦国大合戦」を原作とし、実写化したものである。子ども向けのアニメが原作なのかと単純に決め付けないでいただきたい。もともとの「嵐を呼ぶ、アッパレ!戦国大合戦」のラストシーンなどは、黒澤監督の「乱」がモチーフになっているかと思われる大作だからだ。だとすれば、子ども向けどころか充分大人にも何らかの影響力を与える、格調高いアニメ映画と言えるだろう。そんなクレヨンしんちゃんをさらに完成度の高い実写化に成功したのだから、つまらない訳がない。現代から戦国時代へとタイムトラベルするという奇抜な発想も、ファンタジックでロマン溢れる歴史ドラマになっている。臆病で、苦手なものから目を背け、逃げてばかりいる自分にコンプレックスを抱く小学生の川上真一。真一は、ふとしたことから天正二年の戦国時代にタイムスリップしてしまう。時代は正に合戦の最中。真一は一体自分がどうしていいものか分からない。一方、真一の出現により、侍大将の井尻又兵衛は危ういところ難を逃れる。又兵衛は、着るものや言葉遣いの違う、未来から来たという真一を不思議に思いつつも、面倒をみるのだった。本作「BALLAD」で目を見張るような演技を披露してくれるのは、やはりなんと言っても草なぎ剛であろう。セリフの間の取り方、さり気ない視線の投げ方、腹に力を入れた語気の強さなど、一点の曇りもない実に見事な演技力であった。脇を固める役者陣も錚々たる人物ばかりで、アイドル草なぎ剛が一体どんな役の幅を見せてくれるのだろうかと半信半疑であったが、そんなものは不要だった。存在感と演技力が見事に融合して、物語はヒューマンドラマにまで高められているほどである。草なぎ剛の白眉たる作品なのだ。2009年公開【監督】山崎貴【出演】草なぎ剛、新垣結衣、筒井道隆また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.06.25
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【秋田魁新報 北斗星】男鹿市で撮影されたJR東日本のCMで、吉永小百合さんは「なまはげは鬼でなく、神様だった」と語った。佐竹敬久氏に当てはめれば「知事であり、殿様だった」となろうか。先ごろ全国放映が始まった「龍角散」のCMのことだ。 殿様役の佐竹知事が、香川照之さん扮(ふん)する医師の作ったのど飴(あめ)で快癒し、褒美に薬草畑を与える内容。香川さんは同社が生薬栽培の協定を結んでいる八峰町でロケを行った。美郷町と協定を結んでいることも字幕で説明される。 知事は佐竹北家の21代当主。同社社長の祖先は佐竹氏の藩医を務め、現在の美郷町に住んでいた。八峰町出身で同社元役員の加賀亮司さん(67)=千葉市=が知事出演に一役買うなど、藩政期の縁、県人の縁が栽培連携やCM制作に結び付いた。 映像ではこんな背景は伝わらないから「なぜ秋田の知事が?」という声も多いだろう。知事の企業CM出演に対する意見はいろいろありそうだが、いまのところ話題性が先行しているようだ。 ともあれCMで「水の国」とされた本県の水の清らかさをPRできるのはありがたい。生薬栽培に意欲を示す県外自治体も多いが、加賀さんは本県での一層の栽培振興に努めてくれるというから心強い。 さて褒美を与えた殿様には、生薬の産地確立に向けた振興策を引き続き打ち出してほしい。八峰町で育つ生薬カミツレの花言葉は「逆境に負けない強さ」。マイナスの指標が多い本県に、いま最も欲しい植物ではないか。(11月19日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~何はさておき秋田県知事に謹んで敬意を表したい。コラム氏の書くが如く、初めてCMを見た時は「なぜ秋田の知事が?」そう思った。CMでナニかしらのテロップはわかったが内容までは把握できなかった。しかしCM自体はインパクトがあった。製作者の思考やインテリジェンスが伝わった。そして品のよさを感じ、大人気のある作品に好感を抱いた。余談であるが老父はさっそく龍角散を買い求めていた。「ゴホンといえば龍角散、冬はこれに限る。」ということだ。効果覿面である。CMの所以はそういうことか。コラムによりこうして判明すると、胸のつかえが降りたようで晴れがましい。そして勇気ある知事に「サスガは秋田県」という想いを抱かないではいられない。何よりそういう風土たる秋田に畏敬の念を抱くのだ。そして羨んでいる。後世畏るべし。それにしても秋田は凄いのだ。何が凄いのかは初夏の記事(コチラ)と初秋の記事(コチラ)をご覧いただきたい。そして今回はさらに凄さが加わった。世が世なら秋田知事はやんごとなきお家の主というではないか。こういうのを大人の洒落として使わないほうはないのだ。経緯はわからないが、そこに加わったのは知事の英断だと思う。他所の人間は間違いなくそれを「勢い」と見る。仏語に「いま為すべき事を為せ」とあるが、私は知事の為すべき事だと確信する。アベノミクスは2014年中には成熟のピークをむかえることであろう。秋田はきっと高笑いしているはずだ。もちろんCMの件だけではない。秋田がいままで粛々と描いてきた図面は、大画として世に出ることは間違いない。コラムを読んで確信した。その所以は秋田が「逆境に負けない強さ」それを常に持ち続けているからではないか、コラムを読み秋田県民の心胆はここにある気がしたのだ。比較するつもりはないが、我が住むところの知事に期待することは何もない。コチラが望まなければアチラも何もしない、だから波風は起きずそこそこの人気はある。これを平和と独りごちても空しいばかりだ。だからなおのこと秋田が羨ましく知事の人物を想はないではいられないのだ。願わくは・・・いわゆる抵抗勢力やなんでも反対団体は必ずいる。よく見る「世論調査」でも、その手の輩が5%程度はいるはずだ。知事はそういう輩に負けないでほしい。それを願いつつ、遠地より秋田県民と秋田県知事にエールを送りたいと思う。
2013.11.20
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「自分は悔いることは毛頭ありません。最前線の兵には、体面も規約もありません 。あるのは生きるか死ぬか・・・それだけです。兵たちは・・・死んでいく兵たちには、国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは一切無縁です! 灼熱地獄の底で鬼となって焼かれてゆく苦痛があるだけなのです! その苦痛を・・・部下たちの苦痛を・・・乃木しきの軍人精神で救えるのですか!?」第二次世界大戦を省みた反戦映画は数多く、残酷な殺戮シーンをクローズアップすることで、戦争の悲惨さを打ち出す作品群は周知の通りだ。「二百三高地」は、そのまた昔、19世紀末(明治37年)の日露戦争が舞台となっている。当時ロシアの南下政策は朝鮮にまで及ぼうとしていた。一方、朝鮮半島の支配を目指す日本にとっても、指をくわえて黙ってなどいられない。 だが、軍事力はロシアの強大さの前では赤子同然。その足元にも及ばないことは、誰の目から見ても明白であった。しかし、領土拡大を目論む明治政府にとって、朝鮮半島は是が非でもロシアに奪われるわけにはいかなかった。閣僚会議では、主戦派が反対派を押し切る形で議決。ここで日露戦争が勃発した。この作品では、“英雄”と謳われた乃木希典(のぎ まれすけ)が、痛々しいほどに凡庸で内省的に描かれている。作家司馬遼太郎も、乃木については厳しい批評を向けた一人であり、「乃木の才能は人格的なものであって軍事的才能ではない」とする、軍人としての能力を否定していた。失策を続けていた乃木に対し、満州軍参謀長であった児玉源太郎は、途中、乃木に代わって陣頭指揮を取り、二百三高地を軸とした旅順攻略の作戦を練り直し、成功。その結果、旅順を陥落したのである。映画「二百三高地」では、“英雄”、“大将”などという賞賛が、いかに虚しく、無意味なものであるかを教えてくれる。そして、これほどまでに多大なる犠牲を払ったにもかかわらず、得たものが何であるかを考えさせられる作品は、まずない。反戦映画としては、テーマが明確に打ち出された素晴らしい作品に仕上げられている。1980年公開【監督】舛田利雄【出演】仲代達矢、丹波哲郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.04
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【菊池寛 男気なり!】閉門即是深山読書随処浄土 菊池寛三月六日は菊池寛の六十五回目の命日でした。東奥日報のコラム「天地人」で知りました。まずはそれをご一読ください。小説家の菊池寛は親友の芥川龍之介が死んだ時、その枕元で泣いた。直木三十五が死んだ時は東大病院で号泣したという。よほど無念だったのだろう。二人の名前にちなんで芥川賞と直木賞を創設した。「(二つとも)あの涙から生まれたような気がする」と、小説家の川口松太郎が書いている。小説家の織田作之助が発病して宿屋で寝ているのを菊池が見舞った時は、織田の方がおいおい泣いたという話もある。いま「競争だ」「合理化だ」と世間の風は世知辛い。そんな人間味のない風に当てられているせいか、菊池にまつわる話は心にしみる。旧制一高(東大教養学部の前身)時代、菊池は窃盗事件で友人の罪をかぶり退学した。「文教関係に勤める父が職にいられなくなる」。友人がそう言って泣くので、菊池は罪を認めさせようという気になれなかったのだ。新渡戸稲造校長が後で真相を知り、寛大に計らおうとした。が、菊池は「前言を翻すのは卑怯」と、最後まで罪をかぶる。そんな男気もあった。とはいえ、金もなく行く当てもない。そこを金持ちの同級生に救われるのだから、世の中は面白い。同級生の親が経済的な面倒を見てくれたため、菊池は京大に進むことができた。文藝春秋の社長でいた頃、食えない作家がやってくると、ポケットから五円札、十円札を取り出し、無造作に与えたという。少年時代に受けた恩を忘れず、世間に返し続けていたのだ。まるで人情物語のような人生だ。菊池は65年前のきょう59歳で亡くなった。補足を致しますと、上記の窃盗事件とは文壇では有名な「マント事件」です。菊池寛が知人の部屋からマントを盗みそれを質入したというのです。真相はというと、犯人は佐野某。彼は質屋から得た金で倉田百三の妹とデートしていたといいますから落語話のようです(^^)余談で恐縮ですが、五代目古今亭志ん生師には、高座をつとめるために師匠から借りた羽織を質入して飲んでしまった、という武勇伝があります。結果はというと、志ん生師曰く「師匠ぉをしくじってしまいましてね」とな(笑)それにしても新渡戸稲造の尽力に「前言を翻すのは卑怯」と通したのはサスガは菊池寛、男気の人だと思います。苦し紛れの末に「方便」とこたえひんしゅくと軽蔑を買った御仁に、氏の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいものです。ときに菊池寛は読書によって青春の蹉跌を抜けました。上野図書館や麹町の大橋図書館、日比谷図書館を馴染みにしたそうです。彼のあくなき知的欲求を図書館での読書が満たしてくれたというわけです。閉門即是深山 読書随処浄土なるほど、含蓄に深いものを感じますねぇ活字離れや本の電子化で、図書館の存在そのものが危ぶまれる昨今、ここは菊池寛を偲び、週末には図書館に出かけてみたいと思います。それはそうと、東奥日報のコラムは秀逸です!現状批判ばかりが多いコラムの中で、新聞のコラムの役割をちゃんと心得ていらっしゃると思います。東奥日報 天地人に感謝(^人^)
2013.03.08
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~島倉千代子さん逝く~【朝日新聞 天声人語】新しい表現を求めて脱皮を繰り返すアーティストがいる。画家でいえばピカソ、音楽でいえばジャズのマイルス・デイビスがすぐに思い浮かぶ。彼らほどの大きな振れ幅ではないにしても、島倉千代子さんの歌も時代によって変わった。 87年の「人生いろいろ」を初めて聴いたときの驚きは忘れない。かつての「泣き節」からは遠い軽快な曲調。♪女だっていろいろ 咲き乱れるの……という歌詞は、自身の波乱多き人生がモデルだった。 出場を一度辞退していた紅白歌合戦に、この曲で復帰。若いファンも増えて、「私にはデビュー曲が二つある」と語っていた。小泉元首相が答弁で引いて話題になったのも、曲の強い印象があればこそだ。 右肩上がりの高度成長時代をスターとして駆け抜けた。田舎の母を娘が呼んで名所見物をする「東京だョおっ母さん」は、当時の世相を象徴的に映す一曲だろう。そして結婚生活に終止符を打った年に、やはり転機となるヒットが出た。 ♪この世に神様が 本当にいるなら……と始まる68年の「愛のさざなみ」は、浜口庫之助(くらのすけ)の流麗なメロディーが不思議な魅力を放った。それまで無縁だった日本レコード大賞の特別賞に。後の「人生いろいろ」とともに島倉さんの思いの深い曲となる。 借金を背負い、病気にもなったが、いつまでも小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。享年75。還暦を超えても「いつも恋をしていたい」といっていた。天国で新たな恋をつかまえるだろうか。(11月9日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~また昭和を代表する人の訃報が届いた。今度はお千代さんこと島倉千代子さんである。このごろはお見かけしないとは思ったのだが、まさかの訃報に驚きそして深い悲しみを感じている。天声人語氏はオツなことを言う。『小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。』昔見た紅白歌合戦を思い出す。もう何十年も前の話である。家族全員でコタツを囲み、ミカンと落花生をつまみながら紅白歌合戦に見入ったものだ。昭和三十年から四十年は、それが大晦日の正調であり、そういう昭和を象徴するような風景に、お千代さんは誰よりも馴染んでいたた。決して饒舌というのではないが、出演歌手の応援でひと言ふた言を話した。少し照れくさそうにゆっくりと話すお千代さんは、子供にも印象的でその姿は今でも記憶に残っている。どんな人?と問われたら、それはまさに『風情の人』であった。新聞各社とも、コラム氏は昭和を引きずっている方々のようで、筆にも力がこもったようだ。それぞれの紙面に「書かないではいられない!」そういうコラム氏の湧き上がる気持ちを感じ、時間のたつのも忘れて読み耽った次第である。以下に目についた紙の結びを載せる。■ものに憑かれたような迫力があった。戦争の悲惨。戦後の痛苦。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が去った。日本経済新聞/春秋■今、演歌歌手の王道を見事に渡り終え、終生「お姉さん」と仰いだ美空ひばりさんの待つ天国へ旅立った。毎日新聞/余禄■澄み切っていて、どこかはかなげで…。秋の青空のような声で、島倉さんは人生を歌いきり、天に召された。中日新聞/中日春秋■「岸壁の母」の二葉百合子さんと双璧を成す、戦争を引きずっていた歌手が舞台を去り、昭和がまた遠くなった。神奈川新聞/照明灯■喜びも悲しみも歌と共にある。昭和歌謡の真骨頂を体現した歌い手が静かにマイクを置いた。徳島新聞/鳴潮■75年の人生、お疲れさまでしたとつづりたい。年末の紅白で、もうあの泣き節は聴けないのか。神戸新聞/正平調■天のお千代さんに歌の題にちなむ句を贈ろう。正直に咲いてこぼれて鳳仙花遠藤梧逸)。中国新聞/天風録■いろんな人が自分を重ね、それぞれの応援歌にした。佐賀新聞/有明抄■華やかな着物でスポットライトを浴びていても「いじらしい」「奥ゆかしい」という言葉が似合う人だった。昭和がまた遠くなった。静岡新聞/大自在■儚(はかな)くも美しい、そして実は強かった。あこがれの人はステージを降りるが、歌は残る。熊本日日新聞/新生面■あちらでは、ひばりさんと「鍋焼きうどん」後の話に花が咲くに違いない。「人生いろいろ」だったわねえと。産経新聞/産経抄私も人生を半世紀以上過ぎ、『人生いろいろ』という意味が少しだけわかるようになった。島倉千代子という女性の一生を想像するに、その『人生いろいろ』は含蓄が海のように深く広い。そして達観だ。ただ、そこはお千代さんである。とどのつまり後悔したり悩んだりしても、でも『人生いろいろ』なのだ。禅問答のようだが簡単で簡潔、つまりは「そういうものよ」ということであろう。だからお千代さん(の歌)は、ソメソしている人に寄り添って甘い言葉をかけているのものではない。お千代さんの達観は潔くも厳しいのだ。人生いろいろなのだからそれはあなたの人生。だからあなたが自分でしっかりするしかないのよ、がんばりなさい。そう力強く叱咤激励するのだと私は思う。なぜなら人生とは「そういうもの」なのだから。最後に産経抄氏のコラムを載せる。不覚にも落涙を禁じえなかった。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が逝き、昭和がまた遠くなった。寒気到来で雪マークが目立つ。今宵はアツアツの鍋焼きうどんをすすりながら、しんみりとお千代さんを偲びたいと思う。もちろんBGMは「人生いろいろ」である。早雪や 昭和は遠く なりにけり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【産経新聞 産経抄】昭和62年4月、島倉千代子さんは福岡の病院に緊急入院した美空ひばりさんを見舞った。会ってもらえるか不安だったが「とにかく行かなきゃ」と、かけつけたのだという。案に相違して、ひばりさんは「お千代よく来たわね」と明るく迎えてくれた。その上、島倉さんの好きな鍋焼きうどんの出前を取り、二人ですすったのだという。島倉さん自身がテレビ番組などで明かしていた話である。日本を代表する大歌手同士が、病室でうどんを食べながら話し込んでいる。想像しただけでうれしく、泣けてもくる。島倉さんは昭和13年、ひばりさんは12年の生まれだった。年が近いうえ、二人とも数知れぬヒット曲を出し歌唱力も抜群である。世間は二人をライバルと見なし、ファンもひばり派とお千代派に分かれていた。だが島倉さんによれば「とんでもないこと」だった。昭和30年「この世の花」でデビューしたとき、ひばりさんはもう、大スターになっていた。「追っかけ」をしていたほどのひばりファンで、デビュー後も恐れ多くて口もきけなかった。ひばりさんが亡くなったときは、その自宅で3日間も寄り添ったという。そういえば、長嶋茂雄さんらの国民栄誉賞授与式で、王貞治さんはわがことのように喜び長嶋さんに花束を渡していた。大相撲柏戸の富樫剛さんと大鵬の納谷幸喜さんも引退後は肝胆(かんたん)相照らす仲だったという。相手を認める謙虚さや寛容さが「ライバル」を超越させるのだろう。そんな謙虚さと寛容さを持ってほしい人は内外に多いが、それはともかくお千代さん、75歳であわただしく旅立っていった。あちらでは、ひばりさんと「鍋焼きうどん」後の話に花が咲くに違いない。「人生いろいろ」だったわねえと。(11月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます、衷心より合掌。
2013.11.11
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【芦原すなお/青春デンデケデケデケ】◆ロックバンドに青春を懸けた、抱腹絶倒の青春小説これまで青春小説というカテゴリに括られるものの中で、これほどまでに楽しく、愉快な作品があっただろうか?正に、抱腹絶倒というのはこの小説の感想に相応しいセリフだ。私がこの本に出合ったのは、かれこれ20年ぐらい前になる。当時、何かの雑誌の書評欄に紹介されていて、それがもう本当に興味を引くものだった。もともと私は青春小説というものにシビアな目を向けていて、やたら爽やかな高校生の、度を越した友情物語にはやや懐疑的だった。あまりにキレイ過ぎる青春は、反って胡散臭く、最後まで読む気にもなれないからだ。しかしだからと言って、女子高生の援交や、望まない妊娠を扱ったものは、あまりに生々し過ぎて読後の後味が悪い。そんなふうに一々考えていたら、結局自分は基本的に青春小説が苦手なのではなかろうかと、いつの間にか食指が動かなくなっていった。そんな時、『青春デンデケデケデケ』と出合ってしまったのだから、思いっきりハマってしまったのもムリはない。青春とは、(当事者こそ気づいていないが)とにかく滑稽なものだ。これは断言できる。つまらないことを打算抜きで大真面目に取り組んだりするし、いっちょまえに苦悩したりする。本当に厄介で、愚かしいものかもしれない。だがそれでこそ青春とも言える。青春とはそういうものなのだ。話はこうだ。舞台は香川県観音寺町。観音寺第一高校1年の藤原竹良は、洋楽ロックにハマっていた。バンドを組んで、デンデケデケデケとギターをかき鳴らしたくてうずうずしていた。さっそくメンバー集めに取り掛かった。まずは魚屋の跡取りである白井清一、それに浄泉寺というお寺の息子の合田富士男、練り物製造業の息子である岡下巧と、言い出しっぺの藤原竹良の計4名だ。こうして4人は、ロッキング・ホースメンというバンド名をつけ、始動する。まずは高価な楽器を購入するところからだが、金がない。竹良と白井は、富士男の斡旋でアルバイトを始めることにした。その後、メンバーが2年に進級すると、谷口静夫という風変わりな仲間が加わる。と言ってもメンバーではなく、バンドのマネージャー的存在として活躍するのだった。この物語の何とも言えない味わいは、やはりセリフが全て讃岐弁で交わされているところにあるかもしれない。生き生きとした鮮やかな生命力を感じるのだ。そして、平凡な男子高生のはずなのに、それぞれ持ち味があって輝いている。お腹を抱えてゲラゲラ笑ってしまう場面がある。それは、イケメンの白井に引地めぐみという女子が、半ばストーカーのように追い回す、というか恋焦がれてじっと白井の店の前に佇むというくだりだ。めぐみは寺の跡取り息子の富士男に相談しているので、バンドのメンバー皆に筒抜け。困り果てている白井を見るに見かねて竹良が富士男と話し合うのだ。「とにかく、なんとかならんのかい? あのままじゃ白井はとり殺されてしまうが」「わかった。わしから引地に言うてかす」「言うてかしようがあるんか? あのタイプの女が思いつめたら結局はやりたいようにやるんじゃろ?」「わしぐらい徳の高い坊さんが言うてかしたら聞こでは。そんでもあかなんだら、白井を裸にして水で般若心経を書いてやる」「まるで耳無し芳一じゃの」「耳でなしにあそこだけ書き落としたりして」「ちぎられてしまうが」「チン無し清一じゃの、うわっはっは」と、こんな具合に愉快な会話があちこちに散らばっている。ちょっと小説から離れている方にも、この作品ならすぐに読書のカンを取り戻せるし、何よりおもしろい!60年代の、四国の田舎町でくり広げられる男子高生たちの青春が、鮮やかによみがえる。お腹がよじれるほどのおもしろさだ。おすすめの一冊。『青春デンデケデケデケ』芦原すなお・著☆次回(読書案内No.57)は東野圭吾の『秘密』を予定しています。コチラ
2013.04.03
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【藤枝静男/欣求浄土】◆彼岸での一家団欒こそ至福の時白樺派の文学に傾倒した藤枝静男は、志賀直哉の虜となる。だから作品はどれも白樺派の流れを汲み、己を冷静で客観的な視点から捉え、私的な事柄を赤裸々に、だが格調高く表現することに成功している。プロフィールによれば、藤枝静男は現在の静岡県藤枝市出身なので、おそらくペンネームもそのあたりから拝借したのかもしれない。作品は静岡県中部、西部地方が多く舞台となっており、作中の登場人物のセリフが方言丸出しで、かえって好感が持てる。気取っていなくて、それでいて硬質な文体という優れものだ。私が思わず涙したのは、『欣求浄土』という連作の中の一つ、〔一家団欒〕である。これは究極のファンタジー小説と言っても過言ではない。それなのにリアリティに溢れ、読み手が物語にすっと入り込んでしまうのだから不思議だ。これは主人公・寺沢章がこの世の生を終えて、親・兄弟の眠る墓地へ出向くところから始まる。そこに妻の存在はない。妻は明らかに外部の者であり、章(藤枝静男)にとって彼岸の向こうでは、いわば、他人なのだ。話はこうだ。寺沢章は、美しい茶畑に囲まれた菩提寺を訪れた。そして両親と兄弟らが眠る墓石の下にもぐって行った。「章が来たによ」と父が出迎えてくれると、続いて姉が「あれまぁ」と懐かしい声を響かせる。姉は18歳で亡くなっているので、その年齢のままの姿なのだ。章は亡くなったとき59歳なので、姉よりもずっと老けていて、頭も禿げている。しかも死亡時に臓器提供しているため、父が心配して「章、交通事故にでもあったかえ」と訊いた。「そうじゃあない。内臓をみんな向こうへ寄附してきたで、眼玉もくり抜いて来ただよ」 「お前も相変わらず思い切ったことをするのう」章は、父を前にすると、急に胸が迫ってきて涙がこみあげて来た。「父ちゃん、僕は父ちゃんに悪いことばかりして、悪かったやぁ」「ええに、ええに。お前はええ子だっけによ」そう言って父は、章を一切責めることなく、慰めるのであった。ここでの章という人物は、正しく藤枝静男自身のことであり、あの世での肉親との再会は切実な願望に違いない。本職が眼科医であった藤枝は、医療に携わる傍ら、私小説を書き続けた人である。そこには、過酷なまでに自分を見据えた、拷問のような眼差しを注いでいる。全編に自虐的な、甘やかしのないメスで切り刻んでいく鋭さが感じられるのだから、さすがは医師である。常に両親に対する侘びの気持ちが溢れていて、過去を赦せない自分を持て余しているようにも思える。だが〔一家団欒〕では、全てが報われ、癒され、救われている。家族そろってお祭りに出かける場面は、何とも言えない郷愁を誘う。この作品を読むと、生を全うした後、必ずや訪れる死の影も、まんざら悪くはないと思わせる不思議な優しさを感じるのだ。藤枝静男は、知る人ぞ知る作家ではあるけれど、一読するとやみつきになってしまう独特の世界観に覆われている。『欣求浄土』の他に『悲しいだけ』という作品もあるが、これも併せてお勧めしたい傑作だ。『欣求浄土』藤枝静男・著コチラ
2013.06.15
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【寺山修司/書を捨てよ、町へ出よう】◆一点豪華主義にこだわり、反バランス主義を貫く男個性的なキャラという存在は、けむたがられることがままある。それは今に限ったことではなく、いつの時代にもあった。“出る杭は打たれる”ということわざにもあるように、何か突出した才能があったりすると、周囲に反感を買ったりするわけだ。いつのころからか、場の空気が読めない人のことを“KY”と言って非難めいた悪口をきくようになり、ヘタに会話もできなくなった。ましてやとんちんかんな返答などご法度なのだ。寺山修司の青春扇動エッセイである『書を捨てよ、町へ出よう』は、多くの既成概念から解放されるような、突き抜けた挑発書だ。だから、野球で盛り上がるオヤジ世代の中で、寺山はサッカーを高く評価し、トルコ風呂(現在のソープランド)を排泄の場ではなくエデンの園として扱おうと提案したりする。(昭和50年当時)何やら人生なんてヒマつぶしみたいなものだと言われているようで、人間関係ごときにくよくよと悩んでいるのがバカバカしくなる。興味深く読んだ箇所がいくつかあるので紹介しよう。一つは、サッカーの起源について書かれている章である。な、なんとサッカーは「はじめは、ボールではなくて、頭の骨でやった」とな?!「デンマークに支配されていた英国人たちが、裏通りにころがっていたデンマーク兵の頭蓋骨を靴で蹴ったのが始まり」とのこと。どおりでイギリスの国技として今日まで発展して来たわけだ。寺山いわく、「野球はピッチャーのナルシズムによる競技」であり、「まるで魅力のない」スポーツだと。一方、サッカーとは「憎しみから出発した競技」で、「蹴る、足蹴にする、という行為には、ほとばしるような情念が感じられる」というものだ。ううむ、なるほど。さらにもう一つ。それは一点豪華主義のススメである。「三畳半のアパート暮らしをしているくせに食事だけはレストランでヒレ肉のステーキを食う」とか「着るべきスーツはうす汚れた中古の背広一着なのに、スポーツカーはロータス・エランを持っている」などである。思うに寺山修司という人は、反バランス主義者であったに違いない。他にも自殺学入門の章も面白く読んだ。あれやこれやと寺山流自殺論を展開しながらも、その最後には「じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになる。そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまった」と書いている。寺山修司の東北人気質と、演劇で培った表現力、それにカリスマ的魅力の溢れる作風は、時代を超えて楽しめる。風俗史として読んでもいっそうおもしろいと思った。どちらかと言えば若い世代の方が“クール”に感じるかもしれない。四十代以上の世代には、「若いっていいなぁ」という感傷に近い味わいを覚えるに違いない。『書を捨てよ、町へ出よう』寺山修司・著☆次回(読書案内No.116)は芥川龍之介の短編小説「秋」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.08
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菊池寛氏に献杯昭和二十三年三月六日、菊池寛が亡くなった。享年五十九歳。画はサザエさんで有名な長谷川町子さんによる。残された菊池寛の写真も楽しいが、この画は実に素晴らしい。なんだか菊池寛の内面まで見えてくる。後日談も多い御仁ではあるが、きっといい人だったことに間違いはない。生前は多くの友人知人のために涙を流した氏である。明日の祥月命日は、一人でも多くの人が氏を偲んでくれること願ってやまない。また願わくは、いまだ活躍中の芥川賞直木賞の受賞作家は、現在あるのは菊池寛のおかげと心得て、氏のために献杯を捧げてほしい。ちなみに氏の葬儀は三月十二日、音羽の護国寺で執り行われた。葬儀委員長に久米正雄、川端康成が弔辞を読み林芙美子が献詩を上げている。氏の人となりについては「天地人」をご参考されたい。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆~東奥日報「天地人」2013年3月6日付 小説家の菊池寛は親友の芥川龍之介が死んだ時、その枕元で泣いた。直木三十五(さんじゅうご)が死んだ時は東大病院で号泣したという。よほど無念だったのだろう。二人の名前にちなんで芥川賞と直木賞を創設した。「(二つとも)あの涙から生まれたような気がする」と、小説家の川口松太郎が書いている。小説家の織田作之助が発病して宿屋で寝ているのを菊池が見舞った時は、織田の方がおいおい泣いたという話もある。いま「競争だ」「合理化だ」と世間の風は世知辛い。そんな人間味のない風に当てられているせいか、菊池にまつわる話は心にしみる。旧制一高(東大教養学部の前身)時代、菊池は窃盗事件で友人の罪をかぶり退学した。「文教関係に勤める父が職にいられなくなる」。友人がそう言って泣くので、菊池は罪を認めさせようという気になれなかったのだ。新渡戸稲造校長が後で真相を知り、寛大に計らおうとした。が、菊池は「前言を翻すのは卑怯(ひきょう)」と、最後まで罪をかぶる。そんな男気もあった。とはいえ、金もなく行く当てもない。そこを金持ちの同級生に救われるのだから、世の中は面白い。同級生の親が経済的な面倒を見てくれたため、菊池は京大に進むことができた。文藝春秋の社長でいた頃、食えない作家がやってくると、ポケットから五円札、十円札を取り出し、無造作に与えたという。少年時代に受けた恩を忘れず、世間に返し続けていたのだ。まるで人情物語のような人生だ。菊池は65年前のきょう59歳で亡くなった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014.03.05
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「分からんのか、奴はお前を利用しているんだ」「いや、パパは息子が自分より出世してそれを妬いているんだ!」「お前は財布の大きさで人間を測るのか?」「パパはデカい勝負をする勇気がなかったろ?!」「・・・おれはどうやら間違った父親だったようだ」先日「ウォール・ストリート」を観たら、やっぱり80年代に話題を呼んだ「ウォール街」もおさらいしておこうかという気になった。本作でも、やはり父と息子の関係がクローズ・アップされている。オリバー・ストーン監督の十八番であろう。しかも、チャーリー・シーン(息子)とマーティン・シーン(父)は、実の親子でもあり、演技が生々しい。もっと突っ込んだことを言わせてもらうと、役柄上ブルースター・エアラインの飛行機整備工であり、組合活動にも熱心な父親役マーティン・シーンは、実生活でもリベラル派である。この起用は、オリバー・ストーン監督の目の付け所の高さを表している。素朴で、しかし威厳のある父親が、チャラ男の息子に向かって「金は厄介だ。生きていく分だけあればいい」と言い放つセリフはシビレる。全体的な完成度の高さは、断然「ウォール街」に軍配があがるのは否めない。N.Y.のスタイナム社に勤務するバド・フォックスは、証券マンとして日々電話でのセールスに明け暮れていた。年収は約5万ドルもの所得がありながら、マンハッタンという土地柄のせいで、高い家賃、車のローン、大学の奨学金返済に追われ、度々父親から借金するのだった。そんなある時、ゲッコー&カンパニーの代表取締役であるゴードン・ゲッコーと、わずか5分の面会にこぎつける。ゲッコーは凄腕の投資家で、どんな手段を使ってでも利益を得ようとする金の亡者であった。しかしながら、第1級の美術品収集家でもあり、物事を的確に評価し、冷静に判断する知識、能力は、ずば抜けていたのだ。本作でマイケル・ダグラスは、アカデミー賞主演男優賞を受賞している。はて、それほどの演技だったか? ある意味、勢いだけのような・・・。無論、当時の人気の凄さに水を差すつもりは毛頭ない。だがどうだろう、吟遊映人の個人的感想を言わせてもらうと、マイケル・ダグラスの魅力は2010年の「ウォール・ストリート」によるゴードン・ゲッコー役において開花したのではなかろうか。私生活の上でも、様々な艱難辛苦を乗り越え、最後に愛する娘のために一肌脱ぐところなど(「ウォール・ストリート」2010年)、正にマイケル・ダグラスのこれまでのキャリアと映画でのキャラクターがリンクしているではないか。最近のチャーリー・シーンが見る影もなく老け込んでしまったのに比べ、良い意味で枯れたマイケル・ダグラスの昨今は実におくゆかしい。本作はやはり、向学のために観るべき一作品かもしれない。1987年(米)、1988年(日)公開【監督】オリバー・ストーン【出演】マイケル・ダグラス、チャーリー・シーンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.30
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【萩原葉子/蕁麻の家】◆萩原朔太郎を父に持つ子の波乱の人生ゴシップ好きの私はこれまでにあまたの私小説を愛読して来た。誰もがそうだと思うが、リアリティーを感じた時、その小説に深い共鳴を覚えるからだ。 主人公と共に泣き、共に考え、共に笑う。それほどどっぷりと浸かった読書が、果たしてまっとうなものなのかは自分だと判断できないが、少なくともそこから得られたカタルシスは上質なものであると信じている。『蕁麻の家』についての感想を言う前に、この私小説の背景をざっと紹介しておきたい。 主人公の「私」は、著名な詩人である萩原朔太郎の長女である。物語は、その父を洋之介という名前で話をすすめる。母は、子どもたちを置き去りにし、若い男と駆け落ちしてしまった。「私」には、知的障害者の妹が一人と、虐待をくり返す祖母・勝がいた。この背景を知っただけで、私などはすでに救いようのない憂鬱さを感じてしまった。一般的に孫の存在というものは、息子・娘より可愛く、手放しで甘やかしてしまうというのはよく聞く。ところが「私」の祖母は、孫に対する虐待は日常茶飯事で、それを知っているはずの父・洋之介も知らんぷりなのだ。もちろん娘をかばうことなど一切しない。とにかく「私」に対して無関心なのだ。もしかしたら執筆に余念がなく、我が子を顧みる間もなかったのかもしれない。それにしても、、、それにしても父親としての意味、存在意義があまりにも希薄ではないか。そんな背景をふまえつつ、あらすじも紹介しよう。「私」はいつも孤独を感じ、話相手のいない寂しさを抱えていた。家では祖母に虐待され、知的障害を持った妹とは意思の疎通がかみ合わず、度々やって来る麗子(叔母)から悪口や厭味を言われ、日々は暗澹として暮れてゆく。そんな時、氏素性の知れない年の離れた岡という男に声をかけられ、初めて人間らしい会話を交わしてもらえたことで、「私」は体を許してしまう。その後、「私」は岡の子を妊娠。ところが「私」の一族は岡との結婚はもちろん、出産には猛反対。(この時、父・洋之介の反応はない。無関心である。)岡は、どこで知り得たのか「私」の父が著名人であることをかぎつけ、脅迫して来る。(岡は博打で、年中、金に不自由していたらしい)「私」は祖母たちから堕胎を迫られるものの、産婆によるとすでにその時期を過ぎているため、堕ろせないとのこと。「私」は覚悟して出産に望むのだが、結局、死産であった。いろんな私小説があるけれど、これほどまでに凄惨な展開の自伝があっただろうか?とにかく救いようのない少女時代である。どんなにうがった見方をしても、脚色したものとは思えず、全て著者の冷静で客観的な視点から語られたものとしか捉えようがない。苦悩、苦悩そしてまた苦悩。この小説に感じるのは暗く、憂鬱な青春期と、家族に対する不信感である。それなのに最後の数ページで「私」は初めて父の存在により救われる。始終、凄絶な苦闘のくり返しなのかと思いきや、最後の最後に来て一条の光が射し込むのを見る。考えてみれば、父・洋之介も不幸な人である。詩人としては成功したけれども、私生活では、、、まず、妻が若い男と駆け落ち同然で逃げてしまう。さらには、長男でありながら母親に頭が上がらず、やりたいほうだい勝手ほうだいをさせていた。(一家の実権は、完全に洋之介の母が握っていた)二人いる娘のうち下の娘は知的障害者で、当時としてはどうにも手の施しようがなく、成り行きを見守るしかない。そうかと思えば今度は上の娘がどこの馬の骨とも知れないゴロツキの子を宿し、しまいにはその男から金の無心までされてしまう。これまで無関心を装って来たさすがの洋之介もこれにはホトホト参ってしまい、体調を崩し、死の淵を彷徨う。「見よ! 人生は過失なり」(萩原朔太郎『新年』より)さすがは詩人。己の絶望でさえ詩に託すのだから。それはともかく、萩原葉子の硬質でメリハリの利いた文章に、やはり父親のDNAを感じないではいられない。涙なしには読了できないほどに、過酷な人生の記録である。『蕁麻の家』萩原葉子・著☆次回(読書案内No.102)は俵万智の「トリアングル」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.11.30
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【村山由佳/放蕩記】◆母の、娘に対する異常なまでの干渉と束縛読み出したら止まらなくなってしまった。この小説のリアリティーさにたじたじとなってしまい、どうしようもないのだ。「これはあくまで小説なんだ」と、自分に言い聞かせつつも、ついつい夢中になってしまう。テーマとなっているのは、母と娘の切っても切れないしがらみである。この関係性を単なるホームドラマのような形で完結させていないことに、度胆を抜いた。主人公の夏帆が味わった、幼いころの母への恐怖感もさることながら、奔放な性関係、シニカルで大人びた学生時代など、それはもう衝撃的な展開なのだ。それなのにちっともドラマチックじゃない。ほとんどすべてが現実味を帯びて、たゆたゆと流れている。さらには、ものすごい臨場感にあふれた生々しさを感じさせるのだ。これって一体どういうことなのだろうかと、自分なりに調べてみたところ、どうやらこの小説は著者自身の自伝的小説なのだそうだ。(あとから気づいたのだが、文庫本の裏表紙にも“感動の自伝的小説”とあった)とはいえ、小説の宿命でもあろうが、読者という存在を無視はできないので、ところどころの脚色は当然施しているに違いない。 あらすじはこうだ。売れっ子小説家として活躍する夏帆は、母親への嫌悪感や反発心から逃れられないでいた。7つ年下の恋人・大介は、定職もなくぷらぷらしている身だが、複雑な精神構造を抱える夏帆をメンタル面で支え、肉体的にも充分な悦びと満足感を与えていた。夏帆は、上に2人の兄と下に1人の妹を持つ長女だったが、要領の良い妹とは対照的に、母親に対しいつも複雑な感情を抱いていた。母の大阪弁で遠慮のない物言いは、夏帆の気持ちを逆立てるのに充分で、大学生になった娘にまで必要以上に干渉したがるのも異常だった。まだ小学生の夏帆に向かって夫婦の営みについて語ったり、夫の浮気のグチをこぼし、決して耳にしたくはないことをつらつらと聞かされる夏帆は、ますます母親への嫌悪感を募らせる。38歳となった現在、夏帆は改めて母と向き合おうとしていた。母は、認知症を患っていたのだった。 主人公の夏帆は、決して珍しいタイプではない。長女ならこういうイイ子ちゃん優等生はありがちだ。親の束縛から必死に逃れようとする思春期の反抗も、皆が通る道には違いない。著者は、ミッション系の私立小・中・高一貫教育を受け、しかもずっと女子校で様々な体験をして来たようだ。大学は男女共学の立教大学文学部卒とのことで、それまでの呪縛から思い切り解放されたかのように性を謳歌している。 読者にしてみれば、もしかしたらまゆつば的な内容もあり、素直に信じられないようなくだりもあるかもしれないが、私個人からすれば、充分真実味があって好奇心をくすぐられた。ぜひとも読み下してもらいたいのは、躾という名のもとに厳しく育てた母親の破綻した性格と、唇をギュッとかみしめて耐える娘の母親への軽蔑と嫌悪感である。母と娘という同性親子の究極の関係をじっくりと味わって欲しい。老いて認知症を患った母への複雑な心境も、見事な筆致である。難を言えば唯一、性への貪欲さとか交遊についてのあれやこれやは、惜しいかな、柳美里を越えられず、常識の範疇を出るものではなかった。(無論、それなりに乱交描写はあるが)村山由佳が衝撃の真実を語った逸作である。 『放蕩記』村山由佳・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.09.19
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「なぜ銃が置いてある?」「今夜街を流してカージャッカーを何人か殺す」「手当たり次第にか?」「中には運よく親父殺しに当たるかもしれない。復讐さ」「それで気が晴れると?」同じ殺し屋でもジェイソン・ステイサムが演じると、どうしてこうもスタイリッシュでクールな殺し屋になるのだろう?行為そのものは、倫理観の欠如した非道なものなのに、何やら知的で仕事のデキるクール・ガイとして描かれている。もともと『メカニック』という作品は、70年代にオリジナル版があって、今回はそのリメイク版という形を取っている。オリジナル版の方は、残念ながら観ていないため、比較の仕様がないが、リメイク版である今回の作品に限って言えば、アクション映画としてはすばらしいと思った。特にハラハラさせられるシーンと言えば、殺し屋のアーサー・ビショップが、恩人の息子であるスティーヴと二人でターゲットを暗殺するところだ。当初予定していた暗殺方法から別の手口に変更し、見事殺害に成功するのだが、スティーヴのふとしたミスで、ターゲットの取り巻きに気付かれてしまうのだ。その際の脱出シーンは、レベルの高いアクションとして冴え渡っている。とある豪邸内のプールで、一人の男が泳ぎを楽しんでいた。南米コロンビアの麻薬王だった。男はその最中、何者かに足を取られて暗殺されてしまう。殺し屋であるアーサー・ビショップは、殺人の痕跡を残さないため、麻薬王の死も、単なる溺死として片付けられてしまった。アーサーは犯罪組織から金で雇われ、確実にターゲットを仕留めることで定評があった。 そんな中、アーサーに次の暗殺依頼の話が来る。それは、アーサーの恩人でもあるハリー・マッケンナを殺害するというものだった。身体の不自由な車椅子生活を送るハリーを殺ることに抵抗を感じつつも、アーサーは粛々と実行に移すのだった。ジェイソン・ステイサムのスマートな演技も、ベン・フォスターの役柄としての青臭い演技も、それなりに評価できるものであるが、いかんせん脚本に無理があるような気がしてならない。というのも、放蕩息子であるスティーヴが、父の死をきっかけに自分もプロの殺し屋になろうと、アーサーのもとで修行(?)するのだが、そのアーサーが実は父を暗殺した張本人であることを知り、やがて復讐するくだりはマズイ。これではラストを観た時、視聴者が納得しないのではないか?(放蕩息子に感情移入してしまった視聴者のブーイングがあるのでは?)父の敵討ちという大義名分のあるスティーヴだが、もしも人柄がサイアクで極悪なイメージが強ければ、ラストの結末にも納得がいくだろう。が、決してそうではない。つまり、キャラクター設定に問題があるとも取れる。生意気で恐縮だが、ストーリー展開に異議を感じてしまった作品だ。2011年公開【監督】サイモン・ウェスト【出演】ジェイソン・ステイサム、ベン・フォスターまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.02.26
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【完璧な病室/小川洋子】◆本物の孤独は精神世界へ到達する何らかの対象を好評する時、よく使われるのが“透明感のある歌声”とか“透明感のある演技”だったりする。小川洋子の作品も、たぶん透明感のある小説と評価して間違いないだろう。つまり、とてもデリケートな表現力を持っている作家だ。大切な人を不治の病で亡くすというストーリー展開そのものは、正直、ありきたりだが、違うのは主人公の悲哀がどれほどのものかをかなり特殊な形で表現していることだ。(間違っても、天を仰いで号泣したりしない)『完璧な病室』では、たった二人きりの姉弟のうち、弟の方が不治の病に侵されてしまい、それを知った姉が押し潰されそうな悲哀の重さに耐え切れず、誰もいない空き病室で担当医師に裸で抱きしめてもらう、というものだ。一般常識では考えられないが、小川ワールドにはあながちありえなくもない。世間でいう異常は、場合によっては芸術にまで高められるのだから不思議だ。その医師というのがまた白衣の上からでもわかるほどの「水泳選手を連想させるような、すばらしくバランスのいいからだつき」なのだ。だがその一方で、医師は軽い吃音があり、孤児院の出身という過去を持っている。この辺りの、医師の腕に包まれすっぽりと抱きしめられるエロティシズムは、さながら女谷崎とでも賛辞したくなるほどの表現力だ。行間を漂う孤独感は本物で、尋常じゃない精神状態は、主人公が気持ちのよりどころを夫に向けないところからも容易に察することが出来る。本当の哀しみを描く時、これほどの官能的な空間を伴うと、反って精神世界へ到達してしまうのかもしれない。生きていることと死んでしまったことの境目が分からなくなるような、深すぎる哀しみを表現した小説だ。《余談》中公文庫の『完璧な病室』には、他に短編が3作入っている。『揚羽蝶が壊れる時』という作品も、主人公の複雑な心理状態が絶望的なまでに描かれている。『完璧な病室』小川洋子・著 (中公文庫)~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.09.26
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【俵万智/トリアングル】◆結婚はしなくてもいいから好きな男の「子」が欲しいと望む女『サラダ記念日』というとびっきり現代的な歌集が売れに売れたのは、すでに20年以上も前のことになってしまった。あのころは、正にバブル全盛期時代。ちょっと軽薄なぐらいのオシャレな感覚がもてはやされたものだ。そんな中、ストレートなだけじゃなく、ちょっと可愛らしく、ちょっとオシャレに恋を歌ったのが俵万智だった。現代若手歌人の代表格と言っても過言ではない。(すでに若手ではないかもしれないが) 俵万智は早大文学部卒で、高校の教員として働いていたのだが、『サラダ記念日』が大ベストセラーとなったことで教員を辞める。代表作に『サラダ記念日』の他に『チョコレート革命』などがある。これまで主に歌集やエッセイを手掛けて来た俵万智が、初めて書いた小説。しかも半自伝的な『トリアングル』は、彼女にとって節目となる一作だったと思われる。あらすじはこうだ。33歳フリーライターの薫里は、ひょんなことから意気投合した7歳年下の圭ちゃんと付き合うことになった。圭ちゃんはバイトしながらバンド活動を続けているビンボーなミュージシャン志望者なのだ。一方、薫里は青山にマンションがあり、そこそこライターとして記事を書きながら何不自由なく暮らしているシングルである。とはいえ、薫里には一回りも年上のMという恋人がいた。Mはカメラマンで、しかも妻子持ちである。そのMとの不倫関係を続けながらも、圭ちゃんという年下のBFにも恵まれ、薫里には何の問題もないはずだった。ところが年下の圭ちゃんが本気で結婚を考え始めていることが、段々と重くなって来た。 薫里は、結婚には興味がなかったのだ。むしろMという愛する男性との間に子どもを儲けたいという願望を持ち始めたのだ。『トリアングル』が文庫化されて、とりあえず買ったのが2006年ごろだったと思う。一読して本棚にしまいっぱなしになっていたところ、今回再読してみた。うん、あのころと感想は全く違う。2006年に読んだ時は、主人公・薫里を取り巻く三角関係への羨ましさとか、「勝手にやってくれー」とか「モテ女の自慢か?」などと思ったものだ。ところが今はどうだ? 思いっきり現代風に、オシャレに苦悩する強がりな女性像となって浮かんで来る。恋愛の対象である男が、イコール結婚の対象としての男とはならず、しかしながらその男の「子」を儲けたいという切実な女性の苦悩として結ばれている、、、ように今の私は感じられるのだ。ものすごく真面目な悩みなのに、なぜか軽薄に思われてしまうのは致し方ない。昭和の不倫小説ならともかく、平成の今、俵万智ほどの著名な作家が書くとなれば、このラインがギリギリのところだと思うからだ。「黒パンとバターと、エシャロットのみじん切り。このエシャロットが牡蠣を食べるときの合いの手として、とてもいい。赤ワインビネガーにひたされていて、ほんのり桜色をしている」「ホワイトアスパラの他には、生ハムとロックフォールチーズのサラダを頼んだぐらいだ」「ラ・メゾン・ド・ショコラというその店では、チョコレートが宝石のように、ショーケースに並べられていた。注文をすると、白い手袋をした店員が、これ以上大切なものはこの世にはない、、、といった手つきで箱に詰めてくれる」この手のバブリーな描写が容赦なく襲い掛かって来るから、読者によっては嫌悪する方や、あるいはしみったれた小説なんか読みたくないという方は、反って好感を持つかもしれない。いずれにしても、今現在、俵万智が結婚することなしに子どもを育てているという、シングル・マザーの立場であることを念頭に置き、この小説を手に取ってはもらえまいか?『サラダ記念日』が音を立てて崩れ(?)、『トリアングル』ではそこに一人の生々しい女の性を見つけることになるだろう。これは、俵万智ファンに突きつけられた踏み絵となる一冊かもしれない。『トリアングル』俵万智・著☆次回(読書案内No.103)は佐川光晴の「生活の設計」を予定しています。なお、この作品は『虹を追いかける男』という文庫本に収められている短編です。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.12.08
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人は人我は我が家の涼しさよ 小林一茶~一茶「盛夏」シリーズ~「その一」はコチラから「その二」はコチラから
2014.08.22
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「本日をもって貴様らは“蛆虫”を卒業する。本日から貴様らは海兵隊員である。兄弟の絆に結ばれる。貴様らのくたばるその日まで、どこにいようと海兵隊員は貴様らの兄弟だ。多くはベトナムへ向かう。ある者は二度と戻らない。だが肝に銘じておけ。海兵は死ぬ、死ぬために我々は存在する。だが海兵隊は永遠である。つまり、貴様らも永遠である!」これぞ正しく“ザ・反戦”という代物だ。無論、反戦映画は珍しくもないが、話は軍人を養成するところから「これが実態だ」とばかりに訴えかけて来る。本作は、ストーリーらしきものは希薄で、どちらかと言えばドキュメンタリータッチの訴求力を得意とした作品である。メガホンを取ったのは巨匠スタンリー・キューブリック監督で、代表作に「2001年宇宙の旅」や「時計じかけのオレンジ」などがある。「A.I.」は、キューブリック監督の遺作になるはずであったが、未完成で、その遺志を継いだスピルバーグ監督に受け継がれた作品なのだ。ベトナム戦争真っ只中。サウスカロライナ州のパリス・アイランド海兵隊訓練キャンプでは、海兵隊志願者に厳しい訓練を課していた。鬼教官ハートマン軍曹の下で、「貴様らは蛆虫以下の存在」だと徹底的な罵倒を浴びせられ、さらに、連帯責任による懲罰などは、心身ともに過酷を極めるものだった。そんな中、体格的な問題もさることながら、靴紐を結べないなどの生活能力に欠けるローレンスは、ハートマン軍曹の標的になる。また、仲間の訓練生にイジメを受けるなどして、精神的に病んでいくのだった。正直なところ、明るく陽気な作品とは程遠く、暗く陰鬱でまともに最後まで直視するのが苦しいほどである。だが、“戦争とは何ぞや”と、自問自答した時、この作品の真価が発揮するのではなかろうか。キューブリック監督が渾身の力を注いで製作した「フルメタル・ジャケット」は、祖国アメリカを痛烈に皮肉った反戦映画であった。1987年(米)、1988年(日)公開 【監督】スタンリー・キューブリック【出演】マシュー・モディーン、ヴィンセント・ドノフリオ、R・リー・アーメイまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.04.22
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【沈まぬ太陽】『前略 阪口様 あなたの長い長い旅路の終わりに、どうか一度アフリカを訪ねてくださいませんか。何一つ遮るもののない悠久の大地では、厳かな大自然の営みが繰り広げられています。それをぜひあなたにも見て頂きたいのです。地平線へ黄金の矢を放つアフリカの太陽は、荘厳な光に満ちています。それが私には不毛の日々を生きざるを得なかった人間の心を慈しみ、明日を約束する沈まぬ太陽に思えるのです』本作が、史上最悪の死者520名を出した日航ジャンボ墜落事故をモデルにした作品であることは、周知の通りだ。だが、配給の角川サイドによると、あくまでもフィクションとのことであるので、まずはそれを念頭に置き、鑑賞してみることにした。原作は山崎豊子の同名小説であるが、この著者も実に息の長い女流作家である。作品の傾向としては、ロシア文学にしばし見受けられる人間の精神、メンタルな部分を精密に描くことで定評がある。また作品中、恩地のセリフにもあるが、“キレイゴト、正論をそのまま鵜呑みにしてはならない”という立場を取っている。(若干、ラディカルな雰囲気が漂う)東大法学部出身で左翼思想に傾倒する恩地は、国民航空の労組の委員長として組合員たちから絶対的な信頼を持たれている。だが、それが裏目に出て、会社側から左遷人事を言い渡され、カラチ、テヘラン、ナイロビと次々に辺境へと追いやられる。一方、労組で副委員長として恩地とともに闘った行天は、時流の波に乗り労組から足を洗い、常務取締役となって会社側に鞍替えする。そんな中、御巣鷹山で国航ジャンボ墜落事故が発生。急遽、恩地は遺族係に回されることになった。吟遊映人の個人的な好みで恐縮だが、作中、内閣総理大臣役として加藤剛が出演している。作品全体の割合からすれば、ほんのチョイ役に過ぎないが、この役者さんが「沈まぬ太陽」という社会派作品を選んで出演したことに、充分過ぎるほど納得がいく。約40年ほど前に、松本清張作品である「砂の器」に出演したが、この時もそのポーカーフェイスを活かし、アクのない淡々とした言い回しには脱帽、見事な演技であった。さらに、国民航空の会長役として石坂浩二も出演。今さらながら、重厚にして品格のある演技に惚れ惚れしてしまった。このように、主役を演じた渡辺謙というハリウッド俳優を抜きにしても、素晴らしい役者陣が脇を固めた社会派作品であり、上映中、10分間の休憩を入れるほどの長編となっている。まだ本作を鑑賞していない方々は、ぜひとも秋の夜長にじっくりと腰を据えてご覧いただきたい大作なのだ。【追記】 蛇足ながら、本作のラストは決してハッピーエンドとはなっていない。(無論、精神的なものではなく、社会的な側面から捉えた場合として)だがそれにより反って、真実に目を向け決して目を逸らすなと言い放つ著者と製作者サイドの意図するものが垣間見える。本来あるべき人間の姿とは何か、社会のあり方とは何かを問うている。2009年公開【原作】山崎豊子【監督】若松節朗【出演】渡辺謙、三浦友和、石坂浩二
2012.08.02
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【村上龍/69 sixty nine】1969年と言ったらまだ私は生まれていない。なので60年代の混沌とした世相みたいなものは、映画や小説、テレビドラマからざっくりと想像するに過ぎない。果たしてそれが古き良き時代として評価できるものなのかも分からない。もしかしたら、そんなものは時代の通過点でしかなく、大して意味のないものかもしれない。村上龍の小説は好きで、わりとよく読んでいる。今回再読した『69 sixty nine』は、村上龍ご本人が1969年、17歳だったころのことをモデルにした青春小説である。最初に読んだとき、「おもしろいなぁ」と思って一気呵成に読了した。それがもう10年以上も前のことだ。ところが今再読してみると、「おもしろいなぁ」という感想とはだいぶ変わった。おそらく私自身、年を経て、とんがっていたものが段々擦り減って、丸くなったのかもしれない。 この作品は1987年に出版されているので、村上龍がまだ三十代なわけで、小説家として様々な手法を試してみたいとギラギラしているころなのではなかろうか。その証拠に文章中、強調したいフレーズ(フォント)をやたら大きくするというチャレンジをしている。ユニークだがその斬新さも、行き過ぎると残念に思えてしまうものである。とは言え、昭和の名残りを象徴するかのようなレトロ感は、ひしひしと感じられる。 あらすじは次のとおり。1969年、長崎県佐世保市の進学普通高校に通う矢崎剣介(ケン)は、3年に進級した。お調子者で行動力があり、級友たちから愛されるケンは、何かを仕掛けたくてウズウズしている。思いついたのはフェスティバルだった。それは、映画も演劇も音楽も全部を融合した催し物だった。ケンは親友である岩瀬とアダマに「フェスティバルをやろう」と持ち掛けた。当時、映画作りが流行っていたこともあり、イージーでしかも最先端の表現方法だと思い、皆は二つ返事でケンの誘いに乗った。主演女優には英語劇部の松井和子が適任だとケンが主張すると、岩瀬とアダマは「それはムリだ」と難色を示す。なにしろ松井和子と言えば「レディ・ジェーン」というニックネームを持つ、他校にも名のとどろく美少女だったからだ。しかしケンはあきらめない。「バリケード封鎖をやろう」と突然ケンが提案する。何か体制に対する主義主張があったからではない、とにかく松井和子から注目をされたい一心でのことである。言わば“ノリ”のようなものだ。こうして3人は「佐世保北高全学共闘」のアジトへと出向くのだった。バリケード封鎖はまんまと成功し、ケンとその仲間たちは青春のピークを迎えようとしていた。そんな中、結局警察に犯行を突き止められ、ケンたちは停学処分をくらってしまう。ところがそれを聞きつけたレディ・ジェーンこと松井和子は、ケンたちに接近し、親しくなっていく。なんだかんだとハプニングやトラブルが次々と起こっていく中で、ようやく停学が明けると、いよいよ今度はフェスティバルの開催に向けて始動するのだった。 村上龍が私小説とも言えるこの『69』を発表したとき、一体どんな思いがあったのかは想像するばかりである。私はバラ色の青春なんてありえないし、そんなものは幻想だと思っているので、明るく楽しく騒々しい青春小説を嫌悪する。もっとどす黒くてベタベタとしていて、目を覆いたくなるような赤裸々な描写が秘められた私小説なら大歓迎なのだが、50歳を目前にした今の私が読んだところで毒にも薬にもならない。青春を謳歌したことは大変結構なことではあるが、作品全体からプンプンと匂う自我自賛的なムードがどうもいけない。主人公がバリ封を計画し、高校を停学したにとどまらず退学となってしまい、その後の転落人生を語る・・・となればだいぶ変わっていたと思う。血の滲むような苦労を重ね、ようやく芥川賞を受賞し、今の地位を築いた・・・的な人生模様なら、拍手喝さいだったかもしれない。『69』は残念ながら私にとって、可もなく不可もなくと言った凡庸な作品でしかなくなった。それもこれも、加齢とともに変化した人生観によるものであろう。あしからず。『69 sixty nine』 村上龍・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.05.27
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【男はつらいよ】「お兄ちゃん、あたし博さんと結婚する・・・決めちゃったの。いいでしょ? ねぇお兄ちゃん、いいでしょ?」「(うんうんと、頷く)」「お兄ちゃん、いろいろありがとう・・・」 松竹が誇るベストヒットシリーズと言えば、この『男はつらいよ』だ。日本人なら誰もがこういう人情喜劇映画に涙するはずなのだが、こればっかりは好みの問題になるので、断定的な物言いは控えることにする。というのも、私の友人の中には「ワンパターンで、水戸黄門の印籠みたいだ」と評した人物もいたからだ。そんな言われ方をしてしまうと、なんだか自分自身を否定されたような気持ちになり、おかしな被害妄想に囚われてしまった。だがそんな私も年齢を経て、どんな名作と言えども人には好き嫌いがあり、それだからこそ民主主義が成り立っているのだと気づくことができた。だから、私にとって『男はつらいよ』は、人の数だけ主義主張があることを教わった作品でもあるのだ。さて、記念すべき映画第一作目は、寅さんが20年ぶりに故郷である葛飾柴又に帰って来るところから始まる。この時の渥美清は本当に若々しく、ギラつくほどの威勢の良さがある。だんご屋を営むおいちゃん、おばちゃんも、まだ寅さんに~です・~ます調で話をするし、いくらか遠慮がちだ。そんな中、妹・さくら役の倍賞千恵子の品の良さと言ったらどうだ!作品上とは言え、渥美清(寅さん)の異母妹とはちょっとムリがあるだろう(笑)・・・それは冗談だが、とにかく清楚でチャーミングなのだ。私はこの倍賞千恵子の可愛さに、目が釘付けになってしまった。マドンナ役として新派の光本幸子が出演。役柄は、題経寺の住職・御前様の娘・冬子役である。こちらもまた深窓の令嬢と言った雅な物腰で、息を呑む優雅さだ。だが光本幸子は、惜しくも本年2月22日に他界している。おそらく、天国の渥美清と再会を果たしたのではなかろうか。特別出演には、黒澤作品では常連の志村喬が博の父親役として登場。いやもうこの役者さんの圧倒的な存在感には驚かされる。博とさくらの披露宴におけるスピーチのシーンでは、不覚にも涙がこぼれた。これが世の中の新郎の父親たる姿であろうと、大いに説得力のある、見事なワンカットだった。(実際の志村喬には、子どもはいなかったらしいが)第一作目が公開された1969年。この時代の世相を反映するかのように、様々なシーンに工夫が凝らされている。例えば、とらやの裏に印刷工場があって、そこの若い職工らを捕まえて「さくらは大学出のエリートに嫁にやるから、お前らは近づくな」と寅さんがふれ回った翌日、家屋の外壁に“暴力断固反対!”とか“出て行け寅!”などの貼り紙がしてあるのだ。ここのシーンは、さながら学生運動の一端を垣間見たようで、山田洋次監督の時代に敏感な映画作りを改めて認識した。古き良き昭和を堪能するのに相応しい名作である。1969年公開【監督】山田洋次【出演】渥美清、倍賞千恵子、光本幸子
2013.07.07
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【ビル・カニンガム氏、逝く】心より、ビル・カニンガム氏のご冥福をお祈り申し上げます。吟遊映人ブログの過去記事です。ご覧いただけましたら幸甚です。コチラから
2016.06.27
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【仏レポ/玉宝寺 五百羅漢】 小田原まで足をのばしたのはすでに一か月も前のこと。小田原城見学が目的で出かけたのに、なんと耐震工事中だった!北条早雲が小田原に城を構えて関東八州を掌握したのは有名だが、その天守閣から眺望を楽しもうと思って出向いたのに、、、残念。 昨年末の12月は本当にあたたかく、冬とは思えない小春日和が続いた。おかげで着ていたコートを脱いで歩くほどだった。散策するには持って来いの、風もなく穏やかな天候。小田原は年末の活気にあふれていた。 「さて、どうしよう?」と、次なる目的地を考えたところ、市内に五百羅漢で有名なお寺があることを思い出した。天桂山玉宝寺である。玉宝寺までのアクセスは至って簡単。小田原駅より伊豆箱根鉄道大雄山線で五百羅漢駅まで5分ほど。下車後、歩いてすぐのところにある。 私が出向いたとき、本堂の扉は閉められていたが、おそるおそる中に入ってみた。すると、なんということだろう!ところ狭しと並んだ羅漢像に、思わず笑いがこみ上げて来た。なんだかわさわさした賑やかさなのだ。パンフレットによれば、合計526体もの羅漢像が安置されているとのこと。立像の方は高さ36~60cm、座像の方は20cmあまり。とにかくおかしな表情をしている羅漢像ばかりで、こちらまで愉快な気持ちにさせられる。ホンネを言ってしまうと、手をあわせて拝みたくなるような重厚感とか威圧感のようなものはない。どちらかと言えば、大勢のご隠居さんたちが暇を持て余して誰かが来るのをてぐすね引いて待っていたような気さくなものを感じた。 重要文化財として指定されてはいないようだけれど、仏像入門とでも言うのか、楽しく拝観するには最高のモチーフだと思った。羅漢像以外では、弁財天・毘沙門天・十一面観音などが安置されていたが、さすがに風格があって頼もしい存在である。とはいえ、様々な表情を見せて癒しを与える羅漢像は、圧倒的に庶民の味方!おもしろいものが好きな方、こちらの五百羅漢を眺めてぜひともユニークな気分を味わっていただきたい。 作家のいとうせいこうが、その著書の中で語っていたように、「仏像は帰化しないガイジンであり続けている」のだから、珍しがって眺めるだけでも充分にまっとうしているのではなかろうか。あられもない言い方だが、功徳のための拝観というより、遊山のための観光の方が健康的かもしれない。興味のある方は、ぶらりと出かけていって本堂の中をゆっくりご覧下さい。
2016.01.17
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【山の音/川端康成】◆戦後日本の中流家庭を描く川端康成という作家は稀にみるナショナリストで、こよなく日本を愛する文豪だ。ノーベル文学賞受賞作である『雪国』も、東北のひなびた温泉宿における芸者との淡い恋心を描いたものだし、『伊豆の踊子』も伊豆で出会った旅芸人の踊子に、苦悩を抱える旧制高校の男子が癒されていく話だ。この『山の音』でさえ、日本の「家」を舞台にした二世帯同居家族と、出戻りの娘に翻弄させられる父の姿があったりする。戦後、お茶の間を賑わせたホームドラマとは全く趣が違い、主人公の息子の嫁に対するほのかな恋心や、息子が浮気をしていることへの怒りなどを盛り込みながらも、老いへの恐れ、若さへの憧憬、生きることへの疲労感など、実に文学性の高い作品に仕上げられている。「家」という日本独特の家族のあり方から生じる苦悩は、おそらく西欧社会にはなかなか受け入れられにくいデリケートな問題なのではなかろうか?そんな中、川端康成は果敢に「日本」を描いていこうとする姿勢が窺える。それは孤高でさえあり、他の作家を寄せ付けない品格に溢れている。さて『山の音』だが、この小説はあまりにも有名で、様々な文芸評論家から高い評価を得ている。私自身、川端作品の中でこの小説が一番好きかもしれない。とりわけグッと来るのは、主人公が、息子の浮気に耐え忍ぶ健気な嫁に声をかけるところだ。「菊子は修一に別れたら、お茶の師匠にでもなろうかなんて、今日、友だちに会って考えたんだろう?」慈童の菊子はうなずいた。「別れても、お父さまのところにいて、お茶でもしてゆきたいと思いますわ」長年連れ添った古女房なんかより、長男の嫁の方が若いし綺麗だし、何より意地らしい。息子の浮気が原因で離婚してしまったら、そんな恋しい嫁とも別れて暮らすことになってしまうのかと思うと、内心、平常ではいられない。このあたりの心理描写は、さすが川端だ。嫁との関係はあくまでも潔癖なものだが、ほのかに漂う恋の調べが、耳もとで聴こえて来そうな気配なのだ。また、主人公の夢の中で、顔のない女を犯しかけるくだりは、一気に読ませる。本当なら嫁の菊子を愛したいのに、夢でさえ良心の呵責をごまかすため、顔のない女の乳房を触るのだから。『山の音』に関しては、皆が口を揃えて傑作と評価している。もちろん私も異論はない。 平成の世となった昨今、これほどの最高峰を登り詰める作家がどうも見当たらない。ぜひとも、何とかして、ポスト川端康成が登場してはくれまいか? 平成の川端を待ち望んでやまない、今日このごろなのだ。『山の音』川端康成・著~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.07
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【東京奇譚集/村上春樹】◆どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず私が個人的に好きな小説家をあげたとして、やはりこの人、村上春樹ははずせない。絶対に。多感な高校時代、世間はバブルに沸いていた。時を同じくして、村上春樹の『ノルウェイの森』が同級生たちの間で話題となり、自分たちより2~3歳年上の大学生が主人公となっていることに、度肝を抜いたのだ。そこには、主人公の親しくしている彼女に精神の異常が感じられたり、自殺があったり、恋愛とは無縁のセイ行為があったりする。なんというドラマチックな世界観なのだろうと、ショックを受けたものだ。だから、成人してからも村上春樹に対する熱は冷めず、その小説にある、東京の夜景が見渡せるようなお洒落なカフェ・バーで「サラダを食べ、ペリエを一本飲む」生活にあこがれ続けた。だがバブルは崩壊し、私自身、恋愛がそれほどお洒落なものではないことを知ってしまった。そのあたりぐらいだろうか、村上春樹作品への執着は薄らいでいったような気がする。 村上春樹作品と出合って20年以上が過ぎた今、あのころとは違う思いでページをめくっている自分がいる。最近の私はリアリズム文学に傾倒する嫌いがあって、村上春樹の作品でいうなら『東京奇譚集』が秀逸だと思っている。これは、村上春樹自身の身に起こった(あるいは身近な人からの伝聞的なものも含む)「不思議な出来事」で、ほぼノンフィクションの形態を取っているという演出(?)だ。5つの短編だが、どれも良かった。私はこの世の中の偶然は、偶然でありながらも実は必然的なものなのではという考えを持っているので、『東京奇譚集』は、私の思考に滲むように浸透していった。とりわけ好きなのは「偶然の旅人」という作品だ。ピアノの調律を仕事にしているゲイの男が、偶然出会った女性とのやりとりで、疎遠になっている姉のことを急に思い出すまでのプロセスを描いたものだ。性的マイノリティーのことや、乳癌というかなり深刻なキーワードが出て来るにもかかわらず、作品に荒んだものは微塵も感じられないし、むしろシンプルで前向きだ。村上春樹が日本の作家でありながら、どうにも日本的なものを感じさせないのにはいくつか理由がある。本人の著書に具体的な記述を見つけたのでここに紹介しておこう。「意識的に日本の文学を自分から遠ざけておくことによって、自分の文章スタイル(そしてその先にある小説のスタイル)を徹底してオリジナルなものにしてみるのも面白いんじゃないか(中略)今ここにある自分の偏った読書傾向、教養体験をそのままのかたちで保持し、より深く追求していくことによって、その結果小説家としての自分がいったいどのような地点に行き着くのか、それが知りたかった」村上春樹という人は、とても正直な人だと思う。日本の文学は、あまり好きではないとハッキリ言うし、日本では集中して創作活動が出来ないからと、海外へと移住している。これは人間の防衛本能として当然のことで、こんな小さな島国で、彼ほどの売れっ子作家になってしまったら、誰が放っておいてくれるだろうか? きっと日本では、彼にとって貴重な余暇、それも静かでゆったりとした時間を提供してくれることは、ほとんどゼロに近いかもしれない。村上春樹のオリジナリティーを損なわないためにも、やはり彼の中で帰結した独自の方式で、これからも多くの作品を発表してもらえたらと思う。『東京奇譚集』は、作者自身が冷静なまでに、自他と過去の記憶と偶然とを見つめ直した結果、生まれた必然的小説だと思う。そこからは、私たちはぼんやりと、普通に生きているだけで、実はとても意義のあることなのだと気づかされる。世界平和を声高に叫ぶことだけが文学ではないはずだ。日本という枠組みに囚われず、自由な表現舞台で活躍する村上春樹を、これからもずっと応援していきたい。そして、愛読していきたい。『東京奇譚集』村上春樹・著~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.10.27
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【吉村昭/冷い夏、熱い夏】◆末期癌の弟の闘病記、作家としての冷酷なまでの対象観察私はこれまで数々の闘病記を目にして来た。私自身、両親を次々と亡くしていることもあり、人がどのようにして病気と向き合うのか、とても興味のあることだったからだ。特に知りたかったのは、病気と闘う患者を見守り、支える側の家族の状況だった。何かにつけメソメソして弱音を吐いてしまった私自身が、一つだけ頑なに守り抜いたのは、病名を本人に告知しなかったことだ。果たしてそれが良かったのかどうか、いまだに分からない。父が亡くなって17年、母が亡くなって14年が経とうとしているのに、私はずっと自分の判断に自信を持てないでいる。そんな中、吉村昭の『冷い夏、熱い夏』を読んで、これまでにない共鳴を覚えた。それはとても冷静で、漠然となど全くしていない明らかな姿勢なのだ。この作品は、吉村昭の弟が肺癌になり、亡くなるまでの壮絶な記録である。現代では、癌と言えども欧米のそれに見習い、日本でも告知は当たり前のこととなりつつある。それはおそらく、医者と患者との信頼関係により治療が施されるものであるから、たとえ末期癌であっても、事実は事実として本人に告げるのは当然のことであるという合理的な思考によるものだ。だが吉村昭は真っ向から反対する。「日本人と欧米人とは基本的に死と生に対する観念が異なっている」と。余命幾ばくもないという事実を隠し通して死を迎えさせる方が、好ましいのではないか、と述べている。極東の島国に住む私たちに、唯一絶対的な神が存在していないことが理由なのか、亡くなった者の遺骨は、大切な崇拝の対象でもあり得る。だが欧米人にとっては、遺骨なんて単なる物質に過ぎず、むしろ死者が身につけていたペンダントに思い出を多く感じたりするようだ。そんなところからも、患者の激しいショックを少しでも回避させてやりたいという日本人の思いやりも、欧米人からすれば、そんなものは情緒的なものに過ぎないと、一笑に付されてしまうのだ。吉村昭も、その点は徹底して弟には嘘をついた。少しでも生きる希望を持たせてやりたい、という優しさからだ。こんなに知名度が高く、数々の文学賞を受賞して来た作家でも、こういう問題においては昔ながらのやり方でとことん嘘をつき通し、告知はしなかったという事実。私は胸が熱くなるぐらい励まされた。私が両親に言えないでいた病名のことを、日本人にとっては当然の措置で、「日本人の身にしみついたものである」と肯定しているからだ。私は少なからず、救われる思いがした。今日では医療も発達し、死病と見なされて来た癌も、克服できるようになった。そういうこともあって、患者にはきちんと説明し、本人も含めて皆が一丸となって治療に努めるという考え方に落ち着いている。概ね、特定の宗教を持たない日本人は、自分なりの死生観を持って、少しでも前向きに終末を迎えなければならない。またそれが求められているのが現状だ。『冷い夏、熱い夏』は、あまりにも克明に綴られた闘病過程なので、思わず目を背けたくなってしまうようなシーンも多々ある。それはもう壮絶としか言いようがない。そこには、作家としての視線による冷酷なまでの対象観察が行われている。揺るぎない視線で凝視された弟の死は、鎮魂という言葉ではとうてい代えられない人の歴史さえ感じた。ふだんあまり死について考えたことのない方々、そこからあえて目を背けている方々、この世に生まれ出たその日から、死に向かって時を刻んでいることを、おぼろげにも考えてみるのは必要なのではなかろうか。この作品は、死生観について改めて考えさせられる内容となっている。必読の書である。 『冷い夏、熱い夏』吉村昭・著☆次回(読書案内No.60)は柴田翔の『されどわれらが日々』を予定しています。コチラ
2013.04.13
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「レッドクリフ」Part2の公開が近づいた今、少しだけ三国志のおさらいをしようと思う。我々がいわゆる「三国志」として親しんでいる現代のそれは、14世紀後半に羅貫中によって記された「三国志通俗演義」がベースになっている。それこそが、広い中国大陸を舞台にした三つの国の物語であり、英雄豪傑たちが覇を競う歴史ドラマなのである。三国志中、何にも増して鮮烈でしかも雄々しく描かれているのは、武器を取り、戦塵に舞う猛将の姿であろう。中でも、弱小劉備軍の傘下に名を連ねる五虎大将は、数多の敵軍を震撼させた。その面々を紹介しよう。【関羽】・・・劉備と義兄弟の契りを結ぶ。人情厚く、義理堅い。長さ二尺もの顎ひげを携え、重さ八十二斤の大薙刀を自在に操る。【張飛】・・・関羽と同様、劉備と義兄弟の契りを結ぶ。直情型で気は短いが、涙もろい。長さ一丈八尺の矛を振り回す豪傑。【趙雲】・・・元は公孫さん(王に賛の字、楽天の対応せず)に仕える。主人の死後、劉備の人徳に絆され、以来傘下に入る。この上もなく忠義の人。【黄忠】・・・老将だが、弓の名手。元は韓玄に仕えていたが、後に劉備に帰順。【馬超】・・・西涼の馬騰の子。父を曹操に殺され、その仇を討つため劉備に帰順。美男子として名を馳せる。「レッドクリフ」Part1では趙雲が敵中へ取って返し、奥方と幼主阿斗(赤ん坊)を救出するシーンがクローズアップされる。実はこのくだり、吟遊映人が情熱を持ってお伝えしたい名場面なのだ。曹操軍100万の大軍の中を、赤子を抱えたまま次から次へと押し寄せる敵兵をバッサバッサと斬り倒し、戦塵に舞う猛将趙雲の勇ましさ。この辺りの表現は、吉川英治による三国志の記述は名文である。『趙雲の大叱咤に思わず気もすくんだらしく、あっとたじろぐ刹那、槍は一閃に晏明を突き殺して、飛電のごとく駆け去っていた。しかし行く先々、彼の姿は煙の如く起っては散る兵団に囲まれた。馬蹄のあとには、無数の死骸が捨てられ、悍馬絶叫、血は河をなした。』(「三国志」吉川英治・著より)この見事な名文に心が躍りはしまいか?趙雲の神業とも思える超人的な武勇が、劉備の愛息子を救うのである。この幼主阿斗こそが、後の劉禅なのだ。「レッドクリフ」でも忠義の人、趙雲の活躍は充分に観て取れる。どうか、この「武神の剣が修羅の中にひいて見せた愛の虹」をご堪能いただきたい!また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.16
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【レオン】「スタンフィールド?」「(ああ)何かご用は?」「(これは)お前への贈り物だ・・・マチルダからの」「・・・チッ!!」(爆発、炎上する)フランス人の感性は、どこか日本人のそれと似たものを感じる。おそらくこの作品が、アメリカ人監督によるものならば、ラストはかなり違っていたのではと思われる。北野武が描くバイオレンスの世界観(たとえばアウトレイジ)も、どうかするとこのリュック・ベッソン監督の感性に近いのではなかろうか。プロの殺し屋とかスナイパーなど、スマートでカッコイイものとして表現してしまうアメリカ映画とはまるで視点が異なり、孤独でしかも文盲のような、教育を受けていない者が、明日食べるパンと牛乳のために就く仕事である・・・的な設定になっているところに、思わずリアリティを感じるのだ。本作は大都会のニューヨークが舞台となっていて、騒々しく猥雑なイメージが付きまとうところなのに、一体どうしたことか、スタイリッシュでクールなムードさえ漂うから不思議だ。舞台はニューヨーク。イタリアレストランのオーナーであるトニーから、殺しの依頼を受けたレオンは、わずかな時間で完璧に仕事をこなすプロの殺し屋だった。レオンは酒を飲まないため、いつも牛乳を2パックも買って帰るのが習慣で、この日も買い物を済ませてアパートに帰った。すると、隣りの部屋の少女マチルダが、一人寂しそうにタバコをふかしていた。見れば顔に虐待の痕跡もある。マチルダは、弟を別として、継母と異母姉、それに実父から疎外され、辛く苦しい日々を送っていた。レオンは同情しつつも、深入りをせず、様子を見ていた。ところがある日、マチルダの家族のところへ、麻薬取締局の捜査員らが踏み込んで来たのだ。吟遊映人は、リュック・ベッソン監督の作品が大好きなので、少し語らせていただく。 この監督の代表作に、「ジャンヌ・ダルク」や「TAXi」シリーズ(TAXi1・TAXi2・TAXi3・TAXi4)、「トランスポーター」シリーズ(トランスポーター1・トランスポーター2・トランスポーター3)などがあるが、どれも優れた映画である。ほとんどがハード・ボイルド・アクションかと思いきや、「ジャンヌ・ダルク」のような歴史大作もあり、あるいはコメディ・タッチの笑いのエッセンスを盛り込んだ作品もあり、変幻自在の演出に脱帽なのだ。本作「レオン」において注目すべきシーンは、2点ある。一つは、レオンがあと一歩のところまで来てスタンフィールドに撃たれてしまうシーンだ。実際に撃たれるところは映像としては映っていない。カメラがレオン本人の視線になり、倒れて目の前の光景が徐々に下がって行くことで、レオンが背後から撃たれたことを視聴者に知らせる。さらに、レオンが虫の息の下で手榴弾のピンを抜き、スタンフィールドを道連れに爆発するのだ。この時のレオンの決死の想いが、視聴者の琴線に触れる。一人残してゆくマチルダを想うと、どうにも悲哀が先行するところだが、スタンフィールドを生かしておけば、やがてはマチルダの命も危険にさらされる。愛する人を守り抜くため、己もろとも爆死する、という場面だ。そしてもう一つ、生き延びたマチルダが施設に戻り、レオンの育てていた観葉植物の鉢植えを、校庭の隅に植えるシーンも素晴らしい。いつまでも根無し草ではなく、ちゃんと大地に根を張って枝葉を茂らせることが、レオンへの鎮魂なのだと表現している。そして、マチルダ自身が、人生と正面から向き合って生きて行こうとする強さを垣間見るのだ。一筋縄ではいかない、生きることの辛辣さを描いた作品であった。1994年(仏)、1995年(日)公開【監督】リュック・ベッソン【出演】ジャン・レノ、ナタリー・ポートマン、ゲイリー・オールドマン
2012.09.27
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【谷崎潤一郎/痴人の愛】◆この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士、大谷崎。友人がおもしろいことを言った。「谷崎の作品を好むのは、ある種の宗教だ」と。なるほど、さしあたり私などは谷崎教の信者だろう。谷崎潤一郎の小説は何冊か読んで、その中でも群を抜いているのが『細雪』だ。毎日出版賞も受賞している。長編であるにもかかわらず、何度も読み返してしまうほど、私にとってのお気に入りだ。だが谷崎の作品に限って言えば、『卍』『鍵』『瘋癲老人日記』のような、妖艶にして異常な性を描く世界観さえじっくり堪能することに、いささかの迷いもない。推理作家・江戸川乱歩も私と同様、谷崎教の信者(?)で、谷崎作品を愛読して止まなかったそうだ。売れっ子となった乱歩は、どうにかして谷崎との対談を実現させたいと骨を折り、やっとアポを取り付けたのであろう。そのへんの経緯が谷崎の書簡に残っているようだ。ところがこの対談は中止となる。お互いの健康上の都合によるものだが、乱歩が亡くなってまもなく谷崎も逝去している。今となっては残念で仕方がない。当時の売れっ子作家同士の顔合わせが叶わなかったのだから。さて、『痴人の愛』について。この小説に登場する毒婦・ナオミこそ、谷崎夫人の実妹・せい子をモデルにしたものだ。このせい子は、数え年15歳で谷崎と同衾している。西洋人とのハーフのような容姿に恵まれ、手足が白くてほっそりとし、大谷崎を魅了した。その代わり料理なんか作らないし、洗濯なんかもってのほか。家事一切は女中のする仕事として、ナオミ自身は谷崎に足を舐めさせたり、風呂場で自分の身体を隅々まで洗わせている。まるで谷崎を下僕のように扱っているからスゴイ女だ。終いにはナオミの鼻水まで谷崎が拭いてやっているし。ナオミが「あれが欲しい、これが欲しい」と言うに任せて、三越や白木屋(今の東急百貨店)などに連れて行き、買い物を存分にさせている。一体こんな女のどこがいいんだ?!と呆れ果てて、本を放り投げてしまう者もいるかもしれない。だがそんなことをしたら読者の負けである。逆に読んでいるうちに益々谷崎の異常なフェチに共鳴できたら勝ちというわけだ。一方この時期、谷崎夫人・千代は貞淑な妻でありながら、その生真面目さを夫から煙たがられ、邪険にされていた。酷い時は、谷崎がステッキで千代を殴りつけるなどして暴力に及んでいる。思い余った千代は、谷崎の親友・佐藤春夫に相談するのだ。こうして谷崎の身辺では、後世に残るドラマが生まれるのだ。谷崎潤一郎の小説は、どれもブルジョワ的でしみったれたところがない。倫理を重んじていないし、道徳的なことなどこれっぽっちも書かれていない。だから戦前、戦中は軍部の弾圧で、幾度となく苦汁をなめたに違いない。(新聞の連載小説の中断も、そこらへんの事情が大きい)あるいは一部の主義・主張にこだわるプロレタリア派から非難も受けた。だが大谷崎はそんなことをものともせず、我が道をゆく精神を貫いた。そんな谷崎潤一郎こそ、日本の誇る最高の文士であり、この人物の右に出る者は、今後現れることはないだろう。『痴人の愛』谷崎潤一郎・著☆次回(読書案内No.20)は車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.24
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【マーシャル・ロー】「私が騙されていたのね」「金のせいだ。“資金で力が買える”とね。信念が力を生むんだ」「テロに資金を出したわけね?」「皮肉なもんだ」この作品には度肝を抜いた。私はてっきりアメリカ同時多発テロをモデルにして製作されたと思っていたら、なんと公開は1998年だった!テロが起きたのが2001年なので、この映画は完全なフィクションだったわけだ。恥ずかしながら私はリアルタイムで『マーシャル・ロー』を見ておらず、遅ればせながら今ごろになって目を白黒させてしまった。『マーシャル・ロー』の内容はこうだ。サウジアラビアのアメリカ海兵隊駐留基地が、爆弾テロにあった。アメリカを震撼させたその事件後、すぐさまクリントン大統領は記者会見を行う。それを傍聴していたアメリカ陸軍のウィリアム・デヴロー将軍は、その会見内容を曲解したのか、ただちに行動に移す。それは、テロの首謀者とされるシークを拉致することだった。一方、ニューヨークのブルックリンで、白昼、路線バスが何者かにバス・ジャックされてしまう。犯行声明によると、急進イスラム派の教祖であるアフメッド・ビン・タラール(シーク)を、即刻釈放しなければ、人質もろ共バスを爆破するとのこと。FBI特別捜査官アンソニー・ハバードは、人質を解放するようテロ犯に要求するが、それも虚しくバスは爆破されてしまう。その後、ハバードは、テロ犯検挙に躍起になるのだが、ある女性が現場で爆弾に関する調査をしていることに気づく。そこでハバードは、女性に尾行をつけ、よくよく調べたところ、女性はCIA諜報員で、アラブ系アメリカ人社会にコネクションを持っていることを知る。こうして過激派のテロ行為を阻止するために、FBIとCIAがそれぞれに奔走し、そこにまたさらにアメリカ陸軍が動き出すのだった。この作品では、アメリカ陸軍のデヴロー将軍役にブルース・ウィリスが扮している。ちょっとクセのありそうな軍人なのだが、こういう厳つい男たちによってニューヨークが物々しく占拠されたら、NY市民の安全と引き換えに自由が奪われてしまうと表現しているようだ。つまり、テロ撲滅のために軍部の力を借りれば、その徹底的な手段により、過激派と関係あるなしにかかわらず、アラブ系の若者たちを完全に隔離し、外部との接触を禁じることで極端な緊張が生じてしまうわけだ。このあたりの描写はとても説得力があり、国家に異常なまで傾いているブルース・ウィリスの右傾ぶりがよく表現されていたと思う。また、主人公ハバード役のデンゼル・ワシントンに至っては、完璧の一言で、この役者さんはとても自分を冷静に観察している人だと思う。立ち位置をわきまえた役者さんは、分相応のキャスティングを望み、それ以上もそれ以下も引き受けやしないのだろう。正に、デンゼル・ワシントンがその人だ。終始一貫して演技に乱れがなく、誠実で好感の持てる演出だった。最近、北アのイスラム教圏においてテロがあり、日本人技術者たちも何人か犠牲となる事件が起きてしまった。痛ましい限りである。この『マーシャル・ロー』を見ることで、世界に起きているテロ事件をさらに身近なものとして捉えるきっかけとなれば、この作品の意義はいっそう増す。対岸の火事だと油断することなく、いつも危機感を持って世界を捉えることが必要なのだと、改めて痛感した。老若男女問わず、一見の価値あり。1998年(米)、2000年(日)公開【監督】エドワード・ズウィック【出演】デンゼル・ワシントン、ブルース・ウィリス
2013.02.10
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菊池寛の命日を、東奥日報「天地人」で知ったことは先日の記事に記しましたが(コチラをご覧あれ♪)、今日は続編で坂口安吾のお話です(^^)vまずはこれをご一読ください。『作家坂口安吾の仕事部屋はすごかった。褒めているのではない。戦後まもなく、写真家が撮った部屋の写真を見ると、雑誌や原稿用紙が机に向かう安吾の周りを埋め尽くしている。だから、探し物をして見つけたときは、こう叫んだのではないかと推測する。「あった、あった」。 さて、探すといえば、先ごろの県立高校入試制度見直しに関する会議でのこと。中学校側から高校側へ提出する受験生の調査書について、委員の一人が次のようなことを言った。「調査書とは中学校の先生にとって、いわば一つの芸術作品」。学級活動や生徒会活動、部活動などについて書く欄には、中学校側のたくさんの思いが詰まっている。子どもたちを合格させたいという思いである。 この委員によれば、「中学校の先生が調査書を書くとき、すぐにいいところについて書ける子」という子がいる。でも、そういう子ばかりでもない。それぞれの子どものいいところを探して、先生方は一生懸命、調査書を書くのだという。 世には目立つ花あり、目立たぬ花もあり。人も同じことか。安吾の部屋ではないけれど、埋もれたり、隠れたいいところを見つけ出すのは簡単なことではない。子どもとじっくり向き合って「あった、あった」と、いいところを見つけて伸ばす。それが先生の仕事。 春は「あった、あった」の季節である。あす11日は県立高校入試前期試験の合格発表の日。「番号があった」。子どもの努力、中学校の先生方の苦労が歓声に変わることを願う。』おそらくこの写真でしょう(^^)まさに「堕落論」を地で行くような一枚ではありませんか!堕ち切るまで堕ちよ安吾の叫びが聞こえるようです。このごろは暴走老人という巷のレッテルに、すっかり慣れ親しんでしまった感のある石原慎太郎氏ですが、氏の「実在への指標」という安吾論は明快です。「坂口安吾の文学の魅力は、あの得もいえぬ痛烈さであり、その痛烈さとは、文明や文化の粉飾への毅然とした拒否に他ならない。」伝統や貫禄ではなく、実質だこの強烈な個性(安吾臭)が、一部の人にはたまらない魅力なのだろうと思います(ということは安吾匂か・笑)。ちなみにこの写真は銀座のルパンでの一枚で、安吾はこれが気に入り「この一枚をもって私の写真の決定版にする」といったそうです。さて東奥日報。「堕落論」の安吾を引いて合格発表にもっていくあたりはサスガですねぇ~!見事なコラムに謹んで敬意を表します。きっと太宰のご当地ですから、何かDNAのようなものを受け継いでいるのかもしれませんね。おかげさまで、久々に安吾を紐解く機会をいただきました、東奥日報に感謝(^人^)
2013.03.11
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【長崎新聞 水や空】~社会人1年生~「君は文章が下手だ」そう言い放つ上司を前に、うつむく青年は、作家、三島由紀夫が社会人1年生のときの姿である。大学を出て大蔵省に入り、大臣の演説草稿を書かされた。懸命に仕上げて提出したところ、非情な言葉が返ってきた。原稿は別の上司の手で書き直された。三島の苦心の文章は跡形もなく消え、できたものは「紋切型の表現」であふれ、いかにも大臣演説らしい「独特の文体で綴られていた」(三島著「文章読本」)。後に、明晰(めいせき)、豊潤な文体で名声を得る三島の、このときの心境を思うと同情を禁じ得ない。ただ、このエピソードには、社会人1年生が学ぶべき二つの重要な教訓が含まれていて面白い。一つ目は、仕事では、自分に何が求められているかを、よく考えて、適切に行動しなければならないということだ。小説では名文でも、演説草稿には使えない。自分に与えられた職務に応じた行動ができなかった三島は未熟であった。二つ目は、隠れた才能など、他人には簡単には見えないということだ。だから、才能を認めてもらおうと焦っても仕方ない。才能は自分で磨いていれば、それでいい。自分を信じて努力を続けることが大切なのだ。きのう、多くの若者が社会人の仲間入りをした。外と内、あるいは公と私。未来に延びる2本のレールにバランスよく足を掛け、自然に前に進めるようになれば、もう立派な社会人である。(4月2日付)~~~~~~~~~~~~~~「君、文章の修練をしたらどうか」こなた吉村昭氏。会社勤めをしていた頃に書類を提出した東京都庁の担当係長にそういわれたそうだ。(吉村昭著「私の文学漂流」)ともにその世界で名をはせた方だから後日談となるわけだ。こういうことは巷で溢れている。長崎新聞のコラム氏に加えて「三つ目」を申し上げる(笑)その担当者がいるのである。つまり三島氏の上司、吉村氏の担当係長は、そのためにいるということだ。新社会人の方々は、その事実に気がついてほしい。ただ厄介なのは上司や担当係長の「好み」が多分に入ること。吉村氏は「坊っちゃん」や「大菩薩峠」を読んで文章のいろはを身につけるよう係長に言われたという。そういうことなのだ。ミモフタモないようで申し訳ないのだが、現実と折り合いをつけることが、いわゆる社会人らしくなることでもあるのだ。大事なのは、その中で志を失わずに自己の目標を達成させることだ。中村元先生はその志と目標を「誓願」といい『いかなる困難も誓願のまえには無にひとしい』と喝破している。がんばれ!新社会人諸君(^^)
2013.04.08
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【柴田翔/されどわれらが日々-】◆時代性を感じるも、青春文学の金字塔60年代を知らない者にとっては、この作品はかなり手ごわい。芥川賞受賞作だと思って真剣に読んでみたところ、私など自分の解釈にいまだ自信が持てないでいる。村上春樹の『ノルウェイの森』と同時代を扱ったものでありながら、こちらの『されど』の方は時代性を感じるし、半ば古典的なムードが漂う。反戦とか全共闘運動が全国的に吹き荒れた60年代、若者たち(学生たち)は激動の学生生活を送った。何かをせずにはいられない闘志のようなものが漲る中、一方で先の見えない漠然とした不安や、どうしようもない孤独を抱え苦悩する若い男女で、巷は溢れていたのだ。そういう混沌とした世相を念頭に置いてから読まないと、作中で自殺者が2人も登場することに驚かなくてはならない。そしてその自殺の意味をあれこれ推測していくだけで、疲労困憊してしまうのだ。話の概略を案内しよう。主人公の大橋文夫は東大の英文学専攻の大学院生である。いつも立ち寄る古書店でH全集を見つけ、購入を決意するものの、一ヶ月のバイト代では足りないため、分割して買うことにした。文夫には節子という婚約者がいて、毎週土曜日になると、文夫のアパートを訪れた。節子は東京女子大学の英文科で、当時、最左翼として知られていた歴研に出席していた。 ある日、いつものように節子が文夫のアパートを訪れた際、本棚に並べてあるH全集に目を留めた。節子はH全集の一冊を手に取ると、蔵書印を見て何やら思案したあげく、貸して欲しいと言う。どうやら節子は、その本の元の持ち主について知っているようだった。文夫は、駒場と本郷で平凡な学生時代を送っている間、節子以外の女にも恋をしていた。様々な女と情事に耽り、やがて女たちは文夫から離れて行った。性の解放を主張した世代でもあるため、それは特別なことではなかった。中に、優子という女がいて、激しい感情のやりとりがあったが、文夫にはそれが恋愛と呼べるものかどうかは分からない。優子とも当然のごとく肉体的結びつきがあったものの、避妊していなかったことで、優子が妊娠してしまうのだった。だが文夫がその事実を知ったのは、優子が文夫に対して絶望し、自殺してしまった後のことだった。文夫は自己嫌悪に陥るのだった。このように、つらつらと話を掻い摘んで整理してみると、青春小説に付き物ではあるが、かなり陰惨な影を落とすものだ。優れた小説にはありがちだが、著者の自己完結とも言えるどうしようもないあきらめムードが全体を覆っている。婚約者である節子とも、どこか白けた関係で、ある種の投げやりな感じなのだ。節子も本当は文夫のことなど愛してはおらず、ムリして愛そうとしているような節さえ見受けられる。あるいは、もともと節子は文夫のことを愛しているのだが、文夫は節子が文夫を想うほどには節子を愛してはくれなかったため、愕然とし、悲哀に暮れているようにも思える。世の中が混沌とし、学生の間では主義主張の風が吹き荒れる中、性の解放という言葉だけが虚しく宙に浮いている。途中、細かい点で気になる箇所はあったが、概ね青春の苦悩を語る小説であることが分かる。青春文学の金字塔とはいえ、時代背景も現在とはずいぶん異なる上に難解なので、精神史、風俗史として読むと、いく分気が楽になるかもしれない。『されどわれらが日々-』柴田翔・著☆次回(読書案内No.61)は山本文緒の『ブルーもしくはブルー』を予定しています。コチラ
2013.04.17
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【島崎藤村/新生】◆実の姪を妊娠させて傷心の渡仏、帰国後再び関係を持つ男私もこれまで女性週刊誌のゴシップ記事やらタレントの暴露本まで、ありとあらゆる私的で低俗な小説を嬉々として読んで来た。だが、島崎藤村の『新生』を越える私小説には、まだ出合っていない。お断りしておきたいのは、島崎藤村が、『ダディ』を書いた郷ひろみや、『ふたり』を書いた唐沢寿明のようなタレントではなく、れっきとした文士であることから、いくらジャンル的には同じ私小説とはいえ文学性において当然差はある。それにしても島崎藤村の思い切った告白には、何とも言いようのない、不愉快極まりないものを感じてしまう。というのも、藤村はあろうことか、実の姪と関係を持ってしまい、妊娠までさせているのだ。その辺の経緯をつらつらと語っているのだが、どう読んでも自己弁護を超えるものではない。そこから贖罪の気持ちなど微塵も感じられないのだから、読者はますます憂鬱にさせられる。このようなタブーをあえて公にすることに、どれだけの意味があったのだろうか?とはいえ、後世の我々が、ああだこうだと野次を飛ばしながらも読まずにはいられないほどの吸引力があるのだから、充分に意味のある作品なのだが・・・。話はこうだ。作家で、男やもめの岸本は、幼い子どもたちの世話や家事を、姪の節子に頼っていた。妻はすでに病死していたのだ。最初は節子の姉・輝子と二人に面倒を見てもらっていたのだが、じきに姉の方は嫁ぐことになり、節子のみになった。岸本は、毎日顔を合わせているうちに、己の寂しさやら欲望から節子と関係を持ってしまう。その後、節子が妊娠してしまう。岸本は、実兄(節子の父)に合わせる顔がなく、フランスへの留学を決める。面と向かって真実を話すこともできず、結局、渡航中に手紙を書いて、節子のことを詫びた。数年後、ほとぼりが冷めたころ帰国。しばらくは兄の宅へ居候の身となるものの、何かと節子が不機嫌なのが気にかかる。ある時、思い余って岸本は節子に接吻を与えてしまい、再び二人のヨリは戻ってしまうのだった。『新生』は、当時の朝日新聞に掲載された連載小説なのだが、藤村の子どもらがそれらを目にして受けたショックなどを考えると、胸が痛む。まさか自分たちの母親代わりになってくれていた、従姉の“お節ちゃん”が、父親(藤村)と近親そうかんだったなんて!しかも自分たちとは母親の異なる弟までいるとは!藤村は、自分の実子らがこの先どれほどの苦悩を抱えるかなんて、さほど考えもしなかったのであろうか?貧しい一族の中で、ただ一人、作家として成功した藤村にのしかかる負担は大きかったかもしれない。経済的な面で、一族がどれだけ藤村一人を頼ったことか知れない。だが、それを慮ってみたとしても、道徳上のタブーは決して犯してはならないはずだ。 『新生』を読んだ芥川龍之介は、次のように述べている。「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」様々な見解があるだろうが、やはり私も芥川に同感だ。この作品は、私小説に偏見を持たない方におすすめかもしれない。『新生』島崎藤村・著☆次回(読書案内No.76)は辺見庸の『もの食う人びと』を予定しています。コチラ
2013.06.08
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【江國香織/犬とハモニカ】◆優雅で上品、まるで海外小説の翻訳を読んでいるよう昼寝から目が覚めた。ごわごわする布団をどけて徐に上体を起こし、また眠りに引き込まれないようにする。だが、それでもダメな場合はあきらめるしかない。(単に昼寝のあとのことだけど、江國香織風の文体にしてみた。) とても不思議なんだけれど、読後ものすごく雰囲気に酔わされてしまう作家というのがいて、私にとってそれは村上春樹と江國香織なのだ。日本からかけ離れた渇いた空気と香りを感じる。ジメついていなくて、優雅で、まるで海外小説の翻訳を読んでいるような錯覚に陥ってしまう。 江國香織は目白学園女子短大国文学科卒。その後、デラウェア大学に留学したようだ。(ウィキペディア参照)代表作は今さら紹介するまでもないが、『きらきらひかる』があって、それは映画化されているし、『号泣する準備はできていた』で直木賞を受賞している。辻仁成との共著である『冷静と情熱のあいだ』も話題となった。 『犬とハモニカ』は短編集となっていて、どれも文学的な香りがプンプン匂う。おさめられているのは表題作である『犬とハモニカ』『寝室』『おそ夏のゆうぐれ』『ピクニック』『夕顔』そして『アレンテージョ』の6篇である。どれも好きな作品だが、私がものすごくホラーを感じたのは『ピクニック』である。あらすじはこうだ。 「僕」と杏子は結婚して5年になる。杏子の嗜好で、近所の公園に度々ピクニックに出かける。と言っても、結婚前にはそういう習慣はなく、ある日いきなり始まったのだ。「僕」は杏子を風変わりな女性だとは思っていた。でもそれはあくまで「個性的な子」という意味で理解していた。だが少しずつ「僕」は杏子のことを魔女のようだと思い始めた。たとえば杏子は夫である「僕」の名前を、どうしても覚えられないでいた。「裕幸(ヒロユキ)」が正しいのに、「ユキヒロさん」と言ったりした。いつも自信なさそうに呼ぶのだった。あるいはベッドの上でも顕著なことがあった。「僕」が望めば拒みもせずに脚を開き、背を反らせる。「僕」にまたがって、「僕」自身を深々とくわえてもくれる。決して嫌がりはしない。「僕」は杏子に乱暴になり、おおいかぶさり、彼女を突き、離れ、また突く。だが杏子は行為の後、不思議そうな顔をしているのだった。 『ピクニック』に登場する杏子は、あるいは病んでいる女性かもしれない。だが「病んでいる」とは一言も触れていないところがコワい。読者は「僕」といっしょになって杏子の異常性を知り、恐怖を覚えるのだ。快楽を貪ることは、決して大きな声では言えないけれど、実はとても人間らしい営みと言える。感情を伴わない相手と肉体関係を結ぶことは、とても虚しい。「気持ちイイ」も「イタイ」もなく、淡々と行為を進行していくことの無機質さと言ったらない。この部分を読んだ時、いかに喜怒哀楽が人間としての本質的な感性であるかを思い知ったのである。 江國香織の作品は、決して多くを語らないけれど、読者に「あなたはどう思う?」と問いかけて来るような響きがあって、私には心地よい。上品な小説を読みたいと思っている方におすすめだ。 『犬とハモニカ』江國香織・著☆次回(読書案内No.151)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.11.29
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手に取るなやはり野に置け蓮華草 滝野瓢水ふたたび滝野瓢水(たきのひょうすい)である。先の記事はコチラをご覧いただきたい。瓢水は「畸人伝」に載る人であったが、句を読むとその達観ぶりを感じないではいられない。畸人とは達人に通ずるものなのかもしれない。掲句は示唆に富んでいる。「蓮華草」は欲の象徴なのだ。そう見ると戒めの句となる。なんでもかんでも自分のものにしようとするな、そういうことだ。ただし学者の机上教義ではない。風雅の限りを尽くし、道楽に散財し、そして没落の憂き目を見た「達人」の実義なのだ。だからそこに瓢水のシニカルな視線や、虚しさと嘆きを含んだ哀れみの視線を感じないこともない。○○の権利。△△の権利。××の権利。一億三千万の権利、それは欲望である、が日本には渦巻いている。声高に唱え、それを掌中にして、いったい何を得たというのか。畸人、瓢水にそうたしなめられている気がしてならない。みぞれ空を眺めながら瓢水の人物を思った日である。それにしても、名の如く正義の人もいれば、瓢水のようにして「達人」の域に入った人もいる。何とも日本人の層の厚さを感じるではないか。そう思うとき、私はそこはかとない幸福感に包まれ、そして日本人として生まれたことを誇りに感じるのだ。瓢水に、そして数多の先人に感謝だ。衷心からの合掌を捧げる、合掌(-人-)
2013.12.19
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【菊池寛/真珠夫人】◆格調高く優雅な通俗小説が昼ドラを席捲この作品は小説より、むしろ昼ドラで一躍ブームとなったのは記憶に新しい。私が勤務していた以前の職場で、あまりにハマってしまった同僚が、録画のタイマーをし忘れたとかで、ご主人に電話をして録画を頼んでいたのを思い出す。とにかくそれほどまで世のご婦人方を夢中にさせた作品である。昼ドラを侮れないのは、通俗小説とはいえ、著名な作家の作品をきちんと持って来るところだ。周知のとおり、『真珠夫人』は菊池寛の原作である。解説によれば(解説は川端康成によるもの)、菊池寛という作家は、「生活第一、文学第二」をポリシーとしていたらしく、純文学小説では食べていけないので、大衆小説の道へと転向したようだ。また、当時の新聞小説として連載していた『真珠夫人』は、川端いわく、「円熟の小説であるし、また代表作とも見られる」と評価している。しかし、私個人が感じたことには、川端康成が菊池寛の作品についてあれこれ論評するというよりは、人柄を大変高く評価しているように思われるのだ。たとえばこうある。〈『新思潮』の継承発刊の了解をもとめると、初対面であったにもかかわらず、何もたずねないで、到って無造作に承諾を与え、好意を見せてくれた上、「芥川や久米なんかには、僕から話しておいてやるよ」と言った。〉とある。こういうことをずい分後になるまでちゃんと覚えていた川端康成は、菊池寛に対して並々ならぬ恩義を感じていたのだと思う。極貧生活を味わった経験のある菊池寛は、「貧しくとも立派な純文学小説の創作」というものには何の意味も見出さず、むしろ生活のためなら何でも書くのを良しとした。だから才能があっても食べられない後輩作家の育成には余念がなく、援助を厭わなかったのだ。さて、その菊池寛の代表作ともなった『真珠夫人』のあらすじはこうだ。唐沢男爵の令嬢・瑠璃子は、杉野子爵の令息である直也と、荘田勝平の主催する園遊会に出席していた。招待客で溢れた会場を避け、二人は静かな場所で会話を楽しんでいた。直也は荘田勝平の成金趣味を批判し、名園と言われる荘田の庭も、人工的でコセコセしていると悪し様に言った。しかし偶然にも二人の会話を荘田勝平が聞いてしまうのだった。荘田は、まだ年若い学生である直也から、金さえあればどんなことでも出来ると思っている俗悪な成金趣味だと痛罵されたことを、心の底から恨んだ。この悔しさを一体どうしたら晴らせるだろうかと考えた時、美しい令嬢・瑠璃子の父・光徳が、貴族院の清廉な闘将ながら、その実は借金で火の車であることを調べ上げ、罠にかけてやろうと謀ったのだ。キレイゴトを言っても、最後は金が全てであることを分からせてやろうと、ほくそ笑んだ。こうしてまんまとハメられた瑠璃子の父の借金のかたに、瑠璃子は直也との恋をあきらめ、親子ほどの年の差はあったが、荘田に嫁ぐことになる。だが、瑠璃子の復讐はここから始まるのだった。とにかくストーリーはドラマチックで、波風が始終ざわついている感じだ。正に、昼ドラに相応しいストーリー展開である。登場人物のセリフもそれは大げさなもので、まるで小説の中の宝塚歌劇を楽しんでいる錯覚に陥る。「ははははは。強いようでも、やっぱりおなごは弱いものじゃ、ははははは」「ああ苦しい。切ない! 心臓が裂けそうだ!」「貴女は、僕を散々辱しめておきながら、この上何を仰ろうというのです!」という具合である。(笑)これほどまでにフィクションでありながら、いつのまにか作品に惹き込まれてしまうのは、どうしてなのか?それはきっと、生活のために必死でペンを執る筆者が、寿命の縮む思いで創り出す苦心までも背景に隠されているからであろう。通俗だ、大衆的だと詰られようと、一生懸命にドラマを紡ぎ出す菊池寛の創作姿勢はすばらしい!菊池寛、渾身の逸作なのだ。『真珠夫人』菊池寛・著☆次回(読書案内No.114)は怪奇小説の筆頭、江戸川乱歩の「幽霊塔」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.02.22
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【スパイ・コード 殺しのナンバー】「フラッグレグだ」「どうぞ」「局が襲撃された。撤収したい」「了解を取ります。お待ちを、、、撤収を承認しました」「応援は?」「4時間後には局を確保します。送信係は“職務を退任”です」「え? もう一回たのむ」「暗号が漏洩しました。送信係は“退任”です」洋画といえばたいていハリウッド映画を思い浮かべてしまうところだが、この作品は違う。アメリカとイギリスで共同製作したとのこと。どおりで映像が暗い気がしたわけだ。イギリスのスリラー映画は特にそうだが、画面が暗く、全体的に物憂い雰囲気が漂っているのだ。 『スパイ・コード 殺しのナンバー』は、敵がどういう相手であって、何を目的としているのかは全く明かされない。謎の武装集団による襲撃を受け、間違った暗号をCIAエージェントらに送りつけてしまうことを阻止するという攻防戦である。要は、秘密を知り過ぎた場合、仲間と言えども、人を人とも思わずに始末していくCIAの体質に、怒りを覚えた男の戦いのドラマと言ってしまって良いだろう。主役を務めるのはジョン・キューザックである。最近では『2012』においても“らしさ”を発揮して主人公を好演。『殺しのナンバー』も同様だが、ジョン・キューザックが筋金入りのリベラルとのことで、より一層ナイス・キャスティングに思えて仕方ない。 あらすじはこうだ。CIAエージェントとして活動しているエマーソンは、元CIAで現在はカフェ・バーを営む男の暗殺を実行した。ところがその際、現場を目撃した男を取り逃がしてしまった。エマーソンはすぐに自宅まで追跡し、その男を射殺したものの、その場にいた男の娘までは殺すことができなかった。ところが同行していた上司が、迷わず少女を射殺。エマーソンは絶望的な気持ちになる。エマーソンは心理カウンセリングを受けた結果、最前線の任務からはずされ、イングランド東部の片田舎にある送信局へと左遷されてしまう。そこでのエマーソンの任務は、暗号作成のプロであるキャサリンの護衛と、駅までの送迎であった。そんな中、いつものようにキャサリンとともに基地のゲイトをくぐって出勤したところ、人っ子一人いない。怪しんだエマーソンが様子を見ようと車外へ出たところ、いきなり何者かに銃を乱射される。エマーソンは、キャサリンを守るため、必死に局内に逃げ込むのだった。 テーマは、おおざっぱに言ってしまえば、CIAの行き過ぎた行為に対する批判と疑問である。ジョン・キューザックが狙った相手に、冷静な視線を投げかけるのと同時に射殺してしまうところなど、見事な演技に目を見張るものがある。ハリウッド映画にはない微妙な間の取り方や、殺伐とした雰囲気を演出するためのものなのか、モノトーンに近いような映像が、かえって重厚感をかもし出していた。地味な作りとなってはいるが、こういう作品は大変好感が持てる。見ごたえのある、サスペンス・スリラー映画だ。 2013年公開【監督】カスパー・バーフォード【出演】ジョン・キューザック、マリン・アッカーマンジョン・キューザックの『真夜中のサバナ』はコチラから
2014.08.03
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【横山光輝「三国志」第一巻】「我ら、生まれた日は違えども、死すときは同じ日!」小学6年生の時、クラスの男子がコミックトムで盛り上がっていた。私はいつもフレンドやマーガレットを愛読していたので、少年マンガには興味がなく、コミックトムはスルーしていたのだが、本屋でたまたまチラ見したことがある。中でも横山光輝の『三国志』はチラ見では済まず、夢中になって読んだ。大人になってから知ったのだが、コミックトムは潮出版社から発行されており、某宗教の媒体となっている。とはいえ、宗教色の強いマンガなどほとんどなかったような気がする。 さて横山光輝だが、数々の大ヒット作を手掛けている人物なので、その名を知らぬ人などいないとは思うが、代表作に『鉄人28号』『魔法使いサリー』『バビル2世』『三国志』など数えきれないほどある。もともとは銀行員だったせいもあるのか、「商業作品は第一に経済的に成功させなければならない」という点で、自作の映像化にはとても寛容だったらしい。(ウィキペディア参照)その点、白土三平あたりとは主義主張が全く異なる。 今回私は、テレビ東京系列で1991年~1992年まで放送されたアニメ三国志を見る機会を得た。現在、全話収録のDVD-BOXが発売されており、その中の第一巻(第一話~第四話まで収録)を見た。 第一話 桃園の誓い第二話 激闘! 義勇軍第三話 死闘! 鉄門峡第四話 勅使の罠 ストーリーはこうだ。おおよそ2000年前の中国が舞台。世の中は乱れに乱れていた。飢饉が続いて百姓たちは食べることにも困り、略奪が横行した。また、腐敗し堕落した役人たちによって、国家存亡の危機を目前にしていた。そんな中、怪しげな妖術を使う太平道の教祖・張角とその弟らが決起してクーデターを起こす。彼らは黄色い頭巾をかぶり、盗賊まがいのことを始めたため、いつしか黄巾賊と恐れられた。そんな乱れきった世の中を憂えた劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳らは義兄弟の契りを結び、義勇軍を募って黄巾賊の討伐に立ち上がった。とはいえ、リーダー(長兄)である玄徳は、貧しい農家の生まれであり、志は高くとも資材は全く持ち合せがなかった。言うまでもなく、官職もないせいで何かと下に見られ、辛酸と苦杯をなめること数知れずであった。そんな中、弟分である関羽と張飛はよく玄徳になつき、よく仕えた。一方、後漢を司る霊帝は、宦官である十常侍たちに操られ、ますます国家は滅亡への道をたどるのであった。 アニメ三国志は概ね原作に忠実で、生き生きとしたキャラクター作りにも好感が持てる。あえて難を言うなら、ジブリやディズニー作品に慣らされてしまった昨今においては、時代性を感じてしまうかもしれない。昭和の古き良きアニメと言えば聞こえはいいが、いわゆるアナログというものだ。 歴史というカテゴリと真摯に向き合った結果なのか、笑いの要素はなく、アニメ版の大河ドラマを見せられているような錯覚すら覚える。第一巻はまだまだ物語としては序の口で、ややおもしろみには欠ける。だが、義兄弟の契りを結んだ劉備、関羽、張飛ら豪傑たちが、今後どのように活躍し、歴史の一ページを刻んでいくのか楽しみで仕方がない。長編小説を読むのが苦手な方、『三国志』を一通り知りたい方、このアニメ版三国志なら、知的好奇心を充分に満足させてくれるに違いない。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻親八、藤原啓治
2016.04.25
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【宮本輝/錦繍】元夫婦が年を経てお互いの生き様を認め合うプロセス私は幼いころより手紙を書くのが大好きだった。学生時代には、雑誌の文通コーナーで知り合った相手と長らく文通もしていた。今思えば内容なんてつまらないものだ。ひいきにしているミュージシャンの話とか、映画の批評とか、くだらない芸能情報などをつらつらと飽きもせず書いていたに過ぎない。あのころはパソコンもスマホもない時代なので、友だちと連絡を取る手段といえば、自宅の固定電話の他に、交換日記をしたり、手紙のやりとりをすることであり、それは決して珍しいことではなかった。大人になってからも、私は文通を続けていた。四十代も半ばになった今となっては、さすがにそれも叶わなくなってしまったが、、、 宮本輝の『錦繍』は、元夫婦だった男女が、年を経て偶然出くわし、手紙のやりとりが始まるという書簡体の体裁を取る小説である。リアルの世界ではここまで細かくはつづらないであろうと思われる内容も、手紙という形で表現されている。読んでいるうちに「これはもしや復縁する展開か?」と推理するのだが、見事にはずれた。ラストはハッピーエンドではない。宮本輝がこの小説で一体何を表現したかったのか?私は私なりに考えてみたが、いつものようにしたり顔では言えないのが残念。 話の流れは次のとおり。亜紀は、脳性麻痺の8歳の息子をつれて、蔵王に旅行に出かけたところ、元夫である靖明とばったり出くわす。それは十数年ぶりの再会で、あまりにも偶然で意外すぎて、お互いろくに会話することもなく別れる。亜紀はすでに再婚し、一児をもうけながらも、靖明のことが忘れられず、人づてに住所を聞き、長い手紙を出すことにした。二人の離婚の原因は、靖明の浮気と心中騒ぎであった。靖明は、中学2年のときから想いを寄せていた女とねんごろな関係になったところ、女はだんだん靖明に本気になっていった。一方、靖明の方は女を愛する気持ちに変わりはないが、家庭を壊す気はなく、不倫関係を続けていく気でいた。そんなある日、二人はいつもの逢引き宿で逢瀬を楽しんだあと、女が寝ている靖明に斬りつけ、女自身も自らを突き刺し、自殺するのだった。このとき女は死に、靖明は一命を取り留めた。結局、そのことが原因で亜紀と靖明は別れることになった。亜紀は、靖明への未練からなかなか立ち直れないでいたが、父の勧めもあり、大学の助教授をしている男と再婚することとなった。そしてその男との間にできたのが脳性麻痺の息子・清高であった。一方、靖明にも長らく同棲している女がいた。地味だが愛嬌があり、ろくに働かない靖明によく尽す女であった。靖明は亜紀から届く長い手紙を読んで、自分の心境を語ることにした。その返事もまた長いものとなるのだった。 作中、靖明が中学2年生のとき両親を亡くしたことで、舞鶴に住む親戚に引き取られる場面が出て来る。この舞鶴という地は、京都の北端にあり、日本海に面した町なのだが、驚くほど的を射た表現である。 「初めて東舞鶴の駅に降り立った際の、心が縮んでいくような烈しい寂寥感です。東舞鶴は、私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした」 私はこの舞鶴にほんの数カ月もの間、住んでいたことがある。あのときの私の気持ちを代弁するかのような表現で、たまらなくなって泣きそうになった。三島由紀夫の『金閣寺』にも東舞鶴の場面が出て来るが、太平洋側に住む者にとって、ちょっと形容しがたい物哀しさを感じるのである。 『錦繍』を読むと、どんな辛い目にあおうとも、生きていることが重要なのだと気づかせてくれる。ある意味、死ぬことも生きることも大差ないのだとも言える。ただ、人間はつまらないことで道を踏み外すけれども、なんとかなるものだと思わせるくだりもあり、勇気づけられる。過去を振り返ってばかりでは前に進めない。今を大事にし、未来への一歩を踏み出すことの大切さを教えてくれる。・・・これは当たり障りのない大雑把な感想だが、本当はもっと違うところに意味があるのかもしれない。読者を選ぶ小説である。 『錦繍』宮本輝・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.17
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【ロバート・キヨサキ/金持ち父さん貧乏父さん】いかにして働かずにお金を儲けるか、不労所得を得る方法この数週間、私は読書に励んだ。季節的に過ごしやすくなったせいもある。単に楽しむための読書なら文学が一番とっつきやすい。でも私はあえてお金にまつわる指南書を手にしてみた。仕事というものに対する姿勢とか考え方などを、今一度振り返ってみたいと思ったのだ。お金のために働かざるを得ない自分。資本主義社会の世の中では、このお金こそが人間の価値さえ決めてしまうという残酷な現実。自分はお金に振り回されていると知りながらも、何一つ打開策など浮かばず、虚しく時間だけが過ぎていく・・・ 私は、日系アメリカ人で事業に成功したロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』を読んだ。サブタイトルは“アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学”である。これは、起業家であり投資家でもあるロバート・キヨサキの提案であり、「自分はこのようにして成功した」という体験談であると私は捉えた。内容をざっくり言ってしまえば、いかにして不労所得を得るのか、ということである。働かず(肉体的な勤労をせず)にお金を儲けるというのは、このご時世、なんとも胡散臭い話ではある。だが実際、そのようなマネーゲームは確実に存在する。 その一つが投資である。時代の先を読み、情報を収集し、精査し、ここぞと思う天の時を狙い、投資する。読みが当たれば莫大なお金を儲けることになるが、はずれれば大損することになり、下手をしたら一文無しである。 他に、小さなアイディアを出発点として、働かなくてもお金を稼ぎ出す仕組みを編み出し、そのアイディアを売る、という方法がある。この知的財産は半永久的なものであり、成功すれば全体の1%乃至4%とされる勝ち組に分類される。 私が注目したのは、この不労所得を得るための秘訣とは何ぞや?ということである。ロバート・キヨサキはそれについてこおう述べている。 『金持ちになりたければお金について勉強しなければならない』 単純明快なことだが、確かにそうだ。経済学の基礎的な知識がなければ、世の中のお金の流れなど理解できないし、運用もできまい。 さらには、お金を失うことに対する恐怖心に打ち克つことも説いている。つまり、ひと財産築いた人で、そこに至るまでに一度も損したことがないという人はいないと言うのだ。これは、投資することに躊躇したり、臆病風に吹かれていたら、いつまでたっても大金を手にすることなどできないという裏返しでもある。 私の友人にI さんという個人の投資家がいる。(資産はおそらくウン千万円と推測される。)I さんはロバート・キヨサキの本を1ページも読んだことはないが、おおよそ同じことを言っている。 「投資はギャンブルだよ。思い切ったことをやらなくちゃ、お金なんて増えないよ」「日経新聞はバイブルだから読むのは当然。他にもいろんな本とか読んで情報を収集して常に勉強しなくちゃ」「バカを相手にするとろくなことはないよ」 これらのセリフはI さんの口癖だが、ベストセラーでもあるロバート・キヨサキの著書をものすごく分かり易く言い換えてくれている。こんなことならロバート・キヨサキの本を読むよりもI さんの口癖を真剣に聞いていた方が良かったかも?!しれない。いずれにしても、自分がお金を儲けてどうしたいのか、はっきりとした目的意識のある人は、この著書はかなり有意義なものとなるはずである。また、若い人にもおすすめだ。17年も前に出版されて以来、国際的なベストセラーでもある『金持ち父さん貧乏父さん』は、教養としても充分に楽しめる一冊なのだ。 『金持ち父さん貧乏父さん』ロバート・キヨサキ・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2017.09.10
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【石神賢介/57歳で婚活したらすごかった】新型コロナまん延防止重点措置が延長された地域もあれば、解除された地域もあり、いまだコロナの収束は不透明なのです。そんな折、ロシアによるウクライナ侵攻と、このところ世界は不穏な動きを見せています。戦争やら疫病で閉塞感の漂う中、どうにかこの孤独と不安を解消して安定した生活とささやかな幸福に浸りたいと痛切に願ってしまうのは、いけないことなのでしょうか?由々しき状況なのは百も承知の上ですが、人は皆、置かれている自分のことが最優先であり、それは当然のことなのです。井上陽水の『傘がない』と言う歌の詞を思い出してください。都会では自殺する若者が増えている今朝来た新聞の片隅に書いていただけども問題は今日の雨 傘がないこの詞をざっくり要約すると・・・「どこで誰が何をしようが今の自分にとっては雨に濡れることの方が大問題なんだよ〜」と言うことなのです。(吟遊映人の勝手な解釈なので、あしからず・・・)つまり、人々のホンネに向き合うことは決して責められるものではないと思うわけなのです。私は『57歳で婚活したらすごかった』という新書を手に取りました。昨年(令和3年)出版された新書の中でも、かなり上位の売れ行きでヒット作です。著者は石神賢介で、四十代のとき『婚活したらすごかった』と言う新書をすでに出していて、それが空前の大ヒット。今回の『57歳で・・・』は、その続編とも言えるものかもしれない。アラフィフでバツイチシングルの私にとっては、かなり興味をそそられるタイトルでした。とは言え、私にとって結婚はあまりいい思い出もなく、苦々しいざらついた記憶が残るだけなので、これから婚活したいという意欲とは少し傾向が違います。何というのか、よそ様のなかなか公にできないプライベートな部分をのぞき見してみたい、という好奇心とでも言いましょうか?とにかく『57歳で・・・』は、そういう意味でこちらの意図するものを充分に満足させてくれる、赤裸々で、しかもリアリティーに溢れた内容となっています。著者は一度離婚歴があるが、子どもはいない。熟年期に突入して孤独を感じ、もう一度結婚したいと思ったとのこと。婚活の流れとしてはごくごくありきたりのパターンです。そこで婚活アプリ、結婚相談所、婚活パーティーなど様々な手段で出会いを求め、成功するための傾向と対策について探求しています。それがまた実にリアルで、それでいて不快にならないスマートなルポとなっていて、さすがはフリーランスの雑誌記者とうたっているだけのことはあると思いました。著者ご本人は、身長169cm、体形は普通、学歴は大卒で年収は900万くらい、容姿は並みより下、と謙虚で控えめなことを言っておられますが、毎週のように新規の女性と出会っているらしいのです。(ときには同衾もあり)あれれ?これはまさかの自慢話か?!と思う箇所もあるけれど、概ね、これが男性のホンネなのであろうと好意的に読むことができます。仕事柄、初対面の人を相手にしても会話は苦ではないとも書かれているので、コミュニケーションスキルは人より優れている御仁なのだと思いました。そんな著者の人柄やら性質を踏まえた上での一読は、かなり客観的な立場から楽しめると思います。久しぶりに手にしたこの新書、時間の経つのも忘れて一気に読了してしまいました!アラフォー、アラフィフのシングルの皆さま、どうぞ勇気を持って一歩を踏み出してくださいね〜それと、著者の石神賢介様、成婚したあかつきには、婚活の極意とか攻略本(?)などぜひともお書きください!!今から楽しみにしてますヨ♡ (了)『57歳で婚活したらすごかった』石神賢介・著 ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2022.03.12
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