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311によせて『東北は単独ですでに偉大なのである。東京への交通機関的な距離で自己の価値をきめねばならないような土地ではない。』『むしろ関東のほうが東北の出店で、本店は東北だ、という見方である。すでに縄文時代を考える考古学の世界では、東北が中心というにおいが濃い。言語も東北語があって、その下流に関東語があったのではないか。千年、二千年前のことだが』(司馬遼太郎『街道をゆく 奥州白河・会津のみち』)
2014.03.11
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「俺も警官だし、君より古顔だ。だが拳銃を使わないのが俺の主義だ」「偉いよブリッグス。(君は)身の程を知っている」昨今では監督として定評のあるクリント・イーストウッドの出世作となった、「ダーティハリー」シリーズだが、見ての通り彼のスリムな体型は今も昔も変わらない。それならばさぞかし機敏な動きでキレのあるアクションを披露してくれるのかと思いきや、そうではないのだ。実に余裕のある、しかも紳士的な動作で、決して粗野ではないから不思議だ。クリント・イーストウッドという役者さんは、西部劇畑で鍛えられて来た人なだけに、マグナム銃を持った時のポーズや身のこなし方をとても研究し、スマートに敵を撃つスタイルを確立しているように思える。あくせく動いて走り回ってガンガン撃つ、という野暮ったさはなく、額に汗をかくこともなく、射程距離に入った敵をミスなく命中させるというムダのないガン・アクションを披露してくれる。こういうスマートな演技のできるハリウッド・スターは、最近ではそれほど見かけないので、残念でならない。本作「ダーティハリー2」は、前作の大ヒットを受けて第二弾として製作されたものだが、興行的にこちらも大成功を収めた。警察官による間違った正義を振りかざす犯罪を描いたものだ。サンフランシスコでは、マフィアの幹部を乗せた車の同乗者が皆殺しに遭うという事件が起きた。サンフランシスコ市警のハリー・キャラハン刑事は、手口から見てプロの殺し屋ではないかと見当をつける。数日後、資産家の別荘のプールで戯れる男女数人が皆殺しに遭う。だが被害者らは、前回同様、法の網を掻い潜る悪質な組織の一家であった。ハリーは、目撃者による情報などから、パトロール警官である友人のチャーリー・マッコイではないかと疑惑を持つ。というのも、チャーリーは言動からして精神を病んでいるような、限りなく怪しい人物に思えたからだ。本作において、見事なストーリー展開だと思ったのは、やはり思いがけない人物が犯人であり、黒幕だったということだ。ガン・アクションとしても申し分ないが、サスペンスとしても完璧に成功した作品であると言えよう。前作、ドン・シーゲル監督がメガホンを取った「ダーティハリー」が、あまりにも影響力の大きい、素晴らしい作品であっただけに、2作目に挑戦した監督の重圧たるや、想像をはるかに超えたものであったに違いない。しかし、そのプレッシャーにも打ち克ち、実に完成度の高い作品に仕上げたのは見事である。こうして「ダーティハリー2」の大成功によって、次の「ダーティハリー3」へと続いて行くことになるのだ。1973年(米)公開【監督】テッド・ポスト【出演】クリント・イーストウッド、ハル・ホルブルックまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.04.29
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「私たちは発艦することができても着艦することはできません。ですから、出撃したら二度と帰って来ません。敵艦に体当たりします!」「何・・・?」「せっかく整備して下さった大事なゼロ戦を壊してしまいますけど、許して下さい!」 「貴様ら、わざわざそれを言いに来たのか・・・?」「(若き特攻隊員3名そろって)はいっ!」戦争コードの映画は、あまりの残酷、無惨なシーンに驚愕して後味の悪さだけが残るものと、悲哀さのあまり、涙無くしては見られないものとの2パターンがあるように思える。第二次世界大戦において敗戦国である日本が制作した映画は、それだけに哀切極まりない、死にゆく者たちの慟哭が聞えて来るような錯覚に陥ってしまうのだ。1940年、日独伊三国軍事同盟が締結。翌年、同盟国であるドイツのソ連に対する宣戦布告に後押しされる形で、日本軍もベトナムへ進出。これによりアメリカの対日制裁措置を受け、アメリカからの資源の輸入が完全にストップ。日米交渉も虚しく決裂に終わり、いよいよ太平洋戦争へと突入する。連合艦隊司令長官である山本五十六の作戦により、真珠湾攻撃を実行。それにより、真珠湾停泊中のアメリカ太平洋艦隊は大打撃を受ける。日本軍の快進撃も長くは続かず、1942年、アメリカ空軍の日本本土初空襲を受ける。 この攻撃を受け、山本はアメリカ太平洋艦隊の残存部隊を全滅させる必要性を説き、ミッドウェー攻略を打ち立てる。だが、ミッドウェー海戦において、事前に日本軍の作戦情報が完全にアメリカ軍に傍受されており、日本軍の完敗に終わる。「連合艦隊」は、そうそうたるスタッフ、キャストによる優れた戦争映画に仕上がっている。デジタル化の進んだ現代においては、当時の特撮技術の甘さが気になる視聴者もあるかもしれないが、研ぎ澄まされた高度な演出と無駄のない脚本、そして卓越した演技力が見事に調和し、非常に完成度の高い作品となっている。注目すべきは連合艦隊参謀長の宇垣纏(うがき まとめ)である。宇垣はインテリでプライドの高い、賛否両論のある人物だが、対アメリカ戦になることを当初から懸念し、一貫して三国軍事同盟に異を唱えて来た。しかし、一たび太平洋戦争に突入すると、その手腕を発揮。ミッドウェー海戦における敗北時には、パニックに陥っていた参加部隊を見事に統率し撤退させるという指揮を執った。それまで宇垣を無能呼ばわりしていた山本五十六は、一転して彼に篤い信頼を寄せるというエピソードがある。(しかし、このエピソードは作中にはない。)映画「連合艦隊」では、宇垣を高橋幸治が好演。冷酷非情でインテリジェンスなムードを漂わせ、ひときわ存在感があった。作中、日本海軍の誇る戦艦が次々と撃沈されてゆくシーンがあり、BGMに「海行かば」が静かに流れる。それはまるで、戦没者への鎮魂歌のように聴こえるのだ。海行かば水漬く屍かばね山行かば草生す屍かばね大君の辺にこそ死なめかへり見はせじ※日本民族の意識、精神の理解に苦しんだアメリカ軍は、この歌を持って分析、解読を労し、対日作戦を立てたとされる。1981公開【監督】松林宗恵【出演】小林桂樹、丹波哲郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.08
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【夏樹静子/蒸発】◆時刻表を穴の開くほど凝視せよ!鉄道系サスペンスの先駆け「“蒸発”って言葉はもう死語だよね?」という友人の意見を検証しようと、試しに高校生の息子に訊いてみた。「蒸発って知ってる?」「知ってるよ。水とかが気体になることじゃん」「うん、そういう意味の他にもう一つあるんだけど」「知らん」そうなのだ。もう平成世代には“蒸発”が通じないのである。人知れずこつ然と姿を消すことを“蒸発する”というのだと説明して、やっと納得してもらえる始末なのだ。驚くほどのことではないかもしれないが、こうやって言葉はいにしえの(?)言語となっていくのかと痛感した。そう言えば、職場で「○○さんまだシングルなんだって」という噂話になった時のこと。すかさず「独身貴族ですね」と話に加わったらゲラゲラ笑われてしまった。もちろん笑ったのは私より年上の先輩ばかりで、若い子はノーリアクション。“独身貴族”という言葉も、いまや死語である。話が逸れてしまい、恐縮。さて、夏樹静子の『蒸発』について。この作品はかなり古い。40年ぐらい前に発表されたものだ。今読むと、ある意味ノスタルジーで昭和を感じる。時代性は否めないが、その分、一人一人の熱っぽさ、つまり人間味をたっぷりと感じさせてくれる小説なのだ。言うまでもなくミステリー小説だが、半分は不倫小説だ。単なる浮気などではなく、本気の不倫だから読者もついつい主人公に肩入れしたくなってしまう。とはいえ、くどいようだが不倫は不倫だ。話はこうだ。ある日、札幌行きの飛行機で不思議なことが起こった。東京を出発する時は間違いなく満席だったはずなのに、12-C席だけ乗客がいなくなっているのだ。そこには確かに女性が乗っていた。スチュワーデスらは慌ててあちこちを探し回るが、結局、トイレにも入っておらず、現代の怪談として片付けられてしまった。一方、ジャーナリストの冬木は、妻子のいる身でありながら朝岡美那子と不倫関係にあった。美那子も、銀行に勤務する夫と6歳になる息子のいる立場だった。ところが冬木は仕事でベトナムへ行くこととなり、前線での取材中、銃撃を受けて重傷を負った。情報の錯綜する中、日本には冬木がほぼ絶望的なように報じられた。その後、奇跡的に回復した冬木は野戦病院を退院し、自分の生還を伝える一報を東京へと打電した。東京で妻子との再会を果たす冬木だったが、心のひだに刻み込まれたのは美那子の面影だった。そこで自分の本当の気持ちに気付くと、どんなことがあっても美那子と一緒になりたいと思うのだった。ところが美那子は、どこへ消えてしまったのか冬木の前から蒸発してしまった。美那子の夫も息子の手を引きあちこち探し回るものの、何の手がかりもなく時だけが過ぎてゆく。そして美那子の蒸発は、いよいよ事件へと発展していく。ミステリー小説としてのおもしろさを味わえるのは、何と言っても列車のトリックであろう。時刻表などを熟読する方々にはワクワクするようなアリバイ崩しの瞬間ではなかろうか?現在では、鉄道系サスペンスを得意とする西村京太郎に持って行かれた感があるけれど、40年前は斬新なトリックだったのだ。さらには、おいそれとハッピーエンドでは終わらないラストにも好感が持てる。著者である夏樹静子が、当時の社会風潮としてのウーマンリブを皮肉った点も同感。『「母性離脱」を叫んでいたシュプレヒコールが、なぜかもの悲しい響きを伴って、彼の耳底に蘇った』という一文にグッと来た。こういう推理小説を書ける人が、最近はあまりいないような気がするので、よけいに勧めたくなってしまう。1970年代を知る風俗史的な役割も担っている、社会派推理小説である。『蒸発』夏樹静子・著☆次回(読書案内No.99)は落合恵子の「母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~」を予定しています。コチラ
2013.11.09
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私が今回訪れたのは京都府舞鶴市にある金剛院という大変古いお寺です。関西花の寺第三番霊場でもあるこのお寺は、今、見事な紅葉の時期を迎え、多くの参拝客で賑わいを見せています。しかし、わざわざ紅葉狩りのためだけに出かけたわけではありません。時間とお金をかけ、我が家から300Km以上離れていても行きたかった理由とは。それは二つあります。一つは、私にとってかなりプライベートなものに相当するため割愛するとして・・・。もう一つは、三島由紀夫の代表作でもある『金閣寺』にも登場する舞台でもあるからなのです。『金閣寺』(※以下参照)は私にとって愛読書であり、多感な思春期に鮮烈なインパクトを与えてくれた一冊です。その『金閣寺』における主人公は吃音に悩み、いつも自由に言葉を操ることのできない己を嫌悪するのですが、あるとき近所の美しい娘に恋をするのです。もちろんその娘は、吃りで陰気な主人公のことなど歯牙にも掛けません。もしろストーカーじみた主人公を気味悪く思うようになり、親に告げ口をします。そのことで主人公は叱責され、このときから娘に憎しみを抱くようになります。逆ギレというやつです。主人公はいつか復讐してやろうと目論むのですが、その必要はなくなります。なんと娘は、主人公が手を下すまでもなく、憲兵に捕えられてしまうのです。娘と脱走兵が関係を持ち、妊娠したことが原因でした。その脱走兵が逃げ込んだところ。そう、それがこの鹿原の金剛院なのです。「金剛院の御堂は、もっと昇ったところにある。丸木橋をわたると、右に三重塔が、左に紅葉の林があって、その奥に百五段の苔むした石段がそびえている。石灰石であるために滑りやすい」(『金閣寺』三島由紀夫・著より)私はこちらのお寺に、過去二度ほどお参りに来たことがあるのですが、今回ほど意味のある参拝はこれまでにありません。まるで導かれるように紅葉の林を前にしたとき、確かな手応えを感じるのでした。山が粧うというのは、こういうことを言うのかと改めて実感するひと時でもありました。最近の私はあまりに苦しくて苦しくて、泣きたくなるというよりはむしろ吐いてラクになりたい一心でした。得体の知れない鵺(ぬえ)のようなものから逃げよう逃げようと必死で足掻く傍で、もうどうにでもなれとヤケになっている自分も存在するのです。何が正しく、何が間違っているのかなんて、ちっぽけで無力な人間に判断などできるはずもないのです。私はただその刹那に、自分がやれることをやろうと思いました。今、何をするべきか、何をしたら良いのかを考える。まずはそこからだと。きっかけが何であれ、そこに負の感情を持ち出すことなく、清廉でありたいと願いました。鮮やかで色香の増す金剛院の紅葉を胸に焼き付け、一歩を進めてみようと決意しました。「丹後のもみじ寺」と呼ばれる金剛院の紅葉は、正に今が旬です。入山料¥300。ぜひ足を延ばしてみてください。(※)こちらのブログで要約していますので、よろしければ参考にご覧ください。こちらです。
2021.11.18
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【アニー・ホール】「精神科医に、ある男が相談するんだ。“弟は自分がメンドリだと思い込んでます”とね。すると医師は“入院させなさい”と言う。男は“でも卵は欲しいのでね”と答える。男と女の関係もこの話と似てるんだ。およそ非理性的で不合理なことばかり。それでもつき合うのは卵が欲しいからだろうね」恋愛と結婚というものが、必ずしも一致しないことぐらいは、大人ならだれだってわかる。若いうちは恋愛の延長線上に結婚があると思い込んでいる。でもそのうち、恋愛というものが幻想であったことを目の当たりにするのだ。現実というのは、ときに残酷だ。どんなに好きでも長く一緒にいれば喧嘩もするし、憎くもなるし、幻滅もする。そういう二人がひとたび「恋愛」という枠組みから解放され「友だち」という関係におさまったとき、びっくりするほどしっくりするのだから皮肉なものである。だれが言い出したのか忘れたけれど、「結婚するなら二番目に好きな人がいい」というのはまんざらでもない。相手と程よい距離間があった方が、ベタッとした関係より長続きするという過去のデータがあるからだ。 今回、私は『アニー・ホール』をレンタルしてみた。この作品はずいぶん古く、もう40年も前のものである。ウディ・アレン監督の代表作なのだが、人間の営みは時代にほとんど左右されないらしく、現代でもまったく違和感はない。ざっくり言ってしまえば、男女の恋愛が一筋縄ではいかないところを絶妙に表現している。 ストーリーはこうだ。コメディアンのアルビー・シンガーがアニー・ホールと出会ったのは、友人と一緒に行ったテニスクラブである。二人はなんとなく仲良くなっていった。アルビーはアニーにあれやこれやと自分の生い立ちを告白する。ニューヨークのブルックリンで育ち、幼少期から神経質で屁理屈をこねる、ませた子どもであったこと。2回婚歴があり、2回とも離婚していること。そして15年間ずっとセラピーにかかっていることなどである。一方、アニーも付き合って来た彼氏について語り、家族との食事にアルビーを誘ったりした。アルビーはアニーが教養のないことをコンプレックスに感じていると思い、大学で学ぶことを提案した。アニーはアルビーと同衾するとき、欠かさず薬物の力を借りた。そうでもしなければ気持ちが冷めてしまってモチベーションを維持できなかったからだ。だが二人は少しずつギクシャクし、関係が悪くなっていく。アニーは大学の教授と関係を持ち始め、アルビーも別の女性と付き合い始める。こうして二人の関係は切れたかに思えたが・・・ 『アニー・ホール』はアカデミー賞受賞作品であり、ウディ・アレン作品の中でもとりわけ人気の高いものらしい。(ウィキペディア参照)とはいえ、私個人としては退屈な作品だった。もしかしたら、今の私の気分的なものが左右したのかもしれない。男女の惚れたはれたについて、さほど興味がなくなって来ているのも事実だし、ラブ・ストーリーならせめてハッピーエンドにして欲しいという、映画に対する願望もあるからだ。 おもしろい演出だなと思ったのは、作中でアルビーとアニーがそれぞれのセリフ以外に、心の声が字幕で表されているシーンである。さらには、主人公のアルビーがカメラ目線で視聴者に問いかけるシーンがあり、ウディ・アレン監督オリジナルの表現技法があちこちに垣間見られる。この作品が人気なのは、当時としては斬新な演出や、男女の出会いから別れを万人が共鳴できるものに完成させた点であろう。恋愛が永遠のものではないことはわかっていても、人はいつだってだれかを愛さずにはいられない。出会いと別れを繰り返すのが男女の常。私はこの作品からそういう人間の性(さが)を感じずにはいられなかった。ラブ・ストーリーにしてはあまりに現実的で、夢や希望の入る余地さえない作品に思えた。 1977年(米)、1978年(日)公開【監督】ウディ・アレン【出演】ウディ・アレン、ダイアン・キートン
2017.06.04
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【川北稔/8050問題の深層「限界家族」をどう救うか】「限界家族」という言葉を知ったのはつい最近のことだ。福祉系の仕事に就いている息子から聞いたのだ。「限界集落」という言葉は知っていたけれど「限界家族」という言葉は聞き慣れないものだった。しかもその響きは何やらリスキーで深刻さが滲んでいる。とりあえずどんなことなのか知りたいと、書店で手に取ったのがこの本だった。『8050問題の深層「限界家族」をどう救うか』という新書である。まずは8050問題(はちまるごーまるもんだい)とは何ぞや?・・・から紐解いていかねばならない。端的に言えば、80代の高齢の親が50代の子どもの面倒をみる、という世帯の抱える問題のことだ。※ここで言う50代の子どもというのは、無職あるいはひきこもり状態にある子どものことである。正直なところ私はこの新書をめくっていくにつれ、震えが止まらなくなった。これは正に、私と同世代とその親世代の問題だと確信したからだ。今でこそ付き合いが途絶えてはいるが、私の友人の一人が同じ苦悩を抱えていた。当時まだ20代だったころ、彼女(K美さん)にはひきこもり状態にある弟について、ずいぶんと神経をすり減らしていたのだ。K美さん自身は聡明で公立大を卒業していて、就職先にも恵まれ、フツーに生活するには不自由のない暮らしをしていた。一方、弟の方は確か、高校は中退してしまったが、どうにか飲食店に就職が決まった。だがその後すぐに辞めてしまったと聞いた覚えがある。どうやら人間関係に躓いたらしい。K美さんは姉として出来る限りのことはしたと思う。行政の窓口にも相談に出かけ、NPOの家族会にも足を運んだと言っていた。藁にもすがる思いだっただろう。だが、結果は惨憺たるものだったと。あれから30年近く月日が流れるが、K美さんの弟が社会復帰したかどうかは不明である。そして、もしいまだに当時の状況が継続中だとするならば、50代に突入したひきこもりの彼と、80代の両親が同じ屋根の下で暮らすという図式になるわけだ。正に、リアルタイムの8050問題ここにあり、である。『8050問題の深層』を読んで改めて知ったのは、ひきこもりの背景がどんなものであるかということだ。直接のきっかけが不登校や就活の失敗だとしても、それが長期化していくにはおそらく何らかの原因があるはずだ。たいていは性格的な問題として片付けられてしまいがちだが、単なる〝大人しい〟とか〝引っ込み思案〟という内向的な性格のせいだけでひきこもりが長引くものだろうか。昔は「慌てずにゆっくり見守ってあげましょう」的な暗黙のルールがあった。だが最近ではだいぶ変わって来ている。というのも、ひきこもりの背景に軽度の知的障害や学習障害などが関係していることがわかり始めたからだ。自閉症の一つでもあるアスペルガー症候群という社会的なコミュニケーションの困難などを特徴とするものは、知的発達の遅れや言葉の発達の遅れを伴わないため、この障害をスルーしてしまいがちなのだ。そのためそれに気付かず「生きづらさ」を感じたままひきこもっている人たちが、何百、何千人といるらしい。とは言え、ひきこもりの原因がアスペルガーだったとわかったところで、50代に突入した今になってどうしろと言うのか⁈ というのが当事者のホンネに違いない。その一方で、50代の子どもを支える80代の親世代にも何かしらの問題がありそうだ。つまり、精神医療を受けることの偏見が問題解決を遅らせる要因となっているのだ。そして最終的に老いて両親が亡くなると、一人取り残された本人の兄弟姉妹が慌てて医療機関なり行政窓口を訪れることになるというパターンが少なくないらしい。とは言え、暴力や自殺行為などが起こっていないことを理由に問題が先延ばしになっていることはやむを得ないと言えるかもしれない。(果たしてそれが正しいかどうかは別として)ひきこもる人への支援には長期的な関わりが必要となるため、そう易々と片手間に出来ることではないからだ。65歳以上のお年寄りが半数を超える集落を「限界集落」と呼ぶようになって久しい。急激に進む高齢化社会の中で、共倒れ寸前の「限界家族」を内包する問題は深刻である。昔はよく「共依存」という言葉が使われ、お互いを過剰に干渉する状態のことを言ったものだ。それが自立を妨げるからと、半ば批判的な意味合いが含まれていた。本書によれば、最近の考え方としては、「依存先を増やす」という自立支援にシフトしているようだ。依存先が家族限定にならないよう家族以外の依存先を増やし、社会からの孤立を防ぐという方法だ。8050問題を今日・明日にでも解決するという具体策はなく、支援にも決まった答えはない。周囲にそう言う事例はないからと、目を背けてばかりはいられない。私の場合、たまたま息子が福祉系の仕事に就いたことで、日本の社会福祉制度には諸問題が山積みとなっていることを知った。『8050問題の深層』は、現代日本において社会的孤立が決して他人事ではないと警鐘を鳴らす。ひきこもる人とその家族に対する支援のアプローチが掲載されているので、一つの例としてそれらを読むだけでも支援制度のあり方を知ることができる。8050問題について知っておきたい人、ぜひ手に取って欲しい。(了)『8050問題の深層「限界家族」をどう救うか』川北 稔・著 NHK出版新書★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2023.06.17
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【枡野浩一/結婚失格】◆ある日突然、離婚を突きつけられた夫の心境を激白著者本人が「書評小説」というカテゴリを生み出し、小説でありながら実在する本の書評がくみ込まれているのは、斬新な発想だと思った。さらに内容はほとんど私小説に近く、かろうじて登場人物の職業などを変えることにより、「これはあくまでも作り事」であるかのように見せかけている。枡野浩一は、現代短歌の歌人であり、それこそが本業であるにもかかわらず、小説家としても見事な自己暴露を果たして成功している。そこには自己防衛や虚飾などは微塵も感じられず、あるがままのネガティヴ思考をきちんと肯定し受け入れているから、かえって潔く感じてしまう。この作品は正しくタイトル通り、結婚そのものに向いていなかった、あるいは不適格者扱いを受けた自身を、自虐的に、だが決して納得はしていない男性の視点で率直に語った話である。ある日突然、理由も分からず妻から離婚を突きつけられた夫の気持ち。とりあえずお互いを冷静に見つめ直すために別居してみたところ、妻への連絡は全て弁護士経由となってしまった現実に唖然。空腹なのに何も食べたくないから、みるみるうちに夫は痩せ細っていき、184cmという長身にもかかわらず、ピーク時には54kgまで体重が落ちてしまうというしまつ。妻の雇った女性弁護士は、身に覚えのない非難を書きつらねたFAXを、人の出入りの激しい夫の仕事場へ平気で送りつけて来るという無神経さ。愛する子どもたちとの面会も拒否され、夫側は事態をよく把握できないまま暗澹たる気持ちになる。結局、夫は鬱の症状が出始め、精神のバランスを崩してしまう・・・。著者がいくつか本の紹介をする中で、私も興味を持った一冊があった。それは松久淳の『ヤング晩年』というたぶんエッセイのようなものだと思うのだが、その抜粋に目を留めた。〔たとえば演劇やってる友人、というものほど困ったものはないですけど、友だちだったら我慢してお金払ってその芝居を観に行って、あぜんとするほどつまらなくても「面白かったよ」と言ってあげるものです。それを「つまんねーよ」と正直に言ってあげることが愛情だなんてことを言う人がいますけど、当人にしてみれば友だち「にまで」そんなことは言われたくないに決まってるじゃありませんか。〕これを引いて著者はハッキリと明確に、その考えは「ない」と答えている。そこには、嘘なんかつけないと自分を肯定している自己愛が見え隠れするのだ。おそらく著者は、漫画家である妻(作中では脚本家という設定になっている)に対して、おもしろいものとつまらないものを正しく伝えて来たに違いない。それが果たして正解だったかどうかは分からない。(結果、離婚にまで発展してしまったのだから、やはり嘘でも妻をおだててやるべきだったのだろう)作品そのものはおもしろかったのに、一つだけ気になることがあった。それは巻末にある解説が、徹底的に著者を非難する、驚くべき悪意に満ちたものだったことだ。本来、解説は中立な立場で作者紹介をすべきであるのに・・・。こんな解説を掲載するのをあえて了承した枡野浩一の自虐ぶりにも驚きだが、それ以上に気分の悪くなる解説(というより批判)だった。この本は、漠然と別れたがっている女性の皆さんにおすすめの一冊かもしれない。離婚したい理由を相手にちゃんと伝えられないのは、もしかしたら単なる女性のワガママかもしれないのだから。『結婚失格』枡野浩一・著☆次回(読書案内No.88)は佐伯一麦の『鉄塔家族』を予定しています。コチラ
2013.08.24
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【島崎藤村/新生】◆実の姪を妊娠させて傷心の渡仏、帰国後再び関係を持つ男私もこれまで女性週刊誌のゴシップ記事やらタレントの暴露本まで、ありとあらゆる私的で低俗な小説を嬉々として読んで来た。だが、島崎藤村の『新生』を越える私小説には、まだ出合っていない。お断りしておきたいのは、島崎藤村が、『ダディ』を書いた郷ひろみや、『ふたり』を書いた唐沢寿明のようなタレントではなく、れっきとした文士であることから、いくらジャンル的には同じ私小説とはいえ文学性において当然差はある。それにしても島崎藤村の思い切った告白には、何とも言いようのない、不愉快極まりないものを感じてしまう。というのも、藤村はあろうことか、実の姪と関係を持ってしまい、妊娠までさせているのだ。その辺の経緯をつらつらと語っているのだが、どう読んでも自己弁護を超えるものではない。そこから贖罪の気持ちなど微塵も感じられないのだから、読者はますます憂鬱にさせられる。このようなタブーをあえて公にすることに、どれだけの意味があったのだろうか?とはいえ、後世の我々が、ああだこうだと野次を飛ばしながらも読まずにはいられないほどの吸引力があるのだから、充分に意味のある作品なのだが・・・。話はこうだ。作家で、男やもめの岸本は、幼い子どもたちの世話や家事を、姪の節子に頼っていた。妻はすでに病死していたのだ。最初は節子の姉・輝子と二人に面倒を見てもらっていたのだが、じきに姉の方は嫁ぐことになり、節子のみになった。岸本は、毎日顔を合わせているうちに、己の寂しさやら欲望から節子と関係を持ってしまう。その後、節子が妊娠してしまう。岸本は、実兄(節子の父)に合わせる顔がなく、フランスへの留学を決める。面と向かって真実を話すこともできず、結局、渡航中に手紙を書いて、節子のことを詫びた。数年後、ほとぼりが冷めたころ帰国。しばらくは兄の宅へ居候の身となるものの、何かと節子が不機嫌なのが気にかかる。ある時、思い余って岸本は節子に接吻を与えてしまい、再び二人のヨリは戻ってしまうのだった。『新生』は、当時の朝日新聞に掲載された連載小説なのだが、藤村の子どもらがそれらを目にして受けたショックなどを考えると、胸が痛む。まさか自分たちの母親代わりになってくれていた、従姉の“お節ちゃん”が、父親(藤村)と近親そうかんだったなんて!しかも自分たちとは母親の異なる弟までいるとは!藤村は、自分の実子らがこの先どれほどの苦悩を抱えるかなんて、さほど考えもしなかったのであろうか?貧しい一族の中で、ただ一人、作家として成功した藤村にのしかかる負担は大きかったかもしれない。経済的な面で、一族がどれだけ藤村一人を頼ったことか知れない。だが、それを慮ってみたとしても、道徳上のタブーは決して犯してはならないはずだ。 『新生』を読んだ芥川龍之介は、次のように述べている。「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」様々な見解があるだろうが、やはり私も芥川に同感だ。この作品は、私小説に偏見を持たない方におすすめかもしれない。『新生』島崎藤村・著☆次回(読書案内No.76)は辺見庸の『もの食う人びと』を予定しています。コチラ
2013.06.08
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「教えて下さい。聞きづらいのですが・・・あなたの娘さんは23年前に亡くなりました。でもあなたはここにいる。部屋も当時のままです。・・・どうしてなんですか? 私の家内も5ヶ月前に・・・。でも泣けません。変ですよね・・・」「刑事さんは知りたいのね、なぜ私がこうやって生きてるのか・・・。でも自分でも分からないの」この作品の冒頭では、幼児性愛の性癖を持つ二人の男が、いかがわしい8ミリフィルムを見ているシーンから始まる。もうすでにこの冒頭部からして、かなり深刻なドラマを想像させるのだから、作品としての完成度は高い。事件は、人っ子一人いない真昼の麦畑で犯行に及ぶ。静寂とした空間で、聞こえてくるのは被害者少女のバタバタともがく音、うめき声。これがまた一層残酷さを際立たせるのだ。この作品はおおむね孤独をテーマにしたものだとは思うが、犯罪の質が特殊で、いたいけな少女が犠牲者となっているプロットを考えると、視聴者を選ぶ内容になっている、と思われる。(決して過激な映像があるわけではないのだが・・・)23年前、ゾマーとティモは、赤い車に乗って田舎道をドライブしていた。その途中、自転車に乗る11歳の少女ピアを見かける。ゾマーは、麦畑の人気のないところまで自転車を追いかけると、ピアを押し倒し、暴行に及ぶ。ところが必死で抵抗するピアに思い余って、ゾマーは石で殴り殺してしまうのだった。 車内で一部始終を傍観していたティモは、恐怖に脅え、ゾマーのもとを去ることにした。 その後、ティモは結婚して姓を変え、建築デザイナーとして成功し、家庭も持っていた。 そんな悪夢も風化して久しい23年後、全く同じ場所の同じ日付で、13歳の少女ジニカが失踪する事件が起こった。事件をテレビのニュースで知ったティモは、ひどく動揺するのだった。この作品に登場する様々なキャラクターの持つ背景は、かなり興味深いと思った。まず、事件を担当するダーヴィッドという刑事だが、5ヶ月前に妻を亡くしていて少し神経を病んでいる状態だ。また、この事件を23年前に担当し、定年を迎えたクリシャンという元刑事が、被害者の母親と仲良くなり男女の間柄になる。さらに、ダーヴィッドの同僚である女性刑事ヤナは、臨月近い妊婦で、歩くだけでも難儀な状態。だがそんな身重の体で、目撃された犯人の乗る車種の割り出しのために、一軒一軒聞き込みに回るのだ。こういう登場人物が、様々な思惑と絡み合って物語が重厚さを増していく一方で、今一つの感も否めない。ドイツ映画であることを考慮してみても、可もなく不可もなくと言ったところだ。2010年(独)公開 ※日本では劇場未公開【監督】バラン・ボー・オダー【出演】ウルリク・トムセン、ヴォーダン・ヴィルケ・メーリングまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.11.13
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あふれる歌心「革新」希求※左からカラヤン、アバド、ラトルの各氏マエストロのクラウディオ・アバド氏が逝去された。享年80歳。このごろは動向を聞くこともなかったが、胃を患われ闘病されていたという。冒頭のタイトルは、産経新聞の『評伝 クラウディオ・アバド氏』のタイトルである。クラウディオ・アバド氏の指揮はまさに歌心にあふれていた。カラヤン氏の後を受けてベルリンフィルの指揮者となったアバド氏としては、それが面目躍如であった。緻密で完璧に仕上がったカラヤン氏と、さほど比較されることなかったのは、アバド氏のあふれる歌心のなせる技があったからであろう。なお、アバド氏の次となったサイモン・ラトル氏は、その情熱的な指揮でアバド氏とは一線を画している。この層の厚さがベルリンフィルの一流と言われる所以であろう、余談まで。加えて、対話協調型のアバド氏はオーケストラに歓迎されたという。前任のカラヤン氏が『帝王』であった分も受け入れられたということであろう。そして冒頭の『「革新」希求』は、アバド氏がプッチーニを演奏しない理由をこう述べたことに由来する。「プッチーニが嫌いなわけではありません。ただ、私は革新にひかれるのです。」『革新』によるアバド氏のマーラーやブルックナーは、すでにベルリンフィルの歴史に刻まれている。クラウディオ・アバド氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げる。追記:フルトヴェングラー、カラヤン、アバド、ラトルの執ったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を、我々は居ながらにして聴くことができるのだ。なんと幸福なことだろう。今宵はカラヤンとアバドを聴き比べてみようか。
2014.01.22
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「才能ある監督なら独創的なことをやれよ! “エクソシスト”の盗用でなく!」「盗用じゃない。敬意を示してるんだ。・・・なんてこった。(おまえ)やってるな・・・ヤクを」「それがどうした?」「撮影中はやらない約束だ」「大丈夫だよ。迷惑はかけねぇ」シリーズ5作目のこのあたりになると、吟遊映人もリアルタイムで観ているから感想が言い易くなる。挿入されている曲は、当時ヘヴィ・メタル・バンドとして一世を風靡したガンズ&ローゼズの大ヒット曲である“welcome to jungle”だ。何度、喉のポリープ手術を受けたか知れない、アクセル・ローズのヴォーカルは、バブルに沸くアメリカや日本の経済をお祭り騒ぎにして盛り上げる一躍を担ったものだ。犯人のイメージもこれまでとは打って変わり、精神的に疾患のある30代の男性が、猟奇的に殺人を重ねてゆくという設定になっている。過去にストーカー行為で法的にも罰せられた前歴のある持ち主という、メンタル面に異常のある犯人キャラは、この「ダーティハリー5」以降、続々とサスペンスモノの要として取り入れられてゆくことになる。無論、過去にはヒッチコック監督の「サイコ」などがあるが、90年代以降は「羊たちの沈黙」や「氷の微笑」などで、サイコ・サスペンスが全盛期を迎えるのだ。サンフランシスコ市警の殺人課に勤めるハリー・キャラハンの新しい相棒に、中国系のクワンが選ばれた。ハリーは上司らの浅はかな考えにうんざりしていたが、クワンを連れてさっそく事件現場に駆けつける。殺されたのはB級ホラー映画に出演中の、ヘヴィ・メタル・バンドの歌手だった。そこへテレビ・レポーターのサマンサが逸早くやって来て、ハリーや被害者の恋人などにマイクを向ける。だがマスコミ嫌いのハリーは不愉快極まりなく、テレビ・クルーのカメラを投げ飛ばしてしまうのだった。前作に比べるとよけいに感じるのだが、「ダーティハリー」としてはずいぶんライトなストーリー展開になった。それもこれも80年代後半という時代のなせる業なのであろうか。驚いたのは、あのリーアム・ニーソンが出演しているではないか。B級ホラー映画監督の、ピーター・スワンというチョイ役での出演だが、なかなかどうして存在感のある演技を見せてくれている。(意識してそんなふうに見てしまったかもしれないが)クリント・イーストウッドも、衰えることのない役者魂とも呼ぶべきか、スレンダーな体型と鮮やかな身のこなし。マグナム銃を手にした時の、最もスマートに見える立ち居振る舞いも健在。一分の狂いもない。「ダーティハリー」シリーズ最後の締めくくりとしても申し分のない、アクション映画であった。1988年公開【監督】バディ・ヴァン・ホーン【出演】クリント・イーストウッド、パトリシア・クラークソンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.05.08
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【新田次郎/武田信玄 風の巻】◆卑劣極まりない父の所業に、息子晴信が決断するNHK大河ドラマで『武田信玄』が放送されたのは、もう30年ぐらい昔のことである。信玄役として中井貴一が抜擢されたことで、世間の大河ファンから賛否両論が巻き起こったのだった。「中井貴一が信玄役を演じるには、ちょっと線が細すぎる」というような意見が多かったように思える。(亡き母が週刊誌を熟読していた関係で、そのような話題にはいつも事欠かなかった。)結局、今となってみれば、優秀な演出家による指導と、中井貴一ご本人による努力によって、気品のある武田信玄として何ら問題のない仕上がりだったように思えるが。 さてこの『武田信玄』は、新田次郎によるものである。新田次郎と言えば、『八甲田山』などの山岳小説を多々発表している作家として有名だ。そんな中、なぜ歴史上の人物を中心とした小説を書こうと思ったのであろうか?それはどうやら、著者の出生地が長野県諏訪であることに関係しているようだ。「先祖は代々諏訪家に仕えていた郷士である」とあとがきにあるが、その諏訪家というのは、なんと武田信玄によって亡ぼされている。おそらく、そういうことに因縁めいたものを感じ、信玄についてもっと詳細を知りたいと思うようになったのかもしれない。そして「調べ回るのはたいへん楽しかった」と語っていて、著者のこれまでにない有意義なライフワークとなったことがうかがえる。 そんな『武田信玄』~風の巻~のあらすじはこうだ。甲斐の国をおさめていた武田信虎は、長男の晴信(後の信玄)を憎み、次男の信繁を盲愛していた。最近の信虎の行為は、いよいよ常軌を逸しており、すでに元服して3年にもなる晴信を軍議にも参加させず、ことあるたびに「臆病者め」と口汚く罵った。ある時、晴信が家臣らとともに馬を走らせていると、土下座した郷民が死を覚悟して直訴して来た。内容は、父・信虎の所業についてだった。郷民が言うには、信虎はこともあろうに、村の妊婦を捕まえて腹を裂き、胎児をあらためたりするとのこと。初めて父の卑劣な行為を聞かされた晴信は、驚きのあまり返す言葉もなく、躑躅が崎の館に帰るのだった。その後、側近である板垣信方の画策により、晴信はいよいよ父を甲斐の国から追放することにする。信虎は駿河の今川義元の領地へ、引き渡されることとなった。 風の巻では、晴信の父・信虎を今川家へ追放する場面、そして諏訪家を亡ぼすくだりまでが山場となっている。後に織田信長が比叡山を焼き討ちする行為も革命的なことながら、この武田信玄が諏訪家を手にかけるというのもスゴイことなのだ。というのも、諏訪頼重を筆頭とする諏訪は、神氏の出と言われ、単なる武家とは一線を画し、格式の高い地位にあった。そこに攻め入るというのは、当時としてはよほどの自信と尊厳と執着がなければ、成し得なかったに違いない。 一方、『甲陽軍鑑』に登場する軍師・山本勘助は、著者が調べたところ、実在の人物ではあるものの、「軍師ではなかったことは確実と見てよいだろう」とのこと。しかし、だからと言って山本勘助の名を無視した史実中心にしてしまうと、何とも味気ない歴史小説になってしまう。そこで勘助を軍師ではなく軍使として、つまり平たく言ってしまうとCIAのようなスパイとして登場させている。これが見事に成功しており、作品を盛り上げるのに一役かっている。 私は思うのだが、新田次郎は、実はこういう小説を書きたかったのではなかろうか?嬉々としてペンを運ぶ著者の姿が、目に浮かぶような情熱と活気にあふれた一冊であった。 『武田信玄』~風の巻~ 新田次郎・著 [吉川英治文学賞受賞作品]☆次回(読書案内No.133)は新田次郎の「武田信玄 林の巻(第二巻)」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.07.05
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ほとけには桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば 西行
2014.04.14
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【レディ・ジョーカー/高村薫】◆この社会に、本当の平等は存在するのか?長編にもかかわらず、一気呵成に読了した。この圧倒的な描写力はお見事!著者の高村薫を、ポスト山崎豊子とでも言ってしまって良いだろうか?(いや、まずいだろうな)複雑に絡み合う人物の背景を、最終的には「ああ、なるほど」と万人を納得させてしまうテクニックには脱帽だ。登場する個々のキャラクターそれぞれが、どうしようもない孤独の闇を抱え、持て余しながらも、その上さらに社会という荒波に揉まれていくのだ。この作品は、30年ぐらい前に日本社会を騒然とさせたグリコ・森永事件をモチーフとして描いている。ここでは製菓会社の代わりにビール会社がターゲットとなっているのだが、この企業テロをめぐる裏取引やら警察、公安、ジャーナリズムの世界が、おもしろいように現実味を帯びていて息を呑む。女流の社会派作家と言えば、やはり山崎豊子が白眉だと思う。だがミステリー作家と違うので、エンターテインメント性にはやや欠ける。比較の対象としては、むしろ宮部みゆきあたりになるのだろうが、こちらはどちらかと言えばのど越しスッキリ、ライトな感覚の作風で、高村の人間存在の意義や意味を問うた作風の前には撃沈かもしれない。事件の発端となったのは、岡村清二という東北大学理学部出身の、日之出ビール社員が解雇されたことに始まる。岡村清二が労組運動に関わったとするのが原因だった。晩年は痴呆を患い、郊外の老人ホームでひっそりと亡くなるという設定なのだが、この人物一人を取っても、人生って一体何なのか? という命題を突きつけられるストーリー展開となっている。被差別部落問題も扱っているので、いいかげんな気持ちで字面だけを追うなんてことは、一切できない。さて、ここまで書いてみると、『レディ・ジョーカー』がいかに優れた長編小説であるか、お分かりになっていただけたのではと思う。だからこそあえて釘を刺しておきたい点が一つだけある。それは、登場人物に同性愛的傾向のある男性二人が出て来るということだ。しかも主要人物。男でありながら女の心を持っているとか、女装趣味があるとか、そういうのとはワケが違う。しっかりとした男であり、男として男を愛しているようだ。(たぶん)性的マイノリティーについては、非常にデリケートな部分なので、多くは語れないが、この小説ではそこらへんが何かしら異質な雰囲気を漂わせている。平等主義・思想にこだわる著者の意図的な工作だったとしても、若干のムリを感じさせるものがあった。私は1997年に単行本化されたものを読んだのだが、その後、文庫化されるにあたり、かなり改稿されたようだ。このあたりの描写が一体どんなふうに変更されたのか、興味津々ではあるけれど、硬派なはずの社会派サスペンスが最後に来て「あれれ?」という感触は否めない。もちろん、こういう世界観もひっくるめて人間存在の深淵を追求するのだという意見もあるだろう。だがしかし・・・。高村作品に女性読者の多い理由が分かるような気がする。いずれにしても、圧倒的なリアリティで完成度の高い社会派長編小説だ。『レディ・ジョーカー』高村薫・著※今週は読書週間とのこと。日ごろ、その気はあってもなかなか本を手に取ることが出来ないあなたも、ぜひ最初の一ページだけでも。その最初の一ページが、読書の始まりなのです。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.03
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第一回 田舎の素朴な僧侶である父は「金閣ほど美しいものはこの世にない」と私に教えた。リアルな金閣を知らない私にとっては、父の語る金閣こそが最高のものであった。 近くに適当な中学校がなかった私は親元を離れ、叔父の家に預けられた。そこから東舞鶴中学校(現・京都府立東舞鶴高校)へ通った。私は体も弱く、吃りがあり、さらにはお寺の子だと言うので毎度イジメを受けた。 近所に有為子と言う美しい娘がいた。女学校を出たばかりで舞鶴海軍病院の特志看護婦である。私は度々有為子の体を思ってそれに触れるときの指の熱さ、弾力、匂いを思った。 ある晩、その空想に耽ってろくに眠ることのできなかった私は外へ出た。そして、とある欅の木陰に身を隠す。有為子がここを自転車で通勤するのを知っていたからだ。 私は有為子の自転車の前へ走り出た。自転車は急停車をした。 言葉こそがこの場を救うただ一つの方法であるのに、私の口からは言葉が出ない。「何よ、へんな真似をして。吃りのくせに」 有為子は石を避けるように私を避けて迂回した。その晩、有為子の告口で私は叔父から酷く叱責された。私は有為子を呪い、その死を願うようになり、数ヶ月後にはこの呪いが成就した。 と言うのも有為子は憲兵に捕まったのである。海軍病院で親しくなった脱走兵と男女の間柄となり、妊娠し、病院を追い出されたのだ。 その脱走兵の隠れ家を吐かせるため、憲兵らは有為子に詰め寄った。微動だにせず押し黙っている彼女は拒否に溢れた顔をしていたが、突然変わった。有為子は鹿原の金剛院を指差したのだ。憲兵は有為をおとりに脱走兵を捕まえようとした。有為子は御堂に潜む男に何かを語りかけた。男はそれを合図に手にしていた拳銃を撃った。有為子の背中へ何発か撃ち、今度は自身のこめかみに当てて発射したのである。有為子は憲兵らの詰問に負け、男を裏切ったかに思われたが、結局は一人の男のための女に身を落としてしまったに過ぎない。 父の死後、その遺言通り私は金閣寺の徒弟になった。「金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ」と私は呟いた。日に何度となく金閣を眺めにゆき、朋輩の徒弟たちから笑われるほどだった。 私は東舞鶴中学校を中退して、臨済学院中学へ転校したのだが、そこで鶴川と言う少年と出会う。鶴川の家は東京近郊の裕福な寺で、ただ徒弟の修業を味わわせるために金閣寺に預けられていた。東京の言葉を話す鶴川はすでに私を怖気づかせ、私の口は言葉を失った。ところが鶴川は初めて会ってから今まで一度も私の吃りをからかおうとしない。「なんで」と私は詰問した。私は同情より、嘲笑や侮蔑の方がずっと気に入っている。鶴川は「そんなことはちっとも気にならない」と答えた。私は驚いた。この種の優しさを知らなかったからだ。それまでの私と言えば、吃りであることを無視されたら、すなわち私と言う存在を抹殺されることだと信じ込んでいた。 終戦までの一年間は、私が金閣の美に溺れた時期である。私を焼き滅ぼす火は金閣をも焼き滅ぼすだろうと言う考えは、私を酔わせた。昭和19年11月に東京でB29の爆撃があった時、京都も空襲を受けるかと思われた。だが、待てども待てども京都の上には澄んだ空が広がるだけであった。 父の一周忌、母は父の位牌を持って上洛した。父の旧友である田山道詮和尚に、ほんの数分でも読経を上げてもらおうと考えたのだ。「ありがたいこっちゃな」 まともにお布施の用意もままならない母は、ただ和尚のお情けにすがったに過ぎない。母が言うには寺の権利は人に譲り、田畑も処分し、父の療養費の借金を完済したと。今後自身は伯父の家へ身を寄せるべくすでに話をつけてあるとのこと。 私の帰るべき寺はなくなった! 私の顔に、解放感が浮かんだ。「ええか。もうお前の寺はないのやぜ。先はもう、ここの金閣寺の住職様になるほかないのやぜ」 私は動転して母の顔を見返した。しかし怖ろしくて正視できなかった。 戦争が終わった。敗戦の衝撃、民族的悲哀などと言うものから、金閣は超絶していた。とうとう空襲に焼かれなかったのである。「金閣と私との関係は絶たれたんだ」と私は考えた。敗戦は絶望の体験に他ならなかった。私には金もなく、自由もなく、解放もなかった。せいぜい老師に巧く取り入って、いつか金閣を手に入れよう、老師を毒殺してそのあとに私が居座ってやろうといった他愛もない夢ぐらいしかなかった。 日曜の朝、私は泥酔した米兵の案内を頼まれた。私は鶴川より英語はよくできたし、不思議なことに英語となると吃らなかったからだ。米兵は女をつれていた。女は外人兵相手の娼婦で、酷く酔っていた。私は型通りに金閣を案内した。そのうち男女の間に口論が起こった。激しいやりとりだったが私には一語も聴き取れなかった。女は米兵の頬を思い切り平手打ちにした。駆け出した女に米兵はすぐに追いつくと、女の胸ぐらを掴み、突き倒した。女は雪の上に仰向けに倒れた。「踏め。踏むんだ」 米兵が英語で言った。私は何のことかすぐには理解できないでいたが、やがて命じられるがまま、春泥のような柔らかな女の腹を踏んだ。女は目を瞑って呻いていた。「もっと踏むんだ。もっとだ」 私は踏んだ。私の肉体は興奮していた。米兵は「サンキュー」と言って私にチップをくれようとしたが、私は断り、代わりにタバコを2カートン受け取った。私は命ぜられ、強いられてやったに過ぎない。もし反抗したらどんな目に遭っていたかしれないのである。その後、私はタバコ好きの老師に2カートンのチェスターフィールドを差し出した。老師はこの贈り物の意味を何も知らずに受け取った。「お前をな大谷大学へやろうと思ってる」 退がろうとする私を引き止めて老師が言った。 後でそのことを知った鶴川は、私の肩を叩いて喜んでくれた。(彼は家の費用で大谷大学へ行かしてもらうことになっている。) しかしこの進学については一波乱ある。大谷大学の予科へ入った時だ。皆の態度が常と異なるものを感じた私は、渋る鶴川に詰問した。するとこうだ。大谷大学進学の許しが出て一週間後、例の外人兵向の娼婦が寺を訪れたと言う。住職と面会した女は、私が女の腹を踏みにじったくだりを具に話し、あげく流産したとのこと。幾ばくかの金をくれなければ鹿苑寺を訴えると言ったのだと。鶴川は涙ぐんで私の手を取り、「本当に君はそんなことをやったのか?」と聞いた。私は公然とこの友に嘘をつく快楽を知った。「何もせえへんで」 鶴川の正義感は高じて私のために老師に釈明してやるとまで息巻いた。だが私はこれを止めた。老師はすでに見抜いていたかもしれない。私の自発的な懺悔を待ち、大学進学の餌を与え、それと私の懺悔を引き換えにしたのかもしれない。すべてを老師が不問に附したことは、かえって私のこの推測を裏書きしている。 こんな経緯がありながら、結局、私は大谷大学へ進んだ。鶴川には新しい友が増える一方で、吃りの私はいまだ独りだった。私以外にも皆から一人離れる厭人的な学生がいた。柏木と言う男で、両足が内飜足であった。入学当初から彼の不具が私を安心させた。私は思い切って柏木に吃り吃り話しかけた。講義で分からないところを教えてもらおうと思ったのだ。「君が俺に何故話しかけてくるか、ちゃんとわかっているんだぞ」 柏木は二の句を継げずにいる私に向かって「吃れ!吃れ!」と面白そうに言う。「君はやっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」 私は頷いた。すると柏木は不具の自分がどうやって童貞を脱却したかを話し出した。 柏木は自分の村に住む老いた寡婦に目をつけた。臨済宗の禅寺の息子である柏木は父親の代理でその老婆のところへ経をあげに行った。読経が済んで茶をご馳走になった時、折しも夏、水浴びをさせてもらいたいと頼んだ。柏木の心には企みが浮かんだのだ。水浴びを済ませて体を拭いている際、それらしいことを語り始めた。「俺が生まれた時、母の夢に仏が現じて、この子が成人した暁、この子の足を心から拝んだ女は極楽往生すると言うお告げがあった」 信心深い寡婦は数珠を手に柏木の目を見つめて聴いていたのだ。柏木は裸のまま仰向けに横たわり、目を閉じ、口だけは経を唱えていた。笑いをこらえながら。 老婆は経を唱えながら柏木の足をしきりに拝んでいる。この醜悪な礼拝の最中に、柏木は興奮し、起き上がり、老婆をいきなり突き倒した。それが柏木の童貞を破った顛末だった。私は柏木についてもっと知りたいと思った。初めて午後の講義を怠けたのである。 その後、私は柏木が言う「内飜足の男を好きになる女」と言うものを知った。世の中にはそう言う趣味のある女がいて、柏木にはそれがカンで分かるのだそうだ。実際、柏木は自分の不具を利用し、女に一芝居打って自身に惚れさせるという現場を、私は目の当たりにした。 鶴川はそんな私と柏木との付き合いを快く思っていなかった。友情に充ちた忠告をして来た鶴川を拒絶したことで、彼の目に悲しみの色が浮かんだ。 5月、柏木と私は平日に学校を休み、嵐山へ出かけた。彼は令嬢を伴い、私のためには下宿の娘を連れて来た。二人とも柏木と体の関係のある女だが。 途中、男女ペアに分かれた。もちろん私の方には「下宿の娘」がついて来た。私たちは花陰に腰をおろし、長い接吻をした。ずいぶん夢見ていたはずのものでありながら、現実感は稀薄だった。その時、私の前に金閣が現れた。金閣自らが化身して私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思った。 そんな惨めな遊山の後、老師宛に訃報が届いた。鶴川が事故で死んだのだ。柏木と付き合うようになり疎遠になっていた私だが、失って分かるのは私と明るい世界とを繋ぐ一縷の糸が、その死によって絶たれてしまったことである。私は泣いた。そして孤独になった。私は鶴川の喪に一年近くも服していた。孤独には慣れていて努力は不要だった。生への焦燥もなく死んだ毎日は快かった。 私は金閣の傍らに咲くカキツバタを2、3本盗んだ。それは柏木から貰った尺八の礼であった。金のかかる礼はいらないが、せっかくだからと柏木が私に小さな盗みを示唆したのである。柏木はカキツバタを器用に活けた。どこで習ったのかを聞くと、「近所の生花の女師匠だ」と言う。柏木と女師匠は付き合っているのだが、自分はもう飽きたから私にくれてやると言うのだ。しかし私にはその女師匠については過去の記憶があった。3年前、鶴川と二人で南禅寺を散策していた時のことである。天授庵の一室で女と若い陸軍士官が対坐していた。女は男の前に茶を勧めた。ややあって女は乳房の片方を取り出し、男は茶碗を捧げ持った。女はその茶の中へ乳を搾ったのである。私はその女の面影に有為子を見たのだ。その女こそ柏木から捨てられる予定の女師匠なのだ。 さて、女はやって来て、柏木から「もう、あんたに教わることは何もない。もう用はない」と、こっぴどく捨てられた。女は錯乱し、柏木から平手打ちをくらい、部屋を駆け出して行った。「さぁ、追っかけて行くんだ」と子どもっぽい微笑を浮かべた柏木に押され、私は女を追った。 女の愚痴を聞いただけで大した慰めもしたわけではないが、女は帯を解いた。私の前に乳房を露わにしたのである。だがそれは私にとって肉そのものであり、一個の物質に過ぎなかった。するとそこにまた金閣が出現した。と言うよりは乳房が金閣に変貌したのである。私は女と関係することなく寺へ帰った。金閣は頼みもしないのに私を護ろうとする。何故か私を人生から隔てようとするのだった。 昭和24年正月、私は映画を見た帰りに新京極を歩いた。その雑沓の中で見知った顔に行き当たった。明らかに芸妓と分かる女と歩いていたのは、他ならぬ老師であった。私にはやましいことはなかったが、老師のおしのびの目撃者となることを避けたかった。たまたま雑沓に紛れて歩く野良犬に気付いた私は、その犬に導かれるように歩いた。 こうして私は暗い電車通りの歩道へ出た。すると目の前に一台のハイヤーが止まった。思わずその方を見ると、女に続いて乗ろうとしている男に気付いた。老師であった。老師はそこに立ちすくんだ。私は動転した。吃りのせいもあって言葉が出ない。すると私は自分でも思いがけず、老師に向かって笑いかけてしまったのである。老師は顔色を変えた。「バカ者! わしをつける気か」老師は、私が嘲笑ったのだと誤解した。 翌日、私は老師からの呼び出しを待った。だが、娼婦の腹を踏んだあの事件のときと同様に、老師の無言による拷問が始まったのだ。 その年の11月、私は突然出奔した。直接の動機は、その前日、老師から「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持がないことを言うて置く」と明言されたことによる。私はその時、自分の周りにあるすべてのものから暫くでも遠ざかりたいと思った。柏木に三千円の借金を申し込んだ。「何に使う金なんだ」「どこかへ、ぶらっと旅に出たいんだ」「何から逃れたいんだ」「自分のまわりのものすべてから逃げ出したい」「金閣からもか」「そうだよ。金閣からもだ」 敦賀行きは京都駅を午前6時55分に発つ。あまり混んでいない三等の客車で、私は死者たちを追憶していた。有為子、父、そして鶴川の思い出は私の中に優しさを呼びさました。 舞鶴湾。それは正しく裏日本の海。私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉。醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。突然、私に想念が浮かんだ。「金閣を焼かねばならぬ」 明治30年代に国宝に指定された金閣を焼けば、それは取り返しのつかない破滅である。一見、金閣は不滅と思われがちだが、実は消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう、と思った。 その後、三日に渡る出奔は打ち切られた。一歩も宿から出ない私を怪しみ、通報されたのである。私は警官の尋問に答え、学生証も見せ、宿料も支払った。私は私服警官に送られ、鹿苑寺まで帰ることとなった。 それから私が悩まされたのは、柏木からの再三の督促であった。利子を加えた額を提示し、私を口汚なく責め立てた。だが私は黙っていた。世界の破局を前にして借金を返す必要があるのだろうかと思ったからだ。しびれを切らした柏木は、結局、老師に告口をしたのである。 老師から呼び出された私は、「もう寺には置かれんから」と言われた。代わりに柏木には利子を差し引かれた元金のみが老師によって返済された。 柏木は郷里へ帰る前日、鶴川からの4、5通の手紙を見せてよこした。鶴川は私の知らないところで柏木と親しくしていたのだ。彼は私には一通も寄越さなかったが、柏木には書き送っていた。私と柏木との交遊を非難しながら、自分は死の直前まで密な付き合いをしていたのである。手紙を読み進むにつれて私は泣いた。鶴川は、親の許さぬ相手との不幸な世間知らずの恋に苦悩していたのだ。私は泣きながら、それに呆れてしまった。鶴川の死は事故などではなく、自殺だったのである。私は怒りに吃りながら「君は返事を書いたんだろうな」と聞いた。「死ぬなと書いた。それだけだ」 私は黙った。 柏木とのことがあって五日後、私は老師から授業料等550円を手渡された。まさかその金をくれるとは思いもしなかったのだが。 私はその金を持って北新地へ出かけた。金閣を焼こうとしていることは死の準備にも似ていた。自殺を決意した童貞の男が廓へ行くように、私も決行の前に廓へ行った。 その日が来た。昭和25年7月1日である。私は最後の別れを告げるつもりで金閣の方を眺めた。 私は火をつけた。火はこまやかに四方へ伝わった。渦巻いている煙とおびただしい火の粉が飛んでいるのを見た。事前に用意していた(ポケットの中の)カルモチンや短刀のことを忘れていて、突発的にこの火に包まれて死んでしまおうと思った。だが死場所と考えた三階の究竟頂の扉が開かない。鍵が堅固にかかっていたのだ。私は拒まれているという意識が起こった。身を翻して駆けた。左大文字山の頂まで来ていた。ここから金閣の形は見えないが、爆竹のような音が響くとともに空には金砂子を撒いたような光景が見えた。私は短刀とカルモチンの瓶を谷底めがけて投げ捨て、一服した。生きようと思った。(了)
2021.02.23
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【宮本輝/焚火の終わり(上・下)】『焚火の終わり 上・下巻』宮本輝・著※ご参考まで宮本輝著『錦繍』はこちらから(^^)/★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2017.10.01
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【山の音/川端康成】◆戦後日本の中流家庭を描く川端康成という作家は稀にみるナショナリストで、こよなく日本を愛する文豪だ。ノーベル文学賞受賞作である『雪国』も、東北のひなびた温泉宿における芸者との淡い恋心を描いたものだし、『伊豆の踊子』も伊豆で出会った旅芸人の踊子に、苦悩を抱える旧制高校の男子が癒されていく話だ。この『山の音』でさえ、日本の「家」を舞台にした二世帯同居家族と、出戻りの娘に翻弄させられる父の姿があったりする。戦後、お茶の間を賑わせたホームドラマとは全く趣が違い、主人公の息子の嫁に対するほのかな恋心や、息子が浮気をしていることへの怒りなどを盛り込みながらも、老いへの恐れ、若さへの憧憬、生きることへの疲労感など、実に文学性の高い作品に仕上げられている。「家」という日本独特の家族のあり方から生じる苦悩は、おそらく西欧社会にはなかなか受け入れられにくいデリケートな問題なのではなかろうか?そんな中、川端康成は果敢に「日本」を描いていこうとする姿勢が窺える。それは孤高でさえあり、他の作家を寄せ付けない品格に溢れている。さて『山の音』だが、この小説はあまりにも有名で、様々な文芸評論家から高い評価を得ている。私自身、川端作品の中でこの小説が一番好きかもしれない。とりわけグッと来るのは、主人公が、息子の浮気に耐え忍ぶ健気な嫁に声をかけるところだ。「菊子は修一に別れたら、お茶の師匠にでもなろうかなんて、今日、友だちに会って考えたんだろう?」慈童の菊子はうなずいた。「別れても、お父さまのところにいて、お茶でもしてゆきたいと思いますわ」長年連れ添った古女房なんかより、長男の嫁の方が若いし綺麗だし、何より意地らしい。息子の浮気が原因で離婚してしまったら、そんな恋しい嫁とも別れて暮らすことになってしまうのかと思うと、内心、平常ではいられない。このあたりの心理描写は、さすが川端だ。嫁との関係はあくまでも潔癖なものだが、ほのかに漂う恋の調べが、耳もとで聴こえて来そうな気配なのだ。また、主人公の夢の中で、顔のない女を犯しかけるくだりは、一気に読ませる。本当なら嫁の菊子を愛したいのに、夢でさえ良心の呵責をごまかすため、顔のない女の乳房を触るのだから。『山の音』に関しては、皆が口を揃えて傑作と評価している。もちろん私も異論はない。 平成の世となった昨今、これほどの最高峰を登り詰める作家がどうも見当たらない。ぜひとも、何とかして、ポスト川端康成が登場してはくれまいか? 平成の川端を待ち望んでやまない、今日このごろなのだ。『山の音』川端康成・著~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.07
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「わしもおぬしも侍に生まれた。理由などわからぬ・・・いや要らぬ! その運命に従うまで」「おぬしが我らの仲間であらば・・・いや、せめて明石の家臣でなければどれほど事の成就がたやすいことか」「言うな! やせても枯れても、この鬼頭半兵衛は侍。むざむざ主君の首を差し出すと思うてか!? 新左、行きたければわしを殺して行け」本作は、海外での上映を意識してのことだろうか、セリフに“サムライ”という言葉が頻繁に使われている。サムライとはどうだこうだとか、自分はサムライであるからうんぬんとか・・・、とにかく四の五の言う。セリフも実にストレートだ。監督の意向なのか、それとも脚本家のポリシーなのか不明だが、言葉に奥行が感じられない。演技派が揃ったのだから、あまりセリフに頼らない方が重厚な武士道精神を垣間見せることに成功したのではなかろうか。メガホンを取ったのは三池崇史監督で、代表作に「着信アリ」や「クローズZERO」シリーズなどがある。ホラーにも定評があるが、何と言ってもバイオレンスを得意とするような作風が感じられる。江戸時代が間もなく終えんを迎えようとしている頃、一大事が発生。明石藩江戸家老・間宮図書が、老中・土井家門前で切腹して果てた。間宮の行為は、狂信的な残虐性を帯びた藩主・松平斉韶の横暴を諫めるための自害であった。当の明石藩主・松平斉韶の傍若無人と言ったらこの上もなく、その残虐さゆえ、尾張藩の木曽上松御陣屋詰の牧野の嫡男とその嫁を陵辱した上、殺害。さらには言われなき百姓の娘の両腕両足を切断し、その舌まで切り落とすという非道を犯したのであった。先行きを憂いた老中・土井は、信頼の置ける配下である御目付役・島田新左衛門に、ある密命を下したのだ。本作「十三人の刺客」で目を見張ったのは、両腕両足を切断された娘の役を演じた茂手木桜子という役者さんだ。ほんのチョイ役だが、このようなあられもない役柄を演じるのに、全身全霊を注いでいるのがひしひしと伝わって来た。素っ裸で、ヨダレを垂らし、血の涙さえ浮かべた表情は、実に見事だった。主人公・島田新左衛門に扮したのは、ベテラン俳優である役所広司だ。演技そのものに問題はなく、むしろ素晴らしい演出だったと思う。が、しかし一部気になるセリフがあった。松平斉韶の首がそれほどまでに欲しいかと問われた時、間髪入れずに「欲しい!」と答えたそのセリフ。いかがなものなのだろうか。ある意味、モダンな時代劇と言えるかもしれない。抽象さを排除し、明瞭にして分かり易いストーリー展開。“新しい”というのは、実はこういう映画のことなのかもしれない。邦画好きには必見の作品だ。2010年(日)、2011年(英)公開【監督】三池崇史【出演】役所広司、市村正親、稲垣吾郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.10
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