全9件 (9件中 1-9件目)
1
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/安政諸流試合)9】『桂には冗談が通らない。これほどの才人でありながら、あたまの構造が物の理を究めるほうにばかりするどくて、理外の世界のおかしみがわからなかった。』桂小五郎と竜馬の珍問答。こなた竜馬はおかしみが大きな魅力で作者はそれを「愛嬌」と称す。かなた桂は理には聡いが「おかしみがわからなかった」ようで、どうやら野暮をこえていたようだ。だから竜馬の瑣末な話に珍問答となるのは当然であり、逆に桂が人生の意義など説いたなら竜馬は大閉口したに違いない。さて、この「おかしみ」は人の度量でもある。『「天下に有志は多く自分はたいていこれと交わっているが、度量の闊大なること、竜馬ほどの者はいまだ見たことがない。竜馬の度量の大きさは測り知れぬ」西郷がそういうのだから、やはり竜馬はえたいの知れぬ顔をしていたにちがいない。』司馬さんは西郷を引いて竜馬を『えたいの知れぬ顔』と称しているが、それこそまさに竜馬の「おかしみ」から発していると思っていいのではないか。ときに話はそれるが、ここで注目してもらいたいのは『西郷がそういうのだから』のひと言である。数多の資料を出すでもなく、また決定的な一冊を示すわけでもなく、ただひと言『西郷がそういうのだから』というのだ。これはシビレる!司馬さんの西郷へのただならぬ想いが読んでとれるのだ。おそらく、中村半次郎が西郷隆盛を愛したように、司馬さんも西郷を慕い想ったのではないだろうか。歴史上の重鎮を、原稿というまな板にのせ絶品料理に仕上げた司馬さんをしても、西郷だけは『会ってみなければわらない』と言わしめた所以はここにあると思うのだ。そして西郷もまた「おかしみ」を持ち合わせた人である。『極度に大人な部分と、幼児のようなあどけなさが一つの人格に同居している』(三都往来)西郷の「おかしみ」の源はここにあると思う。さて、次は一服の清涼剤のようだ。『ふわふわとした風の吹きとおるようなたあいもない微笑で顔を崩しながら「坂本です。」』(江戸の夕映え)そう自己紹介する竜馬である。相手は千葉重太郎の妻 八寸。それにしても『風の吹きとおるような』竜馬の笑顔を想像すると、堆積した暑気をにわかに払い去ってもらったような気分になる。誠に涼やかな風だ。司馬さんの茶目っ気もゆったりとして、何とも爽やかだ。『これァ、いかん。わしがほれそうな婦人じゃよ』人妻の、しかも大恩人の妻に抱いた竜馬の感情である。もちろんその場限りだが、前後から、竜馬が剣の修行に打ち込むことによって(みだらな?)感情を鎮めたことを推察するに難くはない。余談であるがこれは竜馬が初めてナニを体験した後のことだ。司馬さんの構成や見事。茶目っ気がオツな按配である。こういう緩急により、長編をも一気呵成に読ませてしまうという訳なのである。
2013.08.07
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/淫蕩)8】『おれはずぼら者で仕様のない男だが、一番肝腎なたった一つの事だけは痩せようが枯れようが我慢する修行を心掛けてきた。それがなければおれは骨なしのくらげのような男で、たれにも相手にされなくなるばかりか、一番こわいことは、自分が自分に愛想をつかすようになる。おれはもともとそんな危険性のある男だ。』龍馬、初体験の寸前である。しかし『我慢』の一手を持ち、あえて事を避けるのだ。立派!!竜馬がこの年までどう生きてきたのかを、この一文(行間)をもって想像できる。行間を読ませる小説家としては、司馬さんは古今随一といっても過言ではなかろう。ときに竜馬のお相手は冴という創作上の女性。このありふれた「軽い」状況を設定したおかげで、竜馬の『我慢する修行』という、人生におけるいわば「重い」体験を、読者は納得できるのではないか。司馬さんの描いた『海底』は実に鮮やかだ。だから海に浮かぶ船や点在する島々も明確になるというわけだ。それにしても竜馬や見事なり。内観と自己分析で己の内面を鍛えた竜馬は、まず自分自身をとことん理解している。だから自分の立ち居地を判断でき、今、自分が何をすべきかが見えているのだ。言うは易いが実践するのは難い事だ。そして何より竜馬が見事なのは、いまだ日々鍛錬を怠らないこと。竜馬の天才や英雄は、そうやってどんどん精度を増したわけなのだ。月並みではあるが、努力あり、それに尽きるのであろう。ところで努力は竜馬自信の賜物であるが、人を魅了してやまないその人格は、竜馬が父から賜ったものだ。父の八平はこういう人であった。『性格がおだやかで、竜馬に対しても大きな声で叱ったことがない。いつも座右に、春風が吹いているような父親であった。』(竜馬がゆく/江戸の夕映え)名文である。そして奥が深い。この一行を以って坂本竜馬を理解し得るに十分だ。読書の最中にある人も、読了した人も、再読三読の人もこの一行に接し、自ずと「なるほど」という言葉が出てくるはずだ。そしてストンと落ちるのだ。この後、竜馬は維新の立役者となり幕末を舞台に大活躍するわけだが、それを成し遂げた元の元はここにあるということだ。実に白眉の一行なのである。そして竜馬の人格を想わせる八平の言動については以下もある。『知らん者でもええ、若い者がきたらきっと上へあげて酒を飲ませてやりなさい。』(竜馬がゆく/寅の大変)竜馬が一時帰国した折の話である。当時は貴重であった江戸の話を聞くために土佐中から若者が集まってきた。八平は家人にそう命じて来客を歓待した。金があるとか無いとかそういう次元ではなく、つまり座右に春風が吹いている、そういうことなのだ。竜馬の最大の魅力は、その自由人であるところだと思うのだが、それは即ち何事にも心が居つくことがないということではないか。竜馬の心の中にはいつも八平ゆずりの春風が吹いていたのであろう。竜馬好きにとって八平は最も重要な脇役なのだが、かつて大河ドラマの「龍馬伝」では児玉清さんが八平を演じていた。児玉さんの他に八平役は考えられないほどの名演であった。
2013.07.23
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく)7】~龍馬になれなかった男たち~今回は『竜馬がゆく』のはじまりについて書いてみたい。司馬遼太郎ファンなら「週刊司馬遼太郎(週刊朝日MOOK)」はご存知であろう。実際は週刊ではないのだが、不定期で刊行されており現在9巻になる。各巻で司馬小説を扱ういわゆるムック本であるが、もちろん「竜馬がゆく」も取り上げられている。週刊司馬遼太郎七巻であげられた「竜馬がゆく」のテーマは『龍馬になれなかった男たち』である。何ともシビレるタイトルではないか!竜馬好きのツボを絶妙におさえるあたりは、編集者の非凡なる手練手管をおおいに感じるのだ。著名な作家が「名作は作家の力だけでは生まれない。そこに名編集者がいてはじめて名作が生まれるのである。」と書いていたがその通りであろう。司馬さんの場合は、名編集者和田宏氏あり、そういうことなのだ。不定期なムック本が9巻まで続いているのは、ひとえに編集者の力に他ならないと思う。『僕は学者じゃなく、小説家。この小説は僕の竜馬で、自由な竜馬を書くよ』司馬さんの中には「主人公に負けない、自由な若き竜馬さんがいた。」という。ではなぜ竜馬なのかと問われれば、『坂本竜馬をえらんだのは、日本史が所有している「青春」のなかで、世界のどの民族の前に出しても十分に共感をよぶに足る青春は、坂本竜馬のそれしかない、という気持ちでかいている。』そう司馬さんは答えた。「龍馬」でなく「竜馬」になった理由であり、つまり司馬さんの『僕の竜馬』なのだ。ではどうやって『僕の竜馬』を書いたのか。司馬さんは、高知から戻る飛行機の中で、眼下に広がる瀬戸内海の島々を見ながら語ったという。 『たとえば島の歴史や産業など、目に見えるものを丹念に調べていくのが歴史研究家の仕事だとすれば、私のような小説家の仕事は、島と島の間にありますね。いまは何も見えない海底を想像して書くことだと思います。』ひとつ加えさせていただければ、司馬氏のひと声で日本中の古本屋が資料をかき集めたそうだ。「竜馬がゆく」でも古書や参考文献など、それこそトラック一杯分の資料が集められた。「竜馬がゆく」はその上に書かれているというわけだ。つまり膨大な英知から成る『想像』というわけなのである。和田宏氏はそれをして司馬氏の「状況分析能力」という。ところで「竜馬がゆく」のきっかけは何かというとそれがケッサクなのだ。新聞記者の後輩であった渡辺司郎氏は高知の出身。新たな小説のテーマを考えていた司馬さんに『龍馬を書いてほしいのになあ』とつぶやいた。それこそが執筆のきっかけというのだ。こういうのを「妙」というのであろう。『竜馬がゆく』はこの妙からはじまったというわけだ。実に名作というものは、度重なる編集会議からはじまるものだけではないらしい。そして「妙」の起こりを思った。きっと司馬さんも渡辺司郎さんも和田宏さんも、龍馬になりたかったのだろうなあ。だからみんなの気が妙を起したのだろう。竜馬好きの多くも龍馬になりたかった。その気が『竜馬がゆく』を不朽の名作に仕立て上げたのだろう。誰も龍馬になれなかった。龍馬になれなかった男たちは『竜馬』に惜しみない愛を注ぐ。司馬さんの『僕の竜馬』は、我々には『僕たちの竜馬』なのだ。みんな竜馬が大好きなのだ。
2013.07.16
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/淫蕩)6】『桂小五郎に刺激され、何事か為さん、とはおもったが、かといって油紙に火がついたように景気よく走りまわれるようなたちには生まれついていない。「桂は桂、おれはおれだ。桂とちがってもともと晩稲(おくて)のおれはまだまだ学ぶことが一ぱいある。とりあえず剣術だ」と思った。「強くなろう」とも思った。自分を強くし、他人に負けない自分を作りあげてからでなければ、天下の大事は成せまい。』桂小五郎と面談した竜馬はおおいに触発されるが冷静だ。「竜馬語録」は後年だが、すでに竜馬の行動規範になっていたのかもしれない。いわく、・人に会ふとき、もし臆するならば、その相手が夫人とふざけるさまは如何ならんと思へ。・義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。・恥といふことを打ち捨てて世のことは成る可し。であり、青年竜馬の冷静かつ客観的な所以なのである。なお竜馬は語録を以って、『そのように自分を躾けている』(竜馬がゆく/近江路)とつねづね言ったという。そして語録の白眉はこれであろう。『われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ』まさにその通りの歴史であり、この言行一致に世の竜馬好きはシビレるのであるが、竜馬は輪をかけて、『世に生を得るは、事をなすにあり』と言ってのけるものだから、どうやっても竜馬から離れらなれないのだ(笑)話はそれるが、竜馬と西郷は何かと比較され、また人物論を交わすむきもあるが、「竜馬語録」をみただけで無理があることがわかる。司馬遼太郎氏は誠に言いえて妙なのだ。『西郷は竜馬とは別の場で計量されるべき人物』竜馬が上でも西郷が上でもない。真意は異なるが「両雄並び立たず」といったところであろう。さて、そこで竜馬を見抜いたのは千葉道場の千葉貞吉だ。「あの男、うわべだけの男ではないぞ。奥のさらにその奥に、シンと鎮まりかえっているもう一人のあの男がいる。」いみじくもそう喝破するのだ、サスガは剣豪。「もう一人のあの男」とは竜馬の冷静かつ客観的なところに他ならない。千葉貞吉は続ける。「あの男、ちかごろもう一段、別の境地に入ったようだ」「別の境地」とはそれに磨きがかかったことだ。いうなれば竜馬の次元が広がったということであろう。いまや竜馬の中のもう一人の竜馬は、自分を360度から見渡す事も可能というわけだ。孫子の兵法でいう「彼を知り己を知れば百戦殆からず」の深意は「己」である。「己」を知ることはそれほど難しいということなのだ。青年竜馬は、すでに己を知るところというわけだ。ますます活躍が楽しみな竜馬なのである。
2013.07.08
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/二十歳)5】桂小五郎は竜馬と初対面の折に、その話しぶりから竜馬の人物をはかった。『口から出る言葉の一つ一つが人の意表をつくのだが、そのくせ、どの言葉も詭弁のようにみえて浮華では決してない。人をわなにかける言葉ではないのである。自分の腹の中でちゃんと温もりのできた言葉だからで、その言葉一つ一つが確信の入った意味がある。黙って聞いていると、その言葉の群れが、小五郎の耳から心にこころよいすわりで一つ一つ座ってゆくのである。』『こういうのを人物というのかもしれない。おなじ内容の言葉をしゃべっても、その人物の口から出ると、まるで魅力がちがってしまうことがある。人物であるかないかは、そういうことが尺度なのだ。』竜馬の話しぶりはこうである。1.人の意表をつく言葉である。2.詭弁のようで浮華ではない言葉である。3.わなを感じさせない言葉である。4.腹の中で温もりをもった言葉である。5.確信の入った意味がある言葉である。6.心にここちよく座ってゆく言葉である。これをして桂は、『これはとほうもない大人物かもしれない』と思うのである。ときに、竜馬の雰囲気はこうであった。1.雄弁でない。2.体全体がしゃべっているような訥弁。3.ひどい土佐なまり。つまり、決して弁舌爽やかというわけではなかったのである。しかし桂は『同じ言葉でも他の者の口から出れば厭味にも胡乱臭げにもきこえる。ところがこの男の口から出ると、言葉の一つ一つがまるで毛皮のつややかな小動物でも一ぴき一ぴきとび出して来るようなふしぎな魅力がある。』と実感するのだ。桂は、会話そのものから人物を見たというより、会話を通して竜馬の人間性を見て、そこから人物を読んだということであろう。話がそれるのだが、仏教では「ことばがみごとであること」は大変尊ばれる。中村元先生は『立て板に水というようにしゃべりまくることではなくて、相手をおそれないで、思っていることが自由に口をついて出てくることである。』と解説されているが、竜馬のことばやみごと、である。もちろん竜馬が信心に篤いといっているわけではない。竜馬が後に鎮めの刀剣を抜いてしまうという顛末は承知している(笑)ところで、桂と同じ長州藩士 益田越中の竜馬評である。『大賢は愚に似たりと古語にもいうぞ。鋭さを面にあらわして歩いているような男は才物であっても第二流だ。第一流の人物というのは、少々、馬鹿に見える。少々どころか、凡人の眼からみれば大馬鹿の間ぬけにみえるときがある。そのくせ、接する者になにか強い印象をのこす。土佐ではお城下の町郷士の子ときいたが、ああいう人間の型は長州にはいない。』益田越中にとって竜馬は「気になる男」となった。そして『自分の生涯のなかで、もう一度会いそうな気が、しきりとする。』と思うのであった。『会いそうな気』とは「会いたい」と思う気持ちに他ならない。評するほうも評されるほうも人物なのだ。人の心に何かひとつ置いてくる、そして何かひとつ感じとる、そういうことだ。今日は参議院選挙の公示である。しばらくの間は演説を聞く機会が多くなるのだが、竜馬の視点で政治家の人物をはかるのも一興。ポイントは六つ。1.人の意表をつく言葉であるかどうか。2.詭弁のようで浮華ではない言葉であるかどうか。3.わなを感じさせない言葉であるかどうか。4.腹の中で温もりをもった言葉であるかどうか。5.確信の入った意味がある言葉であるかどうか。6.心にここちよく座ってゆく言葉であるかどうか。いやはや、高いハードルである。
2013.07.04
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/黒船来)4】『あたりまえです。わしは船がすきだから好きなものを見にゆくのに命をかけてもよい。』決死隊の覚悟をもって黒船見物に出かけようという竜馬、見つかれば即 切腹である。「ただ見物するだけで切腹をお賭けになるのでございますか」千葉さな子はたまらず竜馬に詰問する。それに答えたわけだ。好きなことは命を賭しても打ち込むのが竜馬流である。そして「好きなこと」は自分が「信じること」でもある。この先、竜馬は「信じること」に、文字通り命をかけることになり、いわばその暗示ともとれる。いずれにしても、竜馬好きはこのあたりに情緒を刺激され、どうにもたまらない気分にされるのだ。命をかけて好きなこと(信じること)をする。それを問われたら「あたりまえ」とただひとこと。多言は無用、そして間髪をおかず。この乙なあんばいに、竜馬好きは男気を感じてしびれるのである。余談であるが、亡くなった談志氏は五代目志ん生師に心酔していた。もっとも氏特有のテレで直接的ではなかったのだが。その談志氏はいう。「志ん生のアレが聞きたくて寄席ぇ通ったんだから。アレがたまらねぇんだよねぇ。」文字にするとあまりに陳腐だから「アレ」については書かないが、落語のマクラのほんのひと言である。とはいえ!ダンシガシンダ、ではなく、ダンシガシビレタ、じゃ洒落にはなりませんがね(笑)談志氏、溢れんばかりの情緒というわけだ。竜馬好きもまたしかり。話をもどして黒船。黒船来襲で各藩士は暫時藩邸待機となる。武市半平太は、まず時に備えて兵糧の餅を用意した。空腹の竜馬はそれを失敬するのだ。『竜馬は終生、餅はあくまで餅にすぎぬ、という考え方の持ちぬしだった。腹がへったときに食えばよい。』徹底した現実主義の竜馬に対し、半平太は理想主義。兵糧を『武士のたしなみでもあるし、精神(こころ)じゃ』と考える。この現実主義者と理想主義者はやがて己の道を進むわけである。その道の評価は別にして結末だけ見ると、理想主義だけでは虚しいという「歴史的事実」が残るのである。ただ、ここのくだりでは、竜馬は現実主義者ということだけではなく、理想主義も理解し受け入れている(本人も大いなる理想を持つ)という、行間も読まなければならない。さらに深読みして、現実主義とは苦しみや悩みや悲しみが伴うものであるという、実社会の紛れもない本質が存在するということを感じてほしいものだ。必要なものは理想と現実のバランスであり、竜馬はそのバランスに富んでいた、ということなのである。それにしても、餅をただ餅としての意味だけしか認めない(すなわち空腹を満たすもの)竜馬の感覚は、山頭火の金銭感覚に似ている(汗)情緒もそうであるが、これは達観とか身についたとかいうのではなく、その人のトーンとずば抜けた部分とでも言おうか、何か特殊な感覚である気がする。そして両者に共通するのは、周りにそれを理解し愛する人がいたということ。それがなければ、ただの変人になりかねないのだ。ところでこの章には作者 司馬遼太郎の、世間でいうところの「司馬史観」を見ることが出来るので、逸脱するが記す。『当時の日本人は、きわめてまれな例外をのぞいて、たれも海外知識をもっていない。むろん、三百年の鎖国という社会の環境がさせたことで、日本人の無智によるものではなかった。』この一文は「司馬史観」を考える大きなヒントであるのだが、まずもって、私は「司馬史観」とは即ち司馬さんの卓越した「人生観」であると考えるのだ。つまり、司馬さんが歴史から物事の本質を見抜き、その見識と知識によって人生で起こった問題を、徹底的に冷徹なまでに解決(検証)して説いたものこそが「司馬史観」であると思うのである。問題とは司馬さんが人生(現実)で感じた疑問や憤りや喜び等である。それを司馬さんが解明する。平たく言えば「経験論」ということだ。ただし、膨大で深甚な資料と豊富な体験に基づき、極めて客観的かつ中立な立場で語った、有史上類稀にみる「経験論」であると断言してさしつかえあるまい。上記の一文はこういうことだ。ここに綴られた歴史を考えるとき、それは学校社会で学んだ歴史的な見方なのだが、我々は「江戸時代に日本人は海外知識を持っていなかったのだ」と事象のみを見て、感想として「我が先祖はなんて無恥だったのであろう」と判断をしてしまうことがある。『三百年の鎖国という社会の環境』においては、智恵を認めず「野蛮で閉塞的」という感想に至ることであろう。「司馬史観」はこうである。歴史のひとつの事象は物事の枝葉末節にすぎず、それは偶発的な事柄に過ぎない。いわば晴れたか雨が降ったかと同じこと。肝心なことは、それがどうして起こったか、ということなのだ。つまり、なぜ海外を知らないのか、を考えるとき、鎖国がどうして起こったのか、ということなのである。当たり前のようなのだが、それこそが本質であり、そういう思考から遠いのが現状ではないか。また、それが昨今の「自虐的歴史観」の正体ではないであろうか。たとえば司馬作品の読者なら、熱いものがこみ上げた経験があるはずだ。それこそ、作者が人生で起こった問題(それは実社会であり現実そのものだ)を、徹底的に冷徹なまでに解決(検証)して導き得た結晶体であり、司馬史観の元なのである。作者の、現実を直視するときに伴う苦悩や苦痛そして悲しみを感じれば、作品の一言半句も疎かにはできないのである。
2013.06.25
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/江戸へ)2】『眼の前でにこにこ笑っている青年が、幕府をふるえあがらせるほどの大立者になろうとは夢にも予想できない。ただお登勢はおもった。「なんと可愛らしい若者だろう」無愛想なくせに、肌からにおってくるような愛嬌があった。』寺田屋の侠女 お登勢との縁はここからはじまる。竜馬の愛嬌は『肌からにおってくるよう』であったという。つまりこうだ。『竜馬には人を慕い寄らせる香りのようなものがある』~お田鶴さま~竜馬の魅力が漂ってくる。それは天性のものか、おおらかな家庭で築かれたものか、いずれにしても竜馬の徳のひとつであろう。だからごく自然に、知らず知らずのうちに周りは竜馬に魅せられていくのだ。そしてこれもまた竜馬の魅力、はじめて富士山を見たときの感想である。『塩見坂の海と山と天が、自分の限りない前途を祝福してくれているように思えるのである。』『血の気の熱いころにこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。』『一瞬でもこの絶景をみて心のうちがわくわくする人間と、そうでない人間とはちがう。』こういう感情は必ず他人に伝播する。薩摩の西郷が慕われたのもその所以であろう。『りくつよりも、気分なのだ。』~千葉道場~そういうことなのだ!ときに竜馬はこの先、何度もこの風景を目にすることになるのだが、きっとここを通るたびに初心を思い出しては、血潮をほとばらせたことであろう。かつてベストセラーになった藤原正彦氏の「国家の品格」の中で藤原氏は日本人の情緒を、「自然に対する繊細な感受性」を言い表している。竜馬はその感受性が人一倍豊富だったのであろう。なお藤原氏は、その情緒こそを国家の品格をなす最も重要な要素として挙げている。
2013.06.19
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/門出の花)2】『座禅を軽蔑し「座るより歩けばよいでないか」とひそかに考えた。座禅に行って、半刻、一刻の座禅をするよりも、むしろそのつもりになって歩けばよい。いつ頭上から岩石がふってきても、平然と死ねる工夫をしながら、ひたすらにそのつもりで歩く。岩石を避けず、受けとめず、頭上に来れば平然と迎え、無に帰することができる工夫である。』江戸へむかう街道にて。竜馬にとって歩くことはすなわち訓練であり、「無」の境地は歩いて体得した。維新回天前、新選組を中心とした刺客に襲われた折りに、竜馬はその「心胆(境地)」と剣術修行から得た「間」で難を逃れることになる。江戸への途上、岡田以蔵にからまれる。「竜馬は、男のなかでも一番手におえないのはこういう男だとおもった。小心な男だけに、せっぱつまると、何を仕出かすかわからない。」~江戸へ~そこで竜馬は『岩石』のような岡田以蔵に『避けず、受けとめず』そして『平然と迎え』えるのである。竜馬の対応はこうだ。「俺は幸い、金に不自由のない家に育った。それは天の運だ。天運は人に返さねばならぬという。」~江戸へ~そういって懐中の五十金を岡田以蔵にくれてやるのである。ところで竜馬が歩くとき「無」の訓練と同様に、それは学習の場でもあった。机上の勉強に合理性を認めなかった竜馬は、ひたすら歩きながら勉強したわけだ。「あの桂浜の月を追って果てしもなく船出してゆくと、どこへゆくンじゃろ。」~お田鶴さま~アレコレ思考をめぐらす竜馬である。経験や知識と、世間の整合するところから仮説を導き出し、それを検証するためにまた歩くのが竜馬流の勉強である。勉強が積み重なり、竜馬の知恵となり、そして叡智となった。竜馬の勉強は現代風にいうと、安岡正篤先生の言われた「活学」の実践であり、また中村元先生の「学問が身についてきた」と評するところだ。そして、考えるより先に実際に自分でやってみるのも竜馬流である。「それよりも、おれにやらせてくれ。お前はそこについていて、いちいち手直ししてくれればいい。」~お田鶴さま~船中で船頭に梶を教わる竜馬は、「旦那、ひとつ梶を教えましょうか」という船頭の申し出に対しそう答えたのだ。何事も実際に自分でやってみる、という竜馬のスタンスまた、竜馬の情報収集(取材)の基本姿勢にもなった。つまり三次情報より二次情報、確かなのは一次情報というわけだ。竜馬は、1.自分で2.直接やる(見る)3.そこから判断(行動)したのである。
2013.06.14
コメント(0)
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/門出の花)1】『作法とか、礼儀とかいった、人間が作った規律があたまからうけつけられないたちらしいのである。もっとも天性の愛嬌があるから、人はだれも不快がらず・・』竜馬は剣術修行のために江戸へ出立する。竜馬の愛嬌は天性のものらしい。愛嬌はマイナスの要因をプラスに転じる。竜馬は天性の愛嬌で幕末の様々な難局を愛嬌で乗り切った。そしてまた愛嬌は微笑に通じる。『くるりとふりかえって、沁みとおるような微笑をした。』~門出の花~出立の折。見送りの方々に見せた竜馬の微笑は「沁みとおるよう」であった。そして微笑は竜馬の成長とともに熟成され、「澄んだ太虚のようにあかるい微笑」~最終章「近江路」~となるのだ。竜馬、落命の寸前である。(注)太虚=大空愛嬌も微笑も人の明るさである。人は性格も背負った歴史もそれぞれに異なる。そういう人々がつながり、なおかつ複雑に交じり合って形成されるのが社会だ。幕末はそういったいわば海千山千の吹き溜まりであったはず。してみると、竜馬の愛嬌や微笑(明るさ)は人と人とをつなぐための潤滑剤か。古に曰く、笑う角には福来り、と。おせっかいながらひとこと(笑)先述の、 「沁みとおるような微笑」は文庫の一巻、「澄んだ太虚のようにあかるい微笑」はその八巻、この間の竜馬の成長ぶりに、微笑の熟成され具合を照らしてお読みいただくといいかも♪さすれば司馬さんの緻密な構成と巧みなる筆致を、いやおうなしに(笑)ご堪能いただけることでしょう。!
2013.06.06
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1