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土筆これからどうするひとりぽつんと 風天(フーテンの寅さん)土曜の夜、BSで『男はつらいよ』シリーズをやっている。都合があり、毎回最初の三十分しか見られないのだが、楽しみにしている。ただ、このごろは寅さんの「愚か」と「滑稽」の奥に、役を演じる俳優渥美清氏の苦悩と孤独が感じられ、見ていて切なくなるのだ。『それを言っちゃぁ、おしまいよ』俳優渥美清、弱音や愚痴は胸の奥に留めたことであろう。愚人への熱望は、万人の誰よりも渥美清氏が強かったはずだ。ぽつんとある土筆に己を見たのであろうか、発露の一句に熱いものがこみあげるのである。※過去記事『ああ、風天(ふうてん) その壱』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その弐』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その参』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その四』はコチラから。映画 寅さんシリーズ『男はつらいよ』コチラ寅さんシリーズ『続・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ フーテンの寅』 コチラ寅さんシリーズ『新・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~望郷篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~純情篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~奮闘篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~寅次郎恋歌~』 コチラ
2014.05.05
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朝寝して寝返り打てば昼寝かな 風天(フーテンの寅さん)『ああ、風天(ふうてん) その参』で「『風天』は渥美清氏の俳号を離れて寅さんの俳号になっていたのだろう」と記した。上記の一句は、まさに寅さんの俳句そのものではないだろうか。さても渥美清という御仁。たいそう一流なお方と推察するが、その懊悩や苦しみも一流を背負っておられたのであろう。お察し申し上げる。せめてこの時季、負うた荷をおろして気楽に秋風に吹かれることがかなったならば・・今宵はDVDを眺めながら、寅さんの「永遠なる愚か」をしみじみ味わいたいと思うのである。彼岸の渥美清氏に敬意を表しつつ合掌(-人-)※過去記事『ああ、風天(ふうてん) その壱』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その弐』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その参』はコチラから。
2012.09.15
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村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ 風天さて、風天氏は何をいそがれたのか・・・句を読んで思った。渥美清氏の俳号である「風天」は、いつの間にか寅さんの俳号になっていたのだろうなぁ、と。俳優渥美清氏が晩年、山頭火役を熱望した気持ちがなんとなく理解できるのだ。※過去記事『ああ、風天(ふうてん) その壱』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その弐』はコチラから。
2012.09.10
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蓋をあけたような天で九月かな 風天今日も今日とて、風天氏(フーテンの寅さんこと渥美清)の句を掲載する。秋の一日、それこそ蓋をあけたような天を眺めながら、ひねもすのんびりと暮らしたいものである、出来ることなら。そして思った。寅さんも風天氏も、それはそれでご多用だったのだろうな。※過去記事『ああ、風天(ふうてん) その壱』はコチラから。
2012.09.04
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ゆうべの台風どこに居たちょうちょ 風天作者の風天(ふうてん)は、『フーテンの寅さん』こと渥美清氏の俳号である。この句風、どことなく山頭火のようではないか。情景が目に浮かび、思わず頬が緩むのである。寅さんも山頭火も、大いなる愚人であった。その魅力は、人をひき付けて離さない「愚人」ぶりであったといっても過言ではあるまい。「人はみなひそかに愚人を求めている。」評論家 外山滋比古氏は『人間的』でいみじくもそう述べている。さもありなん、かつて我が国では幇間という職業も存在していたわけで、彼の国では、道化師は王様のおかかえであった。みな愚人が大好きなのだ。愛すべき、大いなる愚人 寅さん。1969年8月末日、『男はつらいよ』シリーズの第1作が公開された。 2012年8月30日、寅さんを偲ぶ。
2012.08.30
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