《櫻井ジャーナル》

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2013.02.26
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 アメリカ映画産業のイベント、 アカデミー賞の授賞式が2月24日に開かれ、作品賞には「アルゴ」が選ばれた

 この映画を見たわけでないので作品としての評価はできないが、「政治的」な決定だとは推測できる。ただ、アカデミー賞は基本的に政治的に決まるものであり、今回が特別だとは言えない。

 1979年の人質事件はアメリカの支配層にも大きな影響を及ぼすことになる。人質の解放ではなく解放遅延工作によってである。人質になっていた52名は1981年1月、ロナルド・レーガンの大統領就任式にあわせて解放されたが、このタイミングは象徴的だ。

 イラン国王が国外に脱出したのは1979年1月、その直後にイスラエル大使館が襲われ、拘束されていた14が救出されている。その中には女性も含まれ、死体を処分する井戸も見つかった。アメリカ大使館に「ホメイニ師の路線に従うモスレム学生団」なるグループが乱入、大使館員など52名を人質にとったのは同じ年の11月だ。

 翌年に大統領選挙が控えていたジミー・カーター大統領にとってこの出来事は大きなダメージ。盛り返すために人質を解放しようと考えることになる。逆に、共和党サイドは解放を遅らせようとする。

 例えば、イスラエルのイツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経験のあるアリ・ベンメナシェによると、1979年に「元CIAオフィサー」のマイルズ・コープランドが動き始めた。

 ロナルド・レーガンの側近だったマーク・ブライアンをコープランドは1980年にイランへ派遣、その時にロバート・マクファーレンも同行している。ふたりは1979年11月まで暫定首相を務めていたメヘディ・バザルガンと会談、1980年3月にマドリッドで会議を開くことを決めている。アメリカへ戻る途中、ふたりはイスラエルへ立ち寄り、決定の内容を伝えた。

 3月の会議は予定通りに開かれ、アメリカ側からマクファーレン、レーガン政権でCIA長官に就任するウィリアム・ケーシー、ジョージ・H・W・ブッシュと親しいCIAのドナルド・グレッグ、イラン側からはメーディ・カルビのほかサイード・アボル・カッセム・カシャニらが含まれていた。



 10月にパリで開かれた会議にはアメリカ(共和党)、イラン、そしてイスラエルが代表を派遣、身代金5200万ドルの支払い、イランへの武器提供、そしてイラン資産凍結の解除、人質の解放は大統領就任式まで遅らせることで合意している。(人質解放遅延工作については拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)

 資産凍結の解除は約束が守られなかったようだが、イランへの武器供与は行われた。この武器密輸にはアメリカのほか、イスラエルとサウジアラビアも関与、後に取り引きの一部が明らかになり、「イラン・コントラ事件」と呼ばれるようになった。

 ところで、1953年のクーデターは石油利権を守るためにイギリスがアメリカに持ちかけて始まる。イギリスの会社AIOC(後のBP)はイギリス政府へ税金を支払った残りの利益の9割近くを懐に入れ、イランが受け取るのは1割強。しかも、その大半はイラン王室のものになっていた。

 これではイラン国民が怒って当然。議会や政府はAIOCの国有化に乗り出した。その時に首相だったのがムハマド・モサデク。イギリス側の圧力でモサデクは一旦、辞職するのだが、すぐに復帰している。このとき、イギリスは政府を揺さぶるため、ツデー党(コミュニスト)も支援している。

 第2次世界大戦後、アメリカの巨大資本はイランの石油利権に目をつけていたが、そのアメリカへイギリスは協力を要請する。話を持ち込んだ相手はアレン・ダレスだ。1951年10月にイギリスでは労働党政権が倒れて保守党のウィンストン・チャーチルが復活し、クーデターの準備は整った。

 クーデター計画が本格的に始動するのはアメリカでドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年から。ダレスは1951年1月からCIAの破壊工作を指揮する部門を担当する副長官として内部へ入り込んでいたが、アイゼンハワー政権が誕生すると長官に昇格している。ちなみに、アレン・ダレスと兄のジョン・フォスター・ダレスはウォール街の弁護士としての顔があり、顧客の中にAIOCも含まれていた。

 1953年6月にジョン・フォスター・ダレス国務長官はモサデク政権を倒す許可を弟のアレン・ダレスに出し、「エイジャクス(アイアース)作戦」が動き始める。7月、あるいは8月にアイゼンハワー大統領が最終的に「ゴーサイン」を出している。8月下旬にムハマド・レサ・パーレビ国王がイランへ戻り、クーデターは成功した。

 ちなみに、パーレビ朝が始まったのは1920年代。第1次世界大戦の直後にイギリスはペルシャを保護国にするのだが、そのときに陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領、4年後にカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗り、王位についている。これがパーレビ朝のはじまりだ。サウジアラビアやイスラエルと同じようにイランのパーレビ朝も背後でイギリスが暗躍していた。





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最終更新日  2013.02.27 00:51:04


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