《櫻井ジャーナル》

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2013.08.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 68年前の1945年8月15日、「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流された。日本では8月15日を「終戦記念日」とか「終戦の日」と呼ぶが、その理由は、この放送を「記念」してのことだ。

 16日に戦闘停止命令が出たものの、重光葵と梅津美治郎が降伏文書に調印したのは9月2日であり、この日、日本の敗北が正式に決まった。7月26日にアメリカ、イギリス、中国が連名で出した「ポツダム宣言」を日本が受け入れることを日本が正式に認めたということだ。宣言が出された段階でソ連は日本と交戦状態になく、当初は参加していない。

 日本敗北への流れをさかのぼると、「琉球処分」による琉球/沖縄侵略にたどり着く。その後、台湾、朝鮮半島を制圧し、1927年には山東出兵、そして31年には柳条湖事件を口実として中国侵略を本格化させ、「満州国」を建国している。

 1927年といえば関東大震災から4年後。すでに日本はJPモルガンの影響下に入っていたわけで、アメリカの金融資本が日本の行動に反対していたとは思えない。状況が急変するのは1932年。

 この年に行われた大統領選挙でJPモルガンと対立していたフランクリン・ルーズベルトが勝利、1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とする勢力が計画した反ルーズベルトのクーデターは失敗に終わり(詳細は『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)、日本にとって厳しい状況になる。

 ルーズベルトはニューディール政策を掲げ、ウォール街が推進していた「強者総取り経済」を否定、植民地政策にも反対の姿勢を示し、日本のアジア政策と正面衝突することは不可避だった。そして1941年12月、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃する。

 しかし、1942年に日本はミッドウェー海戦で早くも惨敗、43年にドイツはスターリングラード攻防戦で敗北、イタリアは連合国に降伏、日本、ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国の敗北は決定的な状況で1944年は過ぎた。

 そうした中、ドイツは敗北を見据えた動きを1942年から見せている。この年、ナチ親衛隊が密使をスイスのアレン・ダレスの下へ派遣、44年にはドイツ陸軍参謀本部第12課(東方外国軍課)の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将がダレスに接触したのだ。そうした流れの中、「戦後」について話し合いを始めている。

 1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、そしてソ連のヨセフ・スターリン人民委員会議長がウクライナのヤルタで会談、その中でドイツ降伏から2、3カ月後にソ連は日本との戦いに加わることも決められた。ドイツが降伏文書に調印したのは5月7日。



 この頃、イギリスではチャーチル首相が合同作戦本部に対し、ソ連を奇襲攻撃する作戦を立案するように命じている。5月下旬に提出された計画によると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。ただ、この計画は参謀本部が拒否し、実行されていない。

 ソ連に対する戦争に積極的な姿勢を見せ始めた一因は原爆開発の進展具合と関係があるとも言われている。そして7月16日、ニューメキシコ州で核爆発実験(トリニティ)に成功した。

 その間、アメリカ軍は日本に対する攻撃を始めている。1944年10月10日には沖縄の那覇市を空爆、翌年3月26日には慶良間列島へ上陸し、沖縄の地上戦が始まった。6月23日には牛島満中将と長勇少将が自殺したものの、守備隊は9月7日、つまり重光葵と梅津美治郎が降伏文書に調印した5日後まで戦闘を続けたという。

 8月にアメリカは原爆を実戦で試した。6日に広島へ、そして9日には長崎へ投下している。この時点で日本はすでに「死に体」であり、ソ連を意識しての原爆投下だということは間違いないだろう。

 ドイツと比べると動きは遅いのだが、日本も和平工作を試みている。ソ連に仲介を頼もうとしただけでなく、バチカンやスイスを舞台とした工作もあった。

 例えば、1943年頃からスイスへ入っていた岡本清福陸軍中将は国際決済銀行のペル・ヤコブセンを通じてアレン・ダレスに接触、この工作を加瀬俊一スイス公使も後押ししていたという。ちなみにアレン・ダレスは戦後も情報機関(破壊活動)を指揮する人物だが、兄のジョン・フォスター・ダレスと同様、ウォール街の大物弁護士でもあり、戦前の日本とウォール街との関係も熟知していたはずだ。

 日本が降伏した後、アメリカを含む連合国の内部では天皇の戦争責任を問う人が少なくなかった。日本国内でも民主化を求める声が出始めていた。ホワイトハウスでは日本と戦前から関係の深い勢力が主導権を握っていたというものの、暢気に構えていたならば、自分たちにとって都合の良い天皇制官僚国家を維持できなくなる。そこで、天皇制を存続させる条文を組み込んだ日本国憲法が1946年11月に公布されたわけだ。この条文を連合国内で認めさせるため、ほかの条文は民主化を推進するものになっている。

 しかし、1948年5月に天皇はダグラス・マッカーサーに対し、新憲法の第9条に対する不安を口にしている。その会談内容を通訳の奥村勝蔵は記者へリークしたのだが、その際に隠された部分があると関西学院大学の豊下楢彦教授は指摘している。マッカーサーは天皇に対し、「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である」と主張していたというのだ。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』)

 そして1949年9月、天皇は沖縄を利用しようとする。アメリカによる沖縄の軍事占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」のもとでおこなわれることを求めるという内容のメッセージを天皇は出したという。(豊下楢彦『安保条約の成立』)

 日本国憲法第4条の「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」という規定も、少なくとも昭和天皇の時代、フィクションだったと言えるだろう。





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最終更新日  2013.08.14 23:49:11


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