東京の下町がアメリカ軍の投下した焼夷弾で火の海になり、多くの住民が焼き殺されてから71年になる。約300機と言われるB29爆撃機による攻撃は1945年3月9日から10日日にかけて実行され、深川、城東、浅草などがターゲットになった。そうした地域の周囲に焼夷弾を落として火の壁をつくり、逃げ道を奪ってから攻撃、10万人、あるいはそれ以上とも言われる住民が殺された。
日本の軍需産業は中小企業が生産拠点となっていたからだとする人もいるが、軍需産業の中枢は大手企業の工場。そうした工場より庶民の住む地域が狙われていることから非武装の住民を殺すことが目的だったと推測、都市部の爆撃は「無差別」でなく、「計画的」だったとする人もいる。この作戦を指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイは広島と長崎に対する原爆投下の責任者でもある。
原爆はソ連に対する恫喝だったという見方がある。西側支配層の中には第2次世界大戦中(あるいはそれ以前)からソ連を敵視していた勢力がいて、そのひとりがイギリスのウィンストン・チャーチル。本ブログでは何度も指摘しているように、チャーチルは首相時代にソ連を奇襲攻撃しようと考えていた。
1945年2月にヤルタでチャーチルはフランクリン・ルーズベルト米大統領やソ連のヨセフ・スターリン人民委員会議長と会談、その2カ月後にルーズベルトが執務中に急死、5月7日にドイツは降伏文書に調印した。その直後にチャーチルはJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令している。
そこで考え出されたのが「アンシンカブル作戦」で、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は参謀本部に拒否されて実行されず、チャーチルは7月26日に退陣する。
それでもチャーチルのソ連を破壊したいという願望は消えず、1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで、「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、「冷戦」の幕開けを告げた。デイリー・メール紙によると、翌年の 1947年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいた
という。
チャーチルが首相の座を降りる10日前、アメリカのニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験(トリニティ実験)が行われ、8月6日に広島、そして9日に長崎へ原爆が投下されている。そのときの大統領はハリー・トルーマン。1944年の大統領選で民主党の幹部はルーズベルトと気心の知れた反ファシストのヘンリー・ウォーレスを外し、トルーマンを押し込んでいた。
このトルーマンに多額の資金を提供していたアブラハム・フェインバーグは有名なシオニストで、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えることになる富豪のひとりだ。ルーズベルトの急死によって、アメリカ政府は反ファシストから反コミュニストへ切り替わった。なお、ルーズベルトがシオニストと緊密な関係にあったとする話はシオニスト側の宣伝だと言われている。
副大統領就任から80日余りでの大統領に昇格したトルーマンだが、この間、彼がルーズベルト大統領と会ったのは2度だけだ。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)ちなみに、チャーチルは父親の代からシオニストの黒幕、ロスチャイルドのカネにどっぷり浸かっている。
こうした背景を考えれば、トルーマンがマンハッタン計画を知らなかったとしても、彼を操っていた勢力は熟知していたと考えるべきだろう。トルーマンが原爆の広島や長崎への投下を承認したのは当然と言える。米英支配層の一部はすでにソ連との戦争を始めていたのだ。いや、ナチスをウォール街など西側の巨大資本が支援していたことを考えると、ドイツのソ連侵攻は西側の巨大資本が望んでいたことだと言えるだろう。1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した後、JPモルガンなどウォール街の支配者たちは、ニューディール派を排除するためのクーデターを計画していた。これは本ブログで何度も指摘してきた。
第2次世界大戦後、アメリカは中国に国民党の政権を樹立させようとしていた。武器/兵器を提供するだけでなく、大戦中に破壊活動を目的として作られたジェドバラの人脈が中国でも秘密工作を実行しつつあった。その人脈は1948年にOPCを創設、中国では上海を拠点にしていた。
ところが、内戦はコミュニストが優勢になり、1949年1月には解放軍が北京に無血入城し、5月には上海を支配下におく。そして10月には中華人民共和国が成立した。こうした情勢になったことから、OPCは拠点を上海から日本へ移している。活動の中心は厚木基地だったと言われている。1949年には国鉄を舞台にした「怪事件」が起こった。つまり7月の「下山事件」と「三鷹事件」、8月の「松川事件」だ。
そして1950年6月に朝鮮戦争が勃発する。この戦争でもルメイは大規模な空爆を実施、朝鮮の78都市と数千の村を破壊、多くの市民を殺している。ルメイ自身の話では、3年間に人口の20%にあたる人を殺したという。大量殺戮としか言いようがない。
このルメイはソ連を先制核攻撃したがっていた。1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)という内容が盛り込まれている。
アメリカが水爆の実験に成功した後、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。
1956年にSACは核攻撃計画に関する報告書を作成
する。この計画によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だ。ちなみに、この当時のSAC司令官はルメイ。この人物、大量虐殺が好きなようだ。「核の傘」論は戯言にすぎないということでもある。
この計画で攻撃目標とされたのはモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。中国へは沖縄から攻撃する予定だったのだろう。実際、沖縄ではアメリカ軍が基地を建設、核兵器を持ち込んでいる。
アメリカによる沖縄の軍事基地化は1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づいている。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。
1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーは後に統合参謀本部議長に就任、ルメイを同じようにキューバへの軍事侵攻、ソ連への核攻撃を目論んでいた。第2次世界大戦の終盤、ルーズベルト大統領の意向を無視する形でアレン・ダレスたちとナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行した人物でもある。
レムニッツァーとルメイは、1961年にアメリカ大統領となったジョン・F・ケネディ大統領と激しく対立する。ケネディはキューバへアメリカ軍が軍事侵攻することを認めず、ミサイル危機を話し合いで解決してしまった。アメリカ軍がキューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するというストーリーの「ノースウッズ作戦」も大統領に拒否され、ダレスをはじめとするCIA幹部は解任、レムニッツァーは議長の再任を認めず、NATOへ追放する。その後、「NATOの秘密部隊」は要人暗殺や擬装テロを繰り返すことになる。
レムニッツァーやルメイのような好戦派は1963年の後半がソ連を核攻撃するチャンスだと考えていた。先制攻撃に必要なICBMが準備できる見通しで、ソ連が追いつく前に戦争を始められると考えたわけだが、その年の6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのは1963年11月のことだ。その翌年、日本政府はルメイに対し、「勲一等旭日大綬章」を授与している。