《櫻井ジャーナル》

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2016.03.31
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 2年ほど前から監禁されていた中学生に対し、「なぜ逃げなかったのか?」という質問を投げかける人がいるらしいが、心と行動の不一致は珍しくない。そういう人は、やってもいないことを「自白」するはずがないと考え、冤罪事件はこの世に存在しないと思っているのだろう。そして、自分たちの生活環境を悪化させ、破滅へと導く政府を倒そうと活動しているに違いない。

 もっとも、マスコミで働く人びとの場合、庶民の生活環境を悪化させ、破滅へと導く政府を支持することは個人的な利益にかなっているようだ。少なくとも目先の収入と地位には結びついている。そうした利益を失うリスクを冒してまで支配層と対峙する記者や編集者は希有な存在。学者や専門家と呼ばれている人も事情は同じである。

 第2次世界大戦後に支配システムが揺らいだ一時期を除き、「ジャーナリズム」が「権力を監視する番犬」だったことなどないだろう。「記者の方から政治家や役人にクンクンすり寄り、おいしい餌、特ダネ漁って」きた。「記者クラブ」は支配層が記者たちに餌を与える場だ。

 「安全保障関連法(戦争法)」を強行採決するなど日本をアメリカの「戦争マシーン」へ組み込みつつある安倍晋三。彼の祖父にあたる岸信介は首相だった1960年に5月20日午前0時6分から開かれた衆議院本会議で新安保条約を強行採決、それに反対する約10万人が国会を取り巻くという事態になった。

 6月7日に岸首相は読売新聞の正力松太郎社主、産経新聞の水野成夫社長、NHKの前田義徳専務理事、毎日新聞の本田親男会長、東京新聞の福田恭助社長をそれぞれ個別に官邸へ呼び、アメリカ大統領を歓迎する雰囲気を盛り上げるために協力するように求めた。この日、駐日大使のダグラス・マッカーサー2世も各新聞社の編集局長を呼んで「懇談」し、翌8日には共同通信、時事通信、中日新聞、北海道新聞、西日本新聞、日経新聞、さらに民放の代表を招き、9日には朝日新聞の代表にも協力を要請したという。(朝日ジャーナル、1960年6月19日号)

 6月10日にはホワイトハウスの報道官だったジェームズ・ハガティが羽田空港に降り立つ。アメリカ大使館は警察の警備担当者が1時間ほど整理に時間が必要だという申し入れを無視、ハガティを乗せた自動車を護衛なしで出発させ、デモ隊の中に突っ込んだ。

 当然のことながら自動車はデモ隊に囲まれる。その際にデモ隊のリーダーが自動車によじ登り、挑発にのるなと叫んだという。そこへアメリカ海兵隊のヘリコプターが飛来、ハガティ一行を乗せて飛び去った。

 そして6月15日、児玉誉士夫の率いる「維新行動隊」が国会周辺のデモ隊に襲いかる。ターゲットは学生でなく、参議院第2通用門の近くにいた新劇の俳優、キリスト教徒、一般の参加者などだった。

 当日のデモに参加した東京大学教養学部の自治会に所属する学生など全学連主流派の約8000人は南通用門から国会構内へ突入、あるいは誘導されて警察隊と衝突し、東京大学文学部国史学科4年だった樺美智子が死んだ、あるいは殺された。



 学生の死は日米両国政府の描いていたシナリオを狂わせることになったようで、16日に開かれた臨時閣議においてドワイト・アイゼンハワー大統領の招待延期をアメリカ側に要請することが決められている。

 そして17日、東京の7新聞社、つまり朝日新聞、産業経済新聞、東京新聞、東京タイムズ、日本経済新聞、毎日新聞、そして読売新聞は「暴力を排し、議会主義を守れ」という「共同宣言」を掲載した。その出だしは次のようになっている:

「6月15日夜の国会内外における流血事件は、その事のよってきたるゆえんを別として、議会主義を危機に陥れる痛恨時であった。」

 その矛先は「議会主義」を破壊した岸政権でなく、その破壊行為に抗議したデモ隊に向けられている。6月19日に新安保条約は「自然承認」され、23日に岸信介は辞意を表明、その後を引き継いだのが池田勇人だ。

 本ブログでは何度も指摘したが、この当時、アメリカの軍や情報機関で大きな影響力を持っていた好戦派は ソ連に対する先制核攻撃 を計画していた。実行が予定されていたのは1963年の後半。この計画を止めたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。

 ケネディから後を継いだリンドン・ジョンソンはベトナムへ本格的に軍事介入、1965年2月には北ベトナムへの爆撃、いわゆる「北爆」を開始した。1967年7月、その爆撃を取材するために北ベトナムへ入ったのがTBSで放送していた「JNNニュースコープ」のキャスターを務め、報道局解説室長だった田英夫。この取材でアメリカ軍が負けている事実が伝えられてしまった。事実の報道がタブーなのは今も昔も同じだ。

 1968年3月、TBSはディレクターの萩元晴彦と村木良彦に配転を命じ、宝官正章ディレクターは無期限休職、梁瀬潮音と大原麗子には職責の処分があった。村木が配転を命じられた先は「スタジオ管理課」だ。

 宝官、梁瀬、大原の場合、成田空港建設反対闘争の取材が絡んでいる。その際、反対派の農民をマイクロバスに同乗させたが、農民が持ち込んだプラカードを機動隊は「角材」だと見なして捜索する。これは「過剰警備」であり、「取材妨害」だという見方もあるのだが、TBS側はこの出来事を有耶無耶にしようと目論み、墓穴を掘ることになる。

 1968年3月には田英夫がキャスターを降板、組合は「田さんを取り戻せ!」というキャンペーンを始めるが、そこに萩元、村木、宝官、梁瀬、大原といった名前はなかった。「事なかれ主義」の為せる業だろう。





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最終更新日  2016.03.31 19:44:33


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