《櫻井ジャーナル》

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2025.10.06
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 日本で「極右」を装っている人びとは第2次世界大戦で敗北する前における日本の在り方を肯定すると同時に、アメリカに従属している。これは矛盾だと主張する人がいるのだが、そうした人は戦前の日本がアメリカから自立していたと考えているのだろうか。本ブログで繰り返し書いてきたように、明治維新以降、日本の天皇制官僚構造は天皇を神と崇めるカルトであると同時に、アングロ・サクソン勢力の影響下にあったのだ。

 明治維新によって徳川体制から明治体制へ移行した。1867年に「大政奉還」する前からイギリスの武器/麻薬承認であるジャーディン・マセソンが日本で暗躍していた。

 この会社は中国(清)の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売をして大儲けしていた。19世紀に麻薬取引を支配していたのは同社と「東方のロスチャイルド」ことサッスーン家だ。

 麻薬取引を中国に受け入れさせるために行われたのが第1次アヘン戦争(1839年9月から42年8月)と第2次アヘン戦争(1856年10月から60年10月)。この戦争をビクトリア女王にさせたのは反ロシアで有名な政治家、ヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)にほかならない。2度のアヘン戦争でイギリスは勝利したわけだが、これは海戦でのことにすぎず、内陸部を制圧する戦力をイギリスは持っていなかった。





 ジャーディン・マセソンは1859年に長崎へトーマス・グラバーを、横浜へウィリアム・ケズウィックをエージェントとして送り込む。歴史物語ではグラバーが有名だが、大物はケズウィック。母方の祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉なのである。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州の若者5名をイギリスへ留学させることにする。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)だ。

 この5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。1861年に武器商人として独立したグラバーも密航の手助けをしているが、ケズウィックは1862年にジャーディン・マセソンの共同経営者となるために香港へ戻っていた。

 薩摩も1865年に留学生15名をイギリスへ派遣している。ここでも渡航のために船を手配したのはグラバーにほかならない。その留学生の中には五代友厚、森有礼、長沢鼎も含まれていた。年少の長沢以外はロンドン大学へ入学した。

 その後、薩摩からの送金が途絶えたことから9名の留学生は帰国したが、長沢や森を含む6名はアメリカへ渡り、ニューヨークに拠点があった心霊主義を信奉するキリスト教系団体「新生兄弟」へ入る。

 何人かはすぐに離脱したが、長沢と森は残った。その森も1868年に帰国したが、長沢ひとりは残る。のちに教団を率いることになるが、1890年代前半に解散している。その一方、ワシンの醸造所を建設してビジネスは成功、「ワイン王」とも呼ばれている。

 森は文部大臣に就任、「教育勅語」を作るなど天皇カルト体制の精神的な基盤を作るが、その一方、森の下、日本へ迎えられたルーサー・ホワイティング・メーションを中心に唱歌が作られる。安田寛によると、その目的は日本人が讃美歌を歌えるようにすることにあった。(『唱歌と十字架』音楽之友社、1993年)

 日本の中国侵略は1872年に琉球を併合した時から始まる。「維新」で誕生した明治体制は琉球併合の後、1874年に台湾へ派兵、1875年に江華島へ軍艦を派遣、そして1894年の日清戦争、1904年の日露戦争へと進んだが、こうした侵略はアメリカやイギリスの外交官に煽られてのことだった。自覚していたかどうかはともかく、明治体制はアメリカやイギリスの手先として動いていたのだ。

 日露戦争は1904年2月8日、日本軍が仁川沖と旅順港を奇襲攻撃したところから始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。

 この戦争について、セオドア・ルーズベルト米大統領は日本が自分たちのために戦っていると語り、日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎はアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。1910年に日本が韓国を併合した際、アメリカが容認した理由はこの辺にあるだろう。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 東京周辺は1923年9月1日、巨大地震に襲われた。その損害額は55億円から100億円に達したと言われているが、その復興資金の調達を日本政府はウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンに頼った。それ以降、この巨大金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つことになる。

 当時、アメリカもウォール街の金融資本に支配されていたのだが、その構造を揺るがす出来事が1932年にあった。彼らが担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。

 そこで、JPモルガンをはじめとするウォール街の住人はニューディール派を排除するためにクーデターを計画するが、これは海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将によって阻止された。その経緯は本ブログで繰り返し書いてきた。

 フーバーは大統領の任期を終える直前の1932年にジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。グルーのいとこ、ジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻であり、グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 関東大震災の復興資金調達の結果、日本の政治や経済をアメリカの巨大金融資本JPモルガンの影響下に入った。そして日本では治安維持法によって思想弾圧が強化され、「満蒙は日本の生命線」と言われるようになるのだ。

 1927年5月に日本軍は山東へ派兵。1928年6月に関東軍は張作霖を爆殺し、31年9月に柳条湖で南満州鉄道を爆破、中国東北部を制圧することになる。いわゆる「満州事変(九一八事変)」の勃発だ。

 その後、軍事的な緊張が高まり、一触即発の状況になり、1937年7月に「盧溝橋事件」が起こる。二・二六事件の結果、米英金融資本に反発していた軍人が粛清されたのはその前年、1936年2月のこと。

 1937年12月に日本軍は南京を制圧する。上海派遣軍の司令官として南京攻略戦を指揮した朝香宮鳩彦は昭和天皇の叔父にあたる人物だ。

 この攻撃で日本兵は住民を虐殺するなど残虐行為を働いたと報告されているが、日本軍は組織的な財宝の略奪作戦「金の百合」を始めた。指揮したのは秩父宮雍仁、その補佐役は竹田宮恒徳だ。

 その後も略奪作戦は続き、財宝はフィリピンに集積した後、日本へ運ばれるが、途中で戦局が悪化して輸送が困難になり、相当部分がフィリピンに隠された。運び出しに成功した金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)

 日本が降伏すると、アメリカ軍のエドワード・ランズデール大尉(当時)は1945年10月中旬、財宝の隠し場所を日本軍の捕虜から聞き出すことに成功した。

 ランズデールは戦時情報機関OSSのメンバーだったが、彼がフィリピン入りした直後にOSSは廃止になり、ランズデールを含むOSSの50名はチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になる。財宝の隠し場所を聞き出した時、ランズデールはG2に所属していた。

 ランズデールはその情報を東京にいたダグラス・マッカーサー元帥、ウィロビー少将、そしてGS(民政局)のコートニー・ホイットニー准将に報告、さらにワシントンDCへ行き、ジョン・マグルーダー准将に説明している。ランズデールをフィリピンへ行かせたのはこのマグルーダーにほかならない。マグルーダー准将はウィリアム・ドノバンOSS長官の部下だった。マグルーダー准将の指示で、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。

 金の百合の回収が進められていた頃、ヨーロッパでは「ナチ・ゴールド」が回収されていた。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチがヨーロッパで略奪した資金はドノバンのWCC(世界通商)でロンダリングされ、戦後にタイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)

 1946年にドノバンがイギリス人の仲間と設立した会社がWCC。そのイギリス人、ウィリアム・スティーブンソンは大戦中、BSC(英国安全保障局)の責任者だった。ここはイギリスの対外情報機関MI-6の下部組織で、アメリカの情報機関との連絡を担当していた。戦後も米英両国が情報活動で協力することを目的としてWCCは作られたという。

 WCCの背後には経済界の大物が名を連ねていた。その中にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、あるいはゴールドマン・サックスに君臨していたシドニー・ワインバーグ、アヘン取引で富を築いて香港上海銀行を創設した一族のビクター・サッスーンなども含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)

 日本軍から得た情報にも続いて財宝の掘り出し作業が始まり、1945年から47年にかけてフィリピンで回収された金塊は42カ国の銀行の176口座に分散して預けられ、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたという。シーグレーブによると、後にイギリスの金融関係者も同トラストに参加した。

 戦後日本を仕組みを決めたのはウォール街を後ろ盾とするジャパン・ロビーだが、その中心には元駐日大使でモルガン人脈のジェセフ・グルーがいた。

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最終更新日  2025.10.06 00:00:05


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