
【日本はアメリカの従属国】
日本がアメリカの植民地なのかが国会で問題になった。高市早苗首相は日本を主権国家だと主張したが、日本がアメリカの支配層に従属していることは言うまでもない。
アメリカの支配層の中核には金融資本が存在、その下に日本の外務、軍事、治安のトライアングルが存在している。その支配構造の基盤が「日米安全保障体制」にほかならない。財務省の打ち出す政策もそこから出てくる。自衛隊がアメリカに刃向かう恐れがなくなった現在、アメリカは日本国憲法の第9条を必要としなくなったどころか邪魔な存在になった。
現在の日本は単にアメリカの従属国ということだけでなく、アメリカの戦争マシーンに組み込まれていることは本ブログで繰り返し書いてきた。ソ連が 1991年12月に消滅した直後、92年2月にアメリカの国防総省内でDPG(国防計画指針)の草案、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」が作成された。


そのドクトリンの作成で中心的な役割を果たしたポール・ウォルフォウィッツはネオコンの大物だが、そのネオコンは ソ連の消滅でアメリカが唯一の超大国になったと確信、世界制覇戦争を始めようとする。そして作成されたのがDPG草案だ。
その中にはドイツと日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に統合して民主的な「平和地帯」を創設すると書かれている。アメリカにとっての平和地帯とは、アメリカが支配し、誰も逆らわないという地域を意味する。要するにドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、アメリカの支配地域を広げるということだ。
また、旧ソ連の領土内であろうとなかろうと、かつてソ連がもたらした脅威と同程度の脅威をもたらす新たなライバルが再び出現するのを防ぐことが彼らの目的だともしている。西ヨーロッパ、東アジア、そしてエネルギー資源のある西南アジアが成長することを許さないということだが、東アジアには中国だけでなく日本も含まれている。
このドクトリンが作成された時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュだが、その政権の中にもネオコンの世界征服プロジェクトが危険だと考える人もいたようで、有力メディアにリークされた。日本の政治家や官僚の中にも危険だと考える人がいただろう。
1993年8月に成立した細川護煕政権は国連中心主義を打ち出して抵抗するが、94年4月に崩壊。1994年6月から自民党、社会党、さきがけの連立政権で戦ったが、押し切られている。
日本側の動きをネオコンのマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベル国防次官補(当時)に報告、1995年2月になると、ジョセイフ・ナイは「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表してアメリカの政策に従うように命令した。そのレポートには10万人規模の駐留アメリカ軍を維持し、在日米軍基地の機能を強化、その使用制限は緩和/撤廃されることが謳われている。
沖縄ではこの報告に対する人びとの怒りのエネルギーが高まるが、そうした中、3人のアメリカ兵による少女レイプ事件が引き起こされ、怒りは爆発する。日米政府はこの怒りを鎮めようと必死になったようだ。
こうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布された(地下鉄サリン事件)。松本サリン事件の翌月に警察庁長官は城内康光から國松孝次に交代、その國松は地下鉄サリン事件の直後に狙撃された。1995年8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われているスターズ・アンド・ストライプ紙に85年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。
この旅客機が墜ちる前、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。この1995年以降、日本は アメリカの戦争マシーンへ急ピッチで組み込まれていく。
2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された後、ウォルフォウィッツ・ドクトンに従ってアメリカは世界制覇戦争に乗り出すのだが、日本もそれ追随している。
国防総省系のシンクタンク「RANDコーポレーション」が発表した報告書によると、GBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲する計画を彼らは持っている
。自衛隊は2016年に与那国島でミサイル発射施設を建設、19年には奄美大島と宮古島、そして23年には石垣島でも施設を完成させた。


専守防衛の建前と憲法第9条の制約がある日本の場合、ASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにし、ASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたとされていたが、すでにそうした配慮は放棄されている。
2022年10月になると、「日本政府が、米国製の巡航ミサイル『トマホーク』の購入を米政府に打診している」とする報道があった 。亜音速で飛行する巡航ミサイルを日本政府は購入する意向で、アメリカ政府も応じる姿勢を示しているというのだ。
トマホークは核弾頭を搭載でる亜音速ミサイルで、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートル。中国の内陸部にある軍事基地や生産拠点を先制攻撃できる。「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約は無視されていると言えるだろう。
そして2023年2月、浜田靖一防衛大臣は亜音速巡航ミサイル「トマホーク」を一括購入する契約を締結する方針だと語ったが、10月になると木原稔防衛相(当時)はアメリカ国防総省でロイド・オースチン国防長官と会談した際、「トマホーク」の購入時期を1年前倒しすることを決めたという。
日本は中国やロシアと戦争する準備を進めてきたが、高市早苗首相はそうした動きを加速させようとしている。
【明治維新から日本は米英の影響下にあった】
ところで、第2次世界大戦で敗北する前から米英の金融資本は日本に大きな影響力を持っていた。
本ブログでは繰り返し書いてきたように、関東大震災以降、アメリカの巨大金融資本の影響下に入った。復興資金調達の結果、日本の政治や経済をアメリカの巨大金融資本JPモルガンが動かすようになり、治安維持法によって思想弾圧が強化され、「満蒙は日本の生命線」と言われるようになった。その構図を象徴する存在が1932年から駐日大使を務めたジョセフ・グルーだ。
その年にアメリカでは大統領選挙があり、ウォール街が支援していたハーバート・フーバーが落選、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが勝利する。1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とするウォール街の大物たちはニューディール派政権を倒し、ファシズム体制を樹立すためにクーデターを計画したが、スメドリー・バトラー退役海兵隊少将によって阻止された。
グルーはアメリカの金融資本に属す人物である。彼のいとこ、ジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻なのだ。しかもグルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーにほかならない。こうした背景もあり、グルーは天皇周辺に人脈を持っていた。
グルーが親しくしていた日本人には松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、最も親しかったのは松岡洋右だと言われている。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945~1952』時事通信社、1994年)グルーは1942年6月に離日する直前、商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
ジョン・W・ダワーによると、「上流階級の一定の『穏健な』人々に対して、個人的な敬意と好意を抱いていることは決して隠そうとしなかった」のだが、日本人一般は人間扱いしていなかった。日本を「全員が女王蜂(実生活では天皇)に使える騒がしいミツバチの巣」に例えていたという。(ジョン・W・ダワー著、猿谷要監修、斎藤元一訳、平凡社、2001年)
豊下楢彦が指摘しているように、第2次世界大戦後、日本はダグラス・マッカーサーと吉田茂ではなく、ウォール街と天皇を両輪として動き始めた。ドイツが降伏する直前、アメリカではフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、ニューディール派の力は急速に衰え、ウォール街が実権を奪い返していた。
そうした中、ジャパン・ロビーと呼ばれるグループが戦後日本の基盤を築き上げていく。そのグループの中核的な団体が1948年6月にワシントンDCで創設されたACJ(アメリカ対日協議会)。設立メンバーの中心的な存在はジョセフ・グルー。そのほか、ニューズウィーク誌の外信部長だったハリー・カーン、同誌東京支局長だったコンプトン・パケナム、トーマス・ハート提督、ウィリアム・プラット提督、ウィリアムキャッスル元国務次官、弁護士のジェームズ・カウフマン、ユージン・ドーマン、ジョセフ・バレンタインたちが含まれ、その支援グループにはジョージ・マーシャル国務長官、ロバート・ラベット国務次官、ジェームズ・フォレスタル国防長官、陸軍省のケネス・ロイヤル長官とウィリアム・ドレーパー次官、ジョン・マックロイ、フランク・ウィズナーなどが名を連ねている。
JPモルガンの前はイギリスの金融資本と関係が深かった。例えば、日露戦争で日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。
この戦争について、セオドア・ルーズベルト米大統領は日本が自分たちのために戦っていると語り、日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎はアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。1910年に日本が韓国を併合した際、アメリカが容認した理由はこの辺にあるだろう。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
明治維新の背後でもイギリスの怪しげな人脈が蠢いていた。アヘン戦争で清(中国)に勝利したとされているイギリスだが、内陸部を支配することはできなかった。そこで、サッスーン家と同じようにアヘン取引で大儲けしたジャーディン・マセソンは日本に目をつける。
同社は1859年にふたりのエージェントを日本へ送り込んできた。ひとりは長崎へ渡ったトーマス・グラバーであり、もうひとりは横浜のへ送り込まれてあウィリアム・ケズウィック。歴史物語ではグラバーが有名だが、大物はケズウィックだ。母方の祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉なのである。
グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決め、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)が選ばれる。この若者は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンだ。
薩摩も1865年に留学生15名をイギリスへ派遣しているが、この時に船を手配したのはグラバー。その留学生の中には五代友厚、森有礼、長沢鼎も含まれていた。年少の長沢以外はロンドン大学へ入学した。
その後、薩摩からの送金が途絶えたことから9名の留学生は帰国したが、長沢や森を含む6名はアメリカへ渡り、ニューヨークに拠点があった心霊主義を信奉するキリスト教系団体「新生兄弟」へ入る。イギリスでこのカルトに取り込まれていたのだろう。
何人かはすぐに離脱したが、長沢と森は残る。その森も1868年に帰国したが、長沢ひとりは残った。のちに長沢は教団を率いることになるが、1890年代前半に解散している。その一方、ワインの醸造所を建設してビジネスは成功、「ワイン王」とも呼ばれている。
森は文部大臣に就任、「教育勅語」を作るなど天皇カルト体制の精神的な基盤を作るが、その一方、森の下、日本へ迎えられたルーサー・ホワイティング・メーションを中心に唱歌が作られる。安田寛によると、その目的は日本人が讃美歌を歌えるようにすることにあった。(『唱歌と十字架』音楽之友社、1993年)
日本の中国侵略は1872年に琉球を併合した時から始まる。「維新」で誕生した明治体制は琉球併合の後、1874年に台湾へ派兵、1875年に江華島へ軍艦を派遣、そして1894年の日清戦争、1904年の日露戦争へと進んだが、こうした侵略はアメリカやイギリスの外交官に煽られてのことだった。
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【 Sakurai’s Substack 】
【 櫻井ジャーナル(note) 】