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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第六話 牙城クスコ(5)
【 第六話 牙城クスコ(5) 】
その晩遅く、トゥパク・アマルの天幕に他の側近たちが誰もいなくなるのを見計らうようにして、ディエゴが姿を現した。
トゥパク・アマルは寝台の上で、その左腕に大量の包帯を巻いたまま、じっと天幕の天井を見つめている。
麻酔の無い状態で、術後の激痛も常軌を逸するものがあろうに、相変わらず苦痛は表に出さず、まるで小さな波紋さえも浮かべぬ湖面のように恐ろしく静かな横顔だった。
トゥパク・アマルの寝台傍に灯された蝋燭は、その蝋の残りが少なくなり、揺れがかなり不安定になっている。
「トゥパク・アマル様、まだお休みではありませんでしたか。」
ディエゴはゆっくりとトゥパク・アマルの方に近づくと、傍の琥珀色の木箱の中から新しい蝋燭を取り出し、それに火を灯して古いものと取り替えた。
彼の筋肉質の大柄な手の中で、蝋の少なくなった小さな蝋燭は、まるで消え入りそうに儚く見える。
一方、新たな蝋燭は、安定した光を煌々と天幕に放ちはじめた。
「お加減はいかがです?」と案ずる瞳で覗き込むディエゴに、トゥパク・アマルは静かに微笑み、「心配をかけてすまなかった。もう大丈夫だ。」と応える。
「して、あの褐色兵の将のことは、何か分かっただろうか。」と、問う。
ディエゴは微妙に頷いた。
「あまりはっきりしたことは分からなかったのですが、どうも首府リマの役人たちとつながった裕福な家の出身らしい。
名はフィゲロア。
もとは、真っ直ぐで、まじめな男だったようです。」
「フィゲロア…。」
トゥパク・アマルは思慮深い目になって、暫し、無言で新しい蝋燭の光を見つめた。
彼の切れ長の目元で、新たに燃えはじめた蝋燭の炎の放つ澄んだ光が、美しく反射して輝いている。
それから、彼は再びディエゴに視線を戻し、「ありがとう。よく調べてくれた。」と心を込めて謝意を述べた。
ディエゴも、トゥパク・アマルの方に恭しく頭を下げる。
そして、再び顔を上げたディエゴの目の中に、まだじっと彼の顔を見つめているトゥパク・アマルの真っ直ぐな眼差しが映った。
「トゥパク・アマル様?」と、思わず、ディエゴが呟く。
「ディエゴ。もし、この後、わたしに何かあったら…。」と言いかけて、トゥパク・アマルは、不意に己(おのれ)自身でも驚いたように、ハッと口を閉ざした。
思わずディエゴも目を見開く。
「トゥパク・アマル様、何を仰っているのです?!」
トゥパク・アマル自身も、予期せぬ弱気な言葉が己の口をついて出たことに、驚愕と苦渋の念を噛み締めた。
「すまぬ。怪我など負って、少々気弱になっているようだ。」と、そして、「案ずるな。」と前言を書き換えるように、はっきりとした口調で言った。
ディエゴは深く頷き、「このような時こそ、あなた様に強くあっていただかねばなりません。これからが正念場なのですから。」と、太い武人らしい声で諭すように言う。
「そうだな。」とトゥパク・アマルは頷き、目前の頼もしい従弟、ディエゴの勇壮な姿を改めて見つめ、目を細めた。
もし、わたしに何かあった時には、自分の後を受けて、この男がインカ軍の総指揮をとっていくことになるであろう…――と、そこまで考え、再び、はたと我に返って苦笑した。
まただ…、どうも今宵は本当に気弱になっている。
そんなトゥパク・アマルを、ディエゴも少々訝(いぶか)し気に見つめていた。
暫し長めの沈黙が流れ、それから、やや言いにくそうにディエゴが口を開く。
「このような時に、申し上げにくいことなのですが…、お耳に入れておいた方がいいかと思うことが…。」
どこか所在無げな様子になり、口ごもりながら言うディエゴの方を、トゥパク・アマルが見た。
「何でも申してみよ。」
その穏やかな声に、意を決したようにディエゴが話しはじめる。
「実は、フランシスコ殿のことなのです。
今日、戦場で、塹壕の中に蹲(うずく)まられて、ひどく震え、発汗も呼吸も激しくなっておられた。
何故、あのような状態でおられたのか全くわからないのですが…まるで敵の攻撃を恐れ、それから必死で逃れようとしているかのようにさえ見えました。
幸いお助けできたが、あのままでは、お命も危うかったものと存ずる。」
そう言って、この猛将ディエゴにとっては全く信じがたいあの光景を思い起こすかのように、鋭く遠くを見据える目になった。
そのディエゴの目には、案ずる色と共に、苦渋と、そして、険しい色味が強く浮かぶ。
「そうであったか。
フランシスコ殿が…。」
一方、トゥパク・アマルの声にも確かに苦渋の色が滲んでいたが、むしろ、深く案ずる色の方がずっと濃厚にうかがえた。
「フランシスコ殿はお心の優しい繊細なお方だ。このような血生臭い戦場は、あの方には耐え難いのであろう。」と、静かな声で言うトゥパク・アマルの横顔を無言でうかがいながら、ディエゴは、それはあなた様のお気持ちでもありましょう、と心の奥で思う。
「しかしながら、この後も戦(いくさ)は続きます。このまま戦場に出られては、フランシスコ殿のお命が危ういのみならず、彼の指揮下にある軍勢の命をも危険に晒すことになりましょうぞ。何らかの対処をとらねばなりません。」と、既に厳しくなった武人の声でディエゴが言う。
「うむ…。」
トゥパク・アマルも、考え深げな目になり、再び、じっと天幕の天井を見やった。
ディエゴもつられるように、ふと天井を見上げる。
天井では、再び蝋の減りはじめた蝋燭の投げかける黒い影が、まるで二人に覆いかぶさる魔物のごとくに、ゆらゆらと不安定に揺れていた。
同じ頃、やはり、深い悲愴と苦悶の表情で、まるで溜まった空気の底のような不気味に静寂な深夜の闇の中で、草地に蹲(うずくま)るようにしているコイユールの姿があった。
トゥパク・アマルの治療の後、一旦、負傷兵の治療場に戻った彼女だったが、まるで仕事に手がつかぬ状態であった。
苦痛に喘ぐ負傷兵たちを前にしながら、しかし、己の手元のおぼつかなさから、かえって兵たちの症状を悪化させかねぬような強い危機感まで覚えるほどだった。
瀕死の兵たちを前にしながら、そのような己の状態にひどく嫌悪感を、そして、兵たちに対して深い罪悪感を抱きつつ、コイユールは逃れるように治療場を走りぬけ、己の寝所のあるビルカパサの天幕近くの草むらに走りこんだ。
とはいえ、他の兵たちも多くいる己の天幕に戻る気持ちには到底なれず、姿を隠すように、夜露を含んだ草の上にしゃがみこんだ。
そのまま息を詰めて、まるで銅像のように固まっていく。
その瞳には、いつしか涙が膨れ上がり、やがて頬を伝って流れた。
あれほど畏敬と憧憬の対象であったトゥパク・アマルと間近で言葉を交わせたというのに、その感慨を噛み締めるよりも、今は彼女の脳裏には、先刻のトゥパク・アマルの施術時に見てしまった呪わしい光景ばかりが嵐のように渦巻いていた。
神々しく黄金色に輝く太陽のような光が、突如、赤黒く変色し、その赤黒いものが溶岩のように宇宙に流れ出し、美しい宇宙を呑みこんでいく…――あのおぞましいヴィジョンを必死で掻き消そうとすればするほど、さらに濃厚に、強烈に、いっそうの臨場感を伴って喚起されてくるのだった。
否定しようとしても、己の見たものの信憑性をどこかで信じてしまう己自身も、非常におぞましく感じられた。
(あれは何を意味しているの?
…――破滅…滅亡…――死…――?!
まさか…ト…トゥパク・アマル様の…死?!…インカの滅亡…?!)
「そ…そんな…そんな…。」
今、涙すらも氷ついたように止まっている。
コイユールは、自分の体温が急速に下がっていくのを感じた。
夏だというのに、激しい寒気がして、思わず己の両腕で自分の肩を抱き締める。
その細い指に、体の震える振動が伝わってくる。
これ以上、あの呪わしい光景の意味を決して考えぬように、コイユールは必死で思考を止めようとした。
しかし、止めようとすればするほど、思考は勝手に加速していく。
何かの言葉が頭をよぎろうとする度に、「あれは、ただの幻覚…幻覚…幻覚…!」と呪文のように声に出して言い続けた。
しかし、己の心までは、偽れない。
その心は、図らずも予見してしまったトゥパク・アマルとインカの暗黒の未来に対する、恐れ慄きと、絶望と、混乱とあまりに深い悲しみとで引き裂かれそうになっていた。
「どうしよう…アンドレス…、せめて、アンドレスに…。」
朦朧としてきた意識の中で、無意識にその名を呟く。
その一方で、先刻のトゥパク・アマルの姿が、その言葉が、ぼんやりとした脳裏に甦る。
『そなたが見たものを、この後、決して誰にも言ってはいけないよ。』
(トゥパク・アマル様…――。)
いっそう混沌としていく頭の中で、しかし、最後にコイユールの脳裏をよぎっていったのは、やはりアンドレスの姿だった。
『アンドレス!!
…何とかして…――!!』
声にならない声で呟くように言うと、彼女の意識は事切れるように、そのままの姿で力尽き、混沌とした眠りの中に落ちていった。
そして、それからどれくらいたった頃だろうか。
明け方近く、ビルカパサの連隊に属する一人の黒人兵が、見張りの当番を終えて寝所へと戻る途中、たまたまその草地の傍を通りかかる。
そして、草の中に死んだようにうずくまって意識を失くしている女性の姿を発見した。
それが同じ連隊に属するコイユールだとわかると、その兵は急いでジェロニモのいる天幕に走った。
「おい、ジェロニモ、起きろ!!
おまえの知り合いのインカ族の女が、草の中に倒れてるぞ!」
「…――え?」
突然、その黒人兵に夢を破られ、寝ぼけ眼(まなこ)でジェロニモが起き上がる。
「なんだよぉ…一体…。」
まだ寝ぼけたまま、その兵に急(せ)き立てられるようにして、ジェロニモが草地に向かう。
「ホラ、あれ!
おまえの知り合いだろ。
何とかしてやれよ。」
目をこすりながらそちらをボンヤリと眺めたジェロニモは、しかし、草の中に死んだように倒れているコイユールの姿を認めると、顔色を変えた。
そして、走り寄る。
(コイユール…!!)
ジェロニモはコイユールの傍に跪くと、その呼吸を確かめる。
死んでいるのでも何でもなく、単に眠りに落ちているだけだとわかると、ホッと胸を撫で下ろした。
「何だよ…ったく、人騒がせだナ…。」と、コイユールの方に呟くように言う。
しかし、完全に意識が飛んだ状態で、しかも、顔面蒼白にして、泥にまみれた悲痛な表情のままに倒れている姿は、やはり尋常を超えている。
「コイユール、起きろ!
こんなところで寝てると、カゼひくぞ!」
呼びかけながらコイユールの肩に手をかけ、その体をゆすってみる。
しかし、なかなか反応が無い。
「コイユール!!」
ジェロニモはさらにコイユールをゆすってみる。
すると、やっとコイユールは薄く目を開けて、朦朧とした瞳でボンヤリと宙を見た。
そして、消え入りそうな声で呟いた。
「…ア…――アンドレス…?」
「…!!」
(やっぱり…コイユール…アンドレス様のことを…――か?!)
ジェロニモが言葉を失っている先で、傍で見守っていた黒人兵が、「え?!アンドレスって、あの連隊将のアンドレス様のこと?!まさか…アンドレス様を呼び捨てにしたぞ!!なんなんだ、この女?!」と、憮然とした声を上げた。
「シッ!!
このことは、誰にも黙っとけ!」
きつい口調でその兵を制すると、ジェロニモはさらに力をこめてコイユールの体をゆすった。
「おい!!
起きろ!!
しっかりするんだ、コイユール!!」
そして、そのまま両腕を掴むと、コイユールの上半身を無理矢理起こした。
さすがに、コイユールもボンヤリとしながらも、その意識を取り戻す。
「え…?
ジェロニモ…?
あ…やだ、私…!」
次第に昨夜の記憶が戻ってくる。
(あのまま草の上で、眠ってしまったんだわ…!)
恥じ入るように咄嗟に両手で顔を覆うと、指の隙間から慌ててジェロニモに目で礼を送った。
それから、手を下ろすと、己に呆れ果てるように深く溜息をつく。
「ありがとう…私ったら…信じられない。
こんなところで…。」
無理に引きつった笑顔をつくろうとしているコイユールから視線をそらし、ジェロニモは、ただ黙ってコイユールが立ち上がろうとするのを助けた。
「ちゃんと寝所に戻って、しっかり眠るんだ。さあ…。」と、天幕の方に促すジェロニモの腕を制して、「いえ…。もう眠ったから、大丈夫。それより、治療場へ戻らないと…。」と、コイユールは反対向きに足を進める。
「駄目だ!!
少しは、ちゃんと休め!!」
ジェロニモの剣幕に、コイユールは驚いて足を止める。
当のジェロニモ自身も、自分が声を荒げたことに決まり悪そうに、下を向く。
しかし、再び顔を上げると、諭すように言った。
「この戦(いくさ)、まだ先は長いんだ。
今、皆で共倒れになってる場合か?
いいから、今夜は、ちゃんと休め。
な、コイユール…。」
いつもとどこかジェロニモの様子が違うと感じながらも、コイユールは観念したように頷いた。
寝所のある天幕の方へと戻っていくコイユールの後姿を、ジェロニモが見守る。
(コイユール…そうなのか?
アンドレス様を?
だ…だけど、なんで農民のコイユールが、よりによって、あの皇族中の皇族のアンドレス様なんだよ…?
無茶だ…こんなのって、ありかよ…?!
は…で、俺は…?
は…はは…ッたく、お話にもならねぇ…。)
一方、隣で、黒人兵が、相変わらず憤然とした声を上げている。
「さっきの…うわ言?
『アンドレス』…って、あれ、何だ?!」
黒人兵が訝しげに首をかしげるのを、ジェロニモは再び険しい目で見た。
「いいから、それは忘れろ!!
俺には、そんなの聞こえなかったぞ。
おまえの、何かの聞き間違いだ!」
ジェロニモはまるで自分にも言い含めるようにそう言うと、「なんなんだヨ…おまえまでぇ…。」と不満げにブツクサ言っている黒人兵の肩を押しながら、それぞれの寝所へと戻っていった。
一方、翌日、トゥパク・アマルからの呼び出しの知らせを部下から受けたフランシスコは、すっかりやつれた顔面をいっそう蒼白にした。
ただでさえ細面のその輪郭は今や頬がこけ、目はすっかり窪み、その下には黒ずんだ隈ができている。
(トゥパク・アマル様は、きっと、昨日の戦場でのわたしの醜態をディエゴから聞いたに相違ない…――!!)
にわかに呼吸が息苦しくなり、油汗が幾筋も彼の横顔を伝う。
己の天幕の中で、フランシスコは頭を両手で抱え、思わずその場にうずくまった。
今すぐ、この場から消えてなくなりたい、それほどのひどく切迫した思いに駆られながらも、しかし、トゥパク・アマルに呼び出されているのに出向かぬわけにはいかなかった。
彼は力無く立ち上がると、激しい眩暈をこらえながら、ふらつく足取りでトゥパク・アマルの天幕に向かう。
トゥパク・アマルの天幕の前では、いつものようにビルカパサが警護の目を光らせていたが、そちらに向かっていくフランシスコの姿を見ると笑顔を向けてきた。
しかし、フランシスコの何やらただならぬ様子に、ビルカパサは「フランシスコ殿、酷くお辛そうですが、まだ具合がお悪いのですか?」と、心配そうに聞いてくる。
「いや、どうということはないのだ。」と擦れた声で答えながらも、フランシスコにはビルカパサの態度がひどく白々しいものに思える。
常にトゥパク・アマル様の傍近くにいるこの男のこと、もはや全て知っているに相違あるまいに、このわたしのことを情けないと腹の内では酷く呆れていることであろう。
一方、当然ながら何も聞かされていないビルカパサには、そんなフランシスコの内面の声など想像だにつかぬまま、「トゥパク・アマル様、フランシスコ殿がお見えです。」と、天幕の中に声をかける。
「入ってもらっておくれ。それから、ビルカパサ、そなたは暫くはずしていておくれ。」と、天幕の内側からトゥパク・アマルの声がする。
「畏(かしこ)まりました。」と恭しく返事をすると、ビルカパサは丁寧な手つきで天幕の布を掲げ、「さあ、フランシスコ殿、どうぞ中へ。」と、いつもと変わらぬ笑顔で促した。
フランシスコがおずおずと天幕の中へ入ると、トゥパク・アマルは寝台の上に身を起こして腰掛け、何やら自分で腕の包帯を巻き直しているようだった。
自由に動く右手だけを使って、左腕の傷口に何とか巻きつけようとしているようだが、器用なトゥパク・アマルには珍しく、なかなか苦戦している様子である。
そして、すぐにフランシスコの方に視線を向けて、「やはり医師のようには、うまく巻けないものだね。いや、一晩たったら、何だかほどけてきてしまってね。」と、軽く肩を竦めて笑顔をつくった。
「お手伝いいたしましょう。」と、思わずフランシスコは急ぎ足でトゥパク・アマルの傍に近づくと、身を屈めて包帯を受け取り、丁寧に巻きはじめた。
「ありがとう。」と、トゥパク・アマルもフランシスコに任せ、穏やかな眼差しで、包帯を巻く相手の手つきを見守る。
「何やら、懐かしい気分になる。」と、トゥパク・アマルが、ふと呟いた。
え?…――という眼差しで、フランシスコが顔を上げると、トゥパク・アマルは少し遠くを見るような目で、「昔、そなたとわたしが、まだクスコの神学校にいた頃、よく、そなたがこうして包帯を巻いてくれたではないか。」と言う。
「ああ。」と、包帯をほぼ巻き終えながら、フランシスコも思わず懐かしそうな声になる。
「そうでしたね。
あの頃のトゥパク・アマル様は、なかなかのワンパク者でしたからね。
よくお怪我をされていた。」
「あの頃から、そなたは、まるでわたしの親代わりのように、よく面倒をみてくれていた。」
トゥパク・アマルの深く穏やかな声に、思わず、フランシスコはトゥパク・アマルの方に向き直る。
トゥパク・アマルは目を細めながら、じっとフランシスコを見つめ、静かに微笑んでいた。
その眼差しに吸い込まれるように、フランシスコもトゥパク・アマルを見つめる。
「ずっとそなたがわたしを見守ってきてくれたように、今度は、わたしがそなたを守りたい。
だから、わたしの言うことをきいてほしい。」
トゥパク・アマルの声は、あくまで静かで、深く、澄んでいる。
しかし、フランシスコは不意に、現実に引き戻される。
あの戦場での己の醜態に関することを、今、トゥパク・アマルは何か言おうとしているのだ、そう直観すると、背筋にゾクリと悪寒が走った。
短い沈黙の後、思いきったように、トゥパク・アマルが口を開く。
「そなたは、暫く、戦場に出てはならぬ。」
トゥパク・アマルの声は、非常に穏やかであったが、しかし、ひどくきっぱりもしていた。
既に青白いフランシスコの顔面が、サッと血の気を失い蒼白になっていく。
その目には、悲痛な色が激しく浮かび上がった。
そのようなフランシスコの表情を見るトゥパク・アマルもまた、非常に苦しげになる。
トゥパク・アマルは、己のがっしりとした右腕をフランシスコの方に真っ直ぐ伸ばし、そのしなやかな褐色の指で相手の肩をしっかりと掴んだ。
そして、真正面から、フランシスコの目を真剣な眼差しで見据えた。
「今のそなたの心理状態で戦場に出るのは、自ら死にに行くようなものだ。
フランシスコ殿、どうか誤解をなされるな。
わたしは、そなたの心が、あのような戦場を耐え難いと感じていることを、決して責めているのでも、咎(とが)めているのでもない。
あれほどに残虐で血生臭い戦場を耐え難いと感じるそなたの感性は、全く恥じるものではない。
むしろ、それは、人として、備えていて然(しか)るべき美徳とも言える感性であろう。
だが、時と場面によって、求められる感性は異なってくる。
あのような戦場では、人の血や肉を見ても、何も感ぜぬほどの者の方が、結局は、よく動け、生き延びる。
どちらが良い、悪いではないのだ。
人は、それぞれ、己を偽らずにいられる場面でこそ、その力を存分に振るうことができるものだ。
それは、戦乱の今の世とて、変わりはせぬ。
今の状況とて、実際、戦場以外でも為すべき仕事は山ほどあるのだから。
フランシスコ殿、賢いそなたなら、わたしの話をわかってくれるね?」
あくまで静かに、一言一言を丁寧に話していくトゥパク・アマルの言葉を、しかし、フランシスコの遮断された心は、果たしてどれほど聴き取れていたことだろうか。
呆然と宙を見据えるフランシスコに、トゥパク・アマルは、精一杯の誠意をこめて、再び言う。
「わたしは、そなたを失いたくないのだ。
わかってくれるね。」
それは、トゥパク・アマルの紛れもない真実の言葉であった。
しかしながら、もはや極度の自己卑下と疑心暗鬼に取り憑かれたフランシスコに、トゥパク・アマルの真心が果たしてどこまで伝わっただろう。
この役立たずの自分は、ついに、トゥパク・アマル様にも見放されたのだ…――!!
フランシスコは自分の足元が音を立てて崩れ落ちていくようなひどい感覚に襲われながら、一言も発することのできぬままトゥパク・アマルに一礼すると、柳のように頭を垂れて踵を返した。
フランシスコのうな垂れように強い懸念に憑かれたトゥパク・アマルは、思わず寝台から立ち上がる。
しかし、その瞬間、まるで高圧電流が流れたがごとくに、術後の傷跡に尋常ならざる激痛が走り、その場に崩れるように跪いた。
「フランシスコ殿…!」
苦しい息の中、去りゆく後姿に急ぎ呼びかけるが、もはやトゥパク・アマルの声も耳に入らぬほどに落胆したフランシスコは、そのまま消え入るように天幕を後にした。
一方、トゥパク・アマルの指示のもと、昨日からインカ軍の被害状況を調べていたアンドレスは、今、負傷兵たちの呻き声と血生臭い空気の充満する治療場を訪れていた。
治療場と言っても、本営の一隅の露天の空き地、及び、幾つかの専用の天幕が張られただけの極めてシンプルな場所である。
ただし、一見簡素なこの治療場ではあったが、そこに投入される食料や医薬品などの物資の手厚かったことは、いかにもあの道義心に篤い総指揮官トゥパク・アマルの陣営らしいことであった。
さらに、トゥパク・アマルの思いをそのまま反映するかのごとくに、負傷兵たちに対して、多数の従軍医やインカ族の女性たちが真心こめたいたわりの言葉をかけ、健気なほどに熱心に看護に当たる姿がとても印象的であった。
従軍医から状況報告を受けた後、アンドレス自身も治療場を視察して回った。
今回のクスコ戦で敵の銃弾及び刃物や鈍器に倒れた兵たちの状態は、想像を絶する悲惨なものであった。
多くの者が致命傷を負っており、回復を待たずに息を引きとっていた。
一つの天幕には、特に、瀕死の重態の負傷兵たちが集められている。
その天幕の入り口の布をめくったアンドレスは、その悲惨な光景に、一瞬、はっきりと目をそむけたほどだった。
そこにいる者たちは多くが、砲撃によってその身体の一部を失い、あるいは、火傷等のためか殆ど全身を包帯で巻かれた状態であった。
それらの者たちが地に累々と横たわり、地面には血糊がベッタリとこびリつき、空気は血生臭ささと、そして、夏の熱気のせいもあるのであろう、傷口から発せられる、まるで何かが腐っていくがごとくの強烈な臭気とで、とても息のできる状態ではない。
苦悶の表情のまま、アンドレスは改めて、昨日の「リマの褐色兵」のことを思い起こす。
この治療場にいる多くの者たちが、同じインカ族の者たちから受けた攻撃によって死にゆこうとしているのだ…――そう考えると、彼の胸は激しい憤怒と悲しみと理不尽さとで張り裂けそうになった。
もはや彼は、それ以上その現場を直視することができず、その場を離れかけた。
その時、不意にその同じ天幕の奥の方で、必死の様相で負傷兵の看護に当たるコイユールの姿が目に飛び込んだ。
アンドレスの心臓が、瞬間、完全に止まる。
彼は、はじかれたように、物陰に身を隠した。
しかし、どうしても、コイユールの方に視線が向いてしまう。
コイユールは、先刻のアンドレスの心の内をそのまま映し出したかのような、激しい憤怒と悲しみと理不尽さとを滲ませた横顔で、ただひたすら黙々と働いていた。
しかも、その表情には、これまでとは何か違う、いっそうひどく思いつめたような悲痛な色が浮かんでいるように思われた。
アンドレスは、瞬間、時も、場所も、己の立場も、完全に忘れてその姿に見入った。
その手を上腕の方まで赤々と血に染めながら、彼にとっては、とても直視しがたいような負傷兵たちの惨憺たる傷口に、もはや何の躊躇(ためら)いも見せず、コイユールの手は触れ、清め、薬を塗り、手を当てて痛みを取り、そして、最後には優しい微笑みを送って力づけていく。
恐らく、もう命の長くはない兵たちばかりだった。
どんな思いで微笑みを送っているのだろう…――改めて、見つめるアンドレスの目の中で、彼女のその微笑みは、あまりに悲しく儚く見える。
アンドレスは、突然、胸が苦しくなって、急ぎ、その場を離れた。
そのまま逃げ去るように治療場を後にすると、しかし、どうにも気持ちがひどく急(せ)かされるような、何かひどく居た堪まれぬ思いに憑かれ、走るようにして、本営のはずれの人気の無い林の中に入った。
周囲に人の気配の無いことを素早く確認すると、深い息をつく。
しかし、どうにも胸が苦しくて、彼は自分の胸に思わずその手を当てる。
そして、改めて、深く溜息をついた。
(本当に、俺は、何をやっているのだろう…――。)
何にとも、誰にとも、つかぬまま、ただ漠然とそんな思いが込み上げた。
そのまま傍の大木の幹にもたれかかると、全身から力が抜け落ちていくのが感じられる。
脱力したように、その身を大木にあずけたまま、アンドレスはぼんやりと上空を見上げた。
高地の短い夏を謳歌するように緑の葉を輝かせる梢たちの隙間から、正午前の澄んだ蒼い晴天がのぞいている。
何も知らぬ人がそんな彼の姿をみかけたら、それは、まるで、ふっと天から舞い降りてきて空に帰る道を忘れて途方に暮れている、褐色の若い天使のように見えたかもしれない。
一方、放心しきって空を見ている当のアンドレスの脳裏に浮かんでくるのは、今は、どうしてもコイユールのことばかりだった。
(そういえば、昨夜もトゥパク・アマル様の手術の前に見かけたっけ…。)
彼は、思いに耽ったような目になる。
トゥパク・アマル様の手術は成功したようだった。
コイユールは、手術の手伝いのために呼ばれていたのだろう。
手術前に見かけた時、とても真剣な目をしていたっけ…。
上空を見上げたまま、しかし、そんなふうに思いを巡らせはじめたアンドレスの目には、もはや空の色は映ってはいなかった。
心の中に占められた思いだけに、今、彼の全神経が収束されていく。
それは、全く、この反乱とは無関係なことばかりだったのだが。
もはや止められぬ思いとなって、これまで無理矢理に抑え込んできたものが、まるで箍がはずれて溢れ出すかのごとくに彼を呑み込んでいく。
(コイユール…昨晩のトゥパク・アマル様の手術の手伝いって、どのようなことをしたのだろう…。)
コイユールのことだから、きっと、あの自然療法をやったのに相違ない。
アンドレスの手が無意識のうちに、己の額を押さえこむ。
彼はそのまま、瞼をギュッと閉じた。
(それでは、トゥパク・アマル様の傷口のあたりに手を当てていたのだろうか。
トゥパク・アマル様の腕に、コイユールが触れていたということか…――!)
突然、アンドレスの心がズキンと痛んだ。
え、何だ…?!――と、本人自身も、己の心の動きと反応にとまどい、困惑した念に憑かれた。
治療の手伝いのためなのだから、相手の腕に触れるなんて、あまりにも当然のことではないか、と、アンドレスの理性は必死で己の心を説得しようとする。
(だけど…!!)
今度は足元の緑の草に目を落とした。
考えてみれば、コイユールと知り合ってもう10年以上も経つし、もともとは母上の治療を通じて知り合って、幼い頃からコイユールの施術のことをずっと見てきたのに…俺自身が、やってもらったことって、たったの一度も無かったのではないか?
「そうだよな….それって、どういうことなんだ。」
思わず、一人、呟いた。
そのような己の様子に気付きさえせず、そして、客観的に見れば、今この切迫した戦乱の最中(さなか)に熟考するようなこととは到底思えぬ問題に心は占められ、しかし、もはやアンドレスのその思考は止めることができなくなっていた。
(母上はともかく、マルセラだって、村の人たちだって、今は多くの負傷兵の者たちも、それに、あのトゥパク・アマル様さえ、ついには…――-それなのに、一番はじめからコイユールのことを知っている俺は、一度もコイユールに、あの指を触れてもらったことがないんだぞ…それって…!)
「はあっ…。」と無意識に大きな溜息をついてから、彼はやはり木にもたれたまま、腕組みをした。
昨夜、トゥパク・アマル様と、どうだったのだろう…。
コイユールは昔から、トゥパク・アマル様のことをすごく慕っていたからな。
手術中、何時間も一緒にいたんだよな。
コイユールは、その間、その指をずっとトゥパク・アマル様に触れていたのだ…――!!
突如、アンドレスの心臓がギュッと締め付けられるように痛んだ。
彼は激しく頭を振った。
「ああっ!!
もう、俺はこんな時に、一体、何を考えているのだっ!!」
すべてを振り払うように、アンドレスは叫んだ。
「アンドレス、そなた、どうしたのだ?」
突然、前方から声がした。
飛び上がらぬばかりにギョッとして、アンドレスは石のように身を縮め、完全に硬直した。
そして、全く滑稽なほどに、恐る恐る声の方を見る。
アンドレスの視線の先には、ロレンソが唖然とした表情で立っていた。
「な、なんだ、ロレンソか…!」
アンドレスはまだ驚きの余韻を引き摺りながらも、しかし、相手が朋友のロレンソであったことに、かなりホッとして深く胸を撫で下ろした。
一方、ロレンソは訝し気な表情のまま「なんだとは、なんだ?アンドレス。」と切り返しながら、じっとアンドレスの顔を探るように見る。
「それにてしも…、アンドレス、今の完全な隙だらけのそなたの様子こそ、一体、なんだ?
敵の伏兵でもいようものなら、あっさり一撃であの世いきだったぞ。」
呆れたようにそう言って、「何を考えていた?」と、詰め寄るように問う。
「な、何もっ…!!」とムキになって否定するアンドレスの方に、さらに、じぃっと視線を投げながら、「そんなはずはあるまい。」と、ロレンソは淡々とした声でいなす。
そして、少しまじめな顔になって、「話ぐらいは、わたしにも聞けるぞ。」と言いながら、傍の大木の幹に、その逞しく鍛えられた青銅色の腕を添えた。
夏の高地を吹き渡る涼やかな風が、緑の梢を揺らしながら、さらさらと優しい音を立てていく。
まるで精霊が奏でゆくかのようなその心地よい音色に、二人は暫し聞き入った。
ロレンソは辺りに漂う爽やかな夏の草木の香りを全身に吸い込むような仕草をすると、「この景色の中にいると、戦乱の中にあるなんて嘘みたいに思えてくる。」と、静かに言った。
アンドレスも頷く。
「本当に…。」
そんなアンドレスの方を、ロレンソは真っ直ぐに見た。
「アンドレス、そなた、誰か想う人があるのであろう。」
ロレンソのその真摯な眼差しは、決して冷やかしたものではなく、包み込むような誠意に溢れたものであった。
その瞳に吸い込まれるように、アンドレスは一瞬その首を縦に振りかけるが、ハッと我に返ると、「そっ…そんな人、いるわけがないだろう!!」と慌てて否定した。
己の口調に必要以上な力が入ってしまい、かえって決まり悪い思いに憑かれ、彼は反射的にロレンソから視線をそらす。
そして、もはや己の意思ではどうにも止められぬままに微かに頬を染め、足元の草地に目を落とした。
ロレンソの目の中で、もう長い付き合いになる友のその横顔は、己の言葉が真実ではないことをあまりにもありありと物語っている。
「わたしにまで隠すことはないのに。」と、ロレンソの声は少しだけ寂しそうだった。
「そなたのような、溢れるほどに情感豊かな者が、誰も想う者がないなどありえぬことだ。
そんなことなら、むしろ、その方が不自然というものだ。」
揺れる眼差しで再び顔を上げたアンドレスに、ロレンソは目を細めて頷いた。
「ロレンソ…。」と呟くアンドレスの瞳の中で、ロレンソは、いつも通りの、あの大人びた表情のままに微笑んでいる。
「アンドレス、わたしたちは、どのような立場や境遇にあろうとも、本質は誰もが同じ一人の人間。
そうだろう?
もちろん、そのようなこと、今更、そなたのように、昔から誰にでも分け隔て無き者に言うまでもないことだが…。
なあ、アンドレス…この戦(いくさ)で、そなたがどれほどトゥパク・アマル様からのご期待を受けているか、そなたがインカ軍で果たすべき役割がどれほどに重責を伴うことか、わたしなりに良くわかっているつもりだ。
だが、だからと言って、誰かを愛してはいけない、などということはあるまい。
どのような状況にあろうとも、そなたは、変わらず、そなた、なのだ。
意識の上で己の感情を殺そうとすれば、逆に、無意識の中でそれに縛られる。
己の感情を殺すことと、己の感情を統制することとは、違うのだから…。
アンドレス、そなたの全てをそなた自身が受け入れ、真(まこと)のそなた自身であってこそ、真の意味で他者の全てをも受け入れられる…――それは、将として必要な器でもあると思うのだが…。」
そう言って、ロレンソは、包み込むような眼差しでアンドレスの瞳を見つめた。
一方、ロレンソの言葉に、アンドレスは息を呑んだ。
コイユールのことなど知る由もないこの眼前の友は、しかし、まるで全てを見抜いているかのごとくに、己の心が迷い求める答えを与えようとしているかのようにさえ思われた。
アンドレスは胸の中に熱いものが激しく込み上げるのを感じながら、はじめて素直に、本当に、この世界で全くはじめて、自分の想いを自分以外の者の前に明らかにする。
「とても大事に想う女性(ひと)がいる。」
はじめて自分の声となって外側からその言葉を聞き、アンドレス自身が驚いたように目を見開いた。
その胸の鼓動が、にわかに速くなる。
「そうか。」と、ロレンソは変わらぬ包み込む眼差しで、胸の内を明かしてくれた友の方を真っ直ぐに見つめた。
そして、「その女性(ひと)とは、いかなるお方なのか?」と、穏やかな声で問う。
アンドレスの揺れる瞳が、ふっと遠くなる。
暫し、沈黙が流れた。
次第に高くなる夏の太陽が、二人の若者の褐色の皮膚に、熱を帯びた陽光を降り注ぎはじめた。
アンドレスがこれ以上は口を開きそうにないのを察したロレンソは、変わらぬ穏やかな口調で問いかける。
「マルセラ殿か?」
え?…――という表情でロレンソに視線を返したアンドレスの目に、ロレンソは静かに微笑み返す。
「違うかとは思ったけれど、念のため、聞いておきたかったのだ。」
ロレンソの意味ありげな言葉に、今度はアンドレスが身を乗り出した。
「もしかして、ロレンソ…!
マルセラを?!」
思わず目を瞬きながら夢中で自分の顔を覗き込んでいるアンドレスに、ロレンソは落ち着いた声で応ずる。
「ああ、そうだ。
そなたとは恋敵にはなりたくなくてね。」
「そうだったのか…!!」
アンドレスは深い感慨を込めた声で言う。
そして、瞳を輝かせながら、大切な朋友を眩しそうに見つめた。
「マルセラは、昔から男勝りで、闊達で、まるで少年のようだった。
でも、本当はとても心根の美しい、気立ての優しい女性だと思う。
そうか、マルセラを…君が…!!」
感動を素直に滲ませながら、あの輝くような笑顔でロレンソを見つめるアンドレスを、ロレンソは涼やかな大人びた眼差しで、「そなたにそう言ってもらえるのは嬉しい。」と応える。
しかし、少し低い声でつけ加えた。
「だが、マルセラ殿が本当に想っているのは、そなたのことだぞ。
アンドレス。」
「え?!」
アンドレスは目を見開き、固唾を呑む。
ロレンソは目を細め、僅かに、視線をそらした。
「まさか…。マルセラが、お…俺を…?」と、やや混乱した目の色で呟くアンドレスに、ロレンソは微かに溜息をつく。
「そなたは、こうしたことには、全く鈍感なのだな。」
そして、少し寂しそうに微笑んだ。
アンドレスは返す言葉が無く、ひどく戸惑った表情のまま、眼前の友の顔を見ては、また慌てて足元に視線を落とし、そんなことを交互に繰り返している。
そんなアンドレスの肩に手を置いて、ロレンソはいつもの大人びた笑顔を真正面から向けた。
「これはわたしと、そして、マルセラ殿との問題だ。気にするな。それより…。」と、改めてアンドレスの瞳のずっと奥の方まで深く見据える。
「そなた自身の想いを形にせねばなるまい。
己の心を偽ってはならぬ。
真の心の声は、真にあるべき方向を指し示しているのだから。」
アンドレスは言葉も無く、しかし、強く胸に迫りくるものを感じながら、吸い込まれるようにロレンソの目を見つめた。
己の心の中で非常に固く凍っていた何物かが、光を浴びて、僅かながらも氷解しはじめた…――そんな感覚であった。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第六話 牙城クスコ(6)
をご覧ください。◆◇◆
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