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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第九話 碧海の彼方(9)
【 第九話 碧海の彼方(9) 】
ところで、怒涛の勢いで馬を飛ばし続けてきたシモンたちが、このトゥパク・アマル陣営に到着したのは、既に深夜1時を回る頃だった。
迫りくる激しい決戦を前にして――さらに、奇襲にも備えて、戦闘服のままではあったが――多くのインカ兵たちは、束の間の休眠に入っている。
しかし、当直や見張りの兵たちが間断なく任務に奔走しており、無数の松明に照らし出された陣営は昼間のように明るかった。
陣営から少し離れたところで馬を降り、門前まで近づいて、草陰から陣営内を見渡しながら、シモンが小声で囁く。
「くそ…!
この状況では、とても俺たちのような見知らぬスペイン人が近づける雰囲気じゃない。
かといって、こんな場所に隠れているのを見られては、それこそ、確実にスペイン軍の斥候と見間違われる」
しかし、リノは小さく首を振り、「大丈夫です。ここは俺に任せて…!」と呟くと、恍惚の滲む表情で、懐から何かを大事そうに取り出した。
見るからに臆病そうなリノだが、今は驚くほど落ち着いた態度に、シモンは目を丸めながら相手の取り出したものを見やった。
そして、息を詰める。
それはリノの手の平に乗るほどの小型にもかかわらず、陣営から漏れくる松明の灯りを反射して、目に痛いほど燦然と光り輝いていた。
「それは…なんだ?」
上擦った声を漏らすシモンの脇で、リノは瞳に黄金色の光を反射させながら呟いた。
「もらったんです。
脱獄を助けた時に」
「もらった?
なるほど、脱獄幇助の返礼品ってわけか」
皮相交じりのシモンの声音に、だが、まだリノは恍惚としたまま、黙って頷く。
まさしく、それは、かつてトゥパク・アマルから渡された純金のビラコチャ神像――脱獄に必要な品々をトゥパク・アマルに依頼され、それらを外界から牢に持ち込んだ夜、その返礼の一部としてリノが受け取ったインカの秘宝であった。
あの時、脱獄に必要な品々を受け取ったトゥパク・アマルは、リノに深く礼を述べ、それから、鉄格子ごしに、リノの手の平に、この純金のビラコチャ神像を乗せたのだった。
繊細な彫刻が施された神像の眼部には、緑色の神秘的な光を放つ大粒のエメラルドがはめ込まれ、獄中の仄かなランプの灯りの下にもかかわらず、目に痛いほど眩く輝いていた。
そして、そのエメラルドの煌きさえも圧倒するほどに、神像そのものが燦然たる閃光を放ち、それが、いかに良質の黄金から成るものかを雄弁に物語っていた。
今、神像を見つめるリノの脳裏に、あの夜、トゥパク・アマルと交わした言葉が走馬灯のように蘇る。
『こ…これは…?』
『ビラコチャ神の黄金像。
ビラコチャは、我々インカの民が、森羅万象、あらゆるものを生み出した創造神として崇拝する神』
『ビラコチャ…神……』
あまりの眩さに目を細めながら息を呑むリノの前で、トゥパク・アマルは僅かに俯き、ビラコチャ神像に礼を払うように瞼を閉じた。
やがて、彼は、金色の光を反射する目元を見開くと、真摯な瞳でリノを見つめ、静かに微笑む。
『それは、インカ皇帝の一族のみに受け継がれている秘宝のひとつ。
わたしとの縁ある者であることの証。
そして、それを持つ者は、わたしの元へ自然と誘(いざな)われ、両者が生きてさえいれば、やがて再会も果たせよう。
そなたと、再び外界で見(まみ)えることの叶おう日がくることを願っている。
リノ…――本当に、ありがとう』
「おい!!
こんな時に、何をボケッとしてる!」
いつしか、すっかり思いに耽っていたリノの脇腹を、シモンの肘が鋭く小突いた。
「いてっ…!
あっ――」
瞬時に意識を現実に引き戻されたリノの視界に、腰の銃を引き抜いて草むらの奥へと捨て去っているシモンの姿が映る。
一方、シモンはリノの全身に敏捷な視線を走らせると、「武器を持っていれば捨てていけ」と、早口で低く言う。
「いえ、俺は、何も…」
「よし。
では、行くぞ!」
そう言い終わるか否かという間に草陰から飛び出したシモンの後を、リノも慌てて追いかけた。
他方、突如、門前に姿を現した見知らぬ二人の白人に、強度に張り詰めた空気の中にいたインカ兵たちの険しい眼光が射るように注がれる。
二人は、たちまち鈍器や銃器で武装した厳つい多数の衛兵たちに、グルリと取り囲まれた。
「おまえたち、何者だ?!」
この状況下では、下手な発言や身動き一つが命取りになりかねないことを悟っているシモンは、素早く両手を挙げると声を落として沈着に言う。
「我々は、敵ではない。
撃たないでくれ」
既に足が完全にすくみあがっているリノも、顔面蒼白のままに、それに倣って両手を挙げた。
すぐにインカ兵たちが、二人の全身をくまなく取り調べる。
武器を帯持していないことを素早く確認すると、改めてシモンに迫りながら詰問する。
「何用あって、ここに来た?」
さすがのシモンも密かに手の平に発汗を覚えたが、しかし、外面的には沈着な態度を崩さぬまま、言葉を選びながら応えた。
「火急の重要な用向きがあり、直接、トゥパク・アマル殿に会いにきた。
会わせてもらえないだろうか?」
「なんだと?!
このような時に陛下に何用だ?!」
いよいよ殺気立って迫り来る褐色の兵たちに凄まれて、それこそ小心なリノは、すっかり怯え切って、シモンの背に縋(すが)りついたままガタガタと総毛立って震えている。
そんなリノの盾になりながら、シモンは、リノの恐怖を鎮めるように静かに言った。
「リノ、さっきのを出してくれ」
リノは震えの止まらぬ手に握り締めていた黄金神像を、辛うじてシモンの手に押し付ける。
シモンは素早くそれを受け取ると、その燦然と輝くビラコチャ神像を、インカ兵たちの前に決然と差し出した。
次の瞬間、たちまち兵たちの間から、驚愕と感嘆の大きなどよめきが湧き起こった。
「おお…!!
それは――!!」
その後、シモンとリノの来訪がトゥパク・アマルの耳に届くまでに、殆ど時間はかからなかった。
深夜の訪問者の到来を知らされた時、トゥパク・アマルは、治療場の拡張作業の後に開かれた詰めの軍議を終えたばかりで、主だった重側近たちは仮眠のために各天幕に戻ったところであった。
予測される英国艦隊の襲来と開戦まで目前に迫った今、陣営内にも、側近たちの間にも、いやがうえにも張り詰めた緊迫感が漲っている。
そのような状況下ではあったが、リノの来訪を知らされたトゥパク・アマルは、すぐにリノを通すよう命じ、また、リノが引き合わせたいと言っているらしき「シモン」なる白人をも通させるよう伝えた。
いや、むしろ、その到来を前から予測して、待ち侘びていたかのように――。
ちょうどその時、彼の天幕の中にいたのは、トゥパク・アマルとの直々の打ち合わせのために最後まで残っていたアンドレスのみだった。
トゥパク・アマルと面と向かって二人きりになると、つい先刻のコイユールとの小競り合いが彼の脳裏をかすめ、複雑な心境が胸中をよぎったが、今はそれどころではないと己に言い聞かせ、振り払うようにして想念を締め出した。
かくして、黄金のビラコチャ神像を手に、興奮の面持ちでリノたちの来訪を告げた衛兵が立ち去ると、アンドレスは、真面目な顔で、向かいに座しているトゥパク・アマルを見た。
「リノ?
誰です、その者は?」
「リノは、わたしがクスコの地下牢に囚われていた時、脱獄に力を貸してくれた番兵だ」
静かな声で応えるトゥパク・アマルに、アンドレスはハッと息を詰める。
トゥパク・アマルが牢を抜けたからこそ、ここにいるのだと分かってはいたが、どのようにして脱獄を果たしたのかについては、これまで全く聞いたことがなかったのだ。
だが、もちろん――その手段に関心が無かったわけではない。
アンドレスは、にわかに鼓動の高まりを覚えながら、慎重に言葉を選びつつ問いかける。
「力を貸してくれたとは、どのように…?」
「脱獄に必要な品を、少々、外界から入手してもらったのだ」
「え?!」と、アンドレスは思わず固唾を呑んだ。
「外から脱獄のために使う道具を持ち込んでもらったってことですか?
でも、相手はスペイン人の番兵ですよね?
一体、どうやって説得したんです?!」
すっかり仰天して声高になってきたアンドレスに、トゥパク・アマルは、しなやかな人差し指を口元に立てた。
「しっ…!
多くの兵たちは休んでいるのだ。
静かに」
それから、「さあ?そなたがわたしの立場であったら、どうしていたかね?」と、低声(こごえ)で言い添えると、あとは、ただ黙って机上の燭台の灯りへと視線を移した。
蝋燭の光に浮き上がるトゥパク・アマルの輪郭は、常と変わらず厳然として力強いのだが、何かを思い出しているかのようなその表情は、眩いほどの中性的な美しさを湛えて見える。
アンドレスがそんな相手の横顔に釘付けられていると、ほどなく、天幕入口に、リノたちを伴ってきた衛兵の声が響いてきた。
「トゥパク・アマル様。
お客人がたをご案内仕(つかまつ)りました」
その声に、アンドレスは、ハタと我に返った。
「すいません、長居をしてしまって…!
俺は、これで失礼します!」
そう言って慌てて立ち上がった彼を、「そなたも、ここにいなさい」と制すると、トゥパク・アマルは自ら立ち上がって天幕の入口へと向かっていく。
そして、兵たちに国賓扱いさながらの丁重さで傅(かしず)かれつつ導かれてきた二人のスペイン人――リノとシモンの前で、緩やかに天幕の垂れ布を開いた。
今、リノの目の前にいるトゥパク・アマルは、あの血生臭い暗黒の地下牢に、着の身着のまま、拷問による負傷の手当てさえも放置されて鎖に繋がれていた時とは、一見、別人のようだった。
強靭で健康的な肉体に、華美ではないが上質な衣服を身に纏い、美麗な輪郭を縁取る漆黒の長髪は燭台の光に濡れたように輝き、一縷の乱れも知らないかのようだ。
だが、良く見れば、包み込むような静寂な瞳の奥に宿る激情の光、精悍でありながらも、どこか妖艶でさえある気配は、あの時と変わらない。
冷静に振り返れば、あの牢での全ては、脱獄を果たすために牢番だった己を取り込むためのトゥパク・アマルの手練手管であったのだろう。
だが、それでも、あの獄中での深夜の「逢瀬」のことを思い出す度、今でも、リノの脳裏は痺れるような陶酔感に占めらた。
そのトゥパク・アマルを、こうして生身のままの姿で、現実として目前にして、リノは再び強い恍惚に囚われていた。
彼は、身も心も熱く火照らせたまま、天幕の入口に立ち尽くしている。
そんなリノに歩み寄ると、トゥパク・アマルは、その逞しい腕でリノを包み込むように抱き締めた。
そして、カッと血の上った相手の耳元に顔を寄せ、あの時と変わらぬ甘美な声音で囁く。
「リノ、良く来てくれたね――。
そなたへの恩を、わたしは、生涯、忘れることは無いであろう」
そして、暫しの後、トゥパク・アマルは、あまりの恍惚感から意識朦朧となってしまったリノを腕からそっと離すと、その肩を支えながら天幕中央の長テーブルに導き、座らせた。
その傍では、リノを熱く抱擁したトゥパク・アマルの姿に、すっかり面喰ったアンドレスが、絶句したまま赤面している。
一方、トゥパク・アマルは、そのようなアンドレスには構わずに、むしろ、先刻から己とリノの様子を、まんじりともせず見つめている、もう一人のスペイン人へと視線を向けた。
「ようこそ、我がインカ軍の陣営へ」
それから、相手の方へと強靭な腕を差し出しながら歩み寄り、優美に微笑む――「わたしに火急の用があると言うのは、そなたか?」
「トゥパク・アマル殿、お目にかかれて光栄です」
シモンは差し出された相手の手を握り返すと、力強く頷いた。
トゥパク・アマルも頷き返すと、「さあ、奥へ」と促し、リノの隣にシモンを座らせた。
そして、リノの傍で息を詰めているアンドレスを示して、低く沈着な声で言う。
「この者は、当陣営でわたしの副官を務めているアンドレスという。
同席をお許し願いたい」
シモンは鋭利な視線でアンドレスを見渡した後、そちらの方へと腕を差し出した。
アンドレスも、慌てて我を取り戻し、己の腕を差し出した。
そして、互いに手を結び合う。
そのような二人の姿を目に収めながら、トゥパク・アマルが、再び口を開く。
「さて、シモン殿――。
ゆっくり話しをしたいところだが、この状況ゆえ、分かってくれたまえ。
早速だが、そなたの用件を聞かせてもらいたい」
シモンは、怒涛の勢いで馬を飛ばしてきた名残の乱れた前髪を素早い手つきですき上げ、居住まいを正した。
「トゥパク・アマル殿、わたしは、此度のあなたの解放闘争に、賛同する者です」
トゥパク・アマルの沈着な瞳の奥で静かに燃える蒼い光を見据え、シモンもまた、力強い光を目の奥で閃かせながら、続けていく。
「この植民地生まれの我ら白人たちもまた、インカ族や黒人の者たちと同様、スペイン本国の圧制から解放されたいと切望していることは、トゥパク・アマル殿もよくご存知の通りです。
それは、あなたが、この反乱の大義として掲げていることの一部でもある」
そこまで話を聞くうちに、トゥパク・アマルは、そのしなやかな褐色の指先を己の輪郭に添え、もう、とうに、何もかもを察しているという目になっている。
そんなトゥパク・アマルの眼差しを見据えながら、シモンは、隣に座っているリノの方へも視線を走らせ、そして、さらに続けていく。
「もし、その気になれば、わたしは、リノのような貧しい白人たちを、多数、兵士として募り、すぐにも新たな義勇軍を組織する準備があるのです」
「つまり、それ相応の財力と統率力を持つ――と、言うことか」
トゥパク・アマルが、相変わらず感情の揺らぎのない声音で問う。
他方、シモンは頷き、燭台の光を映して燃える目を真っ直ぐトゥパク・アマルに向けた。
「シモン殿、そなたは、何者なのだ?」
激情を秘めた深い漆黒の瞳で己を見つめるトゥパク・アマルの方へと、僅かに笑みを返しながら、シモンは懐から銀細工の煙草入れを取り出した。
トゥパク・アマルは、黙って、傍にあった天然石の皿を相手の前に置く。
蝋燭の炎に煌く銀色の煙草入れを己の方へも差し出したシモンに、トゥパク・アマルは、しなやかな手つきでそれを丁寧に断る。
同様に、己の方へも煙草入れを向けたシモンを、アンドレスも、そっと辞した。
シモンは灰皿を引き寄せると、一人で煙草をくわえる。
そして、火をつけながら、鋭い精悍な面差しで、低く応えた。
「スペイン本国から渡り来た亡き両親が、たまたま財力を持っていたというだけです。
そして、わたし自身は、この国の解放を切に願ってきました。
トゥパク・アマル殿、そして、アンドレス殿、あなたがたと同じように。
互いの利害が一致するのであれば、わたしは、あなた方に協力することも吝(やぶさ)かではない。
ただ――わたしは、平たく言えば、共和主義者なのです。
残念ながら、インカ皇帝の復権については、賛同しかねる――」
他方、トゥパク・アマルは、輪郭に添えていた指先を、テーブル上でゆっくりと組み直す。
そして、静かに微笑した。
「そのことならば、案ずるには及ばぬ。
わたしの願いは、この地に住まう全ての民が、真に解放されること。
そのことが成し遂げられるならば、それ以上の何をも、わたしは望んではいない」
「トゥパク・アマル殿」
シモンは、その真意を確かめるように、今一度、トゥパク・アマルの瞳の奥を挑むように見据えた。
そのような相手の視線を受け留めて、トゥパク・アマルは、その長身をやや前傾姿勢にさせながらゆっくりと語り出す。
「シモン殿、そなたも知っての通り、かつてのインカ帝国は皇帝を帝国の頂点に据え、帝国の全ては皇帝に帰属するものとされていた。
だが、皇帝たちは、その富を独占するのではなく、己の元に集まった富を分配し、飢饉への備えはもちろん、老人や病人、子ども、貧しき者など、弱き立場にある者たちにこそ特に手厚い庇護を与えた。
逆に、最高位の貴族さえ、己の私有物など持ってはいなかった。
それ故、インカ帝国時代、帝国の民たちは、過酷な自然環境の中に生きながらも、誰もが飢えることなく喜びの中に暮らし、国は豊み栄えていたのだ。
シモン殿、そなたのような者に言うまでもないことだが、肝心なことは、皇帝を中心に据えるか否かではなく、全ての民が幸福に豊かに暮らせる国家の仕組みをいかに築き上げるかであろう。
時代が移れば、君主制なり、共和制なり、その仕組みのあり方も柔軟に遷移するのは自然なこと。
それ故、わたしは、この時代にあって、インカ皇帝の復権に、こだわってなどいない」
そう淡々と語るトゥパク・アマルの微動だにせぬ表情を見て取ると、シモンは、今度はアンドレスの方へと向き直った。
だが、単にトゥパク・アマルからの受け売りとしてではなく、己の意志としてトゥパク・アマルの見解に添っているアンドレスもまた、シモンの面差しに、ただ黙って、しかと頷くのみである。
そのようなシモンとアンドレスと、そして、恍惚から醒めて真摯な瞳を取り戻しているリノの方にも、包み込むような、それでいて力強い視線を向けながら、トゥパク・アマルは緩やかに微笑んだ。
「シモン殿、リノ殿、そして、アンドレス――この戦が終われば、これからは、新たな時代の幕開けとなろう。
これからは、そなたたちの若き力を結集させて、この国の未来を築いていくのだ。
そのために、シモン殿やリノ殿のような白人も、アンドレスのような混血児も、そして、わたしのようなインカ族も、もちろん黒人たちも、いかなる人種も排除されることなく、共に手を携え、調和し、平和と幸福の中に生き得る国を築かんとする、ゆるぎなき志を忘れてはならぬ」
そこまで言うと、トゥパク・アマルは、にわかに厳(いかめ)しい武人の風貌に変わり、褐色の強靭な指を机上で強く握り合わせた。
「此度の戦とて、避けることができるのならば、避けたかった。
だが、もはや、ここまで来てしまった以上、決着をつけねばならぬがな――」
その後、義勇兵として陣営に残ると言い出したリノを残して、シモンは、再び怒涛の勢いで、今度は己の屋敷へと馬を馳せた。
さすがに南米大陸有数の資産家であった彼の亡き両親が残した邸宅だけあって、その広さも、屋敷も、申し分の無い豪華なものだった。
クスコ郊外の広大な敷地内には、亡き両親が本国を懐かしんで造った複数のパティオ(中庭)があり、それを囲むようにしてコロニアル風の豪奢で重厚な大邸宅が広がっている。
以前は、その庭の花壇や低い植え込みの中で、多数の黒人奴隷たちが働いていたが、かつてトゥパク・アマルが『黒人奴隷解放令』を出して間もなく、もともと革命の理念を持つシモンは、迷うこと無く全ての奴隷たちを解放した。
(註☆写真は、クスコの Hotel Monasterio からお借りしています。
300年以上の歴史を持つ修道院を改造したコロニアル風の建物で、広大なパティオを有しています。)
今、夜明けの曙光と共に、屋敷の中に飛び込んできたシモンの元に、血相を変えて執事が走り寄る。
「旦那様、どこへ行っていらしたのです?!
クスコの街は厳戒態勢になっております!!
このように物騒な時に、旦那様の御身に何かございましたら…!!」
スペイン渡来の見事な家具や骨董品の並ぶ広間を足早に通り過ぎ、己の書斎に向かう大理石の階段を駆け上りながら、シモンは執事を振り向いた。
「この屋敷も、残っている農園や鉱山も、全て売却する。
急いで手配を進めてくれ。
そして、資金が捻出できたら、すぐに兵を募れ。
裏でいかなる手を回しても良い、大量に火器も手に入れろ」
「だ…旦那様?!」
仰天している執事を階段上から見下ろすシモンの汗と埃まみれの顔面では、あの眼力に満ちた鋭い瞳が、いよいよ炯々たる閃光を放っている。
「おい、ぼやいている時間など無いぞ。
さあ、急いでくれ!
これから、もっと忙しくなるぞ!!」
彼の頭上では、天窓から差し込む早朝の陽光が、美しい紋章の施されたタイル貼りの壁に反射して、幾重もの鮮烈な光環を描きだしていた。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第九話 碧海の彼方(10)
をご覧ください。◆◇◆
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