大福耳の世界
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何かに対して なにかを言おうとすると「絶対」と言う事を論ずるのか「比較」と言う事を論ずるのか それとも「関係」を論ずるのかこの3つを言えば大方のようは足りて余計な事を言わないで済みそうですね。 「絶対」には所与の条件を備えた原理で当たり「比較」に対しては差違で「関係」に対しては系を見つける事という私のルールのお話しです。 このルールで「モデル」を観察しますと今まで見落としていたカラダに関しての諸々の事が見てきますね。 私たちは常にある時代 ある地域 ある社会集団に属しておりその条件が私たちのモノの見方 感じ方 考え方を基本的なところで決定している。 だから私たちは自分が思っているほど自由にあるいは主体的にモノを見ているわけではない むしろ私たちは ほとんどの場合 自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。 そして 自分の属する社会集団が 無意識的に排除してしまったものは そもそも私たちの視界に入ることが無くそれ故 私たちの感受性に触れることも わたしたちの思索の主題となることもない。 私たちは自分では判断や行動の「自立的な主体」であろうと信じているけれども 実はその自由や自立性は かなり限定的なものである。 体というモノと それが織りなすコトを自由自在に観ようとしても今までの自分のものの見方 感じ方 考えかたでは上手くいきませんね。 他からそれを借りてくる以外に仕方ありません! それに打ってつけのツールが構造主義ではないかと私には感じられるのです。 そのツールの使い方をまねいてる間に誕生したのが Yaoyorozu 篠原式 なのであります。 このブログは ご縁と セレンディー[セイロン(現在のスリランカ)の三人の親子が 探しても見つからない珍宝を発見するというお伽話から「思わぬものを偶然発見する才能 掘り出し上手」と いう意味]とシンクロニシティー(共時性、同時性)の産物でその標本のようなモノです。 Yaorozu篠原式は 皆様を愛してやみません。 私は コツコツ学び 1日畳の目ほど進み まいりますので皆さま宜しくお願い致します。 Yaorozu篠原式 大福耳 正念 (合掌) http://yaoyorozu.sun.bindcloud.jp/
2017/04/12
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