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モチモチの木・考 その1 幼い子にとって暗がりは恐怖です 作者の斎藤 隆介氏は1917年1月25日生まれ~1985年10月30日(68歳没)の日本の児童文学作家。1917年ということは大正6年、私が生まれる36年前です。もし仮に斎藤隆介さんが今年御存命なら齢101歳です。私が斎藤さんの作品と最初に出会ったのは1973年(当時20歳)、友人から推薦された図書に「ベロ出しチョンマ」という単行本でした。「モチモチの木」の初版本は1971年11月20日に滝平二郎氏の切り絵を得て岩崎書店から創作絵本のシリーズの一つとして発刊されています。(私が18歳、けれども当時の私にとっては絵本も斎藤さんも全く未知の世界、関心も興味もありませんでした。) 峠の猟師小屋に64歳のじさまとたった二人で暮らす豆太は、5歳になっても夜中に一人で雪隠(せっちん)に行けません。じさまにしてみれば豆太は可愛さもひとしおの初孫か何かでしょう。ここでいうところのせっちんは屋内にはない小屋の外付けのトイレです。峠の猟師小屋というロケーションを併せ持って思い描いてみれば、周囲に隣接した人家や集落があるとは思われません。月夜の晩ででもなければ猟師小屋の周囲はかなり真っ暗で静かな場所だったことでしょう。暗がりの中にぽつり独立した一軒家なのだろうと思います。電気は来ているだろうけれども小屋の中の部屋からセッチンまでの通路の夜間の照明はそれほど豊かではないでしょう。豆太は臆病な子供なのですが、臆病にならざるを得ないような住環境も背景にありそうです。 そのせっちんの横には大きなモチモチの木が、空いっぱいに枝を伸ばして立っています。昼間見上げる巨木と夜の暗がりの中で見上げる巨木とでは同じ木でも存在感が大きく異なります。目に映る木の姿も、また、シルエットから連想するイメージも別物の世界です。 じさまはどんなにぐっすり眠っている時でも、豆太の「じさまぁ」の一言にすぐ目をさまし、真夜中にせっちんに連れていってくれます。たとえ小さな声で呼ばれても聞こえるのです。こんなところにも豆太に対する情愛の深さが読み取れます。ある夜大好きなじさまが急な腹痛を起こし苦しみもだえます。豆太は俄然奮起し医者様を呼びに夜道をたった一人ひたすら走ります。片道約2キロの距離だったろうと思います。町中と違って街灯などともっていない山の中の道です。まだ5歳です。実に健気な行動です。 (前略)――イシャサマオ、ヨバナクッチャ!豆太は仔犬みたいに身体を丸めて、表戸を身体で吹っ飛ばして走り出した。ねまきのまんま。ハダシで。半道もあるふもとの村まで……。外はすごい星で、月も出ていた。峠の下りの坂道は、一面の真っ白い霜で、雪みたいだった。霜が足に噛みついた。足からは血が出た。豆太は泣き泣き走った。いたくて、さむくて、こわかったからなァ。でも、大好きなじさまが死んじまうほうが、もっと怖かったから、泣き泣きふもとの医者様へ走った。(後略) 無我夢中でひたすら頑張ったのです。豆太は医者様の背中に負ぶわれて小屋に戻る道でモチモチの木に灯がともっているのを確かに見ます。 (前略)つぎの朝、腹いたが治って、元気になったじさまは、医者様の帰ったあとで、こう言った。 「お前は、山の神様の祭りを見たんだ。モチモチの木には灯がついたんだ。お前は一人で夜道を医者様呼びに行けるほど勇気のある子供だったんだからな。自分で自分を弱虫だなんて思うな。人間、優しささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ。それを見て他人がびっくらするわけよ。ハハハ」(後略)
2018.01.31
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限りのぎりのぎりを極めてみたい 自分という「限り」の縁のへりを丹念に歩いてみたい。限りのぎりのぎりを極めてみたい。限りがあるというのは無限大とは違うけれど不自由というのはなんて自由なんだろう。ガッシュ絵の具のようにスペースをマットに塗りつぶすのも表現だけれど、透明絵の具で塗っていくときに出てくる色むらを、これまで、ある種苛立ちの対象にしていたけれど視点を変えてみれば色むらは面白い。色むらでとことん遊んでみたい。塗むらの揺らぎの中に新たな表現世界を見つけた朝。脳卒中を体験したことで新たな世界と出会えている。今日は定期通院の受診日。
2018.01.29
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一日24時間 24という数字は実にうまくできているなぁっと最近思います。もっとも人間の身体のリズム(体内時計は25時間のできているのだそうですが・・・)、それにしても一日を24等分に分割した割り振りのアイデアには興味深いものを感じます。何処を起点にして丸ごとの一日に思いを馳せるかはその時々で異なりますが、4時間で一日の6分の1。ここから2時間経過すると6時間。6時間で一日の4分の1。さらにここから2時間経過すると8時間。8時間で一日の3分の1。そしてその後4時間経過すると12時間。12時間で一日の半分。加えて4時間経過すると16時間。16時間で一日の3分の2。昨年10月1日に脳卒中を体験し、一日当たりに頑張れる総量が少なくなった分だけ、貴重に感じる丸ごとの「一日」です。今日は何をメインに使おうか?やっぱり、『あれとこれだな』っと思う日々。
2018.01.28
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紛れて見失った銀行のキャッシュカード あせりました。あるべきカードがあるべきところになかったのです。幾つかの銀行のキャッシュカードを使用目的別に分けて併用しています。 某銀行のカードに関しては工房の家賃を大家さんの口座に振り込むことをもっぱらに使っています。バイトの給金が別の銀行の口座に振り込まれる給料日。そっくりおろしてお財布代わりに使っているこれまた別の口座に移しそこからさらに某銀行に家賃分の金額を割り振って入金しそこから大家さんの口座に今月のお家賃を振り込むのです。ですから某銀行のキャッシュカードは先月のお家賃を振り込む際に使用したっきり使っていません。セキュリティー上問題があるかもしれませんが某銀行の通帳にキャッシュカードは一緒に保管しています。通帳の間に挟んでいますので迷うことなく通帳を開きましたが、キャッシュカードだけが挟まっていません。家賃は翌月分を月末までに払い込む約束事になっていますが、私的には給料の出た日に払い込みたいのです。今月はそれができませんでした。あちこちに行くはずのない某銀行のキャッシュカードですから心当たりに探す場所はひとつだけ。いつも持ち歩いているバックの中しかありません。捜しました。あっちのポケット、こっちのポケット、外ポケット、内ポケット。ありません。パニクリました。一日二日三日と断続的に探しました。思い込みはいけない…と、もしかしたらひょんなところから出てくることだってあるかもしれませんから部屋の中も、あっちこっち見てみました。けれどもありません。初心に帰って再三バックの中を探しました。「やっぱりないわ」と溜息をついた時、履いていたスリッパの横の床の上にカード。あれ?なんで?徹底して捜しているうちにカバンの中のタオルの間かなにかからひょっこりと出てきたのでしょう。思わず笑っちゃいました。安堵しました。さっき駅前の某銀行に行って来月の家賃を振り込めました。 教訓 ①・・・同じところを同じアプローチでばかり探さないこと。教訓 ②・・・始末はやりっぱなしにせず『目視確認』『触指確認』
2018.01.27
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今年の抱負を思い描いてみます もっと厳密にいうと今年からの抱負といったほうがふさわしいです。私は今年の9月に65歳を迎えます。あと何年生きられるか、あと何年しか生きられないのかは定かではありませんが、いずれ訪れるであろう終焉に向けて今一歩(あるいは半歩)近づきつつあることは間違いありません。 そこで「抱負」ですが『切羽詰まったものの持っている爽快感や充実感』を探し求める旅の新たなスタートラインの第一歩の自覚にします。『切羽詰まった…』は両刃の刃ですから、悲壮感や焦燥感も伴ってきます。が、その一方で、「もう後がないもの」の持つ『サバサバ観』や『あとくされのない生き方』があります。その後者のほうを見つける精神の旅の始まりです。もっと厳密に言いますと「切羽詰まり始めている私の暮らし」の中で自問自答を重ねていくとはっきりしてくるものは『関わりとしての本気度』が問われてきます。 若いころ抱いた抱負はとかく「あれもこれも」でしたが60代に入って「あれとこれと」となり、そして最終的には「あれかこれか」の見定めが問われてくるのでしょう。やる気満々でやたらめったらジタバタしていた60代より前の時代から、加齢力によって熟成が進みだしている時代に入ってきているのです。70代から先のことはその時に入ってから考えを進めます。 今日も蟻がリュックしょって富士登山。
2018.01.26
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まだ雪解けぬ朝の「お気をつけていってらっしゃい」 22日から降った大雪。その日の夜のうち翌朝歩きやすいようにと歩ける幅の道を付けました。が、夜・夜中も降り続けていたようで、翌朝(23日火曜日)出勤の時には段差の痕跡は確認できつつも通り道は雪で覆われていました。いつもだったらアルバイト先の一時保育室までチャリンコで15分前後か、もしくは、てくてく歩きだと36分程の通勤路です。さて今朝の通勤手段はどうしましょう。自転車では無理だし危険なので一瞥してやめにしました。てくてく歩き+ところどころラッセルもどきの行程を考えて所要時間は1時間6分と予測しました。途中まで表通りのバス通り沿いに歩いて、お寺さんがあるところからバス通りを離れてお寺さんの脇の108段石段を登ってショートカットです。有難いことに石段はどなたかがあらかた除雪しておいてくださったので危なげなく上まで上がることができました。住宅街を抜けて再び別の路線バス通りの歩道を歩きます。平常であればここからバイト先までは徒歩&徒歩30分弱の直線路。道中に某新聞店がありましてこちらのお店の前の歩道はかなり除雪が完了してました。かき寄せた雪がうず高く約1メートル40㎝位の雪だるまらしきものになっていました。時折足元つるつるしつつ若干の緊張を抱いて目の前まで近づき通り過ぎようと横目でチラリ。その雪像に目をやるとありきたりの「雪だるま」ではありませんでした。なんと「シロクマ」のような面立ち、ふううんなんかおしゃれですねえ、グッドセンス・・・と思いつつその白熊君を丁寧に見ると何やら細枝に画用紙の旗を持っています。その旗には「(おあしもと)おきをつけていってらっしゃい」とかいてあるじゃぁありませんか。私は妙に感動してしまいました。ユーモアのセンスと隣人愛にあふれた心づくしの言葉。きっとこの方(製作者)も人生を楽しむことを忘れずに日々をお暮しになっておられることでしょう。
2018.01.25
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等身大の私で『モチモチの木』 3月は私の朗読仲間とやっている朗読会『ひねもす朗読会(第34回)』と私の主催する『第20回朗読会 ばぶの会』の二つがあります。ひねもす朗読会は3か月に一遍のペースで開催しています。私の主催する朗読会は2カ月に一遍(隔月・奇数月の第3土曜日)にやっています。 次回の3月の朗読会に向けて、斎藤隆介さん・作の『モチモチの木』の稽古に入りました。何せこのお話しに出てくる「じさま・64歳」という作者の設定ですから。嬉しいことに私も64歳。「じさまなばぶさん」と「ばぶさんのじさま」一体どんな融合ぶりをするでしょうか。ワクワクしますね。「等身大の私」でどこまで表現できるか朗読会にかけたいと思っています。チャンスは逃さず。チャレンジします。
2018.01.21
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第19回朗読会 ばぶの会 無事終了 (報告) 心配していた天気も持ちこたえてくれて朗読会無事終了いたしました。出演者の皆様ありがとうございました。朗読参加をしてくださる方々のレベルがどんどん高くなっているその成長ぶりが主催者としてとても嬉しいです。切磋琢磨という言葉がありますが朗読の研鑽を続けていくうえで大変貴重な励みになります。また、朗読会場にわざわざ足を運んで朗読を聴きに来てくださったお客様方、ご来場ありがとうございました。次回第20回朗読会の開催は3月17日(土)14時開演です。また、第21回朗読会 5/19(土)ポプリホール リハーサル室 第22回朗読会 7/21(土)ポプリホール リハーサル室も会場の確保ができていますことを併せてご報告いたします。ご都合が付きましたら是非またご来場ください。※ 現在第22回朗読会への朗読参加をしてくださる方を3名募集中です。
2018.01.20
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『氷河ネズミの毛皮』そして『水仙月の四日』 その5 雪山で吹雪に巻き込まれて立ち往生し遭難しかかった子どもは、ゆきわらしの助力で命拾いします。最後に死なずに生き延びてくれる登場人物の物語は賢治さんの作品では少ないです。生き延びてくれるとホッとします。大自然の脅威や猛威を扱ったお話を、賢治さんは「ユキバンゴ(雪婆んご)」や「ユキワラシ(雪童子)」や「ユキオイノ(雪狼)」という擬人化したキャラクターを駆使して存分に表現しています。私は5年前にもこのお話しは朗読会で発表しましたがその当時は擬人化しているほうに傾斜して多少ヒステリックな風合いで感情を持った人間のように読みました。けれどもユキバンゴにしてもユキオイノにしても大自然の中での猛吹雪という現象や摂理そのものなのですから今回はヒステリックな感情表現のようにならない読みをしてみたいと思っています。但し主人公のユキワラシは思いっきり人間臭く「健気な少年の姿」として読み切りたいと思います。その健気さこそが雪山で吹雪に巻き込まれた小さな子どもの命を救ったのですから。いよいよあした(1/20)は第19回朗読会当日です。
2018.01.19
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あしの裏 出発前の会話 かかとがつまさきに言いました。「おーい10ぽんの兄弟たち、しっかりだいちをつかんでいるかい?」ゆびさきたちはむずむずへんじしました。「つかんでいるよ、がっちりスクラムくんでさ。かかとさんはどうだい?」「ああ、しっかり体重をうけとめているよ」まんなかでつちふまずくんがいいました。「さあ、つまずかないように、よろけないようにきょうもやくめをはたそう」
2018.01.18
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足枕作ってみました 思いついたのが7日前。試みの第1弾を実行したのが5日前。就寝する時に『あれぇ、ちょっとばっか昨日よりも足むくみ過ぎかなぁ』目に留まった布製の箱状のものを足にあてがって眠りました。ちょっと高さが高すぎだったかも。若干違和感がありました。次の夜、試みの第2弾。クッションに変えてみました。今度のはちょっと低過ぎかなぁと思いつつも実行。元来私は寝相がいいほうで、70㎝位の幅の中で真っすぐの姿勢で眠り続けられます。けれどもそれにもかかわらず寝ている間にどこかに蹴飛ばしていたのでしょうか。朝起きたときには脇のほうにずれていて足にあてがっていたつもりが役立っていませんでした。そしてそのまた次の夜、試みの第3弾。クッションをバスオルで巻き付けて高さと幅を調整してみました。寝ている間に型崩れしていたものが改善されちょっぴりいい感じ。暫くはこれで様子を見ることにします。試行錯誤は続きます。いつかきっとより良いものに改善できるでしょう。
2018.01.15
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『氷河ネズミの毛皮』そして『水仙月の四日』 その4 ベーリング行きの最大急行の同乗客の中に黄色い硬い帆布の上着を着た若い船乗りらしい青年がいます。この青年のイメージが今ひとつ掴みきれないままに朗読の稽古を進めていました。青年は自分にだけ聴こえるくらいの微かな音量で口笛を吹き、窓ガラスに付いた氷をポケットから取り出したナイフでがりがりと削り一人夜空を見上げています。酔いのまわったイーハトブのタイチが青年に話しかけてもそんな言葉は耳にも入らないようでした。この寡黙な青年がお話しの後半で白熊たちの襲撃をびしっと解決します。 (前略)青年はしっかりその(赤ひげの)襟首をつかみピストルを胸に突き付けながら外のほうへ向いて高く叫びました。「おい、熊ども。貴様らのしたことはもっともだ。けれどもな おれたちだってしかたない。生きているには着物も着なけぁいけないんだ。お前たちがさかなをとるようなもんだぜ。けれどもあんまりむほうなことはこれからきをつけるようにいうから今度は許してくれ。ちょっと汽車が動いたら俺の捕虜にしたこの男は返すから。」 (後略)なんてったってかっこいい活躍ぶりの彼なのでなんとなく二枚目のシティーボーイというキャスティングで朗読していました。けれどもどうしてもキャラが決まらないので何かよい工夫を加味できないかああでもないこうでもないとあれこれ思いを巡らしているうち突然閃きました。標準語の感じから離れてセリフにお国言葉のイントネーションをつけて、しかも漁師という仕事柄の風合いを滲ませてみることにしました。ようやく自分の納得のいくような読みに半歩近づけました。
2018.01.14
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『氷河ネズミの毛皮』そして『水仙月の四日』 その3 登場人物たちのセリフの言い回しは朗読をする人にとって一番工夫のし甲斐があるところで一番おいしいところです。朗読を始めた最初の頃はいわゆる声色(こわいろ)を使って読んでいたという傾向がありました。そのほうが良い朗読 (?) というような勝手な思い込みがあったので、結構派手に声色を使いまくっていました。ところがその一方で、こうした読み方は表面的には上手そうに聞こえても、その実、作り過ぎからくる嘘っぽさや違和感が後味の悪いものとして残ります。こういうのじゃあない読み方をしたい・・・という強い憧れがはっきりと感じられるようになり最近は極端な声色は使わないで朗読しようと心がけています。 そのように朗読しようと思いに至った動機と発見には二つの気づきがあります。① ひとつは故古今亭志ん生師匠の落語の語り口でした。例えばおかみさんの声も声色を作らずごく普通に志ん生師匠の声そのもので語っていて、それでいておかみさんのせりふはおかみさんのせりふとしてきこえてくる不思議さです。② 声色を使わなくてもセリフの向こう側にある登場人物たちの心の動きや微細な気持ちの変化の描写には声色がかえってじゃまっけなのではと思えてきたのです。登場人物たちの心の動きや微細な変化の表現は、吐息や溜息や舌打ちや息遣いのゆらぎなどをセリフの端々にちょっと添えるだけでも十二分に伝わる場面がかなりあります。 『氷河ネズミの毛皮』ではイーハトブのタイチがお酒を飲んで酔いが回ってくると見当たり次第に周りの人間に管を巻くという場面があります。「くだをまく」とは酒に酔ってくどくどとつまらないことを言うという品格のやや崩れた姿です。酔っぱらいの戯言(ざれごと)というのは時には聴きようによって不愉快や不快感を醸し出す耳障りなしゃべりの側面があります。確かに耳障りさが匂っても、不快を伴った耳障りさと感じさせずに、「しょうがねぇ野郎だなぁ」と苦笑いを誘えるような読みができるか、ギリギリのところに挑んでみたいと思います。乞うご期待。
2018.01.13
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幸せづくりのツールボックス(道具箱) この思いを伝えたいあなたがそこにいて、この思いを綴っている私がここにいる毎日の暮し・・・って素敵だしょう。これってきっと恋心?優しくぎゅって恋心をハグします。 又聞きのまたぎきですからいったいどなたの言葉なのかは知りません。けれども、こんなことばがあるのを知っています。 「『か・き・く・け・こ』で暮すと幸せになる」のだそうです。こんな着眼点を発見したその人に祝福の乾杯をします。 さて実際のところどうなんでしょうかと自分なりに思いついた言葉を順不同に綴ってみます。か・・・感動、感謝、感激、観察、快食快眠快便き・・・興味、共感、協同、共同、協働、協力、教育(自己教育)、く・・・工夫、苦労、苦心、苦学、け・・・研究、見学、献身、健康、敬虔、賢治こ・・・恋心、恋人これって幸せづくりのツールです。錆びつかないように道具(ツール)の手入れは大事です。幸せづくりの道具箱の中を覗いたらまだまだほかにもありそうです。私たち一人一人の存在そのものが『幸せづくりの道具箱』なのだと今朝気がつきました。この思いを伝えたいあなたがそこにいて、この思いを綴っている私がここにいるという日々の暮し。これってきっと恋心です。万感の思いを込めてぎゅぅ~うううって恋心を優しくハグします。
2018.01.12
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眠りと目覚め 昨夜(1/10)は24時より前でしたが、ここ最近の中では遅めの就寝でしたが、目が覚めると5:05でした。途中夜間排尿に目覚めることなく眠り続けられたのです。感動です。とっても幸せな気分を満喫しています。こんな当たり前の生活(就寝~起床・熟睡?)を体験できるようにもなるなんてとても嬉しいです。たまたまなのでしょうがこんな毎日が続くといいなぁって思います。
2018.01.11
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雪の情景描写がなんとも綺麗なのです。「・・・雲もなく研き上げられたような群青の空から、まつ白な雪が、さぎの毛のように、一面に落ちてきました。それは下の平原の雪や、ビール色の日光、茶色のひのきでできあがった、静かな奇麗な日曜日を一そう美しくしたのです。・・・」読んでいてうっとりさせられます。一方大自然の中で綺麗とは全く別の雪の持つ厳しさを猛威や恐怖というスケールで描写しています。ユキバンゴやユキワラシやユキオイノを登場させて吹雪というか雪嵐というかの描写をみごとな擬人法で縦横無尽に表現しています。 「水仙月の四日」に、二匹の雪狼(ユキオイノ)を従えた雪童子(ユキワラシ)が登場します。この物語の主人公です。彼は大自然の中に一人暮らしています。ユキワラシは赤い毛布(ケット)をかぶって一人山の家路を急ぐ子供と雪山で出会うところから物語が始まります。出会うとはいっても子どもの側にはユキワラシの声も姿も感じ取れません。ちょっとした遊び心からでしょうか、ユキワラシは子供にヤドリギの枝を投げてよこします。それは子どもへの親愛の情を込めた贈り物でしょう。子供は不思議そうに枝を拾って家路を急ぎます。ユキワラシにしてみれば子どもがヤドリギを受け取ってくれたことで親愛の情が急速に深まったことでしょう。天候が急変し、雪婆んご(ユキバンゴ)が別の雪童子を連れてやってきます。強烈な吹雪に巻き込まれ子どもは遭難します。ユキワラシは子どもの命を助けようと一途に健気の限りに動きます。何故でしょうか?私なりの勝手な解釈を続けます。私にはこの主人公のユキワラシが、かつて山の吹雪の中でわりと最近遭難死した子供と思えてならないのです。そしてユキワラシとしてついこのあいだ生まれ変わってきたのです。生まれ変わってきた記憶はユキワラシの中には微塵もありません。けれども赤いケットに身を包んだ子供の姿の中にそこはかとない何かを感じ取ったのです。それが子どもの命を助けたいという衝動の源です。わりと最近生まれ変わった新参者のユキワラシと思う理由は三つあります。①彼が連れているユキオイノが二匹であることに対しユキバンゴが西のほうから連れてきた三人のユキワラシはそれぞれ三匹のユキオイノを従えています。②三人のユキワラシが全国区担当の中堅どころの経験者であるのに対し主人公のユキワラシはぽっと出の地方区担当の初心者です。③主人公のユキワラシにしてみれば今回の『水仙月の四日』というイベント参加はまさにデビュー戦です。ユキバンゴとの直接的な面識は限りなく初対面なので内的緊張は極限状態です。 1/20(土)の朗読会に向けてこんな風な勝手な解釈を添えて『水仙月の四日』の読み取り稽古をしています。ご都合のつく方はどうぞご来場ください。入場は無料です。
2018.01.09
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人生絶えず「今日が一番若い」のですから、新たな局面は新たなスタートライン 括約筋の衰えも、箸の操作の不具合も、踏ん張り切れずに安易によろけそうになるときも、自分の身体の変化のあれこれをめぐって、簡単に信じられないような出来事に気付くと、苦笑いしつつも、はじめは「そんなバカな」「まさか」「気のせい」と否定したり疑いを持ったりしつつ向かい合います。けれどもまぎれもない事実だと解ったときこれを受け入れていくにはチョビット勇気がいりますね。特に脳卒中を体験してからの最近は何が起きても『気づいた時が新たなスタートライン、ここからまた歩み出せばいいんだ』とスムーズに思えるようになってきました。 日々加齢し続けていくわが身のことですから、獲得体験よりも喪失体験を実感していく日々です。けれども視点を変えて捉え返してみればどんなマイナス要件に遭遇してもプラス思考でそれを受け入れていこうとする態度はこれは新たな獲得体験の一つです。ついウフフって微笑んじゃいます。 どなたがおっしゃった言葉かは知りませんが「人生絶えず今日が一番若い」という着眼はささやかながら私たちの背中を押してくれる助言ですね。
2018.01.08
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箸先に願いを込めて リハビリーを兼ねた食事です 今年もあと二週間だなぁとふっと感じた昨年の暮れのことです。食事をしていて「あれ?へんだなぁ、・・・まさか・・・でもほんとうだ」箸先に力が入っていないというか摘まみ方の力が弱いというか曖昧なのです。食べ物を箸先は確かに挟んでいるのですが口元にもっていこうとするその手前で「スルリ」「ポロリ」そこで塗り箸を割りばしに変えてみました。今度はいい感じでしっかり挟めています。一口目はうまくいきましたが、二口目でまたも「するり」。よく見ると割りばしが微妙に反っていて箸先に向かってわずかに開いている状態です。この微細な条件の違いが箸先のコントロールに影響しています。箸の一本を180度ひっくり返すと、ピンセットみたいな感じになって馬鹿ッ調子よくなりました。この割りばしは捨てずに使い続けています。箸に関しては決して見切り発車せず、ていねいに状態を見て、また自分の箸の動作・操作のありようをみて調整しています。箸を意のままに使いこなせることは感動です。感動を掴み取っていく食事に小さな喜びを見つけました。不自由は幸せの生みの親です。
2018.01.07
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ああ、老眼 棘が抜けない 昨日(1/5)のことです。左の親指の内側第一関節よりも指先に向かって9㎜位のところに長さ約0.4㎜弱位、太さにしたらそれこそ0.03㎜位の棘が一本刺さりました。 新年早々なのですが、昨年の暮れに取り掛かった草取りの取り切れていない分が気になっていましたので、毎朝30分だけ除草し『初志貫徹』で枯れきった蔓を取り除いているときにこの植物の茎に生えている棘が一本刺さったのです。 いつもだったら使い捨ての薄いシリコンのゴム手袋を装着してその上に軍手をはめて作業しているのですがこの時は軍手のみでした。 実に小さな棘がわずかに頭を出している状態でしたから侮っていました。これなんのことはない、すぐとれるのが常の事。ところがこれが取れない。ああ老眼、メガネをおでこの上に待機させ、頼りの裸眼でもよく見えない。刺抜きは?ピンセットは?確かどこかにあったはず。でも探すのが面倒というか、茫洋とした「どこかなる記憶の彼方のどこだか」は捜しきれません。思いついたのが木綿針の先端でほじるやり方。試みました。が取れません。要するに先端で摘まめるものであればいいのですから、代用物はないかしらと、目に留まったのが爪切りの刃先。棘周辺を刃先でほじるように開墾して試みます。取れません。 風呂にはいってりゃそのうち自然とれたりもするもんです。侮りはさらに続きます。ところが片道9・5キロのスパの浴槽は快適で爽快で、入浴中は肝心の刺抜きのことなどすっかり忘れてしまいました。思い出したのは帰宅してからだいぶたってからです。うっかり棘の刺さっているところを圧がかかるように触ってしまって『痛てっ!』と叫びました。なんと棘がまだ刺さっていたまんまだったんだと急遽思い出しました。 とりあえず消毒しておこうとマキロンをプシュッ。再び爪切りの先端でほじり活動再開です。取れたのだか取れていないのだか視力を尽くしても見えません。左の人差し指で棘の刺さっているであろう辺りをこすって指先の感覚で見てみます。取れているような気もします。取れたことにしましょう。人生見切り発車の日々も多々あります。
2018.01.06
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一年くらい前から活躍が鈍り出した括約筋。外付け厠の居住空間なのですからその分ゴールまでちょっとばかり遠く、薄暗いのです。よろけぬように慎重に歩みを進めます。水道栓のパッキンと同じですから弛みだすとついつい言うことを聞かない括約筋君のことを嘆いて、粗相のないようにと焦って用を足そうとするあまり、心にゆとりがない分たれこぼしもありました。今にして思い起こせば嘆きの対象にしていました。それが脳卒中を体験したことがきっかけで、感じ取り方や受け止め方のスケールが変わりました。過去の栄光にすがることなく、劣化を嘆かず、自分の身体の変化の有り様の現状を愛おしく思えるようになりました。そうか、これって第二の排泄の自律なんですよ。叱咤激励よりも成功体験を拾っていきましょう。一回一回をリハビリーを兼ねた修練と考えれば快い緊張感の中で向かい合えるものですね。力まず、焦らず、苛立たず、ありのままの自分にエールを贈りながら心優しい筋トレです。
2018.01.05
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日々加齢しているのだから、嘆きの対象にはしないことにしました。 一年くらい前から活躍が鈍り出した括約筋。外付け厠の居住空間なのですからその分ゴールまでちょっとばかり遠く、薄暗いのです。よろけぬように慎重に歩みを進めます。水道栓のパッキンと同じですから弛みだすとついつい言うことを聞かない括約筋君のことを嘆いて、粗相のないようにと焦って用を足そうとするあまり、心にゆとりがない分たれこぼしもありました。今にして思い起こせば嘆きの対象にしていました。それが脳卒中を体験したことがきっかけで、感じ取り方や受け止め方のスケールが変わりました。過去の栄光にすがることなく、劣化を嘆かず、自分の身体の変化の有り様の現状を愛おしく思えるようになりました。そうか、これって第二の排泄の自律なんですよ。叱咤激励よりも成功体験を拾っていきましょう。一回一回をリハビリーを兼ねた修練と考えれば快い緊張感の中で向かい合えるものですね。力まず、焦らず、苛立たず、ありのままの自分にエールを贈りながら心優しい筋トレです。
2018.01.05
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リアルタイムで読める幸せ 宮澤賢治さんの「なめとこ山の熊」という作品に主人公の淵沢小十郎の母親が出てきます。その母親は『…今年九十になる母…』です。私の母親は昨年九十になりました。 斎藤隆介さんの『モチモチの木』等お話しに出てくるじさまは(今年)六十四とあります。私はこの秋で六十五になります。たまたま偶然の一致なのでしょうが、実年齢のリアルタイムでこの作品を再度読み返せる幸せをかんじています。
2018.01.04
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蟻がリュックしょって富士登山 今朝から頭の中をこの歌がぐるぐる回っています。 ♪きのうみたゆめちっちゃいでっかいゆめだよありがりゅっくしょって ふじとざん (ヘイ)♪ 御存じ ♪アルプス一万尺♪の歌のかえ歌のそのまた替え歌です。この歌の歌詞29番まであるそうです。興味のある方は検索してみてください。 元々替え歌バージョンですから何番でも作って楽しめる分野です。 アルプス一万尺の2番の歌詞はこうなっています。 2番… “昨日見た夢 でっかいちいさい夢だよ 蚤(のみ)がリュックしょって 富士登山”なのですが…私なりの好みでこのように変えました。♪きのうみたゆめちっちゃいでっかいゆめだよありがりゅっくしょって ふじとざん (ヘイ)♪ 富士登山するのは『ノミ』のイメージよりも『アリ』のほうが私にはしっくりくるのです。富士というのは「志の高さ」の象徴なのです。今年もこのイメージを大事に歩んでまいります。
2018.01.03
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正月元旦 そして正月二日に思う事 今年の初日の出きれいでした。昨日(毎年の行動ですが)、私の生れた町(神奈川県平塚市)の海岸で初日の出を見ました。綺麗なご来光でした。振り向けば西の正面に朝日に生えた富士山が麓までくっきりと見える程よく晴れ渡った暖かな元日でした。360度のパノラマを地球周り(反時計回り)に紹介しますと、丹沢山塊の北の真正面には大山の姿がどっしりと、漢字の「山の字」そのものに見えまして、そして西丹沢の稜線を辿って西の方角にひときわ雄々しく富士山の雄姿。その手前側に箱根の外輪山、さらに南へ伊豆半島の伊豆三山がなだらかに続き、南に広がる相模湾。そのまん中に伊豆大島が沖のほうに見え、更に東側に目を移しますと手前に相模川河口、ちょっとむこうに江の島、その奥には三浦半島、そしてそのまた向こうに房総半島が重なって見えるというロケーションです。ご来光は低くたなびく雲間を超えて房総半島の向こうから昇ってきます。誠に湘南は風光明媚な景勝地です。 中学生の時に言われました。“気候温暖にして海あり山ありで『箱庭』みたいなところだ、こういう土地に育つと人間は穏やかだが、その一方、人として器量の小さな人間が育ち、決して後世に名を残すような偉人は排出されない”云々。今にして思えばこれも一つの偏見にすぎないのですが、当時ガキっぽい中学生だった私にとってこの指摘は結構カルチャーショックでしたね。いいじゃぁあ~りませんか、まあ小粒でもそれなりに人生を謳歌しましょう。 この世の中は不合理と不条理に溢れています。どのような不合理(不条理)を引き受けていくのかという決意の持ち方で人としての器量は決まっていくもの。自分の人生の四分の三くらいは既に生きて来ているでしょうから、ここから残りを「後半戦」と見据えてやりたいことを『あれもこれも』」ではなく『あれとこれと』というようにフォーカスして今年のスタートを切ろうと思います。
2018.01.02
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