August 12, 2007
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●中里介山は29年も『大菩薩峠』を書き続けたが、未完に終わった。

●この本を紹介してくれた友人は、「精神的に落ち込んだ時に、この本によって救われた」という。私は、読み終えて中里介山の世界の余韻に埋没している。

●物語の時代背景は幕末であるが、日本語の表現の豊かさと様々な故事来歴が盛り込まれている。

●この本を一口と言うと、「人生の目的や生き甲斐を求めてさまよい歩く旅」といったことになるのかもしれない。
●例えば、端役的な仏頂寺弥助や丸山勇仙のように突然人生の目的がないことを理由に自害したり、結局は世を儚んでのことかもしれないが、お雪ちゃんのように湖上で魔が刺したように心中を試みたりする者が出てくる。

「丸山--おれは死ぬぞ、どう考えても生きる口実を見失ったから、これから本当に死んで見せるのだ、検死をつとめさっしゃい」

「生きて行くには相当の準備がいるだろうが、死ぬに準備はいらない、出たところ勝負で結構」

「そこでだ--お前が死ぬとなれば、おれも死ぬ--と、なぜ最初から言えなかったのか、それが考えてみると不思議だ」


●俳優は様々な役に扮するが、自身の人格以上の性格を表現することができない--と私は考えている。これと同じで、小説にはどのようなキャラクターでも登場させることができる。しかし、著者の感性を超えた人物を表現することはできない。この意味で、中里介山の感性の豊かさにはひたすら感心せざるをえない。

●主人公的な人物が多数登場する。机龍之介はそのうちの一人にすぎず、彼に割かれたページ数も多いものではない。描かれた人物は実に生き生きしている。物語の主要人物・動物だけで、竜之介、米友、与八、兵馬、お松、七兵衛、駒井、神尾、弁心、茂太郎、ムク犬、白雲といった人物が登場する。
●登場人物中での私のお気に入りは米友と十八文の道庵先生であるが、人それぞれで、与八、お銀様、お松、お角、中には神尾主膳のファンもいるかもしれない。


●このブログのテーマは未来社会なので、以下では『大菩薩峠』のユートピアに関することについてコメントにするに留める。
●これらのユートピアに関する部分(胆吹の巻や椰子林の巻)は中里介山が軍国主義の軍靴の足音高い時期に書いたものであると思えるので、よくぞ書いたと言える。

お銀様のユートピア(胆吹王国)

「わたしは今、愛情のことばかり言いましたけれども。わたしたちが住もうという世界は、愛情の自由を与えることばかりではありません……有形にも、無形にも、人間のすることに人間が決して干渉してはならないのですよ、圧迫してはならないのですよ。そこには、服従の卑屈があってはならないように勝利の快感もあってはならないのです」

「人間が自由を奪われるのは、つまり食えないからですね。それと同じように、人間が人間にたよらずして食えさえすれば、人間は本当に人間らしく生きて行くことが出来ます」

「所有が決して、富をも幸福をも齎さないのみならず、かえってその反対と裏切りとをつとめていることは、物事をじっとほんの少しばかり眼を留めて見つめていれば直ぐに分かることなのに、ですから、わたしの領土では、決して一事一物をも所有ということを許しません、形の上でそれを許さないのみならず、所有を思うことをさえ許さないのです」

「わたしは、この世で、人間が人間を相犯さないという世界を作りたい、相犯さないということは、いわゆる悪いことをしないということじゃありません、何をしようとも自分の限界が犯されない限り、他の自由を妨げてはならない--という領土をつくってしまいたいと思います」


●お銀様のユートピアは金力による上からの王国建設で、ロバート・オーウェンのアメリカで理想社会ニューハーモニーと類似していないこともない。
●土地を含む生産手段はお銀様の所有であり、お銀様が女王、不破の関守氏が首相の役割を担う専制的自由主義の王国(集落)である。

●お銀様的なユートピアの行き着く先は、賢人政治的な社会主義社会かもしれない。このようなシステムは必然的に、ピラミッド型の官僚社会、牢獄的社会になる。中里介山の時代には社会主義の牢獄的体質は顕在化していなかったが、胆吹王国はそのことを示唆するようでもある。
●お銀様の呼びかけに応じて集まってきたのは、必ずしも主義理想に共鳴するものばかりではなく、経済的理由や興味本位で参集したものが大半である。やがて理想と現実の乖離に気づいたお銀様は胆吹王国を放擲してしまう。

駒井甚三郎のユートピア(海洋王国)

●駒井甚三郎のユートピア建設は西洋の造船技術や操船技術のみならず、カンパネッラの『太陽の都』やメイフラワー号で渡航したピルグリム・ファーザーズなどについての知識を十分に得た上でのものである。

「私は一人一家主義です、ここに一人が独立の生計を与えられれば、必ず独立した一家を持たなければならぬという論者です、いわんや結婚生活においておやです。…」

「生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい…治める人と、治められる人とがありません、従ってこの国には賞というものがなく、罰というものがないことになります。…では、善いことはせんでもよい、悪いことは仕放題で罪が無いかと申しますと、それは大いに有ります、おたがい同士仲良く生きて行くために害を為すことは悪い、それを滑らかにするものは善い、とこう定めて置きましょう、そうすれば、おのずからこの島に於いて為さねばならぬことと、為して悪いことがわかるはずです。…故に、皆さんは、まず食物を作ることを第一の善事だと心得て下さい。」

「…我々は決しておたがいに過大の労力を課することを慎みましょう…。半日は食物のために働き、半日は趣味のために生くるということ、これを島のおきてとしましょう。」

「…それから、万々一、おたがいの中に我儘気儘が昂じて、他の害悪をなす場合には…この島のうちで別世界をこしらえて、そちらへ移ってもらう、そうして、そちらで自分の好きなような生活ぶりをやってみるがよい…」


●当初から極端な男女比率のアンバランスが問題とされている。
●入植後、暫く経ってから欧米文化を忌避して移住してきた一人の先住民(異人)がいた。

「いや、話せば長くなるです、およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その轍を踏むにきまっています、失敗しますよ」
…とこの異人氏は言う。これは欧米が行ってきた植民地の実態に基づく教訓を絶望的に語っているとものと言えよう。当然、駒井はこのことを理解できない。

●駒井の海洋王国は平等を旨とする自由主義の国である。土地以外の生産用具は駒井が全て用意した。自由と平等を信条とする国(集落)である。


●ユートピアとしてのリアリティは南海の孤島という舞台設定の上でのことかもしれないが、社会システムの普遍性としては次のような点から疑問が残る。
・法律や罰則が無い社会というものがありえるか?
・コミュニティとしての意思決定ルールが示されていない。人口が増えた場合には選挙制度が必要になると思うが?
・共有社会を想定しているようだが、分業に基づく大規模社会の想定がされていないと思える。
・お金の不要な社会を想定していると思えるが、世界的な経済システムになった場合に貨幣システム無しにすませられるであろうか?

与八のユートピア



それ以来、そのつもりでみていると、見ているほど光出して来るのが、このデカ物の働きぶりです--この男は経済学を無視している、分配の法則から飛び離れている。他の何事よりも経済学を無視しているということが、伊太夫にとっては不思議であり、驚異であり、無謀であることを感じずにはおれないらしい。何となれば、伊太夫の頭は、ほとんど全部が経済学から出立しているのです。

あの薄馬鹿のようなデカ者は、親切である上に先生ができ! あそこへ子供をやっておけば間違いはない! 子供もよい癖がついた上に、読み書き、そろばんまでも教えて帰される!

そのうちに、誰言うとなく、こんどお大尽様へ来たデカ者は、あれは只者ではござらねえ、まさしくあれは木喰五行上人のお生まれかわりに相違ない、五行上人が生まれかわって有野村のお大尽の邸へお出ましになった--


●与八のユートピアは、理論先行ではなく、経済合理性を無視したものであり、与八の活動によって自然に形成されていく。お銀様のユートピアは簡単に放棄され、駒井甚三郎のユートピアも先行きの行き詰まりが予感されるが、与八のユートピアは発展していきそうである。
●ユートピアは計画してできるものではなく、意図せざる善行の積み重ねが、周囲の人々を感化していくことによって実現されるものかもしれない。
●中里介山は、ことによると盲目のお喋り小坊主、弁心の宗教観をベースにした与八の貨幣経済的価値観を無視した自然な世界に救いを求めているのかもしれない。





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最終更新日  August 14, 2007 04:24:52 PM
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