笑ったり、びっくりしたり。。。
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ちょっと前に、重松清さんの『きよしこ』を読みました。『きよしこ』は「少年」が青年へと成長する過程にある折々の時期を取り上げて、その時々の少年の心情が描かれています。読み始めの頃は、「ウチの子は『きよし、この夜』だと最初からわかっていたなあ。」「少年の育った環境に比べると、わが家はそういった点に置いてはそこそこ整っていたのだろうか。」などと考えていました。しかし、最後まで読んで、この「少年」がたくましい青年へと育ったことに感動すると同時に、私自身の子育てのあり方についての疑問を感じました。この「少年」は小さい頃から満ち足りていたわけではありません。「何か欠けていること」への渇望によって「少年」は成長を遂げたのではないか、と私は思います。わが家を振り返ってみると。。コブが1歳半の時にDoが生まれました。Doの出産予定日を前に夫が転勤となり、Doが生まれて1カ月の時に国内の移動ではありますが、海を渡る引越しをしました。1歳児と乳飲み子を抱え、苦手の家事に四苦八苦する毎日が続きました。どうにかコブのためにと公園へと出かけるのですが、すでにお昼前になっており、お友達はそろそろ帰り支度を始めるころでした。公園での遊びに限らず、さまざまな場面で、「同い年の子はみなもっと大切に育ててもらっているのに。。」と、いつもコブへの申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、私の目が届かない分、コブはいろいろなことに興味を抱き、自分で考えてみることが身に付き、自立していったように思います。音楽教室でお母さんと離れることができない子が多い中、コブは一生懸命に歌い、しっかり立ってカスタネットをたたいていました。「しっかりしているね。」と、声をかけていただくことも度々あったように思います。このような経験から、私は、子どもの自主性を育てることが大切で、親が子どもの感覚や興味を代位してしまわないほうがよいのではないか、と考えるようになりました。しかし、最近では、私自身がこの考えから離れてしまっているように思います。今朝のことです。「アミノ酸はどうやってできるのだった?」というコブの質問に、私は、すかさず、力の5000題理科を本棚から取り出し、彼に見せました。確かに、タイミングを捉えて、知識を確実なものにすることはよいとは思います。一方、私のこの行動が、「コブを学ぶことに対して受動的にしてしまうのではないか。」という疑問もあります。コブが小学校に入った頃からでしょうか、私がこのように先回りをするようになったのは。私が子どもに関心を持たせるのではなく、子どもが自ら興味を持ったことを大切にすべきなのではないか、とちょっと自戒しているところです。
2006年05月10日
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