「古事記の神を認めます」
とお答えになっておられます。
(森田全集 第5巻 532ページ)
水谷啓二先生によると、入院中は朝起きたときと夜寝る前に、5分間くらい「古事記」を音読する習わしになっていたという。(生活の発見誌 1970年5月号 7ページ)
森田先生は八百万の神々が出てくる古事記をそれほどまでに高く評価されていたのであろうか。興味は尽きない。
古事記の神々は決して全知全能の神ではありません。
この世を作り出した創造主でもありません。教義や経典もありません、
古事記の神々は喜怒哀楽を持ち合わせて、時には間違いを犯す神々です。
天照大神の弟であるスサノオノミコトは乱暴狼藉ぶりが目に余ったという。
そのためスサノオノミコトは、「高天原」という天界から地上界に追放された。
スサノオノミコトは出雲の地でクシナダヒメと結婚した。
天孫降臨です。日本の国の始まりです。
古事記の神々は、清濁併せ持ち、時に荒々しく、時に慈悲深く、そして人間のように葛藤を抱える存在として描かれています。
古事記に出てくる神々は、他人、自然そのもの、自然現象、ご先祖様、特定の場所をリスペクトし、感謝し畏れ敬うものとして大事に取り扱っています。
大きな滝や木の周りにはしめ縄を張って敬っている。
雨は恵みの雨となることもありますが、時には日照り、洪水をもたらします。
時に人間に禍をもたらしますが、それを含めてあるがままに受け入れています。
森田理論の不安や恐怖、気分や症状への対応と非常によく似ています。
「おてんとうさまが見ているから悪いことはできない」
「和をもって貴しとなす」ということわざがあります。
特定の宗教を持っていないにもかかわらず、行動指針が明確ですし、それに沿った行動ができている。
災害時に日本人が略奪行為をするのは稀です。外国とは大きく違います。
電車に乗車する時、きちんと整列している。割り込みをすることはありません。
電車内でスマホで話をするような人はいません。
マナーを守るのが当たり前になっている。
スポーツ観戦に行ったとき、ゴミが出ればすべて家に持ち帰る人が多い。
意見が対立する時は、他人の意見を聞いて、双方が納得できるまで話し合うように心がけている。
困った人がいれば、みんなで駆けつけて援助を惜しまない。
モノづくりにしても、安かろう悪かろうではなく、経費や手間暇がかかっても最高のものを作って、お客さんの喜ぶ姿を見たいという気持ちで取り組んでいます。
そういう共通認識を日本人は誰から特別に教えられたわけでもないのに、多くの人が自然に身に着けているということは不思議なことです。
また田舎に行けば、仏壇と共に神棚があります。
日本人には神道と仏教が対立することなく融合しているのです。
結婚式は教会や神道、お葬式は仏式でも別に違和感はありません。
クリスマスには家族でケーキを食べる。
ハロウィンパーティーも取り入れている。
正月には多くの人が初詣に行き、古いお守りを返し、新しいお守りを買う。
日本人には融通性や包容力があるということだと思います。
外国の新しいものをすぐに排斥するのではなく、一旦取り入れて役に立つものは活用させてもらう。
少々合わないものでも、自分たちで工夫して、使い勝手の良いものに作り変えてしまう能力を持っている。
古事記の神々は、森田先生が重視した人間のありのままの姿をさらけ出し、感情や気分をあるがままに受容・共感する部分があるのではないでしょうか。
森田先生は神話の中に、あらゆる自然と調和し、持続可能な社会を作り上げていく、だれもが居場所や活躍の場を持ち、生の欲望を発揮する世界観を見出しておられたように思われます。
さて、神道には、「生成化育」(せいせいかいく)という重要な考え方があるそうです。
一言で言えば、「あらゆるものは混とんの中から生まれ、育ち、変化し、発展していく」という考え方です。
これは現代の宇宙論や生命の根源的な働き、プロセスにつながるものがあります。
森田先生自身も、宇宙論や相対性理論に言及されています。
森田先生は、変化に対応し、調和やバランスをとりながら生きていく世界観を持っておられました。
そういう豊かな精神世界は日本人がはぐくんできた神話の世界にそのルーツがあるということだと思います。
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