日々の祈り -アッシジのフランチェスコの道

日々の祈り -アッシジのフランチェスコの道

PR

Calendar

Archives

2025.11
2025.10
2025.09
2025.08
2025.07
2008.04.30
XML
カテゴリ: カトリック
本文は こちら

神様とは何だろうか? そして、人はなぜ祈るのか? ここ1、2年、そんなことを時々考える。この春、ローマに赴任し、カトリックのイエズス会総長、アドルフォ・ニコラス神父(71)にお目にかかる機会があり、尋ねてみた。「神とは、そして祈りとは--」【ローマ藤原章生】

 ◇自分から出て、心を開くのです
 ◇無心になり、感じる存在
 5年前にイラクに行ったとき、驚かされたことがあった。ハッサン師というイスラム教シーア派の指導者がいた。40代後半だが、フセイン政権下でひどい拷問に遭い、顔中傷だらけで、険しい顔つき、白いひげでひどく老けて見えた。政治の話を聞いたあと、別れ際にこんな質問をした。

 「ところで、あなたにとって神とは何でしょうか」

 通訳がアラビア語に訳すと、彼の顔がほころんだ。

 「神、ですか。実は最初からそれを聞いてくれると思っていたんです。神とは何か。それは私が考え続けてきたことです」。そして、しばらく黙り、こう切り出した。



 鳥肌が立った。というのも、確かに私は13歳の夏、海でおぼれたからだ。なぜ、この人物はそんな例え話をしたのか。彼はただ、不敵とも言える顔でこちらを見ていた。

 それから4年がたった昨秋の早朝、京都の森でこんな考えが浮かんだ。「そうか、人は無心になるために祈るんだ。自分をなくすために」。その1年前、山岳信仰の修験者に「現代人は祈りが足りない」と言われて感化され、一つ覚えたお経を時々、頭の中で唱えていた。だがすぐに怠り、「こんなの、意味あるのか?」と思い始めたころ、この考えが出てきたのだった。

 私は、神が何だかは分からない。ただ、この世にはいまだ説明のつかない現象やエネルギーのようなものがあるとは思っている。もし、誰かがそれを神と呼ぶのであれば、私は神の存在を信じていることになる。

    ■

 イエズス会は1534年に結成し、1540年にローマ法王の公認を得た。1549年にキリスト教を日本に伝えたフランシスコ・ザビエルを派遣したことで知られるカトリック最大の男子修道会で、会員は2万人に達する。「誰も訪ねたことのない地へ行くのが会の信条」とニコラス神父が言う通り、アフリカやラテンアメリカの紛争地でこの会の神父をよく見かけた。バチカンで「パパ」と呼ばれるのは本来、ローマ法王だけだが、イエズス会総長は黒い法衣から「パパネロ(黒いパパ)」と呼ばれる。それは勢力の強さでもある。

 スペイン生まれのニコラス神父は17歳で修道院に入り、1961年、24歳の時に初めて来日した。一度バチカンに戻り神学で博士号を取得し、71年に上智大で教え始め、88年に教授となった。日本滞在は通算35年になる。今年1月、総長に選ばれたばかりだ。

 柔らかい日本語で話すニコラス神父は、日本で多くを学んだという。「和の精神ですね。日本のコンセンサス(合意)のやり方に慣れたんです。判断が自然に盛り上がる。一人で決めるのは緊張し、ストレスにもなります。西洋人は、皆で決める日本のやり方は遅いと思っていますが、逆に早いんですね。一度皆で決めると進むのが早い。4人が賛成、6人が反対という西洋のやり方だと、後々までいろいろ残るんですね」

 イエズス会は、右派が強い現在のローマ法王庁と思想的な対立があると言われる。だが、「今は社会と同じく、教会内でも思想をあまり取り扱わなくなりました」と否定する。「むしろ、若者の教育、エコロジー、そして(人の)内的な問題の方に関心が向いています。そのようなところでは、オリエンタル(東洋)のウイズダム(英知)、和の精神が大事になってくるんです」

    ■

 祈りについても聞いてみた。無心になり、我を捨てるために祈るのでは?と自分の考えをぶつけてみた。神父はうれしそうな笑みを浮かべ、こう答えた。

 「そう、人は黙想しているつもりでも、いろいろ考えているんです。だから禅ではそれを厳しく直す。祈るとき、自分より大きいものに心を開く。(イエズス会の創始者)聖イグナチオは黙想の間もいろんな祈り方があると語っていますが、大事なのは、いつも自分から出る、自分の外に出なければだめだと言っています。だから、『我を捨てるために祈る』というその表現、私は好きです」



 「仏教で一つ、私が尊敬しているのは、神について話すことはできないということなんです。神様はキリスト教にもイスラム教にもヒンズー教にもあり、千の名前があると。(仏教では)神を説明すればそれは神様ではない。仏教は『仏に会えば仏を殺せ』というんですね。自分を深めれば、神様が自分から出て、すべてを生かす。何か生きたものとして、自分を生かしてくれるんですね。それで、漢字を使うか、ひらがなで書いた方がいいのか。でも『神』と漢字にするとイメージがつく。イメージがつくともう神ではないという教えですね」

 ニコラス神父はそれを踏まえた上で、こう続けた。

 「聖イグナチオの教えでは、神は説明するより、感じるものだと。愛とか希望とかにとらわれて自分がなくなったとき、初めて、ああ、これは自分ではない、神の霊、神の心が向いているのだと気づくと。そのようなあいまいな表現でしか暗示できない。説明すると、どうも違うと。神は説明のためじゃなくて、黙っていられないから言う言葉。他の言葉がないからそれを使う。大事なのは、どういうふうに歩んでいくか、そこに力を入れることなんです」

 神様は、考えるというより、感じるもの、ということか。

 「そう。自分から出て、自分より大きな良いものに自分の心を開く。アジアではよく、知恵のある人がお月様を指さす、愚か者は、その指を見ると言います。そういう表現が宗教にぴったりだと思います」



==============

 ◇「夕刊特集ワイド」へご意見、ご感想を
t.yukan@mbx.mainichi.co.jp

ファクス03・3212・0279

毎日新聞 2008年4月28日 東京夕刊






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008.04.30 08:29:33コメント(0) | コメントを書く
[カトリック] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: