山口小夜の不思議遊戯

山口小夜の不思議遊戯

ヒロの留学日記・承

日記に戻る
次章へ
前章へ


ヒロの留学日記─承─




 とにかく、レポート提出を終えて日常生活的には平穏になったとはいえ、今もゼミやシンポジウムの参加で充分に忙しい。
 現在のところ、僕が実際に出席したシンボジウムで、最も興味深かったものとしては、ハーバード大学の中でも外交、安全保障問題を専門に研究しているウェザーヘッド研究所が主催した「二十世紀と二十一世紀の大国の外交政策」ときな臭い銘が打たれた会議が挙げられる。アメリカが冷戦でソ連との戦いに勝利して、名実ともに世界で唯一の超大国になったことを受けて、「アメリカが二十一世紀にも引き続き世界の覇権を維持するにはどうしたらよいか」がこともあろうに主要命題だった。

 出席者はハーバード大学内の専門家のほか、米国中の大学から集まった専門家ばかりである。もちろんボーゲル教授も参加しているし、学者だけでなく、国務省や国防総省からも識者が集まり、総勢五十人以上だった。「最高のメンバーがそろった。この結果はホワイトハウスにも報告されることになるだろう」と参加者のひとりが語ったほどである。
 では会議の内容はどのようなものだったか。
 大学の正門からヤードを南北に一直線に突っ切り、ヤード外に出て道路を渡ったところにある「ファカルティ・クラブ(教職員クラブ)」で、会議は二日間をかけてみっちり行われた。

アメリカは常にナンバーワンでなければならない



 会議はドイツ外交、アメリカ外交の順で話し合われ、日本は三番目に議論された。
 その主な内容をまとめると、次のように要約できる。
 「経済不況に喘いでいる日本が国内の行き詰まりを外に向けようとして、再軍備を行なう可能性がある。そのきっかけになるのが北朝鮮のミサイル発射、核兵器開発計画であり、北朝鮮の軍拡路線に触発されて、日本が核兵器開発をも含む大規模な再軍備に踏み切る。その結果、東アジアの軍事バランスが崩れ、中国を刺激する。中国は日本の再軍備を強く警戒して、いっそう核兵器開発を含む軍事力増強を図り、ついには“日中衝突”という事態もありえる」というものだ。

 うそだろーっ、である。
 しかもこれは、ノーベル経済学賞の下馬評にも上るくらいのポール・グルーグマン教授率いるグループの結論なのである。これにはさすがの僕も、筆記していたペンを取り落とした。それなりに日本やアジアに興味も学識もあるであろう参加者が、本気で日本の核武装の可能性を心配していたほか、中台(中国台湾)紛争が湾岸戦争の様相を呈するとか、あるいはアメリカと中国との戦争状態突入、核を持った日本の参戦といった荒唐無稽ともいえるシナリオをまじめに議論しているのだ。

 アメリカでは、日本専門家、あるいはアジア専門家といっても、本当に国情を熟知している研究者は少ないということであろうか。ハーバードでアジア経済について学んでいるただの一留学生である僕など、ジョン万次郎のようなたかが知れた存在なものだが、アメリカではそのような僕も「専門家」としての希少価値があり、こういった議論の席に呼ばれるくらいだから、アメリカの国益優先マインドから、いびつなアジア像、日本像が形成されていくのも不思議ではないかもしれない。

 実際、この会議で特徴的だったことは、「アメリカは常にナンバーワンでなければならない」ということを疑いもしない大前提として、出席者が意見を述べていることだ。アメリカのナンバーワンの座をおびやかそうとするものは、経済面であろうと、政治、軍事面であろうと、それは「アメリカの正義」を阻止しようというものであり、そのような国家、勢力はアメリカにとって、まぎれもなく「悪」の存在であることにも通じるのだ。

 このため、アジアにおいて経済大国である日本や、軍事大国である中国がアメリカに歯向かってくる可能性を強く意識し、その前提にたってシュミレーションを行なうから、このように極端なシナリオも出てくることになる。多くの日本人は「日本が核を持つ」ということは空想に過ぎないと感じているだろうし、日本が戦争を始めるなどは空想の域すら超えている話であろう。
 実際、今どこに日本が核戦争をしかけようが、すぐ負けちゃうのが現実なのだが、多くのアメリカ人研究者が「日本が核を持たないことの方がおかしい」と脅威に感じているのも事実である。これに対して会議では「もう持っているのではないか」という声も聞かれたのだが、ボーゲル教授が「そんなことはない」と他の教授をたしなめていたのが印象的だった。

 このように、日本人から見ると、現実離れしているとも言えるような議論が行なわれたことは正直いって驚いた。それ以降の討議内容についても再現してみたい。

 現代政治学の権威であるケネス・パイル教授による基調講演によると、明治時代から第二次世界大戦を経て現在にいたるまでの日本外交の特徴、および日本外交の方向性について、「一貫して言えることは、日本はホモジュニアス(単一民族)な国であり、他の民族を排除しようとする排他的な国民性を持っていることが歴史的に証明されている。同時に歴史的にみて、日本外交は抽象的であるのを嫌い、何か国益を得ることを重んじるきわめて実利的な外交であることも、第一次世界大戦への参加、中国侵略、さらには日米開戦といった歴史に如実に現われている」と説明した。

 この指摘のあと、パイル教授は「日本政府はこのところ国連常任理事国入りを熱心にアピールしている。また、金融危機が表面化する以前に、国際的にも経済を中心に影響力を増して、国際機構を主導的に引っ張ろうとしている」との二つの例を挙げて、「これは日本が明らかに国際社会のリーダーになろうとしている兆候である」と主張したのだった。

 この意見について、議長は「きわめてわかりやすい説明だった」と語ったあと、こともあろうに僕に対してパイル教授の基調講演に関しての意見を求めた。ここからが、この場にたったひとりしか在席していない日本人に対する壮絶なバッシングのはじまりだった。
 僕は「日本には、国際社会のリーダーになるような野心があるかもしれないとしても、私はそれが現実的なものであるとは思えない」と前置きし、「日本はいま経済問題で四苦八苦しており、かつての一九八〇年代のように、アメリカをしのぐかもしれないとも見なされていたころの面影はまったくない。これは、日本がもはや世界のリーディングカントリーではなくなったことであると私は認識している」として、日本が経済不振でかつてのような勢いがなくなっていることを率直に認めた。

 僕はといえば、香港返還以降のアジア経済予測をカバーしたことが「売り」なのだが、どうも並み居る有名人を前にすると見劣りがすることは否めない。言外の意としては「あんまり僕をいじめないでよね」だったのだが、この自分を貶める態度は裏目に出て、ただでさえアメリカ優勢に進んでいる討論を、ますます活性化させてしまったのだった。

 参加者、つまり世界の識者からは「日本のパワーは衰え、政治・経済システムはまったく機能していない。当分経済不振を脱しきれないだろう」とか「経済危機に対する日本政府の対応については、まったくの無為無策ぶりだ」との意見が相次いだ。レーガン政権で経済顧問を務め、後にフランスやスウェーデンの経済改革を指導したこともあるブルース・スコット教授が僕をじろーり、と睨み、「日本経済は当分低迷するという予測が大半だね。本当にダメなのか。キミは日本の銀行派遣のモンだそうだが、その原因は何だと思うかね」と、だんなァそれを言っちゃあオシマイでしょーという質問を早速にぶつけてきた。

 この質問に僕は、「バブル期に企業が過度の不動産投資に走ったのが大きな原因です。バブルの崩壊で、その投資のほとんどが不良債権化した。さらに不良債権処理を何年も遅らせてしまった旧大蔵省や日銀などの政府の責任も大きい」と言わざるを得なかったわけである。
 これに続いて、スコット教授は「では、日本経済が立ち直るには、アンチ自民党、アンチ財務省、アンチ日本銀行で国民が結束して、構造改革を妨げている自民党を政権から追い出して新たな政権を作ること。すなわち、今の日本には、もはやラテンアメリカ並みのクーデターしかないということでしょうな」と日本の銀行派遣の僕を冷笑しながら述べて、過激な「日本経済立て直しクーデター論」を展開したのである。

 さすがに僕は、この意見についてはあまりにも日本をバカにしたものだと思い、「あまりにも暴言です。日本をラテンアメリカ諸国と一緒にして議論するのは経済システムの相違の点からもまったくのナンセンスだ。今の日本経済を立て直すのは、ルービン財務長官やグリーンスパンFRB議長でも無理じゃないのでしょうか。経済政策を熟知している宮沢が経済政策に責任を持っているのが、一縷の望みではあると思いますっ」と応酬した。

 しかしスコット教授はたかだか極東の学生に一歩も譲らず、「喜一の打ち出す政策が、いくら有力だったとしても、官僚機構が反対しているのではないか」と、ごもっともな説を述べられ、「日本の場合、官僚を改革するにも改革を行なう人材が不足している。いまの若手官僚が育つには二十年以上かかるだろう。そうなると経済改革が本格的に進むのは二〇二〇年ごろになる計算だ。日本が機能的に対応できるかどうか疑問だ」と懐疑の声をあげた。
 この意見について僕は、「日本に人材がいないというのは聞き捨てならないご意見だ。私のような優秀な人材はいるのだ」と前置きして満場の失笑を買ったあと、「しかし、日本の社会、特に官公庁は年功序列がうるさくて、若手官僚の活躍の場が狭められているのは事実。能力さえあれば抜擢され、能力を発揮できるアメリカ的システムが羨ましい」と本音を語ってやったのである。

 このように、日本を茶化すような意見がどしどし出てくる会議で、出席者からは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いたボーゲル教授にも、あまつさえ冷ややかな視線が向けられた場面が幾度となくあった。
 日本がもはや世界のリーディングカントリーではなくなったか否かが議論されていた時、議長でさえ「その通りなら、二十年ほど前にエズラが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を書いたことがあるが、いまは『JAPAN AS NO.2』という本を書いたらタイムリーじゃないか」と語り、この意見には参加者から笑い声とともに、ご丁寧にも拍手が沸き起こった。

 これに対してボーゲル教授からかなり強い反論が出された。さきのパイル教授やスコット教授との僕の応酬劇や、この議長発言を意識してか、ボーゲル教授は、
 「日本はナンバー2だというが、中国の歴史を見ると、ナンバー2の地位にある者は大体が早晩に失脚している。ナンバー1から警戒され、ナンバー3以下からその地位を狙われるなど、きわめて不安定な位置にあるからだ。確かに、皆さんがおっしゃるように、金融危機について日本政府は内外で有効な措置がとれないでいるし、実際に日本のパワーは衰えて政治的にも首相が数年もしないうちに二人も三人も代わるなど不安定であり、経済同様、機能不全に陥っている。その結果、外交政策自体にもリアリズムを失っている。この状態は今後も当分続くかもしれない。しかし、このようななかでも、日本はアメリカに次ぐ、経済世界第二位の地位を維持している。これは重要なことだ。
 つまり、日本がいまもナンバー2の地位を維持しているのは、そのパワーがまだまだ衰えていないということを意味しており、この事実は、日本が復活する可能性をまだ失っていないことをあらわしているといえないだろうか」とかなり激しく日本不振論に反論を唱えたばかりでなく、日本の潜在的可能性を高く評価するコメントを述べたのである。

 さらには、さすがにアメリカにおける日本研究の大御所だけあって、「西郷隆盛」とか「和魂洋才」などの言葉を次々に発し、われわれ日本人すべてに対する、華麗なる援護射撃を決めて下さったのであった。
 具体的には、これまでのアジアの経済的奇跡、高い教育水準、目的意識の強さ、地域的な結びつきの強さ、さらには家族主義的な人的結びつきの密接さ、低い犯罪発生率などが日本および他のアジア諸国に共通していることを挙げて、「日本およびアジア経済は必ずや復活するに違いない」と教授は強く断言した。

【総括】


 このように、会議では多様な問題が討議された。経済危機の中、アメリカ政府のたび重なる内政干渉で欲求不満状態にある日本が暴発したり、北朝鮮が崩壊して多数の経済難民が出たり、中国を巻き込んで米中戦争が起きるなどの議論は、世間知らずの学者の夢想に過ぎないと一蹴してしまうのは簡単だ。
 しかし、アメリカが21世紀における自らの世界覇権を脅かす存在として、日本、北朝鮮、中国やインドなどアジア諸国を挙げていることには、それなりの理由があろう。それだけ、アメリカにとってアジアはきわめて不透明な地域といえるのではないだろうか。
 この感情の奥底には、朝鮮戦争での苦戦やベトナム戦争での“敗北感”があるはずだ。二十一世紀のアメリカにとって、アジアはいまだに要警戒地域ということなのだろう。会議上における日本バッシングも、裏を返せば日本に対するアメリカの警戒心のあらわれに他ならない。
 ──これが本会議で言ってやりたかった僕の本音だが、これを言っちゃあ、並み居る教授連にその場で再起不能になるくらい叩きのめされることが必至だったので、やっぱり言わなかったよ。

 ハーバードの教授は「自分たちがアメリカ、さらには世界を動かしている。あるいは動かしうる力がある」との自負心が強い。このため、会議の席では周辺国家の発言に、極めて辛辣で非友好的な態度で臨むことが多い。
 “沈大使の悲劇”と呼ばれる事件も、この会議上の新ガイドライン論争の中で起こったものだった。毎週二回、世界中のジャーナリストを相手に記者会見をこなすくらい弁の立つ沈国放国連次席代表であるが、彼はハーバードのセミナーでやはり教授連から“集中砲火”を浴びせられてまいってしまい、講演を途中で退席してしまったのである。

 しかしながら、ハーバードのセミナーではこれほどの激しい議論の応酬が交わされるのは日常茶飯事だった。論争と個人的感情は別、というアメリカの風土のなかでは、議論をしないほうがおかしいという感覚だろう。
 そういえば、大学院の授業でも毎回ひとつのテーマについて出席者全員が参加し徹底的に討議するのが基本的なスタイルだ。まず、学生がその日の授業のテーマに関して自分の考え方を発表する。これはプレゼンテーションと呼ばれるが、この発表についても教授が「WHY?」「HOW?」などと容赦なく質問を浴びせてくる。そこで一般論など述べようものなら、学生からも「おまえの考えが見えてこない」などと突っ込まれてしまう。
 このように、いわば物事の本質を探ろうとして討論するやり方を「ソクラテス・メソッド」と呼ぶ。いまやアメリカの大学ではいわゆる「ディベート」と呼ばれる普通の教授法だが、これは実はハーバードが発祥の地で、この教授法が全米の大学に伝わったのだと自負しているのである。

 ま、アメリカでは議論が終わってしまうと議論していた相手同士が何事もなかったかのように冗談を言い合い、握手して別れることは当たり前。「衆人の前で恥をかかされた」と考えるのは間違いだ。「恥をかいた」と思わなければならないのは、自分の意見を言えなかった時くらいなもので、沈大使も講演の時間切れさえ待っていれば、後はなごやかな晩餐会があつらえられており、そこでどんなにか発言に関してねぎらわれたことだろう。
 この僕でさえ、あの会議の後の昼食の折には議長に「きみは勇敢だった」と肩を叩かれ、スコット教授に手招きされ、「さきほどの続きだが、一時期、アメリカ全体で吹き荒れた日本の経済旋風のわりには、突然、日本の経済が急降下してしまった。そして、一向に立ち直りの兆しが見えない。これを不思議と思わない研究者はだれもいないだろう。日本の経済システムに何が起こったのかを見極めたいと思わない研究者はいないはずだ。それと、アジアの経済危機との関連を論じられれば、ノーベル経済学賞すらとれるだろう。頑張りたまえ」と耳打ちしたのだ。

 その言葉がお戯れであるにせよ、会議の席とは打って変わった友好的態度であることは否めない。僕が思うには、特にアメリカ人は単純な部分があり、思ったことをストレートに出してしまい、わだかまりを残すことを嫌う人が多いようだ。とりわけ、弱いものは放っておけず、強いものに立ち向かって行くという義侠心が強いように感じる。
 このため沈大使のセミナーのように、大国・中国の威を借るような人物に対して、チベットや台湾のように相対的に“小さい”存在が立ち向かって行くと、応援したいという気持ちはアメリカ人は本能的に抱いてしまうのではないか。事実、中国バッシングの口火を切ったのはチベットや台湾人の研究者だった。

 このようなアメリカ人気質が現われたもうひとつの例として、ロシアの国会副議長であるボリス・ネムツォフ氏が講師として招かれたセミナーが挙げられる。論争の焦点は北方領土返還問題で、さきに“小さい”存在の例として挙げたチベットや台湾にあたるのが、このセミナーの場合、日本だった。
 ネムツォフ氏はセミナーで、主にロシアと日本と中国の外交政策について話した。ロシアもアジアの一員として、日本、中国とも友好的な関係を維持したいとの、当たり障りのない内容だった。だが、とりわけ日本に対しては「日露平和友好協力条約」を早期に締結して、外交的にも経済的にも、一層の関係の深化を図りたいとの前向きな希望が述べられた。

 その後、質疑応答の時間に入ると、僕が一番初めに質問した。「平和友好条約については日本側も真剣に考えてはいるが、その前提としてロシアの北方領土返還についての意識が変わらないとダメだという日本国民の感情がある。あなたは、日本問題を担当する第一副首相だったのだから、北方領土問題には詳しいだろうが、ロシアの北方領土返還に対する取り組みは緩慢という印象が強い。返還にはどのような前提条件が必要なのか」という質問だった。

 これに対して、ネムツォフ氏は「ロシア政府は日本政府が南クリール諸島(ロシアでは北方領土をこう呼ぶ=以下、北方領土とする)を返還してほしいという希望を持っていることは充分に承知している。しかし、率直に言ってロシア政府は北方四島を返還するという意志は全くない。それ以前に、平和友好条約を締結して、ロシア・日本間の信頼醸成を高めてから、領土問題を話し合うのでも遅くはないのではないか」と返答した。

 僕は日本と中国問題担当の第一副首相だったネムツォフ氏が「友好条約第一、領土問題第二」と答えたことに激しい反発を覚えた。別に右翼的思想を持っているわけもないが、日本とロシアの外交問題を論じる上で、これは避けては通れない問題であることをご理解いただきたい。ともかく、僕は敢然とした態度を以って再び質問した。「すでに日露首脳会談で、二〇〇〇年までの平和条約締結、北方領土返還で合意しているはずだ。ロシア側はその国際的な約束を踏みにじるというのか」

 ネムツォフ氏は「確かにあの時はエリツィン大統領はそのように言ったかもしれない。しかし、ロシアにはロシアの事情がある。いま、ロシアにはチェチェン情勢など少数民族の問題もあるし、さまざまな経済的問題を抱えている。日本側がいかに誠意をみせるかだが、日本政府は口を開けば『北方領土返せ』の一点張りで、友好的な態度はみえない。私がいま政権内にいても、北方領土の返還には反対するだろう」とにべもない。

 僕は何とかして反論しようと考えたものの、相手が「返さないよ~だ」と言い切ってしまっているのだから、どうしようもない。歴史的経緯でも説明してやろうかと考えていると、パイル教授が「だったら、ロシアは経済的に苦しんでいるのだから、北方領土を日本に売ればいいだろう。日本は経済大国だから、充分な金を出すに違いない。ロシアはアラスカをアメリカに売ったことがある。それを例にすれば、ロシア国民も納得しやすいだろう」と提案にも似た新たなアイディアを出した。「ニエット(ノー)」とネムツォフ氏。

 これで北方領土問題についての議論は終わったかに見えたが、その次にスコット教授から出された意見は「エリツィン大統領は再三にわたって北方領土について妥協的な発言を行なっているのに、ロシア側の拒絶的な態度は理解に苦しむ」というものだった。その後も「歴史的に見て、北方領土は日本の領地」「北方領土については日露両国の共同統治あるいは国連の管理下に置いて、共同で開発すればよい」「日本からたくさん資金援助をもらって北方領土を開発すればよいではないか」などと北方領土についての質問が次々と出て、結果的にこのセミナーで出された質問の八割以上が北方領土問題に関するものばかりになり、最後にはアメリカ人研究者側からの「北方領土返せ」の大合唱に発展してしまったのである。

 ネムツォフ氏は極めて否定的な態度で席を立ち、「なんでこんなに北方領土に関する質疑に熱くなれるのか。おまえたちは全員日本人か、日本人の差し金か。信じられない」と捨てゼリフともとれる独り言を吐いて、質疑応答の時間も途中で会場を去って行ってしまった。
 みなさん覚えておいでだろうか。パイル教授もスコット教授も以下の教授連も、さきの日本バッシングの席では、あれだけ僕に牙をむいて下さった方々である。それが本日は、まるで昔からの友とばかりに、全力で日本人の質問者の味方についてくれたのである。これには僕も、「アメリカ人はこんなに北方領土に関心があるのか」と大きな驚きを感じたが、実際、アメリカ人研究者が、僕のような小国の一留学生が大国ロシアの大物政治家に切り込んでいく姿を目の当たりにすれば、まるで一寸法師が鬼退治する場面に居合わせたような顔をして、その場からジョンストンゲート(正門)まで「北方領土返還」のスローガンを掲げたデモ行進をしかねないほどに、熱くこちらの肩を持ってくれる。これなども前述のアメリカ人気質が如実に現れた一例なのであろう。

 ところで、僕が叩かれた会議には後日談がある。思わぬ副産物が現れたのである。会議から三週間ほど経ったある日の朝、僕は新聞を見てびっくりした。国際面に大きな見出しで「北東アジア、今後二十五年以内に大規模戦争の可能性」という大きな活字が躍っていたからだ。これはアメリカの公的機関がまとめた報告書の内容というものだが、このワシントン発の記事を読むと、聞いたことがあるフレーズがぽんぽんと目に飛び込んできたのだ。ハーバードでの会議の発言が、活字になったという感じだった。記事の記述はさきの会議の内容と酷似している。単なる偶然の一致とは、到底言えないのである。

 僕はワシントンのシンクタンクに勤める友人に頼んで、百四十ページ以上に及ぶ報告書をすぐさま取り寄せた。そして、この報告書のアジア部分においては、ハーバード大で行なわれた会議の内容とほとんど変わらないことを再確認した。さらにその友人に調べてもらったところ、報告書を執筆したのはハーバード大教授ら専門家で、しかも会議参加者が十人以上いることがわかった。僕は今、裏付けがとれた刑事のような気分になっている。
 このようなアメリカを代表する報告書がハーバードの会議内容をもとにつくられたということは、いかにハーバード大の教授らの意見がアメリカで強い影響を持つかが如実に示された事例であろう。そして、その意見が、日本人など当事者から見て、いかにいびつなものであっても、現にアメリカを代表してしまっているという事実は、アメリカの外交政策形成が一握りの有識者によって左右されるという危うさをも象徴しているようだ。

 ところで、日本を含むアジアに関するこのような議論はハーバード大学だけで語られているのではない。ハーバード大学は文科系といえるが、理科系の名門校といえば、マサチューセッツ工科大学(MIT)であろう。「米国経済の繁栄の秘密はハーバード大学とMITの頭脳になる」としばしば言われるほど、両校はアメリカの知能の代名詞ともなっている。
 実は、ハーバードとMITは地下鉄で二駅しか離れておらず、マサチューセッツ・アベニューで結ばれている場所によっては、歩いて十五分の距離にあることを知っている人は意外に少ないのではないだろうか。このふたつの大学は単位交換などで交流も深いはずなのであるが、MITが理系の名門であるだけに人文系の研究のレベルの高さがあまりハーバードの話題に上らないのがムカツク点である。事実、単位交換などでハーバードに学びに来るMITの学生たちを、ハーバード側の学生は「マサチューセッツ・マフィア」と揶揄して呼ぶほどなのだ。

 ハーバード大の学生にまつわる鼻持ちならん話は、それだけではない。
 近いところでは、日本の各省庁や企業から派遣された「公費留学生」らがそれである。
 特に外務省から派遣される場合、外交官試験に合格後、彼らは将来的には次官という身分を保証され、ほとんど直ちに専門の語学の国の大学に派遣されて、さらに欧米の大学に一年間、計三年間の留学生活を送ることになる。この文章の前章において、僕に鼻持ちならないご意見を下さった外務省の若手官僚であるA君は、東大法学部在学中に外交官試験に合格し、当然のごとく東大を中退して北京大学で二年間、中国語を学び、さらに一年間ハーバード大学の修士課程で東アジア問題を中心に勉強してマスターコースを修了し、本省に戻るというコースを辿った。彼は、それこそホンモノのエリートだ。

 しかし、彼はエリートにありがち、というよりも、ちょっと常識外れという印象をこちらに抱かせるほどに、自分および自分の思想に対する自信を持ちすぎている人物だった。
 「あんな中国の“国賊”みたいな奴を特別扱いしてどうかしてますよ。だからあいつら、『民主化指導者』と言われて驕り高ぶってしまっているんですよ。奴は愛国主義的な運動だというが、あいつが運動を起こしたおかげで多くの人間が命を亡くした。あれでは運動を暴動に変えてしまっただけだ。どだい、中国人民にとっては、民主化そのものが重要性に欠いているものなんですよ。獄中で青春をムダにした奴に言うには、酷ですけどね」
 これは、僕や主任教授が、中国民主化運動の指導者である王丹氏について話題にした時に、A君が語ってみせた言葉である。天安門事件の「王丹」がクラスメートだといえば、われらが姉貴さんならば、その日のうちにボストン行きのデルタ便のチケットを手に入れることが予測されるほどに、知る人ぞ知る英雄的人物である。

 王丹は九八年三月に釈放され、米国に出国して同年九月からハーバード大学の大学院に入学、勉強している。彼は「ハーバードで『中国とは何か』ということをじっくりと考え直したい」ということで、大学院ゼミの「中国政治」を受講したという。
 実は、僕はこの授業を選択することは、初めは気乗りがしなかった。最初の授業で、教授が話している内容があまりに中国国内にかたより過ぎていると感じ、聴講するのはやめようかな、と思ったのだ。気が移ろい始め、ふと横を見ると王丹にそっくりな中国人らしい学生がいるではないか。「まさか」と思う反面、「いや確かに王丹だ」という気持ちがあり、真正面から見据えるのもはばかられ、何気なく横目で見ているうちに、にこやかに微笑む彼と目が合ってしまったのだった。僕は「ここで会うのも、なにかのご縁」と思って、その後も授業を受け続けることにしたのである。

 山東省出身の王丹は、大酒を飲むと松本清張の推理小説をネタに演説をぶちまけるなど、さすが天性のカリスマを発揮したものだったが、もちろん授業にはしらふで出席し、常に積極的に発言をして、時には教授の意見が納得できずに食って掛かるような場面すらあった。
 僕は彼のその姿を見て、八九年の民主化運動で、李鵬首相ら当時の最高指導者と対等に渡り合っただけのことはあると感心したものだった。しかし、王丹からとってみれば、彼ら民主化運動指導者には生活の保障など、どこにもない。中国政府に言わせれば、「刑事犯罪人」であり、帰りたくとも中国には帰れないし、帰れば逮捕される運命が待っている。かたや、ハーバードで彼らの周りにいるのは中国の将来を担うエリートたちである。王丹の複雑な心境は想像に難くない。

 さきの官僚のA君を含む日本人たちには、「帰る場所がある」ので他人については気楽な批評をしていられるのに対して、「アメリカに居座る」つもりの中国人の方が真剣に時勢を見つめようとするし、留学生活も勢い真面目にならざるを得ないこともあるのだろう。
 とはいえ、A君の場合は彼なりに誇りをもって行動しているのだろうし、授業とは別の東アジア問題のセミナーで論文を発表するなど、真面目に勉強をしていたのだが、すべての官僚留学生が勉強にいそしんでいるというわけではなかった。

 それこそ、留学中の二年間はすべての仕事から解放されることから、いわば「二年間の休暇」という気持ちで、このときとばかり全米中を次から次へと旅行する留学生もいた。この留学中の二年間で、ハワイを除いて他の五十州を自動車で旅行した留学生もいれば、アメリカはおろか、遠く足を伸ばしてブラジルやアルゼンチンなどの南米や、さらにイタリア、イギリス、フランスなどのヨーロッパをも“制覇”した企業派遣留学生の猛者もいたほどだ。最近車を手に入れた僕も、時間が許す限りその真似事をしてみたいものだが。

 日本人の場合、日本での勤務が世界一激務なだけに、海外に出て、官庁や会社の上司の“監視”がなくなると、ついつい楽しみに流される傾向があるのは仕方がないといえなくもない。この二年後には、現実のビジネス社会で即戦力として期待されている彼らである。過労死の話題を笑って語れない彼らのアメリカでの生態を、ニュートラルな立場にある僕が簡単に批評するわけにはいかないことも、また事実である。

 さてそんな折、僕が留学中に体験した最大の事件──世界中が忘れてはならない大きな出来事が起きた。
 僕が何度も出入りしていたNYマンハッタンのシンボル、世界貿易センタービルにテロリストのハイジャックした旅客機が突っ込んだのだ。
 衝撃的なTV映像をONタイムで見つめながら、言葉を失った。二ヶ月前、資料収集のためにペンタゴンに缶詰になった腹いせに、ポトマック川のアイスバーンを160キロでドライブしたその現場は、現在でも灰色の煙に包まれている。

 ひとつの言葉が頭をよぎった。
 戦争──。

 アメリカは、かつて十一年前の八月、イラクによるクウェート侵攻が始まった時のような戦争前夜の様相を呈してきている。ブッシュ大統領は、冷え切った夜のホワイトハウス南庭を一人歩き回り、自らの決定で多くの米国の若者が死に直面するのではないか…大統領は米国の青年の運命に思いをはせていると聞く。
 米国を主力とする多国籍軍による対イラク地上戦は九十一年二月、新月の日に突入。新月の日は戦闘機の機影が地上から見えにくいためだ。今年(二〇〇一年当時)の九月の新月は十七日、十月の新月は九日。もしかしたら、ブッシュ大統領が全軍にGOサインを出す日は、このあたりになるのかもしれない(註:実際に米軍の空爆は十月七日から開始されました)。

 十三日付のNYタイムズ紙は「第三次世界大戦──ベイルートからエルサレム、そしてニューヨークへ」と題した論文を掲載した。論文は「この第三次世界大戦の最初の一撃は、非核兵器による攻撃としては最後のものになるかもしれない」と悲観論を展開し、暗に次なる事態は生物・化学兵器か核兵器によるテロ攻撃にエスカレートする懸念を示し、世界中のどこの地域でも突然戦場と化す可能性があるという恐ろしい仮説を立てている。
 つまりこれは、テロという世界共通の見えない敵を相手にした戦いの始まりなのだろうということはわかるが、たとえ米国が報復に出たところで、テロ組織は更なる攻撃に打って出る可能性が高い。世界各地に散らばるテロ集団をひとり残らず殲滅することは、まず難しいだろう。見えない敵との戦いに突入した世界は、同時に出口の見えない暗闇に入ったといっていい。冷戦構造は核の使用をとにもかくにも理性で抑止する体制だった。九十年代初以来、ソ連東欧の激動の中で米国は冷戦終結後の新たな「世界秩序」を武力を背景に模索してきた。「核抑止」の構造が崩れ、湾岸戦争を経て作り出されるべきだった新世界秩序が姿を現さないままにこの事態に──

 日付が変わるにつれ、大学の中でも行方不明者の名前があがり、友人の中にも家族や知人を探す姿を見るようになってきた。アメリカ人は飛行機をあたかも日本でいう新幹線のように気軽に使っている。その飛行機が全面的に飛ばないことになり、ボストンでも路上に「家族が行方不明です。誰か私をニューヨークまで連れて行って下さい」というカードをかかげてヒッチハイクを求める人々があふれている。この事件の犠牲者が仮に五千人に近いとすれば、子供を亡くした親、親を亡くした子供、兄弟、親戚、友人、恋人を亡くした人の数はその百倍を軽く超えるだろう。
 十三日夕刻、ボストン市内でも市民が軒並み星条旗の小旗を身に帯びてアメリカの団結を促している。全然おぼえられなかった「星条旗よ永遠なれ」も、連日の放送で僕もとうとうおぼえた。去年のクリスマスに行ったマンハッタンのセント・パトリック協会は連日二十四時間ミサが捧げられている。ふと思った。こんな時、人はすがる思いでつぶやくのだろうか。「神様」──と。

 だが、この心痛む光景の影に、銃と水の売れ行きが急増と報じられるような臨戦ムードが浸透しているのも現実だ。僕としては、いかなる場合であっても、暴力に暴力で返してはならないと思う。命に値札が付けられますか? 家族は? 恋人は? 友人は? 今すれ違ったアカの他人は? ──では自分は? 
 僕が今回の事件に巻き込まれたとしても、僕の友人たちは戦争を望まないだろう。正義の名のもとに、戦争を起こしてはいけない。殺人を犯した人間を被害者側の人間が殺してもいい──そんな法律がないように、報復という名に代えた殺人が世に罷り通っていいわけがない。カリフォルニア州をはじめとした死刑制度廃止の州がアメリカに増えてきているが、それほどまでに個人の人権が守られる国の世論で、自国以外の集団に対する殺戮行為が許容されるというのもおかしな話だ。

 他方、僕としては、今回のテロ事件に深く関わっていると思われるタリバンの被害として今年はじめのバーミヤン石窟の爆破が、真っ先に注目すべき事変だったのだと考えている。
 みんな想像したことがあるだろうか。中近東の人々というのは、我々良くも悪くも近代文明にどっぷり浸かっている者と違い、まったくの砂漠、高原、山岳地帯で牧畜を営んでいる人々なのだ。羊飼いの少年が、ある日突然タリバンというイスラム原理主義の大人たちに連れ去られ、生まれてはじめてテレビというものを見せられ、その画面に映し出されるアメリカの姿──高層ビルを掠めて飛ぶ巨大旅客機などを目にしたら、それは悪魔の乗り物だと思い込むのではないだろうか。今回のテロ事件の実行犯とされるアフガンの若者たちは、そういう教育を受けてきた者たちなのだ。

 世界遺産爆破の前回とビル爆破の今回を鑑みるに、そういったテロ組織に対してアメリカの想像は非常に甘かったと思う。FBIの長官とやらが毎日TVに出てきているが、どのツラ下げて出演しているんだとでも言ってやりたい気持ちだ。長官が声高に叫んで問題を巧みにすり替えているが、FBIの本来の使命はテロ殲滅ではなく、テロ行為を未然に防ぐための地道な捜査ではないだろうか。アメリカはたかだか弱小テロ組織に負けたのだ。そして報復を考える限り、永遠に彼らに負け続けるのだ。戦場での死に勇者などなく、そこには悲惨な死があるだけだ。戦争には勝利も勝者もない。そんな戦争の火種にされる、あの旅客機の乗客と世界貿易センタービルの被害者と、その家族に限りないSympathyを感じる。三千人とも五千人ともいわれる犠牲の上に世界平和が気づかれるならまだしも、それを理由に戦争を始めるとは、僕が遺族だったらやりきれない。
 それでもアメリカは再び戦争に突入するのだろうか。

 ご心配いただいたが、僕と僕の身内とも呼ぶべき友人たちにこの事件による被害はなかった。しかし、ご存知のとおり僕の同僚ともいうべき多くの方が命を落とされている。世界貿易センターで事件に巻き込まれたのは皆、有能な企業戦士であり、働き盛りの、すなわち年齢も若くお子さんも小さい方々だ。富士銀行の石川さん、沼田さん、優しく男気のある方で、もしかしたら他の人を助けて逃げ遅れたのかもしれない。どうか日本人の安否の情報が流れた時、この方々の名前を心に留めてほしい。ただし、このような大変な犠牲を強いられようとも、武力に頼って報復するなら僕たちはもっと傷つく。世界は新たな犠牲者をいたずらに量産することになる。憎しみを超えて共に生きる道はどこかにきっとあるはずだと思う。

 9.11からほどなくして、僕はある国際会議の場に出ていた。
 会議は予定されていた議題から大幅に逸れ、9.11の話題一色の様相を呈していた。昼前、混乱を極めた会議がふと秩序を取り戻したかのように見えた折、その出来事は起きた。
 僕が議長から指名されて私見を述べているその真っ最中に、あるアメリカ人国際政治学者が、突然立ち上がって指を突き出したのだ。その人差し指は、まっすぐ僕の胸を指していた。彼は感情も露わに言った。
 「さっきから聞いていれば、お前はやけに冷静に分析できているじゃないか。日本人のお前は、心の中ではアメリカがテロの標的になって、ざまあみろと思っているんだろう。お前たちの国は、アメリカに二度も原爆を落とされたんだからな」

 なんということだろう。満場から拍手。あまつさえ、彼の言葉に奇声をあげて同意を示す者もいた。僕はその政治学者の顔を凝視した。ついで、ゆっくりと立ち上がり、会場を見回した。気まずそうな顔をしている者はいないのかと、一縷の望みをもって全員と目を合わせようとした。そして、僕の望みは果たされなかった。
 僕はこの場を出ていくにあたり、自分の椅子を蹴り倒し、無礼な相手には靴でも投げつけてやりたいという欲求と懸命に戦い、数秒後にそれを克服した。そしてゆっくと歩き出した。その不穏な動きを「宣戦布告」とでも受け取ったのか、中央に座る議長がかすかに身をすくませるのが感じられた。歩きながら、考えた。もう日本に帰ろう──と。人々とはわかり合えない。世界に仁政の布かれる日など永遠に来ない。僕は僕の生まれた小さな国で、自分の国の未来のために尽くそう。僕はアメリカを捨てる。

 僕は言いだしっぺの男の前を通過し、大会議場の鋼鉄製の扉に手をかけた。最後に何を言おう。
 「日本人は祈っています」
 扉を開けて、男を見た。
 「二度も原爆を経験した日本人は、今、アメリカのために祈っています」

 会場は水を打ったように静まり返った。
 歩を進めようとして、足早に近づく靴音が聞こえ、誰かに肩をつかまれた。
 「あんたが出ていくことはない」その人は早口で言い、
 「おまえが出て行け」と強い口調で振り返った。視線の先には、先ほど僕を揶揄した赤ら顔の男がいた。その場にいた全員の目が、「出て行ってくれ」と彼を見つめている。赤ら顔の表情は読み取れない。相変わらず僕を蔑んでいるようでもあり、いくばくかショックを受けているようにも見える。あるいは憤っているのか。裏切りともいえる同僚たちの反応に、内心で憤怒しているのか。
 よく磨かれた靴が、足早に僕の前を通り過ぎる。
 追おうとして、僕の鼻先で扉は閉められてしまった。


日記に戻る
次章へ
前章へ











© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: