山口小夜の不思議遊戯

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2005年11月20日
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 ●豊の涙●

 豊の切れ長の目が一瞬みひらかれ、それがすぐに目の前の青年への凝視にかわった。

 その目をじっと見返しながら、彼は続けた。
 ──日本のために死んだことに後悔はありません。ただ、靖国神社にてわたしが日本人として祀られていることに、心が痛むのでございます。

 豊からは言葉がない。

 ──ですからどうか守宿多(すくのおおい)の方。あなたさまから、わたしを日本人ではなく、朝鮮人として祈言(ねぎ)を唱えていただきたく、ここにお願いを申し上げに参ったのでございます。

 もの言わず見つめ合う数秒で、豊と青年はお互いの素性と気持ちをすべて読み取っていた。

 ──そうだったのですか・・・・・。


 ──お名前を。
 と心を込めて、だが短く訊いた。

 ──李家民賀(りのいえみんか)と申します。朝鮮文字ではこのように書きます。漢字ではこうです。

 青年が宙に文字を書くのを、豊は一字一字しっかりと記憶に結びつけるよう、じっと見守っていた。
 ──わかりました。本日すぐにでもあなたのお参りに伺います。

 うなずいた豊がどこか痛んだようなほほえみをその顔にたたえているのを見ると、青年はそれに安心させるかのように笑顔を返し、朝日のなかに溶け込んでいった。

 数時間後、豊はごくふつうの出で立ちで、昨日も訪れた地下鉄の市ヶ谷駅にふたたび降り立っていた。

 駅前に一軒の花屋があったので、豊はそこで花束をもとめた。
 店員の女性にリボンの色を訊ねられたので、
 ──白にしてください。
 と答えると、彼女は困ったような顔をした。


 かまいません、と豊に言われて、花屋の娘は不思議そうな色を顔に浮かべたまま、それに従った。

 豊は小さなゆりの花束を手に巨大な神社の祭殿に向かい、それを供えたのちにゆっくりと祈りを捧げはじめた。
 青年の声、顔、そのすべてを思い浮かべた。

 虐げられた者と虐げた者。
 もとい、青年の静かなたたずまいのうちに見え隠れする尊厳という力が、虐げられた者を虐げた者よりはるか高みにおし上げるのを、豊はまざまざと感じた。

 人が一生の間に得るであろう魂の篤さの、圧倒的な格の差に、全身が鳥肌立ってくる。

 豊は自分がまのあたりにした、青年の軍服姿の残像が次第に溶け出していくのを待った。
 そして、柳の葉の染め柄の、ふだんの彼の浴衣姿が思い浮かべられるようになるまで、じっとそこに立ち尽くしていた。

 やがて、不思議に心を和ませる風景が目の前に立ち現われはじめた。

 彼は浴衣姿で民家の縁側に座っていた。
 静かな、春の晩であるようだった。
 その傍らには、小さな女の子の姿があった。
 ふと自然にのばされた父の手が、彼女の頭をなでた。
 後ろからほっそりとした美しい女性がお茶をもち、彼の背中によりそった。
 異国の言葉が聞こえ、親子の笑い声があがった。

 ここまでを見とどけて、豊は目を閉じた。
 このどこにでもあるしあわせな家庭に、その後なにが起こるのか見ることを避けた──否、逃げた。
 それ以上を知ることは、もはや彼の精神には耐え難かった。

 深いもの思いに満ちた拝礼ののち、彼は思うところあって戦死者名簿をひもとくために資料館に向かった。
 しばしの検索の後、果たして名簿の一端に、その名を見い出した。

李家民賀 鳥取県出身 ラバウル野戦防空隊司令部陸軍中尉 享年二十八歳

 豊は今朝方よりふたたび対峙する、優しく整った写真の顔を身体をかがめて覗き込んだ。
 頭のなかには、彼らしからぬありとあらゆる悲観的な思いが渦巻いていた。
 必死に吐き気をこらえようとするように、豊は泣き出したい衝動と格闘しつづけた。
 自分がこの青年の、すでに完成してしまった人生になにもできない存在だという──なにものでもない自分に対する火のような憎悪の気持ちがくり返しくり返し襲ってきて、ついに抑えきれなくなった。

 その古代の矢じりのような眦から涙があふれだしそうになったとき、だが写真の口元がゆっくりと動き、
 ──わたしのためにどうか苦しまないでください。わたしの人生はしあわせでした。
 とことばを作った。

 豊は喉元にせりあがってきていた熱い塊を無理に飲み込むと、ふるえるため息をひとつして、気持ちを鎮めていった。いつのまに爪痕がつくほどに固めていた拳に気づき、それをゆっくりと解いた。
 そして、いまひとたび拝礼したのちに、静かにその場をあとにした。

 豊は拝殿をふり返らなかった。
 自分のなかにぽっかりと空洞があいてしまったことしか意識できないまま、豊はもと来た参道を引き返していった。身体から力がすっかり絞りとられており、彼はしばらく、ただなにも考えずに歩いていることしかできなかった。

 だが、やっとまた顔を上げたとき、ある少女の顔が、脳裏に突然に浮かんできた。
 過去から甦ってきた、彼のよく知る少女の顔。
 悲しいときや苦しいとき、思春期のある時期に彼はいつも彼女の顔を呼び出していたことを思い出した。その顔の背後には、もっと多くのもの、淋しい結末に終わる長い物語があったのだが、豊はそちらには深入りしなかった。その顔と勝ち気な表情だけが、彼の思い出したいすべてであった。
 彼はそれを自分だけの呪(まじな)いとして扱っていた。彼女の存在を意識するわけではなく、だがやり切れないような気持ちに陥ったときにだけ、その顔を自分の心に引き寄せるのだった。

 やがて頭のなかに浮かべていた像が、効果を表わしてきた。

 気がつくと拝殿を抱く森はとても静かで、彼は安らぎのようなものを覚えていた。
 神社を出る前にふと目を上げると、大鳥居の向こうに、都会のビルが林立しているのが見えた。

 たたなずくビルの群れを見つめて、豊はそのひとつひとつの屋上に巨大な猫がねそべる様を空想してみた。するとなんだか憧れに似たような、楽しい心持ちになってきた。

 昨日の深い霧が嘘のようだ。空は青く、理由もなくただ青く。
 そして、明日も明後日も、空は淡々とその営みをくり返すのだ。

 何人の生命が消えれば、世界は嘆くのだろう。
 誰の生命が尽きれば、世界は止まるというのか。
 キリストが死んでも、世界は回り続けた。
 ならば、世界の終わりとはなんだろう。
 個人の時間が永久に止まっても、世界は動く。
 しなやかに、したたかに、過去を漱ぎ、忘却してゆく。

 だが、忘れてはならぬ過去がある。
 忘れることのできぬ過去もある。

 まったく唐突に、あることが脳裏にひらめいた。それは彼の知るところの、高層ビルにまつわるさまざまな人物のひとりに新たな焦点がしぼられることになった。自分が誰に会うべきであるのかを。

 そのことを思い定めた彼の目の前で、突然海が割れたかのように、靖国通りから折れてトウキョウ一のビルが建つ、池袋方面に向かうまっすぐな道が拓かれた。

 金属のように光っている、都会の無味乾燥な道。
 けれども眼前に展開された光景は、「この道を一筋に行け」と圧倒的な烈しさで豊に迫った。
 彼は自らの心が定めた方向に従って進む道を決め、大地にそびえる巨大な鳥居をくぐり抜けると、まっすぐ街へと出て行った。

 鳥取でよくするように風景に自分の姿を溶け込ませながら、彼はつぶやいた。ひどく優しく。

 ここも森だな──。



                                 番外編のおわり



 本日の日記---------------------------------------------------------

 未来で待ってて──byハウルの動く城。


 今日の本文は、私にとって大変な挑戦になると考えていました。
 私は政治的な話ができるまで、物事を知っているわけではありません。
 特に靖国神社という「たてもの」については、昨今議論が絶えない存在であり、文章にするには非常に微妙なところまで気をつかうことになるのではないかと、はじめ構えていたのです。

 けれども、書いてみてわかりました。
 このお話に、真意などありません。
 ただ、‘あったること’をそのまま文章にしました。

 読んでくださった方が瞬きをするそのまぶたの上に、ふと一瞬だけ青年将校の面影を映していただけるならば、私はその深く優しい共感に心を打たれることになるでしょう。


 番外編におつきあい下さり、本当にありがとうございました。
 皆さまのお励ましがあって、すごくすごく、私は自由だったです。
 自由に、書かせていただくことができたのです。
 おひとりおひとりに、深く感謝申し上げます。

 明日から本編に戻ります。
 えっと・・・・・どこまでいったんだっけ。
 そうそう、●男は勇み、女は艶(なま)めく●でした。
 しゃんしゃん傘踊りのお話です。日本一美しいお祭りですよ!
 数多くの綾一郎ファンの方、お待たせしました。
 タイムスリップして、お盆の季節の鳥取に遊びにきなんせ。


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最終更新日  2005年11月22日 21時16分15秒 コメント(5) | コメントを書く


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