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紅葉見ごろの便りが届きます 寺内真っ赤に染まった今回の宝筐院、今年も綺麗に彩っていると報道されていますがこの写真 2014.11月に撮り置いていた写真です、ご了解の上ご覧下さい 宝筐院(ホウキョウイン)足利義詮(よしあきら)と楠木正行(まさつら)の菩提寺 1333年後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡に追いやった時の功労者が両名の父楠木正成(マサシゲ)と足利尊氏(タカウジ)ですが、天皇が公家を重用したことから足利尊氏が反逆し事後京に(北朝)室町幕府を開く発端となり、天皇は楠木正成を随へ奈良・吉野(南朝)に構えることとなり尊氏・正成は敵対関係となりますいわゆる南北朝時代の始まりです 足利義詮、足利幕府初代足利尊氏の嫡男で北朝方足利二代将軍です 楠木正行、大楠公楠木正成の嫡男で南朝方を率い小楠公と呼ばれています このお寺、平安時代の白河天皇の勅願寺として建立され当時からの寺名は「善入寺(ゼンニュウジ)」、南北朝時代に夢窓疎石の高弟”黙庵周諭(モクアンシュウユ)”が中興し、義詮と正行は相前後しますがそれぞれ禅問答を重ねた上その黙庵に帰依します 1348年の北朝との四條畷の戦いで討ち死にした正行は、黙庵によってその首級をこの寺内に手厚く葬られました、互いに仇敵同士であったが正行の人柄を褒め称えていた義詮は正行の埋葬を知り、自分の逝去後は正行の墓の傍らで眠らせて欲しいと遺言を残し、1367年の死後程なくここ善入寺 正行の墓の隣に葬られました 嵯峨野にある臨済宗の単立寺院(一時天龍寺に所属)で、ご本尊は十一面千手観世音菩薩立像です ↓寺内の紅葉、見事でした 義詮38才で逝去、院号「宝筐院瑞山道權(ズイザンドウゲン)」、葬られた善入寺は歴代の足利幕府加護のもと安定した寺勢を保って来ましたが、八代将軍足利義政の代になり義詮の菩提をさらに弔うため寺名を義詮の院号をとり「宝筐院」と改められました ↓その宝筐院 近辺の地図です 渡月橋をほぼ真っ直ぐに北へ嵯峨釈迦堂・清涼寺でつきあたり左方へ直ぐです ↓入り口の「山門」 「小楠公菩提寺 宝筐院」の石塔、二人の名の連記でなく祀られた経緯でしょうか、義詮は宝筐院名で正行を祀るとの表記です ↓屋根瓦は楠木家家紋 菊に流水「菊水」です ↓寺内入るとすぐ紅葉の参道です ↓もみじのトンネルが続きます ↓庭内、紅葉で溢れます ↓緑の苔庭にもみじの紅い葉が落ちます・・・ ↓苔と紅い葉アップ ↓本堂前、まだ日陰で緑のモミジも見られます ↓本堂横の枯山水の庭です ↓本堂前の廊下から西は真っ赤なもみじです ↑ご本尊・十一面千手観世音菩薩立像 ↑黙庵に正行 対面の図(本堂の額) ↓本堂内から右・西方の紅葉 ↓同じく左・東方の庭です それぞれ「額縁・紅葉」の4枚です ↓外に出て本堂前の庭から ↓寺内一番奥 石の門と棚に囲まれて二基の石塔が立っています 墓前の石燈籠に書が刻まれています、富岡鉄斎の揮毫で右には「精忠」最も優れた忠、左には「碎徳」小片の徳、義詮からみた想いが書かれています ↓左.義詮の墓 三層石塔です 右が正行の首塚とされる 五輪石塔です ↓終りの写真はもう一度寺内ワイドに見る紅葉です(拡大します) 大楠公・楠木正茂とその子・正行父子には、愛と別れの心情を謳った詩があります お若い方にはいささか馴染みのない唄、私の小学校時代の学校唱歌です 「桜井の訣別(別れ)」 一、青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(コ)の下影に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上(エ)に 散るは涙かはた露か 二、正成(マサシゲ)涙を打ち払い 我が子正行(マサツラ)呼び寄せて 父は兵庫に赴かん 彼方(カナタ)の浦にて討ち死にせん 汝(ナンジ)はここまで来つれども とくとく帰れ故郷(フルサト)へ 三、父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん この正行は年こそは まだ若けれもろともに おん供仕えん死出の旅 まだまだ続きますが・・・ このあと二人は涙の別れ、正成は湊川の戦いに赴き討ち死にし、正行は断腸の思いで吉野へ帰ります 愛国忠義の歌とも謂われますが、小さい頃胸打たれた記憶が残る唄です
2019.11.27
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. 日蓮宗 大虚山(だいきょざん)・光悦寺 1615年桃山・江戸初期に、代々稼業とし現在も続く刀剣の砥ぎ・鑑定から書画や漆芸・作陶・蒔絵・彫刻等多岐の分野で独自の芸境を展開した芸術家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は徳川家康公よりこの鷹ヶ峰の地を拝領し、一族及び工匠らと移住し光悦村として芸術郷を築きます 現在この付近一帯は鷹ヶ峰光悦町と名付けられ、鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰、TOP画像です)を望む景勝の地です 光悦は本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けていたが、没後自ら深く信仰し法華経寺院の発願をしていた経由から、日蓮宗本法寺の日慈上人を開山に迎え光悦寺に改められます ↑玄関らしきものはなく、趣ある細長い参道(元々寺でなく住居への緑溢れる通路でした)が奥深く続きます 寺内も含めこのお寺らしくない参道は光悦寺の見所の一つです 石碑は寺名でなく「本阿弥光悦翁𦾔蹟」とあります ↑少し進むとようやく寺らしい簡易な門が造られ通路まだ先へ続きます ↑暫く行くと出会う建物、珍しい趣ある茅葺きの鐘堂です 元禄3年(1690年)鋳造とあります ↑境内に七棟設けられている茶室への待ち合い処と庫裡本坊(右)です ↑「本堂」右下の扁額「光悦寺」は開山日慈上人の筆です (右)中には入れませんが本尊十界曼荼羅を安置し、宗祖・日蓮上人がお祀りされています ↑鷲ヶ峰を背にして庭のほぼ中央に位置する「光悦寺垣」です、光悦翁の創作と謂われる竹で作られた透かし垣で、光悦寺の有名な遺跡です ↑みどりの苔と楓の庭に溶け込んでいる光悦寺垣、長さ18mのもので枠を半月状に曲げてその中に菱形の格子を組んで作られ、徐々に高さの変わる独特のもので牛が臥せている姿に似ているところから臥牛垣(ねうしかき)とも呼ばれています ↑茶室「大虚庵(たいきょあん)」 光悦翁が居室として使っていた処でその名より寺号大虚山(だいきょざんと読まれます)とされたもので、翁はここで80年の生涯を終えます、切妻造柿葺の建物で大正の時代に入り五帖台目の茶席に改められています 茶室は光悦寺垣に面し建てられていて、右は建物正面です ↑もう今迄の写真からお気付きと思いますが、境内に溢れる楓の葉は先の方から色ずいて、一足早く秋の気配が感じられます これより下は、境内に点在する茶席とそれを巡るきれいな参道をご覧下さい ↑「三巴亭(さんはてい)」 数寄屋造りの八畳二室と水屋からなる茶席で、一室は光悦堂と称し仏壇に光悦翁の木造が安置されています ↑「了寂軒(りょうじゃくけん)」 鷲ヶ峰の借景が綺麗な茶席で、常題目堂のあった処と謂われ又この名光悦の戒名にもつけられています、前庭のドウダンツツジもまた有名です ↑「本阿弥庵」 一族の名が付いた茶席で、境内一番南にありはるかに京都市内を望める処に建てられています (右)本阿弥庵前に置かれた石燈籠と蹲踞(つくばい)です 茶室これ以外に「徳友庵」「騎牛庵(きぎゅうあん)」「自得庵」が点在しています ↑「本阿弥光悦墓碑」 境内の木々の覆われた一角に静かに立っています 「了寂院光悦日豫(ヨ)居士」と刻まれています (右)境内を散策して見上げると、色ずき空に綺麗に映えていました 本阿弥光悦は茶道に於ても一流一派に偏することなく、古田織部や織田有楽斎にも教えをうけ、千宗旦とも深く交り茶道の奥義を極めたと謂われています ↑今回の一枚、長く続く菱形に敷かれた石畳と緑溢れる参道です 境内巡ってみるとお寺と云うより「山荘」と云う風情が広がり、参道の雰囲気はまた「茶席への垣の小道」と呼ぶのが似合っています (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今百日紅です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「鷹ヶ峰源光庵前」下車 すぐ光悦寺関連HP URL---http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/koetsu-ji.htm (光悦寺HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 ファブリックフィールド 京都みすや忠兵衛・手芸材料 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.09.15
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さくらが過ぎて新緑眩い時期となりましたが、まだまだコロナウィルス収まる気配はありません、新緑を愉しみに出かけることは適いませんが撮りおいている写真でご紹介します2013.5月に一度UPしていますが、一部ダブリますが残る写真と2018.5月に再訪した折の写真です、少し長くなりますお時間のある折にご覧下さい 妙心寺塔頭 大法院 臨済宗龍泉派に属し武将真田信之の菩提寺です 1625年信濃松代藩主真田信之の遺命に従い、孫・長姫により創建され開祖は妙心寺175世の法嗣 淡道宗廉(タンドウソウレン) 真田家より毎年50石が施入され藩寺として護持されてきました 真田信之は父 真田昌幸の長男で真田幸村の兄に当たります、1600年の関ヶ原の戦いでは昌幸・幸村と袂を分かち徳川方に加わり(犬伏の別れ)二度の戦いを経て東軍徳川勝利への道筋に貢献しています、ただその後、敗軍の将昌幸・幸村の助命を嘆願し九度山に幽閉させられたあとは、二人を密かに支援し続けたとされています また、その松代藩第八代藩主の真田幸貫(ユキツラ)に仕えた幕末の兵法学者・佐久間象山はここ大法院に祀られています ↓本山・妙心寺です 並ぶ伽藍手前より仏殿、法堂で奥正面は唐門と方丈です ↓大法院「山門」 屋根が少し傾き加減です ここ大法院 通年非公開で春・秋の二回特別公開時のみ入れます、ただ今年はコロナで公開取り止めとなっています ↓門前に立ちました 大法院の寺名は信之の法号「大法院殿徹岩一明大居士」からです ↓山門の上には真田家の家紋「六文銭」掲げられています ↓一歩踏み入れると眩い新緑の前庭、 ↓前庭の参道です ↓「庫裏」入り口には大灋院 法の字"古字写作“の所で”灋”の字ありました、仏教語の様です ↓玄関より入り「坪庭」です ↓庭に面した「客殿」内、日々是好日の額かかります ↓ご本尊は釈迦牟尼仏を祀ります ↓「真賞」佐久間象山直筆の額です ↓「叭叭鳥図(ハハチョウズ)」八面の襖絵、江戸時代中期の絵師・土方稲領筆によるものです 叭叭鳥(中国に産する吉祥鳥)100羽が梅の老木に群がり飛ぶさまが描かれています「長空鳥任飛(チョウクウ トブトリニマカス)」こころ想うままに自由に飛ぶ有様と表現されています 飛ぶ鳥、障子の下にも描かれていました ↓露地庭園に向きます 禅に通じる侘び寂びを感じられる庭と説明されています 茶室に付随す庭のことを露地庭と言い、飛石.延段.垣.燈籠などが設けられ構成されます、また仏教の教えの中で清浄世界を表現する庭を露地庭園と呼ばれます ↓客殿から見る庭正面です お茶とお菓子が待っていました、 禅で「旦座喫茶(シャザキッサ 意・・まあ.座ってお茶でもどうぞ)」 ↓苔も生え、みどり一杯です 苔に覆われる燈籠と腰掛待合です ↓立派な「蹲踞」でした ↓庭には飛び石が苔の地にきれいに配されています ↓庭西方をみます ↓奥は借景の双ケ丘丘陵ですが・・・ ↑茶室扁額 ↑茶室の入り口です ↓大法院の主役、茶室「有隣軒」です 名は論語「徳不孤必燐有」より引用 ”徳のある人には孤立なく、必ず理解し助力する人隣に有り ” との意です御朱印には「徳不孤」の書もあります ↓「真田一族と佐久間象山墓所」への入り口 右はその石標、左に2013年には無かった新しい石標「千代の富士顕彰碑」とありました 入ります ↓真田一族の墓、真田信之と子 信吉・信利そして孫・長姫の墓が並びます ↓佐久間象山墓です 象山は仕えていた真田幸貫(ユキツラ)が老中兼務の職に就いた中「海防八策」を上申した幕末の兵法学者で西洋学問を知る第一人者と謂われ、吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬などの門弟を教え公武合体・開国論を唱えます、その教えは新しい日本の礎となります ↓「千代の富士顕彰碑」 牌には残された自筆の”心 技 体”の文字が刻まれます (影に入りはっきり字が見えませんが) 2016.7月に膵臓がんで亡くなった「小さな大横綱」でした、”体力の限界・・”の名セリフで引退後は九重部屋を継承、ただ協会の運営には我が道をゆくを貫き中枢から外れます、 真田昌幸と幸村とは袂を分かち異なる道を選んだ真田信之には先に記した法号「大法院殿徹岩一明大居士」に顕されるその人となりに、千代の富士現役中より師事信心するところあったのでは・・・と思われます 仏心には篤く大法院住職との親密な間柄から厚い信仰を持ち度々の参詣があったと謂われ支援者によりこの碑がたてられています もみじ瑞々しく映えていました ***************** 京都ええとこ一覧下 京都市の地図をクリック拡大して、各所に付されたNoをお控えのうえ下記 3区分の中のNoの説明をクリックして頂ければ記事にリンクしますのでご覧下さいただ、最近の2018年以降の各所記事については図の中に表示出来ていません、区分3.よりお入りください 「京都ええとこ記事一覧」 1.(No. 1~ 48はこちらから) 2.(No.49~ 96はこちらから) 3.(No.97~158はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです京都各所について何かお尋ねになりたい事などありましたらコメント欄にお入れ下さい、こちらの判る範囲でご返事差し上げます そしてもう一つ拘っていた「京都ええもん」少しだけですが画像クリックして下さい 京都ええもん
2020.05.04
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暫く季節と共に自然をお伝えしてきた記事がコロッと替わります、 明治の初期に新島襄が自分の夢を実現するべく、志を同じくする者が創った結社「同志社英学校」(のちの同志社大学)を創立します、それに関わった新島襄・八重の夫妻と八重の兄山本覚馬が中心となりキリスト教精神に基づく教育の場を創りあげました その歴史を生んだ邸宅跡です (記事少し長くなります、お時間の許す折に又はスルーして下さい) 新島襄旧邸 同志社英学校創立の跡地です ↓「新島襄旧邸」玄関です ↑新島襄 ↑建設当初の同志社英学校 (以下三人の写真は、同志社社史より) 新島襄 同志社の創立者 国を改革し近代化する日本をとの夢を持ち、1864年21歳の時国禁を犯してアメリカに渡航、現在も有数な大学の一つアーモスト大学に学び、日本人として初の理学士の称号を得ます、留学中にキリスト教徒となり一つの夢、キリスト教主義教育を日本でもと言う夢を膨らませます、このあとアンドーバー神学校でも学びます 1872年在米中に、明治政府の岩倉具視を全権大使とした欧米岩倉使節団(新政府の中枢木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など108名)と出会い通訳として参画を許され、欧米各国の教育制度を視察、自由と良心に基づくキリスト教主義の教育で日本を近代化出来るとの確信を得、1874年帰国する前にアメリカン・ボード(アメリカ最初の海外伝道組織)の年次大会総会で、日本での学校設立を強く訴え5,000ドル(当時)の寄付の約束を得て帰国します 1875年に京都府知事槇村正直の賛同と同府顧問山本覚馬の強力な支援を得て京都御苑の東側寺町丸太町上るに同志社英学校を開校します、更に翌年八重と結婚したのち欧米の伝統的な総合大学の創設を目指し、私立同志社大学の設立の為東奔西走しますが創設目前に志半ばにして倒れ1890年47歳の若さで亡くなります のち、遺志は山本覚馬を始め徳富蘇峰らにより引き継がれ同志社大学が創立されています ↑新島八重 ↑女紅場(ニョコウバ)址、裁縫手芸料理等の教場 新島八重 (旧姓・山本八重) 同志社の母と呼ばれます 戊辰戦争時会津が戦場となった時に断髪・男装し会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持ち奮戦します(大河ドラマ八重の桜で知られます)が敗戦、三年後の1871年26歳の時に当時京都府顧問だった実兄山本覚馬を頼り上洛、兄の推薦により京都女紅場(現府立鴨沂(オオキ)高校)で権舎長を務め教育への足掛りとします、 この頃新島襄と知り合い1875年婚約キリスト教の洗礼を受け同志社英学校創立の身近な支援者となり翌1876年クリスチャン同志の結婚式を挙げる、襄の八重を称して「その生き方がハンサム」と言った事から云われるハンサム・ウーマンはその後知られる所となります、そのあと、同志社分校女紅場(のち同志社女学校)で礼法の教員となるのを始め同志社各校の教務に携わり、また篤志看護婦として日清・日露の戦争に従軍し取締として看護婦を指導、その後の看護婦地位向上にも寄与し勲六等宝冠章を授賞しています 襄の死後も住宅(旧邸)に起居していましたが、襄の想いを継ぎ住まいの土地建物、什器一切同志社に寄贈しています八重は86歳の長寿を全うし、若王子山襄の墓の隣に葬られています ↑山本覚馬 ↑前中央が覚馬 後ろ中央に襄と八重、時期は不明 山本覚馬 同志社の礎となります 会津藩の砲術師範で、勝海舟らと共に佐久間象山に学び、1862年京都守護職に就任した松平容保(カタモリ)に従い京都に入る、この頃から眼を患い失明同然となります 鳥羽伏見の戦いで捉えられ薩摩藩に幽閉、この中で口述筆記された建白書「管見(カンケン)」が認められ、京都府顧問として遷都後の京都近代化に貢献、初代府議会議長、商工会議所会頭など歴任します。1874年以前から学んでいたキリスト教に入信洗礼をうけます、その縁で知り合っていた宣教師ゴードンを通して新島襄に出会い彼の私学創立の想いに深く共鳴して、全面的に協力支援し同志社英学校創立に至ります そして襄の死後もその遺志を継ぎ、明治維新後所有していた旧薩摩藩邸の敷地(京都御苑北側の現同志社大学今出川校地)を提供して同志社大学創立に導き、現同志社の礎となります ↓御苑側から見た建物前面です ↓新島襄先生の石塔が立ちます ↓旧邸です 1878年(明治11年)に竣工、木造二階建ての和風建築で洋風の手法を取り込んだ建物で、現在は市の有形文化財に指定されています ↓建物東面です お寺や神社には明治時代やそれ以前に建てられたもの数多くありますが、住宅として現存しているのは希です、木造洋風住宅としては京都最古のものだそうです ↓建物南面です 柱が露出され壁はその内側に納まります ↓建物近くから 珍しい明治時代の洋風の住居、内部の設えと共にご覧下さい ↓建物外側は外縁が三方囲みます 和風の住まいには珍しい造りです ↓「応接室」 多くの来客があった様で、椅子・ソファーは多人数に備へ置かれています ↓襄がいつも在室し執務した「書斎」です 書籍そのまま残されています ↓「食堂」です ↓オルガンが置かれます、八重の部屋となります ↓「寂中庵」茶室です ↓寂中庵内部 襄の没後茶道家となった八重が洋室を改め茶室としたものです ↓通し廊下と二階への箱階段 二階へは行けません二人の居住に使った部屋です ↓旧邸の南にある「新島記念館」 最初の写真に見えていた建物です ↓記念館内部です 新島襄と三人が残した貴重な遺品や資料が保存され、一部展示もされています ↑覚馬1892年64歳で亡くなります ↑襄は1890年47歳の若さで、八重は1932年86歳で生涯を閉じています 墓碑の銘は勝海舟の揮毫 ↓新島襄と八重、山本覚馬三人の墓は共に左京区若王寺山(ニャクオウジヤマ)の山の上同志社墓地に葬られています (山道険しくとても登れません・写真は同志社社史より) ↓「同志社礼拝堂(チャペル)」1886年(明治19年)建てられたプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物となり、重要文化財とされています 現在の同志社今出川校地には、明治この時代の建物五棟が残り使われています、校内レンガ造りが一際目立ち明治の雰囲気が漂います ***************** 京都ええとこ一覧下 京都市の地図をクリック拡大して、各所に付されたNoをお控えのうえ下記 3区分の中のNoの説明をクリックして頂ければ記事にリンクしますのでご覧下さいただ、最近の2018年以降の各所記事については図の中に表示出来ていません、区分3.よりお入りください 「京都ええとこ記事一覧」 1.(No. 1~ 48はこちらから) 2.(No.49~ 96はこちらから) 3.(No.97~166はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです京都各所について何かお尋ねになりたい事などありましたらコメント欄にお入れ下さい、こちらの判る範囲でご返事差し上げます そしてもう一つ拘っていた「京都ええもん」少しだけですが画像クリックして下さい 京都ええもん
2020.06.24
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