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朝焼けが美しい、朝早くの散歩で見た。今日も一日平和であって欲しい!
Jan 29, 2022
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こんなコロナ禍の中でも、季節を忘れずに鶯が庭にやって来た
Mar 6, 2021
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延び延びになっていた会合が始まる予定時刻より、1時間も早く鶯谷駅に着いたので、久しぶりに根岸界隈を歩いてみた。本当に、何年ぶりだろうか?近くの豆腐料理屋には、数年前に来たことがあったが、言問通りを歩いて、一度は来てみたかった「子規庵」を初めて訪ねた。地図を片手に、脇道に入ると、そこはラブホテル街だった。真っ昼間に迷い込んだその一角は、ほとんど人通りもなく、妙に明るかった。その時、突然に昔の記憶が鮮明に蘇った。もう15年以上も前になるのだろうか?亡くなった彼女と、倉敷への旅行の帰り、東京についても、離れ難く、ホテルを探して、夜のこの辺りを彷徨ったことがあった。今ではどこのホテルかも名前も思い出せないが、とにかくこの何処かこの界隈のネオンが煌びやかなホテルに入って、一夜を明かしたことがあった。その時は、本当に行き当たりばったりの途中下車で、豆腐料理屋も子規庵も全く知らなかった。今さらながら、懐かしく、愛おしい昔の思い出だ。お互いにあの時は若かかった。エネルギーも無駄なくらいに溢れていたのだろうと思う。そして、倉敷からの長い旅程で我慢していたお互いの思いの丈を、一斉に解放した。彼女も激しく燃えた。今でも彼女の火照った体の熱を不思議と哀しいまでに思い出す。あの近くにこんな静かな史跡があったなんて、文学好きであった彼女を、あの頃、そのまま連れてきてあげれば良かったなと悔やまれる。小さな古い民家である子規庵は、場違いともいえるホテル街から道路一つ切り離された一角に静かに存在していた。両開きの玄関を入ると、正岡子規が病床の床で、最期を迎えた部屋と文机、そこから眺められる、冬枯れの庭には糸瓜棚があった。訪れる人は、少なかったが、皆やはりシニア世代の人が多い。ホテル街の人々とは無縁な人達だろう。私もしばらくその縁側にたたずみ、冬の小さな庭を眺めて、34歳で亡くなった子規の人生を思った。狭い隣室には、子規の最後までを見とった妹の律が生涯暮らしたという史料が展示されていた。思えば私も長く生き過ぎたなと思う。やはり彼女のようにはその後の人生で、夢中に女を愛することはできなかった。
Feb 15, 2020
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親しい先輩が急逝した。ジムにも通い、ジョギングもして、健康そのものといった彼にもヘビースモーカーの弱点があったようだ。肺気腫から肺炎を起こして、本人は余り痛みの自覚もなく他界したらしい。明るく元看護婦の奥さんは言う。本当に人生とはわからないものだ。しかし生前人柄も慕われていただけに、死に方も幸せだったと思う。急ぐ用事もないので、帰りはローカル電車に揺られながら、遠回りして帰った。この名前の相応しくないアーバンシティラインという東武野田線も、沿線は、複線化が進み、街も急速に発展しているようだ。かと言って市民の描く未来は、僕ら団塊世代が描いた当時の未来よりも期待薄なものだろう。ものは溢れても心の満足は少ない。都会は大きくなっても、街に自然の緑は少ない。高さは高くなるが、見渡せる景色は既知なものだ。そこには幸せの人工のモデルが広がるばかりだ。期待ではなくて想像できた憔悴でしかない。
Nov 5, 2019
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10日間のゴールデンウイークが始ったが、今の私達シニアにはあまり関係が無いと思われたが、とにかく街はどこへ行っても性根たくましく、人を呼び込もうと夢中だ。まあ、現役の商売人にとっては、生活がかかっているのだから仕方ないか。しかし、誰かも言っている様にもう、日本人の休暇の取り方も、もっと自由で個別である様なスタイルにならないものか?休祭日は世界でも最も多い国だそうだが、なぜか大人の休み方になっていない。学校教育の対象になっている子供や孫のいる家族は、学校などとのしがらみで個別に休みは取れないのだろうが、行かないと学習の進度が遅れるという親の恐怖感をなくさない限り無理なのだろう。もっともこの競争心?のような人から遅れる負けるという様な価値観がこの国の仕組みそのものになっている限り、改善はないだろう。休祭日を一斉に増やすのではなく、自由に一定期間の有給を取れるライフスタイルをみんなで醸成していくのがこの国の課題ではないか?
May 7, 2019
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懐かしい銀座トリコロール本店に待ち合わせて、祝いの花を買い、友人の観世流能の発表会に行ってきた。もう10年以上は聞きに行っているだろうか?最初のころは亡くなった彼女も参加していた。友人はもう指導者の資格を持ち、弟子を取り始めた。しかしまだこの世界では若手に入るというから、伝統芸能というものは奥が深い。彼と職場を共にした古い友人たちが10人集まった。皆もう退職して、それぞれ違った人生を歩んでいる。会場は、銀座SIXのB3に数年前に新装なった観世会館の能舞台である。銀座もすっかり新しい町に装いを変えている。日曜日とあって、歩行者天国には外国人があふれている。しかし一歩、地下の会場に踏み入れると招待客のみということもあって、広い席に観客はまばらで、銀座のど真ん中とは思えない。もったいない気もするが能というものの、関与する人口の現実を表しているのだろう。この芸能もやがては滅びるかもしれない。友人の舞うテーマが、天鼓と巻絹だ。じっくりと聞いているとだんだんその言葉がわかってくるから不思議だ。大体主題は、平家や源氏の時代の主人公が織りなす幽玄な物語にあるから、極端に言えば、内容は単純で似通っている。しかし、恋慕と恨み、嫉妬というものは日本人の性といってもいいものだろう
May 13, 2018
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天候不順がつづいていたが、朝から快晴だったので,多摩湖へ出かけた。何年ぶりだろう?あれは大学の仲間が再婚式を挙げたときに、祝いに招待された8人が前泊した菊水亭から眺めた湖面だからもう4~5年経つ。その前はお袋と妹とお茶を飲みに寄った時だ。今回、初めて湖岸の堤防に出てみた。湖の対岸、秩父か丹沢の山並みの向こうに、くっきりと富士の霊峰が見える。気持ちがいい。ジョギングや散歩する行楽客が多い。記念碑を読むと、大正時代にこの人造湖が作られて、東京都民の水がめとして今も重要な役目を果たしていることが書かれている。湖面にはボートもなく水際には土砂の流入を防ぐこならの木々が迫って植林されており、人の影は全くない。もう一度お袋を連れてきてやりたい。しかし、手術したひざの痛みと腰の痛みで車椅子でも外出はむつかしくなった。今年で88歳になる。毎日死にたい死にたいと嘆く。何かしてあげたいが、こうした愚痴を聞いてやるしか今の私にはどうすることもできない。毎日繰り返しこの母の愚痴を聞き、介護で暮らす妹には、堪えられないのだろうが、これも彼女が自ら選択した人生だから仕方ない。皮肉なことに私たち夫婦がその分介護の苦労から解放されている。長生きは健康な人にとっては幸せかもしれないが、毎日痛みと暮らす人にとっては不幸かもしれない。先日、多摩川で自殺した西部氏の気持ちがよくわかる。
May 7, 2018
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本当に久しぶりに日記を再開した。気まぐれではあるが、ふと夜眠れずに布団の中から天井を見つめているとき、色々と人生の記憶が甦ってきた。本当にいろいろなことがあった。もちろん人生のあらゆる出来事を経験したわけではないが、私にとってはもう十分な気がする。欲望はきりがないし、求めたとしても延長上の人生にはもう大したことはないだろう。だから私が意識を正常に保ちながら、人生を終わるときには、この日記は全て消却していくつもりだが、そんな事ができるか今はわからないし、それ以前に断捨離の一環として、残る人々に不要な記録は一切捨ててしまおうと思っている。最近の脳科学の進歩で、死後の世界は虚無であることが分かってきた。まさに「我思うゆえに我あり」である。天国も地獄も本当はないのだろう。人生は、やはり70歳ぐらいがちょうどいいかなとも思う。織田信長が謡った人生50年は少し物足りないが、100歳ともなると特別な人を除いて、もういい加減にしてくれという気持ちだろう。結婚生活から振り返っても、自分勝手な考えだが、人生は60年もあれば大体の人並?のライフサイクルを経験しそうだし、それ以上生きるなら、もう1回ぐらい別の人生があっても良さそうだ。例えば、別な女性との別の人生もある。相手の意思もあることだから、これは男の側からの虫のいい願望だが、伴侶を亡くして後、10年も20年も一人で暮らすなんて、私はできない。もちろん清々したと一人暮らしを楽しむ人もいるだろう。女性には意外とそういう人が多そうだが、私には虚しく思える。
May 1, 2018
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随分と日記を書かなかった。そして年月が過ぎた。仕事の仲間たちも次々と定年で職場を去って行った。私はといえば、特に目的もなく、世間の移ろいをただ眺めながら、毎日を平々凡々と過ごしているだけだが、彼女との付き合いはまだそれでも続いている。今年も夏休みにどこへ行くかと相談した結果、修復成った日光を抜けて、奥塩原の秘湯の一つを訪ねることにした。朝早く彼女のマンションを発ち、車で一路東北道を走った。晴れ男を常に自負する自分を彼女はからかって、「台風が来ているけど、大丈夫でしょうね!どんな時でも晴れるのよね!」と無茶を言う。曇り空だが、確かに雨は降ってはこなかった。それも日光の東照宮から二荒神社へ戻るころから怪しくなってきた。日光には何度も来ていたので珍しくはなかったが、外人それもヨーロッパ人ではなく東南アジア系の観光客が多くなっていたのには驚いた。韓国人の修学旅行まである。反日教育を受けている中国や韓国の子供たちにとって、300年の封建時代を築いた武士の代表である徳川家康の霊廟をどのように理解しているのだろう?不思議な気がした。以前、韓国のソウル大学生を箱根に案内したことがあるが、かれらは異口同音に、この箱根の豊富な緑は豊臣秀吉が韓国を侵略し、戦争で朝鮮の森林を奪った犠牲の上に出来ていると真顔で言っていて驚かされたことを思い出す。そしてなによりも韓国では見る事のない豪華絢爛に作られた陽明門をインターナショナルな価値観で公平に認めるのだろうか?降り出した雨の中を駐車場に急いだ。充分な時間はあったが、これからは山道だし、雨の具合が不安だったので、まっすぐに日塩もみじラインを目指した。天気予報は夜から雨と予想していたが、雲の動きはそれより早かったようだ。ものすごい雨がフロントガラスを打ち、紅葉どころではなく、進行先はガスで見えない。やっとたどり着いた途中の料金所の親父さんが「もう少しで着きます。大丈夫間に合いますよ」と励ましてくれたので、何とか無事に旅館に到着してほっとした。そしてふと、こんなところで二人共遭難したら、どうなるのかなと最近の不倫カップルへの非難が高まる情勢を想像してみたが、死んだ後の事までは考えても仕方ないので、密かに且つ無事に帰ることを祈念した。
Sep 18, 2017
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約50年ぶりの卒業記念私的演奏会となった「邂逅」は都内の小さな音楽ホールで開かれた。ざっと座席をカウントして見たら70人くらいが参加していただろうか?予想以上にペア券が売れたようだ。中には孫を連れてきた同級生もいたが、よく知った仲間の多くは皆一人で来ていたようだった。伴侶と死別している人もいたはずだ。僕はといえば、久しぶりに彼女を連れて行ったが、待ちあわせの時間を間違えたのと連絡がぎりぎりになったので、ひどく怒られた。昼食もそこそこに、慌てて正装してきた彼女は、若くきれいだった。皆からどう見られたろうか?幹事たちとは会釈程度の挨拶だったので、誰も彼女の存在をいぶかるものも居なかったかもしれない。いずれにしろ、NYから1週間前に帰国したバイオリニストのI君と作曲家のM君のピアノのジョイントコンサートは偽りなく素晴らしかった。ベートーベンのソナタが中心だったが、中学,高校以来,というから50年以上経つという共演は、仲間たちの貴重な交流イベントにもなった。アンコールのせいで終演が30分ほど長引いたが、長旅で疲れているI君には気の毒な感じすらする。演奏中の二人の真剣なまなざし。堂内に響く生のバイオリンンとピアノの共鳴。聴衆の静寂。2時間40分の演奏会は、こうして終わった。たぶん死ぬまでこんな機会はもうないだろう。終演後、僕たちは皆と反対の方に別れて、界隈を散策することにした。途中、延命地蔵にお参りし、小さなイタリアンレストランを見つけて昼と夜を兼ねた食事をした。今更ながら、自分は何をしているのかなと思う。妻が行く気はないと断ったから、彼女と来てしまったという言い訳はあるのだが、どうも心は晴れない。妻にも演奏の感動を聞かせたかったが、今更おためごかしになるのだろう。人の生き死にと夫婦という縁。あの時、ああしなかったからこうなったと思っても、人生の選択肢はままならない。今日の会場にも、56年間の異なる人生がそれぞれにあったはずだ。一芸を究めて世界的な音楽家になったI君も、あの時は、結構ワルな少年だった。作曲家として有名になったM君も3度目の離婚の後、若い愛人にも去られて今は独り身らしい。僕はと言えば、これでそれなりに幸せなのだが、後悔もある。妻を狭い世界にとどめてきた責任は私にもある。妻に人生を返せと言われれば、今はひたすら頭を下げるしかない。しかし妻の6人の兄弟姉妹は、離婚をしたり、最初から結婚しないなどで、結局いまは皆一人になったものが多い。変わり者が多いのか?どういう宿命を持った家族なのだろうか?私の方の家族とは、合うはずがなかった。妻を選んだのは私の責任だ。妻に責任はない。だから心から幸せにすべきだったのだろう。私の偽善といわれれば、いまは沈黙しかない。 ただ、最近では孫たちと遊ぶ時、一人で好きな芝居を見に行く時に見せる華やいだ妻の顔は、それなりに幸せそうではあるのだが、私にはその心の奥まではわからないままだ。そして私の父や母や妹との妻の不仲はとうとう最後まで解決しなかった。妻が私の人生の大半を支えてくれたことには感謝はしているが。 妻は私の前に大恋愛した彼氏がいた。その破局のいきさつを話してくれた事がかつてあった 。親の反対に抗しきれなかった彼が意気地なしだったと言う時、私は妻に同情した。その言葉に、若くて愚かだった私は、対抗心を燃やしたのかもしれない。しかしそれも私自身の責任だ。 私の愛した彼女の死も天の采配だったのかもしれない。いまさら私自身の延命は望むべくもないが、妻には心やすらかであって欲しいと勝手に思う。そして私たちの人生も表面は穏やかに、このまま静かに終わって欲しいと思う。
May 23, 2016
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また6年目の命日を迎えた。時のたつのは思うより早いものだ。そしてまだ私は生きている。生き抜いているとは言えないが、当面は死にそうもない。5月23日の命日を前に、旦那のYさんから法事への招待があった。我々の会社の仲間だけでする予定だったのが、せっかくだからと正規の法事に合流することにした。彼女の親友のHさんとS、H、Eの5人が合流に参加した。高田馬場のその寺は6年で、別棟を増築するなどかなりの発展だ。彼女は死しても福を呼ぶ人だったのかもしれない。法事はその4階の和室で行われたが、彼女の形見分けした着物を華やかに着たSF業界の仲間たちと総勢50人以上が集まった。読経した和尚の話では、7回忌でこんなにお友達が集まるなんて例が少ないと故人の人柄を想像してすごく感心していた。彼女の親友だったFも葬式以来だが顔を見せていて、近況を話した。自閉症の娘と12歳年下の研究者の亭主を支えて、相変わらずたくましく生きていた。彼女とは高校生からの付き合いだったと昔話に花が咲いた。しかし彼女の最初の恋人のYが大腸がんで亡くなっていたのには驚いた。
May 18, 2016
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ひさしぶりに訪ねた新宿御苑は思った以上の人出があった。
Nov 25, 2015
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実は、IDとパスワードのトラブルで、しばらく日記がかけなかった。あれから人生も変わり、世の中も変わった。ますます日本はひどくなる一方だ。この国に以前のような豊かな未来はあるのだろうか?経済資本主義にはもう未来はないと思う。豊かさとは、精神の豊かさだ。物はもうこれ以上いらないし、自然や新鮮な大気と清浄な水資源を取り戻すことができたら、都会ではなく、田舎に住んで、心やすらかに暮らしたい。ただ知識と遠距離も障害にならないIT環境だけは必要な世界。そんなSFのような世界は可能だと思うが、今世紀中に実現はむつかしいだろうな?その前に僕自身の命が尽きるだろうから。現状でも今僕はほとんどのコミュニケーション環境をPCではなく、iphoneとipadで済ませている。そしてNETですべて購入できる何の不自由もない環境だ。すでに仕事はリタイヤし、妻と二人だけのつましい暮らしを続けている。父は数年前に94歳で他界し、私なりに精一杯の葬式をして送った。ただ母より先にあの世に行くわけにはいかない。もう少し頑張るか。
Oct 23, 2015
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いま、久しぶりに大阪のビジネスホテルにいる。11階の窓から眠れない夜を、階下の街を眺めながら、過ごしている。この十三という場所は仕事だがはじめてきた。大阪有数の歓楽街とは聞いていたが、このラブホの連なるネオンン街は私にはもうすっかり縁がなくなったが、遠い懐かしさはあり、彼女と通った渋谷道玄坂の夜を思い出す。この時間さすがに人通りはない。恋人たちも寝静まっているのだろう。明日はまた東京に帰る昭和エレジーちあきなおみの歌だ。素晴らしい歌手だった。なぜか最近、ひかれている。よき昭和はすっかり遠くなりつつある。おやすみ。懐かしき時代よ!
Oct 4, 2013
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彼女の4年目の命日。親しかった友人達と待ち合わせて墓参りに行った。墓は、私の母校のそばの共同墓地にあるので、帰りに久し振りに大学のキャンパスを散策した。卒業以来、何度か訪れてはいるのだが、今回は、大学の違う友人にせがまれて、校内の演劇博物館を見学することにした。ちょうど閉館には少し間があり、「ドナルド・キーン」の企画展をやっていたので友人は喜んだ。ドナルドキーン博士は、確か90歳を超えてなお元気で、最近日本に改めて帰化したことを新聞で読んだ記憶がある。その年で日本人になるなんてすごいなと心底感心した。90年か?彼女の死んだ年のほぼ2倍になる。彼女が生きていたら後半はいったいどんな人生を歩んだのだろうかとふと考えた。
May 24, 2013
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台風が過ぎた空には雲一つなかった。やっと秋が来るのだろうか?彼女が逝って、3年目の夏が終わる。暫くこのブログを書かなかったのでふと戻ってみると、どなたかが、私の気持ちに好意的なメッセージを残してくれていたので 、また記録を書いて見た。日々の生活の忙しさに翻弄されて、今は生き抜くというより、生かされていると言う状況だろうか。色々な私的できごとがあった。94歳になる父の入院と母の介護 私の娘の結婚と出産そして私自身の退職妻との平穏な毎日と時々の葛藤しかし、 ふと時間が止まる錯覚の中で彼女との思い出が甦る。暑い夏の盛り甲府の葡萄の丘を訪ねたことがあった。 彼女のお目当ては、たわわになり食べ放題の葡萄ではなく、自由に試飲できるワインだった。あの無邪気にはしゃいだ笑顔が昨日の事に思われる。少し酔ってしまって私に纏わりつく、彼女の甘い匂いをこんなに確かに思い出せるなんて!
Oct 3, 2012
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異常気象の夏の後にもやはり秋の空が来る。彼女が逝って幾度目かの夏が過ぎていく。しかしいまだ思い出は色あせることがない。そしていろいろなことがあった。会社を辞め、父が亡くなり、娘が結婚し、妻と二人だけの毎日が始まった。後片付けなど雑用にも忙殺されて、生活することに精一杯だったともいえる。彼女との交流はかれこれ**年になる。振り返れば長いが、しかしあまりにも短かった。二人で共にした足跡はいたるところにあるわけだが、いつもだったらまた好奇心を満たすだろう共通テーマを持って旅に出かけていた夏から秋への季節。 今は、出ることもない。妻は、孫のことに夢中だ。私も孫はかわいいが、それだけに没頭することは難しい。旅に出たい。しかし一人旅は、なぜか後ろめたい。妻の気が向いたら、伊勢神宮には行こうと思う。もう海外への旅行は興味が失せたようだ。パスポートも更新するのを止めた。妻はもともと、飛行機嫌いで、私が海外出張の時も冷たい関心であったと思う。彼女は、どこへでも興味を持った。そこも大きく違った。中国の仕事ついでに203高地を彼女と訪れた時はロシア軍の旧陣地に興味深々であった。戦史の現場としては荒れていたが、もうそこには、ロシアの現代があった。病院、将校専用レストラン、宿泊所のいづれも広くコンクリート造りであった。日本のそれは、いわば急ごしらえのあばら家だった。当時でさえ比較にならない。日本兵は屍を連ねて、よく戦ったが、近代戦を旧式の設備で戦うばかばかしさ。そのへんんから日本の行く道は間違ったのかもしれない彼女は、そう呟いて、深呼吸していたっけ。
Oct 2, 2012
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彼女の死から**年が過ぎた。しかし思い出は色あせることなく鮮烈に蘇る**回忌の法要が菩提寺で営まれた。旧住所を引き払い、新しく一人でマンション住まいを始めた彼女の夫から、法要の招待状が来て、行くことにした。何も変わらなかった。彼女の夫は、私の出席に丁寧に謝意を示し、彼女の両親と兄弟たちは、私の手を取り懐かしいとまで言って喜んでくれた。今となっては不思議な関係だったなと思う。あんなに家庭を顧みないで愛し合ったのにこの関係者みんなの静かな対応は何なのだろう。彼女が生前仕立てたという着物を着こなして男は、施主として落ち着き立派に振る舞っている。回覧された彼女の写真を友人たちが歓声を上げて、見入っている。わたしも、それを見た。そして懐かしさがこみ上げてくるのを感じながらも、冷静に対応した。こんなに時の流れは、人々のシチュエーションを変化させるのだろうか。帰りの車中で、今もメモリーに残る携帯の中の彼女の笑顔のアップに、わたしは、失ったものの計り知れない重さを感じる。その時、黒いアゲハ蝶が2匹絡まりあいながら、空を上昇していった。おもわず私は、車を止めて振り返り天空に蝶を探したがどこに消えたか、見つけることは出来なかった。
Jun 30, 2012
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あっという間に時は過ぎるそして、人はそうして歳を重ねるTVのコマーシャルに、「最初から大したことなかったな」という深津絵里のセリフがあったっけ私の人生だってそうかもしれない。思えば、亡くなった彼女との**年の生活が、一番充実していたし、満足感もあった今の自分は、残り火のような後半の人生を漂流しているだけかもしれない。どこかの女性が、私のこの日記に私が結局、単なるナルシストにしか過ぎないと批判を寄せていた。思わぬ言葉だったが後でなるほどと思い返してみた。居直るつもりはないが、自分の人生を美化し、自己中心的に語ってきたのかもしれない。それでも仕方ない。それが正直な私の独白なのだから。彼女の死と、3.11以降の世界は私の価値観を、すっかり変えてしまったもちろん、強くたくましく復活にかける人々は素晴らしいと思うしかし、私にとっては、心を動かすきっかけにはならない。頽廃と虚無。失望と不安。後悔と孤独これからの人生に何があるのか?恋愛したとしても男と女の関係だけが残り火のように続くような気がする。観覧車の高見から、眺める東京湾の灯りが女友達の横顔を明るく照らしていた。私の分まで楽しんで欲しい。時間だけは早く過ぎていく。帰り路の雑踏の中をしっかりと腕を掴んで歩く 女の逞しさに尊敬すら感じてしまう。
Nov 27, 2011
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夏の終わりジャズの演奏家が来日し、聞きたいから行こうと誘いがあったのは1週間ほど前であった。ミッドタウンにある店を予約したのは、彼女の誕生日だからだ。とにかく、暑苦しい夏をしのげればと、出かけた。曲は素人の私にはなじみのないものだったが、とにかく音が大きくて、話し声も聴こえないほどで、彼女はそれでも体を合わせていた。私は、彼女が満足したならと思って、帰りは久しぶりのイタリアンによって、ワインをしたたかに飲んだ。そして、彼女を送って行った後のことは記憶がない。
Oct 31, 2011
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秋はすぐそばまで来ている筈だが昼間、まだ暑い盛りが続いている彼女に誘われて、野球を見に出かけた。女と野球を見るなんていままで、経験したことのない出来事だった。ペアのマフラー付きの特別企画指定席切符であった。彼女は、野球よりもペアの記念グッズを手にしていつになく喜んでいる。それにしてもベンチで飲むビールは格別だ。そして、僕ではなく彼女が試合の解説をしている。試合自体は、盛り上がりを欠いたまま、平凡に進み、珍しく、引き分けに終わって彼女の贔屓のチームへの悪口に僕は、少し驚きを覚えた。
Oct 2, 2011
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無性に彼女に会いたくなった。そして、急な出張ということにして彼女のマンションに向かった。数日前に、彼女の部屋から眺める満月の写真がメール添付されてきていた。「ちょうどあれから1年経ちました。同じ月が奇麗です」と書かれてた。亡くなった彼女の死から、ちょうど1年ぐらい経った時だったろうかその日、彼女の部屋で、この月を眺めた。その記憶は、今の今まで、頭の隅にしまっていた気がする。その日、どのようにして彼女の部屋を訪ねたのか言い訳した理由は思い出せない。ただ、マンションの高層階のベランダから、晴れ渡って雲ひとつない夜空に、今日と同じ月が正円に近い輝きで僕らを照らし続けていた。彼女のメールで、その事がまざまざと思い起こされた。そして突然のあわただしい訪問にも彼女は簡単な食事を用意してくれていたそして、ソファに並んで彼女の好きだという曲をYOU-TUBEから聞きながら、月を眺めた亡くなった彼女とは音楽の趣味も対照的だ。それでも、こうした曲を一緒に楽しむ自分の適当さがすまないなとふと思った。酒と月の光とシャワーを浴びて温かく高揚した彼女を抱きながら、やはり僕は長い間、眠りにつくことは出来なかった。
Sep 17, 2011
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彼女の部屋で目覚めて最近できた美術館の見学を兼ねて近くの森を訪ねた陽射しはまだ高く暑かったが公園には人影も少なく遠くに海が見える平野が、眼下に広がり気持の良い風が吹いていた彼女は子供のようにはしゃいで僕の手をひっぱり、展望台へ連れて行った。ベンチに腰をかけると、中年の男がジョギング姿でそばを通り過ぎて行った広大な芝生には、あとには誰も来ないこんな静寂は、めずらしいことなのだろう美術館では、鮮烈な写実ヌード絵画を見たが画家の妻を描いたらしく、愛情がこもり美しく上品であったせいか遠い昔の彼女の裸身だけが思い出されて懐かしかった今の彼女の明るさとやさしさはやはり僕に罪悪感を呼び起こす激しい恋はもうできないのだろうか 愛することと恋することそして好意を寄せることその間の距離はあまりにも大きい埋め合わすことなどできないと理解していてもこの寂寥感を払拭することは到底できないそれでも彼女は僕を許し、欲してくれるのだろうか人影のないベンチで交わした彼女のキスは、それでもなおやさしく温かかった
Sep 4, 2011
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部屋の間近に流れる谷川の音が一晩中、眠りの中で響いていた様な気がする。雨の中を、傘もささず歩く僕たちの夢を見た。一緒に歩く彼女が誰なのか顔が見えない。僕の潜在意識が、鮮烈な過去の記憶を呼び醒ますのを拒絶しているのかも知れない。目を覚まして、軒先を見ると、雨はなくやはり渓谷の流れの音だけが絶え間なく聞こえていた。部屋の空気は澄み、暖房が欲しい涼しさだ。布団の中のぬくもりを求めて彼女の温かい素足に自分の足を絡ませた。彼女のかすかな寝息と彼女の匂いに反応して僕は、思わず彼女の体に手を延ばした。やがて気づいた彼女は、僕を抱き、激しく僕を求めてきた。急な興奮のうねりが、僕の五感を覚醒する。やはり、男には女が必要だ。女にも男が必要だ。二人の間を熱いものがあふれて、僕はこの彼女も再び愛していこうと心に思った。目覚めは、不思議なくらいに爽やかだった。時計は6時、携帯は相変わらず「圏外」と出ていた。二人で、朝の露天風呂に出かけた。外界から隔離されたような湯船の中で昨晩からの疲れが一挙に軽くなるのが感じられた。あれほど愛した彼女の死をも乗り越えてまた出直そうと決めたのではなかったか残された人生は短い。偽善者として生きることはできない。所詮!誰に非難されようとも僕は僕らしく生きていくしかない。
Aug 21, 2011
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宿を後にして途中龍王峡を歩いた。日川沿いの遊歩道には誰も人影はなかった。軽やかに歩く彼女の後を、追うように歩く僕の姿は少し滑稽だったかもしれない。美しいこの流れが、長篠の合戦の後最後の武田家の侍女達16名が自害して果てた「三日血川」と呼ばれた歴史の川とはとても思えない。人に会わず、熊にも会わず二人だけの散策を経て、武田勝頼主従が眠る景徳院に向かった。景徳院は、かつて徳川家康が勝頼たちの霊を鎮めるために建立した当時は壮大な七堂伽藍が展開されていたという由緒ある寺だが、いま寂然とした境内には、暑い日差しと蝉しぐれだけが溢れて墓石の前に佇んで参拝しているのも僕たちだけだった。~甲斐の国破れて山河はあり、夏深く草木茂り、兵どもが夢の跡~向き合う歴史は、遥か遠くにあるが、悲しみは消えることがないのだ。
Aug 20, 2011
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新宿発11:30分発、特急「かいじ」甲州路への旅は程なく現実となった。最近、地震の余波か、旅行にいくら誘っても、心配で家を離れようとはしない妻に急な出張と告げて、朝早く家を出た。約束のホームには、かなり早めについたので待合室でしばし彼女を待った。番線がわからないとメールが入ったので迎えに出向いた。紺のGパン、薄いピンクのキャミソールの上に薄いブルーのチュニックとショールそして、ストローの帽子をかぶり、いつもとは違う彼女がいた。華やいで見える彼女の姿を僕は眩しく思った。映画とファッション雑誌を愛読し、おしゃれに気を遣う彼女と比べると亡くなった彼女は、むしろよく黒の似合う人だった。着付けの教師でもあったので着物もよく似合い、僕はそれも好きだった。友人だった今日の彼女は、対照的な雰囲気を持つ。あの日、マンションの窓から外を眺めながら僕が逡巡していると「気にしないで、大人の関係でいいのよ」と彼女は言った。その誘惑に、僕は今回の旅を計画実行したのだ。愛する人を亡くして約1年半、到底心の痛みは消すことができない。しかし、一方で続くこの深い虚しさは、耐えようがない。彼女と何度か訪れた甲州路、よく知っているつもりだったが、今度の彼女が探してきた場所は、今まで行ったことがない地域だ。そして、車での長時間ドライブは気が進まなかった。結果として選んだ特急の車内は、予想外に空いていた。「雑誌の付録だけどおしゃれでしょう?」そう言って、彼女は用意してきた保冷機能の付いたランチBoxからサンドイッチと飲み物を出し、僕にも分けてくれた。行程は順調だった。あっという間の1時間が過ぎ、大月で途中下車をして、レンタカーを借りた。渋滞を避けて、旧道の笹子隧道を抜けて、勝沼から山道に入った。途中、武田家終焉の地を経て、最奥の旅館に着いたのはまだ日も高く、早い到着となったので、夕食までかなり時間があった。さすがにここまで来ると、下界とは6℃も気温が下がり、かなり涼しい。和風の落ち着いた部屋に通されて、せせらぎの絶え間ない音を聞いていたが彼女が、「貸切風呂」が空いていると、見つけてきて誘った。彼女の言うまま、僕たちはそこへ足を運んだ。湯船に入ると彼女は、積極的に僕の膝に体を乗せてきた。忘れていた女の匂いが、僕の脳幹を刺激する。後ろから、彼女の乳房を抱いて、僕たちは対岸の色濃い緑の壁を、黙ってしばらく眺めた。こうして男と女の先の読めない最後の旅がまた始まるのかと思いながら、高まるせせらぎの音と立ち込める湯けむりの中で僕たちは長い口づけを交わした。
Aug 19, 2011
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『ここにあるのは荒れ果てた細長い礒だ。うねりは遙かな沖なかにわいて寄りあいながら寄せてくるそしてここの渚にさびしい声をあげて秋の姿で倒れかかるその響きは奥深く迫った山の根に哀しく反響する頑丈な汽車さえもためらいがちにしぶきは窓がrすに霧のようにまつわってくるああ 越後のくに 親知らず市振りの海岸ひるがえる白波のひまに旅の心はひえびえと湿りをおびてくるのだ』 (中野重治=白波) 亡くなった彼女との思い出の旅の記憶は今、出張や外出を重ねて、こうしてみるとかなりの所に残る特急列車に乗って、車窓を過ぎる駅出張に行った時、降り立った雪の駅 冬の日、富山で仕事を終えての帰り、彼女の故郷の長岡に向かう北陸本線の車上で、長い電話をしたことがあったその時、車窓を、親知らずの暗い海が流れていた温かな声に、僕は、無性に会いたさを覚えたしかし、帰郷中の彼女に会うことはできず東京へ帰ってからの再会までの時間の長さ悶々としたときが今は哀しい。長岡の花火を見ようねと約束してくれたのに果たすことはできなかった。しかし、ほかでは本当に彼女と二人でよく花火を見た。 いつも見飽きることはなかった。なぜかな。群衆の中でも、心が二人だけになれたからだろうか。夏が終わり、花火を見ることのない2度目の秋が来る。、
Jul 31, 2011
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相変わらずの暑さだ。しかし節電も限界なので、冷房を利かせると同時に、部屋から庭に出て撒水しようと思った。その時、3匹のキアゲハが乱舞しているのに気が付いた。自然のままに伸び放題となった灌木の中を無心に互いに絡みながら、遊んでいる。そして、間もなく黄色の小さな花を咲かす名の知らぬ樹の葉陰に、3匹とも落ち着いた。蝶の飛翔範囲は、せいぜい周囲3キロメートルぐらいで順番に飛ぶところを数か所決めているのだと聞いたことがある我が家の庭を中心に、それはどこだろうかと興味を持ったそして、その子供たちも、生まれて忘れずにその庭に飛んできて、拠点にするらしい望遠レンズで、3匹の姿をうつした。幻想的な情景だった思えば、彼女の亡くなった日の後も、こうしてアゲハ蝶達が、私の庭を飛んでいたっけ。彼女達?は何を見てきたんだろう静かだ。そして暑さはどこかへ行ってしまったようだ。私は、散水の仕事を忘れて、ファインダの蝶にしばらく見とれていた。
Jun 25, 2011
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男としての誘惑に負けて、海の見えるマンションに住む友人の女性の部屋に泊まった死んだ彼女にはすまないと思う。しかし、所詮、男には女が必要だ。妻とは、穏やかに接することはできるが、やはり、女のぬくもりがほしくなる。こうしてしばらく日記を書く意欲も萎えて、なにか空白の毎日を過ごし、僕に残された人生を、死んだ彼女の分まで生き抜こうと決めていてもこの全身の虚しさと渇きは、どうしても癒やすことができない。そんな時、彼女の友人の一人が力になってくれたと前に書いた。それで死んだ彼女のことを忘れることはできるのだろうか?わからない。僕はすっかり意志の弱い人間になってしまったのか?朝、女のベッドに一人残されて天井を見ていると、やはり彼女を思い出して、後悔してしまう二重の裏切りになるのだろう。きっと。これでは、もう天国には行けないなと思う。そして、あの世でも彼女にも会えないだろうなとふと思った。陽は高く昇り、まぶしさが目を射たベランダに出て望む遠くの海は、晴れているのに、荒れて見える。作ってくれた朝食を食べながらいつか行こうという旅行の約束をした。彼女の思い出が、薄れることはないのを知りながら。
Jun 11, 2011
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小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ緑なす繁縷は萌えず若草も布くに由無ししろがねの衾の岡辺日に溶けて淡雪ながる暖かき光はあれど野に満つる香りも知らず浅くのみ春は霞みて麦の色わづかに青し旅人の群れはいくつか畠中の道を急ぎぬ暮れ行けば浅間も見えず歌哀し佐久の草笛千曲川いざよふ波の岸近き宿に登りつ濁り酒にごれる飲みて草枕しばしなぐさむ あまりに有名な藤村の「千曲川旅情のうた」である懐かしさがこみ上げてくる。まさに僕の青春だった。あのころ遠く高峰高原から、小諸へ降りてくる展望が開けた畠中の道で僕達は、この歌を暗記していて歌ったのだあの登山パーティは、皆、大人になり、いつの間にか老いてこの歌の憂愁の意味を、今、本当に知るようになる気がしてならない そして今、学生時代から何十年振りかで、妻と二人で当地を訪れることになるとは、思いも寄らなかった。新幹線で佐久平まで走り、小海線に乗り換え、6つ目で降りると小諸だ佐久平の変容に比べて、小諸駅前は、懐古園への陸橋が整備されたくらいで、昔とあまりかわって居なかった。小諸城址である懐古園は、以前よりよく自然が保たれて古城らしくなっていた。新緑は石垣と谷を埋め尽くし霧雨に煙る眼下には群生する石楠花の白い花が美しい「岸近き宿」と歌われた藤村ゆかりの宿に投宿して正解だった義母の納骨を済ませて、寄り道をすることになり、妻との久しぶりの小旅行となった。急な予約で確保した一部屋ではあったが、何もなくとも不思議と落ち着く夜はすぐ来て、離れた露天風呂に妻が入る間途中の待合所で、ひとり天上のくもの巣を眺めた水滴が灯籠の明かりを反射して、光った主の女郎蜘はどこへ行ったのだろう。寂しくも平和な時が、今夜も過ぎていった。
May 23, 2011
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手元には、詩人伊藤信吉がまとめた「詩のふるさと」というアンソロジーがある。その中で、僕の好きな詩人に、藤村と萩原朔太郎と中野重治がいる。朔太郎では「郷土望景詩」の中の「広瀬川」という詩がある。「広瀬川白く流れたり時去ればみな幻想は消えゆかんわれのライフを釣らんとして過去の日川辺に糸をたれしがああかの幸福は遠き過ぎ行き去り小さき魚はめにもとまらず。」 かつて妻とこの広瀬側の辺を歩いてこの碑にたどり着き、その詩の抒情を知らずに軽く眺めて、過ぎ行きたことがあったいまこそ、その心情が心に響く。川には、ひと時も止まらぬ流れがある千曲川の遠景を眺めながらも同じ思いが、繰り返し私の心を過去の幸福の日々へ回帰させるのだ。
May 22, 2011
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義母が老衰で亡くなって妻が一足先に故郷へ帰った仕事の都合で私は、1日遅れて娘達と新幹線に乗った久しぶりの車中での家族の会話は昔の家族旅行の思い出に集中した義母も参加した夏の高原のキャンプその当時、私は既に2つの人生を歩み始めていた。夜、ロッジを出て、彼女に定期便の電話をしていた。しかし、一方でキャンプは楽しいものだった娘達の人生にとって、それは貴重な思い出となっている良かったと胸をなで下ろす自分が、ここには居た満天の星空の下でのキャンプファイヤーと花火家族皆で作った夕餉の集い焚き火を囲んで徹夜で語り明かした子供達の青春あの頃は何もかもが上手くいくと思っていた。自分勝手な自信が人生を危うくしていたのかもしれない高齢の義母は、眠るように自宅で息を引き取ったという大正から昭和そして平成を生き抜いた義母のほぼ100年到底私にはまねができない「みんな仲良くね」病院にあったときの義母の言葉が胸を射る親戚だけではあったがしめやかで穏やかな良い葬儀だった
Apr 29, 2011
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余震の続く都会を離れて札幌へ仕事で飛んだ羽田と千歳のどちらの空港も乗客は、予想外に混んでいた往きは千歳空港からエアポートライナーに乗って車窓を眺めたが、北海道の原野にはまだ雪が残り、春は今だ遠い感がした。しかし道行く人々の服装は、春へと前進している会議を早く終えて、ホテルを取らずに最終便で帰ることにした。思えば、死んだ彼女と北海道へは1度だけ一緒に来ることができた。早春の富良野を訪ね、突然の大雪に遭遇したが楽しかった帰りに札幌で、彼女が夫への土産を買い求めたシーンを思い出すそして大きな蟹を送って、帰ったら一緒に食べると張り切っていた彼女は本当に蟹が好きだった考えてみれば、夫への土産というよりは自分が食べることへの期待で機嫌が良かったのかもしれない僕は、少し嫉妬して、空港への時間を急がせて十分な時間をあげなかったことがいまさらのように悔やまれる夜になり、雨がぱらつくようになった札幌の街をそんなことを思いながら駅へと急いだ。心の迷いがありながら羽田に友人の女性を待たしていたからだ。彼女が亡くなってから1年彼女の友人の一人が、思い出話しの相手になってくれていた。遅くなったら自宅に泊まればいいと友人は、最近になりよく言う3人で彼女の家で徹夜で飲んだことがあったしかし、彼女に夢中だった僕は男と女の関係の機微に鈍感になっていたのだろう迎えに行くと言う今回の誘惑を不覚にも断りきれなかった。
Apr 24, 2011
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近くで会合があり本当に久しぶりに母校ののキャンパスを訪れた震災の影響もあり、そこでは偶然にも遅い入学式が行われていて私の子供達のような若者があふれて、その輝きと春の暖かさで気持ちが一瞬華やぐ。そしてふと自分の青春時代を思った。あの頃、確かに怖れを知らなかった理由も無く自信に満ちていた。疑問も持たずに大胆な企てに夢中になれた何よりも時間は有り余るものと錯覚していた遂げることもできない恋愛にも浅はかな夢を求めていたそして付き合った女との別れの涙にも好きなのに振られた女への恨みにも少しも湿った感情は残らなかった。それが青春の痛みと苦さというなら懐かしく笑って思い出すことができるしかしその時になって彼女との別れは残酷すぎたわたしの体中に刻まれた哀しみと苦しみに変容した彼女との思い出は未来にまで消すことはできないだろうそれに打勝つことができるのだろうかにぎやかなキャンパスを異邦人のごとく彷徨いながら、これから残された人生を彼女の分まで生き抜くことの覚悟にどんな意味があるのだろうとつい思い至って、くじけそうになる。ああ 私の心にこれまでとは違う圧倒的な強さがどうしても欲しい
Apr 24, 2011
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桜花吹雪の中を車で走行中に突然デジャビューが起きた自宅の近くの公園に沿った道でそれは起きた。前には仮免許中の車が先ほどからゆっくり走っていた。右側には、桜並木がずーっと続いていた前の車が余りに遅いので、僕が追い越した途端運転席の女性が、一瞬にこちらを見た。彼女にそっくりだった。僕の胸は高鳴った。そして僕は、車を止めて、その車が後ろからもう一度やってくるのを待った。しかし、その車は、後ろの道のすぐの角を左折したのかいつまでたっても見えなかった。思わず笑ってしまった。そんなはずが無いのに!あのときの情景と同じだ。彼女が免許取得に挑戦をしていたときに、練習をしたいと呼ばれた僕は、教習所のコースを借りて彼女の車の後ろから、何周も付いて回ったことがあった。運動神経は僕の何倍もあると自慢した彼女が唯一、危なっかそうな運転で、心配そうに投げかけてきた視線を、同じように感じたのだった。そんなことは遠い記憶の隅にすっかり忘れていたのに。そのときも、教習所のコースには散り逝く桜が、吹雪いていた気がする。彼女の運転する車の助手席に座れたのは数えるほどしかなかった。
Apr 9, 2011
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花の季節がやってきた。事務所の前の公園にも、いままさに桜が満開を迎えようとしているしかし、ご他聞にもれず、自粛ムードで例年の賑わいは望むべくも無い。そして吹く風は、まだ春には遠い冷たさだ。彼女に桜を見せようと枝を折って、病室を訪ねてから早くも1年を迎えようとしている。余震の絶えない日常の不安は、形を変えて今の私の気持ちを、また憂鬱にする。彼女の命日である5月23日はどんな日になるだろう。その前の長い連休は、彼女の墓参りと書斎の史料整理に当てるつもりだ。3.11の地震の日、自宅の書棚から多くのファイルが落ちて彼女と撮った秘密のスナップ写真が出てきた。幸い家人は誰も片付けなかったので気づかれることはなかったが、夜半をかけて書棚を元に戻し、写真を古いアルバムに紛らわせた。その写真の1枚に、北茨城の岡倉天心記念館を訪ねた帰路、遥か太平洋を間近に臨んで天心が思索に耽ったという五浦六角堂の前に佇む2人の姿があった。なつかしくこみ上げる感情を抑えることができない今回の津波で、あの六角堂も跡かたなく流されてしまったと新聞記事にあった。私にとっては信じられない出来事だ。偶然にも彼女と同じく、六角堂も失われたのだ。 「遠慮めさるな浮世の影を、花と夢見し人もある」彼女がメモしてくれた天心の歌である。
Apr 6, 2011
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悲惨さは目を覆うばかりだ。被災者の気持ちを思うと、私の遭遇した出来事は、次元は違うが、小さな哀しみだったのかもしれない。しかし、なんと言う偶然だろう。彼女がこの世を去ってからの約1年、世の中は、まったく変わってしまっているように感じる。彼女は、まさに明るさと幸福の守り人だったのかもしれない。これで、人々の価値観さえもが変わるかもしれない。一瞬にして、全てを奪う大自然の力愛する人の命ばかりでなく、財産も、住み慣れた町も、住む家もすべて失うことなど、私にはとても想像できない。私も3.11当日、あるビルの地下2階で、講演の真っ最中だった。そして信じられないような揺れが来て、シャンデリアも今にも落ちそうに揺れが続いた。講演をすぐ中止し、約200名の聴衆と共に防災センターの緊急放送を聞いた地下の方が安全だと言うので、揺れが静まるまでしばらく待機した。もちろん、これが海沿いだったら、すぐに地上に出て避難しただろう。揺れが収まって、皆を解散し、地上に出たがまさにオフィス街からの群集が、近くの公園に避難している時だった。私は、不思議と冷静だった。一応、メールで妻子の無事を確認したが、その後は、事務所に帰って、周囲の後片付けを手伝った。TVでは、惨事の大きさが、時間を追うごとに大きくなる様子を報道していた。交通機関は止まり、事務所のビルの窓からは、渋滞して動かなくなった車列が見えた。これは自宅には帰れないなと瞬時に思った。彼女が居たなら、どうしただろうと考えた。きっとテキパキと動いて、ここに徹夜してくれただろうと思う。それにしても、この地獄を見ずに彼女がこの世を去ったのはあまりに偶然とはいえ、考えさせられる。日本は復興するだろう。しかしこれまでとは違う価値観が世の中を支配すると思う。着実に、まじめに、質素に、そして省エネルギー命のはかなさを知り、自然に合わせて、平凡に生きること富や名声は虚しいものだと知り、謙虚に生きることどうだろうか?彼女はやはり幸福な一生を終えたのかもしれない。
Mar 27, 2011
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春はもうすぐと感じて再びの房総半島を訪ねた今回は、臨時列車に乗ってバスと歩きで巡った。館山から路線バスに乗り、フラワー街道を走った乗客は、少なかったが、快適な車窓だった彼女と訪ねたのは、何時だったか。同じ季節だったと思うあの時は、自分の車で行ったため、オーベルジュ・ビラだという名であったかはっきり覚えていないが、その小さなホテルを探すのに手間取った。そして、海は荒れて、風が強い日だった。彼女は、それでも華やいで、アロマテラピを予約し僕は、待つ間、部屋で眠ってしまった。あの幸せ感は今はない。しかしフラワー街道に咲き乱れる、花の明るさが、せめてもの僕を和ませる。夜には晴れた星空のテラスレストランで食事をした二人だけのテーブルにキャンドルの灯りが温かかったあの時、僕が娘の話をしたためか彼女がうっすら涙を見せた事を思い出す今考えると、無神経で残酷な振る舞いだった反省しても、詫びる彼女は、この世に居ないやはり再びの春は遠いのかもしれない
Feb 27, 2011
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会議の後の懇親会にのみ出席のため熱海から初島に一人で渡った会場は、会員制のエキシブリゾートで紹介者が居たので、泊まることができた彼女が生きていたら、きっと連れてきただろう昔、伊豆7島は、学生時代にキャンプで神津島に渡ったことがあったが、初島の名前が、伊豆七島の最初の島の意味で付けられたとは今日まで知らなかった。古い歴史のある島らしいが周囲4キロと小さな島なので、見るところも尽きて港とは反対側の海岸に下りてみた。遠く、夕日が沈む伊豆半島が海の向こうに大きく横たわっていた。彼女と幾度となく訪ねた場所もここから眺めるとどこも間近かに感じる。熱海も、伊東も、湯河原も、天城山や大室山も海を隔ててここから約10キロの距離だという。島の海岸の冬枯れのキャンプ場には人影もなく、リゾートホテルも、混雑を避けたカップルか家族連れが目立つくらいで、空いていた彼女と船に乗って島に渡ったのは紀伊勝浦のホテル浦島だったなと思い出した。夏だったが、台風が近づいていたので海が荒れて、紀伊松島巡りの小さな船は少し怖かった。しかし彼女は、平気だった。屋久島やカンクーンに出かけた彼女から船旅の話を聞いたが僕が、一緒に船に乗ったのは、紀伊のあの時だけだった。伝奇ロマンが好きな彼女が熱心に調べてくれた「徐福」伝説や極楽浄土への渡海を求めて、紀伊の海に消えた補陀洛山寺の上人達の遺跡を訪ねた時だ。僕の好奇心も旅のロマンも満たされたあの旅行が今も瞼の裏に鮮烈に焼きついている。今日の海は、寒々として疲労に満ちているこの孤独感が癒えるのはいつの日だろうか。
Feb 6, 2011
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伊豆を訪ねたのは回数で2桁を越えると思う。そのためか、毎回の思い出と思い出が交差して時に、混同して記憶がよみがえってくる。しかし、「浄蓮の滝」を訪れたのは1度だけだったと思う。彼女が一度行って見たいと希望したからだが僕も、「天城越え」の演歌で有名になった滝を見てみたかった。そういえば、珍しく彼女は、石川さゆりの「天城越え」に一度カラオケで挑戦したことがあった。アニメソングを得意とした彼女は、それ以外はあまり歌わなかった。それはあまり歌に自信がなかったからだと思う。カラオケにはよく付き合ってくれて、僕の歌に耳を傾けてくれたが自ら演歌を歌うことはあまりなかった。「それいい歌ね。好きだわ」と言う位で、演歌の好みは一緒だったが「タッチ」、「残酷な天使」、「キャッツアイ」、「帝国歌劇団」とかとにかくアニソンをよくメドレーで歌ったが、自分の領分を越えては歌わなかった。それで「天城越え」を練習して、歌ったのには、僕も驚いた。「 隠しきれない移り香(が)が いつしかあなたに浸みついた 誰かに盗(と)られるくらいなら あなたを殺していいですか 寝乱れて隠れ宿 九十九(つづら)折り 浄蓮(じょうれん)の滝 舞い上がり 揺れ墜(お)ちる 肩の向こうに あなた 山が燃える 何があってももういいの くらくら燃える火をくぐり あなたと越えたい 天城越え」彼女が、気に入ったのは、この詩だったのだろうか?今はもう、訊ねる事もできない。
Jan 10, 2011
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選りによってクリスマスの当日大阪の仕事上の恩人から誘いがあって堺市の郊外で、ゴルフをすることになった。翌朝が早いという理由だけで、前夜遅くに関西空港に降り立ち近くのエアーポートホテルに一泊した。天気予報のとおり、日本は全国的にシベリアからの寒波の襲来で、風も強く、大気は凍り、気温は3~4度というところだったろうか?翌日のゴルフは気が進まないながら1年に1度はお付き合いしないとならないかなと思って約束をした。それがこの天気。皮肉なものだ。ホテルロビーには、それでも中国人の観光客が賑やかに団体で列を成していた。クリスマスのこんな日に、ビジネスホテルに一人泊まる変わり者の日本人は少ないだろう。そう思いながら、チェックインをすませ、部屋に入った。窓からは、凍って透徹した空気を通して、空港の夜景が見えた。部屋も寒かったが、暖房が18度で自動設定してあり、これ以上温かくはならないようだった。コンビニで調達した冷めたコーヒーを飲みながら、彼女の居ないベッドに腰をかけた。空港のホテルといえば、彼女と泊まった思い出が深い。その時は、いつも夜景が美しいと思った。しかしこうしてみると、空港の夜景には無機質で孤独な透明感だけがある。明日のゴルフを終えたら、温かみのある?新幹線ですぐ東京に帰ろう。そして、いやな予感がしたとおり、ゴルフは散々であった。ゴルフ場へ着くと、既に雪が舞っていて、すぐに本降りになりそうだった。結局、せっかく遠方から来たのだからと、晴れ間を見て遅れてスタートしたのだが雪こそ止んだが、全体としては霙混じりの悪天候の中でゲームは終始した。ああ、僕の精神にとっても、明るく暖かい陽だまりこそが、必要だったのに。
Dec 26, 2010
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本格的な雪景色が無性に見たくなった。一面の雪を見たのは、彼女と富良野を旅した時だ。僕が駅舎の前に佇む1枚の写真が書斎の壁に今でも貼ってある。彼女が写してくれたものだ。あの時は仕事で旭川に出かけたので、東京から飛んだ彼女と富良野で待ち合わせた。翌日は思わぬ大雪で二人だけの雪原をホテルの観光バスで楽しんだ。あれから何年だろう。雪らしい雪は見ていない気がする。まだ大晦日には間があるので、一泊の予定で雪見に行くことにした。上越の県境に近い武尊山の麓にある秘湯を思い出した。学生時代に1度訪れたその温泉宿に空きを問い合わせ予約した。幸いに露天風呂付きの一部屋が空いていたが、まだ雪はなかった。天気予報では、東京は快晴が続くが、寒波の到来で北部地方では雪になる見込みという。帰りはスタッドレスタイヤかチェーンが必要かも知れませんねと宿の主人が電話口で話していた。思い出したが、彼女は雪国生まれでスキーが得意だった。僕は駄目なので、彼女が友人達とスキーに行くので誘われたことがあったが、足手まといになるからと断ったことがあった。それからは彼女は友人たちと泊りがけでスキーによく出かけた。僕はむしろそれを歓迎した。華やいだ顔で帰ってくる日を楽しみにした。その代わり僕たちの旅行の多くは雪の無い所を目指した。あの富良野の計算外の大雪は思わぬ体験だった。以来雪国用のタイヤもチェーンも無用なのだが、今回緊急に購入することにした。カー用品ショップで一番、着脱が簡単そうなチェーンを買ったが、店員に「使用になられなくともお引き取りはできませんが?」と言われたので聞き返すと、最近の客には雪が降らなかったから返品したいと来る者が居るらしい。どこかおかしいが、それも現代人なのだろうか?片道約5時間、彼女が亡くなってから久し振りの長距離ドライブだ。予感が当たり、宿について夕刻から、雪が降り始めて夜半には大雪となった。山野がみるみるうちに白銀に覆われていく。宿は中年の女性のグループと数組の若いカップルで既に埋まっていた。部屋付きの温泉に浸かって何時間、雪を見続けていただろうか。彼女が一緒に来ていたならどんなにか感動したことか!あたかも現実のように彼女の表情が目に浮かぶ。雪よ!降れ、永遠に降り続けて、そして今生の全ての記憶を消してくれ!
Dec 25, 2010
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暮れの恒例行事で、横浜のみなとみらいのホテルで忘年会があり、出席した。彼女とはイベントで何度も訪れた思い出の場所だ。しかし考えてみれば、LEDが爆発的に普及する前だったので、イルミネーションの過剰な光にあふれたこの華やかさを見ることはなかったような気がする。ホテルのレストランの広いテラスから臨む美しい夜景を彼女と一度はこうして観たかった。どんなにか喜んだことだろうか。今思えば、公私や昼夜を問わず、離れたくなかった。だから条件が許せば何処へでも一緒に行った。そして彼女が傍にいれば心が満たされた。相談をするではないが仕事に関する何気ない会話からも役立ちが有った。彼女の興味は仕事そのものにもあったからだろう。女性としてファッションやアクセサリーにも強い興味を持っていたが一面、自宅で日経新聞を愛読し、株投資も楽しむ意外な面もあった。目に留めた経済記事を切り抜いて、持って来てくれる気配りもあった。もうそのような関係を期待できる女性を見つけることは不可能だろう。二人は奇跡に近い相性のいい出会いだったのだと思う。とにかく一緒にいることが、あれぼど僕のワークライフを豊かに安定させていた事に、僕は余りに不感症だった。幸福は失って初めて、その大きさを知る事になるという。幸福の絶頂感に、僕たちの驕りがあったのかもしれない。死ななくてもいい彼女を死なせてしまったような気がする。
Dec 19, 2010
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都内のプリンスホテルの一つで恒例の組織の忘年会があった。立場上参加したが、やはり昨年に続き彼女の欠けたパーティーはどこか輝きを失っていた。ワインの好きな彼女が両手に赤白ワインを抱えて、楽しそうにテーブルの間を巡り、あちこちで笑顔を振り巻いていたあの時のあの情景。そして時々僕のところへ戻ってきては、目を細めて一旦、僕を眺めるようにして、立ち止まり満足そうに、微笑んで、頷き、再び群集の中に戻っていった。幸福すぎたあの頃。不倫の幸せが長く続くことは許されない事だったかも知れない。人生は一生涯で禍福が帳尻合うようにできているのだろうか?そうでも考えないと、掛け替えのない彼女の突然の死は今でも納得できない。僕の心に本当に癒やしをくれた彼女のあの微笑みと陽気さは、もう二度と僕に帰ることはないのだ。
Dec 11, 2010
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日暮里から35分新しく開通したスカイライナーのスカイアクセスに乗った一昨年、彼女と天津と旅順に出張した時はまだなかった空港近くのターミナルホテルは、どこも空いていた今回はヒルトンに泊まった。広い部屋に、僕は一人だった。夜景を眺めながら、彼女とのあの日の前泊の夜を思い出した。一行は13人。女性は5人だったが、僕たちだけが秘かなるカップルだった。あの時、皆よりも一足早いスカイライナーに乗ってホテルについて、二人で空港にまで買い物に出かけたっけ暑かった。そして七福神が描かれた扇子を買った。彼女はそれを欲しがったが、僕の旅のお守りだよと言って、譲らなかった事が悔やまれる君は僕とずっと一緒だから僕が持っていれば同じだろうという理屈だった。この夏も、その扇子は僕のバッグの中に残るしかし、幸運は来なかった。でも、出張は行って良かった。彼女は、すごく感謝してくれた。最初の計画が1年早まって、彼女の都合と一致したことを、喜んでいた。旅順の砲台跡での二人の写真がここにあるまぶしそうな顔をして、笑っている彼女と遠くを見ている僕だ。明治は遥かだが、生々しい歴史がそこにはあったそして彼女の思い出も遠くなっていくあの日、僕の部屋で、彼女の日焼けした肩を抱いて、夏草のような香りを胸いっぱいに吸ったのは、紛れない事実だというのに。
Dec 5, 2010
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学会に出席した後まっすぐ帰って、一人留守番をするつもりだったが携帯から呼び出しが合って、予定を変更した。久しぶりに、外食をすることになって赤坂サカスで妻と娘と合流した。芝居が跳ねたばかりらしく、広場には不自然な人ごみがあった。待つ間、大量のLEDに照らされた樹々の明かりと人々の青い顔を眺めた。ついこの間のような気がする。彼女とここで待ち合わせた夜は。宇宙戦艦”ヤマト”のイベントが時折、煙と大きな音を出していた。本当なら、きっと二人で見ただろう映画がもうすぐ来る。今回は一人でも見に行くつもりだが、誰と感想を語らうのだ。テラスレストランで食事を済ませて、満足した家族とミッドタウンまで赤坂から乃木坂へ遠回りして歩いた。風もなく、暖かく散策には、もってこいの夜になった。行き着いたミッドタウンは、思いのほか人は少なかった。スターライトガーデンは初めて見る。感動した。25万個のLEDが闇に広大に浮かんでいた。そして光が時折、その中を疾走する。まるで”ヤマト”が航行する宇宙空間のようだった。家族も感動していた。勿論、僕とは違う視点だろう。それでも幸せといえる状況なのだ。今は。運命に感謝しなくてはならない。残された僕は孤独ではないのだから。辛いが彼女を忘れなくてはと思う。
Nov 23, 2010
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不思議な事があった。出張の寄り道で京都の最北にある鞍馬寺を訪ねた。叡電を乗り継いで鞍馬寺に着いた頃は日が傾きかけていたが、運よくケーブルカーの最終便に間に合った。本堂について、参拝をした後、強く好奇心をそそる場所を地図に見つけた。それに日没には大部、間があったので下りのケーブルカーに乗らず、「魔王尊」を祭る「奥の院」まで足を伸ばすことにした。きっと彼女だったら喜んで向かったに違いないとも思ったからだ。登りの山道が、さらに奥へと続いていた。大学時代の登山の経験から道は容易な行程に見えた。若いカップルが先行していたし、後ろにも同様のカップルが続いていて安心したのが間違いであった。木の根の露出した道は、やはりビジネスシューズにはきつかった。「奥の院」に着いた時には、前後にすっかり人影を身失っていた。「奥の院」に祭られているのは650万年前に金星から降り立ったという魔王尊(サナトクマラ)という古代インドの神様だというなぜにこのような神様の聖地がここにあるのかは解らないが彼女が好んだパワースポットに間違いはなさそうだ。きっと彼女なら大いに感動しただろう。暗闇が迫る静寂の中、僕は天上にいる彼女の安寧を祈った下りもきつかったが、日没寸前に貴船神社側の西門に無事降りたつことができた。そこには先行のカップルが既に、灯篭に照らされた参道を登っていく後姿が見えた後続のカップルは途中で引き返したようで誰も降りてこなかった。先のカップルの後姿をしばらく眺めていると、彼女と青森の「大石のピラミッド巨石群」と「戸来のキリストの墓」を訪ねた時の3泊4日の冒険旅行を思い出した。あれは刺激的ですごく楽しかった帰りに立ち寄った座敷わらしの棲む「緑風荘」もその後、火事で消失してしまったが幸福そうな二人の周りに不思議な点が舞う部屋の写真が脳裏に甦る。もう二度と魔王尊に詣でることは無いだろう。しかし貴船神社の参道はあの熊野大社の灯篭の参道にいた二人を彷彿とさせて懐かしい。何故かここにはまた来るような気がする。最終バスが出てしまったので夜道を星明りを頼りに貴船口まで歩いた。脇を流れる川の水音が、どこまでも耳を離れない。彼女へのあふれる思いを抑えることは出来ない。こうした毎日はいつまで続くのだろうか。
Nov 7, 2010
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彼女が他界してから、5ヶ月が過ぎた。その喪中の葉書がご主人から突然に届いた予想に反して書かれた文章はあっさりしたものだった。妻が突然他界し、生前の芳情に感謝しながらも、明年の厚誼を自身にはよろしくと、引っ越したらしい新しい住所から発信されていた。文面をしばらく眺めながら、僕は本当の終わりを噛みしめたそして、数日さかのぼる平日の日中に、一人で彼女の新しい納骨堂にお参りしたことを思い返していた。そこは、コンピュータ管理された現代風のハイテク墓所で、個室の礼拝室に案内されて、ディスプレイで彼女の生前の写真を見ることが出来る僕も知る懐かしい写真を見たが、不思議と涙は出なかった。この明るく乾いた雰囲気を、彼女も気に入っているかもしれない。妙な納得が、僕の心を落ち着かせた。住職に説明を聞いたが、永代供養が出来る仕組みだそうだ。毎年、ここには一人で彼女に会いに来ようさようなら。君の分も僕は生き抜くことにしたよできるなら天国の君への葉書にそう書こうと思う。
Oct 23, 2010
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大学時代の親しい仲間と恒例の秘湯めぐりに出かけた今回は卒業以来11回目になるだろうか今回選んだ栃木路もまだ紅葉には早かった浅草で集合して、特急列車の個室を借り切って約2時間半の列車の旅は晴れて快適だった目的地のXX温泉口から更に山道をバスで30分、そこはまさに秘境だった。300年以上を経たかやぶきの建物はかつて平家の落人たちが、京都からはるばる源氏の追討を逃れて、落ち延びたところだという仲間には話さなかったが、実はここもXX年前、会社の忘年会旅行と偽って彼女と二人で車で訪れた温泉だった。あの時は、暮れも押し迫った頃で都会も何十年ぶりの大雪で、この辺りも一面の銀世界だった。そして長い雪道をヘッドライトの明かりだけを頼りに遅くたどり着いた温泉宿の明かりを目にした時彼女と抱き合って、大げさに口づけを交わして喜んだ懐かしい追憶がよみがえる。宿はあのころと変わらなかったが、温泉場はすっかり賑やかになっていた。近くには平家の集落を再現した観光施設ができ観光バスで、かなりの年寄りまでもが気楽に来れるようになっていた。貸切風呂も当時はなかったが今では若いカップルに人気だという友人たちと、露天風呂からのまだ青葉が残る清流の対岸に射す夕陽の移ろいを眺めた仲間と大いに飲んで騒いで、彼女との思い出を忘れたかったが、彼女が酔ってはしゃいだ可愛い姿が心に浮かぶもう二度とあの幸福感は帰ってこないのだ。*キャットウォークとはダムなど工事現場に高く張られた細い業務用の架橋。一般には開放していない。
Oct 17, 2010
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また1年ぶりに同窓会があり、出かけた。中学の仲間が、20人ほど集まった。僕のクラスは、3人だけと寂しかった。しかしその中に、高校時代に付き合った彼女が居た。久しぶりと、遠い青春時代の懐かしさがこみ上げた。彼女も勿論結婚して、独身の娘が一人いるという。店を継ぐため、養子をもらったのだが、自分の子供もまた娘だったと笑う。そして、ませていた僕の当時の憧れでもあった彼女の唯一の姉さんはすい臓癌で数年前に亡くなっていた。彼女の淋しさを垣間見た気がする。人生は本当に、予期せぬ結末があるものだ。また昨年の同窓会でXX年ぶりに海外から帰国して再会した友人はこの間、再出張先のアラブの交通事故で亡くなっていた。知らなかった。なぜ今になってと思う。彼は、僕のいろいろな意味でライバルだった。なぜか、全身の力が抜けた気がした。にぎやかな雰囲気を後にして、2次会は失礼して帰ることにした。外は雨が降り始めていた。店を空けてきた彼女は、娘が迎えに来ているので一緒に送っていくと言ってくれたが、僕はそれを断り、駅まで歩いた。明日は、晴れるだろうか?雨の中を旅行に出かける憂鬱を思った。
Oct 15, 2010
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