PR
Keyword Search
Calendar
Category
Comments
慎太郎兄弟の父潔は神戸出身、山下汽船のたたき上げで、27歳で樺太の材木運搬など相当な荒仕事もこなした人であることはすでに述べた。昭和11年、40歳くらいで小樽支店長に出世し、ここで子供たちをカトリックの幼稚園に入れ、ゴルフなどをする高級サラリーマン生活をたのしむ。昭和18年、東京の本社に転勤し、逗子にある山下亀三郎社長の別邸を与えられて瀟洒な生活に入った。
慎太郎は終戦の年に湘南中学に入学、裕次郎は小学5年生。終戦になって、父潔は息子にヨットを買い与えた。女の子ならピアノを買い与えるところを男の子だからヨットにしたのだという。在留のアメリカ人がつくらせてから2年目のディンギと呼ばれる2人乗りの小型ヨットである。当時の金で2万4千円もしたというから大変贅沢な買物である。
兄弟はそれをのりこなし、慎太郎はこのヨットが自分たち兄弟の人生へのスタートだったと熱い思いで書いている。
父、潔は神戸の出身で、小僧時代から船会社につとめ、小樽という海の町に過ごしたからまさに海の人であった。北海道そのものが植民地みたいなもので内地とはガラリと変わっていた。
海に関わった人間は陸の人間とどこか異なった感覚になる。海は人間を魔性に引きずり込む。あの広い海で暮らしているともの考え方がおおきくなり、こまこましたことから無縁になる。海は怖い。いつ何時人間を死にひきずりこむかわからない。子供の頃、鎌倉の海岸で豪雨に遭い、ボートがひっくり返ってあやふく遭難した経験がある。また逗子の海岸で遠くに泳いだとき、急に足がつっておぼれそうになった。あ、もうだめだ、となったらアップアップしだし、おしまいになる。海岸まで無限に遠く感じてしまう。気をとりなおして岸まで泳いだが、今でもあのときの怖さを思い出す。板子一枚下は地獄ということわざが思い出される。
知研で昔、太平洋横断の堀江謙一さんをよんで講演をしたことがあった。このとき、堀江さんはロマンティックな冒険家だと思ったが、実は緻密な計算ができるリアリストだと見直した。彼はひとりで小さなヨットで太平洋を横断する前に実際の距離では日本列島一周したりして距離的には太平洋横断の距離以上の航海をしていた。しかし危険ならいつでも陸地にたどり着ける近海の航海だった。この距離をアメリカの方にのばせば太平洋横断は理屈では可能であると思い自信があった。しかしいざ乗り出していくと、時化に遭うとこのままってアウトになるのではないかと思い、ウイスキーをのんで紛らせ、ナギにあってヨットが動かなくなると、このまま1ヶ月もそれが続いたら食料も水もつきておだぶつだと感じる。また天測ではハワイ列島が見えてくるはずなのにそれがいつまでも見えてこないと進路をまちがったのではないかと恐怖が走る。要するに想像力が一番怖い。それで何も考えないようにしたという。
この話は十分理解できた。こういう危険と隣り合わせの海の生活ではおのずから感覚が異なってくるのは首肯できる。漁師の平均寿命は40歳に至らないと言われた時代、荒々しい、気っ風がよい、剛胆、喧嘩早い、きれがよい、やくざ風、おおざっぱ、などなどである。船員、漁業者、魚関係の商人や料理人、板前などまでに共通して見られる非日常的な性格である。
魚というものは豊漁の日はあるが、獲れない日もある。日によっても季節によってはまちまちである。魚屋は鮮度がおちない内に売らねばならないから、気っ風よく声をからして売る。売れ残ったら損になる。まったく安定したなりあいができない。
魚の売り買いは尺貫法がなかなか守れない。魚自身は大きいのもあれば小さいのもあり、キロいくらだといってもひとつひとつ半端な重量になるから値付けなどはおおざっぱになる。だからといって値切りや駆け引きはしない。私は貫目がたりないと文句を言いにいったら、馬鹿野郎、魚には値がつけられないんだ、といって逆にどやしつけられた。次にいったら、これもってけ、とポーンとでっかいやつを同じすごく安くしてくれた。だいたいそうした世界で、魚のコストというものは定めにくい。
また書くが、この世界に生きている人たちのある部分は制度や慣習から外れ、制度の外にあって、勝手にやれと役所は手をつけず、無視している。制度や国家が面倒見切れない部分を私は行政の歩留まりがおよばない世界だと呼んでいる。(続く)