鉛筆画の記録。

鉛筆画の記録。

人の命と欲望と幸福論。



だから人が自然を支配することはできない。



これはかなりの持論だけど、

太古の昔から近現代ぐらいまでは、 人は生きるために生きていたと思うんだよね。

だから、 食べるために狩猟して、農、林、漁業を興して、着るために養蚕、 紡織業、

住むために建築業を発展させて、

この時は生きることに必死で、

生きたいという欲望を満たしてきた。


でも今は、

お金を出せば食べ物や衣類なんかはすぐに得られるし、

生きるためにかける時間がそれほど必要なくなって、

趣味や娯楽に時間をかけるようになった。

欲望を芸術やスポーツなどに昇華させたのはとても素晴らしいことだと思うけど、

それと同時に持て余した欲望と時間を、

良くないことに使う人とか、何をすればいいのか路頭に迷う人、

命を無駄にしてしまう人も増えたのは事実なんだよなぁ。

「自分は何のために生きているんだろう?」って。

人生に空虚感があれば、何の意味もなく自殺したり、

意味もなく人を襲ったりする。

また、生きることが第一目的でなくなると、

命に感謝しなくなる。

作物を一から育てたことが無い人が増え、

どれだけ苦労してそれが出来たかを知らないから、

「いただきます。」は心の底から自然に出る言葉ではなく、

ただの学校の強制。

生きるために食べる。

生きるために他の命を頂く。

こういうことに気づくきっかけが、

多くの人にもたらされればいいのだけれど。

そもそも自分自身も、「生きるために生きているのだろうか?」

と思うことがたびたびある。



人は日々進化を遂げてきたって言う人がいるけど、

身体的な能力については、もしかしたら進化(退化?) してるのかもしれないけど、

精神的なものは、 欲望の形が変わっただけで、

進化しているわけではないかな、 って思っただけなのさ。




あるとき友人は、

「不幸と幸福の偏りが気になるね。世の中には多様性と呼ぶのも憚られるような辛い境遇の人達がいる。」

と言っていた。

不幸と幸福の偏りについては、私は何とも言えない。

傍からみたら「この人達こんなに貧乏でとても辛いだろうな」 と思ったとしても、

当の本人らは幸せを感じているかもしれないし、 その逆もまた有り得る。

困難を乗り越えたからこその喜びを感じている人もいるだろうし、

何が不幸で何が幸福なのかは、本人しか感じ得ない。

しかも人っていうのはある程度適応力があるから、

たとえ困難な状況だったとしても、

その環境に慣れちゃうんだよねきっと。


私は、 与えられた環境の中で、不幸にも幸福にも感じ得るなら、

どうせなら「楽しい」 と思って生きた方が良いかなと思ってる。


うれしい、楽しい、

悔しい、悲しい、

そんな、沢山の感情を見つけながら、

生きるために全力で生きていきたい。







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なんだか宗教めいてきたぞ・・・・・

ってそんなつもりはないのだけれど。

友人と話し合った内容の一部。

皆さんが考えるきっかけになればいいと思います。


H28.8.21(日)      林 李音。

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