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明確な記憶はない。ただ、なんともいいようのない重苦しさに目覚めたとき、大きな足で踏みつけられている自分に、気がついた。そこは鬼の支配している世界だった。あたりの様子をうかがう。鬼は、たくさんいるようだった。自分のような存在は見当たらなかったが、みんな、何かにせきたてられるかのように、必死に働かされているようだった。一見、うらやましくも自由に見えたが、実は、ひとりひとりに、監視の鬼がついているのだった。他の存在より、先ず自分。自分は、鬼の足の下でただただもがくだけだった。絶対的な力を持つ鬼。なぜ、こんなことに・・・原因を思い出そうとしても、苦しすぎて、思い出せない。重い。抜け出せない。もがきにもがき、じたばたしつくしたところで、小さな小さな光に気づく。それは天から降ってきているようでもあり、地から漏れ出しているようでもあった。天地をつらぬく、かすかな光。それは鏡だった。そこには、自らの姿が映っていた。そこに映るみじめな姿を、自分と認めるよりなかった。そのときに、鏡は光を放った。それこそが、暗黒の世界での希望の光だった。あぁ、ここにも光が在る、と知ったとき、地を這うように、ささやく声がした。すべて、お前が望んだこと。すべて、お前が仕組んだこと。すべて、お前が成したこと。すべて、お前が・・・と成るために。えぇっ、「・・・」って、なんなんですか?よく聴こえませんでした。声にならない声で叫ぶ。すべては、あるがまま。信じるがよい。それ以上の答えも応えも、なかった。縁深き法華経の一節を思う。常行忍辱(常に忍辱(にんにく・忍耐)を行ず)のお手本、常に軽んじられてもなお、礼拝行を行ない続けた常不軽菩薩の心中に、我が心身を重ねる。まだまだだ・・・。鬼の足下から逃れることばかりを考えずに、鬼に好かれ、喜んで足を上げさせるにはどうすればいいのか。我が行、道なかばなり。道は、はるかに続く。その先は、今ここに至る道。とある世界で、暗闇の中で光に目覚めた、夢を見た。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月31日
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自分で決めたはず。決心したはず。自分で選んだはず。決意したはず。なのに今さら。はずだった。過去を振り返れば。つもりだった。今ここで、振り返れば。どこかで、何かに流された。それももともとの大きな流れ。だから、後悔はない。ただ、今の自分に、違和感を感じる自分。被害者は誰もいない。ならば、加害者も誰もいないのか?そうではない。被害者と加害者が同一人物だということ。自業自得。自業自縛。自分の投げかけたものを、自分が受け取るだけ。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るだけ。自分が何を投げかけたのか。自分が何の種を蒔いたのか。自覚せずにしていたことが、今ここで、明確になる。結果から、原因を知る。因を育てた縁を思う。そして、ただ受け止める。消えていく姿として。選んだ結果として、今この道の、ここまで来た。これからどこへ向かうのか。それは、過去からは制限されない。なのに、そう思い込んでいる自分に気づく。今ここで、決める。もし過去に囚われるのなら、いちばん大本の過去まで、さかのぼらなければ…。もし過去に囚われないのなら、今ここの自覚を、確信しなければ…。選んだようで、選ばされている道。選ばされるしかないようで、選べる道。道は無限。行き先はひとつ。もともとのもとに帰る道。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月30日
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どんな集まりであれ、新年最初の懇親会は、新年会と名がつけられる。だから、最初の挨拶が、(あらためまして)新年明けましておめでとうございます、となるだけで、実質的にはいつもと変わらぬ、懇親を深めるための飲食会となる。長男長女が共にお世話になった中学校の、PTA役員のOBによる新年会に出席した。まだ子供が中学生の人もいれば、成人して出産、ご自身がおばあさんになった人も…。が、やはり、話題は子供たちのことになる。それも、今の中学生たちが、どうのこうのということもあるが、それぞれ、我が子のことがどうしても中心にならざるを得ない。親は、やはり我が子のことがいちばん気になるものなのだから。PTAの役員をすると、いろいろな親の様子がわかる。また、先生ともある程度、かかわりが深まる。そして、いろいろな情報が早く、多く入ってくる。気をつけなければいけないのは、それで、我が子のことが解った気になってしまう、ということなのである。たとえ学校全体の子供たちの様子や、教育の大きな流れのことが解ったとしても、子供はそれぞれ、個性としての人格を持っている。いかに他所の多くの子と接したからといって、そのことが、我が子と接したことにはならないし、また、接しなくてもいいことの理由にはならない。が、どうもこの点を、多くのPTA役員さんにありがちなように、私自身も勘違いしてしまった…。いまさら反省しても、もう手遅れに近いかもしれない。が、気づいたのなら、改めるところは改めるしかない。子供を信頼することと、放任することは違う。その微妙な加減は、子供の態度が教えてくれるはず。それを感じ取るだけの接点、コミュニケーションは確保しなければ、相互信頼は生まれるべくもない。親子だからこそ、日頃の本音のコミュニケーションが大切なのである。二次会で歌う。澄んだきれいないい声だ、と大概はお褒めに預かる。が、プロの歌手にはなれない。なぜなら人に感動を与えるくらいの、想いがそこに伝えられないから。仏壇で手を合わせ、経を唱える。お寺さんのように流暢に、読誦することができる。が、神仏やご先祖様にお経の力や、供養の気持ちが、果たして伝えることができているかどうかは、わからない。単に、歌がうまいだけの素人歌手と同じ。大切なのは、本心が、見えない世界にもきちんと通じているかどうかなのである。我々は目に見える世界にだけ生きていると思っている。が、目には見えないからといって、目に見えない世界の存在を否定することはできない。こころは目に見えないが、誰も、「こころが存在しない」、とは言わないように…。「自分は解っている」というのは、ひょっとすると大きな大きな誤解なのではないのか。傲慢、高慢の極みなのではないのか。常に謙虚でありたい。自分がほとんど何も知らないことを、知るものでありたい。常に自覚するものでありたい。新年会で、ふとしたことから、我が子に詫びなければいけない自分に気づく。情けなくも、我が「情けなさ(情けのなさ)」が身にしみる。こんな父親で、ほんとうにごめんなさい。こんな父親のところに生まれてきてくれて、ありがとう。おまえたちのことは、心から愛しています。うまく伝えられない私を、どうか許してください。今ここで、子供たちが幸せであることを祈ります。今ここで、すべての人たちが歓喜弥栄であることを祈ります。ただ、それだけを祈ります。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月29日
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本日、檀那寺の先代ご住職の、七回忌法要にお参りさせていただいた。平成12年2月1日にご遷化(せんげ)。 遷化とは… 《この世の教化を終え、他の世に教化を移すの意》 高僧や隠者などが亡くなること。入滅。 高僧や、隠者であられなくても、 もっと普通に使われていいように思う。 死亡、死去、逝去よりも、 往生、遷化のほうが、次の世での生を暗示している。早いもので、もうすぐ、丸6年が経とうとしている。今日もたくさんの方々のお参りがあった。読経の中、お元気なときのお顔や声が思い出される。供養文の読み上げに、目頭が熱くなる。やはり、笑顔と笑い声のすてきな庵主さまだった。たくさんの想い出が、縁ある人たちそれぞれのこころの中で、今もなお、あざやかに生きている。人は、死して、何を遺すのだろう。遺すものとは、自分以外に与えたもの、伝えたものに他ならない。遺したものが、残された人のこころにまた新たなものを産み出すこと、それこそが遺産。自分が得たものは、この世には遺してはいけない仕組み。この世とあの世。かくり世とうつし世。この世での別れが永遠ではない、とは言うもののやはり、別れはさみしいもの。葬儀や法事に、義理や見栄や世間体からだけではなく、こころから別れを哀しみ、お世話になった感謝を述べ、また、いつかどこかの世で必ずお逢いしたいものと、ひそやかな願いを胸に抱いて、素なるこころで参列してくれる人をどれだけ残せるのか…。それこそが、この世に生まれてきた甲斐、生きた証なのかもしれない。「法唱院日英」大法尼の遺徳を偲ぶ。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月28日
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母音とは…言語音の最小単位である単音の分類の一。呼気が口腔や咽頭での閉鎖や狭めをうけずに流れ出る音。口の開きや舌の位置、口蓋帆による鼻腔への通路の開閉などによって音色が変わる。一般に有声音。現代日本語では、ア・イ・ウ・エ・オの五つ。父音とは…子音に同じ…言語音の最小単位である単音の分類の一。呼気が喉頭から口腔にかけてどこかで閉鎖または狭めが作られて発せられる音。閉鎖・狭めの部位や呼気が鼻腔に流れるか否かの差異により閉鎖音・摩擦音・破擦音・鼻音などに分けられるほか、声帯の振動を伴うか否かによって、有声子音・無声子音に分類される。母(はは)の母音は、アア。父(ちち)の母音は、イイ。母と父を重ねて、アアイイまたはアイ(アイ)。ママの母音は、アア。パパの母音は、アア。ところが、マミィの母音は、アイ。ダディの母音は、アイ。「君が代」の歌詞の中に、「細石(さざれいし)の巌(いわお)と成りて」がある。この「巌と成りて」とは、「イ(行)はオ(行)と成りて」、であるという。つまり、アイウエオが、アオウエイとなると、アイの外に、ウエオがあったものが、アイの内に、オウエが挟み込まれる。すべてが、アイに包まれるのである。神(かみ)の母音も、アイ。愛(あい)の母音も、もちろんアイ。幸(さち)の母音も、アイ。光(ひかり)の母音は、イアイ。魂(たましい)の母音は、アアイイ。そして、大地の女神(地球そのもの)であるガイアの母音は、アイア。気がつけば、アイに満ちている。「ありがたし」の母音は、アイアアイ。「私は愛」の母音は、アアイアアイ。「私は光」の母音は、アアイアイアイ。「皆が神」の母音は、イアアアイ。気がつけば、愛と光と神しかなかった。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月27日
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自己コントロール。コントロールを「管理」ととらえると、窮屈になる。自己管理。発想が小さくなる。守りに入る。・・・してはいけない、するべきではない。コントロールを「活用」ととらえると、楽になる。自己活用。発想が柔軟に、開放される。発展性が生まれる。・・・したほうがおもしろい、したほうがうまくいく。管理から活用へ。管理職から活用職へ。活用とは…機能・能力を十分に生かして用いること。効果的に利用すること。人材を人財へと活用するのは、誰かではなく、自分から。命を生かすからこその、生命。命をどう使うかが、使命。命を生かして使うことこそが、生きがい。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月26日
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光に憧れる。もっと光りたいと願う。ということは、今の光に不満足だということ。光とは、そもそもなんなのか?光る、とはどういうことなのか?目に明るさをもたらす光だけではない。こころにも、光が必要。それこそが、希望や光明。「何か」を求める、ということは、自分がその「何か」ではない、ということ。「何か」の状態になっていないということ。「今ここ」で不十分であり、不満足を感じているということ。そして、求めれば求めるほど、その違いが顕著になり、求めるものは、ますます離れて行く。もう一度、自分を見つめなおす。「今ここ」を感じつくす。ほんとうに、その「何か」は自分にはないものなのか?不十分でしかないものなのか?を問いかける。そのときに、影の存在に気づく。そういえば、影はどこにあるのだろう?光を前身に浴びるとき、影は後ろに伸びる。視線をどう変えようが、影の姿を見ることはできない。光を天上から浴びるとき、影は足下におさまる。視線を下に移せば、影を見ることができる。影を探し、影の状態を見つけることによって、自分の光の当たり方とともに、光の求め方が解る。自分だけにスポットライトを浴びればよいのか?すべての人に、満遍なく降り注ぐ光をもたらしたいのか?光を求める、ということは、光と自分が異なるとの認識から。自分が光そのものになったとき、自分が光を放つ存在になったとき、自分の影もなくなってしまう。光と影の相関関係。大我と小我の相関関係。自己重要感と自尊心の相関関係。今ここで、光を求める我があり。同時に、今ここで、光を放つ我もあり。すべて円満になりて光らずとも、満ちずして光る、我を知る。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月25日
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「経綸」とは、国家の秩序をととのえ治めること。また、その方策。「経」は、縦糸、「綸」は、組み糸、天より下されし細き縦糸が、地に達するときは、組み合わせれて太くなる意味。大いなる存在(神)の経綸を「しくみ」という。大きな流れ、大きな設計図、下図に基づいて、壮大なる織物が、織られていくのだという。人は、痛みを感じる。痛みは、苦である。「苦は避けるべきもの」、と教えこまれ、それを実際に行なってきたが、もし、痛み(苦)を感じなかったらどうなるのだろうか?体のどこかを切って血が流れていても、痛みがなければ気づかず、どんどん失血していくだろう。熱いものに触れても、痛みがなければ気づかず、大やけどを負うだろう。痛みを知らせてくれるのが、神経(綸)。「神経」があるからこそ、人は生きていられる。痛みという苦は、まさに警告。大難に至る前に、小難で気づけとのお知らせ。神経の存在に、神のはたらきを想う。身のうちに、神の存在を想う。自律神経がなかったら、安心して眠ることもできない。安心して飲むことも食べることもできない。心臓を動かし、食物を消化し、細胞の新陳代謝をつかさどることなど、意識して行なっているわけではない。行なえるものでもない。体が傷つくと痛みでそれを教えてくれるように、神は、人のすべてを陰で支えながら、道を外れると、それを苦で知らせてくれている。最初は小さな苦で、それでも気づかなければ、だんだんと大きくして…。もともと、喜び、幸せしかない。喜びの道、幸せの道から外れているという、天地からのメッセージ、お知らせこそが「苦」。だとしたら、苦を嫌うことも、避けることも、憎むことも大いなる勘(感)違い。なにかがおかしい、と感じたとき、我が身を振り返る。我が足元を見つめなおす。我が道を確認する。苦のピンチこそ、楽に戻るチャンス。今ここ、神とつながるところ。改心と回心。会神と皆神。今ここ、我がこころを神こころに。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月24日
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明るさを求める。無性に。人一倍。自分の暗さがたまらない。だからよけいに、明るさを求める。「明」るいという字は、「日」と「月」からできている。どちらも光を放つが、日は自らを燃やして光らせ、月は、その光を受けて光る。どちらも光り、どちらもなくてはならない存在として輝く。「暗」いという字は、「日」と「音」からできている。音には、こもる、くもる、ふくむ、という意味があり、日光がさえぎられている状態。「日」の隣に、「月」をもってくるか「音」をもってくるかで、意味が変わってしまう。月は日の光を「あるがまま」に反射し、音は日の光を「わがもの」として吸収しているのかもしれない。しかし、暗いからこそ、明かりのありがたさがわかる。暗闇においてこそ、光はより輝くのである。暗さの、「音」をしっかり観る。よく観れば、「日を立てる」とある。暗は、「日日を立てる」ことにより、より明に通ず。未来の明るさを求めるより、「今ここ」の明るさに気づく。こうなれば笑えるのに、ではなく、「今ここ」で笑えることに気づく。もっと幸せになりたい、ではなく「今ここ」で幸せであることに気づく。暗さも、苦も、不幸せも、もともとないことに、気づく。大いなる存在(神)は、人に喜びだけを渡された。自分(自然から分かれてある)のものは、何もない。この世に偶然はない。人は、「今ここ」に生かされている。被害者は誰もいない。明るい笑顔、今ここで輝く。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月23日
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金曜日、業務終了後、久しぶりに弊社の新年会を開いた。昨年末の忘年会に引き続き、社員さんのほうから、開催したいとの提案があった。以前は、経費すべて会社もちで、社員旅行や懇親会を開いていたが、いまは、そんな時節でもなく、自然に自粛状態に…。が、やはり、たとえお酒の力を借りてでもいいから、本音を語れる場がないと、コミュニケーションが欠如しがちになり、どうしても人間関係が、ギクシャクしてしまう。つい最近、観光政策の一助として公募によるコンテストでグランプリに選ばれた、「越中高岡もてなし料理」を老舗ホテルで味わう。とてもおいしくいただいた。とにかく楽しかった。とてもいい雰囲気を味わえた。まさに、無礼講ということで、日頃は近寄りがたい(笑)会長も、社員さんと杯を交わしあい、差しつ差されつが、双方向のコミュニケーションを生む。二人羽織やカラオケで、楽しく盛り上がり、いつもは見られないような、たくさんのステキな笑顔や笑い声に囲まれた。この雰囲気がそのまま、普段の仕事場に持ち込めるわけではないが、でも、そのエキス、エッセンスは、ぜひ仕事にも活かしたい。相手を思いやる気持ち、相手を受けいれる気持ち、相手を楽しませ、喜んでほしいという想い。相手の喜びを、自分の喜びとする感性。すべて楽しく、やりがいをもって仕事をするためには、特に大切で、必要なこと。明るさをみんなにもたらしたい。幸せを実感してほしい。生きがいをもって、働く喜びを味わってほしい。そのための経営者。合唱や合奏を指揮する、私が指揮者。ひとりひとりの音を感じ、ひとつひとつの音を活かし、全体で絶妙のハーモニーを醸し出す。そのための指揮棒。信念が固まったとき、未来が観え、指揮棒のための辛抱ができる。「心棒」づくりのための辛抱。「信望」づくりのための辛抱。それこそが、識者(指揮者)の「深謀」遠慮。我慢は、「我の慢心」がもとになっている。慢心に気づくための我慢は、気づけば終わる。が、先が観えない我慢は、とうてい続かず、ただ耐え忍ぶだけの辛さのみを味わう。忍耐が、「認態」へと、こころの姿勢が変わったとき、しっかりとした「心抱」がすべてを包み込む。まだまだ、未熟な指揮者。でも、志高く、あるがままに指揮棒を振る。今ここで「志気望」に誓う、明るい未来につながる「信念快」。感謝 合掌。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月22日
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人の期待には、応えなくてもいいんだよ。期待を裏切り、失望させてしまうことも、もう恐れなくていいんだよ。もっと自分のこころに素直になって、自分の内面を見つめてごらん。目には見えなくても、波動や雰囲気は感じるはず。それが、宇宙の声だ。自分だけにしかできないことからの呼びかけに、静かに耳を傾けてごらん。それこそが、天から授かった命の生かしかた、天命なんだよ。思い出してごらん、古代の叡智を。記憶に刻まれたままで忘れている智慧を、日常生活に活かすんだ。そして実社会で、多くの人々に分かち合い、共有、共感から、協調を生み出してごらんなさい。信頼を得たければ、人に安心感を与えなさい。理想を掲げ、すべてをオープンにして進みなさい。価値観をクリアに、マインドを空にして、まずこころの浄化から…。内なる混乱を見つめ、鎮めなさい。抑圧された感情を、解放するのです。制限された世界を、見つめなおすのです。今ここで、自分に最もふさわしいものを選ぶのです。そして自覚した使命に、力を注ぎなさい。仲間とともに、安心の魂の棲家を築き上げてごらんなさい。あなたはそこで、晴れて名実ともに「自由の星魂」となるのです。星は、何でも知っている。ただ問いかけさえすれば、答えてくれる。星は、いつも語ってくれる。ただ聴こうとすれば、ささやいてくれる。星は、いつもそばにいてくれる。ただ信じて、今ここ、この瞬間を…永遠に。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月21日
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星の声を聴いているとき、確かに「今ここ」にいた。寄り添ってくれる、存在をしっかり感じた。三蔵様の声が、自分のこころの声と重なる。こちらは、ただ、うなずきと、感嘆詞の連続(笑)。へぇ~、ふぅ~ん、えぇ~、あはははは。すごいなぁ、そんなこと想ってたなんて…。えぇ~、どうしてそんなことが解るんですか?あぁ、そうか、そうだったんですね。なんか、すごいこと考えてこの世界に来てるんですねぇ。絶妙のタイミングを選んで、ベストの場を探し出して。「今ここ」に、すべてのすべてがすでにあるんですね。宿命を知ることは、「今ここ」の自分の再確認。そこから、運命があぶりだしのように描き出される。もしかしたら、すべては思い込みかもしれない。でも、それでもいいと、こころの声がする。はるかなはるかな昔、遙昔。大いなる天が生まれた。大天。大いなる地が生まれた。大地。大いなる人が生まれた。大人。そしてそれから、大天と大地の間に「中つ天」が生まれた。中天。人は、大人として、大天と大地をつなぐものとして「今ここ」に生まれてきた。天を目指す前に、まず大地にしっかり根を張らなければならない。天に向かうときに、大天と中天を混同してはならない。小人、中人、ではなく、大人として。星は、そんなことを教えてくれる。こころは、それでいいと、うなずいてくれる。こころの道標を頼りに、星に導かれし我が道を行く。「今ここ」にあるがままに、ありのままを感じていること。命は、ただそれだけで、自ら輝くことを、輝く先を知っている。ただ光あれ。ただ愛あれ。ただ幸あれ。星の声、こころの声は、そうささやき続けている。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月20日
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1月15日の「確認」にも書いた(抽象的に!(笑))とおり、14日はワンダフル・スペースでの体験シェア、15日の午前中は、「運命館~階(きざはし)」への新年表敬訪問、午後からは三蔵一行様の「占星術」を体験し、我が「宿命」といえるものを再「確認」させていただいた。東洋の叡智、四柱推命、氣学、宿曜占星術等と西洋の神秘、サビアン占星術。表現は異なっても、指し示すものが、どちらも同じになることは、あたりまえといえばあたりまえ。「宿命」と「運命」は、デコレーションケーキの「スポンジケーキ」部分と「デコレーション」部分に喩える人もいれば、命の旅のスタートに当たる「宿泊地」と、命を運ぶ旅の「行程」そのものとも言える。三蔵様いわく、ぬり絵の下図にあたるものが「宿命」であり、ぬり絵の完成までのプロセスそのものが「運命」。どんな色を使うか、どんな筆で、どんなタッチで絵を完成させるかは、自分次第だということ。いずれにせよ、「宿命」は既定数式、関数方程式 y=f(x)であり、「運命」は未定数、変数xといえる。我が目指すものは…、大きく成長していく球体の円満なるハーモニー。明るい歌声に象徴される、幸せな未来。理想社会の「今ここ」での創造。「天球の合唱隊が歌っている」その歌声をより調和させ、完声(成)に導かんと、指揮するもの。そのためには、いついかなるときも、今ここに。そのためにも、なにもせずに、ただ寄り添い。そのためにと、なにかをコントロールせずに、すべてを信じて時機を待つ。ただそれだけ、たったそれだけ。目に見えないものをこそ大切に感じ取り、劣等感、優越感、恐怖感に、さようなら。自己重要感、一体感、安心感よ、こんにちは。「宿命」とは、決して自己を縛るものではなく、「運命」に正面から立ち向かう、勇気を与えてくれるもの。すべては、自らが決めてきたこと。すべてを、自らが決めていくだけ。大いなる存在に見守られながら…。ただいま。おかえりなさい。そして、また、いってらっしゃい。我が魂の旅、まだ続くなり…。理想に導かれ、夢にいだかれて、さらに…。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月19日
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また(笑)、変なことを思いついた。ものごとには段階の状態がある。前、中(その状態、相当、あたり)、後。「生前」と書いて、「せいぜん」と読むと、「その人が生きていたとき。死ぬ前。在世中」という意味。「生前」と書いて、「しょうぜん」と読むと、「生まれる以前」という意味となる。「生中」は、「なまなか」で「生半」と同じ意味として、「[形容動詞]中途半端なさま。どっちつかず。なまはんか。[副詞]そうすることがかえって良い結果とならず、まずいという気持ちを表す。なまじっか」とがある。「生後」は、「せいご」で「生まれて以後」の意味。「死前」は、使われていない…。「死中」は、「死や破滅を待つより他ない絶望的な境地」という意味。「死後」は、「死んだあと。没後」という意味。読み方ももちろん、「生」と「死」との対応も、とてもちぐはぐな感じがする。インスピレーションで、命の「数直線」をイメージする。まずは「命の真ん中」で、「命中」。「今ここ」にしかないから、「命中」が「原点・ゼロ」に相当する。「原点」は、同時に、「生中」であり、「死中」。「生」の場合、「原点」から右を「生後」、左を「生前」とすると、「生」と「死」は向き(方向)が違うので、「死」の場合、「原点」から右が「死前」、左が「死後」となる。つまり、生と死は、「今ここ」という「命中」の「原点」で交わり、「生後」の世界=「死前」の世界、「生前」の世界=「死後」の世界となる。この世に生まれた後の世界とは、死の前の世界であり、この世に生まれる前の世界こそが、死の後の世界だということ。死ぬこととは、生まれる前に戻ることと見つけたり。「死後」の世界とは、「生前(しょうぜん)」の世界。「生命」とは、肉体を伴った命。「死命」とは、肉体を離れた命。「命」そのものは不変にして普遍、生と死の世界を行き交う。生を軽んじることならず。死を闇雲に恐れることあらず。どちらも命のありよう、命の輝く表現なるなれば。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月18日
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感応道交。仏の働きかけと、それを感じ取る人の心とが通じ、相交わること。人々の仏を求める心と、それに応ずる仏の心が通じ合い、一つに交わること。師と弟子とが相投合すること。感応とは、ただ感じるだけではなく、応ずること。道交とは、ただ道を行くだけではなく、交わること。まず感じること。それから、その感じたものをありのまま見つめ、感じ方や状況によって、現実に対応する、適応する、即応する。応じるためには、周囲はもちろん、自己の内面深くを見きわめる。「見る」ではなく、「観る」。「音」をも見る気持ちで、「観る」こと。宇宙観・世界観・歴史観・人生観・仕事観・価値観。観方(想像)がすべてを決め、すべてを創造する。かけがえのない、ひとりひとりの創造世界。実は、世界はひとつではなく、ひとりにひとつの世界が存在することの自覚と覚醒。さらにそれぞれの世界が交わり影響しあっている、ということも。ひとりひとりのこころの浄化から、ひとつひとつの世界が浄化され、全体の世界が浄化される。その道を、まずひとりでも歩きたい。そして、できれば手を携えて進みたいと、前後左右を観回せば、笑顔の仲間がそこにいる。天地を観仰げれば、守護の神仏がそこに坐す。満面に、たおやかな微笑をたたえてあるがままに。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月17日
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あるものは、ある。はじめから、今も、これからも。ないものは、ない。はじめから、今も、これからも。人間の眼。はじめからないものは、見えない。もともとないものは、どうしたって見えない。それはそれでいい。問題は、あるものがすべて、きちんとしっかり見えているのか、ということ。今、あるものは見える。あると思っているから、見える。でも、あっても見えないこともある。見たくないこともある。見たくないときもある。また、眼そのものの機能(障害)によって、見えなくなることもある。あるものは、見える。ないものは、見えない。だからといって、そこから、見えるものは、ある。見えないものは、ない。と結論できない、ということ。見えているのに、確かな実体がない。実体が確かにあるのに、眼の機能を超えていて、見えないだけ、ということがどちらもあるのである。なにごとも否定することはない。なにごとも拒否することはない。なにごとも否認することはない。あるがままをあるがままに。ありのままをありのままに。なるがままをなるがままに。今ここに、何もしないままに、命が輝いている。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。《幸鳥・性格イメージストーリー》恐いもの知らずの鋼鉄のヒヨコが生まれた。(丁酉)大ワシをハエとも思わず突進し、痛さを知って大きくなる。が、甘やかされ、保護されて育ち、山の上から空に飛び立とうとして、千尋の谷に転げ落ちる。大地から起き、海中から昇って空で一体の龍に成り、おっとりと体をいぶし銀のように輝かせて漂っている。(甲辰)白黒はっきり、好き嫌いはっきり、自力のみを信じる頑固な信念と、徹底したやさしさと激しさを内在する、気まぐれ龍体。人間の生活を、天上に報告する役目を担った神の使いの猿。(庚申)大地のような堅実さと、天空のような理想を持ち、岩さえも砕く強い信念がエネルギー。どんな障害でも合理的で、明快に分析された理論でかみくだき、甘ったるい情緒は吹き飛ばし、権威の笠をかぶるものがいれば、どやして肝をつぶし、決して安易な妥協をしない金剛力の神猿、孫悟空。迂回することを嫌い、ひたすらに前進あるのみ・・・だから、ときに独走したり、神の声さえも聞きもらして衝突することもあり。が、ボスとしての誇りと包容力は失わず。生真面目なので、一見、近づきがたい威厳もあるが、親しめば如意棒を足の先で回したりする芸当も見せる。カンやひらめきよりも、目に見えないものでも観ようとする抜群の行動力で、いつも新世界を目指しています。「性格推命術・あなたの運命をきめる十二支は何か」より。(松柏天 著。かんき出版)
2006年01月16日
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明るい未来をつくりたいと願って、生まれてきた。みんなの幸せをこの世で実現したいと、生まれてきた。ただひたすら、そのために…。なにもかもがその準備。なにもかもがその助け。なにもかもがそのヒント。忘れていたら、こうして気づくようにと、幾重にも張り巡らされたガードシステム。あらかじめ用意されている、気づきの標識。起きる現象の、ひとつひとつを確認。出逢うひとりひとりが、ありがたいガイド役。明るい未来を創造するために、今ここがある。みんなの幸せのために、今ここにいる。今ここにいる以外に、なにもしないこと。すべてを信じてただ待つのみ。未来を見通しての辛抱。こころに芯を通す、芯棒。真の心望のために…。たった、それだけの人生の課題。恵まれし環境。与えられた命。活かさん命。許されし使命。守られし宿命。改めて確認する日。宿命を確認する日。運命を選択する日。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月15日
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笑って、話す。笑って、挨拶。笑って、うなずき。笑って、見送り。笑って、出迎え。笑って、なにかをなす。そのためには…こころから、笑えるためには、こころが強くないと笑えない。こころから、ほほえむためには、こころがやさしくないとほほえめない。笑って人を許すためには、感謝のこころがなければ笑えない。こころの中に「ほとけ」坐せり。その「ほとけ」が笑うから、笑えるのだ。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月14日
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卵生生物の場合、卵は母体外に産みだされる。その卵は、受精卵を守るために硬い殻で覆われ、養分は、卵中の卵黄からとられる。ほとんどの哺乳類は、胎生であり、受精した卵子が胎盤によって直接母体につながり、母胎内で栄養を受けて発育し、親とほぼ同じ姿になって生まれる。もちろん人間も、卵のまま、硬い殻を身につけて生まれたわけではない。なのに、いつのまにか、鎧のような殻を身につけてしまっていることに気づく。それは、もちろん身を守るため、命を守るために必要であり、経験から身につけた知恵であるに違いない。が、今一度、この世に生を受けたときのことを想いだしてみればいい。ただひたすら、自分の命が生かされることを信じて、やわらかな身と、限りなく純粋に近いこころで生まれてきた自分。そこには、恐怖感よりも母の愛を信じる強い力があったはず。殻は、ある成長段階までは必要だ。だが、それ以上には伸びることができない。殻がこころを覆うと、素直になれない。殻とは、囚われの執着。今ここの我を感じ、必要がないのなら殻を破り、殻を脱ぎ捨てる。自らの意志と手によって。生まれてきたときの、その勇気によって。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月13日
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ライオンズクラブの新春例会。地元の女性声楽家の歌声を聴く。歌声ももちろん素晴らしかったが、最初のお話もとても心に残った。『高校から東京の音楽専門学校に通った。はじめはピアノを志したが、才能の違いに断念。それじゃあ、声楽家になろうと海外留学。が、そこで、指導教授から「体そのものが楽器である声楽家には、あなたのその小さな体と体力では絶対に無理。あきらめなさい」との宣告に、猛反発。人間、「ダメ!」と言われてそのまま引き下がるわけにはいかない!と、逆にその言葉を糧に一所懸命にがんばってきた。無理に太ろうと思って病気になり、無理に体力をつけようとして骨折したりした。そんな体験の中で、人間、努力は必要だけれども、自分の器にあった努力ではないと、うまくいかないと悟る。音楽の原点は、音を楽しむこと。楽器である、自分を楽しむこと。そして、かつて無理に努力をして失敗したことも、今は、後進を指導していく際にとても役に立っている。なぜなら、できてあたりまえの人には、できない人の気持ちや、どうしたらできるようになるかは、決してわからないし、教えることはできないのだから…。今までのすべての体験に、感謝しています』「正月の歌・一月一日(年の始めの~)」、「富士山(頭を雲の~)」、「見上げてごらん夜の星を」、「乾杯」を即興アカペラでご披露いただいた。いつでも、「今ここ」がスタート地点だという想いを込めて… 乾杯! 今 君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に 幸せあれ!今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月12日
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むかしむかし、ちょっとむかし二匹のこれまたちょっと性格の違う、友達同士のカエルがおったそうな。ある日、あるとき、誤って二匹とも、クリームがいっぱいに入った二つの桶にそれぞれ落ちてしまったそうな…。一匹は、「こんなとろとろした水は見たことがない。こんなところに落ちてしまう体験なんてはじめてだ。どうもがいても無駄、体力を消耗するだけのようだ。ここで死ぬならそれも運命、潔く受け入れよう。でもできるだけ、長く生きてやる」と、ぷかぷか浮いていたそうな。もう一匹は、「こんなとろとろした水は見たことがない。こんなところに落ちてしまう体験なんてはじめてだ。こんなところで死にたくはない。いや死んでたまるか、何としても自力で抜け出してやる」と、手足を必死に動かし、もがきにもがいたとな。潔くはないが、命を大切にしたいという強い想いが故じゃ。さて、この二匹、この先いったいどうなってしまうのか、ここで、ちょっと時間をとって考えてみてくれんかの…。二匹とも助かるか、二匹とも死んでしまうか、一匹だけ助かるのか、そして、それぞれの理由もの。自分だけのストーリー、つれづれなるままにじゃて…(笑)。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。(蛇足)あきらめたカエルは死んでしまう。あきらめずにもがきにもがいたカエルは、足元のクリームがバターになり、固まって脱出できた…。話です(…笑)。自分の力の及ばないハタラキに身をゆだねる潔さも必要、また、時には苦しくても自分の力を信じて、じたばたじたばた、もがくことも必要なのかもしれませんね。不思議に面白きかな、愛しき人間。
2006年01月11日
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人知は、頭の知。神智は、心の知、肚の智。思考に入り、思考を追いかけると頭に血が上っている。脳がフルに活動している。五感が研ぎ澄まされる。が、それは人ひとりの限られた知。なぜなら、陣地(人知)という自分がリミッターを設けているから。頭で理解しているのは、実は理解したつもり。ほんとうには理解していない。思考の世界は、自分だけの空想の世界。たとえば、死は頭では理解できない。ということは、生も、頭では理解できない。つまり、命は、頭では理解できない。人間の体は、頭だけでできているのではない。手もあれば、足もある。大地に足をつける。地と、最も接する機会が多いのは、実は、足の裏。もし考えるのなら、頭だけではなく、体全体で考える。特に、足の裏に聞かなければならない。頭だけで考えると、上ばかりを見てしまう。上へ上へと、上っても上ってもきりがない。自らが上へ上がるのではなく、天より降りてくるものを、ただ受けいれる。実は、地こそ血であり、値であり、智である。足で地を踏みしめるから、落ち着く。そこにこそ、ゆるぎない安らぎがある。足の裏は考えることができなくとも、どこよりも地を、支えを感じることができる。天と地の間に生きるから、人間。天と地を結ぶのが、人間。人知を神智に生かすのが、天智に生かされる人間。足の裏こそ知っている。地とは、支え合い、助け合い、生かし合う姿だと。暗いと思っていたのは、何も見えなかったのは、明かりをつけずに、目をつぶっていただけ。心の眼を見開き、心眼は神眼なりと自覚し、目覚めるときは、今。今ここを感じるだけで、今。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月10日
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成人とは…。心身が発達して一人前になった人。大人。身だけではなく、心もともに。また、大人(だいにん)には…、おとな、という意味のほかに、佛、菩薩の意味もある。成人の日から、はや30年近く。我が心身を振り返れば、成人の名が、大人の銘が泣いている(苦笑)。決して、生まれてからの年数ではない。まさに今ここ、現在の心境、生き様が問われる「成人」。しっくりこない、この世界との違和感の原因はなんなのか。なにか、大事なものを忘れているのではないのか。なにか、大切な約束を忘れてしまっているのではないのか。この世界は、もともと苦のみの地獄世界なのか。現実の苦の世界に、極楽世界をつくり出すのが夢なのか。あるいは、この世界は、もともと極楽の天国なのか。天国を、曇ったこころと目によって、幻の苦の世界だと思い込んでいるだけのか。どちらであるにせよ、苦を避けることは「今ここ」から逃げること。身の欲に囚われること。苦の意味を知り、苦を頭ではなく肚(はら)で理解するところに、楽は求めずして、すでに心中にあることに気づく。本心からやりたいか、やりたくないか。楽しいか、楽しくないか。楽しめるか、楽しめないか。大人の中の「赤子のこころ」、「赤心」(嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。まごころ)に訊く。赤心は、「口と心と行」との一致を生み生かす。老成人 新成人の日に 赤心を想い出す(成鳥)今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月09日
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昨晩、新年会をかねて、今年の夏のお盆休みに、高校の学年同窓会を企画しようということで有志?6名が集まった。昭和63年、創校90周年の際に一度開催したきりで、もう20年近く経過しており、ちょうど満50歳を迎える前に開催しようというのである。まだまだ準備の準備段階といった状態で、とりあえずは9クラスのそれぞれの男女1名ずつの世話人を決めて、世話人実行委員会を来月開催することになった。私は、同窓会の学年代表幹事である関係で、名ばかりの学年同窓会責任者として呼び出されたのである。とにかく、どちらかというと新年会がメインのようであったが、久しぶりにまた楽しい特別のひと時を過ごした。というのは、今回、実質的な世話人として名乗りを上げてくれたのは、どちらかというと、高校時代、県内有数の進学校での、受験戦争という試練をうまく乗り切れなかったメンバーたちだったからである。はっきり言えば、勉学の面では決して優等生ではない、限りなく劣等生に近い同級生たちだった。私はといえば、入学時はトップクラスにいたのだが、自分で「頭がよい」という錯覚から「勉強しなくてもいい」、と結論付け成績はだんだん下がりのプライドばかり高い、元優等生。彼らとは、高校時代はどちらかといえば一線を画していたのである。彼らは、それこそもう今だから時効だが、飲酒、喫煙、マージャン、パチンコ、バイクの運転、深夜俳諧等々、補導の一歩手前、あるいは実際に補導された経験のある、伝統ある進学校にあるまじき生徒たちだったのである(笑)。その面影を今にくっきりと残しながら、当時の悪さを懐かしそうに語る、今も元気で地元で活躍している初老の猛者たちの姿に、自分の中の一抹の寂しさと、うらやましさを感じてしまった。なぜ、当時、彼らとこんなふうに打ち解けて話さなかったのだろう。こころ許して、話せなかったのだろう。彼らは、彼らなりに、めいっぱい青春を謳歌していた。ひとりの言葉が耳に響いた。「オレたちは、校舎の中では劣等感のかたまりだったけど、校舎の外では、優越感のかたまりだったんだ…(笑)」今から想えば、当時の私も苦しんでいた。親を筆頭に周囲の期待、変に高い自我プライド、先の見えない不安…。そんな思いを、誰にも相談することなく、悶々と内にこもらせていた。自分に不正直で、素直に自分を表現できない…まわりに相談してもどうにもならない、自分のことは自分で解決するしかない、という思い込みと傲慢さ。実にいやな、暗い人間だったんだと想う。そのときも、もうちょっとよくまわりを観ることができたなら、すばらしい仲間たちが手を広げていてくれたんだということに、ようやく気がつくようになった。ありがたさが、身にしみる。青春時代が 夢なんて 後からほのぼの想うもの青春時代の まんなかは 道に迷っているばかり青春時代の まんなかは 胸にとげ刺すことばかり気づいた時は、すでに遅し。が、時は、まだ今ここにあり。我もまだ命あり。今あるは、過去あるからこそ。すべてに感謝。青春時代のやり直し、今ここからと、改めて誓う。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月08日
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い いちばんでなく生きる。ろ 論より今ここに生きる。は はなやかにはれやかに生きる。に にっこりにこやかに生きる。ほ ほがらかにほほえんで生きる。へ へこたれずに生きる。と とにかく生きる。ち 地に足をつけて生きる。り 理想を生きる。ぬ ぬくもりを与えて生きる。る 類をもって生きる。を …を生きる。わ わたしを生きる。か かならず生きる。よ よろこんで生きる。た 楽しく生きる。れ 冷静沈着に生きる。そ それでも生きる。つ つまらぬ世をおもしろく生きる。ね 根を張って生きる。な なにがなんでも生きる。ら らしくらしからず生きる。む 向かい風を受けて生きる。う うまくてもうまくなくても生きる。ゐ いつでも生きる。の のびのび生きる。お おおらかに生きる。く 苦を楽しんで生きる。や やるだけやって生きる。ま まけないで生きる。け 謙虚に生きる。ふ 踏みしめて生きる。こ こだわらずこだわって生きる。え 笑顔で生きる。て 手を結んで生きる。あ 明るく生きる。さ さわやかに生きる。き 厳しさとやさしさに生きる。ゆ 愉快に生きる。め めざめて生きる。み みごとに生きる。し 死んでも生きる。ゑ 縁に生きる。ひ ひだまりのごとく生きる。も もちつもたれつ生きる。せ せいいっぱい生きる。す 澄み切って生きる。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月07日
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仕事始めの業務の一環として、営業の社員さんたちと、主だったお客様のところに年始のご挨拶に伺う。以前に比べれば、何人もぞろぞろと引き連れて、ご挨拶に伺う風景自体も、ずいぶん減ってきた。もう、流行(はや)らない(笑)のである。また、お伺いする場所もずいぶんと減った。たとえば、役所関係にしても、それまでは各課からの発注があったため、それぞれの課にすべておじゃましていたが、今は、監理課に受発注が一本化されているため、そちらにおじゃまするだけになってしまう。行政機関に関しては、厳しい財政状況のもと、各課からの特命はほとんど期待できず、すべてが競争入札になってしまっているのである。とにかく、ただただ、価格が安ければいい。そんなものではないはずなのだが…。担当者同士のつながりが、協力して、なにかを生み出すことの喜びが、とても味わいにくくなっている。世の中は大きく様変わりしている。まさに変化は世の常。諸行無常(しょぎょうむじょう)。是生滅法(ぜしょうめっぽう)。宇宙のすべて(諸々の移り行くもの)は、常に変生変滅していて、一瞬たりとも同じ状態に止まることが無い。これこそが、生滅を繰り返す現象世界の真実の姿・状態・働きなのである。変わるのが常態であり、それが「生滅」の法則だとは言うものの、変えてはいけないもの、変えたくないものまで、変わってしまうことに一抹の寂しさを感じる。生滅滅已(しょうめつめつい)。寂滅為楽(じゃくめついらく)。「生滅の法」さえをも滅し尽くし、「移るものは自ずから移りて、自ずから消えゆく」というように生死(滅)を達観し超越するとき、自由自在・真清浄の永遠の命の自覚に到達し、法楽(無限の喜び)をもって生きることのできる、真のやすらぎと安楽がおとずれる、のだとお釈迦様の前生である、真理のために羅刹(帝釈天の変身)に身を捧げた、「雪山童子」の偈にある。嘆いていただけでは、何も起こらない。現象の中から、どんな自分なりの真理を再発見するのか。そこに、きっと生きがいがある。今ここに、命の秘密がある。色は匂へど 散りぬるを我が世 誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日 越えて浅き夢見じ 酔ひもせず。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月06日
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1月4日は、父と長女の誕生日。それぞれ、満77歳と、満16歳を迎えられた。長女の誕生する、3日前、平成2年の1月1日に義母が亡くなり、無事に葬儀を終えたその夜、長女が生まれた。義母はむろん、長女の誕生を楽しみに心待ちにしていたが、12月に体調が悪いと入院したまま、あっけなく逝ってしまった。今でも、妻の心中を察すると心が少なからず痛む。皆が「あけましておめでとうございます」、とあたりまえに挨拶を交わす日が、母の命日に当たるのである。本家の従兄弟は、誕生日が元日。けっこう、友人知人にも元日生れの人が多い。彼ら彼女らは、いつも誕生日が、お正月の祝いの陰に隠れてしまうと嘆く。考えてみれば、1年のうちの1日なのであるから、他の日と同じように、生まれる人も逝く人もいるのである。でもそこに、なにかのハタラキを感じないわけにはいかない。寿命とはいえ、大いなる意志を感じてしまう。人知れない意味が、きっとそこにあるのだろう。あらためて、命の不思議を想う。生かされて活かされて生きている命。あたりまえでは決してない、今ここの命。生まれる日も、逝く日も、ともに「命の日」としての命日、そして「命を寿く日」としての寿命を想う日。おめでとうございます。ありがとうございます。素なるこころから。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。すべては「今ここ」、浄化にいたるクリア道。
2006年01月05日
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元旦の初詣。例年は幾宮もお参りしていたが、本年は、今まだ継続中の「詫び行」をさせていただいている神社のみ。さすがに参道や境内のほとんどはきれいに除雪されていたが、山麓の宮は、まだまだどこよりも雪深い。もう日暮れ時だったので、人影もまばら。本殿の前に行き、手を合わせご挨拶を。二拝、二拍手(四拍手)、一礼をして手を合わせ「○○神社のご祭神様、ご眷属(ケンゾク)様、○○町○丁目○○番地○○号の○○家から参りました、○○(名前)と申します。今日は家族と共に新年のご挨拶にお伺い致しました。新年明けましておめでとうございます。(今年も一年どうぞよろしくお願い致します。)今日は参拝をお許しいただき、ありがとうございました。」と申し上げる。お札を買い求めると、世話役さんが顔見知りだった。「寒いのに、遠いところ、わざわざありがとうございます」と、お神酒を勧められる。樽の香りとともにいただくと、肚にしみわたる。胸がきゅんとなる。ふと気づく。なにかが体内に流れ込む。あぁ、もしかすると、人の体というのは、もともとは神宮(かむみや)なのではないのか。それなのにいつの間にか、神無宮になってしまったのではないのかと…。ご神体は、ハートの鏡の形をした魂。心臓とは、まさに神像。魂の入っていない肉宮のままでは、あまりにもったいない。誠の魂入(たまいれ)。誠とは、真言(まこと)。「口(言の葉)、心(想い)、行(生き様)」の調和。言っていることと、こころに想っていることと、行なっていることが、ばらばらのままでは、魂は入らず、はたらく(楽)ことができない。口主・心従・行属。霊主・心従・体属。火主・土従・水属。火のハタラキが主、水のハタラキが属、それをムスビタテマツルのが、土の従(守護)のハタラキ。火土水でヒトミ。目覚めた瞳(ひとみ)を開いて、大いなるハタラキを映す。映すとは、遷す。外宮から、内宮へと、遷宮のヒミツ。マコト真釣り(祭り)の鐘(彼音)、ウレシと響きワタル。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。
2006年01月04日
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何十年ぶりかの年末の大雪。元旦、二日は、残雪はあったものの、ここちよい晴れ間で、おだやかに。そして、今日はまた雪。一日として、同じ天気なし。違うものは、雲と気温。雲が雨をもたらす。そして、気温が低ければ、雨が雪に変わる。いつも変わらぬ太陽。変わるのは、雲と気温。どちらも、空(そら)に存在する。こころのしくみとの共通点。変わらない、こころ根の本性。変わるのは、こころ遣いと気持ち。こころを晴らすも、曇らすも、こころの使い方しだい。エネルギーを与えるも、奪うも、氣の持ち方しだい。使い方と、持ち方。選択の自由。自由意志の行使。意(こころ)・口(ことば)・身(おこない)の三位一体、一心同体。変わらない本性の存在を、信じること。信じるためには、証拠は要らない。信じるためには、条件は要らない。ただ、ありのままを信じること。ありのままとは…天にみなぎる氣。地に養われる命。心に刻まれた原初の境地。すべては、空(くう)性で結ばれている。完璧なまでのバランスで。年頭に、天を仰いで想う。かく、地に足をつけて生きること。不調和を調和に。我善しから、すべてよしに。先走り(未来)と過ち(過去)の「あやま知(頭思考)」から、「今ここ」の真誠(まこと)の「元(もとつ)氣(肚得心)へ。今ここで、我に誓う。天地心とともに、「元氣いちばん」に生きること。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。
2006年01月03日
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会社の年賀状で、あらためて新年のご挨拶を…。たんぽぽさんやクリア道の同志の皆さんの影響とっても大です(笑)。ふるさと「たかおか」を元氣にします。ミッションステートメント使命:私たちは、「お客様の真の成長」を第一に考えます。目的:私たちの目指すものは、「喜びの善循環」です。手法:私たちを支えるものは、「相互信頼」です。活動方針私たちは、常に「今ここ」主義に徹します。私たちは、常に「氣づき100%即実行」を忘れません。私たちは、常に「真価値創造」を忘れません。私たちは、常に「お客様と共に成長」し続けます。旧年中は、たいへんお世話になり、ありがとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。2006年 元旦情報を伝える芸達者 株式会社 ○○○○美術印刷今まで、ありがとうございます。昨年も、ありがとうございます。新年も、ありがとうございます。末永く、ありがとうございます。今ここ、ありがとうございます。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。
2006年01月02日
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我生。我を生かして、生きます。我小。小さなことを大切にして、大きなこころで。我性。本来の性質を、ありのままに表現。我賞。我を賞賛し、人をもっと賞賛し。我商。厭きないで、楽しく商い。我少。怒哀少なく、喜び多く。我章。我が人生の一章を磨きます。我称。我は神仏の子、と自称。我省。いつも「今ここ」を省みる。我証。我が生きた証を表現します。我正。我のみが正しいのではなく、すべてが正。我翔。鳥かごから、飛翔します。我笑。我を笑い飛ばし、いつも笑顔で。我昇。我を昇華し、浄化し。我聖。真・善・美・聖の創造。賀正。新年、明けましておめでとうございます。本年も、命のままに生きます。我生…。今、ここにしかいない、愛がいっぱいの「ほんとうの自分」を再発見し、「こころの本性(心)」を覚醒した目でしっかり自覚、確信できます。こころのしくみを学び、こころの浄化が自然にできるようになります。自身と自信をもってお勧めします。安心して、ゆだねてみてください。
2006年01月01日
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