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先日、テレビで山谷のバックパッカーたちを取り上げているのを見ました。日本にはリピーターが多く来るらしく、何回も(しかも1回に1ヶ月間も)来ている人がいました。外国からみると、日本は色々な新旧取り混ぜた文化があり非常にFantasticで、日本人は優しくてAmazingだそうです(番組内でこう表現していた)。私の身近にいるドイツ人も、日本人を「非常に優しい人たちばかりだ」と日本に来たばかりのインドネシアの人に力説していたのを思い出しました。ガイジンがこのように感じるのは、欧米では人種差別に拠るところが大きいように言われますが(少なくとも私にはそう感じられる)、日本人特有の感性があるからなのではないか、とも思うのです。日本人は、古くから「見立て」という技術を持っており、それはほとんど全ての事象に当てはまると思います(庭園、信仰、俳諧などなど)。これは物事を単にモノやコトとして捉えずに何らかの意味を持たせて見ることであり、日本人の創造力が優れている証だと個人的には思っています。普段の生活でも、相手の立場を慮って行動するという、「もてなす」行為に結びつき、それがホスピタリティと評価されるに至ったのではないか、と考えられます。しかし、相手の気持ちを察してあげよう、などと敢えて言わなければならなくなってしまった昨今では、果たしてこうした日本人固有の創造力は維持していけるのかな、と危惧しています。前にも記したように競争社会も必要ですが相手の心情を酌みながらでないと、本当にアメリカの二番煎じで終わってしまうのではないだろうか、と思います。「競争」というよりも「切磋琢磨」と言った方がいいかも。
2007年03月06日
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今更書くまでもありませんが、女性を助けようとして電車に跳ねられてしまった、宮本巡査部長が亡くなられました。阿部首相は緊急叙勲をする意向らしいし、2階級特進もされたそうですが、もう失われたものは何をやっても取り戻せないという、空しさだけが残ります。新聞の記事等を読むと、地域の方々から信頼されていた様子が伺えます。地域にとっては宮本さんのいる駅前が当たり前の風景であると同時に、かけがえのないものであったと思われます。大切なものは失くしてしまって初めてその重要さ・偉大さ・かけがえのなさに気付くものです。宮本さんのようなお巡りさんは全国にいっぱいいらっしゃることとと思います。それが、亡くなられて初めて評価を受ける、という事態には何とも言いようがありません。歯がゆいばかりです。今はただ宮本さんのご冥福を祈るばかりです。とりあえず、自分としてもこの件は記憶にとどめておきたくて記しました。
2007年02月13日
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今日、たまたま山下達郎さんのFM番組を聴いていたら、 大滝詠一さんがゲストで出ていて、二人で脱力系のトークを繰り広げていました。その中で、大滝さんが、「現在は余りにも競争がない。競争を避けようとしすぎているのが気になる」旨発言されていました。競争があるからこそ向上心も保て、それがいい作品に繋がっていく、といった趣旨だったかと思います。確かに、2・3年前には歌のヒットもあって「ナンバーワンを目指すよりオンリーワン」と言われていた気がします。ただし、これもある程度絶対的な実力を持った人が言うべきことであって、実力も何もないのにいきなりオンリーワンを目指すのは努力を怠るいい逃げ口上である、といったことを読んだことがあります。やはりどこかである程度の競争を意識した個性の発揮が求められるのではないでしょうか例えば特徴ある風景や空間を生み出す、といったことに当てはめてみますと、なぜ特徴ある個性的な風景を生み出すのかといえば、他の地域に比べて集客力を高める、住民の愛着を高める、といった目的があるからではないでしょうか。そこを踏まえたうえでのオンリーワンを目指していくのではないかと思うのです。
2007年01月14日
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以前、大手予備校に長年お勤めの方が、新聞で教育の話をしていました。その方いわく「以前は、学校は色々な先生が勉強ではなく教養を身につけさせる場所であった。そうした学校があってこそ大学入学を目的とする予備校が成立し、学生も視野を広く持つことができた。現在は、学校が大学入学を目標に掲げてしまっており、予備校と変わらなくなってしまっているために、学生たちも視野が狭くなってしまったのではないか」といったようなことをおっしゃられていました(読んでから大分時間がたつので、大分オリジナルからずれて脚色が加わっていると思います)。最近、電車の中で本を読んでいる人が減っています。携帯ゲームやメールをやっているために、揺れる電車の中で揺れる手と指、という(文章で書くと気持ち悪くなる)光景が当たり前になりました。大学生もあまり本は読んでいないらしく、専門書以外には就職本などしか読んでいないようです。専門書も、インターネットで拾えるものしか読まないみたいですが。旧制高校時代の小説や回顧録を読むと、必ず学生同士で文学論や哲学論などの議論を行なった、と書いてあります。最近の学生が、「効率よく生活しなくちゃ」と話すのを聞くと(私の周りだけであるのを望みますが)恐ろしくなります。私(30代半ばの若輩者ですが)でさえも、学生時代は理系であったにも関わらず、学生時代には文学作品を好んで読んでいました。そこで色々なイマジネーションを働かせたり(これは風景を考える上で非常に重要だと思います)、その時代背景などに触れたりすることができたと思います。効率ばかり求めて、楽しいのかなー。娯楽の楽しさではなく、教養を身につけることの楽しさも知った方がいいのに。
2006年12月18日
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先日、「観光立国推進基本法及びエコツーリズム推進法の成立を期する会」という政治集会に縁があって行ってきました。初めて政治集会に参加したのですが、「いかにも」な政治屋さんたちがアジりまくっていたのが、印象に残ったくらいでした。エコツーリズム自体も色々と賛否両論あると思いますが、二次的自然が主体である日本では地域管理の観点からは有用なのだろうと思います。ただし、地域ごとに様々な環境を有しているのですから、エコツーリズムの概念も地域ごとに異なってくるわけで、一義的に「エコツーリズム」を定めてしまうのは(もっといえば「ツーリズム」を用いるのもやや懐疑的です)危険ではないか、と思うのです。ということで、せっかく上記集会にお誘いいただいたわけですが、基本的にエコツーリズムに国が関与するのには否定的だったりします。「農林水産業が駄目だから観光にすがる」と安直に観光を目的とする前に、もっと色々と考えることがあると思うのです。
2006年11月28日
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最近、やたら「景観」を聞きます。逆に「風景」という言葉が使われなくなった気もします。また、「ランドスケープ」と言う言葉もよく聞きます。昔は、意図的に「景観」と「風景」を使い分けていたり、「ランドスケープ」も独語の「Landschaft」と使い分けていたりして、慎重に言葉を選んで使われていたのですが、大分お手軽に使われているなー、という感じです。「景観」は知っている人は分かると思いますが、生態学の分野でも地理学の分野でも使われます。ただし、ここでの「景観」とは一般に使われる「眺め」を指す「景観」とは異なるため、しばしば混乱が生じます。何で「景観」が流行っているのですかね?「景観」は分析的でやや人間味に欠けるような気もしますが。
2006年11月21日
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最近、電車に乗っていてやたら目に付くのが、携帯(電話もしくはゲーム機)でゲームを打つ姿とリュックを背負ったまま乗車している姿です。ほんの10数年前までは、電車に乗ったら他の乗客の迷惑にならないように、皆前で抱きかかえていたと思っていたのですが、最近は皆平気で背負ったまま乗車しています。「(特に)つり革につかまっているのなら、前に抱けよ!」と満員電車に乗ったときなんかはいらつきます。これが、若者だけではなく中高年層にも当てはまることであり、「最近の若者は・・・」と一概に言い切れないところに、意外に根深い問題があるように思います。電車の中では、他にも子供に座席を(ダッシュさせて)確保させたりするなど、大人たちが他の人たちに配慮しないで行動しているのです。騒音おばさんや異臭おじさんなどの事件を見ていると、電車という狭い空間だけの話にとどまっていない気がします。そういう大人たちの姿を見ている子供たちが、成長して大人になって同じことを繰り返していくたびに、その量も質も増幅していくのではないでしょうか。
2006年10月13日
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秋篠宮紀子さまが男子をお産みになったため、皇室典範が見送られるみたいですが、果たして見送ってしまっていいようなものでしょうか。安部官房長官は、「多くの国民からできれば賛同をいただける道が望ましい。」と言っているみたいですが、適切な判断を下せるような国民はどれだけいるのだろうか、と思ったりします。適切な判断力を持たない人の賛同を得たとしても、それがどれだけ将来も意味を持ちうるのだろうか、と思うのです。最近は何でも住民参加が取り入れらています(景観法とか)が、安直に住民参加を行うのもどうなのかな、とも思います。言葉は悪いですが、卑屈な行政の責任逃れにも受け取れるような気もするのです。もっと行政も誇りと責任を持って取り組んでもらいたいなー、と思ったりします(住民参加を否定するわけではありません)。
2006年09月08日
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昨日の高校野球大会決勝戦は、一昨日の試合と合わせて非常に見ごたえのあるいい試合でした。ピッチャーの2人には、高校生とは思えない逞しさを感じました。ここで、駒大苫小牧は負けてしまったわけですが、恐らく地元で負けたことを攻めるような無粋な人はいないと思います。一方、サッカーのW杯で負けた日本代表に対しては、監督批判も含めて多くの人が責めていたように思います。結果はどちらも「負け」であるのに。予選敗退と決勝まで進んだという違いもあるでしょうが、結果の出る過程が評価の差に現れたと言えます。特に日本人は、過程を重視する傾向があるような気がします。プロレスの観客がいい象徴で、日本ではいい技を出した選手には(それが悪役であろうとも)歓声を送りますが、アメリカでは贔屓の選手以外には歓声を送りません。ひたすらブーイングです。この傾向は、もしかしたら風景や空間づくりにも影響しているのではないか、と最近考えたりします。日本の、今現在高い評価を受けている風景に、一次産業の場(田畑や二次林、バナキュラーな集落)があります(最近は二次産業の場も評価されてきていますが)。これらは、当然ながら風景を作ろうと考えて生み出されたものではありません。大分前には、産業の安定している度合いを風景から読み取ろうとする考えもありました。しかし、最近はこれらの風景を生み出そう、としている動きのあるのが気になります。「風景とは、結果であり始まりであり、プロセスである」という言葉を聞いた事がありますが、まさにどこに重きを置くかで、出来上がる風景は異なってくると思うのです。(写真は、街路樹枡を設けたのだが、何も考えずに設置したため、現在は店の備品置き場となってしまったものです)
2006年08月22日
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既に乗り遅れた感がありますが、日本橋の景観については、色々と議論がなされているみたいです。一般的な論調としては、日本橋の景観を突貫工事で設けた首都高速道が阻害している、といったところだと思います。しかし、一方ではこんな意見もあったりして、一概に現在の景観が悪いとはいえない気がします。日本橋上の首都高速道をけしからん、と言っている人たちは、恐らく道路の象徴として日本橋を取り扱っている気がします(皇居より高い建物はけしからん、と言うのと同じ感覚か)。しかし、最近では「産業遺産」という考えもあり、首都高速なんかは正にこれに当てはまるのではなかろうかと思います。しかも、日本橋の上に首都高速が架けられてから既に40年がたち、首都高速のある日本橋が、もはや一般的な景観になっていることも否定できません。そのような中で、果たしていきなり首都高速が視界からなくなると、どのような景観になるのかは慎重に検討すべきではないでしょうか。首都高があるからこそ日本橋が注目される(周囲の建物からの視覚的隔離など)、といったことも充分考えられるような気がします。
2006年08月18日
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先日、深夜のドキュメンタリー番組で、現在の小学校で何が起こっているのかを紹介していました。学級崩壊とまではいかないまでも、子供たちは先生の目よりも友達の目を気にして、その結果勝手気ままな行動をとっていたりして、先生たちも大変だなー、とつくづく思いました。よく言われることですが、昔は地域で子育てをしていたと言われます。近所の商店街のおじさんと毎日ひと言ふた言会話するだけでも、近所に住むこうるさいおばさんにしょっちゅうどやされても、そこから社会のルールを何となく知ったりしたような気がします。プロ野球ではないけれども、あまりにも分業が進んでしまって、子供の教育についても「教師が悪い」だの「親が悪い」だの大人たちの責任のなすり合いになってしまっているのではないでしょうか。そうした時の一番の被害者は子供たちなのに。張りぼての「懐かしい風景(という固定観念の具現化)」をお台場などで見るのではなく、子供たちに、実体験に基づいた「懐かしさを感じさせる風景」を創出してあげることも大人たちの責務であり、そのためには地域全体で子供にどう向き合うかが大切なのではないか、と思ったりします。(最後の方は支離滅裂な論理になってしまった)
2006年08月04日
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先日、日経新聞でお台場がきれいな街の上位(確か1位)であると同時に、住みたくない街4位でもあった、という記事がありました。観光地には住みたくない、という意見もあると思いますが、それだけではない気がします。「きれい」と「美しい」の微妙なニュアンスの差異も気になるところですが、恐らく個人(自分自身)の範疇を超えた、強制的なきれいさを感じるのではないでしょうか。余りにも短期的に整備された街であるがために、生活するうえでの時間の流れとお台場での時間の流れの違いが住みたくない街、という評価に結びついているような気がします。街や地域を作り上げていく上で、時間というのは重要な要素だと思います。住宅の間取りなどでは、もうnLDKという概念は古いもので、時とともに間取りが変化できるようになってきていますが、それは街や地域にも当てはめて考えていかなければならないと思ったりするのです。といっても、従来の人口増に伴うハコ物整備だけの将来予想ではなく、住んでいる人が成長していく、人口構成や嗜好が変わっていくことを踏まえた地域づくりが重要な気がします。例えばオープンスペースの役割を時間軸で考えるなど。街や地域も生き物だという視点が必要なのではないでしょうか。
2006年07月29日
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サッカー日本代表の監督にオシム氏が就任した際に言った言葉が大分好評を得ているみたいです(マスコミの反応を全て鵜呑みにする必要はありませんが)。何か物事を進めていくときには何らかの計画をたててそれを実行していくものです。一般的に計画をたてる際には、現状認識(課題および特徴分析)が必須だと思っているのですが、今回初めてそうしたプロセスを踏まえて地に足のついたチーム作りをしてくれそうな予感はします(今までの監督が全く出来ていなかったのかどうかは知りませんが)。しかし、4年間という限られた時間と様々な制約条件のもとでPDCA(計画から実行・振り返りのサイクル)を行い、スタイルを確立していくのはなかなか難しいことだろうな、と素人ながら思います。4年といわずその後もずっと「日本スタイル」の確立を目指してほしいなー、と思います。
2006年07月24日
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先日、こちらのテレビ番組を観ていたところ、栃木県の那須に居を構えたフルート奏者の方を紹介していました。その方が言うには、那須の景色が留学していたイギリスの景色と似ているために移住した、とこのとでした。また、地元の住宅メーカーに対して、イギリスの住宅をモチーフにした住宅の提案をされていました。風景とイメージの関係は非常に密接に結びついており、特に短期滞在によって得られたイメージは、その場所から離れ、また時間の概念がないために、時として実際の風景よりも強固なものとなってきます(その結果、イギリスの暮らしが日本よりも優れている、と言う人もいたりします)。そのイメージと実際の生活風景との折り合いをどうつけるか、といったところも必要なのかなー。悩ましい。
2006年07月18日
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現在、小学校での英語学習について色々と議論が出てきているみたいです。真の国際化とは何ぞや?!といったところが共通した課題ではないかと思います。最近、帰国子女の学生さんが増えてきており、活発な活動をしているように見受けますが、果たしてどこかの英会話教室のように「異文化コミュニケーション」はできているのかな~と思ってしまうこともしばしばあります。話す相手(ガイジン)は自国の文化や歴史を知っているのですが、日本人は果たして文化や歴史を知っているのだろうか、と。ただ英語で話しているだけで、「文化」の域まで達していないのではないか、と思うのです。欧米の文化が優れていて日本の文化は劣っている、という言葉を鵜呑みにする人は少なくなっているとは思いますが、それでも依然として欧米文化にある種の劣等感を抱いている人も少なくないような気がします。知人で、アメリカの超有名大学(H大学)に留学した人に聞くと、そこの大学は有名であっても、実は大したことなくて、むしろ日本の大学の方が優れている点も多々ある、とのことでした(別に留学を否定しているわけではありません。一回は海外で暮らして外から日本を見るのもいい経験だと思います)。海外の学術雑誌を眺めていても、論述が稚拙(突っ込みどころ満載)な論文が多いと感じます(執筆者は自信満々だが)。海外に目を向ける前に、国内に目を向ける手順を取ったほうが、得るものが多いと思うのですが。(写真は日本の住宅地です)
2006年07月11日
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東京都などでは、民設公園制度を6月1日から施行するということで、早くも民間事業者が遊休地に適用しようとしています。ル・コルビュジェが提唱した都市づくりが実現されようとしている、という感じはします(具体的な内容はともかく)。超高層の建物を建設し緑を広く作る、というものです。しかし、公園の質については言及されておらず、民間任せなのかなー、という感じです。公園は作ればいい、というものではなくてどう使われるか(使ってもらうか)、が重要だと思います。せめて内容のチェックくらいは誰かが行うべきではないでしょうか。現在の公開空地やポケットパークを見ていると、おざなりに作られていて果たしてこれでいいのかな?と思うものがしばしばあります。建物を建てる際に行うようなリサーチも、公園を設置する時にも行って欲しいものです。何度読んでも色々と気づかせてくれます ↓パタン・ランゲージ
2006年06月27日
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先日、新聞記事にて「木陰が消える」という見出しで記事がありました。要するに、防犯上の理由から公園内の木を伐っていく、という内容でした。もう、「公園緑地」という言葉は死語になるかもしれません。街中のみどりは、色々な理由でなくなってきています。開発行為はもちろんのこと、先に述べた安全・安心の面や庭および施行技術の向上による建築物の隙間の喪失で、ちょっとしたみどりがなくなっています。とはいえ、やたらとみどりを増やせばいいか、というとどうかな、とも思います。都市再生の名のもとで作られた公開空地のみどりは、余りにも納まり良すぎて何となくテーマパーク的な雰囲気を感じてしまいますし、街路樹なんかも果たして何を期待して植樹したんだろう、と思うようなもの(剪定方法や植栽枡の形状などを見て)も多々あります。みどりは言うまでもなく生き物なんだから、余りにもきれいに納まっていると違和感を感じるし、みどりを思うがままに利用しているんだ、という人間の傲慢さが見え隠れしたりして、ちょっと居心地が悪くなってしまいます。生きていることを感じさせてくれるようなみどりが増えるといいなー(写真は瓦の隙間から生えていた雑草)。
2006年06月21日
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最近、堀江さんやら村上さんが色々話題になっていますが、例えば堀江さんが「株主の皆様ご迷惑おかけしました」などと言っているように、企業は株主のために動く、という認識で動いていると思われます。昔は、「お客様は神様です」というように、企業はお客のために動き、それが社会貢献になり(さらには文化を生み出し)、そうした動きを支援するために株主が株を買う、といった図式だったように思います。そのためであるならば企業が株主のために動くのは当然と言えますが、株主が企業を支援するというよりも個人(もしくは投資機関)の利潤のためだけに株を買う、というように前提が色々と変化してしまったために、あの手この手で金策に走るようになった(モノとお金が乖離してしまっている=バーチャルな経済活動)と思います。中学・高校の授業で株式の講義が行われている、と言うのを見ると何か違うような気がします。もっと、身近な生活の中で税金がどのように使われているのか、といった部分を重点的に教えないと、ますますバーチャルな経済活動に偏っていってしまうように思います。そうすると、本当に「風景」と言った時点で相手にされなくなるような時代になりやしないか、と危惧してしまうのです。
2006年06月17日
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「美しい景観を創る会」が選定している「悪い景観100選」というのが、一部の人の間では話題になっているそうです。ここで選ばれているものは各委員の方々が持ち寄ったものですので、統一の基準があるわけでもなく、「景観」の問題といっても、修景の話から社会構造の問題が景観として捉えられたものまで色々とあるので、一概にどうと言えるものでもないと思います(ただし、メンバーの顔ぶれを拝見すると、景観を追い求めてきた方は少数のような気もしますが)。ただし、今まで「景観」を語る人がその思想とともに大分「おさまり」を求めて、大人しかったのに対して、このように大々的にアジることは、世間の関心を寄せる意味で必要だとは思います。「美しい」「醜い」「良い」「悪い」といった総合的な評価は、時代と共に移り変わるものですので、形態として「美しい風景」を目指すよりも、「美しい風景、いい風景(○○な風景)を生み出そう」という共通した目標像を目指すような意識付けをしていくことの方が重要だと思います。もしかしたら、「美しい風景」でも世間には受け入れられないものもあるかもしれません(都市計画によって作られた都市がしばしば「つまらない」と言われるように)。繁華街のネオンも、美しくはないけど好きな人もいるはず。
2006年06月12日
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旭山動物園の奇跡を読みました。信念を持って動物園をつくり上げていく飼育係の方たちの真摯な行動に、心打たれました。なぜ旭山動物園がこれほど集客力があるのかというと、動物園は何をすべき場所なのか(お客に何を見せるべきなのか)をスタッフが理解しあった結果だと思います(まだ行ったことがないので、行ってみたい!)。動物の姿を見てもらうのではなく、動物の仕草や行動を見てもらおう、としたからこそ、集客したのだと思います。色々な事物を、そのもののあるべき姿にしてあげていくと、自然と人を惹きつける眺めになるのだと思います。
2006年06月07日
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先日、日経にこんな記事が出ていました。アメリカでは、ずいぶん(ウン十年)前からあるような、コミュニティ・アソシエイションのような地域管理だと思います。ここでふと思ったのですが、記事を読む限り地域管理に携わるのは住民だけみたいなのですが、これはこれで色々と厄介なことになるのではないでしょうか。まず、該当地域に対して行政組織は何をやるのかよく分からないところ。しかも会費を原則徴収させるということで、税金はどうするのかよく分かりません。税金も徴収して、なおかつ会費も徴収させて地域管理も任せる、としたら行政の存在意義がなくなってしまうのでは。次に、「住民参加」が素晴らしいように取り上げていますが、やはり所詮トーシローで(不適切な表現ですが)、時間が移り変わっていくうちに破綻をきたしてしまうのではないか、という危惧も出てきます。行政もしくは専門家が住民の中に入るようでないと、厳しいのではないでしょうか(住民参加ではなく行政参加)。産業と居住地域が結びついていた昔の集落であれば、住民だけでもうまく運営できたかもしれませんが、産業と居住地域が乖離している現在では、なかなかうまくいかないような気がします。最後に、「公共施設の維持・管理の権限と負担」とありますが、もっと最初の創造していくところから権限を持たせないと意味がなく、住民を都合のいいように使っているような気さえしてしまいます(計画・創造は行政の最後の砦?)。大事なことは、もっと行政でも住民でも「目利き」になる人を育てることではないでしょうか。いきなり「住民参加」で動かすのではなく。
2006年06月05日
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公共色彩に関する研究を行っている人と話していたとき、九段下のイタリア文化会館の色彩論争の話をしました。「あの色彩は一概に否定できない」という意見で一致しました。どうも「風景」を対象とすると、「あれも駄目、これも駄目」と規制するばかりのような気がする。もっと創造的なコントロールができないものかな、といった話をしました(ただし、創造と言ってもビルを作る、公共施設をつくるだけではなく、どういった風景を創るかといったものです)。デザインや色使いも、基本的なところは真剣にそこの場所を考えるかどうかだと思います。高層マンションを建設するにしても、それが地域にとって何なのか、どういった存在なのかをちゃんと考えた結果のマンションであれば、恐らく風景としても「おさまりのいい」ものになると思います。現在は、それが行政も民間事業者も住民も欠落しているのではないでしょうか。「アメリカ、ヨーロッパまんせー」とか言っている場合ではなく、もっと自分の住んでいる地域のことを(長期的視野で)ちゃんと考えれば、いつの時代にも対応しうる風景が生まれるような気がするのですが。
2006年06月03日
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先日、街中をぶらぶら歩いていたら写真のような建物を見ました。恐らく(というか絶対)、建築基準法の斜線制限による産物だと思うのですが、こうした形にしてまで高さのある建物を建てたいという施主と、日照権に重きを置いてきた行政(法制度)がせめぎあってできた形であり、そこにはゆとりが感じられません。人間でも、ゆとりのない人というのは、どこか見る人に不安感を与えてしまいがちだと思うのですが(あくまでも私見です)、それと同じことではないでしょうか。もっと色々なことを俯瞰できる余裕を持って行動したいし、行動してもらいたいですね。
2006年06月02日
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先日、久しぶりに都内の文化財庭園に行ってきました。そこでは相変わらず時間の流れが普段とは違い、のんびりと過ごせました。しかし、案の定周辺の建物が庭園の眺めと一緒に見えました。ここで、一概に庭園内から見えないように建築物の高さを規制することは、なかなか難しいようです。建物の形態と見え方次第では、建築物が見えたほうが好まれたりします(新宿御苑や浜離宮)。いっそのこと、「現代の庭園」と割り切って周辺の建築物をも眺めの中に取り込むような発想で、新たな「見立て」とかを生み出したら面白いような気が。
2006年05月29日
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最近、スポーツ選手やミュージシャンがよく「リスペクト」という言葉を使っているような気がします。なぜそこだけ英語なんだ、という話もありますが、何だか余りにも言葉が軽い気がするのは私だけでしょうか。「リスペクト」も尊重だか尊敬だかよく分かりませんが。本来、日本人には物事の重みを感じとる文化・能力があったように思います。物に命が宿る、自然を畏怖する、年寄りを敬う。。。日本語は擬態語が非常に多い、と言われており、微妙な表現の違いをちゃんと感じとり表現してきたのです。これはつまり物事を軽んじて見ていない証拠だと思います。ここの微妙な違いが欧米人には分からない、と言われます。また、そこの部分はなかなか言葉で説明できないものです。日本語を大切にすることは、風景を良くする第一歩のような気がするのですが。
2006年05月25日
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先日、遅ればせながら国家の品格を読んでしまいました。藤原先生の書籍は10年以上前から読んでいたので(若き数学者のアメリカ改版とか数学者の言葉ではなど)、なぜ今頃こんなに世間に受けているのだろうと思っていたのですが、他のエッセイとは全く異なり、大分過激にアジっているところが読み物として面白いかなー、と思いました。書いてあることは「従来の日本社会システムの良さを取り戻そう」といったようなところですが、私なりに考えると、つまりは誇り(や信念)を持って色々と動くことかなー、とか思いました。「孤高」というのはカッコいいけど、別に無理に孤高である必要もないかなー。建物作るのも、風景作る(?)のもフワフワと信念なく物まねばかりだと、恥ずかしくて子供たちの世代に顔向けできないっす。画像ありませんがお勧めです。 ↓品格なくして地域なし
2006年05月24日
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イタリアとかヨーロッパでは街に広場があったりします。そこで人々がくつろいだり、おしゃべりしたりと賑わいが生まれたりするらしいので(私は言ったことがないので聞いた話です)、日本でも広場を設けたりする動きがあるみたいです。しかし、どうも「作っとけばいいんだろ」的なものが多いような(もしくはお仕着せがましい設備過剰な)広場が多いような気がします。作りさえすればいいや、という気持ちで作られた広場と、本当に使う人のことを考えて作られた広場では、「何か(ケース・バイ・ケースでしょうが)」違うものを利用者は感じとるのではないでしょうか。
2006年05月16日
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インターネットやGIS(地理情報システム)など情報の過度な普及によって、最近「現物」に対する意識が希薄になったような気がします。風景を扱う専門家が、現地に行かないでGISや3Dシミュレーションで風景を見た気になったり、建築家がCADだけで建築物を建てた気になったり。極論かもしれませんが、日本の文化は基本的には「ものづくり」の文化であり、現物ありきで今まできたのではないか、と思います。アメリカなんかは、多民族国家なので情報が最重要なのかもしれませんが。情報処理も当然必要なのですが、基本的なところは見失いたくないものです。
2006年05月11日
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最近、文京区では公園緑地行政に関して不穏な動きが出ているらしく(詳しくはコチラ)、無力ではありますが何とかこの動きを阻止しようとしている団体もあります。もともと、文京区は緑の量(緑被率とか緑視率とかいいます)を東大に依存している、とも指摘されていたりしていました。こうした動きを見る限り、「何を」残していくのか、「何を」生み出していくのか、といった考えが短絡的かつ希薄と指摘されてもおかしくないような展開をしています。「『公』園」なのであって「『行政』園」ではないのですから。
2006年05月09日
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ゴールデンウィーク明けの今日は、皆の気持ちを代弁するかのように、東京は曇り空。昨日まで暖かかったのに、急に涼しくなってしまいました。まだ雨が降らないだけましですが、日本では雨が多いことも日本らしさのひとつ、と考えられています。確かに雨が降ると気持ちは滅入りますが、昔の人はそれも愛でていたとか。「五月雨」「時雨」なんて微妙なニュアンスの言葉使いをするのも、欧米とは違う感覚ではないでしょうか。ヨーロッパの人たちは、白夜などを愛でたりしているのでしょうか。画像ありませんがお勧めです ↓
2006年05月08日
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ゴールデンウィークは、千葉と埼玉にそれぞれ森林公園と河川敷に遊びに行きました。そこに行く途中、思ったほどではなかったのですが高速道路で渋滞に巻き込まれました。国民の休日が多くなるよりも、有給休暇をとるよう義務付けた方がありがたい気がするのですが。それとも、道州制の導入で「国民の休日」が減って「道民・州民の休日」が増えた方がいいかな。
2006年05月07日
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ここのところ、格闘技関係で一番の話題と言えば、桜庭和志選手のプライドからヒーローズ(K-1)への移籍ではないでしょうか。ファンや関係者の方々の反応は色々とあるみたいですが、最近の低迷からみれば、心機一転したい、というところではないかと思います。過去の色々な経緯もリセットするのも何となく理解できます。一般的な勤務形態での転職とはちょっと違うのですが、前向きな移籍であればよろしいのではないでしょうか。転職の自由を勘違いして、嫌なことがあればすぐ会社を辞めてしまう、といった最近の風潮と照らし合わせて、そんなことを思いました。
2006年05月06日
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何らかの成功を収めた人の言葉と言うのは、自分の生活において有益なことを含んでいると思っています。大分前の話ですが、リリー・フランキーさんがNHKの番組で「(イラストや絵本など色々な分野で活躍していることについて)メディアを限定して表現するのではない。表現したい事項にあわせてメディアを選んでいるのだ」といったようなことを言っていました。その後、若者の就職観に関しても「○○(たとえばイラストレーター)の仕事につきたい。ではなく、何かしたいことがあった上で、それに適した仕事を選ぶのではないか」とも言っていました。この言葉は、通常の業務を行ううえでも、風景を考えるうえでも(風景とは一種のメディアだと考えているので)常に意識していたいよなー。
2006年05月01日
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昨日、日本の松原を再生させようというシンポジウムがあったので、ちょっと参加しました。松というのは、日本人にとっては何だか重要な樹なのですが、どうもそれがなくなっているので、皆で何とかしましょう、と言う主旨のものでした。確かに松ほど日本人にいいように使われてきた樹木はないような木がします。皇居外苑では、荘厳さをかもし出すために用いられ、海岸では砂による害を防ぐために植えられ、と八面六臂の活躍ぶりをしています。さらには、盆栽や能の舞台でも。しかし、マツ林は生態学の人たちから言わせると、種の多様性がない、とかであまり評価されていない、という話もちらほら。
2006年04月29日
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先日、久しぶりに秋葉原に行きました。最近でこそ皆さん「アキバ」と呼ばれていますが、私が小さい頃は「あきば」と呼ぶ人は殆どいませんでした。逆に「あきば」と呼ぶ人は秋葉原の由来となっている秋葉神社から呼んでいたものと思われ、「通」のような感じでした。万世橋から駅(ラジオ会館)までは、業態が変わっただけで(電器屋からソフト屋)特に違和感はなかったのですが、再開発地区を見ると、大分違和感を覚えました。恐らく秋葉原は、本来集落であったからだろうと思います。最初は農村集落であり、その後闇市を経て、ちょっと前までは「電気街」という集落であり、現在は特定の趣味によって生まれた集落なんだろうと思います。それと計画的に作り出された再開発との違和感。秋葉原は集落であり続けてほしいなー。
2006年04月28日
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先日、たまたま都内の展望台から色々と街を眺める機会があり、色々とホケーっと眺めていました。ばかみたいですが、高いビルが並んでいるなーと実感しました(その高いビルの一つから眺めていたんですけど)。特に都市域では「ゾーニング」といって地域を機能ごとに分けよう(商業中心であったり住居中心であったり)と行政は取り組んでいるにも関わらず、結局できあがった風景は全くそれを感じさせないようなものとなっているなー、と改めて思いました。結構、しっかりとゾーニングしているような感じはするのですが、果たしてそれがうまく機能しているといえるのかどうか。計画をしっかりやるよりも、計画は適当にして、運用をしっかりやった方がいいような気がしたりしますが。
2006年04月27日
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大学院の修士2年生と話した時に、「就職活動が忙しい」と言って本分である研究をしていないようでした。当人は就職活動が一番なのは当たり前のように考えているみたいなのですが、大学院生とは本来研究をするために進学した人たちのことであって、研究が一番であるべきだろうと思います。採用する側の論理に余りにも振り回されてしまって、研究がおろそかになっているのは本末転倒であるし、研究を優先させたことを理由に落とすような企業の態度もどうかと思います(本当に落とすかどうか知りませんが)。最近は、文部科学省が大学院大学を掲げて、誰でも大学院に気軽に進学するようになりました。その結果、研究者としても普通の(と言っては失礼かもしれませんが)勤め人としても中途半端な人材を排出(輩出)しているような気がしてなりません。ゆとり教育の議論も色々ありますが、大学院のあり方も改めて考えてみる必要があるのではないか、と思います。産学連携もいいけれど、余りにも産業と結びつこうとしている風潮もどうかと思いますが。
2006年04月26日
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昨日、日本テレビの「歌スタ!!」を観ていました。ここの「ウタイビトハンター」の方々の歌に対するコメントは、歌に対してだけでなく風景(もっといえば、仕事全般)に対する心構えも示唆しているみたいで、なかなかためになる番組としてみていました。昨日は、素人が聴くと「うまいな~」と思う女性が歌っていたのですが、落選してしまいました。その理由について、審査員(ウタイビトハンター)が「テクニックだけつけてしまった。歌詞に感情をこめていない」みたいなことを言っていました。今の「景観」事業もこのようなところではないでしょうか。技術だけにとらわれているのではないか、と思います。もっと、本質的なところを見据えて色々と仕事していきたいなー。大変だろうけど。
2006年04月25日
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最近、若い衆たちと話していると、「あまり無駄なことはしないで効率よく動いていきたい」といったことを言っていました。何だか、若いうちからそんなことを考えているとは、悲しくなってきました。人生なんて、何が無駄なのか分からないのに。世の中に無駄なものはないのではないか、と思う今日この頃。
2006年04月24日
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先日、知り合いのヨーロッパ人と話していて、「風景」と「景観」は何が違うのか、という話になりました。彼はかなりの「エコ」キ○ガイでして、そういった偏見もあるでしょうが、彼曰く「『風景』は自然や緑のある眺めのことで、『景観』は街の眺めのことだ」と言っていました。日本では、一般的には「風景」は見る人の感情が入り、「景観」は科学的な捉え方といったところでしょうか。これは、自然を眺める対象と捉えている欧米(かなり乱暴ですが)の感覚と、自然と一体的に物事を考えると言う日本(アジア)の感覚の差だと感じました。欧米の人は森林が無くても生きていけるのに対して、日本は森林がないと生きていけないところから発生したような感じです。色々な空間作りの中で欧米の手法を模倣していたりしますが、そもそもの考え方から異なることを充分理解したうえで、日本独自の手法(いうならば「作庭記」と欧米の技法の融合?)を編み出せないかなー(編み出している人もいるかもしれませんが)、などと思いました。
2006年04月22日
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東京都における再開発事業も大分落ち着いてきた感じですが、そんな中、ここが本日オープンするそうです。うたい文句としては、「土地の記憶」の継承としています。最近、どんどん建築や造園といった限られた分野でしか使われていなかったような(ある種専門的な)言葉が、宣伝文句として使われているなー、と感じます(「ランドスケープ」「ランドマーク」「グラウンドデザイン」「景観」等々。そのうち「ゲニウス・ロキ」とか使われるか?)。知的好奇心をくすぐっているのか。しかし、「土地の記憶」に関する文を読んでもいまいちよく分からず、「で、結局時計を作っただけ?」みたいな感じです。地域の人にとっては精工舎の時計および工場がランドマークであり、シンボルであったと思われます。しかし、再開発した後に一番目立つのは高層マンションだけ。これならば、逆に「土地の記憶」などとは使わない方がまだいいような気もしますが。いっそのことマンションの上層部に時計をつけたりして。
2006年04月21日
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先日、家の近くの公園がリニューアルしたので、色々と見に行きました。すると、自転車通行用に園路が広がり、芝生広場が狭くなったと同時に芝生広場と園路を区切る偽木の柵が設けられていました。おそらく、園内での駅利用者による自転車通行が多くなったための措置だと思うのですが、一体誰のための公園なのかなー、と思います。駅利用者の自転車利用のために、純粋に公園利用をする人のスペースを削ってしまう、という何だか良く分からないことをやってしまう。子供たちの意見を何も聞かないで、大人の都合で公園を変えていってしまう。誰のための場所なのか、そこの場所の主役は誰なのか考えるべきだと思うのですが。画像ありませんがお勧めです。 ↓日本文化としての公園
2006年04月20日
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昨日、朝の「サンデーモーニング」という番組を見ていると、「今の若者は自己中心的で社会に関心がない」といったようなことが言われていました。確かに、自己中心的かなとは思いますが、社会に全く関心がないのか、というとちょっと違うような気もします。情報をあまりにも手軽に得ることができるために、社会の状況を余りにも体験せずに実感を持たないまま把握してしまっているために、バーチャルな世界のように捉えているのではなかろうか、と思ったりするのです。これは、「原風景」についても常に感じていることなのですが、「里山」や昭和30年代の下町が日本人の「原風景」のように言われていたりしますが、果たしてそうなのかなー、と思います。「原風景」とは何ぞや、という話もあるかと思いますが、自然の中で遊んだり下町で暮らしたことのない人たちが、田舎に行ったり台場○丁目商店街に行ったりして「懐かしい」といっている状況を見ると、ある種情報操作の恐ろしさも覚えます。大分昔に「一億総評論家」と揶揄された時期がありましたが、現在はまさにそれが揶揄ではない状態にある気がします。
2006年04月17日
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この季節になると、いつもの場所も普段とは違う雰囲気になっている気がします。つまり、街中では新入社員の方たちが、学校では新入生の方たちが希望に満ちた顔をして(中には違う人もいるだろうけど)いることが大きく影響を及ぼしているのだろうと思います。ここで翻って考えてみると、やはり風景や景観というのは、「モノ」だけではなく「人」も重要な要素なのだ、と思うのです。つまり、人の表情や使い方が別の人には風景として認識され、それがまたその場所の使い方などを変えていくのではないかとも思うのです。箱物中心だった(未だにその風習は強いところもありますが)公共事業や都市再生関連事業も、そこを改めて考えることは必要でしょう。
2006年04月16日
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今年は東京ディズニーランドの入場者数が若干減ったそうで。愛知万博にやや押されてしまったところでしょうか。ところで、ディズニーランドはいかにもアメリカ的な発想に基づいた空間だと思ったりします。まさにハリボテの世界。汚いものは蓋をして見えなくしてしまえ。アメリカではテレビでの暴力シーンに対する規制が(州によっても異なるでしょうが)日本よりも厳しいと聞きます(しかし、実際の暴力事件の件数や内容への効果はよく分かりませんが)。テーマパークは、全てを綺麗な非日常的空間を成立しよう、体験しようとするキャストとゲストの思惑が一致しているから、そうしたハリボテの世界が通用するのですが、実際の生活の場ではどうでしょうか。表参道のような場もありながら、新宿の思い出横丁のような場もあるからこそ、生活が楽しくなる。「生活する空間・風景」を大切に考えたいものです。
2006年04月14日
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今日街中を歩いていたら、ちょっと前の浜崎あゆみがかけていたようなサングラスをかけたカップルを見かけました(しかも2人もかけていた)。浜崎あゆみが着用する前だったら、これも個性なんだな、ということになりますが現在ではそれも個性とはいえなくなった気がします(当人たちは個性のつもりかもしれませんが)。つまり、ちょっと前では「個性的」と捉えられていた基準が、現在はスタンダードとなってしまっているからです。「個性の無個性化」といえるのではないでしょうか。最近、風景も何となく皆同じに見えたりします。それぞれ色々と工夫をされているのでしょうが、短絡的なデザインでは、すぐにそのデザインコードなどはスタンダードと化して、埋没してしまうではないでしょうか。もっと長期的視野にたったデザインが必要なのでは。
2006年04月13日
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「景観」というとどうも「修景」と勘違いし捉えてしまう人が、まだまだ多いように思えます。そう考えているうちは建物に装飾を施して満足してしまったりするのです。「景観」とは色々な要素が重なって出来る総合的なものであるのですから、そのような考えで「修景」されてしまうと、興ざめな景観が出来上がってしまうのです。「景観」とは何なのか、今一度考える必要があるのではないでしょうか。画像ありませんがお勧めです ↓景観の構造
2006年04月12日
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最近はそうでもなくなりましたが、何でも「エコ(ロジー)」とついていた時期がありました。しかし、何のためのエコなのかいまいちよく分からないまま、みんな「エコエコ」いっていたような気がします。「木を伐ってはいけない」「割り箸を使ってはいけない」などとひと昔前(もっと前?)は言われていたものです。「エコ」という言葉で、何となく環境を意識するようになった一方で、「なんだか一部の物好きな人たちが騒いでいるワイ」と感じた人もいたのではないでしょうか。そう感じてしまったら、何となく森とかも自分とは違う世界のもののように感じたりして。基本的に楽しめない環境問題対策は、どこか無理が生じて長続きしないのです。「エコ」よりは今はやりの「ロハス」の方がまだ素直な感じで受け入れやすいような。
2006年04月11日
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先日、出張で東北の某地方都市に行った時、冬でも遊べるようにという目的から設置されたと思われる屋内緑地公園を見学しました。中は意外に快適な空間となっていたのですが、残念なことにハム太郎がいました。別にハム太郎が悪いのではないのですが、恐らくハム太郎がいることによって、子供のいない若い世代にとっては排他的(入りづらい場所)に感じられるのではないでしょうか。普通の公園には間違ってもハム太郎は置かないのに、「屋内」になってしまうとキャラクターを置きたがるという古いイベント屋の性(さが)が出てしまったような気がします。子供は遊びの天才なのだから、もっと全体の雰囲気に合うような仕掛けでも、勝手に遊んでいるのに。。。また画像ありませんがお勧めです ↓偽装するニッポン
2006年04月10日
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最近、家の近くでは行政が全ての駐輪場を有料化したのですが、それに伴って正規の駐輪場に停めずに路上に自転車が停められるようになりました。見かけも非常に悪く、辞めて欲しいとは思うのですが、これを撤去している行政関連の人を見ると、税金の無駄使いとはここにも当てはまると思うのです。住民一人一人の心がけで、税金がよりよい地域づくりにまわせるようになったりします。「公共事業は税金の無駄使いだ」とか言う前に、自分の行動が税金を無駄に使わせているのではないか、考える必要もあると思うのです。
2006年04月09日
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