SARSの思い出 <序章>

SARSの思い出

SARS(Severe Acute Respiratory)、2003年に世界を震撼させたこの病気が香港で猛威をふるっていたころ、私達は仕事のために日本に帰ることもできず、多くの日本人が香港を去って行く中、いろんなニュースソースを集めて、自分達で見を守っていくしかありませんでした。特に、SARSの潜伏期間、いつどこでどのように感染するかもわからない状態で、無責任にも日本に帰り、10日間はどこかのホテルに身を潜めて、それから自分達の生活する場へ帰っていくことに、何の罪の意識も感じないのかと、疑問に思ったりもしていました。つまり10日間滞在しているホテルへの罪の意識です。自分の町、身内を守るために香港から戻ってきたことを隠して潜伏していた人も少なからずおられたことと思います。

しかし、帰国していくのは、駐在員の家族のみで、駐在員の多くは、その恐ろしい時期でさえ、広東省周辺の都市に出張ベースで出かけていたのも事実です。多くの日本人がSARSに感染するかもしれないという恐怖にさらされながらも、仕事をきちんとこなしていたのです。私達は仕事上、中国に行かなければならないこともありましたが、お客さんに充分説明して、危険地区への出張を減らすようにしていました。

そして、その後、日本政府は香港、中国、台湾地区への渡航勧告を出しました。つまり、私達も日本へ帰ることができなくなったわけです。その間もSARS感染者は増えつづけ、犠牲者の数もある時期までは増えていくばかりでした。医療関係の感染者、犠牲者が出たことは一番の恐怖でもありました。

毎日発表される感染者数、死亡者数 これを見ながら毎日ため息をついていました。そしてもう一つ、あるアパートで感染者が一人出ると、そのアパートの住民がしばらくの間外出禁止になるということです。自分のアパートに感染者が出ることを香港のみんなは恐れていたと思います。公共の乗り物の中ではみなマスクをはめ、手術用の不織布で作ったマスクが飛ぶように売れました。街角で10枚セットで売られていたりするのです。ピンクが欲しい、水色が欲しいと、マスク1枚でも少しでもかわいいのが欲しいと思ったりもしました。しかし、バスに乗るとみな全員がマスクをしていた様子はやはり恐怖でした。

さまざまなことがこの間にありました。そして、良い薬が発見され感染者よりも退院する人の数が増えてきた頃やっと香港人の顔に笑顔が戻りました。

このつらい数ヶ月のことを振り返って、どんな様子だったのかを、当時書いた日記や、その他の資料からデータベースの一つとして残していくつもりです。


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