ドラキュラ公への罠と中傷

ドラキュラ公への罠と中傷

 わずかな兵力でオスマン・トルコを退けた英雄ドラキュラ公は、その戦いから約四ヶ月後、一部の貴族達の反乱によってワラキアを追われる身となります。
当時ハンガリー王国の属領であったトランシルヴァニアに亡命したのです。
 反トルコ戦線の同盟ハンガリー王マチャーシュ・フニャディ・コルヴィヌス Matyas Corvinus (在位 1485~90)は、いったんヴラド(ドラキュラ)を受け入れ、庇護します。
ところが一ヶ月後には、トルコと内通したとして謀反の容疑で逮捕してしまいます。
 これは当時、マチューシュがローマ教皇から十字軍を組織するための軍資金をかなり支給されていたにもかかわらず、周辺諸国との勢力争いに熱心で、なかなか十字軍を組織しなかったことです。
 マチューシャは、ヴラドがトルコと内通していて十字軍の作戦計画に重大な支障があり、頓挫やむなしとしたかったからです。
 これに対して、対トルコに多大な貢献をしたヴラドの功績を考えると謀反など考えられず、各国から強い疑問の声が上がりました。
 ローマ教皇かや各国からの厳しい設問に対して、マチューシャはその逮捕の理由を述べた書簡を送り、ヴラドがトルコと内通した証拠が有るとした上に、日常的に行ったとされる数多くの残虐行為を並べ立て、彼の人格を中傷したのです。
 その残虐行為などを記した怪文書なる物が、ヨーロッパ一体に流布されることとなりました。
ヴラドが逮捕監禁されてから二年が経過していました。
政治宣伝パンフレットといえる物でしょう。
現在十四種が確認されています。


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