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little island walking,
七歩目/凪、
バイパスを行く車は、彼女のささいな企みに目もくれず行ってしまう。刈り入れのとっくにすんだ田んぼの先に、空の境目があった。その緑と青の間には、遠く国道十号線の街並が臨めた。ここはあちら側よりも騒々しくはない。渋滞もないし、学生のたまり場になるような店もない。車の流れる喧噪以外は、本当は静かなもので、しかし、車の音のために虫の声さえ掻き消されてしまう。通り過ぐべき場所なのだ。バスに乗り降りする人々も、ここになにかがあるからではなく、国道へ出るために、あるいはその近くの高校へ向かうがためにここで降りていく。ここに来るであろう人のために、バス停を動かしても罰は当たらない。あちら側へ行く人に、二十九歩の差はほんの些細な変化であり、祖母にしてみれば、大きな変化なのだ。
予定よりも五分遅れでやってきたバスに乗り込んで、前と同じように最後部に腰を落ち着かせた。バスが唸る。低い轟は、回転を速めて、力強い音になった。見慣れた景色が流れてゆく。「広原」でひとり老人が降りると、あとは優里ひとりだけの貸し切りになった。
ところどころに民家があり、店がある。広く閑散とした田んぼの緑は、小高い山にぶつかり、濃い木々の斜面が伸びている。不自然なほどにそのまん中を走る道は、どこか異様で、傲慢でもある。人間が作ったものが、こんなにも平然とつづいているのだ。そこをバスは当たり前のように走っていた。
「佐土原岐路」でボタンを押す。バスを降りて、岐路を下っていった。陸橋をくぐり、緩慢とつづくアスファルトを歩いていく。両側にはこの前とは変化のない畑があって、同じように先日の老夫婦がピーマンの収穫に勤しんでいる。おばさんが優里を見つけ「こんにちは」と笑顔を向けた。慌てて頭を下げ、そのまま通り過ぎていく。「緒方さんちの嫁さんの娘」だとは気づいていないようだった。
ようやく祖父母の家にたどり着くと、砂利を敷き詰めた庭に一台の車があった。角張ったデザインの軽自動車で、それが幸恵伯母のものだとすぐに分かった。母がそうするように、優里も勝手口を開ける。テレビの声がリビングから響く。確かめるように身を乗り出すと、そこには伯母がいた。
「伯母ちゃん」
声をかけると、幸恵は振り向いて、
「なんね。優里ちゃんやが、一人できたっつね?」
「うん、ばあちゃんおる?」
「おるよ。上がんない」
幸恵はそれだけ云うと、あとはだんまりで、テレビに目を向けるだけだ。土間に入り、居間に上がろうと靴を脱ぐ。
「足ちゃんとはたいてかい上がりないよ」
それは、釘をさすようなタイミングの言葉だった。
「子供は足汚れちょってん気にせんで上がるかいね」
云い方にいわれのない不快感を優里は持った。だがそれがどういったものなのか、理解できるべくもない。ただ子供扱いされていることに腹をたてているわけではないのだ。
幸恵は、寝起き姿のままという出で立ちだった。ジャージによれよれのシャツを着て、座椅子に坐っている。祖父のように陽に灼けた肌にはしみがあり、ゴツゴツとした指でせんべいの袋を開けていた。
「なんね」
呆と傍らで立ち尽くしていると、伯母が云った。
「ばあちゃんは……」
自然と語尾がすぼまり、消えてゆく。幸恵の態度が、少女を畏縮させる。
「部屋におるが」
短く応えた声には、疲れと、年齢がしみ出ていた。外見にもそれらは表れており、服装に無頓着な母ともちがう、がさつさを彼女に感じる。優里は愛想いいこと一言云えず、その場を早く去ろうと畳を踏んだ。
便所のある短い廊下を抜けると、八畳ほどのうす暗い部屋がある。そこが祖父母の部屋だ。角にありながら、北向きで、夕刻の強い西日しか入らない空間。そこには昔優里の父のために料理をした台所があって、けれどもとってつけたようなそれは、決して快適なものではなく、淋しい食卓を連想させる。そこに、今は祖父母が布団を敷いているのだ。
「優里やねえか、どんげしたっか?」
祖母は、幸恵伯母と同じくテレビを見ていたが、孫をみとめると嬉しそうに笑った。危なげな様子で、飯台に手をつき、思うように動かない右足をかばいながら立ち上がる。キッチンへ向かい、やかんに火を入れた。
「暇やったかい、遊びにきたとよ」
「そうねえ、待っちょきない、お茶煎るっかいね」
ゆっくりと手を動かす。急須に葉を入れ、湯呑みと茶碗を飯台に用意する。戸棚までよろよろと歩き、おかきの袋を取り出した。両の手で開けようとするがうまくいかない。代わりに優里が試みると、袋は簡単に開き、お米の焼けた良い匂いがした。
「一人でうちげにまじ来るようになったっちゃねえ。知らんうちに、まこち太ったもんやねえ」
「今日はバスで来たけど、今度はチャリンコで来てみるわ」
「ちゃりんこちなんや?」
「自転車のことよ」
「名前変わったっか?」
「違うと。うちらが云ってると」
「ほうか、ちゃりんこか。それで来るごつなったら、もう一人前やね」
祖母の声はいつものようにやわらかく、暖かみがあった。おっとりとしていて、「せわしくない」 たまにどうしてもこの声を聞きたくなる。ふだん家では母との会話しかない優里にとってこの声を聞くと、ふと安心できるような、落ち着けるような心地になるのだった。
「今度ね、三財のほうで祭があっとと」
「そうね?にぎやかでいいごたる」
「来年の三月とか四月とか云よったけど、いっしょに行こうやね」
「行きてえけんどんが、足が悪りかいよ、人込みはいかんわ」
「大丈夫やが。うちがおるかい」
「そうかあ、じゃったら連れってってもらおうかねえ」
湯が沸いて、祖母が立ち上がろうとしたのを制し、立ち上がる。火を止め、お湯を急須に注ぐと、湯気がもそっと立ち上がり、顔に熱を感じた。
お茶を注ぐ。茶碗と、湯呑みに、交互に、少しずつ、丁寧に注いでいく。母が教えたことをなぞるようにやった。同じ濃さのお茶ができあがり、葉が小さな世界を対流していた。
「丁寧に煎るっが。お母さんから教わったっか?」
頷くと、祖母は何度も「そうかあ」と呟き、ゆっくりと湯呑みを手にした。両の手で大事そうに湯呑みを包み込み、熱を確かめるように口元に持ってゆく。皮のゆるんだ喉がこくりと動く。小さく呼吸をした生き物のようだ。いったん湯呑みを口元から離し、また近付ける。今度は、大きく喉が鳴った。満足した顔をして、祖母は、飯台に湯呑みを置いた。
「うまいが。煎れ方じょうずやねえ」
なんとはなしの会話がつづいて、振り子時計が二時を打った。同時に外から聞こえて来たのは祖父の軽トラックだった。激しくドアの閉まる音がして、ざっくざっくと砂利を踏んでいる。足音が近づいてきて、部屋の西側にあるガラス戸に祖父が現れた。優里をみとめると、口をすぼめ、おおげさに驚いた、という顔して戸を引いた。
「なんかあ、また来たっつかあ?」
「ひとりで来たっと」
祖母が応える。
「まこか。バスに乗ってか?そりゃ太ったもんじゃねえ」
「こんくらい誰でんできるが」
祖母が新しい湯呑みを出して、茶を注いだ。手渡された祖父は、すっかりぬるくなってしまった茶を一気に飲み干して
「優里、箱作り手伝ってくれんか?胡瓜詰める箱がねえなっちょっとよ」
そう云った。「やる」と快活な返事をし、立ち上がる。
「ほうか、じゃあ頼むわ」
祖父は微笑みながら、咳をする。祖母が「薬ふったとか」と云うと、
「病気が入っちょってよ。もう持たんかもしれん」
そう答えた。
「なんね、じいちゃん病気やと?」
優里は「病気」という言葉に反応し、訊ねると、祖父が大袈裟に笑って
「あほ、胡瓜がよ」
孫の早とちりをたしなめた。
「そんげなこつ気にせんで早う外に出てこい。てげ箱あっど」
外へ出るためリビングに向かうと、そこにはまだテレビに呆けた幸恵の姿があった。
「なんね、帰ると?」
優里の立ち姿に気づいた伯母が云った。
「じいちゃんの手伝いしに」
「あんま遅くなるとお母さんが心配するが、早よ帰んない」
テレビから目を逸らさないままだ。「心配する」感情も微塵とない、そんな口調が、幸恵を近づきがたい存在にしてしまっている。この場をそそくさと去って、今度祖母の部屋に戻る時は、西側のガラス戸からにしようと、歩み始めたときだった。
「ほんと子供は暇やねえ。躾もしちょらんとくるし」
怒っているともない、淡々とした声がした。それはまぎれもない伯母のものだった。
「お邪魔しました」
くずれた声で、優里は云った。自分が何をしたというのか。伯母の言葉にはいちいち棘がある。この声を二度と聞きたくないと、思いを呑んで、彼女は足早にそこから逃げていった。
「どんげしたっか?目が赤けえが」
外に出ると、祖父は、今日収穫したばかりの胡瓜のコンテナを納屋へ運び入れている最中だった。
「別に、なんでもない」
目を擦ると、かすかな湿りがあった。泣いていたんだと気づき、雫を根こそぎ拭って、笑顔を祖父に向けた。
「ほうか、したら、納屋ん奥に箱があっかいよ、それをこっちん持ってきてくりよ」
コンテナをいつもの胡瓜を選り分ける機械の傍に運び終えると、祖父はとってつけたようなボロの木製の棚から大型のホッチキスを取り出した。それから、優里の膝丈ほどの台座を選り分け機械から少し離れたところに用意し、すべての準備を整えると、ズボンのポケットから煙草を取り出し火を点れた。一息吸って、白煙を吐き出すと激しく咳き込む。風邪を引いたときにさえ聞かない咳は、尋常さを失い、胸元に手を押さえ、発作がおさまるのを待つようにうずくまった。
「じいちゃん、大丈夫や?」
胡瓜を入れる段ボールの固まりを抱いていた優里が、祖父の元へ走りよる。段ボールが粗く鋪装されたコンクリの床に落ち、ぼとむ、と埃をあげた。
「大丈夫やが。薬ふったとき、ちいっとばかし吸ったかもしれんかいそれだけやが。いつもんこつよ」
ようやくおさまった発作に胸を撫で下ろす。まだ躯の違和感が残っているのだろう、名残りの咳が幾度かこぼれ、そのたびに顔を歪めるのだった。
「歳はいかん」
祖父は笑った。孫はこわばった表情を緩められない。「病院に行ったら?」「今日はもう休んだら?」何度も優里はそう云うのだが、祖父は「薬吸っただけやが」と笑顔をやめなかった。
「そんなこつより、ほら、箱作らんと。市場は待ってくれんとよ。胡瓜も待たんかいね、教えるかい、よう見ちょけよ」
たたまれていた段ボールを広げると、空間があって、底になる面を閉じるように、切れ目のある部分を折り畳んでいく。裏返して台座にかぶせると、大型ホッチキスを二発、隙間をつなぐように打つ。蓋の開いた箱がひとつできあがった。
「できた箱は近くに重ねていって、どんどん作ってくりよ」
折り目にしたがって段ボールを折る。底を台座にかぶせ、力を込めてホッチキスを打つ。厚紙を突き入る激しい音がひと箱に二発響いて、形になる。それをひとつひとつ重ねていく。単純な作業だが、珍しさもあって、優里は飽きもせずに箱を作り続けた。
一時間もするとできあがった箱は身長分の高さを三つほど作り上げていた。祖父のまわす胡瓜の選別機械は、小気味良く音を鳴らし、できあがった箱にビニルをひいて箱詰めされていく。体調が優れないせいか、何度も手を止めて煙草を吸う祖父は、そのたびに咳き込み、灰皿に吸い殻を投げ入れると再び丁寧な手付きで胡瓜を詰めていった。
「風邪やろか」
ぽつりと優里は云った。
「馬鹿云え。そんげ簡単に風邪ひくかよ。じゃから薬ふったかい、そんときにちと吸ったちゃが。若けころはこげなこつなかったけんどんが、すったり歳食って、いかんもんやわ」
祖父はそう云うと、低く、しわがれた声で笑った。
「笑いごとじゃないと」
「でん」
ひととおり笑った祖父が呟く。
「ゆりは優しいねえ。優里はじいちゃん好きか」
胡瓜を詰める手を止め、祖父は訊いた。選別する機械だけが、何も乗っていないのに空回りしている。カシャン、カシャンと、乾いた空気をふるわせて、あたりは静かな夕方だった。
「じいちゃんやもん、好そうに決まっちょるわ」
箱を作る手を止めず、新しい束の段ボールに取りかかる。括ってあるビニルテープをはさみで切り、ひとつ取って折り曲げ、金具を打つ。できあがった直方体は四つ目の塔に重ねられた。
「ほうかほうか、ゆりは優しいねえ」
「当たり前やが」
祖父は、優しい微笑みを浮かべた。皺の多い顔を歪めて笑っている。手を動かし始め、空だった選別機に胡瓜を乗せつづけた。カシャンカシャンと音がする。ぼとんぼとんと胡瓜が落ちる。選りすぐった野菜は、祖父の手により箱詰めされ、日本中に運ばれていく。それを誰かが食べる。食べた人が仕事をする。そのおかげで祖父がなにかを享受する。関係はぐるぐるまわっている。この選別機のように、ぐるぐるまわっている。
帰りのバスは、両手にお菓子と、胡瓜、ポケットに五百円を入れて、うとうととしていた。日没がだんだんと早くなっているようだ。太陽が西へ傾き、尾鈴山へ隠れようと顔を真っ赤に染めあげていた。夏の陽射しは、七時を過ぎてもしつこくて、子供達を泥だらけにした。けれども彼岸を過ぎれば人々の生活もいくぶん急ぎ足に見えて、秋の予感の風が窓から吹き込んできた。頬に感じる。つまらない日々の、微妙な変化。風の生ぬるさもやがて肌寒さに変わっていく。
祖父の咳き込む姿は、優里に一抹の不安をもたらした。人は誰しも死ぬものだ。それは分かっている。けれども四年前の伯父の死を、こと細かに覚えていない自分が、果たして親しい祖父の喪失に耐えられるのか、自分には自信がない。実感の伴わない経験は、経験ではなく、経過なのだ。祖父の死を、人の人たる証拠であり残されたものの悲しみだと云い切るには、優里はまだ幼過ぎた。
風がその不安を薙ぐように車窓から吹き込んでくる。あれは薬なのだ。農薬がきついものだとは知っている。だから体に少し支障をもたらしただけ、自分にも、祖父にも、祖母にも、母にも父にも、明日、きっとこの風が吹いている。そう自分に云い聞かせて、優里は安心を求めるのだった。
けれども、風は凪ぐのだ。
食事を済ませ、二つしかない民放のテレビチャンネルをなんども行き来していたときだった。母は茶碗を洗って、インスタントコーヒーをいれてダイニングテーブルの一角に腰を落ち着かせていた。
電話が鳴ったのは、時計が一度鐘を打ったあとだった。立ち上がり、母が受話器に手を伸ばす。「もしもし」と云ったあとすぐさま顔色の曇っていくのが分かった。
「幸恵さんね」
母は、明るい声を取り繕って云った。しかしその顔はすぐさま硬直し、そのまま電話を切った。
「優里、じいちゃんが倒れたって」
その言葉が、祖父の咳を思い起こさせる。あのとき、本当に祖父の体は悪くなっていて、薬を吸ったからではないのだと思い知った。もう少し、気を配っていればと思ったが、それで、祖父を助けられたわけでもなかった。
急いで身支度を済ませると、呼んでおいたタクシーに乗り込み、夜のバイパスを走っていく。父は、店を閉めてあとでやってくると電話で云った。みんながいきなり違う夜に巻き込まれ、日常から突き放されてしまったのだ。
いつも行き慣れた道路は、まるっきり違う世界になっていた。暗く、すれ違うヘッドライトは魂の沈黙のようだった。走れ、速く走れ、優里は思った。そして祖父が無事であるように、何度も胸の底で願った。
祖父母の家は煌々と灯りが点っていて静かだった。風も吹いていない。まわりは真っ暗闇で、生ぬるい温度があった。
勝手口から家に入り、幸恵を呼ぶが返事はない。靴を脱いで上がると中も静かで、誰もいないように思えた。
「みんな病院やろか?」
母は、病院の行き先も、なにも聞いていないようだった。このあとどうするべきか分からない。タクシーは待たせてあるが、それも病院が分からなくては無駄なことだった。
と、人影が現れた。祖母だ。
「ばあちゃん、おったとや」
祖母は、昼にも着ることのない、きっちりとした格好をしていた。紺のスラックスに、鼠色のチョッキを羽織って猫背がよく目立つ。落ち着いた表情で親子を見つめ、小さく頷いた。
「じいちゃんはどこに運ばれたと?」
「幸恵さんが車で連れていったけんどん、救急病院やと思うが」
祖母の言葉には抑揚がなかった。祖父の容態が不安に違いない。それでも淡々と祖父の倒れたときの様子を語った。咳き込んでいた祖父は、幸恵の忠告にも関わらず、晩酌をした。しばらくはなんの変化も見あたらなかったが、急に苦しみだし、倒れて意識がなくなったのだという。
「そしたら、病院行くから、タクシーに乗るよ」
母が云って祖母の遅い足取りを助けようと手をとると、祖母は「行かない」と応えた。
「なんで」
「なんででん」
「ほんじゃけんどん」
「美樹子が行って様子を連絡してくりよ。うちはここで待っちょくかい」
母は、頑に首を振る祖母に折れ、優里を留守番として残し、タクシーに乗り込んだ。
「連絡すっかいお父さん来たら教えてよ」
砂利を蹴るタイヤの音が鳴り、庭を出ていく車の背中を見送る。居間へ戻ると、祖母はもとから小さかった体を畳むように坐していた。
「ばあちゃん、いいと?行かんでも」
対面に腰を落とし、優里は訊いた。
「行かんほうがいいと」
「なんで?じいちゃんやじ?」
「なんででん」
「今からタクシー呼ぶかい」
「いっちゃが、うちはここで待つかい」
「でも」
「ゆり、ばあちゃんを困らせんでくれ」
そこまで云うと、祖母はもうなにも答えようとしなかった。優里の体が固まる。祖母の姿を見る。猫背がさらに小さくまとまって、凝っとテーブルの一角を見遣っていた。これが彼女の心の表現であると、ぼんやりと気づいた。自分よりも誰よりも、祖母の不安は深いところで抑えられているのだと思うと力が抜けた。虫が静けさを誇張する。脱力感にとらわれてしゃがみ込むと、畳の冷たい感触が衣服を通して伝わってくる。今までにない沈黙の空間が呼吸のひとつひとつをはっきりと感じさせる。なにもできずに、優里は静かに時間の経過を待ち続けた。
そうかもしれない。祖母は、祖父の死を覚悟しているのだ。だからこそ、服を着替え、急ぐわけでもなく、そのときがやってくるのを家で待っているのだ。それが祖母の覚悟なのだと知った。その瞬間を看取るのではなく、想う。想うことこそ、長年連れ添って来た夫に対する妻の姿勢なのだ。
電話が鳴った。母からだととっさに受話器を取る。
「優里や?」
電話の向こうは母の声以外、なにも聞こえない。もう病院にいるのだろう。
「ばあちゃんは、どんげしちょる?」
「そばにおるよ」
「そうね。じいちゃんね、なんとか大丈夫だって」
優里はほっとした胸を撫で下ろし、
「ばあちゃん、大丈夫って」
そう云った。明るい口調が、祖母を安堵させたのか、小さくしていた体を緩め、天井を見る。「そうか」とだけ呟くと、大きくため息をついた。
「ちょっと優里、聞いちょる?」
受話器から母の声がする。
「でもまだじいちゃん、絶対安静で、これからどうなるかも分からんて」
母の言葉はいったん落ち着いた気持ちをふたたび落胆させた。
「とにかく、ばあちゃんには今んところ大丈夫って云っちょってよ、もうじきお父さんそっちに来るから一緒に来ない。西都ん救急病院やから」
「分かった」
受話器を置いてしばらくすると父がやってきた。祖母を支えながら車に乗り込んで、病院へ向かう。病室には母と幸恵とがベッドに横たわる祖父を挟んで、なにやら会話をしていたが、三人を認めると、幸恵が「悪ねえ、遅くに」と呟いた。
「どんげやとや?」父が訊く。
「うん、薬効いて今眠っちょる」
「そうや」
「でん、いつも云よったとん、薬ふったときに、酒呑んでよ。まこち、歳やち分かっちょるとん。迷惑かかるって考えちょらんとやろか」
幸恵は祖父の眠る布団の皺を伸ばす。優里から見ても荒い仕草で、しかし、誰も彼女をとがめようとはしなかった。
祖父は眠っている。その傍で、なにも云わずに祖母は夫の表情を見つめていた。良かったとも、ほっとしたとも見えない彼女の顔色を優里は探れなかった。
祖母を家に帰し、その足で、家族は家に戻った。スイッチを入れて、真っ暗のリビングに灯りを点す。母は、どっと疲れた体をソファに投げ出した。父は、ダイニングでコーヒーをいれながら煙草を吸っている。会話もなにもない、暗い一家全員集合だ。いたたまれなくて、優里はふたたび外に出た。
バス停まで行く。小幅の足取りも虚ろで、何歩歩いたかも分からない。バイパスを走る車は相変わらずで、いつもと同じスピードで行き交っている。バス停までたどり着くと、優里は標識を動かした。もしかしたら、祖母がやってくる日もそう遠くはないかもしれない。急いでこの企みを完成させなくてはならないのだ。その日が来ないでほしいとも願う。祖母が我が家へ来る日は、喪失を意味する。その不安を、風は拭ってはくれなかった。
容態が安定したと聞いた。母と一緒に見舞いに行くためバスに乗り、いつも降りる「佐土原岐路」を通過する。その道のりの途中で、優里は見慣れないものを見つけた。岐路の手前の、ゆるやかなカーブに沿って、電信柱が幾本も連なっている。巨人のように、それらは佇んでいるが、奥の方には小高い山が広がっている。その一部分が削られているのだ。木々の緑もすべて伐採され、味気ない地肌が露出している様子は、なにかもの寒い感覚を呼び起こす。ショベルカーがそばにあって、なにかの工事が始まるようだった。祖父が入院している間にも、町は少しずつ変化しているものだと、優里は思った。
終点「西都営業所」まで腰をそわそわさせた。西都市内でいちばん大きな市街地ではあるが、すっかり寂れてしまって、日曜日にも関わらず、通りに人を見かけることも少ない。やってこない客を待つ店の扉が、呆けた口のようにぽっかりと開いていて、なにもかもを吸い付くそうとばかりに馬鹿げた雰囲気を漂わせている。その通りを過ぎ、ひたすら歩く。市役所前の公園のベンチで、二、三人の中学生が暇を弄んでいる。のんびりとは云えない、怠惰な空気が流れている。そこも通り過ぎると、「ビデオレンタル西都」と掠れた看板のある店鋪に出くわした。もう営業してもいい時刻であるのに、シャッターが降りており、「貸店舗」というはり紙が風に吹かれていた。
「この店、もうないっちゃね」
「不景気やからね」
母が、先を歩く。もう長いこと歩いたが、まだ病院は見えてこない。中華料理店を過ぎ、クリーニング屋も通り過ぎる。やがて焼肉食べ放題の看板のある、この町にしてはやたら客を吸い込む店鋪が見えたとき、祖父の入院している病院を見つけることができた。
病室を覗くと、四人部屋の手前に祖父が横になっていた。優里たちを認める。無表情が瞬間にして明るくなり、「来たっか」としわがれた声を出した。
「どんげね?ちったいいや?」
「ぼちぼちよ。なんか優里も来てくれたとか。ほうかほうか。おっきんねえ」
優里は、横たわる祖父に、近づくことができなかった。笑顔を向けてくれるその姿がどこか異様にさえ思えてしまう。いつも見知った重い荷物を運ぶ祖父の面影が微塵もない。すっかり衰えた感のある笑顔だ。戸惑いを隠せずにおろおろしている優里の背中を、母が押す。一歩前に踏み出すと、祖父が手を差し伸べて来た。
「元気にしちょったか」
「うちは元気に決まっちょるが。じいちゃんやろ?」
「まこねえ」
祖父は笑う。差し伸べた手に、優里は自分の手を近づける。そっと触れた感触は意外にも温かく、しかし痩せ衰えた感をいっそう強めさせた。その手を、自分の手でやんわりと握りしめた。
「幸恵さんは今日は来たと?」
母が訊いた。
「うんにゃ、仕事やかい来るかよ。おととい着替えを持ってきたばかりやわ」
「ばあちゃんは?」
「足が悪いかいね」
祖父は窓を見遣った。殺風景な木々の緑が、日陰に覆われて、うす暗い湿度を思わせる。窓の手前には、空きベッドがあり、しわひとつないぴっしりとしたシーツに空虚感を漂わせていた。
「早く退院せんといかんよ」
視線を親子に戻した祖父に、優里が云った。
「胡瓜も畑で育ちよるはずよ」
「分かっちょる。分かっちょるけんどんが、今回はさすがにいかんち思ったわ」
それは、孫に見せた初めての弱さだった。祖父は、生と死の境を経験し、誰かに弱音をもらしたかっただけに過ぎないのだが、その初めての感情に、孫はなにも言葉を見つけだせずにいた。しばらくの沈黙が病室を支配する。何を云えば良いのか、優里には分からない。
「まこねえ」
沈黙を破るように母が云った。
「来年には優里も中学生やかいよ、それまで元気にしてもらわんといかんがね。ねえ?」
母は娘を見た。再び短い沈黙が訪れて、廊下を走る車椅子の音がきゅるきゅると鳴っている。優里は、ただ「うん」と云うだけではなにか物足りない気がして、
「そうやじ、じいちゃん。入学したらお祝いたくさんもらわんといかんちゃかいね」
そう云った。娘の言葉に母が小さく声をたてて笑う。釣られたのか、祖父までも声を出して笑っていた。
「まこねえ。大丈夫やが。すぐに元気になってよ、鞄も雨合羽も儂が買うちゃっかい。ちゃんと待っちょけよ」
病院を出て、焼肉屋に入った。薄く切られた肉は、火の通りが早過ぎてすぐに焦がしてしまう。母とのいつものやりとり。父はいない。そうした優里にとっての当たり前が、今日はなぜか胸の空洞を掘り起こす。祖父と、祖母とのにぎやかな食事も、もうかなわないかも知れない。二人だけで食べる焼肉は、どうしてもしょぼくれた味にしかならなかった。
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