little island walking,

little island walking,

ふりだし/泣き声、


 祖母の姿は、朝のそれとは違い、しゃんとしていた。気丈な態度で背筋を伸ばし、手は膝について、何度も頭を下げていた。長男、土寛の葬儀のときもそうしていた。まるで、自分を律するかのような態度だった。
「それにしても」
 母が、式場の様子を見ながら呟いた。
「土寛伯父さんのときは、てげな人で溢れかえっちょったとん、じいちゃんのときは、親戚と近所ん人しかおらん。伯父さんがおらんてだけで、人はころっと態度を変えて。空しいもんやねえ」
「葬式んとき、てげ人多かったの覚えてる」
「あんげ市議会だなんだって人が来たとに、用がないと、同じ家でん、こんげ変わるっちゃね。のさんこっちゃ。土寛伯父さんが生きちょれば、今日もぎょうさん人が来たっちゃろうけんね」
 前に見た、浮舟城から出ていく人々の絵を思い出す。状況は違えど、これもあの絵と同じなのだと知った。人の死の重さはなんら違わないというのに、人々は、利か損かで態度を変えてしまう。土寛伯父が死んだときは、彼の人柄と信頼が多くの人を呼んだ。だが、土寛がいない今、緒方家へ弔いに来る利などないのである。それは生きている人間の勝手である。それが人間の本当であるのだ。優里は感覚的にそう気づいた。それがひどいことであると思う。思うが、自分に何ができるだろう? ただ、祖父が箱に収まっているのを見つめるしかないのだ。あんなにも気丈にふるまっている祖母を、見守るしかないのだ。
 坊さんがやってきたというので、皆が式場に並んだ。まだ若々しい男で、神妙な顔つきが嘘らしく見えた。優里は正座に慣れておらず、痺れを堪えながら他の大人と同様に頭を垂れ、時間が過ぎていくのを淡々と待ち続けた。意味の分からないこの音が、果たして祖父に届くのか疑問だ。「馬の耳に念仏」というのなら、自分は馬なのかもしれない、そう思った。祖母もまたうなだれて、経の流れのままに身をゆだねている。すべての哀しみを、この経が拭い去ってくれればいいと優里は願った。

 坊さんが家を去っていき、しばらくすると孝之と敬孝伯父がやってきた。母方の親戚は、それが初めてだった。優里の母が挨拶に行き、お互いに頭を下げる。焼香をあげると孝之は優里を見つけて近寄ってきた。
「なんか、突然やったな」
 孝之が云った。
「孝之こそ、なんで来たと?」
「だって、そりゃ、親戚やし、じいちゃんが行くなら俺も行こうかってことになって」
「そう。ありがとう」
 孝之は、彼女の隣に腰を下ろし、いっしょに祖父の遺影を見つめた。人の波はどんどん減ってゆき、血の近い親戚だけが残るようになったころだ。しずかなざわめきは増幅してゆき、柩の上の灯りがかすかに揺れていた。
「孝之、外へ行こう」
 優里は立ち上がった。孝之も後についていく。子供ふたりが外へ向かうのを、だれも気づかなかった。外は、つめたい木枯らしが吹き渡り、急激に体の熱を奪っていった。
 納屋に入る。真っ暗やみの中、少年と、少女が立つ。灯りを求めて優里がスイッチを押すと、そこはバスが夜を走っている、そのうす明るさだった。かすかな異臭が鼻につく。確かめると、箱に詰められずコンテナに置かれたままの胡瓜が腐っていた。祖父が入院して以来、そのままに捨て置かれたものだ。瑞々しさなど、とうの昔に失って、小さな羽虫が飛び交っている。孝之が「汚い」と呟いて、納屋の外へ出ようとする。それを引き止めて、優里は云った。
「ここ、じいちゃんの仕事場やったとよ」
 孝之はふっと力を抜き、その場に立ち尽くす。言葉を探しているようだったが、なにも発せられることはなかった。
「じいちゃんが入院してから、そのまんまやったっちゃね」
 この胡瓜たちは、ぐるぐるまわるはずの関係だったのに、祖父の不在によりかなわなかったものだ。誰かが箱に詰めて出荷しなければ、こうやって食卓にも並べられず腐ってしまうのだ。それでもスーパーの胡瓜が不足することはなかったし、誰も祖父の胡瓜の存在など気にすることもないのだ。
「じいちゃんがいなくて、みんな忘れられていたっちゃろうね。」
 淋しい光景だった。打ち捨てられて誰も見向きもしない。こんなに異臭を放ち、存在を訴えていたのに。それが淋しかった。
「俺さあ」
 そう呟いたのは孝之だった。うつむいて、粗いコンクリの地面を見つめている。窓際の背中を彷佛とさせる暗い口調だった。
「前に、警察に捕まったことがあったと」
 唐突な告白だった。何を云おうとしているのか、優里には分からず、今度は自分が黙る方だった。
「今考えると、なんであんげなことしたのか自分でも分からん。でもそうしないと自分が壊れる気がしたと。ずうっと何かを押し込んで押し込んで、そしたらぽっと体が動いてたとよ。理由なんてないと」
 何をしたのか、彼女は訊けなかった。黙って孝之の話を聞かなくてはならないという気持ちだけが先を走り、納屋の外から通夜の異様に明るい雰囲気が伝わってくるのを感じていた。
「いつも学校や、どこかで、その輪っかのなかに入って、なんも気にせずに笑っているやつがうらやましかったと。俺はそれもできんで、祭の稽古んときでも、いつでも、うらやましかったとよ」
 彼の横顔は、稽古のときに見せた無表情と同じだった。他の子供たちが小さな集団を作り上げているときに、彼だけが独りだった。その「理由」がここにあるのかもしれない。敬孝が云った「内向の世代」という言葉を思い出す。その意味が孝之にあてはまるとしたら、最近巷をにぎわせる子供たちの事件も、「理由」なんてたいしたものではなく、ぐるぐるまわる関係に乗れなくて、ただ体がそうしているに過ぎないことなのかもしれない。
「俺は、ここにある胡瓜と同じよ」
 人間もそうだ。ぐるぐるまわる関係に収まらなくては、打ち捨てられ、胡瓜とおなじく腐っていくだけである。必要のないもの、必要とされないものは、はじき出され、存在を忘れられ、腐っていく。その一端が、ここにあるのだった。人はそれを恐れて、ときどき「叛乱」する。その結果、孝之は警察に捕まり、自分を出せないまま枠に収まっているのだ。
「でも」
 孝之は続けた。
「あんとき、優里、が、来て、本当に……」
 そのまま言葉を呑む。また異様な明るさが納屋まで伝わってくる。冷たい空気が入り込み、細胞のひとつひとつを収縮させていく。負けじと体から熱を発し始め、優里の頬は紅潮していった。
「孝之?」
 優里が云う。
「自分のこと、好きになれる?」
 ふっと緩めた表情から、笑顔がこぼれた。最期に祖父に見せたかった笑顔だ。この笑顔を、これから生きていく人に見せたいと思った。孝之はうつむいていた顔を上げ、彼女を見つめる。これまでのような影からの視線ではなく、まっすぐに優里を見つめている。視線と視線はしっかりと繋がって、はずれることはなかった。強い結びつきのなかで、優里は、初めて孝之の顔をきちんと見た。一重の瞼の奥に、黒く透き通る瞳があった。少ない灯りを吸い込んで、それは輝いていた。その瞳もまた、初めてしっかりと見つめた彼女の姿を映し出し、向けられた笑顔に呼応して、孝之の表情からも同じ笑顔がこぼれた。
「うん、努力するよ」

 小さな炎が、刈り入れの済んだ田んぼに灯る。ふたりで運んだ大きなコンテナの中には、腐りかけていた胡瓜の山があった。それを少しずつ、炎のなかに焼べていく。水分を含んだ胡瓜たちは、長い間くすぶっていて、それでも蒸発してしまったあとのへなへなが黄色を帯び、燃えていった。熱が、優里の顔を襲ってくる。隣にならぶ孝之も同じで、顔をしかめていた。空になったコンテナと、山になった炎を交互に見遣る。暗闇でよくは見えないが、煙は確かに、深くて大きな空へ昇っていった。

 翌日の葬儀には、鉛色の空から冷たい雨が降り注いでいた。県外から帰ってきた親戚を除いて、あとは昨晩と変わらない顔ぶれだった。一睡もしていない祖母はそれでも気丈な態度そのままで、喪主の席にしっかりと坐っていた。
 経を読む坊さんがやってくる。昨晩とは違う老年の男だ。柩の前に坐し、一度、遺影を凝とながめ、それから低く太い声で詠っていく。浮遊感が漂う。優里の体がふわふわとし始め、どこかこことは違う世界に導かれていくかのようだった。
 昨晩の間の抜けようとは違う、深い振動をもたらしている。圧倒的な光の影だ。上下左右の感覚が曖昧で、有象無象すべてが内包され、遠い光の源に祖父の姿が浮かぶ。丈夫な体つきと、土臭い笑顔だ。胡瓜を箱に詰め、いくつも重ねている。ぐるぐるまわる関係に瑞々しい胡瓜を乗せていくため、祖父は働いているのだ。ふと、優里の存在に気づくと、とびっきりの笑顔を見せてくれた。しわが寄り、刻まれた年輪を垣間見せている。やがて祖父の姿は勢いよく自分の方へと近づいてきて、そのまま通り過ぎて消えていった。
 優里はその先にあるのが、きっと「上」の世界だと思う。「上」の世界へ祖父は向かったのだ。
 つ、と涙が一滴伝っている。さまざまに感情を内包した涙だ。すうっと体が軽くなって、祖父はただ死んだのではない、旅立ったのだと思うことができた。
 各々が焼香を済ませていく。優里と母の番になって、柩の元へ向かう。遺影の前に坐し、瞳を合わせた。モノクロの、粗い写真だった。けれどもまっすぐに見つめるその視線は、生き生きとしていて、快活な祖父の姿をきちんと表していた。丁寧に焼香をあげ、掌を合わせる。長い瞑目。瞳を開けるとやはり祖父はきちんと写真の枠に収まっていた。この遺影も、やがて息子の隣に並ぶのだ。
 柩が抱えられて、祖父のまわりに溢れかえるほどの花々が飾られていく。朝のうちに集めておいた、多くの爪や髪の毛を添え、祖母が最後に花を置き、蓋は閉じられた。
「もう最期やかいね、お別れやかいね」
 母が大きな声で泣いている。男たちの抱えた柩に寄り掛かり、何度も嗚咽をもらしている。その傍らで祖母はなにも云わずにことの流れを見守っていた。瞳がかすかに赤い。腫れぼったい目を幾度も瞬かせながら、危なげな足取りで喪主の席に戻り坐り込んだ。
 けたたましく金槌の打たれる音が響く。釘の頭がどんどん埋められていき、祖父の一生は閉じ込められてしまった。親戚たちによって、柩は外へと運ばれていく。祖母だけが残されて、夫が家を出ていくのを見遣っていた。霊柩車が待っている。扉が開いている。柩が中へゆっくりと運ばれていき、扉は閉められた。ふと、優里の耳に泣き声が聞こえてくる。振り返ると祖母が泣いていた。人目もはばからずに声をあげて泣いているのだ。
「今だけ、今だけ許してくりよ。今だけ許してくり」
 何度もそう云って、気丈な態度の面影もなく、体を小さくして弱々しい声で泣いていた。今まで、どんなにこうやって泣きたい衝動を抑えていたのだろう。優里は慰め方も知らずに、ただただ見守るしかできない。祖母の突然の衝動に、母はおろか、父も、幸恵さえも涙を落としていた。優里もどうしようもない感情そのままに泣いた。ひとりの息子に先立たれ、夫をも亡くした哀しみが、辺り一帯に沈みこみ、陰鬱な雨のなかで堆積していくのを優里は感じた。
 クラクションがひと鳴りして、霊柩車が出発する。祖父の最後のひと声だ。田畑に囲まれた広大な土地を進み、カーブを流れていく。流れていって、祖父の背中はそのまま見えなくなった。次に帰ってくるのは、灰となった小さな面影だけである。


 その晩、自分の家に帰ってきた優里は、寒風に揺られながらバス停の前に佇んでいた。もう小一時間もそうしている。朝から止まない小雨が、優里をしっとりと濡らす。寒さにうち震えながら、体を縮こませ、ようやく体温を保っていた。今日あった葬儀を思い出す。祖母の涙が色濃く蘇ってくる。あの家にいた者たちはどんどん去っていき、最後には伯母だけが残るのだろう。そうなったら父には、いま住む我が家をおいて帰るべき家は無くなってしまう。仏間にある家族の遺影と、西側の、祖父母の部屋だけが面影を残すばかりで、あとは他人の家になってしまう気がした。かろうじて、祖母という存在がある。しかし、その祖母もいつか近いうちに夫を追うことになるのだろう。それまでに自分ができることをしなければならない、と、優里は思う。そのひとつがバス停の移動だった。だが、これさえも、実際に役立つのかどうか分からない。我が家へ連れていこうとする企みも無駄に終わるかもしれないし、たとえそうなったとしてもバスという祖母にとって不便なものを利用することがあるのか。優里は、これも「叛乱」だと思った。自分のどうにもできない気持ちを形にするために、体が動き、はっきりとしない理由でやっているだけだと。孝之が自分を表現するためにやってしまったことと、今、自分がしていることに、なんの差があるのだろうか。あるとすれば孝之は自己の存在のために、自分は祖母の存在のために、という点である。だが、優里の企みも突き詰めていけば己の我に過ぎない。それでも、と、優里は小さな頭で考える。自分ができることは、こうしてバス停を動かして、祖母の安息がやってくるのを待つだけなのだ。
 すっくと立ち直し、優里はバス停を掴んだ。わずかばかり傾けて、重しの角を、回転させていく。ごとん、ごとん、バス停は鈍い動きで前進を始めた。ここから玄関まで十六歩の距離がある。その半分をいっきに縮めてしまおうと優里は決意した。祖父がいなくなり、祖母は独りである。もし、我が家へやってくるというのなら、遠い話ではない気がするのだ。その前にこの企みを完成させなくてはならない。無駄に終わるかもしれないと知っていても、優里自身の体がそうしろと叫んでいるのだ。がたん、がたん、バス停がステップを踏んでいく。優里の添えた手をたよりに、玄関へと近づいていく。一歩、二歩、三歩、バス停は、確実に二十九歩目のゴールへ向かっていった。
 雨は止まない。短調の音色をあげて降りつづいている。優里はベッドに入り、残り八歩分の攻略を考えていた。いきなりの大移動にどれだけの人が気づくだろうか?だが、今まで、孝之が動かしたときも、自分が移動したときも気づかれずにそのままだった。失敗を恐れていては、山は動かない。ならばその先のことを、と考える。考えがまとまらないうちに、優里はいつしか眠りについていた。
 夢を見る。祖父母がバスから降りて、我が家へやってくる風景だ。しかしバス停から歩いても、行けども行けども玄関までたどり着かない。とっくに二十九歩は歩いているはずなのに、優里の体はまったくバス停から離れていなかった。祖父母だけが先へと向かっている。その先には、優里の家ではなく、祖父母の住む勝手口だった。引き戸を開けると、優里の父がいた。隣に土寛もいる。笑いながら両親を迎え入れている。「待って」と叫んでも、誰も振り向かない。引き戸は閉まり、優里だけがバス停の前で足踏みするだけだった。
「おまえがやっていることは、ただのわがままだ」
 誰かがそう云った。声は、自分に似ていた。
 眠気のなかで、かすかに、車のバックする音が聞こえてくる。定期的なリズムが現実の世界へと優里を引き戻していく。そうか夢か、と目覚めた安堵感が訪れたとき、単純なバック音を引き裂いて、鈍く、太い音が響くのを耳にした。アスファルトの上に、何かが倒れる音に似ていた。なんだ?と起き上がり、そのまま血の気が引いていくのを感じる。そう、バス停は、我が家の駐車場の目の前に置かれていたのだ。
 ベッドから跳ね上がり、部屋を出ていく。外に出ようと玄関まで向かうと、葬儀の片づけから帰ってきた父が、家に入ってきたばかりだった。
「あんバス停はおまえん仕業か?」
 顔がひきつる。父は無表情で、靴を脱ぎ、ネクタイをほどいた。
「なんであんげなこつしたっか?」
 うまく理由を語れない。黙りこくるだけである。あとから母もやってきて、「なに、さっきの音は?」ふたりが優里を囲むようになってしまう。
 理由を云わねばならない。自分がやってきた企みを、正直に伝えなくてはならない。なにも悪意からの行いではないのだ。父も母も、激しく咎めることはないはずだ。けれども孝之のやったことも悪意ではなかった。孝之と、自分の行いに、何の差があるのかと考えてしまうと、なにも伝えることができなくなってしまうのだ。
 翌日、バス停は、もとの場所に戻されてしまった。朝の冷たい空気のなかで、二十九歩の距離がのさばっていた。






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