little island walking,

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二十九歩のステップ/約束。


 ステージが橋の上からよく見える。広場の中心に一本の柱が立っていて、そこから放射線状に提灯が連なっている。まだ夕方だから、灯りはついていないが、地元、市外、多くの人が集まりはじめ、祭のにぎやかさが際立っていた。
 たこやき、いかやき、りんごあめ、やきそば、射的、さまざまな屋台が軒を列ねている。豚汁や地鶏の焼き鳥といった地元の人々の作った料理がふるまわれ、野菜や、陶芸品などの即売会も行われていた。
 都於郡と三財を境にする、荒武の川岸で、祭は開かれている。メインステージではさっきからいろんな催しものがなされていて、老人から、子供たちまでが見入っている。地元出身の高校生フォークデュオがライブをやったときには、多くの笑いとグルーヴを生み出して、いちだんとにぎやかになった。
 まだ、交通規制の引かれていない橋の上に、一台の自動車がスピードを緩めて走っているのが見える。会場前で止まり、母と幸恵が車から降りてくる祖母を支えた。優里は走り寄り、息を切らしながら祖母に微笑んだ。
「ばあちゃん、来たっちゃね」
「ほうよ。優里が来いち云ったかい、来るに決まっちょるがね」
「もうすぐ孝之が臼太鼓踊るよ、さあ」
 あとからやってきた敬孝が、祖母を抱え、ストーブ前の特等席に坐らせる。
「寒くないようにしないよ。だりいときは云いないよ」
 敬孝は法被姿で、いつにもまして威勢がいい。煙草を荒々しく取り出して、火を入れると、優里を見て笑った。
「どんげや?うちらで作り上げた祭よ。地元を愛し、地元を敬うための祭よ。子供も年寄りもみんなが一緒になる祭やかいね」
 伯父の息には酒の匂いがした。誰よりも自分が楽しんでいる、といった感じだ。自分たちで作り上げたこの空間が嬉しくて仕方がないといった表情である。子供のようだ。本当に心から日々を楽しんでいる子供だった。
 祖母がやわらかな笑みをもらしている。久しく見ていなかった笑顔だ。祖父が死に、幸恵とのふたりで過ごす毎日の中で、こんなふうに笑顔を見せることはなかった。正月も慎ましく、年賀のあいさつもできなかった。ようやく、その祖母が見せてくれた微笑みだった。
「ばあちゃん、なんか食べる?」
 隣に坐り込み、祖母に訊く。
「なんでんいいよ。優里が食べたいもん買ってきないよ。ほら小遣い」
 巾着袋からがま口を出して、千円札を差し出す。「もってるからいらん」と云っても引っ込めない。仕方なく受け取って、豚汁を買いにいった。
「優里、来たっか?」
 声をかけてきたのは孝之だった。稽古のときに見た太鼓に加えて、衣装と、背中に三つの飾りのついた棒を背負っている。日本的で、庶民的な格好だった。はにかむ孝之は、
「次、俺たちの番やかいよ。見るなよ」
「見るなって云っても見ないわけにはいかんわ」
「うるせえ。見るなったら見るな」
 しかめっつらを見せつけると、そのまま仲間たちのところへ駆けていった。
「ほんとうは見てほしいくせに」
 呟いて笑う。孝之は本心をなかなかしゃべらない。だから逆のことを云う。「いる」と云えば「いらない」し、「行きたくない」と云えば「行きたい」のだ。通夜以来、ようやく彼のことを分かってきた。孝之は、妙なところで気を遣う。自分を押し殺し、それがときとしてわがままになる。「不器用」な人間なのだ。
 祖母のもとへ豚汁を持っていったちょうどそのとき、子供たちが広場に入場し、大きな円を描いた。背負った飾りが美しく、一歩ごとに布が揺れている。その中に孝之がいる。真剣な顔つきは、決して暗いものではなく、真直ぐに前を見つめ、本番に対する意気込みさえ感じることができた。
「ばあちゃん、あの子、わたしの親戚で、孝之って云うの。今日のために、ずっと練習してたんだよ」
 指で指し示し、祖母に伝える。目を細めその姿を確認した祖母は
「かわいい子やねえ」
 そう云った。
 太鼓のリズムとともに、ステップを踏む。体を回転させ、飛び跳ねる。激しく太鼓を打ちおろし、背中の飾りが宙に舞う。真剣な顔つきが、孝之を美しくする。流れるような動作の中で、ひとつひとつが輝いている。西都市一帯で踊られている臼太鼓踊り。それをここに生まれた子供たちが舞っていた。
 膝を上げ、また回転する。踏む地面は、孝之が生まれ育った町である。土を踏み、蹴りつけ、またしっかりと踏み締める。太鼓の音は一体化し、凄まじい音となる。華奢な腕、太い腕、みんなが一様に太鼓を打鳴らす。足取りも、頭の動きも皆一様である。大きな円は誰ひとりとして乱れず、広場の柱を中心として、ぐるぐるまわっていた。孝之もまわる。自分だけの小さな回転を繰り返しながら、全体の輪っかのなかでぐるぐる、ぐるぐるまわっていた。そのさまを、優里は授業で習った太陽系の星々のようだと思った。
 踊りが終わり、広場から退場していく。観客たちの拍手が鳴り響き、止む。雑踏ばかりになってしまった会場に、子供たちの騒ぎ声が聞こえてきた。退場したばかりの子供たちが、踊りの成功にはしゃいでいるのだった。
 敬孝や、その他の大人たちと一緒に声をあげている。飾りを背負ったまま、みながみな、手を上げて、笑顔をはちきれんばかりに浮かべている。孝之も笑っている。隣にいる少年と微笑みあい、手を叩きあい、興奮した様子だった。
 あの日に見せた、暗い様子など微塵もない。通夜のときの淋しい感じもなかった。そこには踊りという、みんなで作り上げたものをやり遂げた満足感で満ち満ちていた。自分が打ち破れなかった壁を飛び越えた開放感だった。孝之は、確実に変化していっているのだ。
 ひょっとこや、中学生の歌の発表、さまざまな出し物がステージで繰り広げられている。日が暮れはじめ、肌寒さを感じるようになった。ステージ最後の出し物は神楽である。優美と荘厳さを合わせた舞いを、優里は初めて見る。なめらかな動きのなかで、ときおり激しく地面を踏む。笛と太鼓が鳴り響き、祖父の葬儀に聞いた経と同じに、どこか違う世界に連れていかれるようだった。
「ばあちゃん、すごいね」
「すげなあ」
「きれいで格好いい」
「神様の棲む町じゃかいね。神楽は神様の物語を描いちょるとよ」
 やがて、暗闇のなかで、提灯の灯りが点り、屋台の光も煌々と目立つようになってきた。広場のまん中には、たくさんの木材が積み上げられ、それを取り巻くように人々が思い思いに佇んでいた。川原の東側にある高台に、灯りが見える。かつて浮舟城の三の丸があった場所である。松明の灯りだ。幾本も見える。一斉に炎が揺れはじめ、そのまま見えなくなった。ふたたび神楽がはじまって、和太鼓とのコラボレーションでますます激しくなり、ずんずんと優里の腹に響いてくる。鼓動が速まる。これから何が起こるか、いよいよ期待が高まっていった。
 神楽が終わったちょうどそのとき、高台の坂から松明行列が現れてきた。百本以上の炎が揺らめいていて、そこだけが異様に明るかった。堤防の道に人々は上がり、行列を見遣っている。田んぼのなかを通り過ぎ、橋にさしかかる。敬孝も松明を持って、観客たちにわけも分からない叫び声を上げながら手を振っていた。多くの拍手とはやし声が沸き上がる。祭会場がひとつの町のように一体になった。
「ねえ、ばあちゃん」
 優里はふと思い出し、祖母に話しかける。
「うちのお父さんが、名前変えたのって、いや?」
「なんや、またいきなり」
「なんとなく。じいちゃんが死んだとき、お父さんが、後悔している感じやったから。わたしも女の子やかい、結婚したとき、男の人に名前変えてもらわんといかんのかな、って思ったと。でもその男の人の親は、いややねっちゃろかって、ちょっと思ったと。お母さんもそうやったから、男に生まれていればって云ってた。じゃかい、わたしもそうかもしれんて思ったと」
 松明行列は橋を渡り切り、左に折れる。川原へつづく坂道を下って、ようやく祭会場に入ってきた。人々のざわめきが静かになる。松明行列も、荘厳な面持ちで行進していく。積み上げられた木材を中心点として、行列は円を描きはじめていた。
「いいとよ」
 祖母が呟いた。
「なにがどうなってん、おまえのお父さんが生きちょって、ちゃんと食べれて、優里を立派にさせていければ、それでいいと。ほかになんもないと」
 祖母の息子である土寛も、夫ももう、この世にはいない。優里の父親である海次もまた、家を出て、名前を変え、残るのは嫁と自分だけ。それでいいと、祖母は云う。優里もまた、それでいいと思った。祖母が夫とともに守ってきた名前を受け継ぐものがいなくても、その血は繋がっているのだから。
「優里はいろいろ考えちょるっちゃねえ」
 祖母が優里の頬を撫でる。皮だけの手のひらは、冷たかったが、それでもやさしい感触に包まれている感じがした。
「女はね、すべての生き物の故郷やとよ?みんな女から生まれてくると。うちらは故郷やと。うちや、おまえがここに生まれてきたことが事実のように、おまえや、お父さんが女から生まれてきたのは、どんげしてん否定できん故郷やと」
 松明を持った人々が、一歩一歩中心へ近づいて、積み上げられた木材に引火させていく。小さかった一本一本の炎が合わさり、大きな灯りと、熱を生み出した。提灯の灯りが消え、炎だけがまわりを照らす。人々の表情が赤く染まる。祖母の顔も赤々と照らされている。ふたたびお囃子が鳴りはじめ、大きなたき火のまわりで、神楽を舞いはじめた。
「よく分からんけど、そうやとやろかね」
 優里は呟いた。
「じゃあよ。もっとここに生まれてきたことを大事にせんといかんよ?そして自分を大事にしてくれる人も大切にせんとね」
 祖母の手を握る。若々しい右手が、老いた手を包み込む。互いの温度が伝わり、ふたつの掌がだんだんと暖かくなっていく。祖母は目を細め、遠く松明の炎を眺めながら最後にこう云った。
「だって、ゆりは優しい里ち書くがね?」
 この町でおこるささいなできごとは、朝のワイドショウにも出てこない。けれども、それはどんなものよりも大切で、根源的なものだ。自分が生まれてきた環境を、厭わず慈しむ。女であることも、疑わずにそうあればいい。悩んでも、否定しても、そうあるものは、そうあるのだから。

 優しい里。選べども選べども、そこに帰ってくる。

 みんなが故郷を持っている。たとえその場で一生をまっとうしようとも、生まれた町から遠く離れて何十年過ごそうとも、その胸に、故郷は存在しているのだ。それを大事にしていきたいと、優里は思った。

「みなさん、今日は一日ありがとうございました! 実行委員長の北島敬孝です。この祭は、西都市の三財と都於郡ちゅう町で生きちょるうちらのための祭です!そして、こん祭に来てくれた他の人たちの祭です! 近ごろは、やれショッピングモールじゃ、でかいデパートじゃちそういったものにしか目がいかんごつなっちょります。でも、それがうまくいかんことももう、はっきりしちょるようにも思えます。街に街に人は流れよりますけんど、そうじゃないとです。うちらは、うちらが生まれたこの町をもっと、うちららしくいいところにして行きたいとです。そのひとつが、この祭です!初めての経験でどうなるか分からんかったけれども、僕は、まずまずの成功だったんじゃないかと思います。それはみなさんがこうして楽しく!祭を盛り上げてくれたことがなによりの証拠じゃないかち思います。これから、毎年、自信はありませんけども、やっていきたいと思います。そのたび、みなさんが来てよかったち思う三財、都於郡にできるようやっていきます。また来年もぜひ、僕らの故郷に来てやってください!」

 三の丸から大きな花火が打ち上がる。ため息をもらすかのように、人々が感嘆の声を上げた。次々と花火は打ち上げられ、花弁が開いては、消えていく。さまざまな色を持ち、空を裂く音が紫の夜に広がっていった。赤、青、そしてかぎりなく白に近い大輪たちが滲む。滲んでは消え、また開いては滲んでいく。すべての人々が空を見上げ、一発一発に笑顔を弾けさせていた。松明を持ったままの敬孝も空を仰ぐ。孝之も仰いでいる。母も近くにはいないが見上げているだろう。みんなが同じ空を見ていた。優里は、父に今日あったことを伝えようと思った。祖母が云った言葉をできるだけそのままに伝えてみよう。きっとなにも云わないかもしれない。けれども幾分かは、祖父の死んだときに呟いた後悔を払拭してくれるに違いない。
 花火は、佳境にさしかかり、さまざまな色が混ざりあってカンバスを彩った。高台の緑を照らし出すほどに明るい。それもだんだんとゆるやかになり、どーん、どーんと単発の花火が打ち上がる。そうして最後に一筋の灯りが昇っていく。これまでのものよりも数段高いところまで昇っていった火の玉は、凄まじい音とともに大きな花を開かせた。これまで以上に大きな花だ。まわりが昼間のように明るくなる。歓声と、拍手が沸き上がり、みながみな、名残りの空を眺めていた。そう、見上げた空は青かった。


「ばあちゃん、あれ」
 優里が指さした先に、新しいバイパスの高架道路がある。道はかつて工事中だったトンネルへとつづいていた。水銀灯が連なっていて、まるで高速道路のように、車が飛んでいく。その下、昔からの道をバスは走っていた。
 ゆるやかにつづくカーブを流れ、下田島の交差点で信号停止する。ふたたびバスは発進、右に折れ、潰れてしまったスーパーを見送り、また新しいバイパスとの合流地点までやってきた。
 旧バイパスは存在を追いやられ、小さく繋がっていた。それでもバスはこの道を走っている。そこに住む人たちのために。
 祖父が死んでから、五年の年月が経っていた。優里は近くの私立高校に通いはじめ、孝之もまた同じ学校の進学クラスにいる。校内で会うと、知らんぷりを決め込むが、外で会うときの彼は、屈託のない笑顔を見せてくれた。恋などに発展する気配はまったくないが、なかなかいい「親戚」づきあいをしていると優里は思っている。
 母はあい変わらずで、未だに車を持っていない。ただ我が家で大きく変わったことといえば、父が夕飯どきに家にいることだった。経営不振のため十年近く営んでいたビデオレンタル店をたたみ、土地を買い、農業をはじめた。祖父と同じで、促成栽培の胡瓜を作っている。初年こそうまくいかなかったが、今年はなかなかのできばえだった。けれどもいざ家族全員で食事をするとなると、会話が見つからないものである。違和感が拭えない。今まで父親との会話があまりになかったことを痛感させられた。だが母はいくらか嬉しそうな表情を浮かべている。いっしょに畑に向かって仕事をする様子は、ほんとうに夫婦なんだな、と当たり前のことに感心させられるのだ。
 そして今日、優里は祖母を連れてバスに乗っている。仕事で忙しい幸恵の代わりに、一時的ではあるが我が家で暮らしてもらうことになったのだ。
 バスも変わったものだ。ノンステップの構造、定期券は機械に通すようになった。外装の青と白の組み合わせだけは変わらない。そのバスに乗って、ふたりは我が家へと向かっていた。
「住吉学校前」をアナウンスが告げる。ボタンを押し、降車を知らせた。「次、止まります」運転手の掠れた声がする。車窓から優里の家が大きくなっていく。スピードがだんだんと下がってゆき、完全に停まったのは我が家の目の前だった。
 値上がりした五百十円をふたり分払い、祖母を支えてバスを降りる。バス停はすぐそこにあった。五年前、父に見つかって戻されてしまった二十九歩の距離を、優里は少しづつ縮めていったのだ。駐車場が、胡瓜を詰める作業場に変わって、家の裏に新しい倉庫が作られたために問題はクリアされた。数年をかけた移動に、誰もが気づかず、ようやく二十九歩目のゴールを迎えることができたのだ。
「ばあちゃん、ついたよ」
 両の手を取り、ゆっくりと歩く。優里にとって玄関まで五歩もないが、祖母には長い道のりだ。祖母の歩調に合わせて歩く。一歩一歩数えながら我が家の入り口まで向かっていく。
「三歩、四歩、五歩……」
 地面を見つめ、祖母は足を動かす。猫背をさらに小さく畳み、穏やかな表情を浮かべながらも歩くことに必死になっている。一歩ごとに、少しずつではあるが確実にゴールは近づいてくる。十五、十六、十九、二十二、足取りはおぼろげながらも、優里と祖母はしっかりと地面をつかんで前へと向かう。
「ほい、うちの家よ」
「まこち、バスから優里んちは近けなあ」
 ようやく玄関の扉を開けたとき、ふたりのステップは、二十九歩を数えていた。







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