Dog photography and Essay

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「蜻蛉(かげろう)日記」を研鑽-2



「貴女がずっと私を拒んでいるから」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



返事を持ち帰る使いが待っているので、急ぎこのように書いた。

なつくべき 人もはなてば 陸奥の むまやかぎりに ならむとすらむ
可愛がるはずの飼い主が手放すと陸奥の馬はそれっきりもどらないように、
あなたが見放したら、もうこれっきりになってしまうでしょうか。



どう思ったのか、使いの者が手紙を折り返し持ってきた。

われが名を おぶちの駒の あればこそ なつくにつかぬ 身とも知られめ
あなたが尾駮の馬のように荒れるから、いくら飼い慣らそうとしても、
わたしになついてくれない、あなた自身そのことを知ってほしい。



少し憤慨して返歌を、したため使いの者に手渡した。

こまうげに なりまさりつつ なつけぬを こなはたえずぞ 頼みきにける
あなたはだんだんわたしの所に来るのが嫌になり、優しくしてくださらなく、
なったのですが、わたしのほうはずっとあなたを頼りにしてきたのです。



あわただしく使いの者がまた返歌を届けに来た。

白河の 関のせけばや こまうくて あまたの日をば ひきわたりつる
白河の関のように、あなたがずっとわたしを拒んでいらっしゃるから、
あなたの所へ行きづらくて、何日も経ってしまったのです。


「前世の宿縁のつたなさだろうと思う」

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愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



明後日頃は逢坂の関の辺りなので、貴女に逢いに行くと便りがあった。
時は七月五日のこと。わたしが長い物忌に籠もっていた頃なので、
こう言ってきた返事には、

天の川 なぬかを契る 心あらば 星あひばかりの かげを見よとや
天の川で牽牛と織女が逢う七月七日に逢うつもりなら、一年に一度の、
逢瀬で我慢しろとおっしゃるのですか。



わたしの言うことを、ごもっともと思ったのだろうか、
少しわたしのことを心にかけているようで、何か月かが過ぎてゆく。

あの気にくわないと思っていた町の小路の女の所では、今は、
ありとあらゆる手段を使って愛情を取り戻そうと騒いでいると聞いた。



わたしはそのことを聞いたので、少し気が楽になった。
昔からうまくいかないわたしたちの仲はいまさらどうしようもない、
いくら辛くても、それがわたしの前世の宿縁のつたなさだろうと思う。

さまざまに心を乱しながら暮らしているうちに、あの人は、
少納言を長年つとめて、四位になると、殿上の出仕をおりていた。



今度の司召(ツカサメシ)で、ひどくひねくれていると見られている。
なんとかの大輔(たいふ)などと言われるようになったので、世の中が、
ひどく面白くないらしく、あちこちの女の所に通うほかは外出を、
しなくなったので、たいそうのんびりとわたしの所に二、三日いたりした。



「どうして一人や二人の妻で暇がない」

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気の進まない役所の宮さま兵部卿宮章明親王の醍醐天皇の皇子から、
このようにおっしゃってきた。  

みだれ糸の つかさひとつに なりてしも くることのなど 絶えにたるらむ
乱れている糸が束ねられ一つになるように、折角貴女と同じ役所になったのに、
来ていただけなく、どうして絶えてしまっているのでしょうか。



返事の歌を詠んだ。
絶ゆといへば いとぞ悲しき 君により おなじつかさに くるかひもなく

絶えるなどとおっしゃると、とても悲しいです。
宮さまを頼りにしてせっかく同じ役所になったのに、その甲斐もないです。



折り返し歌が送られる。
なつびきの いとことわりや ふためみめ よりありくまに ほどのふるかも

催馬楽の夏引の糸のように、二人も三人もの方の所に歩きまわっているうちに、
こちらへ来る時間もなくなってしまったのだね。
催馬楽(さいばら)とは、平安時代に隆盛した古代歌謡のこと。



返事の歌を詠む。
七ばかり ありもこそすれ なつびきの いとまやはなき ひとめふために

夏引の糸は、七ばかり、それほど多くの妻がいるのに、
どうして一人や二人の妻で暇がないことがあるでしょうか。
夏引の糸とは、その年にできた繭(まゆ)から取った糸のことをいう。


「粗末な家なので雨漏りで騒いでいる」

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また、宮さまから歌を

きみとわれ なほしら糸の いかにして 憂きふしなくて 絶えむとぞ思ふ
あなたとわたしとは、やはり気まずくならないうちに、
つきあいをやめたほうがよさそうだね。



二人、三人の妻と言ったのは確かに少なすぎました。
これ以上は、差し障りがあるのでやめておきますとおっしゃった返事に、

世をふとも 契りおきてし 仲よりは いとどゆゆしき ことも見ゆらむ
契りを交わした夫婦の仲なら、長年連れ添っても、
別れ別れになる不吉なことも起こるでしょう。



でもわたしたち男同士は、そんなことは起きませんなどと申し上げられた。

その頃、五月二十日過ぎごろから、四十五日の忌を避けようと思って、
地方官を務めた父の所に行ったところ、宮さまが垣根を隔てて、
すぐ隣に来ていらっしゃったが、六月頃まで雨がひどく降り続いた。



あの人も宮さまも雨で外出できなかったのだろう。
ここは粗末な家なので、雨漏りで騒いでいると、宮さまがこのように、
おっしゃってきたのは、いっそう常識はずれのことだった。

つれづれの ながめのうちに そそくらむ ことのすぢこそ をかしけりけれ
長雨ですることもなくぼんやりしていると、あなたのほうでは雨漏りで、
忙しそうにしていらっしゃる様子、それも退屈がまぎれておもしろいですね。


「恋のせいで涙の乾く暇もないだろう」

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いづこにも ながめのそそく ころなれば 世にふる人は のどけからじを
どこでも長雨の降る忙しい季節ですから、
宮さまと違って、のんびりしてはいられないのです。

また、宮さまはこうおっしゃった。
あなたは、のんびりしていられないですって。



あめのした 騒ぐころしも 大水に 誰もこひぢに 濡れざらめやは

世の中は長雨で騒いでいるこの頃、誰もが恋しい人に逢えなくて涙で、
袖を濡らしているはず、わたしだってのんびりなんかしていられません。



わたしは宮さまへ返事を書いた。

世とともに かつ見る人の こひぢをも ほす世あらじと 思ひこそやれ
いつも次々と愛人と逢おうとしている人は、この長雨で逢えなく、
その恋のせいで涙の乾く暇もないだろうとお察しします。



また、宮さまから文が届いた。

しかもゐぬ 君ぞ濡るらむ 常にすむ ところにはまだ こひぢだになし
一人の女の所に落ち着いていないあなたこそ恋の涙に濡れているでしょうが、
一人の女の所にいつも住んでいるわたしは、恋で濡れることなどありません。


「私の手紙も宙に迷っているのだろうか」

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宮さまからの文を、あの人と一緒に読んで、
何ともまあひどいことをおっしゃるなどと思わず口をついて出た。

雨の晴れ間に、あの人がいつもの通っている所に行った日、
例によって宮さまからお手紙が届いた。



殿はご不在ですと言っても、それでもやはりとだけおっしゃって、
くださったのですと使いの者が言うので、持ってきたのを見てみた。

とこなつに 恋しきことや なぐさむと 君が垣ほに をると知らずや
あなたの家のなでしこを折って見ていたら、恋しさが慰められるかと思って、
いつまでもここにいるのですが、そんなわたしの気持ちはわからないでしょう。



それにしても、ここで待つその甲斐もないので、帰りますと書いてある。
それから二日ほど経って、あの人が来たので宮さまからの手紙を手に取り、
宮さまからこの手紙がこういう次第で届きましたと言ってみせた。

あの人は、日にちが経っているから今さら返事をするのもよくないなと言う。



この頃は、あなたから手紙もいただけませんと話してみた、その返事は。

水まさり うらもなぎさの ころなれば 千鳥の跡を ふみはまどふか
大雨で水嵩が増して浜辺もなく千鳥がおりる場所に迷っているように、
わたしの手紙も宙に迷っているのだろうかと思っていましたと言う。


「気分もよくなり京へ帰った」

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わたしのほうが、お訪ねしますと書いた手紙が届かなかったのだろうか。 
女文字〔平仮名〕で書いて、こちらは男文字〔漢字〕で心苦しかった。

うらがくれ 見ることかたき 跡ならば 潮干を待たむ からきわざかな
入江が水で隠れてしまい、千鳥の足跡がなくなるように手紙がなくなったなら、
潮が引くまで待っていましょう。それにしてもとても辛いことです。



そのような中、また、宮さまから文が届く。

うらもなく ふみやる跡を わたつうみの 潮の干るまも なににかはせむ
なんの下心もなくさし上げた手紙ですから、潮が引き探せるようになり、
手紙が出てくるのを待っていても、無駄でしょう。とある。  



こうしているうちに、六月祓(みなづきばらえ)の時期も過ぎたのだろう。
七夕は明日あたりと思う。四十五日の忌も四十日ほど過ぎた。

このところ気分が悪く、咳などもひどく出るので物の怪かもしれない。
加持でもしてみようと思い、暑い頃でもあり、いつも出かける山寺に登る。



七月も十五、六日になったので、お盆をする頃になってしまった。
見ていると、人々が奇妙な格好でお供えを担いだり頭にのせたりしている。

色々な支度をして集まってきて、あの人と一緒に、感心したり笑ったりもする。
忌も過ぎ、気分もよくなり京へ帰った。秋、冬はこれということもなく過ぎた。


「ほっそりとしなやかに見えた」

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年が改まったが、これといって変わったこともない。
あの人の心がいつもと違って優しい時は、すべてが平穏である。

正月の初めからあの人は南廂にある殿上の間に昇る事を許されている。  
賀茂神社の祭祀に奉仕の斎院の禊の日、宮さまから言葉があった。



見物に行かれるなら、そちらの牛車に乗せていただきたいとの事。  
迎えに行ったが、宮さまはいつもの邸にはいらっしゃらなかった。

町の小路あたりかもしれないと思って、お訪ねすると思ったとおりだった。
宮さまがいらっしゃるので、まず硯を借りて、このように書いてさし入れた。



きみがこの 町の南に とみにおそき 春にはいまぞ たづねまゐれる

宮さまがいらっしゃるこの町の南に、遅い春が訪れたように、
ようやくあなたのいらっしゃる所を捜して、やって来ました。  
というわけで、宮さまはわたしたちと一緒に見物に出かけられた。



その頃が過ぎてから、宮さまが町のお邸にいらっしゃる時に参上すると、
去年見た時にも花がきれいだったが、薄(すすき)が群がり繁っていた。

その薄の光景が、とてもほっそりとしなやかに見えたのを思い出して、
これを株分けなさるなら、少しいただきたいのですがと申し上げていた。


「掘ってさし上げるのは辛いこと」

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しばらくして賀茂川の河原へ、お祓(はらえ)に行った時に、
あの人も一緒だったので、ここが宮さまのお邸よなどと話した。

使いの者を邸に遣わし、お伺いしたいのですが機会がなくてと文を。
今日も連れがいますので、先日お願い致しました薄(すすき)の事を、
よろしくお願いしますと、おそばの人に言うようにと言って通り過ぎた。



簡単な祓だったので、すぐに帰ったところ、宮さまから薄が届いていた。
見ると、長櫃(ながびつ)に、掘り取った薄がきれいに並べてあった。

そして、青い色紙が結び文にしてあるので見ると、こう書いてある。



穂に出でば 道ゆく人も 招くべき 宿の薄を ほるがわりなさ
穂が出たならば、道行く人も招くにちがいない、
そんな大切な薄を掘ってさし上げるのは辛いことでと書いてある。 



とてもおもしろい歌で、この返事をどのようにしたのだろう。
忘れてしまうほどなので、大した歌ではなかったと思うから、
書かなくても良かったのではないかと思う。

でも、これまでの歌でも、出来ばえはどうなのだろうと、
考えてしまうものもあるとは思うけれど書き留めておいて残した。


「どちらが勝っているのでしょう」

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春が過ぎて夏の頃、あの人は宿直が多くなったような気がする。
そのうえに、突然朝に来て一日を過ごし、日が暮れると参内したりする。

その姿を不思議に思っていると、ひぐらしの初声が聞こえてきた。
しみじみと、ああ、もう秋かと気づかされて和歌を詠んだ。



あやしくも 夜のゆくへを 知らぬかな 今日ひぐらしの 声は聞けども

今日一日中あなたの声を聞いていても、不思議でならないの、
夜にどこへ行かれるかわからないからと詠んで聞かせた。



さすがに出て行き難かったのだろう。このように特別のこともなかったので、
あの人の心も、今のところわたしに熱心なように感じとれた。

月夜の頃、不吉な話をして、しみじみとした事を語り合った昔の、
ことが思い出されて、嫌な気分なので、こう言った。



曇り夜の 月とわが身の ゆくすゑの おぼつかなさは いづれまされり

曇っている夜の月と、わたしの将来とでは、
不安で頼りないのは、どちらが勝っているのでしょう。
返事は、冗談のように返って来た。


「思い通りにならないことばかり」

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曇っている夜の月と、わたしの将来とでは、
不安で頼りないのは、どちらが勝っているのでしょう。
返事は、冗談のように返って来た。



おしはかる 月は西へぞ ゆくさきは われのみこそは 知るべかりけれ

曇っている夜だって月は西へ行くとわかるように、
あなたの将来だってわたしだけが知っている。心配することはない。



などと、頼もしそうに思えるが、あの人が自分の家と思っている所は、
ほかにあるようだから、本当に思い通りにならないことばかりの夫婦仲だ。

幸運に恵まれたあの人のために、長い年月連れ添ってきたわたしなのに、
大勢の子どももいないので、このように頼りなくて思い悩むことばかりが多い。



このように寂しいながらも、母親が生きているうちはなんとか過ごしていた。
その母も長い間患って、秋の初めの頃亡くなってしまった。

まったくどうしようもなくわびしいことといったら、
世間の普通の人の悲しみも比べものにならないくらいに感じた。


「この先どうなさるのだろう」

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まったくどうしようもなく侘しい事といったら世間の普通の人の、
悲しみと比べ物にならない。大勢の子どもたちの中で、わたしは、
死に遅れたくない、わたしも一緒にと、取り乱していた。

そのせいか、どうしたのだろう、手足がただもう引きつって息も、
絶えそうになり、後のことを頼む事のできる、あの人は京にいた。



山寺でこんなことになったので、幼い道綱をそばに呼んで、やっとの事で、
言ったのは、わたしは、このまま虚しく死ぬでしょう。

父上に申し上げて頂きたいのは、私の事はどうなろうとも構わないで下さい。
亡くなった母上の法事を、他の方々の法事以上に弔って下さいと伝えた。



いったいどうすれば良いのか、長い月日患って亡くなった母のことは、
今ではどうしようもないと諦めて、わたしのほうに皆かかりっきりで、
どうしてこんなことにと、母の死を泣いてた上にますます取り乱した。

わたしは口はきけないが、まだ意識はあり、目も見えるころに、わたしを、
心配している父が寄って来て、親は母上一人だけではない。



どうしてと言って、薬湯を無理に口に注ぎ込み次第に回復していく。
やはりどう考えても、生きている気がしないのは、亡くなった母が、
患っていた間、ほかのことはなにも言わないで、ただ言うことといえば、

わたしがこのように頼りなく生活していることをいつも嘆いていたので、
あなたはこの先どうなさるのだろうと、何度も苦しい息の下から言われた。


「一晩中歌を詠み交わした」

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寝苦しいものが身にしみてわかりました。この返事が届いた。

さもこそは ちがふる夢は かたからめ あはでほど経る 身さへ憂きかな
おっしゃるとおり夢違えは難しいでしょうが、長くお逢いできないで、
日数が経っているわたしまで辛くなってきますと文を遣わせた。
その文に対して、折り返し文が届いた。



あふし見し 夢になかなか くらされて なごり恋しく 覚めぬなりけり
長く逢えないなんて、わたしは夢であなたにお逢いしています。
でも夢だから気持ちがぼんやりして名残り恋しく、いまだ覚めることが、
できないので、現実にはお逢いできないのですと書かれている。

文を書き、使いの者に遣わせた。
こと絶ゆる うつつやなにぞ なかなかに 夢は通ひ路 ありといふものを
お逢いすることが絶えている現実は何でしょう。
かえって夢には通う道があるといいますのにと書いて手渡した。



急ぎ文が届いた中に、お逢いすることが絶えるとはどういうことですか。
ああ、縁起でもないと初めに書かれており、

かはと見て ゆかぬ心を ながむれば いとどゆゆしく いひやはつべき
あれがあなたのお住まいと見ることができる近くにいながら、
川に隔たれたように伺うことができないで辛いのに、こと絶ゆるなど、
と不吉な言葉で言わないでくださいとあった返事に、



渡らねば をちかた人に なれる身を 心ばかりは ふちせやはわく

来てくださらないので、遠く隔たっているわたしですが、
心だけは川の淵瀬と関係なく、あなたの所に通っています。
などと、一晩中歌を詠み交わした。


「しばらく眺めていても飽きない」

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ここ数年、長谷寺にお参りし願(がん)を立てている。
毎月、長谷寺へお参りしたいが思い通りには行けないのが現状だ。

来月にはと先延ばしになっていたが、やっと九月に出かける事に決めた。
あの人は、十月には大嘗会(だいじょうえ)の御禊(ごけい)があり、
わたしの所から女御代(にょうごだい)が立たれることになっている。



女御代(にょうごだい)とは、あの人、兼家の娘の超子のこと。
賀茂川の河原で行うみそぎの儀式が終わってから私と一緒にと言う。

私には関係ないことなので、密かに決めてしまっていた。
調べると予定の日が凶日なので、門出だけは法性寺のあたりにして、
翌日の夜明け前に出発して、正午ごろに宇治の院に到着した。



向こうを見ると木の間から川面がきらめき、しみじみとした思いがする。
目立たないようにと思って、供の者も大勢は連れて来なかった。

わたしのような人でなければ、どんなに賑やかだろうと思う。
車の向きを変え、幕などを張って車の後ろに乗っている人だけを降ろして、
車を川に向けて、簾を巻き上げて見ると、川には網代が一帯に仕掛けてある。



行き交う舟もこんなに多いのは見たことがなかったので、
しばらく眺めていても飽きなく、すべてが趣深くおもしろい。

後ろの方を見ると歩き疲れた下人たちが、貧弱そうな柚子や梨などを、
大事そうに手に持って食べたりしているのも、興味深いと眺めていた。


「格段に風情があるように見える」

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しばらくして、手紙を捧げて持ってくる人がいる。そこに立ち止まって、
お手紙ですと言っているようだ。見るとあの人からだった。

どうしているのか、心配でならない。少人数で出かけたが大丈夫かな。
以前言っていたように、三日間籠るつもりなのか。帰る予定の日を聞いて、
せめて迎えだけでもと書いてある。返事には、



椿市という所までは無事に着きました。この際、もっと深い山に入りたいと、
思っているので、帰る日は、いつとまだ決めていませんと書いた。

あそこでやはり三日もお籠りになるのは、よくないですなどと相談して、
決めているのを、使いが聞いて帰って行った。



そこから出発して、どんどん進んで行くと、これという見所のない道も、
山深い感じがするので、とても趣深く水の音が聞こえる。

あの有名な杉も空に向かって立ち並び、木の葉は色とりどりに色づいている。
川の水は石のごろごろしている間を、勢いよく流れていく。



夕陽が射している景色などを見ると、涙がとめどなく流れる。
ここまでの道は格別景色がよくもなかった。紅葉もまだだし、花もみな散り、

枯れた薄だけが見える。これまでと違って格段に風情があるように見える。
車の簾(すだれ)を巻き上げて、下簾を開けて見ると、
旅で着くたびれた着物が、色艶がなくなったように見える。


「ひたすら夜の明けるのを待った」

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薄紅色の薄物の裳(も)をつけると裳の紐が交差して、朽葉色の着物に、
調和した感じがするのも、とてもおもしろく思われる。
朽葉色(くちばいろ)とは、くすんだ赤みがかった黄色のこと。

物乞いたちが、食器や鍋などを地面に並べて座っているのも、
何ともあわれでならない。卑しい者の中に入ったような気がして、
お寺に入ったら、かえって清々しい気分が得られないような気がする。



眠るわけにもいかず、かといって忙しいわけでもないので、
じっと聞いていると目の見えない人で、それほどみじめそうでもない人が、
人が聞いてるかもしれないとも思わないで、大声で願いごとを、
お祈りしているのを聞くのも、かわいそうで、ただ涙ばかりがこぼれる。



こうして、わたしは、もうしばらくここにいたいと思うが、夜が明けると、
供の者たちが騒いで出発させる。帰りは人に知られないようにしているのに、
あちこちで接待をして引きとめるので、にぎやかに日が過ぎてゆく。

三日目に京に着く予定だったが、日がすっかり暮れてしまったので、
山城国の久世(くぜ)の三宅(みやけ)という所に泊まった。



ひどくむさくるしい所だったが、夜になってしまったので、
ひたすら夜の明けるのを待った。まだ暗いうちから出発すると、
黒っぽい人影が、弓矢を背負って、馬を走らせて来る。
少し遠くで馬から降りて、ひざまずいている。
よく見ると、あの人の随身(ずいじん)である供の者だった。


「心の中で数えながら待っていた」

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どうしたのだと、供の者が尋ねると、殿は、昨日の夕方六時ごろに、
宇治の院にご到着なさり、お帰りになったかどうか、確認して迎えに。

などと、ご命令になりましたと言う。先払いの男たちが、
早く車を進ませろなどと指図をするが霧が立ち込め早く進めないようだ。



宇治川に近づくころ、霧が立ち込め通ってきた道が見えないくらい。
車から牛をはずして二本の長い棒の轅(ながえ)を下ろし牛を休ませる。

あれこれ川を渡る準備をしているうちに、大勢の声がして、
車と牛を繋ぐ轅(ながえ)を下ろして、川岸に立てろと叫ぶ。



霧の下から例の網代(あじろ)も見えており、なんとも言えない風情がある。
あの人は向こう岸にいるのだろう。まず、このように書いて渡す。

ひとごころ 宇治の網代に たまさかに よるひをだにも たづねけるかな
通い婚という結婚形態のため、貴方の心が辛く思われます。
わざわざ私を迎えにいらっしゃったのではなく、宇治川の網代に、
たまにかかる氷魚をごらんに来られたのでしょう。



ほんとうは 会いに来てほしい気持ちを歌にしている。
舟がこちらの岸にもどって来るときに、あの人の返事が、

帰るひを 心のうちに かぞへつつ 誰によりてか 網代をもとふ
あなたの帰る日を心の中で数えながら待っていた。
あなた以外の誰のために網代を見に来たりするのでしょう。


「紅葉のとても美しい枝につける」

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牛車を舟に担ぎ入れて、大きな掛け声をかけて棹さして渡す。
それほど高貴な身分ではないが、卑しくない良家の子息たちや、
なんとかの丞(じょう)の君などという人たちが、
車の轅(ながえ)や鴟(とび)の尾(お)の間に入って渡って行く。

轅は牛につなぐ棒。鴟は牛車の後方に突き出ている二本の棒のこと。



日差しがわずかに漏れて、霧がところどころ晴れていく。
向こう岸には、良家の子息、六衛府の次官などが連れ立って、
こちらを見ている中に立っているあの人も、旅先らしく狩衣姿である。

何となくいつもとは違う姿に、あの人だけが引き立って見えるようだ。



岸のとても高い所に舟を寄せて、ただひたすら担ぎ上げる。
轅(ながえ)を簀子(すのこ)にかけて車を止めた。

精進落としの用意がしてあったので、食べたりしている時に、
川の向こうには兼家の叔父の按察使(あぜち)大納言の所領があった。



大納言さまは、この頃の網代をご見物に、こちらにきていますと、
ある人が言うので、挨拶に伺わなければなどと話し合っていた。

大納言さまから、紅葉のとても美しい枝に、氷魚(ひお)や、
雉(きじ)などをつけて、ご一緒にお食事でもどうですかと来られた。


「きっと酔っ払うほど飲まされる」

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お揃いでお越しと聞いて、あいにくめぼしい物がない日でとある。
ここにいらっしゃっているのに気付かず失礼しました。すぐにお伺いして、
お詫びをなどと言って、単衣(ひとえ)を脱いで、祝儀として与えた。

使者は、単衣を肩に掛けたまま舟で帰って行ったようである。



また大納言さまから、鯉(こい)や鱸(すずき)などが、
次々と届けられたようであるが、その場にいた風流な男たちは、
すでに酔っていて集まって来て、とても素晴らしかった。

お車の月の輪の飾り物に、日が当たって輝いて見えたのはとでも、
言っているようで、車の後ろの方に花や紅葉が挿してあったのだろうか。



良家の子息と思われる人が、やがて花が咲き実がなるように、
近いうちにご繁栄が実現なさるこの頃ですねと言っているよう。

後ろに乗っている人もあれこれ返事をしているうちに、
向こう岸の大納言さまの所へ皆一同に舟で渡って行くことになった。



きっと酔っ払うほど飲まされるぞということで、酒飲みばかりの、
男たちを選んで、あの人が連れて川を渡って行く。

川のほうに車を向け、牛車の前の棒を踏み台の上に乗せる台に、
立てかけさせて見ていると、二艘の舟を漕いで渡って行った。


「かげろうのようにはかない日記」

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案の定、思った通り酔っ払って、歌いながらもどって来た。
そして、牛に車を掛けろと騒いで、今から都へ帰るという。

わたしは疲れていて、とても辛かったのに、牛車に乗って、
ひどく苦しい思いをしながら都に帰って来た。



夜が明けると、大嘗会の御禊の準備が迫ってきていた。
あの人が、ここでしてもらうのは、これこれと言うので聞いていた。

わたしは、わかりましたと言って、結局大騒ぎをしながら行った。
当日は、格式通り威儀(いぎ)を正した車が次々と続いて行く。



雑用を務める下仕えや男の従者の手振りなどが付き従って行くので、
まるで晴れの儀式にわたしも加わっているような気がして華やかである。

月が変わると、大嘗会の下検分だと騒ぎ、わたしも見物の用意などして、
暮らすうちに、毎年、年末にはまた新年の準備などするようになる。



こうして年月は過ぎていくが、思うようにならない身の上を嘆き続けて、
新年になっても嬉しくなく、相変わらずはかない身の上を思う。

わたしの人生は、あるのかないのかわからないようなもので、
まるでこれは、かげろうのようにはかない日記ということになるだろう。


「あの人は今を時めく権勢の人」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



はかない日々を過ごしながらも、また新しい年の元旦になった。
何年間もなぜか、お参りをしないから、こんなに不幸なのかしらと思う。

起きてにじり出るとすぐに、今年だけでもなんとか不吉な言葉を避けて、
運試しに神社へお参りをしましょうと話した。



その言葉を妹が、まだ横になりながら聞いていて話し出した。
天地を袋に縫ひて幸を入れて持たれば思ふことなしと言寿歌を唱える。

言寿歌(ことほぎうた)とは宮廷において同一の歌が繰り返し誦詠された。
それに加えてわたしなら、三十日三十夜は、わがもとにと言いたいわと。



などと言うと、前にいる侍女たちが笑って、そうなれば理想的ですねという。
いっそこれをお書きになって、殿にさし上げられたらと言う。

すると、横になっていた妹も起きて、それはとてもいいことという。
どんな修法より効果があるのではなどと笑いながら言うので、そのまま書いた。



子ども(道綱)に届けさせたところ、あの人は今を時めく権勢の人で、
たくさんの人が年賀に参上して混み合って、宮中にも早く参内しなければと。

とても忙しそうだったけれど、こんな返事をくれた。
年ごとに あまれば恋ふる 君がため うるふ月をば おくにやあるらむ
あなたが言う「三十日三十夜」では あなたの恋心が年ごとに、
余ってしまうから 閏月(うるうづき)をおいてるかもしれないねとある。


「小弓の試合をすることになった」

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翌日、わたしの所とあちらのお方の所と、下人の間でもめごとが起きて、
面倒なことがいろいろあったが、あの人はわたしに同情してくれた。

気の毒がっていいたが、すべて住まいが近いから起こったことだ。
転居は失敗だったと思っているうちに、また転居をすることになった。



私は少し離れた所に移ったが、あの人はわざわざ来るという感じで、
行列を立派にして、一日おきに通って来ると言っていた。

今までの、はかない今の気持ちからすると、これでも満足すべきなのか。
だが、やはり、錦を着てとは違うが、故郷の元の家に帰りたいと思う。



三月三日、節句のお供え物など用意したのに、お客さまが中々来ない。
何とも寂しいということで、侍女たちが、あの人の従者たちに歌をおくる。

桃の花 すきものどもを 西王が そのわたりまで 尋ねにぞやる
桃の花を浮かべたお酒を飲んでくれる風流な人たちを捜しに、
そちらに使いを出します そちらはまさに西王母の園で、桃の節句に、
ふさわしい人がいらっしゃるでしょうからなどと冗談で送った。



さっそく連れ立ってやって来た。お供えのお下がりを出して、
酒を飲んだりして一日を過ごした。二十日頃に、この従者たちが、

前後二組に分かれて小弓の試合をすることになった。
お互いに、練習などといって騒いでいる。後手組の人たちが全員、
ここに集まって練習をする日、侍女に賞品をねだったようだった。


「ほんとうに大変な事になってしまった」

「Dog photography and Essay」では、
愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。



苦し紛れの洒落に、青い紙を柳の枝に結びつけてさし出した。
適当な品物がすぐに思い浮かばなかったのだろうかと思う程だ。

山風の まへより吹けば この春の 柳の糸は しりへにぞよる
山風が前から吹いているので、この春の柳の枝は後ろの方にばかり、
なびいています。わたしたちは後手組を応援していますと書いた。



返歌は、それぞれにしてきたけれど、忘れてしまうほどの、
ありふれた歌ばかりだったが、その一つはこんな歌だった。

かずかずに 君かたよりて 引くなれば 柳のまゆも いまぞひらくる
いろいろと味方になってくださっているので、柳の芽が開くよう、
心配なく勝負に挑むことができますというような歌だった。



試合は月末頃にしようと決めていたのだが、世間では、どんな重い罪を、
犯したというのだろう、人々が流されるというとてつもない騒動が、
勃発して、小弓の試合は行われずそのままになってしまった。



二十五、六日頃に、西の宮の左大臣(源高明)さまが流されてしまった。
様子を拝見しようというので、都は大騒動で、西の宮へ人々は走って行く。

ほんとうに大変なことだと思って聞いているうちに、左大臣さまは、
誰にも姿をお見せにならないで、逃げ出してしまわれた。


「山寺で物思いにふけっていると」

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左大臣(源高明)さまは愛宕(あたご)にいらっしゃるとか、
清水(きよみず)ではないかなどと大騒ぎしていたようだった。

だが、ついに探し出されて、流されたと聞くと、どうしてこれほどと、
思うほどひどく悲しく、事情に疎いわたしでさえこうなんだから、
事情を知っている人で、涙で袖を濡らさない人は誰一人いないだろう。



たくさんのお子さまたちも、辺鄙な国々にさすらうことになって、
行方もわからず、散り散りにお別れになったり、あるいは出家なさるなど、
聞けば聞くほど、すべて言葉にできないほど痛ましいことだった。



左大臣さまも僧になられたが、無理に太宰権師(ごんのそち)に左遷して、
九州大宰府に追放となった。その頃は、この事件の話題で日々が過ぎた。

じぶんの身の上だけを書く日記には入れなくてもいいことだが、悲しいと、
身にしみて感じたのは、ほかならないわたしだから、書き記しておく。



閏月(うるうづき)の前の五月、五月雨(さみだれ)の降る二十日過ぎの頃、
物忌(ものいみ)にもあたっていて、長い精進を始めたあの人は、
山寺に籠もっていて、雨がひどく降って、物思いにふけっていると、
妙に心細い所でなどと書いてあったのだろうか、その返事は。

時しもあれ かく五月雨の 水まさり をちかた人の 日をもこそふれ


「何の病気だろうかひどく苦しい」

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時しもあれ かく五月雨の 水まさり をちかた人の 日をもこそふれ

心細く思っている時に、こんなに五月雨が降り続き、
水かさも増してきました。遠くにいらっしゃるあなたが、
帰ることもできないで、何日も経ってしまうのが辛いことですと送った。



こんな雨つづきの私も泣いてばかりの折、あなたが遠いところに、
行ってからもう何日もたちますと言って送った歌に返事が届いた。

ましみずの ましてほどふる ものならば おなじ沼にも おりもたちなむ

真清水のようにあなたが泣いて泣いて、沼の水かさがまして、
何日もたつなら私も山寺から下りて行ってあなたと同じ沼にいましょう。
精進なんかやめてあなたの所へ降りて行こう一緒に暮らそうと言う意味かも。



などと言っているうちに、閏(うるう)五月になった。  
月末から、何の病気だろうか、どことなく、ひどく苦しいけれど、
内心はどうなってもいいとばかり思ってしまう。



命を惜しがっているなどと、あの人に思われたくないと、
ひたすら我慢しているけれど、周りの人々は放っておけなくて、
密教の芥子焼(けしや)きのような護摩を焚き祈祷をしてくれるが、
やはり効きめがないままに、時間ばかりが経っていくばかりだった。


「心細く悪い事ばかりを思ってしまう」

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あの人は、わたしが病気で精進潔斎(けっさい)中ということで、
いつものように通って来てくれず、新しい家を造るというので、
そこへ行き来するついで、立ったままで、具合はどうなんだなどと言う。

あの人は、ことのついでに見舞うので、気が弱くなったような気がして、
命は惜しくないものの、わたしはあの人の心をつかみかねていた。



惜しからで 悲しきものは 身なりけり 人の心の ゆくへ知らねば

命よりこの身の辛さと悲しく思っている夕暮れに、あの人は、
新邸からの帰りに、蓮の実一本を使いに持ってこさせた。
暗くなったから、伺わない。これは、あそこのだよ。見てごらんと言う。



返事には、ただ、生きていても死んでいるようですと申し上げてと、
侍女に言わせて、物思いに沈んで横になっていると、あの人が言う所の、
とても素敵な邸を、私の命もわからないし、あの人の心もわからないから、
早く見せたいと言っていたのも、それっきりになると思うのも悲しい。



花に咲き 実になりかはる 世を捨てて うき葉の露と われぞ消ぬべき

花が咲いて実がなるというのに わたしはこの世を捨てて
蓮の浮き葉の露のようにはかなく消えてしまうだろうなどと思うほど、
何日経っても同じ容態なので心細く悪い事ばかりを思ってしまう。


「後悔し胸を痛めるにちがいない」

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わたしがいなくなった後でさへ、あの子を冷淡に扱う人がいたら、
きっと恨めしく思うことでしょう。これまで長い間、
わたしたちを最後までお世話してはくださらないと思いながら、

お見捨てにならなかったお心を拝見していますので、
どうかこの子をよくお世話してください。



先立つ時にはこの子ことをお頼みしてなどと思っていたとおり、
このようになってしまったので、この子のことを末長くお願いします。

誰にも言わない二人だけの歌を交わして、わたしが面白いなどと、
申し上げたことも、忘れないでいてくださるでしょうか。



今は具合が悪く、お会いして申し上げる時もありませんので、

露しげき 道とかいとど 死出の山 かつがつ濡るる 袖いかにせむ

死出の山道は一段と露の多い道と聞いていますが、もう今から、
早くも涙に濡れるわが袖を、どうしたらいいのでしょうと書いた。

私の亡きあとに、僅かな事も間違えないように、学才を充分、
身につけなさいと母が言い残しておいたとあの子に仰せくださいと、



したためて、封をして、その上に、四十九日がが終わってから、
殿に御覧に入れるようにと書いて、傍の唐櫃(蓋のついた箱)に、
にじり寄って入れたので、見ている人は変に思うかもしれないが、

病気が長引いたら、こういうことさえ書けなくなって、
きっと後悔し胸を痛めるにちがいないからである。


「物思いがちな五月雨の頃になると」

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わたしの容態は変わらないままなので、病気平癒の為の祭やお祓いを、
大げさではなく、少しずつ行ったりしてると、六月の末になった。

少し気分がよくなった頃に、帥殿(そちどの)の北の方が尼になられた。
帥殿の源高明の正妻なので尼と聞くと、とてもお気の毒なことと思う。



西の宮のお邸は、帥殿が流されて三日経った日に、すっかり焼けてしまい、
北の方は、桃園のお邸に移り、ひどく悲しみにくれていらっしゃると聞く。

とても悲しく、私の気分もすっきりしないので、静かに横になっていると、
あれこれ思うことが多いので、書き始めると、それはとても見苦しくなる。



今となっては、こんなことを言っても、どうしようもないのですが、
思い出してみると、春の末に、源高明の追放で花が散ったと例えられ、  
騒いでいたのを、お気の毒なことと聞いていたうちに、深山の鶯が、

声を限りに鳴くように、西の宮の左大臣さまも泣きながら、どんな前世の、
宿縁なのか、今はこれまでと、愛宕山を目指してお入りなったと聞く。



その事が世間の噂にのぼり、非道な仕打ちと、嘆きながら、隠れて、
いらっしゃったのに、とうとう見つかってしまい、流されてしまわれた。
騒いでいるうちに、辛いこの世も四月になると、鶯の代わりに、

山ほととぎすが鳴くように、左大臣さまを偲んで泣く声が、
どこの里でも絶えることがなく、まして物思いがちな五月雨の頃になると、
苦しいこの世に生きている限り、誰一人袂(たもと)を濡らさない人はない。


「胸が張り裂けるように嘆いて」

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その五月まで閏(うるう)が二度もあり、重ねた衣の袂(たもと)は、
身分の上下を問わず、涙で腐ってしまうほどで、まして父上を、
慕っていらっしゃる大勢のお子さまたちは、それぞれに、
どんなに涙で濡れていらっしゃることでしょう。



四方に別れる群鳥(むれどり)のように、お子さまたちはそれぞれ、
散り散りに古巣を離れ、わずかに幼いお子さまが残られても、
なんの甲斐があるだろうと思い乱れていらっしゃることでしょう。

言うまでもなく、左大臣さまは九重の宮中だけは住み慣れて、
いたでしょうが、同じ九という数とはいえ、今は遠い九州の地で、
二つの島(壱岐と対馬)を寂しく眺めていらっしゃることでしょう。



左大臣さまのご不幸を一方では夢かと言いながら、もう逢うことが、
できないと、嘆きを重ねて、尼になられたのでしょうか。

海人(あま)が舟を流して途方に暮れるように、どんなに寂しく、
物思いに沈んで毎日をお過ごしのことでしょう。



去ってもまた帰って来る雁のように、仮の別れなら、あなたの寝床も、
荒れることはないでしょうが、ただ塵ばかりが虚しく積もるばかりで、
流す涙で枕の行方もわからないことでしょう。

今は涙も尽きてしまった六月、木陰で鳴いている蝉のように、
胸が張り裂けるように嘆いていらっしゃることでしょう。


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