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源氏物語〔1帖桐壺19〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に 御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなり、帝はまた若宮が祖母を失われたことでたいそう悲しみになった。これは皇子が六歳の時の事であるから、今度は母の更衣の死に遭遇した時とは違い、 皇子は祖母の死を知って悲しんだ。今まで始終お世話をしていた宮と別れる事が悲しいという事ばかりを言って外祖母の未亡人は亡くなった。その後は若宮は宮中にばかりいる事になった。七歳の時に書初め式が行なわれて学問を始めたが、皇子の類ない聡明さに帝は驚くことが多かった。もうこの子をだれも憎むことはできないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがってやりなさいと帝はすこし話されて、弘徽殿へ昼間来られる時もいっしょになりそのまま御簾の中にまで入った。どんなに強さ一方の武士でも仇敵でもこの人を見ては笑みが自然にこみ上げるであろうと思われる美しい少童であったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮を二人授かっていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手として扱っていた。学問はもとより音楽の才も豊かであり、言えぼ天才児であった。
2024.05.23
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源氏物語〔1帖桐壺18〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。人目をはばかって寝室へ入ってからも安眠を得ることはできなかった。朝の目ざめもまた、夜明けも気付かずに語り合った昔の追憶が気になり、寵姫(ちょうき/君主の寵愛する侍女のこと)の在った日も亡いのちも朝の政務は怠けることになる。食欲もなく、簡単な朝食はわずかにお取りになるが、朝食として用意される大床子(長方形の食卓)のお料理などは召し上がらないことになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を歎いていた。側近の給仕する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。よくよく深い前生の縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声も耳には入らず、その人に関することだけは正しい判断を失ってしまい、亡くなったあとではこのように悲しみに沈んで政務も何も顧みなく、国家のために良くないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。幾月かののち第二皇子が宮中へ入る事になった。ごく小さい時ですら美貌の備わった方であったが、今は一層輝いて見えた。その翌年立太子(天皇の跡継ぎを定めること)があった。帝のおぼしめしは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておられて、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであると思い、心の中をだれにも洩らしにならな かった。東宮になったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子(おんまなご)でもやはり太子にはできないのだと世間も言い、弘徽殿の女御も安心した。
2024.05.22
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源氏物語〔1帖桐壺17〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。「尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであ った。お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永 久の愛を誓っていたが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直にもお上がりせずにいて、今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思うほどであった。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けずぎらいな性格の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。月も落ちてしまった。「雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿」命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像しながら起きておられた。右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。
2024.05.21
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源氏物語〔1帖桐壺16〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。勿体なさをどのように始末してよいやら。こうした仰せを承っても愚か者はただ悲しいとばかり思われる。「荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞしづ心無き/厳しい世間の風当を防いでいた母君の桐壺の更衣が亡くなってから、若宮のことが心配で気がかり」というような、歌の価値の疑わしいようなものもあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になり、帝はある程度はおさえていなければならぬ悲しみであると思うが、それが困難なようだ。はじめて桐壼の更衣の上がって来たころのことなどまでが心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみが帝の心を痛めた。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝は思われた。死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることで、そうしたいと帝はいつも思っていた。今となっては何もかも皆夢に終わって、未亡人に限りない同情をされてた。しかし、桐壺更衣はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろうという仰せがあった。命婦は贈られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に会って得て来た玉のかんざしであったらと、帝は甲斐ないこともお思いになった。
2024.05.20
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源氏物語〔1帖桐壺15〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。意匠を凝らせた贈り物をする場合でなかったので、故人の形見ということにして、裳唐衣(もからぎぬ/公家女子の正装のことで、朝廷出仕の女官で部屋を与えられた者の朝服)の一揃えに、髪上げの用具の入った箱を添えて贈った。若い女房たちは更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいに慣れていて、寂しく 物足らず思うことが多く、優しい帝の様子を思ったりして、若宮が早く御所へ帰られるようにと促すが、不幸な自分がいっしょに上がっていることも、また世間に非難の材料を与えるようなものであろう。またそのことかといって若宮とお別れしている苦痛にも耐えきれる自信がないと未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。御所へ帰った命婦は、まだ宵のままで寝室へ入っていない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りを愛でているようで四、五人の凡庸でない女房たちを傍において話をしていた。最近帝の御覧になるものは、玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした白楽天の長恨歌を、亭子院が絵にして、伊勢や貫之に歌を詠ませた巻き物。そのほか日本文学でも、愛人と別れた人の悲し みが歌われたものばかりを帝は読んでいた。帝は命婦に事細かに大納言家の様子を聞いていた。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外への声を気にしながら申し上げた。未亡人の返事の文を帝は御覧になる。
2024.05.19
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源氏物語〔1帖桐壺14〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。陛下の深い愛情がかえって恨めしいように、こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちに深夜になった。それは陛下も仰せになり、自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しかたをしたのも前生の約束で長くはいっしょに居られない二人であることを意識せずとも感じていたのだろう。自分らは恨めしい因縁でつながれていたと思った。自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってはならぬ女の恨みを背負い、ついには何よりも大切なものを失って、悲しみに暮れて以前よりも更に愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい様子ばかりを見せているとどちらも話すことにきりがなかった。命婦は泣く泣く、もう非常に遅いようなので、復命(命に従う)は今晩のうちにしたいと思いますと言って、帰る仕度をした。落ち際に近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声が聞こえるので帰りにくい。鈴虫が羽を振り声を限りに鳴くごとく長い秋の夜を泣き通しても、流れつづける涙で、どうにも車に乗り込めません。命婦はこんな歌を口ずさんだ。そうでなくても虫が鳴きしきる草深いこの侘しい鄙(ひな/いなか)の宿に ますますもって涙の露を置いてゆく雲の上からの使者よかえって訪問が恨めしいと申し上げたいと未亡人は女房に言わせた。
2024.05.18
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源氏物語〔桐壺13〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。若宮が目ざめるのを待って、若宮にお目にかかり、くわしい様子を陛下へ御報告したいのですが、使いの私の帰るのを待ちかねているでしょうから、それではあまりおそくなると言って命婦は帰りを急いだ。子をなくした母親の心の、悲しい暗さがせめて少しでも晴れる話をしたいと思っているのですから、公の使いでなく、気楽な気持ちでお休みがてらまた立ち寄ってくださいと伝えた。以前はうれしいことでよく来てくださいましたが、こんな悲し い勅使であなたを迎えるとは何ということだろう。返す返す運命が私に長生きさせるのが辛い。故人のことを申せば、生まれた時から親たちに輝かしい未来の望みを託した子で、父の大納言はいよいよ危篤になるまで、この人を宮中へ差し上げようと自分の思ったことを実現させてほしく、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことはしないでほしい。何度も何度も遺言を書いたのですが、確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思い、私はただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、過分な御寵愛を受けて、その光でみすぼらしさも隠していただき、娘は仕えていたのですが、皆さんの嫉妬の積もっていくのが重荷になり、寿命が尽きたとは思えないような死に方をしましたが、陛下のあまりに深い愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛からだと思います。
2024.05.17
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源氏物語〔桐壺12〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。娘を死なせた母親がよくも生きておられたというのに、運命がただ恨めしい、こうしたお使いが荒ら屋へ来て頂くとまたいっそう自分が恥ずかしくてならないと言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣いている。こちらへ上がりますと、またいっそう気の毒になり、魂も消えるようですと、先日典侍は陛下へ申し上げておられましたが、私のようなあさはかな人間でもほんとうに悲しさが身にしみますと言い、命婦は帝の仰せを伝えた。当分夢ではないであろうかとばかり思われたが、ようやく落ち着くととも に、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうなので、彼を早く宮中へ入れることにしてはいかがでしょうか。このようなお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと遠慮をなさらないでもない御様子が気の毒で、ただおおよそのことだけを承りまいりましたと言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしましてと未亡人は文を拝見するのであった。
2024.05.16
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源氏物語〔桐壺11〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。野分ふうに風が出て肌寒さを感じられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人が偲ばれになり、靫負の命婦(ゆげいのみょうぶ/衛門府の官人である女官)という者を使いとしてお出しになった。月がかかっている夕方の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前には月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せていた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂しさが味わわれた。末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのである。だが、子を失った女主人の無明の日が 続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさし込んだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。
2024.05.15
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源氏物語〔桐壺10〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。桐壺の更衣は優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと思えた。時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの品々が下された。桐壺更衣が死んだのちも日が経っていくに従ってどうしようもない寂しさばかりを帝は覚えるようになり、女御、更衣を宿直にされることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝タであって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。「亡くなってからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」などと言って、右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお考えなって、親しい女官や、 御自身の乳母などをその家へつかわしになり若宮の様子を報告させていた。あまりの寵愛ぶりであったのでその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。
2024.05.14
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源氏物語〔桐壺9〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなかった。どんなに惜しい人でも亡骸は亡骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、 母の未亡人は亡骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕の野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますために行く必要がありますと賢そうに言っていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。宮中からの使いが葬場へ来た。更衣に三位を贈られたのである。勅使がその宣命を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御とも言わせなかったことが帝には残り多くおぼし召されて贈位を賜わったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感を持った。同情のある人は故人の美しさ、性格が温厚などで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壼の更衣の真価を思い出していた。特別な寵愛ぶりであったからその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。
2024.05.13
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源氏物語〔桐壺8〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。桐壺更衣が死ぬのであったらこのまま自分の傍で死なせたいと帝は考えたが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが準備をしていて、それも必ず今夜から始めねばというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思いながらお帰しになった。帝は悲しみで一杯になって中々眠ることができなかった。帰った更衣の家へ文を書いたが使いはすぐ帰って来るはずがなかなか帰って来ない。使いが持ち帰った文に返辞それすらも書くことが出来ないでいた。更衣からの返辞を聞くことが待ち遠し いと仰せられた帝であるのに、使いは、夜半過ぎに桐壺更衣は、お亡くなりになりましたと言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が抜け落ちてそのまま御所へ帰っ て来た。更衣が亡くなった知らせを受けた帝の悲しみは大きく、そのまま引きこもっておいでになった。 その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思ったが、母の忌服中の皇子が、穢れの多い宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。 皇子はどんな大事があったとも知らず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりなので不思議に感じているふうであった。
2024.05.12
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源氏物語〔桐壺7〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。華やかな顔立ちの美人が非常に痩せてしまい、心の中は帝とお別れして行く無限の悲しみがあったがロヘは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのを御覧になると帝は過去も未来も真暗になった気がする。泣く泣くいろいろな頼もしい将来の約束をしても更衣は返辞もできなかった。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しい感じになって寝ているので、これはどうなることだろうという不安が心を襲った。桐壺更衣が宮中から輦車(れんしゃ/人の手で引く車)で出てよい許可の宣旨を役人へ下しになったが、帝は病室へ直ぐ帰るということを許さなかった。死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだと、帝が話されると、その心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうに顔を見て、「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(死がそれほど私に迫って来ていないのでしたら)」これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝に言いたいことがあっても、 まったく気カがなくなってしまった。
2024.05.11
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源氏物語〔桐壺6〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。その年の夏のことである。御息所(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれる)は病になって、実家へさがろうとしたが帝は許さなかった。この頃どこか体が悪いということは桐壺更衣の常のことになっていた。帝は桐壺更衣が病だと言ってもそれほど驚きにならず、もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよいと言っているうちにしだいに悪くなり、そうなってからほんの五、六日のうちに病は重くなる一方だった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。こんな場合にはまたどんな呪詛が行なわれるかもしれない、皇子にまで禍いを及ぼしてはとの心遣いから、皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出することになった。この上留めることは不可能であると帝は思い直して、更衣が出かけて行くところを見送ることも出来ない極めて尊いの御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。
2024.05.10
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源氏物語〔桐壺5〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度の送迎でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった。数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心を痛めているのを御覧になると帝はいっそう憐れを多く加えて、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへ移して桐壼の更衣へ休息室として与えになった。移された人の恨みはどの後宮のときよりも更にまた深くなった。第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手な準傭の費用が宮廷から支出された。それにつけても世問はいろいろな批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聡明さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。
2024.05.09
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源氏物語〔桐壺4〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。殿上で音楽その他のお催し事をする際には、誰よりもまず先にこの人を常の御殿へ呼び、またある時は引き留めになり更衣が夜の御殿から朝の退出ができず、そのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子が生まれてより以後目立って重々しくお扱いになったから、東宮もどうかすればこの皇子を立てるのではと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最も若い時に入内した最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしてなれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っていた。帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無カな家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみが増えるばかりであった。住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼だった。幾つかの女御や更衣たちの御殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへ通いになり、宿直をする更衣が上がり下がりして行く桐壼であったから、始終監視していなければならず御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされていた。
2024.05.08
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源氏物語〔桐壺3〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺の研鑽」を公開してます。馬嵬駅(ばかいのえき/逃げ延びる皇帝玄宗に対し兵が楊貴妃の又従兄を殺害、寵姫の楊貴妃が賜死を受けた事件)がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ 深い愛情だけをたよりに暮らしていた。父の大納言は故人で、母の未亡人が生まれのよい女で、娘を勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者と。だが大官の後援者を持たぬ更衣は、いつも心細い思いをしていた。前生の縁が深かったか、美しい皇子までがこの人から生まれた。 寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思いから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を宮中へ招いた。小皇子はいかなる美なるものよりも美しい顔をしていた。 帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげている。第二の皇子の美貌にならぶことができないため、皇家の長子として大事にされ、これは自身の愛子として大事に思っていた。更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕する軽 い身分ではなかった。ただ愛するあまりに、その人自身は身分の高い女性と言ってよいほどのりっぱな女ではあり、始終そばへ置こうとしていた。
2024.05.07
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源氏物語〔桐壺2〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺」の研鑽を公開してます。どの天皇様の御代であったか、女御(にょうご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に頼む所がある宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちは嫉妬の怒りを燃やさないわけもなかっ た。夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見て耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がりがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという様子で、人が何と批評をしようともそれに遠慮などというものは起きては来ない。歴代天皇の徳を伝える歴史の上にも暗い影が残るようなことにもなりかねない。高官たちも殿上役人たちも困り、お目覚めになるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の楊貴妃の出現によって国が弱くなったといわれる。今やこの更衣女性が一天下の煩いだとされるに至った。
2024.05.06
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源氏物語〔桐壺1〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺」の研鑽を公開してます。源氏物語は平安時代に紫式部が書いた長編小説で、長保三年(1001年)頃に書き始められ、正式な成立年は不明だが、時代を超えて愛され、文豪・川端康成も「古今を通じて、日本の最高の小説」と評している。正・続編の五十四帖からなり、正編はさらに二つに分かれ三部構成となっており、第一部は主人公である光源氏の誕生から、栄華を極めていくまでの約四十年が描かれている。第二部はその後光源氏が亡くなるまでの晩年を描き、第三部では光源氏死後の子孫たちの模様が描かれている。「光源氏の誕生」の概要は、ある天皇の治世に、一人の更衣が帝の寵愛(ちょうあい)を受けていた桐壷の更衣(更衣とは、身分の名称で、帝の妃の中で1番低い位)だが、更衣の他の女性たちの嫉妬もあって病気がちになるが、天皇の寵愛はどんどん深くなる。若宮が誕生すると、第一皇子の母・弘徽殿女御(こきでんのにょうご)はこの若宮が皇太子になるのではないかと疑った。桐壺帝は、源氏物語に登場する最初の天皇。光源氏の父桐壺帝の更衣(天皇が衣服を着替えるために設けられた便殿 (べんでん) を更衣と称したが、のちに傍に仕える女官をさすようになる )は頼る人もなく一人辛い思いをして光源氏3歳の時亡くなる。これから時間のある限り源氏物語の研鑽をしていきたい。
2024.05.05
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源氏物語の女性たち3「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「紫式部が書いた源氏物語に登場する女性たち」末摘花(すえつむはな) 常陸宮(ひたちのみや)の姫君。契りを結んだ翌朝大きな赤鼻の醜女だったことを知る源氏だったが末摘花とは生涯関り続けた女性の一人。 美男美女ぞろいの源氏物語の中では異色の不美人である。源氏は彼女の困窮ぶりに同情し、また素直な心根に見捨てられないものを感じて、彼女の暮らし向きへ援助を行うようになった。名前の末摘花はベニバナのこと。源典侍(げんのないしのすけ) 桐壺帝に仕える高齢の女官。登場人物の一人の通称。年配だが色好みの高級女官として「紅葉賀」では五十七歳「葵」「朝顔」に登場する。先祖は皇族に連なる家の出身。琵琶を得意とし、趣味、教養、家柄、能力等、女官として申し分のない女性だが、年に似合わぬ色好みで有名であった。夫は修理大夫(すりのかみ)。朧月夜(おぼろづきよ) 右大臣の6番目の娘。弘徽殿女御の妹で朱雀帝の尚侍(ないしのかみ)。朧月夜は自ら光源氏と逢う機会をつくり、五十四帖「若菜」で光源氏と大恋愛するが、朧月夜は光源氏の実の兄である時の天皇に嫁ぐはずだった。光源氏との恋愛が発覚し白紙に。朧月夜の父は光源氏の政敵であり、光源氏は京都から須磨へ移り住むことに。朝顔の姫君(あさがお) 桃園式部卿宮(ももぞのしきぶきょうのみや)の娘、斎院。源氏に求婚されたが拒み通した。藤壺の死去と同じ頃、源氏の叔父の桃園式部卿宮も死去した。その娘、朝顔は賀茂斎院を退いていたが、若い頃から朝顔に執着していた源氏は、朝顔と同居する叔母女五の宮の見舞いにかこつけ頻繁に桃園邸を訪ねる。朝顔も源氏に好意を抱いていたが、源氏と深い仲になれば、六条御息所と同じく不幸になろうと恐れて源氏を拒んだ。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ) 先の春宮妃。教養高く優雅な貴婦人だが、源氏への愛と恨みから怨霊となって女君たちに呪い祟る。光源氏の最も早い恋人の一人で、東宮の死後、年下の光源氏と恋愛関係に陥るが、美しく気品があり、矜持の高い彼女をやがて持て余し、逢瀬も間遠になる。源氏にのめり込む御息所は、源氏を独占したいと思いと年上だという引け目、自分を傷つけまいと本心を押し殺す。強い嫉妬のあまり、生霊として源氏に関わる女性を殺す。
2024.05.04
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源氏物語の女性たち2「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「紫式部が書いた源氏物語に登場する女性たち」女三宮(おんなさんのみや) 朱雀院の第三皇女。光源氏の二番目の正室。薫の母。若菜の帖から登場する女性で、蝶よ花よと育てられたが、出家に伴って娘達の今後を案じた朱雀帝のはからいで、光源氏の正妻になった頭の中将の長男・柏木に迫られ、拒み通せずに関係を持ち薫を出産。罪の意識に耐えられず、出家してしまう。空蝉(うつせみ) 伊予介の後妻。衛門督の娘。光源氏が口説こうと部屋に忍び込んだが、上着のみを残してするりと逃げてしまったことからそう呼ばれる。 しかし、空蝉が光源氏を拒んだのは、空蝉の夫への誠意による行動で、光源氏のことは内心では魅力的に感じていたが伊予介(後年は常陸介)の死後、出家。のちに、二条東院へ引き取られる。軒端荻(のきばのおぎ) 空蝉の義理の娘。明かりの落ちた部屋で光源氏が逃げまわる空蝉と何とか関係を持とうと忍びこんだ明かりの落ちた部屋で空蝉と間違われ、そのまま光源氏と関係を持つ。この女性を「軒端荻」と呼ぶのは光源氏が送った和歌「ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかことを何にかけまし」(夕顔巻)に由来する呼称である。夕顔(ゆうがお) 頭中将の愛人であり、玉鬘の母。光源氏が六条御息所と逢瀬を重ねていた頃、御所からの帰り、病にかかった乳母を、五条の家に見舞い、その家の隣に、垣根に夕顔の花の咲いた家があり、光源氏は夕顔に魅入られ二人きりになるため出かけた廃院で、物の怪に夕顔の君を取り殺してしまう。光源氏は夕顔の忘れ形見の撫子の姫君玉鬘を引き取ろうとするが、その消息は知れなかった。
2024.05.03
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源氏物語の女性たち1「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「紫式部が書いた源氏物語に登場する女性たち」桐壺更衣(きりつぼのこうい)桐壺帝が寵愛し通いつづけた身分の低い更衣との間に授かった光る君。光源氏が3歳の時、宮中での女御や更衣たちから疎まれ露骨な嫌がらせを受けストレスから病になり里帰りし実家で亡くなってしまう。藤壺中宮(ふじつぼのちゅうぐう) 先帝の第四皇女。桐壺帝の中宮。藤壺が亡き母によく似ており、5歳違いの彼女に恋慕懐き、元服後も彼女を慕い続け、次第に理想の女性として恋を抱く。藤壺が病のため里下がりした折に関係をもち、源氏に生き写しの男御子(後の朱雀帝の東宮、冷泉帝)をもうける。何も知らない桐壺帝は高貴な藤壺が産んだこの皇子を溺愛したが、藤壺の心中は複雑だった。その年の秋に中宮に立后する。葵の上(あおいのうえ) 光源氏の最初の正室。結婚当初から、源氏との夫婦仲は冷え切っていた。ふたりの関係は当初からぎこちなく、冷ややかで、高貴な家柄である葵の上は感情を表すこともなかった。 夫婦でありながら遠く冷めた存在だった光源氏の子を懐妊したのだが、夕霧を出産に際して物の怪に襲われて 急逝。紫の上(むらさきのうえ) 若紫とも。葵の上亡き後、光源氏の正室ではないが、見目麗しく、言葉巧みで優しく、さらに財力もある光源氏は信頼できる存在で、教えられることすべてを素直に吸収して、源氏の妻たちの中では、最も寵愛される。六条院の春の町に光源氏と共に住まう。明石の君(あかしのきみ) 光源氏の愛人で明石の女御の生母。六条院の冬の町の主。生真面目で我慢強い。 万事につけて出しゃばらず賢く振舞うが、反面出自の低さを補うためか矜持が高く、同じく気位の高かった元恋人の六条御息所と似ている、と源氏は述懐している。 皇女にも劣らない美しさと気品を備え、和歌や音楽にも洗練された趣味を持ち、特に箏の琴や琵琶の名手でもあった。花散里(はなちるさと)桐壺帝の妃・麗景殿の女御の妹で、 容貌はそれほど美しくはないが姉の女御同様温和な慎ましい性格で、裁縫・染物などにも堪能な女性。 源氏の妻の中では紫の上に次ぐ立場となり、 始めは源氏の通い所の一人であったが、後新造の二条東院の西の対に迎えられ、六条院造営後は夏の町の主となって夕霧と玉鬘の養母。
2024.05.02
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〔100〕戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)(催馬楽)」、次に「席田(むしろだ)(催馬楽)」「此殿(催馬楽)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに伊勢の海(催馬楽)を謡う。右大臣は、和琴が実に見事だなどと、聞きながらお褒めになる。戯れておられたようだが、そのあげくにひどい失態をなさった気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二(はふたつ)」で、箱に納めて差し上げられたと拝見した。右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。笛は道長が、去る十一日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。紫式部日記(完)源氏物語1話桐壺の研鑽に入ったが時間が掛かる。
2024.05.01
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〔99〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。橘(たちばな)の三位の君をはじめとして、典(ないしの)侍(すけ)たちも大勢参上し、中宮付きの女房たちは、若い人々は廂の長押の下手に、東の廂と母屋の間の南側の襖を取り外して御簾をかけてある所に、上臈の女房たちは座っていた。御帳台の東側の隙がわずかにあいてる所に、大納言の君や小少将の君が座っていらっしゃる、そこにわたしは訪ねていって祝宴を拝見する。 帝は、平敷のご座所につかれ、御食膳が差し上げられ並べられた。お膳の調度や、飾りつけの様子は、言いようがないほど立派である。縁側には、北向きに西の方を上座にして、公卿たちは、左・右・内の大臣たち、東宮の傅(ふ)、中宮の大夫、四条の大納言と並び、それより下座は見ることができなかった。 管弦の遊びが催される。殿上人は、こちらの東の対の東南にあたる廊に伺候している。地下(じげ)の席は決まっている。景斉(かげまさ)の朝臣(あそん)(藤原景斉)、惟風(これかぜ)の朝臣(藤原景斉)、行義(ゆきよし)(平行義)、遠理(とおまさ)(藤原行義)などというような人がいた。殿上では、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁が琵琶、琴は□(不明)、左の宰相の中将が笙(しょう)の笛ということである。
2024.04.30
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〔98〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。 その日の女房たちの衣装は、だれもかれもが華麗を尽くしていたが、袖口の色の配色のよくない人でも、御前の物を受け取る時に、大勢の公卿たちや、殿上人たちに、袖口をまじまじと見られてしまったと、あとになって宰相の君なども、悔しがっていたようだとはいっても、それほど悪いというほどでもなかった。ただ色の取り合わせが引き立たなかっただけだ。小大輔(こだいふ)は、紅の袿一重に、上に紅梅の袿の濃いのや薄いのを五枚重ねていた。唐衣は、桜襲。源式部(げんしきぶ)は濃い紅の袿に、紅梅襲の綾の表着を着ていたが、唐衣が織物でなかったのを悪いとでもいうのだろうか。それは禁色だから無理というもの。公の晴れの場でこそ、過失がはた目にちらりと見えた場合なら、批判されてもよいだろうが、衣装の優劣は身分上の制約もあることだから言うべきではない。弟宮にお餅を献上なさる儀式なども終わって、御食膳なども下げて、廂の間の御簾を巻き上げる、そのそばに帝付きの女房たちは、御帳台の西側の昼の御座の向こうに、重なるようにして並んでいた。
2024.04.29
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〔97〕紅の袿に萌黄、柳、山吹の袿を重ね「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。弟宮の陪膳役は橘の三位(内裏女房、橘仲遠の娘徳子)。取次役は、端の方に小大輔(中宮女房)、源式部(中宮女房)、内には小少将の君が奉仕する。帝と、中宮さまとが、御帳台の中にお二人で一緒にいらっしゃる。朝日がさして光り輝いて、まばゆいばかり立派な御前の情景である。帝は、御引直衣(おひきのうし)に小口袴(こぐちばかま)をお召しになり、中宮さまはいつもの紅の袿に、紅梅、萌黄、柳、山吹の袿を重ねられ、上には葡萄染めの織物の表着をお召しになり、柳襲の上白の御小袿の、紋様も色合いも珍しく当世風なのを着ていらっしゃる。あちらはとても目立つので、わたしはこちらの奥にこっそり入りじっとしていた。 中務の乳母が、弟宮を抱かれて、御帳台の間から南面の方に連れて行かれる。よく整っていてすらりとはしていない容姿で、ただゆったりと、重々しい様子で、乳母として人を教育するのにふさわしい、才気の感じられる雰囲気がある。葡萄染めの織物の小袿と、紋様のないの青色の表着の上に、桜襲の唐衣を着ていた。
2024.04.28
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〔96〕幾重にも建ち並んだ殿舎の軒「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。つぎの日の、夕方、早くも霞んでいる空を、幾重にも建ち並んだ殿舎の軒が隙間もないので、ただ渡り廊下の上の空をわずかに眺めながらだが、中務の乳母(中宮女房、源隆子)と、昨夜の殿が口ずさまれたこと(野辺に小松のなかりせば)をほめあう。この命婦は、ものの道理をわきまえた、よく気がきくお人です。敦良親王の乳母である中務の命婦にとっても、道長が「野辺に小松のなかりせば」と口ずさんだことは当然嬉しいことだった。二の宮の御五十日―正月十五日 ほんのちょっと里に帰って、二の宮(敦良親王)の御五十日のお祝いは、正月十五日なので、その明け方に参上したが、小少将の君(源時通の娘)は、すっかり夜が明けた間が悪いほどのころに参上なさった。いつものように同じ部屋にいた。二人の部屋を一つに合わせて、一方が実家に帰っているときもそこに住んでいる。一緒にいる時は、几帳だけを仕切りにして暮らしている。殿はお笑いになる。お互いに知らない男でも誘ったら、どうするつもりだなどと、聞きづらいことをおっしゃる。だが、ふたりとも、そんなによそよそしくはないから、安心である。日が高くなってから中宮さまの御前に参上する。あの小少将の君は、桜の綾織の袿に、赤色の唐衣を着て、いつもの摺裳をつけておられた。わたしは紅梅の重袿(かさねうちき)に萌黄(もえぎ)の表着、柳襲の唐衣で、裳の摺り模様なども現代風で派手で、とりかえたほうがよさそうなほど若々しい。帝付きの女房たち十七人が、中宮さまのところへ参上した。
2024.04.27
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〔95〕すぐに歌を詠んだら、みっともないことだ「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。正月三日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配り、父親のかわりに、その罪が許されるほどの和歌を一首詠みなさい。今日は初子(はつね)の日なので、詠め、詠めと責められる。すぐに歌を詠んだら、みっともないことだろうと思い、またひどく酔っておられるので、ますます顔色が美しく、灯火に照らされた姿は輝き映えて素晴らしく、ここ数年来、中宮が寂しそうな様子で、一人でいたのを、侘しく見ていたが、このようにうるさいほどに、左右に若宮たちを拝見するのは嬉しいことだよと言われ、お休みになっている若宮たちを、帳台の垂絹を何度も開かれては見てらっしゃる。そして、野辺に小松のなかりせばと口ずさまれる。新しく歌を詠まれるより、こういうときにぴったりの歌を出してこられる、そんな殿の様子が、わたしには立派に思われた。 子の日する 野辺に小松の なかりせば 千代のためしに なにを引かまし 若宮たちがいなかったら わが世の千年の繁栄の証を何に求めよう[拾遺集]春、壬生忠岑 二皇子を得た道長の喜びに紫式部も共感している。
2024.04.26
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〔94〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。二間の東の戸に向かって、帝が若宮たちの頭上にお餅を丁寧に乗せるのである。若宮たちが抱かれて帝の前に参上したり退下したりする儀式は、見物である。母宮さまはおのぼりにならなかった。 今年の元日は、御薬の儀の陪膳役は宰相の君で、例の衣装の色合など格別で、実に素晴らしい。御膳を取りつぐ女蔵人は、内匠(たくみ)と兵庫(ひょうご)が奉仕する。髪上げした容貌などは、陪膳役の方が格別立派に見えるけれど、そのおつとめの胸中を察すると、わたしはたまらなくせつない気持ちになる。御薬の儀の女官の、文屋(ふや)の博士(内裏女房、文屋時子)は、利口ぶって才がありそうにふるまっていた。献上された膏薬(唐薬)が配られたが、それは例年行われることである。膏薬(皇薬)を忌んで唐薬という。正月三日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配った。
2024.04.25
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〔93〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。渡り廊下に造ってある部屋に寝た夜、部屋の戸をたたいている人がいると聞いたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした翌朝に殿から、 夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ まきの戸ぐちに たたきわびつる 昨夜は水鶏以上に泣く泣く槙まきの戸口で、夜通したたき続けたよ と文に、 返歌、 ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいか に くやしからまし 熱心に戸をたたかれたあなただから、戸を開けたらどんなに後悔したことでしょう藤原道長は紫式部にとって尊敬できる人間味にあふれた殿であったが、このように夜更けに戸を叩いて、強引に肉体関係を持とうとする老醜の男でもあったのだ。今年は正月三日まで、若宮たち(敦成〈あつひら〉親王、敦良〈あつなが〉親王)の御戴餅(いただきもちい)の儀式のために毎日清涼殿におのぼりになる、そのお供に、みな上臈(上皇や御台所への謁見が許される女中)女房たちも参上する。左衛門の督(かみ)(藤原頼通十九歳)が抱かれて、殿が、お餅を取りついで、帝(一条天皇)に差し上げられる。
2024.04.24
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〔92〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。人にまだ折られぬものを 源氏物語が中宮さまのところにあるのを、殿がごらんになって、いつもの冗談を言い出さしたついでに、梅の実の下に敷かれている紙に、すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふと書いて見せる。意味は、浮気者と評判がたっているので おまえを見た人で口説かないですます人はいないと思うという歌をくださったので、 (換毛期で家の中はももの毛が散らばり都度掃除機を掛ける)人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ だれにもまだ口説かれたこともないのに、だれがわたしを浮気者などと言いふらしたのでしょうなどと心外なことと申し上げた。道長と紫式部の関係はさまざまな解釈がされており、紫式部にとって道長より物語を書くのに必要な和紙を提供されており、かなり気を遣う必要があった。和歌のやり取りだけを見ると、藤原道長は紫式部にとってどのような関係だろうと思ってみたが道長の要望で源氏物語を書く事になり物語の登場人物は道長をモデルにして書いて行ったのであろう。道長は、物語の世界でさまざまな恋愛を書く式部を恋愛や物語に精通したものとして書かせては宮中で読ませて政治にも利用していたのではないだろうか。
2024.04.23
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〔91〕説教の仕方がそれぞれ異なっている「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。後夜の御導師の祈願は、説教の仕方がみなそれぞれ異なっていて、二十人の僧たちがみな中宮さまがこのように身重でおられる旨を、一生懸命に祈って、言葉につまって、笑われることもたびたびあった。仏事が終わって、殿上人たちは舟に乗って、みな次々と漕ぎ連ねて管弦の遊びをする。お堂の東の端の、北向きに押し開けてある戸の前に、池に降りられるよう造ってある階段の欄干を押さえるようにして、中宮の大夫は座っていらっしゃる。殿がちょっと中宮さまのところへ行かれたときに、宰相の君などが中宮の大夫の話し相手をして、中宮さまの前なので、打ち解けないように気をつけている様子など、御簾の内も外も趣のある雰囲気である。 月がおぼろに出て、若々しい男たちが、今様歌(平安中期から鎌倉時代にかけて流行した、多く七・五調4句からなる新様式の歌謡)を歌うのも、かれらはみなうまく舟に乗ることができる。若々しく楽しく聞こえるが、大蔵卿(藤原正光五十三歳)が、その中に年がいもなく入って、さすがに若い人たちに一緒に歌うのも気がひけるのか、ひっそりと座っている後ろ姿がおかしく見えるので、御簾の中の女房たちも秘かに笑う。舟の中にや老をばかこつらむ(舟の中で老いを嘆いているのでしょうか『白氏文集』巻三「海慢慢」の詩の一句の「童男丱女舟中老。徐福文成多誑誕」による)」とわたしが言ったのを、聞かれたのか。(撮影に行かれなかったので画像が少ない)中宮の大夫(藤原斉信〈ふじわらのただのぶ〉)が、「徐福文成(じょふくぶんせい)誑誕(きょうたん)多し(徐福や文成は嘘が多い)」と、朗唱なさる声も様子も、格別新鮮に感じられる。池の浮き草(今様歌の一節)などと謡って、笛などを吹き合わせているが、その明け方の風の様子さえも、格別の風情がある。こんなちょっとしたことも、場所柄、時節柄で趣深く感じるものである。
2024.04.22
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〔90〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。万が一この手紙がひと目に触れるようなことになったら、ほんとうに大変なことでしよう。世間の耳も多いことで、このごろはいらなくなった手紙もみんな破ったり焼いたりして捨ててしまい、雛遊びの家を作るのに、この春使ってしまってからは、人からの手紙もないですし、紙にわざわざ書くことはないと思ってるのも、人目に立たないようにしているからです。でもそれは悪い事情からではなく、意図してやったことで、この手紙を見られたら早くお返し下さい。あちこち読めないところや、文字の抜けたところがあるかもしれません。そういうところは、構わないので読み過ごして下さい。このように世間の人の口の端を気にしながら、最後に書き終えてみると、わが身を捨てきれない未練な心が、こんなに深くあるものですね。われながら一体どうしようというか。御堂詣でと舟遊び 十一日の明け方に、中宮さまは御堂(土御門邸の池のほとりにある供養堂)へお渡りになる。中宮さまのお車には殿の北の方(倫子)が同乗なさり、女房たちは舟に乗って池を渡った。わたしはそれには遅れて夜になってから参上した。祈願の仏事では、比叡山や三井寺(ともに天台宗の本山)の作法どおりに大懺悔(滅罪のための作法)をする。上達部は白い百万塔などをたくさん絵に描いて、遊び興じていらっしゃる。その多くは退出して、少しだけ残っている。
2024.04.21
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〔89〕ただ阿弥陀仏を信じてお経を習おう「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。今は言葉を慎んでかしこまるのはやめよう。他人が、とやかく言っても、ただ阿弥陀仏を信じて、お経を習おう。世の中の厭わしいことは、すべて露ほども未練はなくなったので、出家しても、仏道修行をなまけることはない。ただそう思って出家しても、来迎の雲に乗らないうちは心が迷うこともあるかもしれない。そんなわけで、出家をためらっている。年齢も、出家に適したころあいになってきた。(ももは換毛期に入り廊下や台所など抜毛が塊になっている)これ以上老いては、目もかすんでお経も読めないし、読経すら億劫になっていくから、信心深い人の真似事のようだけれど、今はただ、仏道方面のことだけを考えている。それにしても、わたしのような罪深い人間は、必ずしも出家の願いがかなうとはかぎらない。前世の罪を思い知らされることばかり多いので、なにごとにつけても悲しいことだ。出家を望みながら、俗世を離れられない人間の宿命的な苦悩を書いているが、これが後々『源氏物語』の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋までの宇治十帖で深く展開されることになるだろう。手紙にうまく書き続けられない良いことでも悪いことでも、世間の出来事や、身の上の憂えでも、残らず言っておきたいと思います。(家から車で6分程の青少年の森公園内の喫茶店)いくら不都合な人を念頭におき書き上げたとしても、こんなことまで書き立ててよいのでしょうか。しかし、あなたもすることがなくて退屈でしょうから、どうかわたしの所在ない気持ちをごらんになって、思っていることで、こんな無益なことはなくても、書いてください。拝見しましょう。
2024.04.20
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〔88〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮さまもお隠しになっていたが、殿も帝もその様子をお気づきになり、殿は漢籍などを立派に書家に書かせられて、中宮さまにさしあげられた。中宮さまがこうしてわたしに漢籍を読ませられていることまでは、さすがに、あの口うるさい内侍も、聞きつけていないだろう。もし知ったなら、どんなに悪口を言うだろうと思うと、何事においても世の中というものは煩わしいことが多く厭なものである。惟規(のぶのり)を式部の弟とする説が多いし、「光る君」では惟規(のぶのり)は弟として脚本されている。晦日の夜の引きはぎでは、わたしは兄だと理解している。原文では、「かの人はおそう読みとり」となっていて、弟がなかなか理解できなかったことを、そばで聞いていた姉が弟よりも早く理解したというのでは、わざわざ日記に認めなくてもいいと思う。兄よりも年少の式部のほうが早く理解したから、あえて日記に認めたのであり、父の為時も残念がったのであろう。『紫式部日記』を読んできて、『源氏物語』のすさまじい肉迫力と、骨身をけずるような描写力は、類まれな詩魂と学才を持った、ひとりの容赦ない女流から必然的に生み出されたと妙に納得してしまう。
2024.03.28
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〔87〕子供のころに漢籍を読んでいた「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。わたしの兄の式部の丞(藤原惟規、引きはぎ事件では兵部の丞)という人が、子供のころに漢籍を読んでいた時、そばで聞いて覚えていて、兄が時間をかけて理解したところや、忘れたりしたところでも、わたしは不思議なほど早く理解したので、学問に熱心だった父は、悔しい。この娘(こ)が男の子でなかったのは不運だと、いつも嘆いていらっしゃった。 それなのに、男だって学問をひけらかす人は、どういものだろうか。栄達はしないだろうよと、だんだん人が言うのを聞いてからは、一という漢字でさえ書いてみせないので、あまりにも無学で、あきれるほどだ。かつて読んだ漢籍などというものは、目にもとめなくなっていたのに、さらにこんなあだ名を聞いたので、こんなことでは人も伝え聞いて憎むだろうと、恥ずかしいので、屏風に書いてある文字さえ読まないふりをしていた。なのに、中宮さまが御前で、『白氏文集』のところどころをわたしに読ませられたりして、この方面(漢詩文)のことを知りたそうにしていらっしゃると思われたので、極力人目を避けて、女房の伺候していないあい間あい間に、一昨年の夏ごろから、楽府(がふ/白氏文集の巻二、巻三)といふ本二巻を、きちんとではないが教えさせていただいているが、このことも隠している。
2024.03.26
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〔86〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。慈悲深い仏様だって、三宝(仏・法・僧)をそしる罪は重いと説かれている。まして、これほど濁りきった世俗の人は、こちらに辛くあたる人には辛くしてもよいとおもう。それを、じぶんのほうが上だと言わんばかりに、ひどい言葉を言って、面と向かって険悪な表情でにらみ合ったりするのと、そうではなくて心の中を見せず、表面は穏やかにしているのとの違いによって、心の良し悪しはわかるものだ。 紫式部にとって人間の差は、本心を露にするか、包み隠して寛大にふるまうかの違いにあるようだ。日本紀(にほんぎ/日本書紀)の御局(みつぼね)・楽府(がふ/漢の武帝の時代に設けられた音楽の役所の名称)御進講 (天皇への講義) 左衛門(さいも)の内侍(ないし)(内裏女房、橘隆子)という人がいる。この人がどういうわけかわたしのことを不快に思っていたのを、知らないでいたところ、いやな陰口がたくさん聞こえてきた。帝(一条天皇)が、『源氏物語』を女房に読ませてお聞きになっていたときに、この作者は、日本紀(にほんぎ/日本書紀)を読んいるにちがいない。実に学識があると仰せられたのを、内侍が当て推量して、とっても学問があると、殿上人などに言いふらして、日本紀の御局(みつぼね)とあだ名をつけたが、まったくばかばかしいことだ。じぶんの実家の侍女の前でさえ、漢籍を読むのを隠しているのに、宮中のようなところで学識をひけらかすことなんかしない。
2024.03.25
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〔85〕すべて女は穏やかに心の持ち方も「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。人の心はさまざま 見苦しくないよう、すべて女は穏やかに、心の持ち方もゆったりとして、落ち着いていることを基本としてこそ、品位も風情も、魅力的で親しみがもてる。あるいは、色っぽく移り気であっても、生来の人柄にくせがなく、周囲の人にもつきあいにくい様子をしないようになってしまえば、憎いことはない。じぶんこそはちがうと、人の関心を引くことに慣れて、態度が仰々しくなった人は、立ち居振る舞いだって、じぶんで気を配っているときでも、その人には目がとまる。目がとまれば、かならずものを言う言葉の中にも、来て座る動作にも、立ってゆく後姿にも、かならずそうした癖はみつけられるものだ。言うことが少しちぐはぐな人と、他人のことをすぐけなしてしまう人とは、なおさら注意深く聞いたり見たりされるようになる。悪い癖のない人であれば、なんとかして、ちょっとした批判の言葉も聞かなかったことにして、形だけでも好意をかけてあげたくなる。 人が故意に、いやなことをした時は、悪いことを誤ってやった時でも、これを笑っても、遠慮はいらないと思う。とても心の美しい人は、他人がじぶんを憎んでも、自分は尚更、その人を思って世話をするかもしれないけれど、普通の人はとてもそんなことまではできない。
2024.03.24
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〔84〕自信満々で人を見下すそんな人「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。自信満々で人を見下すそんな人は、ほんとうの心とは裏腹のわたしの表情を恥ずかしがっているのだと見るけれど、そんなことはなく、面と向かって人に真向かいで座っていたこともあるが、あんなようなものだと非難されないようにしようと、恥ずかしいわけではないけれど、弁解するのが面倒だと思って、ぼんやり呆けてしまった人間のようにみせかけていると、こんな方だとは思わなかった。ひどくあでやかに取り澄ましていて、気難しげに、よそよそしい感じで、物語を好み、風流ぶって、なにかというと歌を詠んだりして、人を人とも思わないで、憎らしいほど人を見くだす人なんだと、だれもが言ったり想像したりして反感を持っていたのに、会ってみると、不思議なほどおっとりしていらっしゃって、まるで別人かと思われるほどと、みなが言うので、きまりが悪い。人からこうまでおっとり者と見下されのだと思うけれど、ただこれがじぶんの本心だというように、ふるまっているわたしの様子を、中宮さまも、ほんとうに打ち解けてはつきあえないと思っていたけれど、ほかの人よりずっと仲良くなったわねとおっしゃる時もある。個性的で、優雅にふるまい、中宮さまに尊重されている上流の女房の方たちにも、反感を持たれたりしないようにしなければと思う。紫式部は、宮廷生活の中で、じぶんを隠すことに懸命だった。なぜなら、内面にはびこる魔を、作品のほかの世界で放てば、人間の顔をした怪物みたいに思われてしまうからだ。これは古典近代期の芸術家たちの内心の仮装と似たものといってよいのではないだろうか。
2024.03.23
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〔83〕女が経を読むのさえ止められた「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。もう一方の厨子には、漢籍類、大切に所蔵していた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も特にいない。漢籍類を、どうしようもなく寂しくてしょうがないときに、一冊二冊引き出して見ていると、女房たちが集まって、ご主人さまはいつもこんなふうだから、幸せが少ないのです。どういう女が漢籍を読むのでしょう。昔は女が経を読むのさえ止められたのにと陰口を言うのを聞いても、縁起をかついだ人が、将来長寿だということは、見たこともないと言ってやりたい。それでは思いやりがないし、幸せが少ないと侍女たちの言うのももっともなので。何事も人によってさまざま。得意そうに派手で、楽しそうに見える人もいる。すべてにあてもなく寂しい人が、気のまぎれることもないままに、思い出の手紙を探し出して読んだり、仏への勤めに身を入れて、お経を絶えず唱え、数珠音(じゅずおと)高くもんだりするなど、あまり好感が持てないやり方だと思うので、わたしはじぶんの思うままにしてよいことまで、侍女たちの目を憚って、心の中におさめてなにも言わない。まして宮仕えで人中にまじっては、言いたいこともあるけれど、言わないほうがいいと思えて、わかってくれそうもない人には、言っても無駄だし、なにかと人を非難し、じぶんこそはと思っている人の前では、面倒なので、口をきくのもおっくう。特になにもかもすべてに通じている人はめったにいない。ただ、じぶんがこうと決めこんだことで、他人を無視しているようなものだ。
2024.03.22
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〔82〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。 世間の人が忌むという鳥もきっと渡ってくるだろうと思われて、すこし奥に引っ込んでも、やはり心の中では際限もなく物思いを続けている。 風の涼しい夕暮れに、聞くにたえない琴をひとり鳴らしては、嘆きが増すと琴の音を聞いてわたしの思いをわかる人もあるだろうと、忌まわしく思われるのは、愚かで哀れだ。 わび人の 住むべき宿と 見るなべに 嘆きくははる 琴の音ぞするわび住いをしている人が住んでいるのだろうと見ていると、嘆きが増すように琴の音がする 古今集寂しく暮らしている人の家だと思って見ていると、そこに嘆きが加わるような琴の音が聞こえた それにしても、見苦しく黒ずんで煤けた部屋に、筝の琴(十三絃の琴)、和琴(六絃の琴)が、調律したままなのに気づいて、雨の降る日は、琴柱を倒せなどとも言わないのでそのままに、塵も積もって、寄せて立てかけてあった厨子と柱との間に首をさし入れたまま、琵琶もその左右に立てかけてある。大きな厨子(ずし)一対に、隙間もなく積んであるのは、一つには古歌や、物語の本が言いようもなく虫の巣となってしまったもので、気味悪いほどに虫が逃げだすので、開けて見る人もいない。
2024.03.21
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〔81〕よく見れば、まだいたらないところが多い「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけれど、よく見れば、まだいたらないところが多い。清少納言は一条天皇皇后定子に仕えた才媛で、『枕草子』の作者。晩年は不幸落魄の身。紫式部はすでに『枕草子』を著して才女として名高い清少納言を痛烈に批判している。このように、人より特別に勝れようと意識的にふるまう人は、かならず見劣りし、将来は悪くなるばかりだし、風流を気取る人は、ひどく寂しくつまらない時でも、しみじみ感動してるようにふるまい、興あることを見逃さないようにしているうちに、しぜんと見当はずれの浮薄な態度にもなるだろう。そういう軽薄になってしまった人の最後が、どうしてよいことがあろうか。わが身をかえりみて このように、あれこれにつけて、なにひとつ、思い出となるようなこともなくて、過ごしてきたわたしが、夫を亡くして将来の希望もないのは、慰めるすべもないが、だからといって心寂しいだけのわが身だとは思わないようにしよう。そんな荒んだ心が依然として消えないのか、物思いがます秋の夜、縁近くに出て空を眺めていると、ますます、あの月が昔は盛りのじぶんをほめてくれた月なのだろうかと、老いたわが身を誘い出すように思われる。
2024.03.20
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〔80〕世に知られている歌はすべて「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。(ハクモクレンはまだツボミ状態)世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。それに対し、上の句と下の句がつながらない「腰折れ歌」を詠んで、なんとも言いようがない気取ったことをしても、じぶんこそ優れた歌人だと得意がってる人なので、憎らしくも気の毒にも思われる。赤染衛門 道長家女房。大江匡衡の妻。歌人で三十六歌仙の一人。『栄花物語』正編の作者と伝えられる。赤染衛門集に六一四首の歌がのっているが、残念だがわたしの琴線に触れる秀歌感動や共鳴を与えるといえる歌はない。和泉式部の歌は難解だが心に迫るものを感じるのだが・・・。赤染の歌を読んでいくうちに気づいたのは、赤染の歌には代作が多いから、歌が真に迫らないのではないかということである。光る君では、姫君たちに学問を指南する凰稀かなめが赤染衛門を演じている。百人一首には、家集四の「やすらはで 寝なまし物を 小夜更て かたぶく迄の 月を見し哉」があげられているが、この歌も当たり前のことを詠っただけで秀歌とはいえない。 清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけれど、よく見れば、まだいたらないところが多い。
2024.03.19
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〔79〕和泉式部が紫式部に贈った歌と返歌 「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。和泉式部が紫式部に贈った歌は、 夢にだに 見で明しつる 暁の 恋こそ恋の 限りなりけれ夢でさえ恋人の姿を見ることができないで明かしてしまった暁 この恋こそ 悲しい恋の極みだろうこれに対して、紫式部の歌は、澄める池の 底まで照らす かがり火に まばゆきまでも うきわが身かな澄みきった池の底まで照らす篝火が 恥ずかしいほどに映しだす不幸せなわが身 藤原道長邸の栄光を見るにつけても、式部はそれを単純に、めでたいなどとは思えない。篝火の光の中に闇を見てしまう。「まばゆきまでも うきわが身かな」と嘆くのは、紫式部独自の人生観である。和泉式部は恋を情熱的に歌い上げる。紫式部は輝きの中に闇を見てしまう。歌人と物語作家の歌は、交換不能の秀歌といえる。丹波の守(大江匡衡〈おおえのまさひら〉)の北の方を、中宮さまや、殿などのところでは、匡衡衛門(まさひらえもん 赤染衛門)と言っている。歌は格別優れているわけではないが、じつに風格があり、歌人だからといって、すべてにおいて詠み散らすことはしないが、世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。
2024.03.18
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〔78〕他人が詠んだ歌を非難したり批評したり「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。和泉式部のような歌人であっても、他人が詠んだ歌を、非難したり批評したりする場合、歌というものをよくわかっていないようだ。口からしぜんと歌が出てくるような、そんな感じの歌人。こっちが恥ずかしくなるような素晴らしい歌人とは思えない。和泉式部は、越前守大江政致(おおえのまさむね)の娘。情熱的な歌人で三十六歌仙の一人。中宮彰子への出仕は寛弘六年の初夏ごろ。紫式部と和泉式部は、歌においてはまさに対極にあるといえる。例を挙げると和泉式部が詠んだ歌。夢にだに 見で明しつる 暁の 恋こそ恋の 限りなりけれ現実はもちろん 夢でさえ恋人の姿を見ることができないで明かしてしまった暁 この恋こそ 悲しい恋の極みだろう 和泉式部終生の名歌である。初句から三句まではゆったりと運び、四句から結句まで、恋こそ恋の 限りなりけれ(コイコソコイノカギリナリケリ)とカ行音を駆使して、たたみかけるようなリズムは、彼女の直情的、情熱的な心情をあますところなく表現し、しかも結句「限りなりけれ」で急転直下、修復不能な嘆きに変わる。
2024.03.17
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〔77〕じぶんに気を配るのは難しい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。すべて非難するのはたやすく、じぶんに気を配るのは難しいはずなのに、そう思わないで、じぶんは賢いと、他人を無視したり、世間を非難しているところに、浅はかな心がはっきりと見える。まったく見せてあげたいような斎院の中将の手紙の書きぶりだった。ある人が隠しておいたのをそっと取り出し、こっそり見せてくれて、すぐに返してしまったので、手紙を見せられないのが残念である。紫式部は藤原実資に信用され、しばしば取次を頼まれ、斎院の中将の手紙に対する批評には、激しい憤りがあるが、斎院と中宮のそれぞれの環境と特質を分析した上で反論を進めているので説得力がある。相手の非だけを責めるのではなく、中宮方の短所も素直に自己批判している所へ常に自己凝視をする式部の特性がある。和泉式部、赤染衛門、清少納言の批評 和泉式部という人とは、趣深い手紙のやりとりをしたが、和泉には倫理的に感心しないところがある。気軽に手紙を走り書きしたときに、その面で文章の才能のある人で、ちょっとした言葉にも、色艶が見えるようだ。和歌は、とても上手い。でも古歌の知識、歌の理論などは、ほんとうの歌人というわけではなく、口からでるにまかせて詠んだ歌などに、かならず面白い一点の、目にとまるものが詠んである。
2024.03.16
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〔76〕ひどく弱々しく子どもっぽい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮の大夫(藤原斉信〈ただのぶ〉)がお越しになって、中宮さまに啓上なさるような時に、ひどく弱々しく子どもっぽい上臈(じょうろう/身分の高貴な人)たちは、応対なさることはめったにない。また、応対に出られても、どんことも(意味が分からなかった)てきぱきと応対しているようには見えない。言葉が足りないでも、心配りができないのでもなく、気がひける、恥ずかしいと思って、間違ったことを言うのを心配するあまり、できるだけ聞かれないように、ちょっとした姿も見られないようにしようとするのだろう。上臈以外の女房たちは、それほどでもない。男たちと対面しなければならない宮仕えに出たのなら、とても高貴な方でも、宮仕えのしきたりに従うものだが、中宮付の女房たちは、宮仕え以前の姫君の時のままの振舞いで、みないらっしゃる。下級の女房が応対に出るのを、大納言(藤原斉信)は快く思っていらっしゃらないので、大納言に応対しなければならない上臈の人たちが実家に帰っていたり、局にいても、やむをえず暇がない時には、応対にでる者がいなくて、大納言がそのままお帰りになるときもあるようだ。そのほかの上達部で、中宮さまの御所に来られて、なにか啓上なさるときは、それぞれ、贔屓の女房と、いつのまにかそれぞれ昵懇にしていて、その女房がいないときは、つまらなそうに、帰ってゆくが、そんな人たちがなにか機会があると、この中宮方のことを、引っ込み思案だなどと言うのも、無理もないことである。 斉院あたりの人も、こんなところを軽蔑するのだろう。だからといって、じぶんの方が、優れていて、他の人はものを見る目がない、風雅もわからないだろうと、侮るのも、筋が通らない。
2024.03.15
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〔75〕貴公子たちも斎院などのような所では「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。この貴公子たちも、斎院などのような所では、月を見たり、花を愛でたり、ひたすら風流のあることを、じぶんから求めて、想像したり口にしたりする。中宮方は、朝夕出入りして、心惹かれない所で、普通の会話でも歌や詩に関係づけて聞いたり、言ったり、或いは、男たちから興味あることを話しかけられて、返事を恥ずかしくなくできるような女房は、ほんとうに少なくなったと、殿上人たちは批評しているようだ。これはわたしが直接見たわけではないから、よくはわからない。斎院方は風流で奥ゆかしく、中宮方は地味で趣がないという殿上人たちの世評。みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかしわたしが直接見たわけではないから、よくはわからない「え知らずかし」は、中宮方への悪評に対する強い反発がある。人が立ち寄って話しかけてきたとき、ちょっとした応対をして、相手の気持ちを損なうのは困りもの。上手に応対して当然である。ところがこの当然のことができない、それだけ気立てのいい人はめったにいないということなのだろう。だからといって、とりすまして引っ込んでいるのが賢いといえるだろうか。また、どうして慎みなくあちこちしゃしゃり出るのがよいことなのだろうか。そのときどきの状況に応じて、配慮するのはとても難しいようだ。
2024.03.14
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〔74〕中宮さまはまだ十八歳と、とてもお若い「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。たしかに、何かの時に、つまらないことを言う方が、何も言わないより劣っているに違いない。とりわけ思慮深くない人で、中宮御所で得意顔をしている者が、ひどく見当違いのことを、なにかの時に言ったのを、中宮さまはまだ十八歳と、とてもお若い時で、ひどく聞き苦しいことと心から思われたので、それ以後、ただこれといった過ちがなくて過ごすのが、無難なことと思っていらっしゃるお考えに、子どもっぽい良家の子女たちが、みなとてもよく中宮さまの考えにあわせようと仕えているうちに、こんな中宮方の気風(地味で控え目)になれてしまったのだとわたしは思っている。 今では、中宮さまは二十三歳になり、だんだん大人らしくなられるにつれて、世の中のことも、人の心の良し悪しも、出過ぎるのも控えめなのも、すべておわかりになっていて、この中宮御所のことを、殿上人だれもが見なれて、特におもしろいこともないと思ったり言ったりしているらしいと、すべてご存じでいらっしゃる。だからといって、女房たちは奥ゆかしさに徹することもできず、ちょっと気を緩めれば、軽薄なことも起こってくるので、無風流に引きこもってばかりいるのを、中宮さまも、もっと積極的になってほしいと思ったり言ったりもなさるが、この中宮方の控えめな習慣はなおりにくく、また、現代風の若い貴公子たちときたら、この気風に順応して、中宮御所にいる間は実直にふるまう人ばかりである。
2024.03.13
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〔73〕中宮彰子の唯一の競争相手は皇后定子「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。中宮彰子(あきこ/しょうし)の唯一の競争相手は皇后定子(さだこ/ていし)だったが、定子は彰子が中宮になった長保二年(1000)の十二月に崩じている。こういうと上臈・中臈(上級・中級)の女房の欠点を、わたしがよく知っているようだが、人はみなそれぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない。このことが優れていれば、あのことが劣る、といったようなものだ。けれど、若い人たちでさえなるべく重々しくふるまおうと真面目にしているのに、上臈・中臈(上級・中級)の人たちが見苦しくふざけたりするのも、ひどくみっともない。とにかく中宮方の雰囲気を、このような無風流にはしたくないと思う。人はみなとりどりにて、こよなう劣り勝ることもはべらず(人はみなそれぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない)」式部の確かな人間観察で得たことだろう。とはいっても、中宮さまのお心はなにひとつ不足なところがなく、聡明で奥ゆかしくいらっしゃるのに、あまりにも内気な性格だから、気づいても言わないことにしよう。言ったとしても、なんの心配もなく後悔しないですむ人は、めったにいないと思っていらっしゃる。
2024.03.12
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