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ホテルからスキポール空港までは結構近く、無料シャトルバスも運行していたので、ホテルにチェックインした後、再び空港に遊びに来ました。空港内には、スキポールプラザというショッピングセンターがあって、約40店のショップが入っているそうです。ミッフィーと、チューリップは、お約束スイーツや、ファストフードなど、カフェやレストラン(セルフで、一言も喋らずともお料理が頂けるお店も)。ブランドからファストファッションのお店、お土産物屋さん等、色々なお店がありました。スーパーもあります。でも、ちょっとお高めかも。。コロッケの自動販売機もありました 一律、1つ2ユーロのようです。KLMのエアラインショップもあって、通路には、ブツ切りの機体が展示されていました。スキポール駅は、この空港の地下にあります。折角なので、電車に乗って、アムステルダムに行ってみることにしました。切符は、窓口か自動券売機で購入します。ただし、窓口で買うと、手数料がかかります往復切符(Dagretour)は、片道×2より割安とのこと。座席には、1等・2等とあるのですが、何も言わなかったら2等席でした。空港内のエスカレーターを下って行くと、もう駅のホーム。改札はどこかにあったのだろうか。。。時刻表によると、私が乗ろうとしている電車は、アムステルダム中央駅直行のインターシティらしいです。追加料金がかからないことを駅員さんに確認して(笑)、恐る恐る、2と書かれている車両に乗り込みました。
May 12, 2015
チューリップが咲くこの時期、オランダ&ベルギーへ行って来ました。ベルギーは、2004年に行ったことがあり、今回2回目。私の一番好きな国です今回も、この子。オランダですから。直行便搭乗手続きを済ませ、買い物も済ませ、ボーっとしていると、何と、アナウンスで呼び出されてしまいました 初呼び出し。。今年の1月から、大容量のバッテリーは、受託手荷物には出来なくなったそうです。ということで、人がいっぱいの搭乗口付近で、係員の方と一緒にスーツケースを広げて、スマホとデジカメの充電器を出すハメに。。。(1月にスペインに行った時は、スーツケースに入れてて大丈夫だったんだけど)スーツケースを閉める時、買い物の品をついでに入れちゃってもいいか聞いたら、もちろん、ダメでした。無事、私の荷物も積まれ、飛行機はオランダ・アムステルダムへ向け飛び立ちましたが、台風が近づいていたせいか、機体は揺れる揺れる。怖かった。。さて、私の席は一番後ろだったので、気にせずリクライニングシートを倒せる、機内食は初めにサーブされるので、品切れが無い。ラッキ~機内食は、どこかのホテルのシェフが手掛けているようで、珍しく 美味しかった。機内は中々消灯せず、KLMでは必ず出るアイスを待ち、アイスを食べてもまだ消灯せず、気が付いたら、2回目の機内食。結局、消灯することはなく、、、寝るのを忘れました。そのくらい、案外快適で、あっという間の11時間のフライトでした。そして、乗り換えの無い幸せ。アムステルダムは、風が強く、15時現在で気温は15℃。昨日は、26℃あったとのこと。
May 12, 2015
Jan 13, 2015
ランチの後は、今夜の宿泊地・バレンシアへ移動。バスの車窓から見える広大な土地には、オレンジ畑&オリーブ畑。ドライブは約4時間。スペイン周遊の旅は、この移動時間がネックですマドリッド、バルセロナに次ぐ第3の都市バレンシア。ただし、今回は泊まるだけ。今夜の夕食は、スペイン料理として有名なパエリアです。発祥は、ここ、米どころ・バレンシア。2種類のパエリアをいただく予定。1つ目は、バレンシア風パエリア。インゲン豆と鶏肉が入ったシンプルなパエリア。もう1つは、アロス・ネグロという、イカ墨のパエリア。イカ、トマト、タマネギ、ニンニクで旨みを出すカタルーニャ料理だそうです。炊き上がったものを見せていただいたけど、ホントに地味で…、見慣れないものでした(笑)お味も見たまんまで、、これが本場の、、ってことにしておきます。
Jan 12, 2015
Jan 12, 2015
バルセロナのシンボルと言えば、世界遺産のサグラダ・ファミリア。1882年に着工され、翌年ガウディが2代目の主任建築家に就任。当時31歳だったガウディは、この教会の建設に、後半生の全てを費やしました。初代建築家の案では、普通の教会だったはずが、ガウディに代わってから案が練り直され、“完璧な教会”を目指し、独創的な建物となっていったそうです。まずは、サグラダ・ファミリア前の公園から、全体像を撮影教会には、3つのファサードがあり、それぞれに4つの鐘塔を持ち、それは12使徒を表すそうです。現在は8本の鐘塔が完成しており、更に、キリストとマリア、4人の福音史家を象徴する塔の、合計18本の塔が建てられる予定。完成予想模型。色が濃い部分が、すでに完成している所です。日が昇る東側には、“生誕のファサード”。3つのファサードの内、唯一ガウディの生前に完成した部分です。キリストの誕生から幼少期を表していて、美しい彫刻が施されています。生命の木。純潔のシンボルとして、糸杉にとまる鳩たちの、大理石の彫刻。聖母マリアの戴冠。受胎告知。イエスを囲む天使たちと、奏楽の天使たち。など。右上のハープを奏でている天使の彫刻は、日本人彫刻家の外尾悦郎さんの作品だそうです。こちらの、生い茂った草と虫がモチーフの扉も、外尾さんの作品のようです。日が沈む西側には、“受難のファサード”。キリストの受難、死、復活を表した彫刻で装飾されています。生誕のファサードに比べると、随分シンプルに感じます。それぞれの彫刻は、ガウディが知り合いにモデルを頼んだそうです。そして、下の左端は、ガウディ本人なんだとか。鐘塔には、エレベーターが設置されていて、登ることができます。今はシーズンオフなので、スムースにチケットが取れましたが、ハイシーズンには、2時間以上待つこともあるようです。エレベーターには、セクシーなエレベーターボーイが乗っていますエレベーターを降りて、石段を登った先では、2つの塔が小さい石橋で繋がっています。ここから、下を覗くと工事現場が見え、バルセロナの街を一望することもできます下りの階段は、カタツムリをかたどった螺旋階段になっています。エレベーターボーイに聞いたところ、たしか300段。降りながら、教会内部を上から見れたり、工事現場を間近に見ることが出来ます。聖堂内部は、長さ90m、幅60m、高さ45mの、ラテン十字形のバシリカ式。森をイメージして造ったという聖堂は、ドーム型の天井を支えるため、柱は枝分かれをした樹木がモチーフとなているそうです。そして、ステンドグラスがとにかくキレイ生誕のファサード側のステンドグラスは、青系で落ち着き、受難のファサード側は、情熱的な赤なんだそうです。将来の正門となる“栄光のファサード”はまだ建設中。こちらのガラスは、外光を入れるため、白いままなんだそうです。そして、こちらは、ちょっと覗き込んでみた、地下聖堂。ガウディが最初に手掛けた礼拝堂で、ここにガウディが眠っているそうです。聖堂の地下は、博物館になっています。ガウディは、図面よりも、石膏の模型を造って確認しながら作業をしていたとのこと。ここには、その模型や、建設経緯の写真などが展示されています。また、職人さんが石膏模型を造っている様子も見学できます。そして、こちらは、サグラダ・ファミリア教会付属学校。サグラダ・ファミリア建設に携わる労働者の子供や、近隣に住むの子供のために、ガウディが費用を負担して建てられたもの。屋根や壁面全てが曲面という、独創的な建物。内戦で破壊され、2度再建されたそうです。資金難から建設が進まず、今も建設費は、寄付と入場料のみだそうですが、技術の進歩で建設期間は大幅に短縮されつつあるそうです。完成予定は、ガウディ没後100年の、2026年。これは、変わらないとのこと。ただ、、本当に出来上がるかは、分からないそうです。
Jan 12, 2015
スペインのタクシーは、都市ごとに色が決められているそうです。バルセロナは、黄色と黒。タクシーの上のランプは、赤:乗車中、緑:空車を表し、数字は行先を表しているのだそうです。自転車シェアリングも広まっているようで、至る所でサイクルポートがみられます。地元の人だけ利用出来て、1年契約だそうです。バルセロナのメイン・ストリート、グラシア通りには、ブランドショップやレストランなどが並び、その中にモデルニスモ建築も多く点在しています。この歩道、モデルニスモ建築の三大建築家の1人、アントニ・ガウディのデザインだそうです。こちらは、世界遺産のカサ・ミラ。1906年~1910年にかけて建設された集合住宅で、ガウディがサグラダ・ファミリアに従事する前の、最後の作品だそうです。切り出したままの岩が使われ、石切り場を意味する“ラ・ペドレラ”とも呼ばれるそうです。外壁は地中海の波のうねり、屋根は白波、バルコニーの鉄細工は植物や海藻をテーマにしているのだとか。どの部屋も明るさが同じになるように、窓は、下の階へ行くほど大きくなっているそうです。現在、4世帯が住まわれているそうです。家賃は12万。こちらも世界遺産の、カサ・バトリョ。1877年に建てられた建物で、1904年~1906年にガウディが増改築を手掛けました。テーマは海をベースに、カタルーニャの守護聖人、聖ゲオルギウスと龍の物語なんだとか。屋根は7色のセラミックタイルで、龍の鱗を表しているらしいです。壁に貼られた色ガラスは、ガラス会社の不要なものをリサイクルしたそうです。こちらは、カサ・バトリョのお隣の、カサ・アマトリェール。1898年~1900年に、モデルニスモの第2世代の建築家として知られるジュセップ・プッチ・イ・カダファルクによって建設された建物。壁面には浅いレリーフが施され、フランドル風の階段上の屋根や、幾何学模様が施されたアーチ状の柱が特徴。よく見ると、ゴシック風の窓枠の所にお猿さんがいたりと、可愛い建物。ガウディは、カサ・バトリョの建設の時、この建物をかなり意識していたらしいです。こちらは、ドメネク作のカサ・リェオ・モレラ。“花の建築家”とも呼ばれたドメネクらしく、花柄のタイルやレリーフがふんだんにみられます。この建物は、バルセロナの建築コンテストで受賞したそうです。グラシア通りのこのステキな建物たちが建つ区画は、有名な建築家たちの、個性的な作品が集まっているが故に、不協和音の区画と言われているそうです。
Jan 12, 2015
本日は、バルセロナの観光。7:30にホテルを出発しましたが、外はまだ真っ暗。月も出ています。8:20頃、やっと日が昇ってきました。バルセロナは、スペイン北東部のカタルーニャ州の州都で、スペイン第2の都市。スペイン語以外に、カタルーニャ語も使われ、スペインの中でも独自の歴史や文化があり、今でも独立を求める声があるんだとか。まず向かったのは、街の南西に位置するモンジュイックの丘へ。この地区は、1929年には万国博覧会が開かれ、1992年のバルセロナオリンピックでは、メイン会場となった場所。スポーツ施設や美術館などが点在しています。標高173mの丘からは、バルセロナの街が一望できます。サグラダ・ファミリアもこちらは、世界遺産の、サン・パウ病院。19世紀末から20世紀初頭に、バルセロナを中心に流行したモデルニスモ建築。モデルニスモとは、スペイン語で近代主義を意味し、イスラム美術とゴシック美術の特徴を併せ持つムデハル様式を用いたところが、最大の特徴とのこと。そのモデルニスモの三大建築家の内の1人、ドメネク・イ・モンタネールが手掛けたものですが、彼が亡くなった後、息子に引き継がれ、完成したそうです。広大な土地には、48の病棟が建ち、地下の廊下で繋がれているそうです。内部は、明るい色のタイルやステンドグラス、彫刻などの装飾があしらわれているそうです。こちらは、ゴシック地区のシンボルの、サンタ・エウラリア大聖堂。元々教会があった場所に建て替えられ、現在の建物は、1298年から150年かけて建てられたゴシック様式のもの。ファサードは、19世紀に改装された、ネオゴシック様式だそうです。主祭壇の地下には、バルセロナの守護聖人の聖エウラリアが眠っています。ステンドグラスが、とてもキレイ。内部には、小さな礼拝堂がいくつも並んでいます。回廊に面する、明るい中庭の噴水の周りには、たくさんのガチョウ(?)がいました。この大聖堂の前の広場にある、カタルーニャ建築家協会。この壁画、子供の落書きに見えてしまいますが、ピカソの作品だそうです。
Jan 12, 2015
冬のヨーロッパは寒い・ので、少しでも暖かそうなスペインへ行って来ました。何となく、、スペインは怖いイメージがあったので、ツアーにて。添乗員さんは、Tさん(♂)。今回のフライトは、KLM。オランダ経由です。約12時間のフライトの後、オランダのスキポール空港へ到着。日本を出る時は晴れていましたが、こちらはどんより。でも寒くはない感じ。スキポール空港を使うのは、7年ぶり。相変わらず広い。たしか、カジノとかあったはず。乗り継ぎの時間が短かったので、あまりフラフラ出来ませんでしたが、ステキなお店を発見チョコレートカフェ 次来た時は、絶対ここに寄りたいオランダだけに、チューリップの球根なども沢山販売しています。セールで、29ユーロ→14ユーロになってるようなお店もありましたが、それでも、高そして次は、この小さい子に乗って、スペインのバルセロナへ。後部座席はガラガラだったので、横3席占領し、約2時間のフライト中、ほぼ爆睡。バルセロナ空港で驚いたのは、荷物の出てき方。ベルトコンベアみたいな所に流れて来る時に、ドカンと音を立てて、勢いよく合流。こんな雑なの、初めて見ました(笑)
Jan 11, 2015
ローマには、定時より20分早く着きました。ここから、バスでターミナルへ移動。でも今度は、バスが来ないさすが、AZ。機長は、満面の笑みで、バンビーノたちをコックピットに入れてあげたりして、いたってのん気。そして結局、時間通りのフライトとなったのでした。1時間ほどのトランジットに、ターミナル間のシャトルバス移動があったり、また免税品を見ちゃったり、ジェラートを食べる時間が作れませんでした。。ここのお店が美味しいよ・って教えてもらったのにVenci 便器 ベンキと読むこのお店。帰りのフライトは、追い風ということもあり、9時間の予定。私は、いつも眠るだけ。成田に無事到着。妙に、肩が痛い。そして、飛行機から空港の建物に入るとすぐのところに、怪しい貼り紙が。“この飛行機に、あなたの荷物積まれていませんよ”リスト。どういう事情か知らないけど、、、さ・さすがAZ…ここで、あのシールが生きて来るのか。とにかく、今回、天候にも恵まれて、とても良い旅行でした。特筆すべきは、行程が良かったこと。クロアチア旅行のコースは“V字型”が多いけど、私たちのコースは、“ギザギザ型”V字型に比べて移動時間が短いし、効率的。
Sep 26, 2014
モンテネグロの空港は、小さい空港。荷物を預ける前に、「荷物が迷子になっちゃうことが多いから」と、スーツケースの中に、自分の名前を書いたAZのシールを張るよう、空港スタッフから言われました。何で、中に~とか言いながら、一応スーツケースを開けて貼りましたけど。。チェックイン→手荷物検査が終わった先のフロアは、出国審査と小さい免税店と待ち合いロビーが一緒。目前には、搭乗予定の小さいAZ機が見えています。売店で、モンテネグロ版レモンビール発見。
Sep 25, 2014
ボスニア・ヘルツェゴビナを出発し、国境を越え、再びクロアチアへ入国。ディナル・アルプス山脈を越え、またアドリア海が見えてきます。この辺りは水が豊富で、食用のブドウや高原野菜が作られているとか。そして海岸沿いを走っていると、国境検問所が現れ、再びボスニア・ヘルツェゴビナへ入りました。ボスニア・ヘルツェゴビナは、9kmだけアドリア海の海岸線に面しています。ここに、ネウムという街があります。ホテルに併設されているっぽいスーパーで、しばしお買い物タイム。ここは、免税店なので、お安いです買ったものは、お決まりの、、、クロアチアの老舗メーカーKRASのチョコレートに、万能スパイスのVEGETA、それから、イチジクのジャム。KRASのチョコは、板チョコから箱入りなど色んな形があり、味の種類も豊富です。VEGETAも色々種類あり。写真後ろの、オーガニックのものは、超美味しい・と勧められて購入。20%OFFは、自分用です(笑)お買い物を楽しんで、近辺をふらふらしている内に、可愛いお客さんが。バスの運転手さんのお子さん、マギー(2歳) 可愛い~ここからは、マギーとママも合流しての旅となりました。
Sep 23, 2014
本日のランチは、モスタルのレストランにて、代表的なボスニア料理をいただきました。こちらは、モスタルの地ビール。すごく軽いです(笑)こちらは、ゼリャニッツァというパイ。ほうれん草と、チーズ、サワークリームが入ってる感じです。味付けはそんなに濃くなく、サクサクとして食べやすいです。こちらは、チェヴァプチチ。この名前は、小さいケバブという意味だそうです。細長いハンバーグ的なお肉を炭火焼にしたもので、結構スパイシー。ピタパンみたいなパンに挟んでいただきました。お肉もパンも、固かった しっかりした作りでした。食後のデザートは、案の定、歯が痛くなるような、甘~いケーキ(笑)
Sep 23, 2014
モスタルの観光スポットの、トルコの家。ネレトヴァ川を望む川沿いに17世紀に建てられた、オスマン帝国時代の伝統家屋で、当時の生活様式が再現されています。入り口の門。天然の小石が敷き詰められた中庭。そして、ここにある小さい泉。このオブジェは人生そのものを表し、上は12か月を、真ん中は季節を表す。そして泉の周りにある3つの丸い白いものは、1つはメッカの方を向き、あとの2つは、“death”と“beginning”を意味するそうです。こちらは、別棟の台所。さて、ちゃんと、靴を脱いでおじゃまします。梁は、こんな感じ。当時の部屋は、奥が男性、手前が女性と分かれていて、男性の部屋は女人禁制だったそうです。トルコ絨毯の敷かれた部屋に、当時使われていたオリエンタルな調度品など、中々ヨーロッパでは味わえない雰囲気です。この居間部分を外から見ると、ネレトヴァ川に張り出すように建てられていて、14mの石柱で支えられています。
Sep 23, 2014
Sep 23, 2014
昨夜もまた、暴風雷雨でした。でも今朝は快晴。夜降って朝晴れるのは、いいサイクルであります(笑)今日は、クロアチアを少し離れて、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルへ。ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてオスマン帝国の支配下にあったため、トルコ的なオリエンタルな雰囲気があります。そして、国土の中央をディナル・アルプス山脈が走る、山あいの国です。こんな、石灰岩の山が延々と続く高速道路を走ること1時間半、国境は民家のあるキャベツ畑の中でした。普段は来ないという係員がバスに乗り込んで来て、パスポートにスタンプを押して、クロアチア出国。数メートルの中立地帯を通って、ボスニア・ヘルツェゴビナへ入国。モスタルへ向かう道沿いは、水はけが良く日当たりの良い土地を利用した、広大なワイン用のブドウ畑が続いていました。
Sep 23, 2014
ディオクレティアヌス宮殿は、ローマ皇帝のディオクレティアヌスが、305年に退位した後に余生を過ごした場所。銅の門の階段を降りた入口から、宮殿の地下を見学することが出来ます。当時の宮殿の想像図。城壁内の敷地は4区画に仕切られ、南側が皇帝の住居、北側は兵舎と使用人たちの住居として使われていたそうです。地下ホールは、元々宮殿の1階部分でしたが、地盤沈下で地下になったそうです。ここは、調理場や、食糧倉庫として使われていたそうですが、都市化が進むにつれ、ゴミ捨て場として使われるようになったそうです。そして、これがゴミの跡。。 でも、このゴミを撤去してしまうと、宮殿が崩れてしまうので、そのままにされているのだそうです。地上へ通じる通路には、お土産物屋さんが並んでいます。さて、地上に戻り、皇帝の住居であった所に行ってみました。ここは宮殿の2階にあたりますが、部屋の仕切りもなく、屋根も残っていません。ここは、王のダイニングだった所。ここは、王専用のバルコニーだった所。ここは、前庭と呼ばれる、皇帝の私邸の玄関口。ここでも、クラパの美しいハーモニーが響いていました宮殿の中心には、ペリスティルと呼ばれる中庭があります。こちらは、中庭の南側に面する、皇帝の住居への入口。この威厳に満ちた建物から皇帝が姿を現すと、人々は平伏して敬意を表したんだとか。そしてこちらは、東西に残る、12本のコリント式の列柱。この柱のアーチの下には、皇帝がエジプト遠征の際に持ち帰ったという、スフィンクスが置かれています。スプリットの宮殿からは、11体のスフィンクスが見つかっているそうです。こんな、路地裏の民家の壁にも、スフィンクスが埋まってたりします。当時キリスト教徒は迫害を受けており、キリスト教が解禁となってからは、偶像崇拝禁止のため色々と壊され、首のないスフィンクスもあるのだとか。こちらは、東側にある大聖堂。24本の柱に囲まれるように建つ8角形の変わった建物は、ディオクレティアヌス皇帝の霊廟を、7世紀にキリスト教の大聖堂として改築したものだそうです。かつては、ディオクレティアヌス皇帝の石棺があったそうですが、破壊されて残っておらず、その代わりに、皇帝によって迫害され殉職し、スプリットの守護聖人になった聖ドムニウス司教の棺が置かれているそうです。そして、こちらの鐘楼も上れますが、有料だったため トロギールで上って満足したので、今回は止めておきました(笑)そして、こちらは、かつて皇帝が自らの父と称したユピテル神(ジュピター)を祀った私的な神殿でしたが、後に、キリスト教の洗礼堂に改築された建物。ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教を弾圧した最後の皇帝であり、キリスト教徒から最も憎まれる皇帝の1人だそうです。。こちらは、CROATA というネクタイやスカーフを販売しているショップ。クロアチアは、ネクタイ発祥の地と言われています。17世紀、兵士が戦場に出る際に、妻や恋人が無事を願って、首にスカーフを巻いて送り出しました。それがルイ14世の目に留まった辺が由来のよう。ネクタイ本家のブランドCROATAでは、クロアチアの風物、動植物、歴史などをモチーフにしたオリジナルデザインのものなどがあります。ダルマチア地方だけに、こんな柄のものも
Sep 22, 2014
トロギールを後にして、車を走らせること50分弱、スプリットに到着しました。スプリットは、クロアチア第2の都市であり、アドリア海沿岸で最大の都市。古代ローマ時代の宮殿の外壁の中に、民家が並んでいるという、少し不思議な街並み。それは、廃墟となった宮殿内に人々が住み着き、宮殿の基礎部分はそのままに、建物を増築していったためとのこと。世界遺産に登録されています。当時の宮殿は約200m四方の城壁に囲まれていて、その城壁には東西南北それぞれに門があり、銅の門と呼ばれるかつての宮殿の入り口がある城壁の南側の通りは、当時は海だった部分。船を横付けして、直接宮殿に上がれるようになっていたそうです。現在は、カフェが立ち並んでいます。こちらは、北側にある金の門。この門の前に、グルグール司教の像があります。宗教会議で教会でのスラブ語使用が禁止された時に、撤回を求めた人物で、クロアチアの英雄の1人だそうです。この像の左足の親指に触れると、幸運が訪れると言われているそうです。あいにく修復中だったのですが、、、ちゃんと、左足だけ出しておいてくれていましたみんなが触るから、ピカピカですこちらは、西側にある鉄の門。4つある門の内、一番保存状態が良いそうです。この門に面したナロドニ広場。14世紀以降、スプリットの行政、商業、市民生活の中心となった場所だそうで、旧ベネツィア共和国の庁舎も建っていました。カフェやショップが立ち並び、とても賑わっています。
Sep 22, 2014
こちらも、イヴァナ・パヴラ広場に建つ、トロギールで最も重要な建造物、聖ロヴロ大聖堂。初期キリスト教のバシリカを、13~15世紀に建て替え、鐘楼まで完成したのは17世紀。そのため、様々な建築様式が組み合わされています。この正面入り口は、1240年に造られたロマネスク様式の門。門の下部の両端にはアダムとイブに、ヴェネツィアのシンボルのライオン。それから、カレンダーなどの彫刻が施されています。カレンダーといっても、12月~4月までしかないそうですが(笑)上部には、キリストの生涯の彫刻が施されています。身廊上部には、ゴシックのアーチが施されています。そのアーチから、キリストが描かれた十字架が下がっています。こちらは、主祭壇。13世紀に造られ、4本の支柱の上に、8角形の天蓋が乗っています。そして、聖歌隊席と説教壇。説教壇は、13世紀の石造り。8本の柱の柱頭には、ロマネスクの彫刻が施されています。聖歌隊席は、15世紀中頃の木製のゴシック。こちらは、初期ルネッサンスの傑作と言われる、聖イヴァン礼拝堂。礼拝堂の正面には、初代トロギール司教の、守護聖人イヴァン・ウルスィニの石棺が置かれています。そして、両脇の窪みには、12使徒の彫刻が立っています。アドリア海を挟んで向かい合う国・イタリアのルネサンス文化から大きな影響を受けたことが分かる、典型的なイタリア・ルネサンス様式だそうです。そして大聖堂のシンボルとなっている、高さ47m、3層構造の鐘楼。14世紀初頭に建てられ、ヴェネツィアからの攻撃後修復し、完成したのは17世紀初頭。そのため、各層の建築様式は異なり、1階:ゴシック様式、2階:ヴェネツィアン・ゴシック様式、3階:後期ルネサンスのマニエリスムとなっています。無料だったので(笑)、上ってみました。石の螺旋階段を上ると、バラ窓の外へ出ました。まだここは、鐘楼の1階! 眺めはこんな感じ。次は、石段を上って、2階へ。眺めは、こんな感じ。さて、さらに3階へ。最後はほぼ垂直の、ヤバいくらいな梯子 風もあったので、ちょっと怖かったです。。3階には、鐘。最上階まで上った甲斐あって、茶色の屋根とアドリア海と、トロギールの街が一望出来て、キレイで、気持ち良かったです
Sep 22, 2014
イヴァナ・パヴラ広場に建つ時計塔の下部は、聖セバスチャン教会で、1477年にニコラ・フィレンティナッツによって建てられました。時計は現在でも、ちゃんと動いています。その時計塔の隣には、ロッジアと呼ばれるローマ風の柱廊で囲まれた、屋根つきのオープンスペースがあります。かつては、裁判所や税関、集会所などとして使われ、アドリア海沿岸の町ではよく見かけられるスペースだそうです。このロッジアは、裁判所として使われていたそうで、壁のレリーフには、天秤を持った聖母が、善悪を秤にかけ正義を計っている場面が刻まれています。ちょっと気になっていた、ここでゴソゴソと作業をしていた人たち。 ↑↑↑クラパという、ダルマチア地方の伝統的音楽をアカペラで合唱するグループで、無形文化財として世界遺産に登録されているそうです。厳かな曲を1曲歌ってくれました。キレイなハーモニーが、石造りの建物に響いて、とてもステキでした。そして、ガイドさんが彼らの友達だった・ってことで、オマケでもう1曲そして、歌い終わると、笑顔でCD販売の営業
Sep 22, 2014
昨日の夜は、なんと暴風雨と雷どうなることかと思いましたが、朝には、こんないい青空に。今日は、内陸部から、アドリア海沿岸へと移動して行きます。プリトヴィッツェを出発し、バスを走らせること約3時間、トロギールへ到着しました。トロギールは、周りを城壁に囲まれた小さな島。元々はクロアチア本土と陸続きでしたが、敵の侵略に備えて水路を造り、本土と隔てられたそうです。トロギールは、紀元前2~3世紀に古代ギリシア人が建設した植民都市で、漁港として使われていたそうです。東西に500m、南北に300mの小さな島には、様々な時代の建造物が保存され、景観もとてもキレイで、1997年に世界遺産に登録されています。本土側にあるバスターミナルのすぐ近くには、青空市場。この水路に架かった橋を渡って、旧市街へ入って行きます。旧市街の入口、北の門。門の上には、町の守護聖人の一人、12世紀の司教イヴァン・ウルスィニの像。旧市街の路地は、石畳が敷かれ、入り組んでいます。狭いですが、とても雰囲気がいいです。サラッと通り抜けて、島の南の運河側に出てみました。この通りは、オバラ・バナ・ベリスラヴィチャ通り。トロギール運河を挟んで、対岸には、チヴォ橋で繋がったチオヴォ島が見えます。ここは、埠頭になっていて、クルーズ船やボートなどが沢山停泊していました。島の南西端には、カメルレンゴ要塞。15世紀のヴェネツィア支配時代に、オスマン・トルコ帝国からの攻撃及び、トロギール市民の反乱に備えて造られたそうです。こちらは、ドミニコ会修道院この通りにはヤシの木が生え、南国ムードな感じ。オープンカフェも沢山並んでいます。この南門から、再び城壁の中へ入ります。見どころは、イヴァナ・パヴラ広場に集まっています。聖ロブロ大聖堂に、時計塔に、市庁舎。こちらは、13~14世紀にルネサンス様式建てられたもの。かつては宮殿でしたが、現在も市庁舎として使用されています。中庭には、ゴシック様式の階段と井戸が残されています。
Sep 22, 2014
散策が終わって、清々しい気分でいるのも束の間。今日宿泊するホテルへ行くには、更に200段程の階段を登って行かねばなりません。本日は、プリトヴィッツェ国立公園内にあるホテルに泊まります。泊まるのは、公園内の最上級なホテル、、と言っても、3軒しかない内の1軒ですが、合宿所みたいな感じでした。お部屋のバルコニーからの景色は、どこかの避暑地みたいで、気持ちいい。さて、こちらは、夕食で頂いた、Radlerという、通称レモンビール。名物 あまり泡立たず、黄色くて、レモンの酸っぱい感じがして、ジュースのようでした。アルコール度数2度。他にも、違うフレーバーの“フルーツビール”があるようです。公園で動物には殆ど会えなかったけど、熊さんは、こんな所にいました。
Sep 21, 2014
午後は、プリトヴィッツェ湖群国立公園をお散歩です。この公園は、ザグレブから南へ110kmほどの内陸部に位置し、自然林に囲まれた渓谷に、大小16の湖と92の滝が点在しています。1949年に国立公園に指定され、1979年には世界遺産に登録されたそうです。しかし、内戦当時は、ここは戦場であり地雷が埋められたりもしていて、一時危機遺産リストに登録されていたそうです。2か所ある入口のうち、私たちは、入口1から入ります。公園内では、1146種もの植物が見られ、様々な鳥や動物も生息していて、熊もいるよ・ということで、公園のシンボルマークは熊さんです。さて、散策始め。天気も良く、気持ちいい 少し暑いくらいで、半袖の人も。展望台からは、早速、滝が見えてきました。多分、ヴェリキ・スラップと呼ばれる大滝。多分…プリトヴィッツェ川からコラナ川に流れ込む滝の落差は78mで、国内最大だそうです。湖の色は、エメラルドグリーン。湖の深さは、2m~50mまでと様々だそうです。てくてくと、橋を渡って、だんだんと湖岸に降りて行きます。川には、マスがいっぱい。ボートの発着所は3か所(P1~3)。私たちは、P3からボートに乗ってコジャク湖を遊覧します。それにしても、この水の透明度湖一帯はカルスト地層で、ここに降った雨水は長い年月をかけて石灰岩層を通り浄化されて、再び地表に現れるため、とても澄んだ水なのだそうです。水はそれほど冷たくありません。15分くらいかけて、コジャク湖を遊覧。湖からの眺めもキレイP2の乗場へ到着。この辺りは、ブルゲティと呼ばれる、小さくて浅い湖が集中したエリアです。先週大雨が降ったそうで、水量が多く、迫力満点。マイナスイオンもいっぱいでした水中に横たわる倒木や岩には、“石灰華”と呼ばれる炭酸カルシウムが固まったものがついていて、その石灰華は、水を浄化させる働きをしているそうです。そして、この辺りにいるマスはすっかり成長しておいしそうでしたが、やっぱりカモは無視!さて、再びボートに乗って、P2からP1の乗場へ。全然愛想がない船頭さん(笑)
Sep 21, 2014
本日のランチは、ペカというお料理です。鉄鍋の中に、お肉やジャガイモなどの野菜を入れて蒸し焼きにした、ダルマチア地方の伝統料理だそうです。私たちは、これが何の肉なのか分かりませんでした。。と言うのも、レストランの外の調理室では、こんがりと、仔羊の丸焼きが作られていたので。でもこれは、他のお客さま用で、私たちが頂いたのは、牛肉だそうです(笑)デザートには、Ustipciという揚げドーナツ。粉砂糖をまぶしてありますが、見た目に反して、甘さより塩気を感じるお味でした。クロアチアの母の味
Sep 21, 2014
ザグレブの旧市街をさらりと散策し、次の訪問地へと向かいました。日曜日なので、高速道路はガラガラ。その途中、カルロヴァッツの野外博物館へ立ち寄りました。ここには、ユーゴスラビアからの独立時の内戦によって破壊された建物や、爆撃された戦闘機、戦車などが展示されています。そして、博物館の外の住居にも、砲弾の跡が当時のまま残っています…
Sep 21, 2014
ザグレブの中心にある、イェラチッチ広場。広場に面した建物は、ほとんどが19世紀に建設されたもので、パステルカラーの可愛らしい建物は、ウィーンを思いおこさせます。この広場の中央に建つのは、19世紀の軍人、ヨスィプ・イェラチッチ総督の像。クロアチアでは、国民的英雄の一人とされている人物だそうです。この広場はこれまでに何度か名前が変わっていて、1848年から、イェラチッチ総督に因んで“イェラチッチ広場”と呼ばれるようになりました。しかし、第二次世界大戦中に社会主義時代が到来すると、広場は“共和国広場”と名前を変えられ、像も撤去されてしまいますが、1991年には再び名前と像は戻って来たそうです。こちらは、広場の東の方にある、マンドゥシェヴァツ噴水。地下には、今でも水が湧き出ていて、19世紀まで、ザグレブ市民はここから水を引いていたそうです。当時、ここから湧き出る清らかな水を飲むと、またザグレブに戻って来られるという言い伝えがあり、現在では、このマンドゥシェヴァツ噴水に小銭を投げ入れると、願いが叶うと言われているそうです。そして、この広場には、ひっきりなしにトラムが走っていました。こちらの観光列車は、無料のようですいつしか民族衣装を着た人たちが集まり、楽器を演奏しながらパレードをし、広場でダンスをしたり、キャンディやクッキーを配ったりしていました。何かのお祭なのか聞いてみたら、「日曜だからじゃない?」と。。 聞いた相手も観光客だったので、、、本当の所は分かりません広場の先は、新市街。EU加盟後の新しいビルが建ち並んでいます。その一方、ユーゴ時代からのボロボロになった建物が、そのまま残されている所もあって、ほんの20年弱前まで戦争していたのだということも、実感させられました。
Sep 21, 2014
次に、グラデツの方へ。こちらは、龍を退治した守護聖人聖ジョージ像。この先、皆さんが向かっている方(笑)に、石の門と呼ばれる中世の門があります。中世にグラデツを囲んでいた城壁には、4つの門がありましたが、現存するのはここだけだそうです。当初は木製でしたが、1703年の大火で焼け落ち、1760年に石の門に造り変えられたそうです。門の中には、礼拝堂があり、火災の時にも無傷であった聖母マリアの肖像が納められています。ただの通路的な所ではありますが、多くの方がお祈りや蝋燭を捧げていらっしゃいました。石の門から聖マルコ教会にかけて、ガス灯が使われています。毎日夕方になると、火が灯されるそうです。ノスタルジックでいい雰囲気。こちらは、聖マルコ教会。13世紀中ごろにロマネスク様式で建てられたこの教会、1882年にネオゴシック様式に修復され、その時に、この可愛らしい屋根も造られたそうです。屋根には、2つの紋章がデザインされています。向かって右は、ザグレブの市章。左は、中世クロアチア王国(赤白チェック)・ダルマチア(3頭のライオン)・スラヴォニア(星とクーナと川)の紋章が合わさったもの。クーナは、クロアチア語で動物のテンのことで、クロアチアの通貨もクーナですね。中世に、テンの毛皮を貿易に使っていたことに由来しているそうです。現在の屋根は、2002年に貼られた、ハンガリーから輸入されたセラミック製のタイルだそうです。ブダペストのマーチャーシュ教会などにも、使われているとか。教会の前の聖マルコ広場には、クロアチア国家の中枢機関が集まっています。教会の向かって右の建物は、国会議事堂。現在の建物は 20 世紀の初めに造られたもの。1918 年のオーストリア・ハンガリー帝国からの独立も、1991年6月のユーゴスラビアからの独立も、ここで決議されたそうです。左の建物は、旧総督邸、現在は首相官邸です。完全週休2日制とのことで、官公庁はみんなお休みでした。チリロトメデゥスカ通りには、旧市庁舎があります。この場所に造られた劇場では、ドイツの演劇しか行われていなかった時代に、初めてクロアチア語の演目が行われた場所だそうです。第二次世界大戦後、市庁舎は新市街に移されて、現在は結婚式場として使われているそう。この通りの先には、ロトルシュチャク塔があります。この建物は、13世紀に造られた、街の城壁の南門を防備するための見張り塔でした。1877年の元日から、毎日正午に、ここに設置された大砲が、轟音を立てて打ち鳴らされます。撃っているのは、市の公務員で、毎日11時に出勤してセットするんだそうです。ここに面する、ケーブルカーの駅。1890年に、旧市街と新市街を行き来する住民のために造られたもの。長さは66m、高低差は30mで、所要時間は1分弱。世界で最も短い公共交通手段と言われているそうです。ここは展望台になっていて、ザグレブの街が見渡せます。ここから、シュトウロスマイヤー散歩道という歩道を通って、丘を下って行きました。この散歩道の名前は、クロアチアに住んでいた司教にして政治家の、シュトウロスマイヤー氏に由来するそうで、ベンチに座っている人の像があったのですが、多分、、、それが彼なんでしょう。今回、ケーブルカーには乗りませんでしたが、徒歩でも十分回れる、小さくて可愛い街でした。
Sep 21, 2014
クロアチアの首都ザグレブは、イリツァ通り以南の新市街と、ザグレブ発祥の地の旧市街に大別されます。旧市街の丘の上に建つ、宗教都市のカプトルと、商工業の街のグラデツ(現在のゴルニ・グラード)という2つの街が起源で、17世紀にはこの2つの街を合わせてザグレブと呼ばれるようになったそうです。まずは、旧市街のカプトル地区へ。こちらは、ザグレブのシンボル、聖母被昇天大聖堂。聖母マリアと聖ステファンを祀っています。この大聖堂は、1094年に以前からあった教会をロマネスク様式に建て替え、その後1242年にモンゴル軍の侵入で破壊され、ゴシック様式で建て替えられました。現在の外観は、1880年に大地震に遭い、ネオゴシック様式で修復されたものだそうです。大聖堂には、高さ100m以上の2つの鐘楼が聳えていますが、この修復時につけられたそうです。実は、2つの鐘楼、高さが見た目にも分かるくらい、違うんです。修復の時、間違っちゃったそうです(笑)修復時に予算不足だったため、建材に砂岩が使われたのですが、柔らかい建材ゆえに建物の傷みが激しく、現在、砂岩を石灰岩に置き換える作業が行われているそうです。今日は、日曜日でミサが行われていたため、残念ながら、中には入れませんでした大聖堂の前のカプトル広場には、聖母マリアのモニュメント。頂上に聖母マリア、そしてその柱を取り囲む4人の天使の銅像。銅像は、信頼・希望・純潔・謙虚を表しているそうです。大聖堂のすぐ西の方には、“ザグレブの胃袋”と呼ばれるドラツ青果市場があります。1930年から続き、現在残っている市場の中で、最も古い市場だそうです。営業時間は、7時~14時くらいで、早い時間から賑わっています。屋内では、肉類や魚、乳製品など、屋外では、野菜や果物などの青果、また、蜂蜜やお土産物なども売っていました。こういう、行商のお母さん、今もいるとか。ジューサーや、果物の自動皮むき器みたいのがあって、買ってその場で食べさせてくれるっぽいです。ラディッチ通りは、カラフルな建物やオープンカフェなどが並んだ、可愛らしい通り。その坂を上って行く途中、民族衣装を着たご婦人にお会いして、ポーズをとってくれました赤地にストライプの傘は、クロアチアの国旗カラーなんだそうです。とても可愛らしいです
Sep 21, 2014
私たち一行は、ディナル・アルプス山脈を超えて、クロアチアの首都・ザグレブへ向かいます。アドリア海を挟んで、クロアチアの対岸にはイタリアがありますが、ディナル・アルプス山脈のおかげで、内陸はベネツィアの影響を受けていないそうです。が、そのかわり、オーストリアの影響を受けているそうです。さて、スロベニアとクロアチアの国境に差し掛かりました。普段なら、係員が車内(バス)に乗り込んできて、パスポートをチェックするそうなんですが、何故か今日は、全員車から降ろされました。パスポートにスタンプをもらって、無事、スロベニア出国。かたや、クロアチア入国は、「アリガトー」と言われただけで、全て省略。絶大な信用の日本人(苦笑)夕食後、ホテルへ。今夜は、ヒルトンに泊まります焼きたての、welcomeクッキーをもらいました。嬉しいBARも、オシャレな感じお部屋もステキ バスタブとシャワーブースが分かれてたので、日本ぽくお風呂を使えて寛げました。
Sep 20, 2014
私たちは、ブレッドを後にして、1時間半ほど南へ車を走らせ、ポストイナへ。スロベニアには、鍾乳洞が1万近くあると言われていて、その中でも、ここポストイナ鍾乳洞は、ヨーロッパ最大級の規模、美しさでは世界一と言われているそうです。この鍾乳洞、近所の住人が、偶然、落ちて(!)見つけたとか。日本語のイヤホンガイドも借りられるので、それを着けて、いざ洞窟へ。入り口では、スタッフが写真を撮っています。(出口に写真を張り出して、販売・ってやつ)洞窟の全長は20km以上で、その内見学出来るコースは、5kmちょっととなっています。トロッコ列車に乗って移動し、歩く距離は1.5kmくらいとのことです。トロッコは、結構なスピードが出て、中々スリルがあります。風を切って走り、時々、上から水滴がポツン。内部の気温は常に18℃前後に保たれているそうですが、ここが一番寒い(笑)注:ガイドさんから、“写真は撮り放題”と言われているので、普通に撮らせてもらっています。トロッコを降りると、すぐに、その広さや雰囲気に飲まれました。ポイントで、イヤホンガイドから説明が流れるので、それを聞きながら、歩いて行きます。想像力を豊かに…真ん中辺のは、チューリップ竜がいる?スパゲッティ?この2本の柱の先は、パラダイス真っ白い方は、“ブリリアント”天井からツララのように下がってるもの、大小様々な太さの石筍、動植物に見えるような形のもの、カーテンのように一見柔らかそうに見えるもの、高度によって色や形を変えたり。1mm成長するのに、10~30年かかるという鍾乳石が、これだけの姿を見せるという自然の驚異と美しさには、本当に圧倒され、感動しましたこの巨大な鍾乳石が、手で触れられそうな距離にあるという、迫力感もすごい。でも、決して鍾乳石に触れてはいけません。なぜならば、触れてしまうと、そこで鍾乳石の成長は終わってしまうから。そして、この先に、類人魚とも呼ばれるプロテウスという両生類がいる水槽があります。ここは撮影NGです。プロテウスは、暗闇に生息するため、目が完全に退化していて、1年近く何も食べなくても生きていけるそう。この先にあるのは、コンサートホールと呼ばれる所。1万人ほどが収容でき、180年前から、ダンスやコンサートなどに使われていて、現在でも様々なイベントで使用されているそうです。フクロウが鳴いたら、6秒響くと言われていると。そしてまた、スリル満点なトロッコ列車に乗って、地上へと戻りました。洞窟の外には、お土産物屋さんやレストランなどが並んでいます。日本の鍾乳洞には行ったことないので、分からないけど、失礼ながら、日本とここでは桁違いなんだろうと思います。クロアチア方面に来たなら、必ず、ここは訪れるべし。来る価値大いにアリ
Sep 20, 2014
ブレッドの町を散策して、ランチに。町並みは、いちいち可愛い(笑)このところ、茶色い屋根の家ばかり見てきたので、黒い屋根の多い風景は新鮮。しかも瓦っぽい。この辺りの木々は主に、アカシア、松、菩提樹などで、モミジは無いので、紅葉しても紅くはならないそう。リンゴの木には、実がなっていますそして、本日のランチは、名物 鱒のグリル。
Sep 20, 2014
ブレッド湖の湖面から約100mの高さの断崖絶壁に建つのは、ブレッド城。ブレッド城は、ドイツの王ハインリッヒ2世が命じて、11世紀にブリクソンの司教が建てたお城で、スロベニア最古のお城の1つだそうです。坂道を上って城門へ。1階部分は、ロマネスク様式の壁とゴシック様式の棟で囲まれています。この部屋には、グーテンベルグが考案した、活版印刷機のレプリカがあって、その場で印刷してくれます。名前を入れてもらうことも出来ます。ワイナリーもあります。2階部分には、礼拝堂や博物館、カフェテラスなどがあります。16世紀の、小さな礼拝堂。こちらは博物館になっています。館内には、青銅器時代からのブレッドの歴史が綴られ、中世の家具や武器なども展示されています。展望台からは、ブレッド湖全体はもちろん、天気が良ければ、スロベニアの最高峰・標高2864mのトリグラフ山も望むことが出来ます。これこれ ブレッド島に建つ聖マリア教会見えた トリグラフ山
Sep 20, 2014
ブレッド島へ到着。船着場から聖マリア教会へは、この100段近い階段を上って行きます。この教会で結婚式を挙げることが、スロベニア人には人気だそうです。ただ、ここで結婚式を挙げるには、新郎は、新婦をお姫様抱っこして、この階段を上らなければならないそうですこの島には、かつてスラブ人が崇拝していた異教徒の寺院があり、現在のバロック様式の教会は、17世紀に建てられたそうです。祭壇には、マリア様の像が鎮座し、その両脇には、11世紀のブレッド領主ヘンリック2世とその妻の肖像画が飾られています。教会内には、“望みの鐘”と呼ばれる鐘があります。天井から下がっているロープ(写真左の方)を3回引っ張って鐘を鳴らすと、願いが叶うそうです。これ、重くて結構難しいんですが、鐘が鳴るのに合わせてロープが上下するので、そのリズムに合わせて、腰を入れて膝を柔らかく使ってロープを引っ張ると、上手く鳴らせます教会の手前にある塔の中には、90段の木の階段。最上部から、教会の鐘が見えました。自分でロープを引っ張ってる時は、あまり鐘の音は聴こえないけれども、教会の外からは、鐘がガンガン鳴っているのが分かります(笑)ここからの眺めは、こんな感じ。教会の前では、神父様と信者さんたちが集まって、讃美歌を歌ってらっしゃいました。カフェや、可愛いお土産物屋さんもあります。さて、私たちは、またボートに乗って湖岸へ戻りました。船頭さん、お疲れさま。
Sep 20, 2014
本日は早朝から、ここリュブリャナから、北上してブレッドへ向かいます。中心地を過ぎると、高速道路周辺には、トウモロコシ畑が広がっています。今朝は少し曇り空で、霧っぽい感じ1時間弱で、ブレッドに到着しました。スロベニア北西部、ユリアン・アルプスの山裾に広がる湖畔の町ブレッドは、スロベニアを代表する観光地。かつては、ハプスブルク家のリゾート地として整備され、1981年に国立公園に指定されたそうです。“アルプスの瞳”と称されるブレッド湖の景観は、17世紀から、リゾート地として人々を魅了してきました。ブレッド湖は、周囲約6kmほどの大きさで、遊歩道が湖岸沿いに整備されています。環境保護に力を入れているブレッドでは、サイクリングが人気。近くにレンタサイクル屋さんもあります。こちらは、湖畔に建つ、ユーゴ時代のチトー大統領のかつての別荘、ホテル・ヴィラ・ブレッド。湖岸には、鴨や白鳥など、鳥がたくさん。でも、ここでは鱒の養殖が行われており、天然の鱒も泳いでいます。また、この湖では、ボート競技の練習も行われているそうです。冬には凍りますが、気温は-5℃くらいにしかならないので、氷は薄く、スケートには危険だとか。ちなみに、湖の最も深い所で30.6mあるそうです。湖に浮かぶブレッド島へは、プレトナという手漕ぎボートで向かいます。環境への配慮から、モーターボートの使用は禁止されています。船頭さんは、櫂で見事にボートを操ります。ボートはゆっくりと、ブレッド島に建つ教会へ。
Sep 20, 2014
今回は、クロアチア+近隣3カ国に行って来ました。クロアチア、、、名前は知ってるけど、これといったイメージがわかない国。美しい自然と歴史ある街並みがメインでしょうか。今日の成田の空は、どんよりしてます。今回のフライトは、アリタリア機(AZ)。ローマを経由してトリエステへ向かいます。機内は満席。途中、AV機器が壊れて使えなくなりました。日本語や英語の字幕の映画はほとんど無かったし、音楽もイマイチだったので、問題無し。どうでもいいけど、客室乗務員さんのオジさん率、高し。少し旅の予習をして、あとは寝てるうちに、予定より30分早くローマのフィウミチーノ空港へ到着しました。すごく蒸し暑くて、19時くらいで、気温25℃。ここから、バスに乗ってターミナルへ。とても広い空港なので、結構なスピードでしたが、5分以上かかりました。とにかく、広い空港で、夜になっても人がたくさん。トランジットの時間が長くはなかったし、迷子にならないように、さっさと移動。トリエステ行きの搭乗ゲートは、バスで移動するため、エスカレーターで下って、ほとんど何にも無いバス乗り場で待っていました。が、ゲートが変わったので、再び明るい上の階へ。ちょっとだけ、フラフラできました。結構近くにあるこのカフェ。張り合ってたりするのかしら?そして、トリエステ行きの小さいAZ機に搭乗。機内には、『Mas que nada』が流れていて、ゆる~い雰囲気。もうお客さんはみんな搭乗したのに、この飛行機、いつまでたっても動く気配ナシ。なぜならば、、、パイロットが来ていなかったのであるAZ、恐るべし。ま、その後、無事離陸しましたが、結局45分遅れ。トリエステからは、DXバスで、スロベニアのリュブリャナへ2時間弱のドライブ。ホテルへ着いたのは、25時半でした。。。
Sep 19, 2014
ミュンヘン国際空港には、ビールの醸造所があって、飲むことも出来るとのこと。Hさんに連れて行ってもらったのですが、2店行って2店とも契約終了とのことで、お目当てのビールはなくなってしまっていました。。でもせっかくなので、2つ目に行ったお店で1杯1杯といっても、ドイツなので、大ジョッキが来るんですよね(笑)付け合わせに、白いソーセージ、“ヴァイスヴルスト”。水餃子みたいな器に入って出てきて、皮をむいて食べるのがめんどくさいんだけど、甘めのマスタードがちょっとクセになる感じ。そして、ヴァイスヴルストに付いてきちゃったプレッツェル。みんなで分けっこして食べながら、雑談も盛り上がって、もうすぐお別れするのが嘘みたい。ここはドイツだけど、白地に青の模様のものが見えると、やっぱりアズレージョに見えてしまう。ということで、空港内をブラブラしながら、アズレージョ探し。雑貨も可愛いくて、ウインドウショッピングが楽しいここから日本へは、ANAのB-787。787だから・ってワケじゃないけど、遅延に次ぐ遅延(笑)待ってる間に、Hさんが見つけてくれた、更なる醸造所airbrauに、小走りで行ってみました。が、、、すでに、営業終了してました よっぽど縁が無いらしい。名古屋の空港にもあるらしいけど、、そこに行くことは一生ないでしょう。そうこうしている内に、やっと搭乗。機内はガラガラだったので、3-3-3の配列のシートの、3席全部使って、横になって爆睡しました。おかげで、あっという間に到着。今回、ツアーのメンバーとすごく仲良くなれて、いつの間にか下の名前で呼ばれて可愛がってもらったりしたし、別れが寂しかった。。。日本では、アメリカのオバマ大統領が国賓で来日されていたので、道路事情が分からなかったので、仕方なく電車で帰ることにしました。大きいスーツケースを持って山手線に乗るのは申し訳なかったけど、もう、誰も手伝ってくれる人はいません。ポルトガルの人は、本当に優しかった。そして、日本の風景の中に、もうアズレージョのアの字も見つけることが出来ない。現実に戻ってしまいました。ポルトガル、坂が無かったら、住みたい街。ポルトガルの旅、終わり。
Apr 24, 2014
とうとう帰国の途に。リスボンのポルテラ空港は、市街地近くにあるので、ホテルを出てから15分程度で着きました。諸手続きを済ませ、空港内をブラブラ。ポルトガル中でみかけた、ガロ。雄鶏がモチーフで、“真実の証”と言われる伝説があります。このガロの、置物やプリントされた商品など、たくさんありました。が、結局、1つも買わなかったなぁ…ここの空港、これでもかと 箱入りのナタも売っていて、試食もあり。折角なので、購入(笑)そして、同じコーナーにあったケイジャーダ。今度こそ・と思って買ってみました。が、、、それは、シントラで食べた、まさにそれと同じものでした。5個入り。どうしよう?ここの空港は、座って食べる所がたくさんあっていい。時間を潰すにはいい空港。ここから、乗り継ぎのミュンヘンまでは、ルフトハンザ機。4時間程のフライトで、爆睡しているうちに到着。
Apr 23, 2014
今朝は、あいにくの雨今日帰国するのですが、ホテルを出発するのは、お昼頃。時間があるので勿体ないから、3姉妹とご一緒に、近場をお散歩することにしました。なんと、出掛ける頃には、雨も止んでくれましたまず向かったのは、エドゥアルド7世公園。1902年に、イギリス王エドワード7世がリスボンを訪問したことを記念して造られた、フランス式の緑豊かな庭園です。公園内には鳥たちが放し飼いになっていて、こんな子もここの公園、入り口は開いているのに、出口は施錠されている・とか分かりづらい所があって、通りがかった人に、道を尋ねちゃったりしました。その人は通勤途中と思われましたが、イヤな顔ひとつせず、親切に教えてくれました。ポルトガルの人って、本当に優しいそして、そのまま、てくてくと下って行くと、ポンバル侯爵の像が見えてきました。雨上がりで澄んだ空気に、緑と、像越しのリスボンの街並み、キラキラ輝くテージョ川。すごくキレイで、気持ち良かったです。そして、公園を下りきった所にある、ポンバル侯爵広場。ポンバル侯爵は、ポルトガルを代表する政治家。36mの塔の上から、ライオンを従えて街を見下ろしています。ここは、円形のロータリーになっていて、主要な通りが放射線状に延び、駅やバス停などもあり、交通の要所となっています。また、この辺りには、ホテルや銀行、航空会社などが集まる、ビジネス街になっています。そして、この先は、リベルダーデ通り。1775年の大地震の後、都市再建計画によって造られた、リスボンを代表する大通り。通りは、白と黒のモザイクの石畳になっています。リベルダーデ通りの終点には、トスタウラドレス広場。広場の中央には、ポルトガル再独立を記念し、勝利と独立の精神を表す、高さ30mのオベリスクが建っています。ここから、グロリア線のケーブルカーに乗りました。もちろん、昨日購入した1 day ticket、まだ使えますケーブルカーの終点のすぐ右の方には、サン・ペドロ・アルカンタラ展望台という小さな公園があります。ここ ミゲルくんの、消○力のCMのロケで使われた場所ですね。噴水もあって、正面に聳える、サン・ジョルジェ城、階段を降りると、下にも、花が咲く時期にはキレイそうな公園が続いていたり、、、気持ち良くて、ずっといたかったです。しばらくここで、お茶をしながら、まったりと過ごして、癒されました。夕暮れ時も、きっとキレイ。
Apr 23, 2014
今夜は、夕食を兼ねて、仲間5人+Hさんで、ファドを聴きに行きました。連れて行っていただいたのは、アルファマ地区にある、CASA DE LINHARES という、カーザ・ド・ファド。詩人カモンイスが住んでいたという歴史的建物を利用した、石造りのステキなレストラン。20時のオープンすぐの予約だったので、一番乗りでした。お料理にも高い定評があるという、このレストラン。私は、Stewed veal steak with onions というお料理にしました。お料理は、蓋付きで運ばれてきました想像とは違って、、仔牛肉とジャガイモ、って感じ。お肉が柔らかくて美味しかったです。ワインなどを飲みながら歓談していると、店内が暗くなって、いよいよファド・ショーの始まりファドとは、リスボンの下町で生まれ、歌い継がれてきた、ポルトガルの民族歌謡。起源には諸説あり、一説によると、ブラジルやアフリカの音楽の影響を受け、19世紀半ばにリスボンのアルファマ地区で生まれ、下層階級にいる人々の中での音楽だったらしいです。ファドの心は、“サウダーデ”という言葉でよく表されます。ポルトガル人が心の中に持っている、郷愁、懐かしさ、哀しさ、やるせなさ、、、それらが入り混じった、ポルトガル人にしか理解できない感情が、サウダーデだという…ファドは、そういった自分の心の奥底にあるものを、切々と語り、歌い上げるもの。でも、暗い曲ばかりではなく、人生の喜びを歌ったものなど、明るいものもあります。シン、、と静まり返った店内に、ギターラと呼ばれる12弦(6組の複弦)のポルトガルギターと、ヴィオーラと呼ばれる一般のクラシックギターの伴奏にのせ、体の奥底から声を絞り出すように歌うファディスタの肉声が響き渡ります。気が付いたら、私の目から、涙がツーーーっと…もちろん、歌詞は分からないし、感動した・と言うよりも、何かが私の琴線に触れたよう。日本人にもサウダーデを感じさせるファドって、すごい。ショーは、15分くらい歌って、休憩を挟んで、次のファディスタへ、、という感じ。若い女性から、ベテランの方、ギターのソロや、男女のデュエットなどもありました。ある女性ファディスタが歌い終わった後、彼女は、手拍子と共にまた歌い始めました。まさかの、、、Happy birthday to you~私以外にも、今日が誕生日の人がいたみたいです。私も、間接的にだけど、バースデイソングを歌ってもらえて、いい思いをしましたでも、一番心に響いたのは、、、ホテルに戻って、エレベーターに乗った時、みんなが私にバースデイソングを歌ってくれたこと。嬉しかった思い出深い、誕生日の一日になりました。
Apr 22, 2014
リスボン中心部からは、ツアーの仲間が考えてくれたプランで、6人で市内散策に行きました。出発前に、地下鉄やトラムなどに乗り放題の、チケットを購入。私たちが購入したのは、1 day ticket、初打刻から24時間有効。6.5ユーロなり。ただの厚紙みたいなカードだけど、中にICチップが入っていて、Suicaみたいに、ピッと端末にタッチして使います。まずは、ロシオ広場から出発して、サンタ・ジュスタのエレベーターへ。バイシャ地区とシアード地区の30mの高低差を結ぶ、高さ45mの鉄製のこのエレベーターです。1902年に完成し、100周年の2002年には、国定記念物に指定されたそうです。1 day ticket、こちらも使えますエレベーターに乗る人の長蛇の列が出来ていたけれど、キャビンの定員の関係で一度にあまり乗せないので、中はガラガラです(笑) キャビン内は、木製の優雅な造り。座席もあります。エレベーターの到着地。ここからの眺めは、こんな感じ。私たちは、更なる高みを求めて、らせん階段を上って、最上階へ。こちら別料金、1.5ユーロここからは、サン・ジョルジェ城や、ロシオ広場、旧市街などが一望出来て、ホント絶景。すごく風が強かったけど、とても気持ち良かったです。私たちは、一旦エレベーターの連絡通路からバイロ・アルトへ降り立つも、再びエレベーターで下って元の場所へ戻ったのでした。そして次は、28番のトラムに乗車。リスボンの主要な観光名所を通っていく路線なので、観光客に人気なようで、停留所は長蛇の列、車内はぎゅうぎゅう詰め。運転手さんも近い。なぜかガン見(笑)細い石畳の坂道を、結構なスピードで走って行くトラム、気持ち良かったですそして、私たちは薄々気付いてはいたのだけど、、、自分たちが何処へ向かっているのか、、不安になったプランナーの仲間(♀60代)は、近くにいたおじいさんに尋ねました。日本語のガイドブックを見せて、自分たちは、今何処にいるのか。日本語で。おじいさんは答えました。ポルトガル語で。大きい身振り手振りで説明してくれるおじいさんと、マイペースに質問し続ける仲間。この不毛なやり取りが面白くて、助け舟を出さずに笑っていただけの ヒドい 私たち(笑)結局、お互い通じ合うことは出来なかったけれど、おじいさんに感謝して、握手して、トラムを降りることにしました。スリに遭うなんてこともなかったし、楽しい時間でした。降りた所の目の前にあったのは、エストレーラ聖堂。バイロ・アルト周辺ってことで、、案の定、目的地とは正反対(笑)聖堂の前には、大きな公園があったので、そこで休憩しながら、地図を確認して、再び28番のトラムに乗ってUターン。そして、今度は、無事目的地のアルファマ地区へ着きました。ポルタス・ド・ソル広場に立つ、ポルトガルの守護聖人、サン・ヴィセンテの像。ここの展望台からの、眼下に広がるアルファマの街並みと、テージョ川、、すごくキレイでした。12世紀に、イスラム勢力からリスボンを奪回しイスラム礼拝堂の跡に建てられたカテドラル。砦としても使われていたそうで、がっしりとした堅固な造り。1755年の大震災にも倒壊しなかったそうです。そして私たちは、路地裏を散策したり、お店を覗いたりし、、その後、タクシーでホテルへ戻りました。
Apr 22, 2014
続いては、同じくベレン地区の、ベレンの塔へ。正式名称は、サン・ヴィセンテの塔といい、世界遺産に登録されています。マヌエル1世の命によって、1519年に完成した、マヌエル様式を代表する建築の1つです。テージョ川を行き交う船を監視する要塞として建てられ、地上と地下合わせて6階の構造となっていて、最下層は潮の干満差を利用した水牢だったそうです。そしてその次は、ベレンの塔の近くの、発見のモニュメントへ。モニュメントの前の広場には、世界地図のモザイクがあり、ポルトガルが新しい国々を発見した年号も記されています。日本の発見は、1541年となっています。種子島の鉄砲伝来の2年前には、すでに日本は発見されていて、虎視眈々と様子を覗われていたとのこと。発見のモニュメントは、エンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられたもの。帆船をモチーフとして、高さは52mあります。エレベーターで中を上がると、展望台になっています。反対側~カラベル船を手にし、凛と立つエンリケ航海王子を先頭に、航海者や、天文学者、宣教師など、大航海時代に活躍した偉人の32体の像が並んでいます。有名どころでは、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、フランシスコ・ザビエルなど。このエンリケ航海王子の像は、ちゃんと“王子”でした(笑)真後ろから見ると、かくれんぼしてるみたいで、可愛い(笑)
Apr 22, 2014
リスボンへ戻り、ランチにタコのリゾットをいただいて、次はリスボンの市内観光へと出発しました。まずは、ベレン地区のジェロニモス修道院から。ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子の偉業を称え、また、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念して、1502年にマヌエル1世によって着工され、完成までに300年ほどかかったそうです。その建設資金は、胡椒取引の利益で賄われたそうです。マヌエル様式の最高傑作と言われ、その完成度の高さから、世界遺産に登録されています。建物は横に長く、16世紀に建築された東棟と、19世紀に付け加えられた西棟があります。東棟には、サンタ・マリア教会、西棟の中央には国立考古学博物館、西端には海洋博物館があります。すっごい行列の中、私たちは西門からサンタ・マリア教会へ。真ん中辺りに見えるのが西門で、そこから入場します。そしてその右の方には、見事なマヌエル様式の彫刻が施された、サンタ・マリア教会の正門である南門があります。…が、何故か、写真は切れてしまっています。。。内部には、ヤシの木をモチーフにしたという柱が聳えています。柱には、鎖やロープ、貝、珊瑚などのマヌエル様式の彫刻が施されています。その彫刻には、ロープを持つ“手”が3か所あって、それに触ると「旅行で怪我をしない」とか言われているそう。みんながそこを触るから、その手の所だけキラキラしてました。礼拝堂には、王家一族のお墓が集められているそう。奥のキリストの生涯を描いた飾り板や、ステンドグラスがキレイ。ここには、ロカ岬で出てきた詩人カモンイスと、ヴァスコ・ダ・ガマの石棺があります。こちらのヴァスコ・ダ・ガマの石棺の方は、実際にご本人が中で眠っているそうです。中庭を囲む55m四方の回廊。石灰岩を用いた外柱やアーチには、マヌエル様式の見事な彫刻がたくさん。大航海時代を象徴するモチーフ、天球儀や帆船の彫刻などもありました。中庭もキレイこちらは、アズレージョで壁を装飾された食堂。奥には、マヌエル1世の守護聖人・ジェロニモスの肖像画があります。足元にいるのは、ライオン。足にトゲが刺さって苦しんでいたライオンを、ジェロニモスが助けてあげて、それ以来、ライオンはジェロニモスと行動を共にするようになったという話があるそうです。そして、ジェロニモス修道院の見学を終えると、そのすぐ近くにある パステイス・デ・ベレン へ。そう、ポルトガルで一番美味しいナタが食べられる・と言われているお店ジェロニモス修道院から伝えられた配合や作り方を守り、その秘伝のレシピは、3人の菓子職人しか知らないとか。。店内も、店外も(笑)、超混み。1個1.05ユーロで、休日にもなれば、60,000個も売れるとか(Hさん調べ)お持ち帰りの人は、右のレジで注文してバウチャーを貰い、左の方で商品と交換するという感じ。砂糖とシナモンの小袋を付けてくれますので、お好みで。ちなみに、3個から、箱に入れてくれました。1~2個は、紙袋。ナタを作っている様子も、見られます。座って、コーヒーと一緒にいただくも、良し。こちらのナタ、外の生地はサクサク、中はふんわり&とろ~り。小袋の砂糖をかけなくても、丁度いい甘さ。出来立てで、ほんのり温かくて、美味しかった
Apr 22, 2014
短い時間でしたが、シントラの街を散策しました。シントラは、緑深い山間に宮殿や貴族たちの別荘など瀟洒な建物が佇み、文化的景観の美しさから、世界遺産に登録されています。イギリス出身の詩人バイロンは、自然と人工美が調和した美しさから、この街を“エデンの園”と称讃しています。標高450mの山頂には、ムーア人の城跡があります。7~8世紀にムーア人が築いた宮殿は、1147年にシントラのポルトガル併合により、大部分の城砦が破壊され、その後修復されましたが、現在は城壁のみ残っているそうです。カラフルな建物が多くて、可愛らしい街並みですスイーツの匂いに引き寄せられて、ちょっとPASTELARIAへ。後で、知りましたが、そのお店はピリキータというガイドブックに載ってるような有名なお店で、とても混雑していました。シントラ名物のお菓子、トラヴェセイロ(細長い方)と、ケイジャーダ。私は、ケイジャーダを頂きました。0.8ユーロ!ケイジャーダは、チーズタルトと言われますが、パリッとしたワンタンの皮のような生地に全くチーズっ気のない焼き菓子、、、私的には、和菓子屋さんが作る洋菓子のような 残念な 感じでした。ポルトガルで食べるチーズって、全然味気ないものばかりなので(私的には)、こんな感じなんでしょうか?そして、ちょっと酒屋さんに立ち寄って、ジンジャを試飲させてもらいましたオビドスのジンジャとは色が若干違ったけれど、味はさほど変わらないでしょう。チョコのカップとジンジャのセットを、言ってもいないのに、キリがいい数字にまけてくれたので、また自分用に購入まけてくれたのは、お釣りが無かったからみたいで、お釣りが足りなくなると、店員さんは、私たち客を残して何処かへ両替に行ってしまいました。。。 ポルトガルの人って(笑)
Apr 22, 2014
シントラの王宮は、もともとムーア人の宮殿でであった建物を、ジョアン1世が大幅改築をし、その後も増改築され、ゴシック様式、マヌエル様式、イスラム風建築が混在する建物となりました。19世紀後半までは、実際に使われていましたが、1910年に国の文化財となり、シントラの文化的景観の一部として、世界遺産に登録されています。こちら、王宮の入り口からはよく見えませんが、2本の33mの巨大な円錐型の煙突がシンボルとなっています。それでは、王宮の内部へ。こちらは、白鳥の間。王家の公式レセプションに用いられた部屋。ジョアン1世がイギリスに嫁いだ王女(当時27歳)の幸せを願い造らせた部屋で、天井には、夫婦円満の象徴とされる白鳥が27羽、首に王冠を着け、それぞれ違ったポーズで描かれています。こちらは、カササギの間。天井には、赤いバラを持った(?)カササギが136羽描かれています。そして、カササギが咥えているリボンには、“POR BENNE”の文字が。ジョアン1世が、侍女とキスしているところをフィリパ王妃に見られてしまい、王は、思わず「善意から(POR BENNE)」と言い訳をしたそうです。その噂はあっという間に広まってしまい、王はゴシップを戒めるために、”おしゃべり”という意味のあるカササギと、王妃のご機嫌取りのバラを描かせたとか。ちなみに、侍女の数も136人だったとか。これにはどんな意味があるのか(笑)それから、この部屋には暖炉がありますが、夏の別荘であったため、火が入れられることは無かったそうです。こちらは、セバスチャン王の寝室。ベッドの長さが短いのは、急に備えて体を起こしていたのだとか、食べすぎて胃がもたれて横になれなかったのだとか、諸説有り。こちら、世界で初めて作られたという、天球儀。こちらは、船の間。こちらは、紋章の間。壁はアズレージョで飾られ、豪華絢爛。ドーム型の天井一面に、王侯貴族の紋章が掲げられています。中央には、マヌエル1世の紋章。ヴァスコ・ダ・ガマの紋章もあるそうです。この先に、アフォンソ6世の部屋があります。身体・精神共に障害があった彼は、ここに幽閉され、ぐるぐると歩き回っていたので、床が擦り減っているとのことでした。。中国の間。省略。こちらは、王のチャペル。アラベスクの壁と床は、マヌエル王の王妃が、スペインのアルハンブラ宮殿を参考にして造らせたそうです。アラブの間、ゲストルーム省略。こちらは、厨房。上を見上げると、そこは煙突の下。外から見えた2つの煙突は、この厨房の煙突だったんですね。最後に、こちらは、マヌエル王の間。天井には、眩いベネツィアングラスのシャンデリア中国からの陶器や、調度品など、当時の珍しい貴重なものが、沢山飾られていました。
Apr 22, 2014
今朝、そろそろ部屋を出ようかという時、ホテルのスタッフのおじいさんがやって来て、徐に何かを手渡して去って行きました。ん? 私宛? …はッ(゚д゚)Hさん(♂)から、誕生日のお祝いのメッセージとプレゼント日付や曜日の感覚が無くなっていたので、正直、自分でも忘れていましたが、、、今日は私の誕生日でしたヤバい、こうゆうサプライズ、嬉しすぎる しかも、旅先でそんなわけで、すっかり気を良くして、リスボン近郊の観光へと出発しました。ずっとESGだったのですが、今日は、ポルトガルのライセンスガイドの方と共に、日本人のガイドさんがいらっしゃいました。なんか、安心感。まずは、ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬へ。北緯38度47分、西経9度30分。高さ140mくらいの断崖に、石碑が建っています。石碑には、ポルトガルの詩人カモンイスが詠んだ詩の一節が刻まれています。「ここに地果て、海始まる」この岬から、目前には無限の大西洋が広がり、地の果てを思わせます。ホントかどうか知りませんが、天気が良ければ、視力が1.5くらいあれば、海の向こうに自由の女神が見えるとか…ここには、観測所や、お土産物屋さんなどもあり、観光案内所では、飾り文字で名前と日付が入れられ、蝋の刻印とリボンの付いた“最西端到達証明書”が発行してもらえます(有料)。これも、誕生日の記念になりましたそして、ここでも出会いが。バイクで旅するドイツ人の老夫婦。紙の地図をナビに、フランスやスペインの海岸線を走って、ポルトガルまでやって来たそうです。ちょっとお話しさせてもらった後、次の目的地へと、おばあちゃん先導で颯爽と出発されました。笑顔がとってもステキなお2人でした。
Apr 22, 2014
オビドスは、小高い丘の上にある、城壁に囲まれた中世の面影を残す小さな街。夏には、ブーゲンビリアなどの花が、白い家々の軒先を彩り、その美しさから“谷間の真珠”と呼ばれています。婚前旅行でオビドスを訪れたイザベルは、すっかりこの街に魅了されてしまい、ディニス王は結婚祝いとして、この街を王妃となったイザベルにプレゼントしたそうです。そしてこの街は王妃の直轄地となり、1883年まで、代々の王妃に受け継がれていったそうです。ここは、ポルトガルの中で、ナザレに続き、欧米人に人気の街だそうですポルタ・ダ・ヴィラという、街の南側にある城門をくぐって街の中へ。1830年に完成したこの城門は、敵の侵入を防ぐために、二重構造となっています。内部はアズレージョで飾られて、とてもキレイです。何故か写真撮り忘れましたメインストリートは、ディレイタ通り。石畳の細い道に、お土産物屋さんやレストランなどが立ち並んでいます。とっても可愛い街なのですが、シーズン前で閑散としていることと、この写真の腕では、全然それが伝わりません今日のランチは、この通りにある、ミシュラン☆付き(だった?)のレストランで頂きました。アサリと豚肉のアレンテージョ風。ポルトガルのアレンテージョ地方の伝統料理です。例の如く、大皿でドーンと来て、取り分けます。美味しかったお店に、日本語を勉強されたというブラジル人のお客さんがいて、日本語でお話したり、歌を聴かせてくれたり(笑)、気さくで明るい人たちに出会えて楽しかったです食後は、街の散策です。こちらは、街のほぼ真ん中辺りにある、サンタ・マリア広場に建つサンタ・マリア教会。入ってみませんでしたが、外観は質素ですが、中は壁一面アズレージョで飾られているそうで、とてもキレイそうです。1444年、わずか10歳のアフォンソ5世と、従妹の8歳のイザベルは、ここで結婚式を挙げたそうです。こちらも質素な、サン・ティアゴ教会。そして一番小高くなっているところには、古城。こちらは、現在はポサーダとなっています。ポサーダとは、お城や修道院などを改装して、宿泊できるようにした、国営のホテルです。このポサーダは、9室しかないので、中々予約は取りづらいようです。雰囲気は、良さそうですね。オビドスを囲む城壁、高さは13mだったかな? そこには階段があって上ることが出来るので、高い所は全然平気な私は、そこに上って歩いてみました。道幅は狭く、風も結構あったので、長くはいられませんでしたが、城壁の外に広がるブドウ畑や、町並みなどが一望出来て、気持ち良かったですそして、通りをUターンして戻る途中、見つけたジンジャ。名前を聞いた時は、ん?って思いましたが、生姜のジンジャーではなくて、ジンジャ(Ginja)です。オビドスの名物で、サクランボのリキュールをチョコレートのカップになみなみと注いで飲んで、最後はカップのチョコも食べちゃいます 1杯1ユーロだったので、試しに1杯。アルコール度数は20%くらいで高めだけど、フルーティーで、軽くいけちゃう感じ(笑) チョコも甘すぎず美味しいです。自分用のお土産に、チョコのカップとジンジャのセット、購入しちゃいました城門を出た所でお馬さん発見。その遥か後ろに、水道橋がちょっとだけ見えます。そして私たちは、オビドスを後にして、最終地のリスボンへ。リスボンは、今までの都市と比べ、ビルが立ち並ぶ大都会でした。一気に夢から覚める感じ。ツアーというものは上手く出来ている。。
Apr 21, 2014
アルコバッサの地名は、アルコア川とバサ川の合流点に位置することに由来するそうです。この街の中心は、サンタ・マリア修道院。世界遺産に登録されていますポルトガルの初代国王アフォンソ1世が、イスラム勢力に勝利したことに感謝し、また権力の基盤を強化するために、1153年に建設が始まったそうです。この土地は、シトー派の修道士に寄贈され、建設中の修道院に移り住んだ修道士達は、彼らの農業技術で、荒廃した土地を肥沃な土地へと甦らせたそうです。ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会。誰かのお父さんがフランス人だったから、フランスのゴシックになった・と聞きましたが、忘れてしまいました(笑)現在のファサードは、18世紀に改装され、バロック様式となっています。入り口から祭壇までの奥行きは、106mもあり、ポルトガル最長だそうです。質素と簡潔を重んじるシトー派の精神に基づいて建てられているため、内部はゴシック様式の簡素な造りとなっています。そして、ここに眠る、、、ペドロ1世と、イネス・デ・カストロ。コインブラの『涙の館』の、あの2人です。6頭のライオンに支えられたペドロの石棺には、聖バーソロミューの生涯や、2人が幸せに暮らしていた頃の様子が彫られています。また、イネスの石棺には、キリストの生涯や、最後の審判などが彫られており、イネスの暗殺者達が怪物となり支えています。この石棺に施された緻密な彫刻は、ポルトガルの最高傑作と言われていますが、イネスの石棺には、ナポレオン軍によって傷つけられてしまった部分があります。。。2人の石棺は、最後の審判が下り起き上がる時、最初に見るのはお互いの顔となるように、足と足とが向かい合った形で置かれています。王の間には、歴代の王の像が置かれ、サンタレンの戦いや修道院設立の物語を描いたアズレージョが飾られています。沈黙の回廊とも呼ばれるドン・ディニスの回廊と、中庭。中庭のミカンの木の中には、1本だけ食べられる(=甘い)木があるらしい(笑)雨樋の役割もしているガーゴイル(想像上の怪物)の中には、お魚とブタもいます参事会室では、オペラ歌手のLuis Pecasさんの美しい歌声を聴かせて頂きました。カウンターテナーの方なんですが、テノールも出るよって、低い声も出してみてくれました。ピアノの所に譜面があったので、チラッと見てたら、Luisさんが「1曲演ってみる?」って。曲は『アヴェ・マリア』。弾ける、、、けど、「滅相もないです~」って逃げちゃった。今思えば、こんな場所で演奏する機会なんて、もう訪れないだろうから、勿体ないことをした今日は私服だけど、ステージの時は、王子様のような正装をするようです。こちらは、厨房の水場や、煮炊き場の煙突。水場には、アルコア川からの清流が注ぎ込み、時々お魚も紛れ込んでいたそう。最盛期には、1000人もの修道士が暮らしていたそうで、大人数の料理を作るため、それぞれの設備がとても大きいです。こちらは、食堂。当時、食堂で話をすることはNGだったそうで、ジェスチャーでコミュニケーションをとっていたそうです。これが手話の元になった・という説もあるそうです。そして、この食堂には、肥満度チェック用の狭い入口がありました。そこを通れなければ、太りすぎだから食事制限を!ってことになったらしい(笑)修道院の向かいには、カフェやお土産物屋さんが立ち並んでいました。小さくて可愛い街でした。
Apr 21, 2014
今日は、久しぶりにいいお天気今日のコースは、ナザレ→バターリャ→アルコバッサ→オビドス→リスボンバターリャとは、英語でいうとbattle、「戦い」です。バターリャは、ジョアン1世が1385年8月14日に、ポルトガルがスペインからの独立をかけた、アルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを、聖母マリア様に感謝するために建設されたバターリャ修道院を中心に発展しました。この修道院の正式名称は、勝利の聖母マリア修道院といい、世界遺産に登録されています。1386年に建設が始まり、1517年には大体今のような形になったのだけれど、その間、国王は7人が在位、建築家は15人が携わったそうです。ポルトガルを代表するゴシック・マヌエル様式の建物の1つだそうです。修道院の南側の広場には、アルジュバロータの戦いを率いた武将ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラの騎馬像があります。こちらが正面。10階建てくらいの大きさの建物だ・と聞いていましたが、実際目の当たりにすると、本当に大きくて重厚感があり圧倒されます。入り口の扉の上の部分には、78体の聖像が並んでいます。入り口から祭壇までは90m。世界一天井が高い、、、とガイドさんは言ってましたけど、ポルトガルで“世界一”を聞いたのは3回目なので、ホントかどうかは分かりません(笑)柱で天井の重さを分散してるので、窓が多いそうです。ステンドグラスがキレイこの修道院は、ポルトガルにおいて、最初にステンドグラスを備えた建物とのこと。創設者の礼拝堂の中央には、ジョアン1世と王妃のフィリパ・デ・ランカスターの石棺が置かれています。2人は、手をつないで眠っているそうです…そしてその周囲には、ペドロ王子、エンリケ航海王子や、歴代のアヴィス朝の王たちが眠っています。右・エンリケ航海王子のお墓ここに飾られている「聖ヴィンセンテの衝立」という絵画。これはレプリカで、オリジナルはリスボンの国立古美術館にあります。この中に、エンリケ航海王子も描かれています。 エンリケ航海王子、拡大~…結構なおジイさんで、正直、残念でした(笑)私たちの間では、「王子と呼ばれたいがために、独身を貫いたのでは」なんて疑惑まで浮上(笑)ま、この絵も別人説があるので、分かりませんが。。。王の回廊、中庭、洗盤。マヌエル様式の装飾がキレイ。中庭の派手なモニュメントは、2~3日前に置かれてしまったとか。。。後から付け加えられた柱の、装飾のm(に見えなくもない)は、マヌエルのMとのこと。参事会室には、第一次世界大戦で亡くなられた無名の戦士のお墓があり、陸軍の兵士さんに守られています。この部屋には、柱が1本もなく、当時としては斬新なデザインだったらしいです。ちょうど、交代式も見れました。こちらは、アフォンソ5世の回廊。ゴシック様式で、王の回廊と比べると、とても質素です。2階は、修道士のお部屋になっているそうです。こちらは、未完の礼拝堂。未完成なので、屋根がありません。ドゥアルテ1世と彼の子孫が埋葬されるための礼拝堂とする目的で、1437年に着工したけれど、当人の関心は、その頃造っていたリスボンのジェロニモス修道院の方に移ってしまい、結局未完に終わってしまったんだとか。ここには、ドゥアルテ1世とその妻レオノール・デ・レオンの2人のみが埋葬されています。元々は、ゴシック様式の手法が用いられていたけれど、設計士が変わるにつれマヌエル様式となっていきました。よく出て来る“マヌエル様式”とは、大航海時代にもたらされた、マヌエル1世の時代のポルトガル特有の建築様式で、要は、、ポルトガルでは、こんなの知ってるんだよ・ってことを見せびらかしてるんだとか(笑)よく見ると、ロープ、とうもろこし、真珠、胡椒、カタツムリ、、、など、新天地で発見された珍しいものが彫られています。ポルトガルは、コルクの生産やコルク製品でも有名です。ポルトガルのコルク生産量は、全世界の70%を占めているんだとか。修道院近くのお土産屋さんでは、コルク製品もたくさん売られていました。ありとあらゆるもの、バッグ、靴に、傘に、スマホケースに、、、ウエディングドレスまで 実際に着られた方の写真も貼ってありますコルクって言うと、コルク栓のイメージしかなかったけど、触ってみると、滑らかで柔らかくて、レザーのようです。軽くて、撥水性もあるそうです。日本ではあまり見かけないので、お土産にいいかも。
Apr 21, 2014
今夜の夕食は、ソウザ・オリベイラ広場にあるレストランにて。歩いて行ったのですが、広場に異変が昼間はあんなに賑わっていたのに、人の姿がまばらなんです。それもそのはず。今夜は、ポルトガルのサッカーのチャンピオンズリーグの優勝が決まる試合が行われるとのこと。レストランやBARに集まった人たちは皆、食い入るようにテレビを見つめていました。こちらは、何の変哲もないエビのビスクなんだけど、美味しいのレストランの入り口に生簀があったので、新鮮な食材を使っているのでしょう。今夜のメインは、サルディーニャシュ・アサーダシュ。鰯の塩焼き。鰯もポルトガルではよく食べられていて、旬は初夏だそうです。すごい大皿で山盛りの鰯が運ばれて来て、1人4尾ずつ分けられました。やっぱり、ポルトガルの料理は多い(笑)ここのレストランでも、もちろん、テレビはサッカー中継で、お店のスタッフの方々もそわそわしながらテレビを見ていました。そしていよいよ、、、リスボンのBENFICAというチームの優勝が決まりましたそこから街は大騒ぎで、歓喜に沸いたサポーターたちが車などで街を周回し始めました。ブブゼラを鳴らしたり、大音響で音楽を流したりしながら。青年も、少年も、オジサンも、ワンコもナザレでこうなんですから、本拠地のリスボンでは、もっとスゴイことになっていて、街一帯がチームカラーの真っ赤っ赤に染まっていたようです。翌日の新聞の一面トップに載っていました。しばらくこの周回は続き、賑やかに、ナザレの夜は更けていったのでした。
Apr 20, 2014
ホテルにチェックインした後、ちょっとお散歩に出かけてみました。ホテルは、このソウザ・オリベイラ広場のすぐ近く。窓から海も見えますこの辺りには、レストランやカフェなどが立ち並んでいます。海に足だけでも入れてみたかったんですが、砂浜に降りただけで、靴に砂が入りそうだったので、断念しました。靴を脱げばいいだけの話なんですが(笑)海岸線に面した、メインストリートのレプーブリカ通りには、お土産屋さんやPASTELARIAなどが並んでいます。私のような人のためか、靴屋さんもありました。PASTELARIAでアイスを食べていると、アイスと言っても、イタリアンジェラートですが…、パレードのようなものが始まりました。そして、砂浜に造られた特設ステージでは、何かの催しが。ナザレの伝統衣装を身に纏った子供からお年寄りまでの男女が、ステージに紹介されながら上がっていくのですが、これは、ファッションショー的なものなのか、お芝居なのか、何なのか、分かりませんでした(笑)イースターのお祭なんでしょうかナザレの女性の伝統衣装、ひらひらのミニスカに、刺繍入りのエプロン、ショールなどを羽織ったスタイル(未亡人は黒づくめとのこと)。この衣装を着ているのは、主にお年寄りなようです。これが普通なのか、お祭用に気合を入れて派手なのか。可愛いけど。女子としては、腰回りが気になったんだけど、、、スカートを捲らせてもらった・という強者のツアーの仲間の話では、あれはスカートが7枚重ねでフワフワしてるからで、肉だけではないと。このおばあちゃんたち、道路や広場を占領して、“球遊び”に興じてたんです。これも、謎でした(笑)
Apr 20, 2014
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