明治天皇


維新政府の要人たちは彼を禁中の坊や、キンボーと呼んだ。

西国の雄藩の藩主たちからは格下と見られていた政府要人から、さらにそのように扱われていたのだが、かえって伝統・慣習に囚われない人物として育った。

明治帝が伊藤に作らせた憲法はドイツ講壇社会主義者の指導を受けてできたものだった。
公共や人道・博愛の精神に溢れるものであり、国際主義を背景としていた。
帝はフリーメーソンの一員、とも聞くが、さもありなん、と。

帝は御製から拝察するに、日常においても迷信・神秘思想・国家神道などとは一線を画して、ラショナリスト(合理主義者)に徹しておられた。

牛肉を食べる外国人の(禍々しい)風習に対して、国内世論が二つに割れていたころ、帝はおんみずからこれを召上がられ、議論に終止符を打った。
見方によっては伝統を破壊する暴挙とも、奇行ともいえるところだ。

改暦についても、それまで一貫して使われてきた東洋の太陰太陽暦からグレゴリオ暦への変更を支持された。また、日曜日を公休日に定めた。
これは結果的にせよ、カトリックが作ったカレンダーを正式採用するものだった。

恵方や鬼門も無視され、「日本列島は東北から西南に連なっているのに、東北を鬼門とする迷信を続けたらどこにも行けない」と批判された。

そんなわけで、後世に建てられた明治神宮の「おみくじ」には吉凶占いが書かれていない。

不合理を批判し、敢えて断行なさるのが帝であった。
このようなリアリストである文化革命家が元首の座にあったことは明治日本の幸運であった。

ただし、維新には陰もある。仏教寺院は迷信の巣窟として激しい迫害を受け、大きな傷跡を残した。また、江戸などの地名は新しい地名、東京などに変えられたが、このような無用の混乱は文化革命には付き物なのだろう。

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