余生

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遺言シリーズ7



梅を漬ける季節になると、祖父を思い出す。
毎年この時期になると、父の実家に生った梅を持って来てくれていた。
明治の半ばの生まれの祖父、70代から80代の老人だったのだが、私には持ち上げることも出来ない大きな風呂敷包みを(20キロくらいあったのではと思う)、両手に下げて遠くから訪れてくれていた。

玄関に立つと、〇〇さあーん、と母の名をのどかなダミ声で呼んで、母はいそいそと祖父を迎え入れる。
その世代としては巨漢の部類だった祖父は、陶器の布袋さん(ギタリストじゃありません)みたいな風貌、いつもにこにこしていた。

父が仕事から帰ると二人で晩酌が始まる。
繰り返し語られる昔話の中で私が好きだったのは、河童を見た話と、マッカーサーの話。
政治の話や祖父は農民なので、農業、作柄の話、なんてのは面白くないから、流して聞いていたが、摩訶不思議な話とか、有名人の話には聞き耳を立てたわけね。
なんでマッカーサーかというと、祖父は昔国の仕事をしていて、農業に関する戦後のシステム作りに関わっていた。
農地解放のことで、お伺いを立てに通っていたらしい。
子供だった私の頭から、小ムツカシイ話はきれいに流されて、残っているのはマッカーサーに煙草を貰った話くらいなのだが。
「わや煙草は飲んかち、マッカーサーがゆたじ、おやよう飲んとよち、ゆたなあ…」てな具合に続くド方言の会話なのだが、(あのレイバンの外人がド方言で話すわけないじゃん)と密かにツッコミ入れては、ウケテいたのでした。

梅に話を戻すと、祖父が運んで来た梅は、今私が漬けている南高梅とは比べ物にならない、大きさもばらばら果肉も硬く、皮も厚い梅だった。
その貧相な梅干が、広縁いっぱいに大笊を並べて干されると、私は香りに誘われ、せっせとつまみ食い。
種を庭の植え込みに投げたっけ。
そしてばれては、「腎臓が悪くなる!」と叱られた。

私が漬ける梅干はあの実家の梅干と較べてなんて器量よしなのだろうと、うっとりしてふと思った。
母が漬けていたあの梅の木、まだあるのだろうか。
あったとしても、もう生った実を収穫し、漬ける人はいないのだろう。
今は誰も農業をしているとは聞かない、祖父の畑、荒地になったか、売り払ったかだろう。
見栄えは悪くても、その家の男たちが丹精し、収穫した物を、女たちが手を加えて食卓に上げていた暮らし、もう失われてしまった。

日本の農のために働いたはずの祖父、その子や孫がこのテイタラク。
今どころではない下克上不能な格差を是正するための大手術だった農地解放は、農地を細切れにし、競争力のない農業の遠因になった。
アメリカの意向がほとんどで、祖父の考えなど反映されてはいない、ただの使い走りだったかも知れないのだが、それでも祖父が自分のした仕事を、誇りに思っていたのは確かだ。

駐日仏大使で詩人だった ポール・クローデルの1943年の言葉
「日本人は貧しい。 しかし高貴だ。 世界でどうしても生き残って欲しい民族を挙げるとしたらそれは日本人だ」

祖父は、その高貴で貧しい日本人の一人だったと思う。
その世代が子や孫のためによかれと作り上げたシステムによって、日本人は「家」と「土地」の束縛から離れ、個人主義、責任を伴わない自由を謳歌し、衣食足りて礼節を忘れた。
一つの便利を手に入れる度、能力を喪失して今がある。
日本人を高貴と言わしめたものは「家」「土地」「天皇」への信仰だったのだろうか。

祖父の資産を奪い合う子供たちに「お前達を争わせるために、働いたのではない」と嘆いていた祖父。
この「美しくない国」を何と言うのだろう。
こんな国にするために働いたのではなかったろうに。

なんとも話がでかくなり過ぎたが、そんなことを思うただの主婦の私は、国会で「美しい国」と当然ながら連呼するわけでもなく、幸田文、青木玉、辰巳芳子などの諸姉の爪の垢を文章から拾い集めては、分相応に昔帰りを試みるわけだ。
母が有吉佐和子氏の「複合汚染」の影響を受けて、エコの庭を造ったように。

収集がつかないのでこの辺で。
富士子さんと、ミーシャさんのブログを読んで、こんな日記を書いたこと、申し添えます。




Last updated June 18, 2007 03:20:59

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