いにしへの渓谷(12)

いにしへの渓谷




 谷に四度目の朝が来た。流風は近くの岩場で眠っているさくらを起こすためにさくらに近づいた。さくらはまだ眠っているようだ。流風はさくらの体に手を伸ばしたが、なぜかさくらの体に触れることに抵抗を感じたのだった。柔らかい陽に照らされているさくらの顔を見てどこか落ち着かない気持ちになってしまう自分に戸惑いながら声を掛けるのだった。
「おい、起きろ!朝だぞ。」
流風の声は荒々しく辺りに響く。ゆっくりと目を覚ますさくらを見て流風は立ち上がった。
「今日、春生の所へ行く。」
流風は突き放すような声で短く言った。
「やめて。お願い!春生を殺さないで。」
さくらはその流風の言葉を聞くと飛び起きて流風の腕を掴むのだった。
 絶対に守る。そんな思いでさくらは流風の腕を掴む手に力を込めた。流風は力任せに腕を振り、さくらの手を離そうとしたがさくらは全身で彼の腕にしがみついているので振り払うことはできなかった。
「お前は浅倉の話を聞いただろ?守谷が悪いんだぞ?!」
さくらの腕を振り払えない流風は苛立って、声を荒げた。
「だけど、春生は何もしていない!何で今になって呪いがかかるの?流風もおかしいよ。確かに、浅倉の先祖は無念だったと思う。守谷の先祖を恨みたい気持ちも分かる。だけど、もし・・浅倉の先祖が守谷の立場だったら、きっと自分の子供を助けたと思う。人は・・・全ての生き物たちは、自分の大切な物を守ろうとして必死になるんだよ。それは当たり前のことなの。私は、どんな事があっても春生を守りたい!」
さくらはそう言って流風を睨み付けた。
「流風だって、何で春生を呪わなきゃいけないのか分からないんじゃない?」
流風はさくらの言葉に大きく動揺した。
「それは・・あいつが守谷の子孫で、呪いがかかった者だからだ。」
「春生は何もしてない!関係ないじゃない。大切なのは流風の心だよ?流風は何を思っているの?」
「俺は・・・。」
 流風はさくらを見た。流風を見上げるさくらの顔を見ると流風の心は締め付けられる思いでいっぱいになるのだった。
“俺は春生なんて・・・。”
「殺せ・・春生も、こいつも。」
流風の心の奥から声が聞こえた。怨霊の声・・・。自分は春生を呪うために生まれた者。春生を殺さなければならない。だが・・さくらは殺したくない。そんな思いを巡らしていると流風をひどい頭痛が流風を襲うのだった。
「さくらを殺せ・・・。」
悪魔は流風の心を支配しようとしている。流風は頭痛に耐えきれず、その場に座り込んでしまった。
「流風?!大丈夫?」
急に座り込んだ流風にさくらは驚いて流風の肩に触れようとした時、流風の腕がさくらに伸びて、さくらは突き倒された。さくらを見下ろしている流風の目が残酷に煌めき、さくらの首に流風の手が伸びる。
「流風、目を覚まして・・。」
さくらは力一杯に叫んだ。さくらの首を締め付けている手の力が弱まって、流風はさくらから飛び退いた。
流風は自分の中にいる悪魔と戦っているのだった。流風の思い・・。それはさくらを守ること・・・。
「さくら、俺から離れろ・・・。」
 肩で息をしながら微かに唇を震わせて流風は言った。さくらはそんな流風を見て首を横に振り、流風の元へと駆け寄った。
「さくら!」
どこからか紫苑の声が聞こえる。さくらが驚いて辺りを見回すと小さく、だが確実に二つの人影を捉えることが出来た。
「春生!紫苑!!」
 さくらが声を上げると流風は力一杯にさくらの腕を掴み、さくらの首を締め付けた。
“もうこんな事したくない・・・。”
流風が心の中で叫んでも悪魔は流風の声など聞き入れなかった。さくらが苦しみの中で流風を見ると、流風の頬に涙が伝うのが見えた。

 春生は自分の心の中で静かに動く物を感じていた。これで五回目・・・。だが、さくらを助けられるならそれでいい。春生はそう思うのだった。
「紫苑、俺があいつを助けたら俺を殺してくれ。」
春生は柔らかい笑みを紫苑に向けて、春生は流風の元へと駆けていった。紫苑は春生の腕を掴もうとしたがその手は空しく空を切るのだった。
「春生、だめよ!!」
紫苑は叫んだが春生は走り続けていた。突然紫苑の胸元で石が発光し、紫苑の乾いた音を立てて石が割れ、数珠も砂のように紫苑の手から消えた。もう春生を止める術はなくなったのである。

 さくらは春生の変化に気付いていなかった。ただ、流風の涙を見つめいた。
「流風も・・苦しかったんだね・・。」
さくらが喉を震わせながら言うと、さくらを締め付ける手に力が入った。
「ごめん・・・さくら・・・。」
流風もまた微かな声でさくらに言った。さくらをこの手で殺そうとしている・・・そんな現実が流風には辛かった。
突然、流風は背中に鋭い痛みを感じた。振り返ると変化した春生が立っている。春生は拳を振り上げて流風に降ろし、呪文のような言葉を低く唱えた。すると流風の体は砂のように崩れていくのだった。さくらは目の前で起きている光景に驚きながら呆然と立ちつくしていた。
 流風は崩れていく中で安堵していた。さくらを殺さないで良かった・・・。これで自分の中にいる怨霊達も消えるだろう・・。
「さくら、ごめんな・・。」
涙ぐんで流風を見つめているさくらの頬に手を伸ばしたが流風の手は届かなかった。流風はさくらの目の前で跡形もなく消えていった。そしてその場所には流風が持っていた石が二つに割れて落ちていた。
「流風のこと、忘れないから・・・。」
さくらはそのかけらを拾い上げて強く握りしめて呟くのだった。

「さくら!」
ふいに紫苑の声が聞こえる。その声でさくらは春生のことを思い出した。春生を見ると春生はさくらを見つめながら唸っている。紫苑がさくらの元に走り寄った。
「紫苑、春生が・・・。どうすればいいの?」
「分からない。私の数珠は消えてしまったし・・。春生はさくらを助けたら自分を殺してくれって言っていたの。さくら、どうしよう?春生はもう私達の手に負えないわ。」
声を震わせながら紫苑が言った。だが、さくらは紫苑の言葉に首を横に振って答えた。
「私が春生を助ける。見捨てるなんてできないよ。」
 さくらは春生の方へ歩み寄っていく。春生は今、心を失っている。春生は目の前にいる少女がさくらだという事は分からないだろう。だが、彼女は迷いもなく春生へと向かって歩いている。紫苑はそんなさくらを見てやっと気付いたのだった。紫苑に無くてさくらにあるもの・・・それは春生への愛だった。紫苑も春生を想っていたが、さくらに比べると浅かったということが今分かったのだ。さくらは自分の命を危険にさらしてまで春生を救おうとしている。しかし、自分は手に負えなくなった春生を目の前にしてただ立っていることしか出来ないでいるのだ。紫苑はそんな事を思いながらさくらと春生の様子を息を呑んで見ていた。

 さくらは春生に向かって一歩一歩進んでいく。春生を絶対に助けたい。春生はさくらの姿を見ながらまるで獣のように唸り声を上げている。さくらが春生の目前で止まった。春生は今にも飛びかかってきそうだ。さくらが一歩踏み出し、歩き始めるとそこには何もないのに顔や手、足など体全体のあちらこちらが刃物で切られたような傷ができた。春生の気がそうしているのかもしれない。
 さくらの頬を血が伝う。春生に近づくたびに切り傷は増えていく。まるでさくらを近づけるのを拒むかのように春生の周りは張りつめた空気でいっぱいだった。さくらは無数の切り傷のせいで、倒れてしまいそうだったが、春生にゆっくり近づいていった。
紫苑はその様子をずっと見ていた。さくらが一歩近づくたびにさくらの体全体が切れたのを見た。まるで空中の刃物が飛んでいるかのようだった。

 さくらが春生の体に触れられる距離まで近づき、さくらが春生へ手を伸ばすと春生はさくらに飛びかかった。しかし、春生の体はしっかりとさくらの腕に抱きしめられていた。春生はさくらの腕の中でもがいている。さくらは春生の体を離さなかった。絶対に離してはいけない。絶対に・・・。さくらは腕に力を込めて春生の体を抱きしめていた。
「春生、春生!!」
 鬼と化した春生が目の前で泣き叫ぶ少女の髪に触れると少女の匂いがした。なぜかとても心地よい・・・。シュンショウ?この少女は何を叫んでいるのだろうか?必死に抱きしめて、まるで大切な物を失わないために抱きしめているような・・・。
“サクラ・・・”
 心の一番奥底から聞こえる声。この声は一体・・・?鬼は自分の中で起きている変化に気付いた。どこからか聞こえる声が鬼を苦しめた。サクラ・・・。この言葉は一体何なのだろう?その言葉が聞こえるたびに見知らぬ少女の笑顔が見える。これは一体なんなのだろう?
「春生!お願い、目を覚まして!!」
さくらは涙を流し、声を枯らしながらひたすら春生の名前を呼び続けている。
「春生!!」

さくらの必死の叫びが鬼の心へと染み渡っていった。
“さくら!”
 春生は心の中で聞こえる言葉と浮かぶ笑顔、そして今、強く抱きしめてくれている少女が春生にとって大切な存在であるさくらだということを思い出した。春生の心から鬼が消え、記憶を取り戻していた。
春生は心を取り戻すとさくらの暖かい腕に顔を埋めた。
「ありがとな・・・。」
微かに笑みを浮かべた春生はそう言うと、脱力してさくらの腕の中に沈んでいった。
「春生!しっかりして!春生!!」
紫苑が急いでさくらの元へ走り寄ると、傷だらけのさくらの腕に抱かれてぐったりとしている春生の姿が見えた。紫苑は震える手で、だがしっかりとした態度で春生の手首に指を置いた。
「脈はあるわ。今は気を失っているだけ。でも体力がすごく落ちているから、ここで安静にさせないと危ないわ。」
紫苑はそう言って、立ち上がり川へと歩いていった。

 春生は助かるかもしれない。だが、どうやって家へ戻ればいいのだろうか?紫苑は川の水を汲みながら考えていた。春生の呪いは解けたのだろうか?あるいはまだ鬼が潜んでいるのか?川を見つめて紫苑は不安に駆られるのだった。水が張られた桶を片手に紫苑はさくら達の元へと歩いた。さくらを見ると、さくらは傷だらけの手で心配そうに春生の手を握っている。今できることは・・・春生の意識が戻ることを待つだけだ。紫苑はさくらの姿を見つめながらそう確信するのだった。





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