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「酢豚もどき」の作り方です。豚肉でやってもいいんだけど・・・うちの娘はあっさりとした鶏のむね肉の方がお好みですので、うちでは「酢豚もどき」になります。で、塩コショウをしたむね肉に片栗粉をまぶします。野菜は玉ねぎ、にんじん、ピーマンを炒め、チリソースをかけます。うまい!娘たちにむちゃ好評でした。チリソースはケチャップ大さじ2杯、醤油大さじ1杯、水で溶いた中華だし60cc、片栗粉小さじ1杯、にんにくとしょうがを1片ずつとありますが、たっぷりと入れるとうまいですよ。このレシピはすっかり覚えてしまい、今も何も見ずに書きました。あはは・・・手羽先の話題で、コメントをいただきましたので、気を良くして披露しました。手羽先の隠し味は甘辛醤油とたっぷりコショー???なるほど、そうかもしれませんね。コーラ煮もうまそうですね。あ、そうそうEFT(Emotional Freedom Techniques/感情解放テクニック)は痛みを治すのが専門ではありません。興味のある方は、下記のブログ(EFT 2分間の魔法)の、左メニューの「EFT講座参加者の声」を参考にしてください。http://blog.livedoor.jp/eft1/では、また・・・
2005年05月03日
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先日、名古屋でEFT(Emotional Freedom Techniques/感情解放テクニック)インストラクターの養成講座を行いました。名古屋名物、手羽先も食べました(*^_^*)なんで手羽先が名古屋名物なのか知りませんが、これがまたうまい!あの隠し味は何だろう・・・と探求してみたくなります。講座では「肩の痛みが治る」「花粉症の症状が軽減する」などの自覚できる効果が次々と表れました。初めて歯痛にも挑戦しましたが、これも一発でOK、午後一番に試して、終了の午後5時再び痛みのほどを聞きましたが「痛くない」との返答でした。周りで見ている人はサクラじゃないかと思うでしょうね。でも、ほんとに痛みがとれたのだから、しょうがない!
2005年05月02日
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この一年で3台のパソコンが壊れました。奮発して、新しいパソコンを買ったのが一ヶ月前。でも、これも調子悪くメールソフトがエラー続き。ある友人が言いました。「超能力者になる前兆かもしれない」と。超能力者になる前には身体の中に流れている電気と電気製品との間で何かが起こるのか、バランスの乱れた気を発しているのかよくわかりませんが、こんなことが起こるそうです。ある超能力者の友人も、能力が身につく前に洗濯機や冷蔵庫を潰したそうです。別の能力者も同じようなことを言ってました。一時期、スプーン曲げや念写などが流行りましたが、今ではそう話題にならないせいか、能力があっても公表することもなく、普通の人として暮らしている人を何人か知っています。ま~あ、僕は超能力者にならなくてもいいんだけどね…超能力者か??? 低能力者なら自信があるんだけどな…
2005年03月24日
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先日、ある方が立ち上げようとしているプラットホームの説明会にオブザーバーとして参加しましたが、とても興味深いお話でした。 あるプラットホームでは、うつ病の方が徐々に癒されてゆき、今では見違えるほど元気になり、とても前向きで活動的な方に変身されたそうです。 長年グループワークを行ってきた私にはよく理解できます。また、このような癒され方が理想だとも思います。 密閉された部屋でカウンセラーとクライエントだけで行われるカウンセリングより、カウンセラー以外の多くの方とのかかわりの中で癒やされる方がずっといいだろうと思います。 先般も書いたとおり、定例会では目的を持たず、ただ集うことによって7回目に「あること」が起こるようですが、もしかするとマイケル・ポランニーの言った「創発」ということかな…と思っています。 で、私としては、目的別の分科会では「メタ認知(高次の自分が自分の考えをモニターする)」の研究会やエポケー(ドイツの哲学者で現象学の創始者のフッサールが提唱した「本質に迫るための判断保留」という方法)の研究会などができれば、いいなあと思っております。 どのようなことになるのか、まだ私もよく理解できていませんが、おもしろそうなことになりそうな予感がしています。
2005年03月23日
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腰痛でお酒をやめ、その後日記を休みがちなので、私信メールで安否を気遣ってくださる方がおられます。ありがたいことです。近況です。このたび、「人生の夢を実現するための出発点」という意味の「夢のプラットホーム」の説明会を開催いたします。4月2日(土)午前10:00~場所は新大阪駅近くの青少年文化創造ステーション(愛称:KOKO PLAZA ココ プラザ) です。現在全国で20箇所あるプラットホームでは、月一回程度の集会を行っております。この集会では何もしません。目的も持ちません。ただ、集まります。何かしたい人があれば、分科会を作りプラットホーム内で人を募ることは自由です。通常、人が集まる場には何かの目的があり、何かをするわけですが、何もしない集会を行うことで7回目ぐらいにあることが起こるそうです。これは私の憶測ですが、その「あること」というのは、自然な無理のない流れの中で、はっきりとした目的や各人の役割が見えてくるということではないかと思っております。ひとつのプラットホームは24人までです。それ以上になると「○○会」から分かれて「○○会02」というプラットホームが誕生することになります。この24人という人数も、あることが起こるのが7回目だということもすべて意味があるそうです。おもしろいことが始まりますよ。(〃⌒ー⌒)ノ
2005年03月20日
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酒飲みが「酒をやめる」という大それた目標を立てると失敗します。「酒飲み⇒やめる⇒酒」をパターンで捉えてみます。「習慣⇒変える⇒?」なら、いかがでしょうか。?にはいろんなものが代入(代数の時間で習った言葉)されます。習慣をやめるのではなく、変える…つまり、別のことをしてみるのはいかがでしょうか。私は酒をやめざるを得ない体調になったから、やめることになりました。すると不思議と他のいろんな習慣も変わりました。するといろんなことにも気づくようになりました。まず、パソコンの時間が減りました。ほぼ毎日書いていたこの楽天日記も、毎日は書かなくなりました。お菓子を食べるようになりました。家族と一緒にくだらないテレビを見るようになりました。これまで避けていたことも、まあ試しにやってみるか…という気になるようになりました。生活のパターンが変わると見えないものが見えるようになります。それがいい眺めかどうかは別です。でも、新たな景色は間違いなくこれまでとは違う心の動きがあります。ちょっとしたことですがね。
2005年03月01日
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大きな目標を立てて、それを成功させるのは、並大抵のことではありません。酒を断つのも、飲んべえにとってはとてつもなく大きな目標です。私がそうだからわかるのです。実は昨年の夏の健康診断で、肝臓のある数値が高いから診察を受けるように言われました。でも、すぐには行かず、なんやかやと理屈をつけて先延ばしにしていました。その後も夕食時になると酒飲みモードになってしまっているので、「まあ、今日はいい。明日からやめようか」と何日言い続けたことか…で、今回の激しい腰痛となり、飲む気もしないほどの痛みに苦しんだというわけです。腰痛はつらかったけど、酒をやめるきっかけとしては最適だったのでしょうね。自分できっかけを作ることができなかったので、愛と慈悲に満ちた神様が「ほな、わしが作ったるがな」と言って作ってくれたのでしょう。ま、関西弁は使わなかったと思いますがね…
2005年02月28日
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酒を断って、半月以上が経過しました。実はパソコンが壊れた直後、激しい腰痛に見舞われ、やめざるを得なくなったのです。災難続きです。今はもう、ほとんど大丈夫なのですが、不思議なことにいったんやめるとやめている状態を壊すのが惜しくなります。今月末にあるパーティーに出席する予定があるのですが、ビールや日本酒に囲まれながら、ウーロン茶を飲むという未体験のゾーンに入り込むことを企てています。これはかつての私には考えられないことです。同じ会費なら、飲まなきゃ損!とばかりに意地汚く飲んでいた過去の自分の姿のような人を横目に涼しい顔をして、お茶を飲む。どんな感じなのでしょうかねえ…どんな些細なことでも、自分の行動パターンを変えるには、きっかけがないとなかなか踏み出すことができません。ちょっと悔しいけど、腰痛さん、ありがとう…
2005年02月24日
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今のところ、自分のするべきことは自分自身のネガティブな感情を解放することだと思っています。心配もネガティブな感情のひとつです。ですから、不幸な人や落ち込んでいる人を心配することからも解放された方がいいように思っています。かつて、私は家族や友人の不幸なできごとを心配するのは当たり前のように思っていました。人を心配するのはやさしさからだと…でも、今は自分の課題と人の課題を完全に区別した方がいいように思います。落ち込んでいる人がその気持ちから抜け出ようとしているのは、その人の課題解決ですから当然その人がすべきことです。私の課題はそれを見て、「かわいそうに…」と心配しているところから抜け出ることです。その人の課題はその人だけで解決すべきだと言っているわけではありません。人の援助がどうしても必要なときがあるからです。でも、「~してもらえませんか」と人の援助を求める行動を起こすことはその人のできること、その人の課題です。仮に私がその人から援助を求められたとします。断るか受けるかを決めるのは私の課題です。受ければふたりの課題になりますので、できる限りのことをします。その人を心配するというネガティブな感情を解放した後の私は相手の援助に対する打ち手は心配していたときより、より適切なものとなります。
2005年02月01日
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見ることも触ることもできる他の人の肉体はこの世では自分とは別の存在です。「もとのそのもの」は全体が畳み込まれた世界だとすれば、私とあなたという区別はありません。みんなつながり合っています。ユングはこのことを集合的無意識と呼んだのでしょう。みんなつながり合っていれば、自分がどんなことを思おうが、どんなことをやろうが、どんな感情を持とうが他の人には関係ない・・・とは言えなくなります。人がどんなに苦しんでいようが、どんなに悩みを持とうが関係ない・・・とも言えなくなります。さて、さしあたって、この世での自分のするべきことは何なのでしょうか。もう少しで見えてきそうですね。明日に続きます。
2005年01月31日
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ホログラムのフィルムは全体が畳み込まれていると昨日書きました。ホログラムのフィルムが「もとのそのもの」であり、ホログラムという立体映像がこの世に映し出された映像です。私たちの脳の中に映し出された映像も立体ですが、昨日書いたようにこの世にあるものを認識するのに「もとのそのもの」を平面である網膜に写し取ります。ホログラムのフィルムが平面の同心円なら、私たちが見えている世界の「もとのそのもの」の姿も立体像とはぜんぜん違ったものかもしれません。ホログラムのフィルムが「全体が畳み込まれている」のなら、私たちの見ている世界の「もとのそのもの」も全体が畳み込まれているのかもしれません。そう・・・全体です。全体が畳み込まれている世界では、私とあなたという区別はありません。私もあなたも身の回りのものも、全体です。切り取ると全体像が現れます。一部の中に全体があります。この世では私とあなたという区別がはっきりしています。ふたりの肉体がひとつという概念は想像もできません。もしかすると、私たちは全体でひとつという世界の喜びを見つけ出すために区別がはっきりしている世界に住むことに決めたのかもしれませんね。
2005年01月30日
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私たちはこの世界を五感を通じて認識しています。その中のひとつが視覚です。視覚は目にある網膜という平面に映った映像です。では、私たちの見ている世界は、なぜ平面ではないのでしょうか。それは脳が私たちをだましているからです。平面に映った映像を立体的に認識できるような機能が脳にあるのです。ですから、もとのそのものが立体であるという証拠はありません。もとのそのものを人間の脳が立体として認識しているだけといえるでしょう。ちょうどホログラム映像のように・・・ホログラムのフィルムも同心円が集まった薄い板状のものです。それを映写機で映すとたとえばミッキーマウスの立体映像が映し出されます。でも、もとのそのものであるフィルムを確認してもミッキーマウスらしきものは、見つかりません。ただ同心円のフィルムがあるだけ・・・このフィルムをハサミで半分に切ります。半分になったフィルムを映写機で映すとどうなると思いますか?ミッキーマウスの上半身だけが映し出される・・・いいえ、そうではありません。前と同じ映像が出現します。半分になっていますので、ただ映像の質が悪くなるだけです。このフィルムにはミッキーマウスの全身の映像が畳み込まれています。ですから半分になっても全身のミッキーマウスが映し出されるのです。(明日に続きます)
2005年01月29日
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潜在意識の声を聞くといっても、何が潜在意識からのメッセージなのかよくわかりません。でも、難しく考える必要はありません。簡単に知る方法があります。自分の気分に注目してみればすぐにわかります。いやな気分のとき、潜在意識は何かメッセージを送ろうとしています。表面意識で「こうしうよう」と思っても、できないことってありますよね。やろうと思ってできないわけですから、当然いやな気分になります。人から傷つけられ、腹が立ったときのことを思い出してください。このときいい気分でしたか?いやな気分でしたか?腹が立ったのですから、いやな気分に決まっています。自分のしたことで、悔やんでいることはありませんか?思い出すとどんな気分になりますか?答えるまでもありませんよね。社会で起こっている不正なことに怒りを覚えることはありませんか?不正なことに抗議をして解決しようとする前に不正なことに対するいやな気分を解消するのが先決です。人のことを心配することはありませんか?その人に何かしてあげる前にすべきことは自分の心配という感情(いやな気分)を解消することです。
2005年01月28日
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昨日、「悪いあの人」「かわいそうな私」ではなく、「私にできること」を考え、行動に移すことが問題解決に向かうと言いました。「私にできること」を考えることは悪くありませんが、「ねばならない」「すべき」という表面意識上の固定観念から、がんばり過ぎてしまう場合があります。がんばっても、がんばっても思うようにならないとストレスを生み出します。結果に満足できないと「悪いあの人」や「かわいそうな私」を持ち出したくなるのは当たり前のことです。「悪いあの人」や「かわいそうな私」を持ち出すのはいけないこと・・・という考えは「悪いあの人」や「かわいそうな私」を感じなくさせます。人にやさしくすることもいいでしょう。社会に貢献するための活動も立派なことです。でも、潜在意識のかすかなシグナルを聞いてあげることも「私にできること」のひとつです。場合によっては潜在意識の声を聞いてあげることが最優先した方がいいこともあるでしょう。
2005年01月27日
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私のオリジナルではありません。教えてもらったことです。人の行為や思いは「悪いあの人」「かわいそうな私」「私にできること」の3つの切り口から捉えることができるそうです。「悪いあの人」というのは悩みやトラブルを「あいつ(周りの環境)が~だからこんなことになった」と言って自分の責任ではないように振舞うことです。「かわいそうな私」は「私は~もしたし、~もした」と言って、自分の行為を正当化し、やはり責任が自分にないことを主張しようとします。「私にできること」は責任の所在がどこにあるかに関係なく、自分がトラブルに対し、どのように振舞えばいいのかを考えているときのことをいいます。「私にできること」を考え始めたとき、問題は解決の方向へ向かいます。「悪いあの人」「かわいそうな私」を考えるな、言うなと言っても無理でしょう。まったく自分には責任がない、自分は犠牲者だと思えるようなできごとに遭遇することがあるからです。でも、「悪いあの人」「かわいそうな私」を考えているのだと意識することはできます。「悪いあの人」「かわいそうな私」を考えていたい、言いたいときのせめてもの「私にできること」は意識的でいることです。そして、さらに「今は考えていたい、言いたいからやっているだけ。問題を解決しようとはしていない」と意識しておくことでしょう。ちょっと、しんどいけどね・・・最初はね。でも、「私にできること」を考え始めると不思議と解決策が浮かんできたり誰かの援助があったりすることが起こります。おもしろいね。
2005年01月26日
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因果応報とは「人の思考、行為の善悪に応じて、それ相応の報いがあること」を意味します。仏教用語ではありますが、昔の親たちはそれと意識せず、平易な言葉を使って、子どもを戒めていました。「人の見てないところでも善行を積むと自分が困ったときに誰かが助けてくれるもの」「人は見てなくてもお天道様はお見通し。悪いことをしたら、罰が当たる」など・・・ほんとうに因果応報という原理がこの世にはたらいているのかどうかはわかりません。でも、いくら自分に言い訳しても、心の深い部分では善悪をちゃんと知っていて、悪いことをした自分を許してくれないような気がします。では、悪いことをしたら、罰を甘んじて受けなければならないかというとそうではありません。善行を積めば帳消しになります。・・・と、まあ今回はけっこう一般的な話に終始してしまいましたが、今後は行為、善悪に関する話題をちょっと深めていくことにしましょうか。
2005年01月25日
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昨日の続きです。幼いころ「人間のワンちゃんがほしい」と言っていた娘の桃子は、家族とトイプードルのクゥちゃんがいるところで「この中で犬の人?」と言って、何とかクゥちゃんに「ワン」と言わせようとします。でも、クゥちゃんは知らん顔。クゥちゃんは自分が犬という意識はありません。犬と人間という区別もないようです。ただ、自分もみんなもこの世に存在するものとして、分け隔てなく私たち家族を見ているようです。存在するものはみんな自分を否定するものではないと思っているらしく、好き嫌いなく、みんなにじゃれつきます。犬用のトイレ以外のところで、おしっこをしたときには「コラッ」といって叩かれますが、歯向かおうとはせず、叩かれることを受け入れ、叩かれたあとも相手の目をじっと見つめます。叩いた人を批難していないことは、そのすぐあと叩いた人に寄り添い、手をペロペロなめるしぐさですぐに表現しようとします。否定しない・・・起こっていることそのものを受け入れる・・・犬はいろんなことを教えてくれます。
2005年01月23日
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ノイローゼになる犬が増えているそうです。いろんな要因があるのでしょうが、簡単な治し方があるそうです。それは犬を飼っているうちの主人がその犬を「バシン!」と一発殴りつければいいのだそうです。犬は自分も含めて家族の中で序列をつけます。奥さんがいばっている家庭があります。ある家庭では子どもが偉そうにしています。犬は誰に仕えていいのかわからず、悩んでいます。それをはっきりさせてやることによって、犬はノイローゼから脱出することができます。人は殴られると相手を憎んだり、傷ついたりします。いっぽう犬は、殴られることで仕えるべき人がはっきり理解できるのかもしれません。犬の幸せが人に仕えることだとすれば、通常私たちが抱いている「殴る」という行為に対するイメージで計らなくても、いいのかもしれません。犬は殴られた相手を恨むことなく、尻尾を振って寄ってきます。どんなにおなかが空いていても、「待て」と言えば、その言いつけを守ります。どんなみすぼらしい身なりの人にもじゃれつきます。そんな犬が飼いたくて、成人した娘は自分の夢をかなえました。幼いころ、ぬいぐるみの犬を買い与えてはおりましたが、娘(桃子)はほんものの犬がほしかったのです。そして、幼いころ言ったことがありました。「桃ちゃんねえ…人間のワンちゃんがほしいの」って。
2005年01月22日
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うちにはトイプードルの「クゥちゃん」という犬がいます。飼い主の娘は「今日は寒いし忙しいから散歩はやめにしよう」と思っていました。何の気なしに「クゥちゃん」と呼んでみるとクゥちゃんは散歩に行けるものと思い込み、尻尾をピンピンと振ってちんちんをします。あまりにもうれしそうにはしゃいでいるクゥちゃんの期待を裏切るのも忍びなく、娘は散歩に連れて行くことにしました。娘は言います。「こいつ、めっちゃ、プラス思考。散歩をやめにしようと思ってたのに名前を呼んだだけで連れて行ってもらえるものと思うんだから…」。喜べばうれしいことが起こる…いい例なのかもしれません。結果を決めてしまって、それが起こったときの感情まで味わってしまうとそれに同調する人まで呼び寄せてしまう…明るい心は明るいできごとを引き込みます。心の世界で明るい状態が作られたのだから、それが現象となるのはあたりまえ…なのかな???
2005年01月21日
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遅ればせながら、今年の計画を立てています。今年はいろんな方から、ご提案やお誘いをいただいていますので、大きな転身の可能性のある年だと思っております。ものごとを成就するには、自分の行動パターンや思考パターンを変えなければならないことに遭遇するでしょうね。いい機会だと思っております。そこで、「変る」についてひとこと。「変わります宣言」をした私は、現在の自分を否定的にみて、「変ろう」と思っているわけではありません。どのような行動パターンであれ、思考パターンであれ、身に付けているということは過去、何かの役に立ってくれたことがあるでしょうから…ただ、人は成長します。また、時代によって吹く風も変るでしょう。そうするとある場面で有効だった行動パターンや思考パターン以外のやり方の方がよりふさわしくなる場合があります。「以前のものを消し去ろう」ということではなく、「選択肢を増やそう」というのが私のいう「変る」です。手持ちのカードを多くする方がいろんなものごとに対処しやすくなる…あたりまえのことです。
2005年01月20日
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自分の思いを消すというと自分の個性が失われてしまうように思うかもしれません。自分がなくなることに恐怖を感じることもあるでしょう。トラウマを解放するにはお馴染みの感情、行動パターン、思考パターンを手放すことになりますので、なかなか踏み出せません。トラウマによっていくら苦しもうが、過去に経験のあるものを手放して未知のものを掴み取る勇気を持つのはなかなか困難なようです。もしかすると、私たちはトラウマに苦しめられているわけではなくて、慣れ親しんだ以外のことが起こるのを怖れていただけなのかもしれません。手放すことができないのは未熟で修行が足りないせいではありません。どうしようもない業を背負って生まれてきたからでもありません。不幸なできごとやトラウマは神様の「お試し」ではありません。最初から愛に満ちた世界はそれが当たり前で愛のすばらしさを感じることはできません。喜びも感謝もありません。ただ、当たり前です。いったん愛を手放し、修羅、畜生、餓鬼、地獄へも通じることのできるこの世に生きながら愛を思い出すことに意味があるような気がしてなりません。私たちの心のずっと奥には愛そのものの「ほんとうの自分」がいる…長らく拙い説にお付き合いいただき、ありがとうございます。これまで述べてきたことは「私はこのような仮説からこの世を見ています」という表明であって、この説が正しいという主張ではありません。ある時期になれば、また違ったことを言い出すかもしれません。今のところ…たぶん…こうじゃないかなと思っています。お読みいただき、ありがとうございます。
2005年01月19日
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私たち凡人は悟りを開いていませんので、私とあなたとを区別して捉えます。これを仮に自他分離感と呼ぶことにしましょう。悟りを開いた人は自他一体感を抱いています。では、自他分離感が悪いのかというとそうではありません。自他分離感があるからこそ、自他一体感を知る喜びがあるのでしょう。この世の不幸を生み出すものは同時に幸せにいたる道標という役割も担っているのかもしれません。トラウマも私たちの不幸の原因になっているように思えてしまいますが、ほんとうの自分に出会うための水先案内人という役割があるのかもしれません。愛いっぱいのほんとうの自分を知れば、人はどのようになるでしょうか。おそらく歓喜に満ち溢れた状態になるのでしょうね。ありがたくて、ありがたくて、感謝以外何も感じることはありません。あまりにもありがたいので、世のため人のために貢献しようと考えるでしょう。貢献するために必要なら、地位も得られるでしょうし、必要なお金も入ってくるでしょうね。偉業を成し遂げるかもしれませんが、人が偉業と評価するかどうかはわかりません。でも、評価を与えることのないほんとうの自分を知っていますので、評価される、されないにかかわらず、幸せいっぱいで感謝に満ち溢れた状態になります。感謝している心の状態は感謝するしかないことを呼び寄せます。でも、それは世間で言う「不運なできごと」という形をとっているかもしれません。世のため人のために行なっていることでも、人から批判されることもあるでしょう。でも、批判する人を嫌うこともなければ説得しようとも思いません。感謝の心は起こっている現象に条件をつけません。どのようなことが起ころうが、ありがたいと思えるのが感謝の心です。ただ「ありがとうございます」という言葉しか、思い浮かびません。ここまで意識が高まれば、自分が消えます。自分がなくなります。過去の体験から、自分の身を守るために選んでいた行動から自由になります。自分の身を守る必要を感じるのは怖れがあるからです。怖れから解放されたとき、人はほんとうの幸せを感じることができます。感謝と怖れとは同時に感じることはできません。感謝している人は怖れとは無縁になります。(続きます)
2005年01月18日
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女の子が愛に満ちた母親の胎内にいたようにほんとうの自分も、愛に満ちた世界にいます。私たちの魂はこの世に降り立つとき、愛いっぱいのほんとうの自分から離れます。でも、そのことを私が知っているわけではありません。物質でできた胎児という状態の肉体が愛いっぱいの母親の胎内から離れる現象があるということは、それと相似形のことがもっと精妙な世界でも起こっているのではないかと考えただけです。愛というものの記憶が意識できない心の奥にあるので、私たちは愛を求めようとします。愛を求める行動はあるときは悲しみという感情を使って行われます。あるときは怒りという感情を使い、人を攻撃することもあるでしょう。こんなとき、現象としては「悲しんでいる」「腹を立てている」ということが起こっているわけですが、心の奥では「私の悲しい気持ちをわかってよ」「僕の言ってることをちゃんと受け止めてよ」と言いたいのではないでしょうか。自分と相手とが一体であれば相手に対して怒りを感じることもないでしょう。誰かから竹の棒で頭を殴られそうになると右腕は頭をかばいます。竹の棒で殴打された右腕はみみず腫れになるでしょう。右腕の痛みを和らげるため、左の掌は右腕の痛むところをやさしく覆います。身体の内部でも痛むところに血液を集めるなど右腕を癒すためにすべての力が結集されます。ここでは個が全体の意識に協力し、全体が個に協力するということが行われます。右腕は右腕以外の身体のすべての部分は全体としてつながっていることを知っていますので、頭に対して「おまえをかばってやった」と言うことはありません。「わたし」という全体は「腕ですんでよかった」と考えるでしょう。私たちも肉体同士が離れていますので、分離した存在だと思ってしまいますが、もしかするとつながり合っているのかもしれません。もし、人と人とが分離したものではなく、一体のものだと知ることができれば争い事はなくなるでしょう。悟りを開いた人は宇宙意識を持つといわれています。宇宙意識とは自分という肉体だけに意識がとどまっている状態ではなく、宇宙大に意識が広がった状態のことをいうのだそうです。宇宙まで広がったのですから、その意識の中には宇宙に存在するすべてのものが含まれています。ですから、私とあなたという区別はありません。私とあなたという区別がなければ、あなたを思いやるという考えすらありません。あなたもわたしと同じなのですから、大切にしたいのは思いやりからではなく、ごく当たり前のこととなるのでしょう。(続きます)
2005年01月17日
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私たちは何のために生まれてきたのでしょうか。初めから、愛そのものの「ほんとうの自分」であれば、傷つくことも苦しむこともないのに…と思うことはありませんか。多くの人は苦しみを抱えつつ、この人生を生きてゆかなければなりません。苦しみは試練であって、それを乗り越える強い力が必要なのでしょうか。乗り越えるだけの強い力のない人は生きる価値がないのでしょうか。苦しみのことを試練という言葉で言い表すのが、ほんとうにふさわしいのでしょうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆女の子は体ごと母の愛に抱かれていた時期がありました。母親の胎内では母親と一体の女の子は至福の時間を過ごしていました。でも、いったん母の胎内を離れ、この世に誕生することにしました。生まれることにしたのは、この世で起こる体験を通して、学ぶ必要があったからです。体験の中には悲しい体験も含まれます。お人形をとられたとき、この女の子は、悲しい思いをしました。悲しい体験をし、もう一度母の胸に抱かれるとき、愛いっぱいの世界にいたときの感情や感覚を思い出します。そして、悲しい感情は愛の中に包み込まれれば、融け込んでしまうことを知ります。この子はこの体験によって、愛のすばらしさと人に愛を与えてあげるにはどのようにすればいいのかを同時に知ることができました。愛だけの世界にいるころは、その世界が愛に満ちているとは感じません。うれしいともすばらしいとも感じません。他の世界を知らないうちは愛の世界は「愛の世界」ではなく「あたりまえの世界」です。愛の世界を「愛の世界」と知るためには、愛以外の体験がどうしても必要です。そこで女の子はいったん愛の世界から離れて、「あたりまえの世界」だった「愛の世界」のすばらしさを知ろうとします。(続きます)
2005年01月15日
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現在の心の状態が未来の雛型を作り上げます。ということは、未来は現在にあるといえます。現在は過去をつかんだ状態であるならば、過去も現在にあります。すべてが「今ここに」あります。ほんとうの自分も今ここに存在します。では、ほんとうの自分とはいったいどんな存在なのでしょう。ほんとうの自分はどんな辛い悲しい体験があろうが、過去のトラウマがあろうが傷ついていない存在のことです。ほんとうの自分はただ存在するだけであって、「いい、悪い」の評価をすることはありません。ですから、現在の私がよこしまな気持ちを起こし悪いことをしても、咎めようとも止めようともしません。また、どんなに社会に貢献してもいい評価を与えてくれることもありません。私たちの表面意識に近づいて来て「ここにいるよ」と教えてあげようという必要も感じません。ただ起こっていることを観察しているだけです。評価を与えませんので、現在の私がどんなに傷ついていようが、ほんとうの自分は傷つきようがありません。ほんとうの自分は神の座に存在しています。神様という言葉に抵抗を覚える方は宇宙法則、大自然の法則、自然の摂理、サムシング・グレイトなど絶対的な存在をイメージするような言葉に置き換えても結構です。神様と一体の私がほんとうの自分です。女の子が愛そのものの母親と一体であったように・・・ほんとうの自分は神様と一体なのでどんなことでもできます。神様は愛そのものですので、神様と一体のほんとうの自分も愛そのものです。でも、「過去の私」を握り締めている「現在の私」はまだほんとうの自分のことを知りません。なぜ知ることができないのでしょうか。この世はほんとうの自分を知ることのできない業の深い人たちの集まりなのでしょうか。そんなことはないはずです。神様が私たちを苦しめるためにこの世を作るなどということはとても考えられません。次回は私たちが今のところほんとうの自分を知ることができない秘密を探ってみることにしましょう。
2005年01月13日
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トラウマが現在の私を支配しているように思えるのは、過去に学んだものを手放せないで握り締めているからです。現在の私は過去の私とは関係のない時間軸に存在しますので、過去さえつかまなければ影響されることはありません。トラウマを時間軸の中で観てゆくことによって、過去を手放す手がかりが得られるかもしれません。過去に学んだものをすべて手放してしまうと無意識的に行なっている車の運転もできなくなってしまいますので、まったく意識することなく過去の学びを引き出せるのは必要なことのようです。そこで「現在の私」は忠実に「過去の私」が学んだものを無意識的に再現できるようになっています。過去の私はひとりでは何もできない無力な存在でした。子どものころの私は無力な上に理解力も乏しく、この世で起こるできごとに対し、必要以上の脅威を感じたかもしれません。子どものころに体験したことと同じような場面に遭遇しても、成長した私たちは、子どものころに感じた怖れの感情をそのまま再現する必要はありません。ところが、私たちの無意識は成長した私たちにとって必要のない場面でも、過去に感じた感情やそのときの体験から学んだ信念を忠実に再現してくれます。未来に起こることは現在の自分が決めることができます。現在の心の状態が未来を決めます。人間には自由意思が与えられていますので、どのようにでも決めることができます。思考は実現化する・・・ということは成功哲学でもよく言われることです。思考は実現化すること自体は真実なのですが、ほんとうの自分を感じ取ることなしにただ、成功を手に入れることだけを目的にするとどのようなことが起こるでしょうか。イメージ療法やイメージトレーニングなどで、プラスのイメージを持ち続けることをしても「過去の私」をつかんだままの状態の「現在の私」の願いは一時期、思い通りになったとしても、意識していない闇の部分が現実化しないとも限りません。成功すること自体は決して悪いことではありません。ほんとうの自分を知った上での成功は多くの人に貢献することになるでしょう。
2005年01月12日
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身体症状以外で自分の行動やどうしても陥りやすい考えなどを変えたい場合も、「なんでだろう」と原因を追求するのはいい結果が得られません。私が学んだアドラー心理学(創始者:アルフレッド・アドラー)も「目的論」で有名です。現状分析するために原因ばかりを探ろうとする従来のやり方に対し、アドラーの目的を追求する方法に触れたとき、とても新鮮に感じたのですが、実は700年以上も前から禅問答の中に「目的の目的を問う」というやり方があったそうです。行動や考えの「目的は何か」を問うと答えが出ます。その答えの目的をまた問うのです。そして、出てきた答えの目的を問うということを繰り返します。このようにずっと目的を追求していくと、どのような行動にも究極目的があって、それ自体は決して悪いものではないことに気づきます。目的をずっと追求するというやり方はNLP(神経言語プログラミング)のトレーナーらが推奨するコア・トランスフォメーション・プロセスでも行ないます。コア・トランスフォメーションでは、「もうこれ以上行けない」というところまで追及し、出てきた答えのことをコア(核)と呼びます。そして、そのコアから今度は逆流させ、それぞれの目的を問うことによって出た答えを眺めます。いったん、究極目的をちゃんと意識するとこれまで自分が行なってきた行動や考え以外のものも見えてきます。そして、やがて行動や考えが変容します。このようなプロセスを続けるうちにやがてほんとうの自分に気づけるようになるでしょう。次回は時間軸の中でほんとうの自分に触れる提案です。お楽しみに・・・
2005年01月11日
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トラウマ(精神的外傷)が不快感や痛みなどの身体的な症状となって、訴えてくることとき、どうすればいいのでしょうか。無視すればもっと激しく訴えかけてくる、叱っても、嫌っても、嘆いても解決しないことはすでに述べました。トラウマを味方にする有効な方法はこの症状の訴えのメッセージを聞いてあげることです。今回はその具体的な方法のひとつをお話します。シカゴ大学教授のユージン・ジェンドリンが始めたフォーカシングという心理療法があります。「頭がカーとする」「胃のあたりがズーンと重くなる」「喉が詰まった感じがする」などの症状のことをフェルトセンス(何らかの意味を持っている身体感覚)といいます。フォーカシングではこのフェルトセンスとの対話を試みます。フェルトセンスが胸の痛みだとします。まず、その痛みに対して「こんにちは」という挨拶をします。次に「あなたが何か教えてくれようとしていたのにこれまで気づかなくてごめんね」「教えてくれようとして、ありがとう」と言います。続いて「これからはちゃんと聞くようにするから、さあ、教えて」と言います。すると痛みからのメッセージが聞こえてくるような気がすることがあります。また、実際にはわからなくても、これだけのことを言うだけで、症状が軽くなる、症状がまったくなくなることがあります。え?それぐらいのことでほんとうにうまくいくの?と思いませんでしたか。(^^ゞその答えは・・・実は体験の中にあります。女の子は「ママー」と言っただけで、「私の悲しい気持ちをわかって」とは言ってくれませんでした。同じようにトラウマが伝えようとするメッセージもうまく聞き取れないことがあります。トラウマの言葉はじっくり聴いて、メッセージを読みとる必要があるのかもしれません。頭で考えない方がいいでしょうね。ただ、答えが降りてくるのを待つという態度で臨むのがいいように思います。このフォーカシングは身体症状として表れている場合に使うのがいいようです。明日に続きます。
2005年01月10日
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今日は昨日の話をトラウマと現在の私に置き換えて考えてみることにしましょう。(できごと)過去に起こったつらいできごと(そのときの気持ち)悲しい、つらいなどこのときのつらい気持ちがトラウマに成長し、トラウマは親である私にそのときのつらい気持ちがわかってほしくて何度もやってきて訴えようとします。(トラウマの行動)つらい気持ちがわかってほしくて、私のところへ何度もやって来る。(トラウマの行動に対する私の応答)無視する(私の行動に対するトラウマの応答)もっと激しく訴えるトラウマの訴え方はいろんな方法があります。親である私が一生懸命ある方向へ向かおうとしているのにそれを押し留めようとすることがあります。たとえば、「言いたいことが言えない」や「やめたいのにやめられない」「やろうと思ってもどうしてもできない」などと感じているとき、トラウマさんは「ねえ、わかってよ。僕のこのつらい気持ちを」と言って、まとわりついてきて、私の自由な動きを抑え込もうとしているのかもしれません。いやな気分や体の痛みや喉が詰まった感じ、胸が締め付けられているような感じなど身体的な症状になって訴えてくることもあるでしょう。この女の子は泣き出すという行動でしたが、子どもによっては壁に自分の頭を叩きつけたり、お母さんに噛み付いたりする子もいます。違う場面で自分より弱い子をいじめる場合もあるでしょう。もっと大きくなって登校拒否や非行などの行動で「ほんとうはつらいのよ」という気持ちを表現する場合もあるでしょう。同じようにトラウマもいろんな方法を使って、いろんな場面であたかも私たちを苦しめるように思えてしまいます。でも、トラウマの目的は私たちを苦しめることではありません。女の子の目的も泣いて、お母さんを苦しめるのが目的ではなかったように・・・トラウマがあったからこそ、気づけることがあります。トラウマの彼方にはほんとうの自分が待っています。トラウマを味方にする具体的な方法は次回からお伝えいたします。
2005年01月09日
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小さいころ自分が悲しくて泣いているのにお母さんから叱られたことはありませんか?誰かから胸にグサッと刺さるようなひどく傷つく言葉を浴びせられたことはありませんか?あのときのことがトラウマ(精神的外傷)になって、どうしても抜け出せない・・・なんて思ってしまうこともありますよね。今回はトラウマを味方にするというテーマでお話を進めます。◆◆トラウマを味方にする◆◆前回では、泣き出した女の子への適切な対応はお母さんが抱きしめてあげることだと書きました。でも、そんな対応をしてあげられなかったこともあったかもしれません。あるいは自分が子どものころ母親からそんなふうにしてもらえなかったかもしれません。でも、大丈夫・・・トラウマはほんとうの自分に出会うための手がかりになってくれます。さて、ここで前回の話をまとめてみます。(できごと)お人形をとられた。(女の子の気持ち)悲しい(女の子の行動)「ママー・・・」と言って泣き出し、お母さんのところへやって来た。(女の子の行動に対するお母さんの応答)無視する、叱る、嘆く(お母さんの行動に対する女の子の応答)もっと激しく泣く(女の子の行動に対するお母さんの応答)「悲しかったね。いやだったよね」と言って抱きしめる(お母さんの行動に対する女の子の応答)やがて、泣きやむさて、私たちを苦しめるトラウマ(精神的外傷)はもしかするとこの子のように「つらい、苦しい、悲しい」という気持ちを親である私たちに訴えかけている姿なのかもしれません。この子が「ママー」としか言えなかったようにトラウマも私たちがすぐに理解することができない表現をするのかもしれません。でも、メッセージを汲み取ってあげれば、どのように対応すればいいかがわかります。トラウマにもちゃんとした願いごと(目的)があって、その願いごとさえ叶えてあげることができれば泣き出したり、暴れ出したりすることはないでしょう。
2005年01月08日
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、お母さんのところへ駆け寄ってきた目的(願い)は何なのかをもう一度、考えてみましょう。「ママー・・・」と言って泣き出した時点では、女の子は「悲しい気持ちをお母さんにわかってもらいたい」とはっきり意識しているわけではありません。お母さんに抱きしめら、泣く必要がなくなったことから、客観的な事実として、この子の目的(願い)が「お母さんにわかってもらいたかった」ということがわかったのです。「過去」にお人形をとられたという原因がありました。悲しい感情が起こり、泣き出すという「現在」の行動は過去のお人形をとられたできごとによって導き出されます。「未来」の解決イメージはこの子の行動からはすぐにはわかりません。ですから、お母さんは「ママー・・・」という言葉と自分のところへ駆け寄って来た行動から「私、お人形をとられて悲しいの・・・私のこの悲しい気持ちをわかってほしいの」というメッセージを聞き取ってあげる必要があります。この女の子が「悲しい気持ちをお母さんにわかってもらいたい」とはっきり意識していなかったように私たちも自分の行動の目的(願い)に気づいていない場合があります。そして「なんで・・・私っていつもこうなんだろう・・・」と原因を探ろうとします。原因は過去に起こったことです。意識できていなくても解決イメージは未来に存在する姿です。ですから、目的を探っていけばわかります。目的を探って究極の目的に到達したとき、私たちはすがすがしい晴れやかな気分になります。ほんとうの自分にも気づくことができます。
2005年01月07日
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「言いたいことが言えない」や「やめたいのにやめられない」「やろうと思っても、どうしてもできない」という場面で「なんで・・・私っていつもこうなんだろう・・・」と感じることはありませんか。思い出すだけでズドーンと落ち込むような、いや~な気分になる思い出はありませんか。自分のしたことを悔やんでいて思い出すと顔がポッとほてるように熱くなり、首をブルブルと振って否定したくなるようなことはありませんか。でも、大丈夫。過去どんなにつらい体験をしようが、どんなに傷つこうが、私たちは傷ついていない「ほんとうの自分」に出会うことができます。私たちがほんとうの自分に出会ったとき、すべての問題は解決します。私たちがものごとを「悲しい」「つらい」などネガティブ(否定的)な感情やネガティブなできごとだという思いが入り込んだとき心が乱れます。ほんとうの自分は起こっていることをただ事実として観察するだけです。事実そのものを感受するときは感情が動くことも、心が乱れることもありません。さて、では、ほんとうの自分というのはどのようなものなのか、どうすれば出会うことができるのかをこれから6回~7回(ぐらいかな…)にわたってお伝えします。
2005年01月06日
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(昨日の続きです)「人との一体感を感じていたい」というところに行き着いたとき、これ以上行けないと感じました。これが最終目的です。最初から見ていきます。「お金儲けをする」「蓄えを得る」「妻とのトラブルを避ける」「妻といい関係が築く」「平穏な心の状態を保つ」「幸福感を感じる」「人に貢献する」「人との一体感を感じる」となります。では、今後は逆から順を追って、眺めていきましょう。「人との一体感を感じる」ためには「人に貢献する」必要があります。そして、それを成し遂げるためには「幸福感を感じる」ことが必要だと感じています。そのためには「人に貢献する」ことから始めなければなりません。そして「妻といい関係が築く」「妻とのトラブルを避ける」「蓄えを得る」「お金儲けをする」となります。「人との一体感を感じる」のが最終目的ですので、お金儲けをするための方法を実行するに当たってこれに沿った行動や方法をしなければなりません。その他にも「人に貢献する」「幸福感を感じる」「平穏な心の状態を保つ」「妻といい関係が築く」「妻とのトラブルを避ける」「蓄えを得る」などの命題は意識していなければなりません。「人との一体感を感じる」といっても、どんな感じかは現在のこの方にはわかりません。未来のこの方だけが知っています。知っています…とここでは決め付けてしまいます。現在の私(この方)としては未来の私が感じていることをイメージするしか方法がありません。で、あてずっぽうでイメージしてみます。そして感じてみます。あてずっぽう?そう、あてずっぽうでけっこうです。意外と当たるものです。だって、現在か未来かの違いだけであって、同じ私ですからね…十分感じ取ることができれば、その座に身を置いたまま、「人に貢献する」を眺めてみます。「人に貢献する」ためにどんな行動をとらなければならないかは考えなくていいです。そのうち答えは見つかりますから…次に「人との一体感を感じる」にもう一度身を置いて、「幸福感を感じる」を眺めます。次は「人との一体感を感じる」に身を置き、「平穏な心の状態を保つ」を眺めます。というように最終目標に身を置き、ひつとひとつ逆の項目をたどっていきます。どんな感じがするでしょうか?「人に貢献する」「幸福感を感じる」「平穏な心の状態を保つ」といっても、実際の行動に落とし込まなければ、意味がないと思えてきませんか?いいです。今は。やってみた上でどのようなことが起こるかを楽しみにしておきましょう。(終わります。明日は違う話題になります)
2005年01月05日
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(昨日の続きです)「蓄えを得る」ことの目的のひとつは「妻とのトラブルを避ける」でした。では、「妻とのトラブルを避ける」ことの目的はいったい何なのでしょう。「妻といい関係が築きたい」でした。ならば、「妻といい関係が築きたい」の目的は?それは「平穏な心の状態を保ちたい」です。で、その目的は?「幸福感を感じていたい」。その目的は?「人に貢献したい」。え?「幸福感を感じていたい」の目的が「人に貢献したい」だって?そうなのです。この方は自分がずっと幸福感を感じていることができれば、自分のことはどうでもよくなり、次は自然と人にお役に立ちたいと考えるようになるだろうと思ったそうです。これはこの方の勝手な想像です。ほんとうにそうなるかどうかはわかりません。でも、「ほんとうにそうなるかどうかはわからない」という思いも勝手な想像です。ですから、今この方がそう感じている限り、そうなるものとして扱います。違うことが起こればその時点で考え直せばいいだけのことです。さて、「人に貢献したい」ことの目的はいったい何なのでしょうか?「人との一体感を感じていたい」でした。このとき前に言った幸福感を感じていたいのは自分という個としての存在が幸福を感じることをイメージしていました。ところが「人との一体感を感じていたい」では、人と自分との隔たりを感じない世界、愛の世界をイメージしたらしいです。現象世界を生きる道具の肉体というレベルでは別々のように見えるけれど、ほんとうは分かられない世界、一体の世界をイメージするというとんでもないところまで行き着いてしまいました。さて「人との一体感を感じていたい」の目的は?もう、これ以上行けません。どうやら最終地点まで行き着いたようです。ところが、ここで終わるわけではありません。ここからどうなるかが目的の目的を探るほんとうの目的です。(明日に続きます)
2005年01月04日
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「お金儲けをする目的は?」と問うと「そりゃあ、今よりいい生活がしたいから」や「蓄えがないと困ることがあるかも知れん」という答えが返ってくることがあります。この答えは理由または動機です。この答えでも十分意味はわかりますが、「目的は何か」にこだわってみましょう。「今よりいい生活がしたい」のは「今よりいい生活を得る」のが目的です。「蓄えがないと困ることがあるかも知れん」は「蓄えを得て、安心感を得る」が目的です。「今よりいい生活」という表現はずいぶん曖昧です。どういう状態をいい生活だと定義しているのかがわかりません。目的は、はっきりイメージできるほど明確なものでない限り、知恵や力を結集することは不可能ですので、具体化させる必要があるでしょう。「蓄えを得て、安心感を得る」という言葉では、「安心感を得る」のが目的で「蓄えを得る」のが必要条件だとしているようです。「安心感を得る」のに必ずしも「蓄えを得る」ことが必要かどうかはわかりませんが、答えた方はそう捉えていますので、そのままにしておきます。では、「蓄えを得て、安心感を得る」ことの目的はいったい何なのでしょうか。…と問い掛けるとこの方は「どうも『蓄えを得る』と『安心感を得る』とは切り離した方がいいように思う」と言います。「蓄えを得る」ことの目的のひとつは「妻とのトラブルを避ける」でした。この方は収入が安定しておらず、そのことに不安を抱く奥さんから「いったいどうするつもりなの」や「収入が安定する方法を何も考えてないの」などと批難されることが多かったのです。収入が安定していないことが原因で起こる夫婦間のトラブルを避けたいというのがこの方の目的のひとつでした。(明日に続きます)
2005年01月03日
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「社会のお役に立とうと思ってこの仕事を始めることにしました」という人がいます。ところが、その人の行動を観察しているとお金儲けのことしか考えていないことがわかってしまいます。これまで実績を積んでこられた方でしたので、期待した人たちが集まりましたが、やがて行っていることとやっていることの隔たりに気づき始めたみんなは離れていってしまいました。いくら体裁を整えても、言葉にならないメッセージや言葉の裏に隠された心は不思議と伝わるものです。じゃあ、お金儲けをしたいと考えている人はいったいどうすればいいのでしょうか。お金儲けを考えること、お金儲けを目標にすることは悪いことなのでしょうか。私は決して悪いとは思いません。お金儲けをしたいという気持ちを嫌ったり、自分にはないふりをしたりして誤魔化すのは好ましくありません。人をだますのはまだしも、自分はだましきれません。ならば、認めてしまった方がいいように思います。お金儲けを目標にするには数値化するのがいいと思います。目標金額と達成時期とを数字で表すのがいいです。このふたつがあやふやだと目標は曖昧なものになってしまい、実現しないことのほうが多いでしょう。お金儲け以外のことでも「何がどうなったときに目標が達成されたかの目安」」や達成時期を決めるのが望ましいです。さて、ここからが昨日の続きの本題に入ります。仮にお金儲けをしたいことがわかったとします。で、目的を達成するにはどうすればいいかを考え、すぐに行動に移す人がいます。お金儲けをしたいのは浅い表面意識のレベルで考えていることですので、すぐに行動に出るのではなくて、もう少し検討した方がいいように思います。ここで考えるのはお金儲けをして何を得たいと思っているかを自分に問い掛けることです。この答えは「お金」ではありません。お金儲けをする目的です。お金儲けをすることによって、お金以外の何を獲得しようとしているのか…いくつか見つかるかもしれません。ああ…また長くなりそうですので、続きは明日にします。(引っ張るなあ…(^^ゞ)
2005年01月02日
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年の初めですので「何のために生きているのか」という哲学的な命題について考えてみます。この命題はミッション(使命)と呼ばれます。成功哲学を提唱する人の中にはミッションをはっきり意識して目標を立てるように勧める人がいます。「自分が生まれてきた使命はいったい何なのか…」そんなことを言われてもすぐには答えが見つかりません。いっぽう当面の目標は簡単に見つかります。現状に満足していないことを探し出して、理想像がどのような姿なのかを考えれば目標を立てることはいとも簡単です。たとえばお金儲けであったり、自分の~のところを~にしたいであったり…でも、見つかった目標は我欲ばかりで、使命と呼ぶには程遠いものだと感じることがあるでしょう。「お金儲けなんて卑しい。自分は何でこんな希望しか持てないんだろう。もっと崇高な意識を持てないのだろうか」などと思い、目標に向かって行動を起こす力が出てきません。そこで、使命を意識しなさいという論理に惑わされ、歯の浮くような使命を捏造するという過ちを犯してしまいます。そして、使命と目標とを無理やり、結びつけることになってしまいがちです。すると心の深いところではその間につながりを感じられなくなってしまいます。「お金儲けをしたい」という表面意識で感じている望みが卑しいものだという考えと使命は崇高なものでなければならないというとらわれから、このようなことになってしまうわけです。表面意識で感じている望みは心の浅い粗雑な意識レベルで感じていますので、卑しいと感じてしまうことは無理のないことなのかもしれません。でも、ちょっと待ってください。いくら粗雑な意識レベルであったとしても、感じているという事実がある限り、それは必要なものだとは思いませんか。ここを出発点として、もっと深くて精妙な意識レベルを探し出すための旅に出かけることは出来ないものなのでしょうか。そして、もし深く精妙な意識レベルで感じていることを探し出すことができるかもしれない。それも使命と呼べるほど崇高なものではないと決め付けることができるのでしょうか。ちょっと長くなりそうですので、明日続きを書きます。
2005年01月01日
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うちは神道ですので、大晦日には大祓いという行事を行ないます。塩と米、酒、干物、野菜、果物を供え、玉串奉奠を行い、祝詞を揚げ、大麻(おおぬさ)で家中を祓います。明日の朝は元旦祭を行ないます。準備もたいへんですし、行事そのものも面倒といえば面倒なのですが、最近になって「型を踏襲する」すばらしさに気づくようになってから億劫さがなくなりました。作法は非常に細かく、神前に向かって歩き出す第一歩目が右足か左足かまで定められています。それが坐る位置によって、違うのです。若いころは「何の意味があるの?」と抵抗を感じたこともありましたが、今は意味なんてどうでもいいと思っています。ただ、定められた作法のとおり行なおうと思っています。やり続けないと真髄の分からないことがあります。でも、それを人に伝えようとして、言葉に変換した時点で「もとのそのもの」とちょっと違ったものになってしまいます。「もとのそのもの」を体感している人同士では言葉でも通じ合いますが、そうでない人には言葉という道具は適切でない場合があります。およそ日本で「道」のつくものは「ただ、やり続ける」という期間が必要なのではないでしょうか。一年の締めくくりの大晦日という日に大祓いを行なう家庭という稀有な境遇に縁のあった自分の幸せを感じながら身を清め、気を静め、行なおうと思います。
2004年12月31日
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久々に瞑想してみました。ある方のCDを聞きながらです。自分でも誘導瞑想CDを発売しているのですが、どうも自分のは「出来、不出来」に意識が行ってしまい、うまく瞑想状態に入ることができません。(けっこう評判はいいのですがね(^^ゞ)20分ぐらいの瞑想中にまったく意識のない状態がありました。寝てたのかな…とも思いましたが、意識が戻ってきた状態のとき、背筋がピンと伸びていることに気づきましたので、どうやら寝ていたわけではなさそうです。自分の思いから離れる、自分を客観視するという点では、いい瞑想ができたと思います。一時期、瞑想に過大な期待を寄せていたことがあります。これがまずかったんでしょうね。今回は「久々に瞑想でもしてみるか」と試すような気持ちだったのがよかったように思います。別に瞑想なんてしなくてもいいです。瞑想的生活が送れるようになりさえすれば。
2004年12月30日
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心の中や頭の中は見えないけれど外に現れたものの中から推論することはできます。机の人が散らかっている人は頭の中も散らかっています。トイレのきたない家の住人は隠れたところに対する配慮が足りません。履物が散らばっている玄関で平気な人は足元を見直すことが必要でしょう。他人のことを言っているのではありません。私は本もよく買い、書類の多い仕事をしていますので、気がつけば机の上が乱雑になっていることがあります。最近になって、他の家族の履物もそろえるようになったばかりです。トイレの汚れも妻任せはやめようと決心したばかりです。表に表れる人の行動や思考も、見えない心の中が決定づけているのかもしれない・…「仕事がうまくいかない」「運に恵まれない」「対人関係がギクシャクする」なども、表に表れた現象のみに力を注いでも、なかなかうまくいかない場合があります。…といっても、占いや霊能者、超能力者、カウンセラーなどの言うことを鵜呑みにするのは自分の考える力を放棄するように思えてしまいます。考えられる限りの努力は惜しみたくはありません。そのうえで、通常は現象については関連ないと思われることで、基本的な「いい生き方」と思われることに留意するのがいいのではないか…と思います。間違っているかもしれません。でも、いい・…試してみてから答えを見つけようと他のことを模索しても遅くはありませんからね…
2004年12月29日
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ただ坐るのが座禅のやり方です。悟りを求めた時点で座禅は間違ったものになってしまいます。悟りが目的ではなく、坐るのが目的です。結果を目的にして、行為するのではなく、行為することを目的にして行為します。すると目的を達成することができます。ただやるだけでいいのですから。達成不可能な目標を打ち立てて、それに向かっていくら努力しても達成することはできません。目標が達成できない場合、努力ややり方が悪いのではなく、目標の立て方そのものが間違っている場合があります。「変ります宣言」も同じです。変ることが目的になってしまうと「変らねば」という意識が生まれます。「変らねば」という意識は今の自分を否定することになってしまいます。すると今の自分さんが、「ちょっと待ってよ。オレの言い分も聞いてよ。間違っているのかもしれないけど、そう感じてるんだからしょうがないでしょ!」と言ってくるかもしれません。今の自分さんは、決して「自分は正しい。間違っていない」と主張しているわけではなく、「こう感じている」というありのままの状態を言っているだけです。無視すれば「あれ!オレの言うことが聞こえないとでも言うの?それじゃあ、もっと大きな声で言うよ」と言いたくなるのは当然です。今の自分さんは「主張を受け入れろ」と言っているのではなく、「存在を無視するな」と言っているだけですので、「そう…そう感じているんだね」と言ってあげなければなりません。そうすれば「わかってくれた?ありがとう」と言って、大声を上げることもないでしょうし、やり方をかえようと思ってくれるかもしれません。「変ります宣言」では「変ること」が目的です。でも、「変るための行為」をするときは「変ること」が目的ではなく、「変るための行為をすること」が目的になります。すると目的は達成します。行為しさえすればいいのですから。変るか変らないかは知りません。でも、不思議ですね。「変ること」が目的のうちは変ることができなくて、その目的を手放したとき、当初の目的を達成することがあるのですから…
2004年12月28日
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人はどうがんばっても一部の人からは嫌われます。人にやさしくしても、人を傷つけまいといくら言葉に気をつけても、みんなから好かれることは不可能です。人にはそれぞれの価値観があります。相手を攻撃したり傷つけたりするのが目的ではなくても、固有の価値観から出た言葉に敵意を感じ、嫌う人はかならず存在します。摩擦を避けようと主張するのをやめても「あいつは本心を明かさない」などと言って、非主張的な態度を嫌う人はいるでしょう。自分の主張することなく、本心とは裏腹の言葉で相手に迎合すると摩擦は避けられるかもしれません。でも、人から嫌われなくても、結果は自分が自分を嫌いになってしまいます。人から嫌われても、自分を受け入れることのできる人は幸せです。人が自分を嫌うのは止められない。でも、自分が自分を好きになるか嫌いになるかは自分の態度決定でどちらでも選択することができます。自分を嫌う人を否定することも、ただ自分を嫌っているという事実をありのままに受け入れることも自分が決めることができます。ほんとはとても自由になんでも選ぶことができるのでしょう。
2004年12月27日
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小学生のころ、年下の子をいじめたことがあります。「なんてかわいそうなことをしたんだろう」「ひどいことをした」と、ずっと悔やんでいました。自分や相手に対する思い、感情、情景などを思い出しながら、それを言葉に換え、EFT(感情開放テクニック)を行いました。感情はあえて言うなら、当初は慙愧の念というのが近いでしょうか。やっていくうちに悲しい感情が湧きあがります。2ラウンドほどやったとき「この悲しさは相手の男の子の悲しさ」と直感。相手の子になったつもりで、思いつくまま、気持ちや感情を言葉にしてを口に出して言い続けました。初めは「悲しかったよ」「つらかった」という否定的な言葉でしたが、やがて「役立つ人になって」「人にやさしくして」などの言葉に変化します。そのラウンドが終わると胸の痛みが表れましたので、その痛みについて行ないました。痛みはなくなり、すがすがしい気分になりました。「この悲しさは相手の男の子の悲しさ」という私の直感は正しかったのかどうかはわかりません。もしかすると自分が勝手に作り出した妄想なのかもしれません。「役立つ人になって」というフレーズを思いついたのも、自分がまだまだ役立っていないという思いがあるからなのかもしれません。「人にやさしくして」というのも同様です。もし、そうならこの思いに説いてセッションを行なう必要があるのかもしれません。ま、今のところ「何が正しいか」ではなく「何が起こるか」に重点を置いてやっていこうと思っています。最終的には、すがすがしい気分になりましたので、「いいことが起こった」と解釈しています。セルフ・セッションはまだまだ続きそうです。
2004年12月26日
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昨夜のイブはいかがでしたか?カトリック系ある保育園では、盛大なクリスマスパーティーが行なわれたようです。私の次女はその保育園の保育士です。杏先生(次女の名)と尚子先生(だったかな?)は本格派マジックショーでマジシャンのモデルを務めました。まず、立っている杏先生に頭から身体全身を、円柱状の布ですっぽり覆い隠します。マジシャンの「ハイ!」という号令とともに布をとると中から尚子先生が現れます。尚子先生が現れた瞬間、子どもたちは「うわあ!杏先生が尚子先生に変ったあ~!」とびっくり。ある子は「後で現れた尚子先生は実はほんものの尚子先生ではなくて、杏先生が変装しているのだ」と固く信じて疑わないそうです。ひとりの男の子は両方の手のひらを何回もくっつけながら「杏先生と尚子先生の心がくっついたの?」と興奮気味で話しました。シカケのあるマジックだと理解できる日まで、この子たちは自分の解釈でこのマジックで起こったことを意味付けるのでしょう。それはこの子たちの世界の中ではまぎれもない事実です。杏先生は尚子先生そっくりに変装することができるのです。ふたりの心がくっつくと違う人に変身することもできるのです。自分が決めたとおりのことが起こる…それが世の中というものです。
2004年12月25日
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あっ!クリスマスだ!小さなお子さんをお持ちの方。あなたのお子さんはサンタクロースを信じてますか?実はサンタクロースのモデルはセント・クラウスという実在の人物だと聞いたことがあります。娘が5歳ぐらいのとき、近所のちょっと年上の男の子から、言われたことがあります。「おまえ、あほか! サンタクロースなんかほんまはおれへんねんぞ」とね。その男の子が立ち去ってから、娘が私に言いました。「あのお兄ちゃん、ヘンなこと言うね。サンタクロースがいないんだって…」。娘の中ではサンタクロースは確実に存在していました。男の子にはサンタクロースは存在していなかったのでしょうね。サンタクロースは存在していると思っている子のところへは確実にやって来ます。でも、サンタクロースはエネルギー体ですので、目には見えません。そこで、この世では父親や母親がプレゼントするという現象となって現れます。父親や母親はサンタクロースというエネルギー体を身にまとっていますが、意識することはありません。いっぽう、サンタクロースを信じていない男の子のところへも両親からのプレゼントがありますが、それはあくまでも両親からのプレゼントであって、サンタクロースとは無関係です。この世では区別はつきません。この世で起こっている他のこともこれと同じようなことで成り立っている場合が多いです。みかけは変らない。でも、何かが違う。その違う何かに気づけば、運も開けてくるかもしれませんね。
2004年12月24日
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先延ばしを克服するワークの制作者としては自分がこのワークで成果を上げなければなりません。そこで、ワークに従って、先延ばししていたことをひとつずつ片付けてまいりました。まあ、私の先延ばしにしていることなんて大したことではなく、銀行の手続きであったり、母の年賀状作りであったりとちょっとやるのが面倒なことや手続き上のことばかりだと気づきました。ただ、淡々とやればできることばかりです。どんなことでも、やり出せば仕上がっていく楽しさがあります。物事に集中するといういい気分も味わえます。ちょっとした未知の発見もあります。仕上げれば達成感を感じることもできます。ということは、プロセスも結果も悪いことはほとんど起こりません。イエローハットを運営する株式会社ローヤルの創業者、鍵山秀三郎氏は「凡事徹底」といいます。氏は会社の便所掃除を徹底的に行ないました。社員に浸透するまで20年かかったと言います。社員たちが会社のまわりを掃除するビデオを見たとき「ここまでやるか…これが氏の言う凡事徹底なのか」と感動しました。ほんとうに徹底的に街をきれいにしようとします。掃除道具もきちんと整理整頓されています。あそこまでやれば、士気も高まり連帯感も増すでしょう。会社の業績はよくなるはずです。目の前にある処理しなければならないこと…対象は何でもいい。そこに魂を注ぎ込めばどんなことからでも多くを学べます。意味や意義など関係なく、ただ、行動する。そのあとで意味を理解してもいいはずです。さあて、今日は何から始めようか…
2004年12月23日
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BBSに「何度も禁煙を失敗してるところを変えたい」という書き込みがありました。禁煙したいという強い衝動、欲求がありながら、喫煙し続けるこの方の意志はなんと強いのでしょう。ん?弱いのじゃないの?・…そういう見方もあります。でも、いったん決めた喫煙という習慣を守り抜くにはそうとう強い意志が必要です。何せ「禁煙」というのぼりをかざした戦士たちが何度も攻め込んで来るのですよ。そんなととき、いったん降参したかのように見せかけておいて、敵が退散したあとで堂々と喫煙するという巧妙な手口を思いつくのは、よほどの強さがなければできない技です。しかし、敵はまだまだ攻撃するのをあきらめておらず、作戦を変えては機会を伺っているようですので、油断はできません。この方が敵と真っ向から戦い、刀折れ矢尽きて敗れてしまう姿などイメージしたくありません。せっかく喫煙というおいしい習慣を手に入れたのに代わりの物もよこさず、ただ「やめろ、禁煙しろ」という理不尽な攻撃に屈するなど悔しいではありませんか…「なに? 喫煙という習慣をよこせだって??? よ~し、あんたの要求どおり明け渡してやろうじゃないか。でもな…ただでよこせはないだろう! 代わりに何をくれるんだ。どうだ? おれの言うことがおかしいか? あほなこと言うな!これが取り引き、ビジネスというものだ。さあ~て…答えを待っているぜ。よ~く考えて…後悔しないようにな。あはははは…」
2004年12月22日
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仏教用語に「身口意(しん、く、い)」という言葉があります。身(しん)は身体(からだ)です。つまり、行動のこと。平たく言えば「やってること」。口(く)は言葉です。「言ってること」。意(い)は心です。これは「考えてること」になります。「やってること」「言ってること」「考えてること」を一致させるということはそうたやすいことではありません。「やってること」と「言ってること」とがチグハグな人はけっこう多いです。「考えてること」をそのまま言うのも対人関係が壊れてしまう怖れから、なかなかほんとうのことを言えないことがあります。また、これは言うべきことではないと自分の考えのあさましさやきたなさと直面し、愕然とすることもあります。一致させるのは難しくても、まず隔たりを意識することから始めることはできそうです。あ、そうか…先延ばしを克服するワークのあとは「身口意を一致させるワーク」だな…きっと…ようし作ってみようか…
2004年12月21日
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「先延ばしを克服するワーク」の告知(無料提供)をしたところ、何人かの方からお申し込みがありました。ある方からは「先延ばし」じゃなくて、「放棄してしまっている」ので、「やる気になるワーク」はないのかとの書き込みも(^^ゞ…おもしろい。「やった方がいい」とわかっていても(顕在意識の思考)、やらない(実際の行動)ことって誰にでもありますよね。実際の行動は顕在意識より潜在意識の方が定義づける力が強いという説があります。このようにいうと顕在意識と潜在意識とが葛藤しているように思えてしまいます。そして葛藤(矛盾)があるから、苦しみが生まれるといわれれば「なるほど、そうなのか」と思ってしまいます。「そんなことはない。顕在意識と潜在意識とには矛盾はない」と言う人がいます。「車のアクセルは加速する働き、ブレーキは減速。じゃあ、アクセルとブレーキは葛藤しているのか?矛盾しているのか?というとそうではない。車を安全に目的地へ到着させるという大目的に向かって、「加速」と「減速」に役割を分担して、協力し合っている姿」こう言われるとまた「そうか…」とも思ってしまいます。でも、相変らず、行動を起こそうとしない自分に対するいやな気分は晴れません。う~ん。ようわからんようになってきたなあ。あああ・・・、この件に関してはもうすこし成長してから、答えを出すことにしよう~っと。
2004年12月20日
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ある方のご依頼で「先延ばしを克服するワーク」を作成しました。簡単なものなのですが、実践すれば効果は高いでしょうね。以前、少し書いた天外伺朗さん(ソニー重役でCD、アイボの開発者)の著書「運命の法則」からの話題です。氏はこの本の中で「もっとも真剣に準備した人のところに強運が訪れる」と述べています。真剣に準備するためのツールが「先延ばしを克服するワーク」です。ありゃあ~、えらいものを作ってしまった。(-_-;)このを手に入れた人は幸運の女神が微笑まざるを得ない状況になってしまいます。あとはワークを実践するのみです。そうなんです。実践するのが大切なんです。当たり前だけどね…手に入れただけで「なんだこんなもの…」とほったらかしにすれば効果はありません。残念ながら、このワークを先延ばしするのを克服するワークを制作する予定はありません。(^^ゞWordの添付資料で送りますので、私信メルアドをお知らせいただければ、ほしい方には無料で差し上げます。
2004年12月19日
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