迷える子羊*ひとやすみ

迷える子羊*ひとやすみ

頭の大きな子どもの話。


 大人以上に敏感で繊細な子どもの心。今の自分にどのくらいその部分が残っているか考えてみたことはあるだろうか?


 大人になってしまった人間が、どれだけ子どもの心を覚えているかは分からない。私ももういい歳で、子どもと呼ばれるにはほど遠い。しかし私の思考は、結構な子どもの頃とそう変わっていない。それ、つまり自分の現在の思考、ものの考え方の大部分はいつ形成されたのかは、人によって違いそして自覚があるところだ。大人はその思考の進化と共に、子どもの心を手放してしまう、あるいは手放さなければいけないものなのだろうか?

 子どもは苦労する。大人の抱えるたくさんの苦労の間で苦労する。その気持ちを、それだけの人間が大人になっても覚えているのだろう?はたまた覚えてはいても、子どもに大人は苦労をかけさせてしまうのか。もともと子どもは大人になるために苦労するようにできているのか……その答えが私に分かるはずも無い。私はまだ学生で、扶養家族で、自分の子どももいない。経済的にも社会的にも自立し、自分の子どもをこの手に抱くとき私の思考はどうなっているのだろうか。


 私は自分を‘頭の大きな子ども’と呼ぶ。


 この考え方はあるとき、ふとした瞬間に浮かんだものだった。そう、実家から大学に戻る長距離バスの中、高速道路の上。私は頭の大きな子どもであるという考えがポッと浮かんだ。そして私自身以外に、私は頭の大きな子どもをたくさん知っている。人間失格を書いて自殺した太宰治、ブラウン管の中で自分独自の意見を周りにぶつけることを仕事にしているあの芸人。あの人たちもっきっと頭の大きな子どもだ…少なくとも子どもの頃は。そして私の友人も恋人も。
 生まれたときから頭の大きな子どもは、自分の頭の大きさに気付くことなく色々なものを吸収して更に大きな頭を所持しながら肉体的に成長する。上を見て、下を見る。左を見、右を見て吸収し、大きくなる。大きいが故の苦難・苦労が、経験値を上げ、更なる頭の肥大化に助力することになる。そしてあるとき、子どもは自分の頭の大きさに気付く。
 「自分は他人と違う」そのことに気付いた子どもは、その頭を誇らしくも煙たくも思い生き続ける。その頭の大きさによる長所も短所も、大きな頭であるから耐えられたのか、耐えなくてはいけなかったのか…そもそも大きくなければするはずもない苦労なのだが。
 大きな頭の子どもはそのまま大きくなる。大きな頭の子どものまま。だから見た目は大人。中身は頭の大きな子ども。頭が大きいために、自分の頭の重さを支えるために、置いてきたものがたくさんある。それを持ったままだと、自分の頭部の重さに耐えられずに、全てが駄目になっていたかもしれないから。子どもはたくさんの他のものを置いて、捨てて、手離して…そうしてココに今生きている。だから頭が大きいわりに、足らないところがあると、周りも自分も感じるし分かっている。だから頭は大きいのに大人になれない。

 頭が大きいことは、幸か不幸か。

それは分からない。それを選んで生まれてくることが出来ないように。大きな頭で生まれた子は、自分の重さに潰されないように生きることしかできないから。

 頭が大きい私は、自分の頭の大きさに気付かないフリをした。認めてしまったらその方が楽だった。だけど今でも自分の頭の重みで潰れそうになったり、支えきれずに右に左によろけてしまうのだ。だから同じように頭の大きな友人と、恋人と互いに支え合わなければ生きてはいけない。その現実から目を逸らさずに、お互いに支えて生きている。例え二人でよろけてしまっても、二人で手を取り合うしかないと分かっているから。そして何より、自分達で自分達の問題を解決する術を持つ由縁がそこにあるから。


 あなたの周りに頭の大きな子どもはいないだろうか?もしくはあなた自身が頭の大きな子どもではないだろうか?どちらでもいい。頭の大きな子どもを見つけたら、後ろからそっと手を添えて欲しい。頭が大きいことに気付いてあげて欲しい。その子の持つ重みを一緒に支えてあげたり、その子が置いてきてしまったものを拾って、作ってあげてほしい。

 決して私の助けを求めているのではない。私には救ってくれる人がもういるのだから。ただ苦難の隙間に入り込むように存在する頭の大きな子どもを、見つけて救ってほしいだけだ。頭が大きいというだけで一度に幾重の苦労する、その子の存在に。


 私は児童心理を専攻する大学院生だ。頭の大きな子どもが、大人の殻を被って、同じ子どもの心理を解析しているだけなのだが。

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