ベガルタ仙台 0
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仮面ライダーが生まれて50年・・・ということがあるわけですが、宮城会場に関して言えば、それだけではありません。石ノ森章太郎が宮城出身だ・・・と、ただそれだけだ、というわけではありませんです。今回の会場となったイービーンズを運営しているエンドーチェーンが創業95周年を迎えた・・・というのがあったわけで、そのことがダブルでおめでたいことになっております。この展示会では、初代仮面ライダーから現在放送されている最新のガッチャードまで、全ての作品を紹介しております。ストーリーや人物関係図、それに映像はもちろんのこと、展示されている小物は、「(複製)」と書かれているもの以外は全て!実際に撮影に使用されているものばかりとなっております。特に、終わったばかりのギーツにおいては、浮世永寿(うきよ・えーす)を祀ったお稲荷さまのほかに、登場人物全員が書いた絵馬もありますし、さらには永寿とツムリが実際に着用した衣装(!)までもが展示されております。・・・と、その他にもいろいろと書きたいことがあるのですが、これ以上書くと何千文字になるかがわからなくなってしまいますので、とりあえずは、こんなお話をしたいと思います。最近の仮面ライダーの変身ベルトって、ギミックというのが非常に凝っていたりします。ベルトにカードリッジか何かを差すところがあり、そこに差し込むと、仮面ライダーの形態が変わってきたりします。さすがに、初代のものといったら、さすがにそういうものは一切ありません。中央に風車のようなものがあり、それが高速で回転できるようになっております。そんなシンプルなベルトであるわけですが、この展示会でじっくりとそのベルトを見てみたところ、あることに気が付きました。それは、向かって右側・・・装着して左側のところに、スイッチとボリュームを調整するかのようなツマミがあるのです。おそらくは、スイッチをオンにすることで、変身可能な状態にできるようです。そして、ツマミを使っては変身するためのエネルギーを捻出(ねんしゅつ)させるようにしているのかもしれません。ヒーローものだけに、いろいろと現実離れしているところがあったりするのですが、よく見てみると、現実的なところがあったりするのが興味深いところであったりします。「生誕50周年記念 THE仮面ライダー展」仙台駅前イービーンズ9F杜のイベントホール 2023年11月23日~2024年1月8日
2023.12.03
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今回の展示会の会場は、仙台駅東口・・・仙石線の地下改札から東へ行った先にある出口からすぐにある東北福祉大のキャンパスとなっているところです。もともとは、代々木ゼミナールという予備校となっておりましたが、撤退してしまったのを機に、東北福祉大がキャンパスにしたものです。私はかつて、1度だけそこに行ったことがあります。その目的とは、中学生を対象にした全国統一模擬試験というもの。学校で行っていた模擬試験では、けっこういい感じで点数が取れておりましたので、それじゃあ試しに受けてみよう!ということにしました。しかしです。出題されている問題がエゲツナイほどに難しかったです。大学に入るためには、ここまでのレベルの問題を解かなければならないのか・・・と思ってしまいました。それで、高校生になってからは、大学入試をするためには、まず教科書の内容をきちんと学習しなければならない・・・ということだったのですが、今に思えば、中学生の頃に受けたアノ模擬試験を経験した身では、半信半疑になってしまうところであったりします。・・・と、そんな苦い思いをしたこの場所で、今回の展示会が開催されているのですが、今回のものは、中村佑介の展示会と同様に、是が非とも見に行きたかったものです。私が江口寿史といえば思いつくのは、やっぱり「ストップ!ひばりくん」です。主人公が女性・・・なのですが、実は中身が男♂だった!ということで、そこから生まれる悲喜劇を描いたものとなっております。ただ、現在ではマンガよりも、もっぱら女性のイラストをメインに手掛けているそうです。そんなわけで、その中から私が気になっているというのが、銀行員の女性のものです。正確に言えば、某クレジットカード会社から送られたカードが入っていた封筒に描かれていたものです。銀行員の制服を身に着けた女性がにこやかにしている・・・そんなイラストです。この某クレジットカードというのが、クレディセゾンというところです。私はクレジットカード機能つきのPontaカードというものを持っているのですが、期限切れによるカードの更新によって、そのカードが送られてきたときに、それが入っていた封筒に、この女性のイラストがあった、ということです。このイラストは、入口すぐのところに、等身大POPとして鎮座しております。高さは150~160センチメートルくらいと、まさに等身大に近いものとなっております。会場内はすべて写真撮影OK!とのことでしたので、遠慮なくバシバシと撮ったのですが、惜しむらくは、このPOPとのツーショットを撮っておけばよかったかな・・・なんて思ってしまいました。まあ、ブサメンである私であっても、これっくらいのことをしても許してくれます・・・よね?ね?「POP STEP 江口寿史イラストレーション展」東北福祉大学仙台駅東口キャンパスTFUギャラリーミニモリ 2023年12月2日~2024年1月21日
2023.12.03
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まずは、こんな話から始めたいと思います。これは、某SNSで見たものであるのですが、バトルロワイヤル(※)という映画のなかで、こんな道路標識が登場してきます。よっく見てみると、知っている人なら誰もがニヤニヤしちゃいそうなネタにまみれております。まず、藤岡、佐々木、宮内というのがありますが、これはいずれも仮面ライダーを演じた人です。藤岡と佐々木に「R」のマークがありますが、これはライダーのことですね。それと、藤岡のそばに黒い点がついてますが、これは「藤岡弘、」の「、」のことでしょう。「宮内出口」と書かれているところに国道のマークで「555」となっているところは、「仮面ライダー555(ファイズ)」のことで、下にある「5.1km」は仮面ライダーが誕生して51年・・・ということでしょうか。それと、「石森市街」とありますが、この「石」と「森」の間に「ノ」のように見える傷跡があります。・・・ということなのですが、私としては、これだけじゃない・・・と思ってしまいました。実はこの道路の形・・・石ノ森章太郎の生家付近のものとソックリなのでは?なんて思うのですよ。下から上がっていって左に曲がるところは顕著なところで、その折れ曲がったところにある「石森市街」というのは、まぎれもなく石ノ森章太郎の生家と石ノ森章太郎ふるさと記念館があるところです。さらに、このあたりに安永寺というお寺があるのですが、その山の名前が「石森山」となっているんです。また、「宮内出口」というところがありますが、この道路標識のとおりに進むと(註:途中で分かれ道があります)、前田公園というところがあります。そこには、仮面ライダーV3のモニュメントがあり、これに出演していた宮内洋の手形もあります。まあ、この場所の地名は、この道路標識の表記どおりに石森となっているのですが、読み方はいしのもりとなっております。ただ、なかには、石ノ森章太郎と同様に石ノ森という名前をつけているお店などがあるのはご愛敬・・・というところでしょうか。・・・と、そんな道路標識の元ネタとなった石ノ森もとい石森にある石ノ森章太郎ふるさと記念館にて、しげの秀一の原画展が開催されております。ここで展示されているのは、バリバリ伝説、頭文字D、MF.GHOSTの原画となっております。この作品・・・とりわけ、しげのの作品の醍醐味といったら、そりゃあ、音を視覚化したところにあるのです。車の音って、今では静かなものとなっておりますが、モータースポーツといったものとなったときには、かなりの騒音が出ます。たいていの人は迷惑に感じるのですが、スピードに飢えている人にとっては、これがたまらなく心地よいものとなるのです。スピードを出したときのモーターからの音、カーブにさしかかったときのタイヤから聞こえるきしみの音・・・そういったものが、目を通して脳ミソにガンガンと響いてくるのです。そんなわけで、こうして原画というものを目の当たりにして、私は擬音のところしか見ませんでした。というか、この擬音のところに、私はしげのの虜になってしまったのです。なので、家に帰った今でも、頭の中ではギョアアアアアアアアという音が鳴り響いております。「画業40周年 しげの秀一原画展」西武池袋本店別館2階西武ギャラリー 2022年11月18日〜30日福屋広島駅前店8階催場 2023年4月27日〜5月9日新潟市マンガ・アニメ情報館 2023年5月20日〜7月2日石ノ森章太郎ふるさと記念館 2023年9月2日〜2024年1月8日※・・・「仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル」
2023.10.08
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マクロスといったら、私が小学生の頃に放送されていたもので、戦闘機が人型に変形して敵と戦う、というものでありましたが、この機体の名前がマクロス・・・というわけではありません。この戦闘機はバルキリーとよばれるもので、北欧神話に登場する女性の半神であるワルキューレの英語名となっております。形式名はVF−1となっており、「V」は「Variable」・・・つまり、「可変の」という意味があったりします。今回のマクロスの特別展は、石ノ森萬画館のぐるっと回る回廊には、マクロスの登場人物が描かれているイラストが飾られておりますが・・・なにか様子がヘンです。よく見ると、手塚治虫タッチで描かれております。実はこれ、このマクロス展の一番始めの展示が、宝塚にあります手塚治虫記念館で開催されたものとなっているのです。その縁から、このように手塚タッチで描かれているのです。そのほかに特筆すべきものは、エンディングにあったアルバムとヘルメットの実物が展示されていたりします。さすがにその現物は透明な覆いで囲まれているのですが、アルバムに関しては、もう1冊用意されており、そちらのほうは、実際に手に触れて見ることができるようになっております。そんなわけで、傍で写し出されているエンディングを見ながら、そのアルバムを見て、感慨に浸ってしまいました。さて、今回の特別展の目玉といったら、バルキリー・・・たしかに、そちらの全ての機種の展示ならびに可変シーケンスもあったり(註:しかも、このコーナーだけは唯一写真のみ撮影可能で、動画の撮影はNGです)するのですが、そっちのほうではなくて、巨大要塞であるマクロスの自動変形なのです。このマクロスの正式な型式は、SDF−1といいます。Super Dimension Fortressの頭文字であったりします。つまり、超時空要塞ということですね。この変形ロボですが、2022年に先述の手塚治虫記念館で展示された後、2023年に横浜で開催された際には、改良が加えられた、とのことです。そして今回の石巻での開催にむけては、オーバーホールを施して臨んだ、とのことです。この変形の最中に、1作目のもののストーリーを紹介しておりましたので、こちらでザックリと紹介いたします。・・・1999年。地球に謎の巨大戦艦が墜落した。それを見つけた人類は、改修して動かせるようにしたのである。この当時、地球上では国どうしで戦争を起こしていたが、それどころではない。地球統合政府を樹立し、宇宙からの敵に対抗することとなった。それから10年後。宇宙から謎の敵が出没し、地球にせまってきた。すると、この巨大戦艦が突如として動きだし、この敵を殲滅せしめてしまったのである。それと同時に、超時空要塞マクロスは、この時の戦いによって冥王星までワープさせられてしまう。それと同時に、マクロスのいくつかの機能が破損してしまい、移動は通常のロケット推進に頼らざるを得なくなってしまう。かくして、マクロスは長い期間をかけて地球へと戻ることを余儀なくなってしまうのである。・・・ということなのですが、最終的には、リン・ミンメイの歌によって敵のカルチャーショックを引き起こし、勝利することになります。要するに、文化というものは、争い事をなくすことにつながっていくのだな、と、私は思いました。つまりは、文化は世界を守るということですね。奇しくも、これを見た日というのが8月と16日・・・つまりは、終戦の日を迎えた直後であったりします。要するに、絶対に戦争を引き起こしてはいけないということです。残念ながら、世界では火種というものがくすぶっているばかりか、実際に戦争になっているところもあったりします。とはいえ、歌の力で・・・いや、それだけでなく、文化の力で、戦争というものをなくしていければいいな・・・なんて、マンガやお笑いなどで、様々な人たちが一生懸命になって文化の種を蒔いている最中である石巻の地で、そう思うのですよ。「超時空要塞マクロス展」手塚治虫記念館 2022年7月1日〜10月24日マルイシティ横浜 2023年3月24日〜4月9日石ノ森萬画館 2023年7月15日~9月24日
2023.08.16
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今回の展示展・・・是非とも行きたかったものでした。この展示会ですが、中村佑介の画業20周年を記念して、東京と大阪で開催されたものから厳選して出展したものとなっております。このうち、東川篤哉の「謎解きはディナーのあとで」や森見登美彦の「四畳半神話大系」を始めとした作品の表紙イラストやその原画がもちろん展示されており、それを見て思わず、うひょ〜〜〜と叫んでしまいました。おっと!さすがに人がいましたので、心の中で・・・ではありましたが。ということで、このふたつに関しては、このブログ上で、これでもか!と言わんばかりに語りましたので、ここではもうひとつのことについてお話ししたいと思います。中村といえば、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDジャケットイラストを手がけております。これには、きっかけというものがあるそうです。メンバーが結成して間もない頃・・・ライブに来てくれる人が20人くらいだった頃に、一人のお客さんが、1枚のイラストをスタッフに見せます。それが、中村が描いたものであったそうです。これを見たメンバーは、そのイラストに可能性というものを感じます。これを描いた人は、いつか世界を飛び越える・・・そう思ったそうです。それ以後、ことあるごとに中村にジャケットイラストを依頼するようになった、とのことです。それともうひとつ、中村にも、音楽にまつわるイラストを手がけるきっかけ、というものがあったようです。それは、学生時代に、中村ともう一人の生徒とバンドを組んでいた、というのがあります。ただ、その生徒は限界を感じてしまったようで、中村とは解散して別れることになります。ところが、その生徒は後に別のバンドを結成したようで、学園祭の際にステージに上がって活躍することになります。これに関して、中村には反骨精神というものが生まれてきたようで、音楽に直接関わらなくとも、自分の得意分野で音楽に貢献したい・・・そういうのがあったためか、ASIAN KUNG-FU GENERATIONをはじめとして、他のアーティストのCDジャケットイラストを手がけるようになった、のかもしれませんね。「中村佑介20周年展」石ノ森萬画館 2023年4月22日~7月2日
2023.04.30
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今回の展示会は、昨日たまたま見た駅の広告で告知していたものです。その広告を見て、衝動的に行くことにしたのですよ。ただ、仙台の駅で見たものですから、即日に・・・というわけではありません。そこはそこ、本来の用事というものがありますので、そこはきちんと済ませなければならないところであったりします。ということで、その翌日に、石巻の石ノ森萬画館へと向かいましたよ。なにしろ、小野不由美の「十二国記」シリーズを飾った表紙ならびに背表紙、それだけでなく、挿絵まで!そこに使用されている絵の原画が展示されているのですよ。原画です!それも、全てですよ!私、全ての作品を読みましたが、展示されているものを見て、読んだ時の物語の情景というものが甦ってきました。「そうそう、そういう内容でした」といった感じで。原画なのですから、人の手で描かれた・・・というのは判るのですが、やはりホンモノの原画は、やはりホンモノですよ。私がマネしてもこううまくは描くことはできません。まさに神業です。原画そのものもそうなのですが、ラフスケッチでさえもクオリティが非常に高いです。なんのヘンテツもない紙に鉛筆1本でここまで美麗に描けるとは・・・ウットリと思わず見とれてしまいましたよ。特にスゴかったのが、目の部分です。そこだけ写真を貼り付けたか、機械かなにかで描いたか・・・そんなハイレベルな描写です。もちろん、こちらもラフスケッチでも手を抜いておりません。そんなわけで、東北初の展示ということもあり、なおかつ、本編で使用された全ての原画が展示されていた・・・ということもあり、本来ならば閉館時間までず〜〜〜〜〜〜〜〜っと何度も観たいところではあったのですが、そこはそこ、心残りをしながら、1回観て終わりにしておきました。ところで、この「十二国記」シリーズの著者は小野不由美・・・なのですが、この小野、実は綾辻行人の「○○館の殺人」シリーズにも関わっております。そう。舞台となる建物の見取り図や、その他の図や表も手がけております。そうしたものの展示会、いつかやってほしいものだな・・・なんて、思ってしまっているのですよ。なんたって、綾辻は「○○館の殺人」シリーズの最新作を誠意執筆中!・・・とのことですので、是非とも特別展をやってほしいものだな、なんて思ってしまうのですよ。石ノ森萬画館でなくてもいいです。仙台市文学館での開催なら大丈夫ですよね。まがりなりにも文学作品なわけですから。楽しみにしたいな・・・なんて、「捕らぬ狸のなんとやら」の気分で期待しております。「『十二国記』山田章博原画展」石ノ森萬画館 2023年1月21日~4月9日
2023.02.04
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今回の一枚はムチャクチャカッコいいというかシブいです!まさにパンクザムライです。この一枚は、当時を席巻したキップのいいイケメンども・・・そんな任侠男を10人描いたもののひとつとされています。「正札」とは、値札のことです。三井の越後屋が掛け売りをやめて、店頭で正札つきで現金で売る・・・そんな商売を始めます。そこから転じて、「掛け値なしのいいオ・ト・コ♡」・・・ということで、イケている男どもを描いたのかもしれません。この一枚に描かれている男は、ドクロ柄の衣装を着用しています。そのドクロにはヒビが入っております。これだけでもムチャクチャイケていますね。ところが、このドクロを目をかっぽじって見てみると・・・。よ〜く見てみてください。よく見ると、なんと猫が多数描かれています。頭部と思われる箇所には親猫が数匹います。顎に相当する箇所には子猫が寄り添いながら群がっています。これだけでも癒やされてしまいますね。まさに猫にまみれております。無類の猫好きであった国芳の「遊び心」がそう描かせたわけですが、パンクななかにかわいらしさが一緒にある・・・そんなイキな江戸っ子風情を感じさせる一枚となっております。「いつだって猫展」仙台市博物館 2019年4月19日~6月9日
2019.05.05
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今回の1枚は、まさに「めんこい」です!猫が鞠遊びをしています。今でいうところのサッカーボールのリフティングをしています。これだけ見ても癒やされるというか、カワイいと思ってしまうわけですが、実はこれ、元ネタがあるそうです。それは、「歌川国丸の曲鞠」というもの。こちらは男たちが鞠遊びをしているのですが、今回の1枚では猫が同じ事をしているわけです。それにしましても、「歌川国丸の曲鞠」では本物の鞠をつかっているわけですが、今回の1枚ときたら、猫なだけに、鞠がタマタマちゃんにしか見えないです。妙にもふもふっとしています。タマタマちゃん・・・そう、オス猫についている、あの丸まるっとしたニャン玉ちゃんです。あれを見たら、誰だって触りたくなるというもの。男だけでなく女であっても。特に男の場合は、猫の「もの」に限らず、自分についている「もの」なだけに、自分のタマタマちゃんを触りたくなりますね。しかも、このタマタマちゃんをじぃ〜〜〜っと見てみると、微妙に上下に動くのです。タマタマちゃん自身の体温を調節するためにそうなっているみたいなのです。北杜夫は「どくとるマンボウ青年記」のなかで、そんなタマタマちゃんから哲学を見いだしたことを書いております。そんなわけで、猫だけでなく、人間のタマタマちゃんをもご自愛してもらえたらいいな・・・と思ってしまう次第です。その5に続きます。「いつだって猫展」仙台市博物館 2019年4月19日~6月9日
2019.05.04
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歌舞伎の名場面を浮世絵にする・・・というのはよくあるもの。それに、その名場面をパロディーにする・・・というのも、よくやっていました。現在でもそうなのですが、江戸時代でもよくやっていたりします。で、今回紹介するのは、「梅柳對相傘(うめあなぎついのあいがさ)」からのもの。遊女である傾城松山と町人・久兵衛の道行の場面となっており、久兵衛がビシッとミエをきっているところを傾城松山が見入っている・・・そんな場面となっております。それを猫におきかえてユーモラスな光景に仕立てあげたわけですね。で、ここで特筆すべきところは、2点あります。ひとつが、二人が着ている衣装。上衣に蝶のような模様が描かれているのですが、そこには小判があしらわれております。まさに「猫に小判」ですね。それと、上衣のしたに着用しているものがチラリと見えているのですが、そこには鈴があしらわれています。こちらも猫らしい意匠です。で、もうひとつが、右下にある菜の花。ぱっと見はただの菜の花にしか見えないのですが、よ〜く見てみると、花の部分はハマグリとなっており、葉っぱの部分は、なんとアジの開きになっております。同じシリーズで「かゞみやな 草履恥の段」というものがあるのですが、右側の人物・・・というか猫が持っているものはアワビですし、その人物が着用している衣装には藤の花があしらわれているのですが、こちらもよ〜く見てみると、なんと魚の頭だったりします。実に芸の細かい、いい仕事をしているなぁ〜と感心させられてしまいます。その4に続きます。「いつだって猫展」仙台市博物館 2019年4月19日~6月9日
2019.05.04
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今回のものは、「荷宝蔵」とよばれる土蔵の壁に、釘かなにかでひっかいて描いた・・・そのようなイタズラ書きのスタイルとなっています。これには二つのバージョンがあるらしく、下側に違う色で塗られた壁らしきものがあるのですが、その色が黄色いものと、黒いものがあります。黄色いものが3枚、黒いものが2枚で、あわせて5枚あるそうです。いずれにも、歌舞伎役者らしき人物が多数描かれているのですが、浮世絵にあるような描き方をしておりません。というよりも、現代の何者かが江戸時代にタイムスリップして描いたんじゃないの?・・・と思わせるような、そんなタッチで描かれています。しかも、驚くことに、どうもアメリカのアニメで登場しそうなキャラクターに描かれていたりします。しゃべりだしたときに、まさにアメリカのもののような口の動かし方をしたら、ものすごく似合いそうです。歌川国芳といえば、浮世絵がおなじみですね。その絵の見事さ・・・というよりも、どう見ても木版画には見えない、そんな銅版画のような非常に細かい・・・というか、精巧ともいえるような仕事をしているわけで、この一枚からしても、現代を一歩二歩どころか、数百歩も進んでいるな・・・と言っても過言ではないでしょう。その3に続きます。「いつだって猫展」仙台市博物館 2019年4月19日~6月9日
2019.05.03
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突然ですが、猫ってかわいいですねぇ〜♡あの愛くるしい姿には思わずキュンキュンしてしまいます。触ったり抱っこしたりしたときのモッフモフ感もよかったりします。そんな猫ですが、日本においては奈良時代や平安時代は上流階級に愛された希少なペットであったそうです。よく王様やらボスが立派な椅子に座っては、ワインといったお酒が入ったグラスを片手に持って、その一方で猫をナデナデする・・・そういう光景を今なお漫画やら映画などで見かけることはよくあります。で、江戸時代になると、猫が一般庶民に飼われ始めます。そこには、切実な理由があったからだと謂われています。それは、食料などを食い散らかすネズミを撃退する・・・という役割が猫に課せられたのです。その一方で、猫には魔を祓う縁起物として見なされたり、魔性を秘めた動物としてもとらえられていたようです。そんなわけで、庶民が猫を愛するようになったわけですが、ただたんに猫を飼っただけではなく、猫にまつわる物語を楽しんだりするようになりました。小説や演劇、それに浮世絵に登場したりします。それだけではなく、なんと漫画にも登場したりします。たしかに、日本最古の漫画といえば「鳥獣戯画」があるのですが、現在のような形態の漫画が、なんと江戸時代のころから既にあったわけですね。その頃から文庫本サイズは存在していたようで、気軽に楽しんでいたようです。ただ、コマ割りはしていないうえに、背景にあたる部分に文章がビッシリと書き埋めているような状態です。セリフにしても、「ふきだし」とよばれるものはなく、これも背景に当たる部分に直に書いておりました。「ふきだし」が登場するのは明治もしくは大正以後になると思われます。その2に続きます。「いつだって猫展」仙台市博物館 2019年4月19日~6月9日
2019.05.03
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私にとっての初めてのジョジョは、ポルナレフが遊園地の中にいるシーンから始まります。その遊園地は、乗って楽しい、スリリングなシロモノ・・・ではなく、客に対して奇妙に襲いかかってきます。実は夢の中であり、そこで被った傷などのダメージはつくものの、夢のことはスッカリと忘れてしまいます。これは、ポルナレフたちが引き受けた身元不明の赤ちゃんが引き起こしたものだったわけです。カワイイ容姿をして恐ろしいことをやってのけるものです。それから、花京院典明も同様に夢の中にある遊園地で襲われることになるのですが、機転を利かせて腕に切り傷を作り、赤ちゃんの罠であることをメモ書きし、再び夢の中に入った時には攻撃を繰り出して赤ん坊を撃破します。その後、花京院が「オイタ」をした赤ちゃんにお灸をすえる・・・というか、食事に赤ちゃんがひり出したう〇こを入れて食べさせる・・・という「お仕置き」をすることになった次第です。私は、この話だけの短編マンガだ・・・と思ったのですが、この物語は第3部である・・・ということで、かなり長く掲載されているものだとは思いもよりませんでした。それ以降、第1部および第2部も把握しようと第1巻から読み始めたわけですが、この第1部、第2部が第3部とは趣が異なっていることにも仰天していました。とはいえ、第5部の途中でジョジョの連載を読むのを断念して以来、現在では掲載誌を変更してしまって第8部までいった・・・というわけもあり、もう話がついていけなくなってしまいました。・・・というわけで、ジョジョの聖地でもある仙台で今回のジョジョ展を見る機会を得ましたので、開催2日目にして早速拝見することにしました。雑誌やコミックに関しては、印刷だから綺麗なのは当たり前・・・というのがあったのですが、いざ実際に印刷の「モト」となる生の原稿を間近に見ると、「やっぱすげー!」と驚嘆してしまいます。日本各地のみならず、世界各地からわざわざ訪れてきた人も結構いました。いやこれ本当です。今回の展示会は、最初の第1話並びに第4部・第8部のマンガの原稿のほかに、各話の扉絵やコミック・雑誌の表紙を飾った実際の原稿が展示されていました。これだけでも美術館の特別展で展示されてもおかしくないレベルでした。それだけ、マンガというものは本当に芸術であるのだな・・・と、改めて認識しました。さて、第4部ならびに第8部の舞台は、「M県S市杜王町」となっていますが、モデルはいうまでもなく仙台市のことです。杜王町のモデルとなっている場所がいくつかあります。そんななかで、杜王町とは関係ないのですが、是非とも取り上げたい場所があります。それが花京院です。そこは、仙台駅から北へちょっと歩いたところにあります。道路があって、ビルがあって・・・と、なんのヘンテツもない場所ではあるのですが、地名が、なんとジョジョの登場人物の名前に使われているのです。花京院という地名は、江戸時代に実在した寺院にちなんだものです。いわゆる山伏にまつわるものであったそうです。明治時代になり、仙台藩からの援助がなくなり、なおかつ花京院を統轄していた修験道が廃止されたため、花京院という寺院も廃院となってしまいます。しかし、その名前は地名としてのこっています。この花京院には、郵便局があるビルが建っているのですが、そのビルの色が、なんとエメラルドグリーンになっているのです。建て始めたのが第3部掲載時だった・・・ということだそうなので、もしかしたら・・・というのがあるのかもしれませんよ。「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町 2017」仙台メディアテーク 2017年8月12日〜9月10日
2017.08.13
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仙台に常禅寺通りがあります。ケヤキ並木で有名なのですが、うっそうと茂っていて、まさしく「森」そのものです。夏になると青々とした葉っぱが生い茂っており、照りつける太陽から逃げる際には格好の場所である、といってもいいでしょう。その常禅寺通りには、等身大の立像がいくつか設置されており、ケヤキ並木同様、癒やしをもたらしてくれます。アメリカの大通りでも同様の立像がたまに設置されていることがあります。立像ですから、触っても動くわけはありません。くすぐったってピクリともしません。なんてったって立像ですから。ただし、その立像で記念写真を撮る時は要注意です。立像を背後にして「はい、チーズ!」といったら、その立像が撮られる側の人の帽子を咄嗟にとって自分の頭に被せ、ピースサインをすることでしょう。シタリ顔で、ね・・・。同様の立像は、東京の国立劇場にもあるそうです。おっと、こちらはピクリとも動かないのでご安心を。イタズラは一切しませんので・・・。その立像は、国立劇場の大劇場ロビー中央に、ガラス張りの状態で立っています。金色のまばゆい衣装に身を包み、頭には白くて長い髪の毛のカツラをつけています。向かって左側をキッとにらみつけ、右腕はだらんと下げた状態で拳を軽く握りしめ、左腕は何かを振り払うかのように水平になっています。今にも動きそうな、そんなリアリティーを持っているのですが、実はこれ、服や髪の毛のカツラを含めて、全てヒノキで作られています。「鏡獅子」といえば、白くて長い髪の毛を豪快にブンブン振り回すのが定番ですが、残念ながら今回の立像はそういうポーズではありません。1936(昭和11)年、田中(でんちゅう)が65歳の時に、後援者からこの立像の制作を依頼されます。「ぜひ大作をつくってほしい」という「ひとこと」を添えて。当然ながら「鏡獅子ならやってみたい」と快諾します。依頼された時の納期は半年だったそうです。しかし、半年で完成させるつもりはさらさらなかったそうです。納得できるものを作り上げるには、3年から5年はかかる・・・と見込んでいました。それから田中は歌舞伎座で「鏡獅子」が上演されると、25日間連続して通いどおして観察しました。今回の作品のモチーフは、後半の「後(のち)シテ」にて獅子がとるポーズです。獅子が台から降り、クルクルと舞いながら袖口を絞り、トンと踏ん張って見栄を張る・・・この時のものです。まさに静と動が一致した名場面であるといえるでしょう。さて、問題は分厚い衣装の中で、身体はどういうふうになっているか・・・。モデルとなった六代目尾上菊五郎は親身になって協力し、なんと褌一つになった状態でこのシーンを演じたそうです。そのうえで、田中はこのときの裸の像を作り上げます。そんなこんなで約束の半年が過ぎてしまい、後援者からの援助は打ち切られてしまいます。そんな状態でもめげずに、もはや「たのみ仕事」という範疇を超える「大作」を作り上げるべく、自己資金を使っての制作に踏み切ったのです。最初は約1メートルの試作品を作ってから等身大である2メートルの作品を作り上げようとしたのですが、そうすると納得がいく仕上がりにはならなかったそうです。いかんせん、そのまま大きくしただけでは、周りの空間と調和しなくなってしまうからだそうです。かえって、原型の印象を保つために、全身のバランスを整え直すハメになってしまいます。それが至難の業となってしまうのです。そこで、最初から等身大の大きな原型を作り、感性に従って手を入れていきます。その結果、納得のいく状態になりました。あとは実際に掘るだけ・・・なのですが、本番用の材料である8尺の大木はすでに使ってしまいました。同じものを買うお金はありません。そこで田中は格好のアイデアを思いつきます。それは、なんと小型の「鏡獅子」をたくさん作って売りまくり、それを材料の大木を買う資金にしてしまうのです。もうひとつは、「寄せ木造り」とよばれる手法。「大きな木がなければ、繋げばよい」・・・そんなコロンブスの卵のような発想で使われるのです。そしてついに1958(昭和38)年に完成させるのです。じつに22年もの歳月が流れました。最初は後援者からの依頼に過ぎないものでした。しかし、作る以上は誰もが・・・いや、自分自身が納得できうるものを作り上げたい!そんな意気込みで制作に取りかかったのかもしれません。この「鏡獅子」、国が2億円で買い上げようとしたのですが、田中はこれを頑なに断ります。田中は語ります。六代目さんと二人でこさえたものでお金を貰ったらあの世で会った時挨拶のしようがないたとえ作品を作り上げるため・・・とはいえ、それがいつしか厚き友情となり、お互いに信頼し合える仲になるものですね。さて、田中の終(つい)の棲家には、巨大な大木が設置されています。なんでも、作品を作り上げるためのもので、なんと100歳の時に買ったそうなのです。その時、田中はこう語ります。六十 七十ははなたれこぞうおとこざかりは百から百から私はもう40歳を過ぎてしまい、たまに「もう自分の人生・・・というか旬の時期は終わってしまった」と嘆くことがあるのですが、この田中の「ことば」を聞いたら、「俺、何やってんだろう。自分にムチ打って自己鍛錬に勤しまないといけないな」と思ってしまいます。なんていったって、「アンパンマン」で有名な、やなせたかし氏だって、50歳代にようやく成功をつかむことができたのですから。テレビ東京系列:2017年3月35日放送BSJAPAN:2017年4月19日放送
2017.04.24
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ルノワールが活躍したころのフランスは、宗教画や歴史画といった、古典的な主題が正統だったそうです。おそらくは、フランスの国威をあげるために、それにふさわしい主題を求めていたからにほかならなかたのでしょう。そういった風潮に風穴を開けようとしたのが、印象派であるわけです。これは、近代都市の華やぐ生活や、郊外の何気ない自然、それにそこでくつろぐ庶民の姿を、やんわりとした雰囲気で描こうとしたものです。そんななかでルノワールは、決して裕福ではなかったうえに、画家として身を立ててからも、長い間厳しい批判にさらされながら活躍するのを強いられてきました。そうであってもルノワールはへこたれることなく、描く対象をできるだけ美しく、見ている人を幸福にするように描ききったのです。人生は辛いが故に、絵は愛すべき物であり、楽しく美しいものでなければならない・・・それがルノワールの信念でありました。つまり、絵画で表現すべき人間が最も美しく見える部分を、より美しく表現するような姿勢を持ったのです。このように、見る人々を楽しい気分にするために画家としての活動をしていたわけですが、そのなかで欠かせなかったものがありました。それは、デッサンの修練を怠らなかったことです。言うまでもなく、デッサンは絵画において基本中の基本とも呼べるものです。ルノワールは芸術学校でイヤというほどやらされたうえで、それでもなお生涯にわたって怠らずにやりとおしたのです。それが印象派の第一人者と呼ばれるほどの名声を勝ち取ることにつながったわけです。このルノワールの取り組みのことを聞くと、基本的な修練を続けることは非常に大切なことであるな・・・と、私は痛烈に感じます。特に私がペン習字の練習をしている時に、以前は「なぞり線なし」で練習していたのですが、いっこうに上達した・・・とは感じられませんでした。ならばと、初心に返って「なぞり線あり」で練習したところ、上達している・・・と感じることができるようになりました。実際に紙に書いてみると、「まだまだだなぁ〜」とヘコむことがあるわけですが、それにへこたれることなく、こうした基本的な練習をこれからもずっとやり通していくことが大切なのでは・・・と認識していきたい所存です。「ルノワール展 〜IMAGE OF COLOR: Pierre-Auguste Renoir〜」 宮城県美術館 2017年1月14日~4月16日
2017.02.05
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ピカソと言えば、人や物などを幾何学模様にデフォルメした作風で知られています。我々はこうした作品を見て「う〜ん芸術的だ!ワケ解らないけど、とにかく素晴らしい!」・・・などとボヤくわけです。しかし、ピカソはこうしたものばかりを描いたわけではありません。年を追うごとに作風を変えていく姿勢を持っていたそうです。そのピカソが天才たらしめている作品はこれだろうな・・・と、私が今回の番組を見てうなずいたのは、「科学と慈愛」と呼ばれる1枚です。ベッドにはいまにも臨終を迎える人が横たわっています。それを医者が診ているわけです。その反対側には赤ちゃんを抱いた修道士さんがいます。トコトンまでリアルを追求しており、右側の窓には雨漏りした跡が生々しく描かれています。これを描いたのは40歳代のように見えるのですが、実はそうではないのです。30歳代?いやいや。20歳代?そうじゃありません。なんと15歳の時に描いたものだそうです。美術教師だった父がコンクールのために与えたテーマが「科学と慈愛」だったそうで、ピカソはそれをもとにして、「死とはなんなのだろう・・・」と思いあぐねながら構想を練っていったそうです。たしかにこの絵は素晴らしいものです。しかし、コンクールに出展した時には物議をかもしだしました。「こんな素晴らしい絵を15歳の少年が描くわけないだろ」「年齢を詐称しているだろ」などと、非難の的にされてしまい、最上の賞を得ることはできなかったそうです。この経験があったからこそ、作風をコロコロと変えるようになり、陶芸をした経験からキュビズムを創り上げ、そして晩年にはようやく少年のようなかんじで絵が描けるようになったのかもしれません。テレビ東京系列:2016年12月17日放送BSJAPAN:2017年1月25日放送
2017.01.31
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印象派の絵画というものは、ごくごく身近にある風景を魅力的に描いています。テレビや書籍などで観ると、その魅力はビンビン感じるわけですが、いざホンモノを間近で見ようものなら、不謹慎にも「えっ!こんなんでいいの???」と驚愕してしまいます。一般的に名画と呼ばれるものは、えてして間近で見ても美しさは存分に発揮しており、「やっぱホンモノはええのう〜」となるわけです。しかし、印象派の絵画に関してはそうではなく、油絵の具を筆やペイントナイフなどでエイヤッ!と塗りつけただけのような印象を持ってしまいます。しかし、そうだとしても名作であることには間違いなく、遠くから見るとアラ不思議!なるほど印象的な雰囲気を醸し出すイイ感じの名画と相成るわけです。「ああ、そんなもんでいいんだ!俺でもできるんじゃないの?」などとタカをくくっては絶対にいけません。仮に私も試そうともなると、恐らくは撃沈すること必至になること請け合いです!ただ単に塗りつけたように見えて、実は遠くから見て美しく見えるようにするために計算して色彩を配置しているわけで、ズブのド素人である私めがそんなことを試そうということは無謀以上の何者ではありません。やはりきちんとした基本ができていないと、そういうことができないのかもしれません。さて、今回は箱根にあるポーラ美術館に所有されている絵画のうち、印象派にまつわる作品をいくつか紹介しています。印象派の巨匠であるモネやルノワールをはじめとして、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン(この特別展では「ゴーガン」という表記になっています)、ピカソ、シャガールなど、錚々(そうそう)たる面々が登場します。ピカソといえば独特なキュビズムの絵で有名で、今回の特別展でもそういった作品が展示されているのですが、その他にも印象派の影響を受けた「花束を持つピエロに扮したパウロ」という絵を描いています。ピカソの子供をモデルとして描かれており、素朴ながらも大人びた凜とした美しさを垣間見ることができます。今回の特別展で紹介されている作家のひとりにルノワールがいます。印象派の巨匠でもあるわけですが、1870年代に都会の風俗を明るい色彩で描いて、印象派展やサロンに参加していました。サロンは国もしくは市で主催されていたようで、「官展」とも呼ばれていたそうです。他の印象派たちと違って、若くしてサロンや大衆に認められたため、徐々に印象派から離れていくようになりました。その他にも、なんでも作品に描く対象を、光と空気の中に溶けこませる印象派の手法に疑問を感じたことも理由の一つになっていたそうです。印象派を離れた後、明るい色彩と柔らかに溶け込むような筆致で女性の肖像画や裸婦像などを数多く描いた「真珠色の時代」を経て、赤が響き渡る織物のような豪奢な晩年の作風に行き着くことになります。そのうえで、ルノワールが描いた「ブージヴァルのダンス」「都会のダンス」「田舎のダンス」を改めてみてみると、たしかにルノワールの心境の変化を垣間見ることができるといえましょう。ところで、2017年1月より、そのルノワールの特別展が宮城県美術館で開催されるわけですが、どうやら東京で開催されているものや名古屋で開催されているものとは別モノであるといえそうです。東京で開催されているものはオルセー美術館とオランジュリー美術館で所蔵されたものが展示されています。対して名古屋でのものはボストン美術館で所蔵されたものが展示されています。それに対して宮城では・・・といえば、ワシントン・ナショナル・ギャラリーで所蔵されたものが展示される予定となっています。とはいえ、なんでも東北初公開となるそうですので、どういったものが展示されるのかは楽しみにしておいておきましょう。「ポーラ美術館コレクション モネからピカソ、シャガールへ」 宮城県美術館 2016年9月17日~11月13日
2016.10.01
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雪村(せっそん)は、16世紀後半に関東ならびに東北で活躍した画僧で、常陸国にて有力大名である佐竹氏の一族として生まれました。宋・元時代の中国絵画を学び、著色(ちゃくしょく)の仏画を残しているのですが、そちらよりも水墨画で本領を発揮したといいます。画風は中国画家の玉澗(ぎょっかん・最後の文字は実際には「日」ではなく「月」となります)からの影響があり、そこから奔放で動きのある独特な作風を生み出した瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)を得意としていたそうです。この瀟湘八景図とは、洞庭湖に注ぎ込む2つの川である瀟水と湘江が合流する地点の8つの勝景を主題としています。・山市晴嵐・・・市の賑わい(旗が目印となっています)・洞庭秋月・・・空に浮かぶ月・遠寺晩鐘・・・山の寺の鐘が鳴るところ・瀟湘夜雨・・・しとしとと降る夜の雨・漁村夕照・・・のどかな漁村の風景・遠浦帰帆・・・遠く海上を帆船が行き交う・平沙落雁・・・浜に雁が舞い降りる・江王暮雪・・・山に雪が降り積もる様子水墨画といえば朝靄がかかった状態の山間部を美しく描かれることが非常に多いわけですが、今回の絵でもその美しさが発揮されています。大自然ののどかな風景を壮大な屏風絵として描かれており、「ああ、やっぱり自然って美しいものなんだなぁ〜」・・・などと、改めて自然の偉大さを実感する次第であります。「雪舟と宮本武蔵と水墨画〜岡山県立美術館湖と珠玉の名品〜」 仙台市博物館 2016年9月16日~10月30日
2016.10.01
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宮城県美術館において、ルノワールにまつわる特別展が2017年1月に開催されます。ここで疑問になることがひとつ。それは、2016年8月時点において、ルノワールにまつわる展示会が2つあって、いったいどちらが宮城で開催されるのか・・・ということです。ひとつは東京で開催されている「ルノワール展」。もうひとつは名古屋で開催されている「ルノワールの時代 近代ヨーロッパの光と影」。前者は日本経済新聞社という、テレビ東京を傘下にしている新聞社が主催しています。宮城県ではテレビ東京系列の放送局はありません。ですので、宮城での開催はまずありえなさそうです。後者は中日新聞が共催しています。中京テレビが共催しており、こちらは日本テレビ系列で、これだったら宮城での開催はありえます。・・・で、宮城県美術館のホームページを改めて拝見したところ、「ルノワール展」という記載があっただけで、どこが主催しているか、そしてどういう展示物が登場するかはまだ確認がとれていません。しかし、この「ルノワール展」という名前からして、東京で開催されている前者のほうが宮城で開催されると推測できそうです。この「ルノワール展」の前には、2016年10月から「ポーラ美術館コレクション モネからピカソ、シャガールへ」が開催されることになっています。まずはこちらのほうを鑑賞することにします。なにしろチケットをゲットしていますから・・・。おっと、現在は「ぐりとぐら展」が開催中ですので、まずはこちらを鑑賞しなければなりませんね。私が鑑賞できる機会は今度の日曜・・・8月28日しかありません。映画鑑賞がてらに行ってみようかと思っています。この「ルノワール展」から、2枚の絵が紹介されています。それが「田舎のダンス」「都会のダンス」です。いずれも男女二人がダンスに興じているものであるのですが、微妙に構図が違っています。都会のダンスのほうは、女性は後ろ向きであるのですが顔がみえます。男性は女性に被さっていて顔を見ることができません。一方、田舎のダンスのほうは、男性は正面を見ていませんが顔が見えます。女性のほうは扇子を手にしながら正面を見て微笑んでいます。男性のモデルは、都会のダンス・田舎のダンスとも同じ人ですが、女性のモデルのほうは違うそうです。なにしろ体格が違います。都会のダンスのほうはスラリとしていますが、田舎のダンスのほうは「ふくよか」です。実は、ルノワールは男女のダンスにまつわる絵をもう1枚描いています。それが「ブージヴァルのダンス」です。こちらの構図も都会のダンス・田舎のダンスと全く同じものとなっています。違うのは女性のモデルのほうで、当初は都会のダンスと同じ人なのではないか・・・とされていたのですが、実際には、顔が都会のダンスのほう、体つきが田舎のダンスのほうであるそうです。まったく同じもののように見えるこの3枚なのですが、描いた順番に並び替えると、ちょっとした違いを見いだすことができます。その順番とは、ブージヴァルのダンス→田舎のダンス→都会のダンスです。その違いは背景にあります。プージヴァルのダンスではお客さんらしい人が多数描かれていますが、これは印象派のタッチで描かれています。その次に描かれた田舎のダンスではお客さんの数が減らされており、最後に描かれた都会のダンスでは一切登場してきません。これは、ルノワールが印象派と決別したことを暗示したものとされているそうです。ルノワールは、作品を描く際に、見る人が楽しんでもらえるような作品づくりを心がけていたそうです。面白くないもの、不快なものなんて見ていて嫌に感じてしまうから・・・というのがあったのでしょう。テレビで見ていて、他人をバカにするようなものや、不快に感じるものが、かなり見受けることができますので、そういう番組はできるだけ見ないようにしたいな・・・と私は思っています。翻って、私がブログなどでこうして書く場合には、ルノワール同様に、読んでくれる人が面白く・楽しく・興味深く感じ取ってもらえるような文章が書けるように心がけるようにしています。そのためにも、活字の本をむさぼり読んだり、映画を観たりして、感受性を高めるように努めなければならないな・・・と思っています。ちなみに、今回の都会のダンス・田舎のダンスの他に、ブージヴァルのダンスも登場したのですが、じつは名古屋で開催されている展示会に展示されているそうです。テレビ東京系列:2016年7月23日放送BSJAPAN:2016年8月17日放送
2016.08.21
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今回の展示会では、「美の巨人たち」で取り上げられた一枚が展示されています。それが、歌川国芳作の「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」です。縦が30センチ、横が50センチと、浮世絵としてはこんな感じの大きさですが、「思ったよりも小さいな」・・・と思いました。このようなコンパクトな大きさであるにもかかわらず、シャープに描かれており、思わずスリルを感じてしまいます。以前、この番組で、仙台市博物館にて展示されていた伊藤若冲作の 「鳥獣花木図屏風」が紹介されたのですが、BSJAPANでの週遅れ放送によって公開が終了してしまって実物を見ることができなかっただけに、この番組で取り上げられたあとに実物を拝むことができたのは非常に嬉しい限りです。これでようやくカリを返すことが出来ました。さて、今回の1枚は残念ながらこれではありません。今回の展示会では、江戸時代に登場した妖怪や動物などの様々なキャラクターが紹介されています。いずれもユーモラスなものばかりです。水滸伝に登場するすべての登場人物がフル登場する「狂画水滸伝豪傑一百八人(きょうがすいこでんごうけついっぴゃくはちにん)」は、さぞ勇ましい姿を披露してくれるのか・・・とおもいきや、そこはグダグダな「わいるどさ」を披露してくれます。お酒を飲んで本物の虎に変身してしまい、文字どおり「オオトラ」になってしまう人や、子供から攻撃を受けて反撃する・・・なんていう大人げない人もいます。まさしく現代の漫画家が描いたのではないか・・・と思えるほどのユーモラスっぷりです。その一方で、飲み会や宴席の場面で影絵を披露するということが行われていたそうで、それが想像を斜め上を行くほどの本格的・・・というよりも涙ぐましいといえるほどの工夫をこらしています。その模様は、歌川広重が「即興かげづくし」という浮世絵で紹介しています。どういうものがあるか、というと、・茶碗、茶台・入ふね・梅に鶯・根上りの松・茶釜・塩引き鮭の魚・ねこ・岩に雁(かり)・・・というラインナップです。いずれも見事な影絵ですが、種明かしをすると、なんとも情けない姿を晒してしまっています。その姿はぜひとも実物で見てもらいたいです。その中で、とくに衝撃的なのは「入ふね」です。船を操る船頭が二人・・・という見事な影絵なのですが、種明かしをすると、見ている人の目の前で、大の男が大股開きをしているのです。これが女でしたら、はしたないものになってしまいます。ましてやズボンや下着が破れていた時には目も当てられません。障子が外された時に、「あら?こんにちは」と男が挨拶するだけでなく「アラ?コンニチハ」と、股間の「イチモツ」も挨拶することになってしまうでしょう。そういった影絵のなかで、ずば抜けて傑作なのは、歌川国芳作の「其面影程能写絵(そのおもかげほどよきうつしえ)」です。一見したところ、2匹の金魚が風流に泳いでいる・・・という感じに見えます。ところが、その風流な絵に「金魚よひどいっ子」(※)なんて書かれています。なんのことやら・・・と、その正体を見てみたら、なんと狸を獲ろうとした狩人が、逆に狸にやり込められてしまう・・・そんな情けないシーンです。しかも、そのやられかたが、狸の玉袋の下敷きになるもの。信楽焼の狸の玉袋は、やたらとデカイことがよく知られていますが、それが凶器にもなってしまうものなのですね。「残念!それは私の『おいなりさん』だ(・∀・)」「成敗!( ̄∇ ̄)」・・・という、狸のセリフが垣間見えるような一コマです。まさしく「ミイラ取りがミイラになった」・・・ならぬ、「狸取りが狸になった」・・・そんな笑撃的な一枚でありました。「企画展・イチ押し収蔵品 主役・わき役キャラクター大集合!~ゆかい★ほのぼの★お化けも登場~」 仙台市博物館 2016年7月15日~8月28日※「金魚よひどいっ子」・・・正しくは、「金魚にひごいッ子」だそうです。しかし、読み間違えてしまったおかげで、この絵の面白さが倍増しましたので、「怪我の功名」ということでお許し願いたい、ということで・・・www
2016.08.13
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2016年4月に発生した熊本の大地震では甚大な被害が発生しました。中でも、役場の建物が半壊した光景は、1978年6月に発生した宮城県沖地震を彷彿とさせるものでした。その他にブロック塀の倒壊も発生しており、河北新報では「宮城県沖地震の教訓が全く活かされていない!」と批判しています。そのような中で、半ば倒壊を免れた建物があります。それが熊本城です。熊本城は、加藤清正がもとあった建物を改築したものです。今回の地震で一部倒壊した箇所があったのですが、それは加藤清正が改築した後に新たに建てられたところだったそうです。ネット上では、「加藤清正すげー!!」というコメントがあったそうです。このことが当時の建築技術は確かなものであったことを物語っています。・・・ピラミッドエジプト文明の象徴ともいえる建造物のひとつで、ファラオと呼ばれる権力者の墓です。2.5トンもの重さがある石を230万〜300万個も積み上げて、高さが146.59m、底辺が230.37mという巨大な建物を作り上げたうえに、精巧でありなおかつ巧妙な「しかけ」まで施されていたにもかかわらず、このピラミッドの設計図や資料が全く以て残されていないそうです。エジプト文明は独自の文字が発明されたり、高度な数学が発達していたわけですから、いくらかはそういったものが残っていてもおかしくはない・・・とは感じます。ファラオの永遠に続く命のために、もしくは、将来起こりうるであろう盗掘を防ぐために、そういった数多くの理由によって設計図や資料を、あえて処分したのかもしれません。ピラミッドを建造するために、様々な道具が使われています。それが以下のものです。・下げ振り付きの水準器・ロープ・木槌・石鎚・石の表面を平坦にする道具・そり・銅製の鑿(のみ)・のこぎりピラミッドの建造に使われた道具が今回の特別展で展示されていたのですが、現代のような精巧なものではなく、当時ならではの非常に質素な作りのもので、なおかつどこにでもあるようなものが使用されました。このほかに、以下の技術が使われました。・採石・測量・位置の調節・彫刻・切断・研磨・てこの技術水平をとる方法は、単純な水平器具と、下げ振り付きの水準器を使っておこなったそうです。水平面を鑿で彫りながら作り出す時は、3つの棒と紐からなる道具が使われました。石材を切断するときには、銅製ののこぎりが使われました。ただ、それだけではうまく切断することができませんので、水、石膏、石英の粉からなる研磨材を使用したそうです。もっぱら切断につかわれたのがこの研磨材のほうで、のこぎりは切断方向を導くために使われたにすぎません。石材の表面の成型は銅製の鑿を使用しました。この鑿を木槌でたたくわけですが、この木槌は現在のようなハンマーのような形ではなく、ビール瓶の胴の部分をかなり太くしたような形になっていました。そういう形にすることで、木槌のどの部分であっても同じ力でたたくことができるようになったと考えられます。硬い赤色花崗岩などを切り出したり加工したりときには、粗粒玄武岩製の石鎚が使われました。ピラミッドで使用された材料は、最初は石を使っていました。しかし、とにかく重い!というのと、王朝の財力に悪い影響を及ぼしてしまうとの理由から、石よりも簡単に建造でき、なおかつ安上がりである泥レンガを使用しました。しかし、あまり安すぎたのか、現在ではピラミッド・・・というよりや古墳とよんでもいいような、こんもりとした小さな山というイメージがぬぐいきれないほどの惨状を呈しています。なお、エジプト文明の末期であるローマ支配時代においては、小さい規模でありながらも、石よりも高級な大理石が使われたそうです。・・・ピラミッドを建造するために充当された労働力は奴隷である・・・と、よく言われていましたが、実は誤りであったそうです。実際には、大半が農業を営んでいるエジプト国民が当番制もしくは割り当て制で担当していたそうです。その労働の対価として、パンとビールが支給されました。パンは労働者の食糧として理解ができるが、なぜビールまでも?・・・と不思議に思えるのですが、実は、パンもビールも小麦からできているからそういうことができるのです。パンは当然ながら小麦を使用しますが、ビールのほうはパンを作る時に余分になる麦芽を水と一緒にするだけで容易に発酵させることができるそうです。熱帯地方であるエジプトならではの作り方ともいえましょう。エジプト文明では男社会でありました。そういった社会の中で、女性は派手に表社会に出ることは決してありませんでした。しかし、そのかわりとして、家庭内では絶大なる権力を持っていたそうです。表社会では絶大なる権力を持っている男性であっても、いざ家に戻ると嫁はんの尻に敷かれる・・・などという、非常に情けない夫になってしまいます。エジプトにおける家庭内の実情は、もしかしたら以下のような感じになるのかもしれません。妻はファラオよりも偉大なり「国立カイロ博物館所蔵 黄金のファラオと大ピラミッド展」森アーツセンターギャラリー 2015年10月16日〜2016年1月3日愛媛県美術館 2016年1月23日〜3月27日仙台市博物館 2016年4月22日〜6月26日
2016.05.01
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世界4大文明のひとつであるエジプト文明。エジプトに限らず、4つの文明とも、大きな河が肥沃な土地を生み出し、それによって恵みがもたらされ、文化がうまれ、そして富と栄誉が築かれてきました。肥沃である・・・ということは、裏返してみれば「水害が多い」ともいえます。そのために、治水工事を施し、水害に強い街を作り出していきます。しかし、水害というものは大量の土砂がドッサリとやってくるもので、その土砂には上流の森林が生み出した栄養のある腐葉土が含まれてくるのです。それが下流にある農場での農作物が生育できるようになるわけです。しかし、治水をすることによって栄養分のある土砂が入ってこなくなり、いつしか農作物が育たなくなってしまいます。そのうえ、治水の工事をするうえで、工事を請け負う業者が時の権力者に対して賄賂を送ったりするなど、汚職を生み出す土壌が生み出されてしまいます。これによって政治が腐敗し、文明の滅亡を生み出すひとつの要因になっていくわけです。栄華を誇った文明はこうして滅んでしまいます。華やかなひとときは永遠には続かないのかもしれませんね。「国立カイロ博物館所蔵 黄金のファラオと大ピラミッド展」森アーツセンターギャラリー 2015年10月16日〜2016年1月3日愛媛県美術館 2016年1月23日〜3月27日仙台市博物館 2016年4月22日〜6月26日P.S.この記事はエイプリルフールネタでした。実は、仙台ではまだ開催されておりません。私のちょっとした勘違いがありました。3月中に友人を美術館に行こうと誘おうとしたときに、博物館でのファラオ展が22日に開催された・・・ということがわかって、「美術館と博物館にハシゴをしようよ」と招待しました。友人から承諾をうけてから数日後、改めてパンフレットを見たら、仙台の開催が3月22日ではなく、4月22日だったのです。ちなみに、友人と美術館に行った日は3月27日でしたが、この日は愛媛でのファラオ展の開催最終日でした。まさかハシゴをするべく、その日に仙台から愛媛に行くわけにはいきませんよね。このファラオ展のレビューは、後日改めて行います。
2016.04.01
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テレビ東京系列「美の巨人たち」において、会津のさざえ堂が紹介されました。「さざえ」の通称がついているように、建物は独特の形をしています。それには理由があり、内部には螺旋状のスロープが2つ用意されているのです。入り口から入ると、最初のスロープによってグルグルと回りながら上ります。そして最上部にある太鼓橋を渡るともうひとつのスロープがあり、こんどは下がりながらグルグル回ります。この螺旋状の構造は、建てようとした僧侶が紙をねじってつくった「こより」を見て思いついた・・・といわれていますが、真相は定かではありません。ただ、確実にハッキリといえることは、これを建てようとした誰かが、かのレオナルド・ダ・ヴィンチの考案した螺旋階段のイラストを見ていた・・・ということです。そのイラストは、建築当時長崎の出島から入ってきたものであるようで、それがさざえ堂を建てるときの参考になったようです。このように、東北にある意外な建物が、今回のレオナルド・ダ・ヴィンチと深く関係していた・・・と考えると、大変興味深く感じます。・・・アンギアーリの戦い1400年代、イタリア半島の付け根にあったミラノ公国は勢力を拡大し続け、領土的な野心を南に向けていました。そして1440年、そのミラノ王国はフィレンツェ・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合軍と激突することになったのです。サンゼポルクロの町から進軍したミラノ軍と、アンギアーリに陣を張っていたフィレンツェ連合軍が、近くを流れるテヴェレ川にかかる橋の周辺で激しく戦いました。連合軍はミラノ軍を返り討ちにし、フィレンツェ共和国はミラノ公国の脅威から脱することができたのでした。・・・時は流れて16世紀。フィレンツェ共和国にあるヴェッキオ宮殿にある代評議会広間のために、ふたつの壁画を制作することになりました。ひとつは前述のアンギアーリの戦い。そしてもうひとつはカッシーナの戦い。ちなみに、カッシーナの戦いとは、1364年にカッシーナで休憩していたフィレンツェ軍を、なんとピサ軍が急襲した争いで、こちらもアンギアーリの戦い同様、フィレンツェ軍がピサ軍を返り討ちにしたものです。フィレンツェ共和国としては非常に重要な戦争の歴史であるこの2つを壁画として国の最高機関に掲げることは、国の権威を上げることにつながっていきます。そのためにも、二人の天才画家が招聘されることになりました。一人はレオナルド・ダ・ヴィンチ。アンギアーリの戦いを担当することになりました。もう一人はミケランジェロ。こちらはカッシーナの戦いを担当することになりました。二人は犬猿の仲だったらしく、会ったら口論することが多かったそうです。それ故、相手よりもいいものをつくろうと躍起になっていたのは間違いないはずです。ダ・ヴィンチは、以前にキリストの「最後の晩餐」を描いた際に苦い経験をしています。それは、重ね塗りをするために、顔料を卵・ニカワ・植物性油などにまぜたものを使用したのですが、湿度の高い状況において壁画にダメージを被る結果になってしまい、ある意味失敗作になってしまいました。そこで、今回のアンギアーリの戦いにおいては、油彩で描こうとしました。ところが、こちらもこちらで絵の具が垂れてしまって下部において色が混ざってしまう結果となり、最終的には挫折して未完となってしまいました。対するカッシーナの戦いのほうは・・・というと、下書きが完成しつつある頃に、ローマ教皇の墓を手がけるためにローマに戻ってしまい、こちらのほうも頓挫してしまいました。しばらくの間、この未完成の壁画は代評議会広間に存在していたのですが、16世紀に改築される際に新しい壁に覆われてしまい、その壁に違う壁画が描かれることとなってしまいました。それ以来、長らくの間この2つの壁画の存在はなかったことにされていたのですが、2011年に調査した結果、沈黙を破るかのごとく発見されることになったのです。それまでの間、アンギアーリの戦いの絵画自体が完全に忘れ去られていたのか・・・といったら、そうでもなかったようです。ダ・ヴィンチはこの壁画のために多大なるメモやスケッチを遺してきました。それを元にして、様々な作家が模写し続けてきたのです。そして17世紀に、絵画ではあるのですが、ルーベンスによって完成形がつくられるに至ったわけです。・・・オ・マ・ケ♡美術館に併設のミュージアムカフェでは、特別展にまつわるスペシャルメニューを提供することがあります。今回は、イタリアにまつわるものが3品用意されており、私と同席の友人はそれらを食べることにしました。奥のものは、いわゆるシチューなのですが、ターメリック入りのご飯が入っていますので、ハヤシライスのような感じになっています。手前のものはパスタです。「きしめん」のように平べったくてモチモチとしており、生地をつくった後に機械で麺の形にしてあります。手で回してそういう形状にするものがありますので、おそらくはそういうものでつくられたものでしょう。ミュージアムカフェ名物の季節のフルーツタルト。旬のフルーツをふんだんに取り入れたもので、今回は大きめのイチゴをカットしたものに、ブルーベリーをいくつかトッピングしたものになっています。素晴らしい作品を鑑賞した後に、風流な音楽が流れているなかで美味しい料理を食べて余韻を過ごす・・・格別なものがあります。・・・オ・マ・ケ(その2)テレビ東京系列「美の巨人たち」において、放送800回記念スペシャルが放送され、終盤に今回の絵にまつわる内容がありました。なぜレオナルド・ダ・ヴィンチが油彩にこだわったのか・・・というと、なんと独自に考案した油絵の具を試したかったからだそうです。しかし、結局のところ、失敗に終わってしまいました。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの絵画は、共に未完のまま終わってしまい、違う巨大絵画で隠されてしまいます。その巨大絵画の中に、ひとつの旗が描かれており、そこにはこんなメッセージが書かれていたそうです。探しなさい さすれば見つかる「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」東京富士美術館 2015年5月26日〜8月9日京都文化博物館 2015年8月22日〜11月23日宮城県美術館 2016年3月19日〜5月29日
2016.03.27
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会津といえば鶴ヶ城ですが、そのほかに今回の通称「さざえ堂」も有名です。正式名称は「円通三匝(さんそう)堂」というのですが、その外観は非常に独特で、まるでサザエのようです。入り口から入ると螺旋状のスロープになっており、グルグル回りながら上っていくと太鼓橋と呼ばれる橋のような構造の通路に到達します。その太鼓橋を渡った先に、もうひとつ螺旋状のスロープがあり、今度は降りながらグルグル回ることになります。こうすることによって、中に出る人と外に出る人が鉢合わせになることがなくなるようになります。入り口から頂上までは1.75周あります。登りと下りをあわせると3.5周・・・つまり、三匝あることからその名がつけられました。このような構造になったのは、これを建てようとした僧侶が「こより」を見て思いついた・・・とされているのですが、真相はハッキリしていないそうです。そのかわりとしてハッキリしていることは、今回の建物を造ろうとした人の誰かが、レオナルド・ダビンチが考案した螺旋構造の階段のイラストを見ていた・・・ということです。外側には窓がありますので、会津の風景を眺めることができます。そして内側には何かを飾るためのスペースがあります。実は、そのスペースには仏像などを設置するようになっています。当時、日本各地で有名になっている仏像などを旅する「霊地巡礼」がブームとなっていたのですが、会津にかぎらずこの手の施設によって、日本各地を訪れることなくすべての仏像をおがむことができるようになったのです。今回の小芝居は、ご存知モジュロール兄弟が登場します。全身黒タイツ姿なのですが、真冬の東北であの姿でいるとキツいものがあります。タイツの下には防寒用の下着を着用しているそうですが、それでも寒い!・・・とのことで、黒いジャケットを着用してのご主演と相成りました。まもなく4月になり、暖かくなってきますので、これでようやくジャケットなしで日本各地の建物を訪問することができるでしょう。テレビ東京系列:2016年2月27日放送BSJAPAN:2016年3月23日放送
2016.03.26
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宮城県美術館にてゴッホ展が開催されていた時、ゴッホが使用していた画材も一緒に展示されていました。そのなかに絵の具もあったわけですが、それは今回登場するタンギー爺さんが販売していたものだそうです。今回の「タンギー爺さん」という絵には、6枚の浮世絵が描きこまれています。右上:歌川広重「五十三次名所図会 石薬師」中上:歌川広重「富士三十六景 さがみ川」左上:不詳左中:歌川国貞「三世岩井粂(くめ)三郎の三浦屋の高尾」左下:作者不詳「東京名所 以里屋(入谷)」右下:『パリ イリュスト』誌 日本特集号 表紙この中で、左上にある雪景色の浮世絵は、どこかで見たことがある感じがします。非常に印象深い絵であるのですが・・・。この6枚の中で特に注目したいのが、右下の雑誌の表紙です。正確には表紙の一部を拝借したわけです。この雑誌は、ゴッホがパリに来た年に発行されたものだそうで、ゴッホがこの雑誌を手にした時、かなりの衝撃を受けたようです。そのゴッホが浮世絵に関してこのように語っています。日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で知的な人物に出会う。その人は、ただ1本の草の芽を研究しているのだ。しかし、その芽がやがてあらゆる植物を移ろう四季を、そして人物を描かせるようになる。こんな素朴な日本人が教えてくれるものこそ真の宗教ではないだろうか。私も本物の浮世絵を目の当たりにしたのですが、浮世絵の美しさと技巧の巧みさは見事の一言に尽きます。ゴッホのみならず、あらゆる世界の画家が浮世絵から影響を受けたのも頷くことができましょう。さて、肝心のタンギー爺さんについてですが、貧しい画家たちに絵の具を貸しただけでなく作品を店に展示したりしたそうです。時には食べ物や寝る場所も提供したことも・・・。そんなタンギー爺さんは、逮捕されて投獄されたことがあります。1870年に勃発した普仏戦争の際にフランスは惨敗したわけですが、この時に徹底抗戦を主張するパリ市民が独自に自治政府パリ・コミューンを結成します。しかし、すぐにフランス政府軍によって制圧されてしまいます。実はこの時にタンギー爺さんも参加しており、制圧時に逮捕されてしまいます。このような経験をしたからでしょうか。タンギー爺さんは社会的弱者を排除する世の中が許せなかったために、貧しい画家たちに様々な援助をしたのです。いわば、画家たちにとって最大の理解者であり庇護者であったわけです。ゴッホはアルルに移住したのですが、その生活は思うようにいかず、耳を切りつけてしまいます。しかし、その後復活しようとしました。その時に描かれたのが「包帯をした自画像」。そこには、まっさらな白いキャンバスと浮世絵が描かれていました。ゴッホ自身の「初心に帰って新たな気持ちで頑張りたい!」・・・そういう気持ちの表れがこの一枚に描かれています。しかし、残念なことにゴッホは拳銃により自殺してしまいます。「タンギー爺さん」を描いた3年後のことです。ゴッホの葬式の際、タンギー爺さんは弔問にやってきました。タンギー爺さんは、純粋で孤独な画家を最後まで見届けたのです・・・。テレビ東京系列:2016年1月9日放送BSJAPAN:2016年2月3日放送
2016.02.06
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宮城県涌谷町。ここはなんと日本で初めて金が採れたそうで、平泉の金色堂や奈良の大仏などに大いに関係があったそうです。2015年、その地にベガルタ仙台の選手4名がこの地を訪れたそうです。なんでも、黄色のように見える「ベガルタゴールド」という色は、この涌谷の逸話を由来としているとのことです。参加した選手は、金久保順選手、菅井直樹選手、金園英学選手、キム ミンテ選手の4名。いずれも名前に金がつく選手です。「あれ?『金』がつかない選手が一人いるんですけど???」・・・と疑問に思ったあなた、たしかにそう感じることでしょう。菅井直樹選手のことですね。「菅井」といえば真っ先に思い出されるのが女優の菅井きん。そう、菅井直樹選手は「キン」という愛称がつけられているのです。・・・金これは元素のひとつであり、元素記号はAuとなっています。これはラテン語で「金」を意味する「aurum」からきた・・・と、されています。この元素記号の読み方をモジれば英雄ともなるわけで、金を所有できるということは権力も絶大である・・・とも言えましょう。実際には大量に摂ることができないため希少価値がでてくる・・・という側面があるのかもしれません。権力者は権力を誇示するために、この金を身にまとったともいわれたのですが、その細工は非常に繊細であるともいえます。何も加工されていない状態で身にまとっても「なにそれ?」と言われるのがオチとなってしまうのですが、非常に細かい加工を施すことで金の魅力をさらに増すことにつながっていくのです。私は金の延べ棒すら生で見たことがないほどの貧乏人でございますので、今回の特別展で初めて間近に見たときは「真鍮製かよ!」と感じてしまいました。しかし、精巧な指輪や腕輪、首飾りなどを幾つか見るにつれ、その思いは払拭されました。たとえ真鍮で作ったとしても、私が展示されているものような見事な指輪など作ることができるわけがありません。細かな作りにただただ唖然とするばかりです。そんな細工の技術の中で最たるものが「粒金細工」と呼ばれるものです。よーーーく目を凝らさないといけないほどの非常に細かいつぶつぶが施されているのです。何らかの工具を使って技巧的に作ろうとしても無理があります。その秘密は、細工をする最の技術にあったそうです。この技術のポイントは、接着剤として膠(にかわ・ゼラチンのことです)と炭酸銅からなる材料を用いる点です。これを使った上で、焼きあげる時に巧みに温度を制御することで接着剤自体と金との間に科学変化が起こり、接合を実現する金属化合物が、金の粒と加工対象の金の間に生じてきちんと接着できるようになるそうです。これらのハイレベルな技術は地中海の東側からもたらされたそうです。・・・そういえば、日本を「黄金の国ジパング」と呼ぶように、「金といえば東方のもの」というイメージがつきまといます。涌谷がもたらした影響は絶大のものである・・・と言っても過言ではありませんね。「古代地中海世界の秘宝 黄金伝説展」国立西洋美術館 2015年10月16日〜2016年1月11日宮城県美術館 2016年1月22日〜3月6日愛知県美術館 2016年4月1日〜5月29日
2016.01.31
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2016年1月18日の河北春秋において、今回登場する藤田嗣治の話題がありました。自作に登場させるほどの猫好きであったのですが、じつは犬も好きだったとのこと。「秋田の行事」を完成させた後に秋田犬をプレゼントされたそうですが、飼うのを断念したそうです。さて、今回の「寝室の裸婦キキ」。世間をアッと言わせたほどの白く美しい裸体。あたかも秋田美人を彷彿させます。それもそのはずで、藤田は浮世絵の技術をこの作品に取り入れたそうです。そしてだれもマネすることができなかった裸体の美しい白さ。その秘密は門外不出とされたのですが、修復するにともないその秘密が解明されました。硫酸バリウムを下地に塗り、その上に炭酸カルシウムと鉛白をある程度の割合で混ぜた絵具を塗りつけたそうです。その他にタルクと呼ばれるベビーパウダーに使用される成分を用いられたそうで、これによって墨を塗ってもムラになりにくくなるそうです。藤田自身は生前この秘密を頑として口を割ろうとしませんでした。藤田は猫が好きだったそうですが、「他人に迎合することなく我が道を往く」という姿勢は猫に通じていたから相性が良かったのでは・・・と、河北春秋では語っておりました。テレビ東京系列:2015年12月5日放送BSJAPAN:2016年1月13日放送
2016.01.18
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ピカソといえば抽象画が有名です。何が描かれているかはサッパリわからんが、とにかく芸術性は高い・・・と評価をするものの、実は上下が逆だった・・・なんていうオチがついたりします。今回の展示会でも抽象画がいくつかあるのですが、そのような上下逆さまにしてもサッパリわけがわからない作品はないのでご安心を。さて、ピカソといえば抽象画、抽象画といえばピカソ・・・などと言われているのですが、ピカソが手がけたのは当然ながらこれだけではないのです。れっきとした絵画も手がけてはいるのですが、その他にも銅版画、彫刻、陶芸、さらにはアッサンブラージュとよばれる、様々なものを寄せ集めて1つのオブジェを作り上げるものまで作っています。この中でピカソの作風に最も大きな影響を及ぼしたのが陶芸です。1947年夏にヴァロリスに滞在し、ラミエ夫妻のいとなむマドゥーラ工房でファイアンスと呼ばれる彩画陶器などの製法を学びました。これらの陶芸技術を学ぶうちに、絵画や彫刻との関係に興味を持ったわけです。この陶芸の製法を学んだことにより、ルネサンス以来の一点透視法的なものの見方を根底から覆すようになります。そして、複数の視点から見た姿や、心理的な側面も含めた実在感を画面に再構成し、対象の本質に迫ろうとしたのです。これを「キュビズム」と呼びます。一見したところ難解そうに見えるのですが、絵の具の使い方はとても絵画的であり、しかもモチーフも身近なものが多く使われたそうです。それは、「人間が世界をどう捉え、表現するか」という永遠の課題に、ピカソが抽象的な思考のみに頼ることなく、実感を持って取り組んでいた証であるともいわれています。このキュビズムは大きく分けて3つの時期に分類できるそうです。1つめはポール・セザンヌがかかわった「初期キュビズム」。2つめはジョルジュ・ブラックがかかわった「分析的キュビズム」。そして3つめは1912年を境にした、のちにコラージュにまで発展したパティエコレが取り入れられた「総合的キュビズム」です。一見難解そうに見えるピカソの絵画の原点は、まさに陶芸から生み出されたものである・・・と言っても過言ではないでしょう。さて、今回取り上げる1枚は、「手を組む女」です。ピカソ定番の作風で、左右非対称に描かれています。ピカソの視点で女性の魅力を描いているわけですが、ここで注目したいのは意図的に黒色を使用している点です。黒色というのは、絵を構成する色のひとつなのですが、それど同時に、人の内面のひとつを表現する色でもあるそうです。女性といえば太陽のように優しい内面を抱いている・・・というイメージがあるのですが、その一方で男性が想像することができないほどの、とてつもなく非情な内面を抱いているのかもしれません。ピカソはその内面を見出し、この1枚に表現したのかもしれません。私は結婚していませんので、妻の心情は解かりかねるのですが、それでも女性の非情さを実際に体験したことが幾度とあります。それはもう陰湿そのもので、なるべくなら関わりたくない!・・・そんな気持ちにさせられます。とはいうものの、男一人だけでこれからずっと生きていくわけにはいきませんので、そういう女性にできるだけ当たらないように、自分の女性を見出す眼力を磨き続けて、魅力ある女性と出会いたいな・・・なんて思っちゃったりします。「ルートヴィッヒ・コレクション ピカソ展」宮城県美術館 2015年10月31日〜12月23日
2015.11.01
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(その1)イントロダクション・「美の巨人たち」と仙台市博物館テレビ東京系列で放送されている「美の巨人たち」において、仙台市博物館で展示されていた作品が取り上げられたことがありました。伊藤若冲作の「鳥獣花木図屏風」とよばれるものです。「若冲が来てくれました」という特別展で展示されたものであり、東日本大震災復興支援のために被災3県で展開されました。縦167cm×横376cmの巨大な屏風絵の中に架空の動物を、1.2cm四方の正方形をドットに見立てて描ききったものです。この放送を見て、今度の休みの日に仙台市博物館で見に行こうかなぁ〜・・・と目論んで早速ホームページを見てみたら、なんとこの特別展は終了しましたとの非情なメッセージが目に飛び込んできました。この特別展が仙台市博物館で開催されていた期間は3月1日〜5月6日で、テレビ東京系列で放送された日が4月13日でした。ここ宮城県ではテレビ東京系列の放送局は存在せず、いくつかの番組が他の民放系列局で放送されているにすぎず、当然ながらこの番組はこれらの放送局では放送されていません。頼みの綱となっているのが、テレビ東京が主宰しているBSJAPANと呼ばれるチャンネルで、そこでは1カ月遅れで放送されているわけです。つまり、この若冲の作品がBSJAPANで放送されていたのが5月の中旬あたりでしたので、仙台市博物館での展示は既に終了してしまいました。ただし、その後で見るチャンスが存在していたのです。それが、テレビ東京系列で6月22日に放送されていたアンドリュー・ワイエスの「松ぼっくり男爵」のときです。この作品は福島県立美術館に所蔵されているもので、なんと8月のお盆休みの時期にそこで「若冲が来てくれました」の特別展が開催されていたのです。結局は躊躇して行かずじまいになってしまって残念無念です。あーーーーくやしーーーー!!!!!(その2)世界に誇れし浮世絵・・・と、そんなしょうもない私怨はさておいて、本題の浮世絵の話に入りましょう。浮世絵とは、要するにカラフルな色彩をした木版画のことで、その美しさは世界が認めるところです。外国の人たちにも実物のすばらしさを見せるということは素晴らしいことですが、それは浮世絵が海外に流出してしまう・・・ということにもつながっていくのです。これ以上の浮世絵の流出をとどめるべく尽力した人がいました。これによって三原コレクションや斎藤コレクションといったものができあがりました。その中でも平木信二による平木コレクションは、三原・斎藤の両コレクションを元にして、特定の時期や絵師に偏ることなく、宇居絵の歴史を体系的に通観できるよう形成されているのが特徴となっています。保存状態の良さに加え、国指定の重要文化財や重要美術品を多く含む質の良さで知られています。浮世絵は基本的に木版画であるのですが、当初は墨1色のみでできていました。しばらくして墨で描かれている部分は木版画で刷り、色は筆で塗るようになりました。その中で、オレンジに近い赤色をした「丹」と呼ばれる色が目立つ色使いのものを「丹絵」と呼んでいます。また、色数が少なくて、紅色と緑色を使っているものを紅摺絵(べにすりえ)とよんでいます。こうした浮世絵のレベルが飛躍的に向上したのは、1765(明和2)年に流行した絵暦交換会にて技術が競われたことによるものです。絵暦交換会とは知人同士で絵暦とよばれる浮世絵を交換しあい、そのよさで優劣を競うものです。そのため浮世絵には相当なレベルアップが要求されていました。この絵暦交換会はたんなるブームに終わってしまったのですが、結局としてはこれが浮世絵の技術向上の一助となり、多色摺版画技術が確立されたわけです。私は初めて浮世絵というものを間近で見たわけですが、この浮世絵の美しさだけでなく、技術の凄さに圧倒されました。宮城県美術館においてミレー展が開催された時に、お札に使われてもいいほどの見事な技術で彫られた銅版画を見たことがありますが、それを木版画でやってのけています。特に凄いのは髪の生え際の部分です。目を凝らしてみると、非常に細い線が「これでもか!」と言わんばかりにビッシリと描かれています。コンマ何ミリというレベルのものです。高価な顕微鏡がないうえに非常に細かく彫れる機械がないご時世であれだけの細かい部分を彫刻刀で表現してしまうという技術のレベルの高さ・・・細い線や達筆な文字を実現できているのも含め、ただ単に感服するばかりです。これではゴッホもやすやすと影響されてしまうのもうなずけるものです。さて、今回の展示物には歌麿の作品も登場します。歌麿といえば、男と女が愛の営みをしているシーンを描き、特に男性器と女性器がバケモノのようにやたらとデカく描かれている作品が有名です。しかし、今回の特別展ではそういった作品は一切ございません。期待されていた方、誠にご愁傷様でした。「ご覧あれ 浮世絵の華〜歌麿・北斎・広重 平木コレクションの名品〜」仙台市博物館 2015年7月17日〜9月6日(2期構成となっており、一部の作品を入れ替えます。前期:7月17日〜8月9日、後期:8月11日〜9月6日)
2015.07.25
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(その1)イントロダクション・多賀城多賀城に、かつて天守閣があった・・・ということをご存知でしょうか。立派な瓦葺きの屋根で白塗りの壁です。ただ、3階建て構成で、1階部分は店舗になっていました。そう、「パチンコ多賀城」というパチンコ屋でした。現在は建物は現存しておらず、その「城跡」はガソリンスタンドになっているようです。・・・と、そんな冗談はさておいて、実際の「多賀城」は平屋建てのいたって平素なものでした。現在の福島・宮城・岩手にまたがる地域に「陸奥国」を設置し、そこから以北に住んでいる蝦夷(えみし)を討伐して日本を統一しようとしました。この多賀城は、2度の反乱などがあって幾度か焼失や倒壊があったのですが、その中に、奇しくも東日本大震災の約1200年前に発生した同じ規模の貞観地震でも倒壊の憂き目に遭ったこともあります。そのような多賀城の地に設置されている東北歴史博物館は、今回の「医は仁術・宮城展」の会場となっています。かつては政庁跡に程近い場所にあったのですが、1999年に現在の東北本線沿線に移転しました。その後2001年に国府多賀城駅が開通して非常に行きやすくなりました。なお、この「医は仁術」という展示会は、東京を皮切りに、蘭学発祥の地である長崎でも開催されました。今回宮城での開催ということで、レディーガガのティーカップの他に、東北大学で所蔵されている貴重な資料も展示されています。ちなみに、東北大学の医学部出身の作家として北杜夫や魯迅がおり、魯迅がここで学習した時のノートもレプリカではありますが展示されています。(その2)医は仁術「医は仁術」・・・とよく言われますが、この「仁」とは、儒教において重んじられた「相手の心を想う気持ち」のことです。つまり、気配り、気遣い、おもてなし・・・といったものです。これは、和を大切にした日本で受け入れられました。医者といえば高度な知識を駆使して病気やケガを治していくわけですからお金持ちになります。そういうわけですから、どうしても高慢になりがちです。しかし、医者はそういう存在であってはならないわけです。医というものは自然の奴隷である・・・つまり、医者の仕事は、患者が元々持っている元気になる力を助けることを第一に考えて謙虚に治療に専念しなければならないのです。(その3)仁と養生と・・・医者というものは「仁」というものを大切にしなければならないのですが、治療を受ける側である我々は何もしなくてもいいのか・・・といったら、それは大間違いです。医者は患者のために診断や治療行い、また注射や点滴、それに薬を処方するわけです。患者は医者からのこれらの治療を素直に受けるとともに、普段の生活を正さなければなりません。これが「養生」なのです。風邪を引いてしまった時に医者に行くのはいいのですが、無理に働いたり暴飲暴食をしたりお酒を飲んでタバコを吸っていたりしたら、いくら薬を飲んでいても意味がありません。こういうときは酒タバコは一切控えてじっくり静養した方がいいのです。オランダの「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著した杉田玄白が69歳の時に子孫のために書き残したものがあります。それが「養生七不可」とよばれるものです。そこには、以下のことが書かれています。1.後悔しない2.先のことを思い煩らない3.暴飲暴食をしない4.得体の知れないものを食べない5.みだりに薬を飲まない6.房事を過ごさない7.体を動かし、楽をしない1、2に関しては、「病は気から」という言葉があるとおり、「あまりクヨクヨするな」ということでしょう。常にポジティブシンキングでいきましょう・・・ということです。3に関しては、現代でも成人病というものがあるとおり、あまり食べ過ぎてはダメですよ・・・ということです。4に関しても、3と同様に、物珍しいものを食べてはいけない、ということですね。見たことがないキノコを食べてはいけない・・・といったものと同じ事です。5は、現代医療に警鐘をもたらしていると言っても過言ではないでしょう。いくら医者から処方されているとはいえ、貰う薬の量があまりにも多い・・・というケースがよくあるそうで、適量の程を知れ・・・というわけです。7は、仕事をしたり適度な運動をしろ・・・ということです。これは現代でも教訓になり得ます。さて、6にある「房事」とはなんでしょうか・・・?学芸員の方に質問したところ、「夜のことです・・・♡」とのことでした。房事は子孫を残すためには大切だと言えば大切なのですが、いわゆる「自慰」を毎日しすぎて死んでしまった・・・というケースが実際にありますので、こういったものはほどほどにしたほうがよろしいかと存じますがいかがでせうか?「医は仁術・宮城展」東北歴史博物館 2015年4月18日~6月21日P.S.今回の「養生七不可」は、宮城展限定での展示だそうです。
2015.05.05
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東京駅の駅舎は、開業100年にむけて元の姿に戻りました。その姿はまさに日本を象徴する、荘厳な雰囲気をかもし出しています。ところが、このレンガ造りの駅舎は、当初は和風のものになる予定した。日清戦争の影響などの混乱した時期であったのですが、当時の帝国議会で高架鉄道や中央停車場を含む鉄道改良費の予算が承認されて東京駅の建設に着手することになりますが、自力で高架鉄道の設計や建設を行うことができませんでした。そこで、ドイツから技術顧問としてフランツ・バルツァーを招聘することになったのです。このバルツァーは、もともと高架鉄道を設計するための土木技術者として招聘された訳ですが、実は建築にも造詣が深いうえに、各地の鉄道事情に関する研究所を著すほどの研究熱心な性格を持っていたそうです。そのため、バルツァーはこの東京駅を建設するにあたり、日本の伝統建築様式が再び尊重されることを願って、純和風の駅舎を提案しました。国会議事堂も和風のものを提案していたこともあり、西洋の専門家からも高く評価されました。彼らは異口同音に、このように主張していました。「日本人建築家は、西洋建築の模倣を追求するのではなく、日本建築が再び尊重されることに努力すべきだ」バルツァーはこうした考えの基、和風の東京駅の設計図をまとめ上げます。日本建築の奥義を究めて作製されたその駅舎は、破綻のないプロポーションで堅実にまとめられていました。しかし、あまりにも完成度が高すぎてしまったのが災いしたのか、日本側にとっては失望を感じてしまったそうです。あたかも江戸城を丸の内に再建する・・・そのように感じ取られてしまったのです。これによってバルツァーは「赤毛の島田髷」という酷評を受けてしまうのです。反対の立場をとった張本人である辰野金吾は、日本の建築を、再び江戸時代に遡りさせることは、容認しがたいことであった、と感じていたそうですこのことがあってか、バルツァーは、5年にわたる日本の滞在を終え、明治36(1903)年2月に帰国します。そして、当時の「ドイツ技術者雑誌(DVI−Z)」の1903年発行号に3回にわたって「東京の高架鉄道」と題した論文を報告しました。この論文に、バルツァーが高架鉄道や中央停車場の設計にあたり、具体的にどのような考え方で臨んだかが理解できます。2015年2月に開催されたリオのカーニバルでは、カーニバル初の海外の山車として五所川原の立佞武多が登場しました。世界一ド派手なことで有名なカーニバルであっても圧倒的な存在感を見せつけた「ねぷた」の姿に、「日本の伝統文化も捨てたもんじゃないなー」と感じました。それほどまでに、バルツァーもこの日本文化を高く評価していたのです。ところが、日本は世界と同等の国力をつけなければ・・・と躍起になっていた時期です。それには今の現状に甘んじることなく、西洋の良いところを積極的に学んで取り入れなければならなかったのです。そういう状況の中で、日本を象徴する駅舎が旧態依然のものであったら意味がなくなってしまうのです。それでこの和風駅舎は却下され、荘厳溢れる西洋風の赤レンガ駅舎になったのです。ただし、辰野はバルツァーの案を完全に否定したわけではありませんでした。現在の東京駅の駅本屋のレイアウトはバルツァーの基本計画をほぼそのまま踏襲したものであり、特に皇室専用の乗降口を中央に設け、乗車口と降車口を南北に分離した平面プランは、海外の王室のある国の駅にも類例のないものとなっています。このプランは、バルツァーが貴賓を最短距離で乗降場からお召し列車に誘導し、一般の利用客と競合しない方法として提案し、辰野も「我が国では更に大に必要である」と、このアイデアを全面的に支持していた・・・とのことです。テレビ東京系列:2015年2月28日放送BSJAPAN:2015年3月25日放送参考文献:鉄道ファン2012年12月号(特集:東京駅(中央停車場))
2015.03.30
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ミレーといえば「落穂拾い」ですが、これは麦を刈り取った後に残る「落穂」を土地を持たない貧しい人々が拾うことです。ミレーは貧しい人たちのための富豪の心意気に深く感銘し、何枚か作品を残しています。このようにミレーは「落穂拾い」を始めとした農夫画を数多く製作しているのですが、意外にも約400点もある油絵のうち、100点にも満たないそうです。ミレーは、若かりし頃はある展覧会に出展するためにパリで自らの腕を磨きました。その後自画像を数多く製作していきます。生計を立てるために描いたものもあるのですが、大半は知人のために無償で描いたそうです。その後コレラの流行を防ぐためにパリを離れてバルビゾン村に移り住むことになります。バルビゾンという美しい農村に魅了された・・・というのもありますが、そのころにミレーの生家が離散状態になってしまったということもあり、農夫画を描くことになったようです。ミレーは油絵のほかに複製版画を手がけていました。原画はミレーが描くのですが、その原画を専門の職人によって版にして印刷させるわけです。この作品の中で「春(ダフニスとクロエ)」という古代ギリシアの小説で使われた版画があるのですが、これが紙幣の肖像画のように見事な作品でした。作者が不詳ということなのですが、いったい誰が見事な版を起こしたのでしょうか。当時のことですから、まさか正確無比のロボットがやっていたわけではありませんが・・・。さて、今回はこの中から印象に残った一枚を紹介しましょう。それが首題に掲げた「部屋着姿のポーリーヌ・オノ」です。ポーリーヌ・オノは、ミレーの妻でした。非常に美しかったらしく、肖像画が何枚か製作されています。ところが結核にかかってしまい、結婚してわずか3年で亡くなったそうです。今回の1枚は、そのような病床にあった姿を描いたものです。白いシャツを着用し、腰の辺りには水色のスカートのようなものがあります。もしかしたら布団かもしれません。顔色は青白く、目にはクマがありこちらをギロリと見つめています。この姿がどのような実際の写真よりも凄みを持っており、インパクトはかなりのものです。ポーリーヌの儚げで妖しい雰囲気があります。死が近づいているなかで何かを思っていたのかもしれません。その後、ミレーはカトリーヌ・ルメートルと結婚をしましたが、娼婦をしていたという理由から生家から認められることがありませんでした。正式に結婚したのはミレーの祖母が亡くなった後のことです。ミレーはカトリーヌとの間に9人もの子供を設けます。このことや農夫画を描くことになったのも、農家の長男であったミレーが家族に対して親不孝をしてしまい、離散状態にしてしまった・・・との後悔があったのかもしれません。その思いは、いくつかの作品で垣間見ることができるでしょう。「生誕200年 ミレー展 ~愛しきものたちへのまなざし~」宮城県美術館 2014年11月1日~12月14日
2014.11.02
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今回の展覧会には、当然ながら美女の裸体の写真も展示されています。う、美しい・・・ありのままの姿って、素晴らしいぃ~ええのぅ、ええのぅ~・・・などと、鼻を伸ばしながら鑑賞していたわけですが、ふと反対側に目を見張ると、巨大な写真がドン!と展示されています。その写真には、無数の男たちがこちらをギロリと見ています。それだけではありません。よ~く見てみると、全身には「もんもん」・・・つまり、たいそうご立派な彫り物が彫られているのです。さらには、ご丁寧に頭の部分にもしっかりと掘られている始末。耳なし芳一であっても亡霊が泣いて逃げ去るような光景です。この写真以外にも、おばちゃんもしっかりとご立派な彫り物を施されているようでなによりで・・・なんとかしてぇ~・・・さて、今回は篠山紀信の写真展ということで、公開初日はご本人も登場していました。この方は、「写真家は時代の映し鏡であり、突出した出来事や人を撮らねばならない」ということをモットーとして活動しています。それ故に、スターと呼ばれる歌手や俳優に対しては、決して虚像を暴くことはせずに、あくまでもスターがスタートして最も輝く瞬間を捉えることを目指していたそうです。よく写真家がモデルの人に「こういう格好をして。いいねぇ~・・・そうそう・・・グッドですよぉ~」と、相手を褒めながら撮影をすることがよくあるのですが、それがこういった考えにあるのかもしれません。これはスターだけではありません。虚像の筆頭であるディズニーランドや歌舞伎の世界もそうです。前出の肉体美もそうなのです。いずれも生きているからこその美しさを引き出そうとしているわけです。この人はこういう風にもいっています。「写されたものも、撮ったものも、それを見ているものも、唖然とするようなすごい写真・・・時代や虚実を超えて、脳裏に強くインプットするイメージの力が『写真力』というものだ。人知を超えた写真の神様が降りてこなくては、すごい瞬間は現れてこない。そのために、あらゆる努力をするのだ。被写体へのリスペクト、その場の空気を正しく読み、自分の完成を最大限にヒートアップさせるのだ」我々のような写真家のド素人が一枚パシャッと撮っただけでは、誰から見ても感動を与えることはまずありえないのです。そのためには血のにじむ努力を自らに課して、死ぬ気で活動を続けているのです。この展示会の最後に東日本大震災の際に撮影された写真がいくつか展示されています。それらの写真を撮影するに当たり、自体をことさら悲劇として強調するのではなく、一切の演出も指示もなしにありのままを受け止めていく姿勢を通したそうです。悲劇の写真というものは誰もが取っているわけで、いまさらながら撮るまでもないことでしょう。さらに、ここで被災している人はほかの人と同様に、ここで生活をし、いろいろな活動をしているのです。だから現地のありのままの姿を撮影することで、現地の人はこうして元気に過ごしていますよ・・・というメッセージをささやかながら見る人たちに投げかけているのかもしれません。「篠山紀信展 写真力」宮城県美術館 2014年8月6日〜10月19日
2014.08.16
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今回の1枚は、パッと見ただけでは楽しそうなお祭りの様子を描いたものに見えます。ところが、細部をよーく見てみると、なにやら物騒で不穏な出来事がチラホラと散見できます。ケンカ・殺人は当たり前で、サボっていたり、男女間でみだらな行為をやっていたり・・・などと、やりたい放題です。この他にもそれらを暗示するものも存在しています。さらに見てみると、左右には別の絵が存在しています。左側にはアダムとイブの出来事が描かれた「原罪」と呼ばれる絵が、そして右側には中央の絵でやりたい方題した後に連れて行かれる世界である「地獄」と呼ばれる絵があります。これらの絵には、人生では様々な罪を犯してしまう・・・というメッセージが込められています。「これじゃあ人生には元も子もないじゃないか!」と思って、この扉絵をパタンと閉じてしまいがちですが、そうして閉じると新たにもう1枚の絵が登場します。それが初老の男性が慈しみの目で見つめる姿の絵です。背景には強盗が殺人や強盗を行い、もう一方では男女間でみだらな行為をやり合っています。私は、この扉絵で語られるメッセージにはこういうことが語られてるのでは・・・と思っています。それは、「人間誰しも様々な罪を犯してしまうもの。それを乗り越えた先に人間としての成長がある」ということです。私も一見したら草食系で大人しそうに見えますが、大なり小なり罪を犯しています。罪を犯せば犯すほど後悔をする時がありますが、罪の存在を知らずにしれっとしていることもあるかもしれません。これからも私は誘惑に負けて罪を犯すことになるでしょう。しかし、誘惑に決して惑わされることなくできるだけ罪を犯さないようにし、晩年になって「自分はなんて幸せな人生だったんだろう」と納得できるような気持ちになって死を迎えられるようになりたいな・・・と思っています。テレビ東京系列:2014年7月12日放送BSJAPAN:2014年8月6日放送
2014.08.10
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世界最速の男を決める、男子100メートル決勝。全選手の名乗りが終わり、スタートするのを固唾を飲んで見守る。全選手がスタートラインでスタンバイ完了。緊張の一瞬。Ready…Set…号砲と共に、全選手がスタート!その中で、ある選手が飛び抜け、そのままリードし、リードしリードしリードしリードしリードしリードしフィニッシュ!世界新記録!観客に、そして神に、さらにグラウンドに感謝!母国の国旗を背に負い、栄光のウイニングランで歓喜をわかちあう・・・・・・そんな光景が目に浮かぶ、今回の1枚です。「東京オリンピック第2号ポスター」これが発表された当時は国内はおろか、海外からも問い合わせやポスターの要求が殺到したそうです。2014年東京オリンピックが決定した現在でも色あせることなく、このまま次回の東京オリンピックにポスターとしてだしても恥ずかしくないほどの完成度を持っています。これに使われている写真は、おもにグラビアアイドルを撮影している人にまかせていたそうです。この人には、写真として映えるように撮影する技術に長けていた・・・というのがその理由だったそうです。そのためか、この写真には、ある「工夫」をこしらえていたそうです。それは、一人だけ1メートルだけスタート位置を前に設定していたのです。そうすることによって、全体像が三角形に見えるようになり、ポスターとして見てみると美しく感じることができるのです。このポスターの第1号は、至ってシンプルです。日の丸!五輪マーク!そして、「TOKYO 1964」!たったこれだけです。それなのに、完成度は非常に高く、コンペションでも満場一致で決まったばかりでなく、東京オリンピックのロゴマークにまでなってしまいました。このポスターを手掛けた亀倉雄策は、この他にも1970年に開かれた大阪万博を初めとして、NTT、明治製菓、トステムのロゴマークも手掛けました。グッドデザイン賞のロゴマークもこの人の手によるものです。いずれも、東京オリンピック第1号ポスター同様、「Symple is BEST!」という作風に仕上がっていたのですが、これには日本に古来から伝わる家紋に影響されているようです。家紋は、白と黒の2色だけしか使われていないのですが、デザインは非常に表現豊かで、見るものを惹きつけるほどの美しさがあります。日本にはこういう美しさがあるのだから、これを全世界に見せつけてやりたい!・・・そういう気持ちがこのポスターにもあったのではないでしょうか。今回の1枚に使用する写真を撮影する際、亀倉は現地で立ち会うことはなかったそうです。その理由は、現地にいると撮影している時の苦労を目の当たりにしてしまい、写真にしてポスターにするかどうかに必要な「冷酷な判断」ができなくなってしまうから・・・だったそうです。「冷酷な判断」・・・それは、いいものを作り上げるためには必要となるものです。いいものを作り上げるためには妥協しては絶対にいけない。どんなに努力や苦労をしたといっても、結局は結果が全てなのです。撮影に立ち会うことで「なれあい」が生まれてしまい、ダメな作品を世に出してしまうことになるのです。それを恐れて、あえて撮影には立ち会わなかったのでしょう。このような「冷酷な判断」は、お客様や社会によりよいものを提供するためにはぜひとも必要なものです。私には持ち合わせていないものです。より厳しくなれるように、これからも切磋琢磨していきたいな・・・と、甘い自分に渇を入れて精進する次第です。テレビ東京系列:2014年7月5日放送BSJAPAN:2014年7月30日放送
2014.08.04
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ゴッホのひまわり・・・かつて日本の企業がこの絵を高値で買い取ったことが話題となりました。ゴッホらしい荒々しいタッチで描かれたその絵は、最高傑作として知られています。本来なら保存管理が大変難しいということで、このような形で展示されることは滅多にないそうなのですが、東日本大震災復興のためとして、特別にこのような形で展示されることになったそうです。そのような非常に貴重な絵を間近で見ることが出来るとなっては見に行かないわけにはいかない!・・・ということで早速見てきました。・・・とはいうものの、テレビや写真などでよく見ていたとはいえ、実物を目の当たりにすると様々な点を見受けることができます。まず気がついたのは、いつも見ているひまわりが何本も飾られている、というわけではないようなのです。いつも見ているものと似ている品種がひとつ、そしてそうではなく絨毯のように小さい花弁がビッシリと埋められている品種がひとつ・・・と、この2種類のひまわりがこの絵に描かれています。前者のひまわりのうちひとつに関しては、中央に赤い点のようなものがあり、さながら女性の乳房のような感じになっています。この絵は、友人であったゴーギャンのために描かれたそうで、「ゴーギャンの肘掛け椅子」と同じ頃に描かれたようです。この絵は、文字通りゴーギャンが愛用した肘掛け椅子を描いているのですが、その椅子の上にはろうそくが灯されており、さらには背景の壁にも同じくろうそくが灯されています。この絵には、ゴーギャンの才能を認めていたというゴッホの想いが秘められているのです。改めてひまわりの絵に戻るのですが、この絵もゴーギャンのために描かれたそうなのです。ひまわりと言えば「太陽の象徴」とも言われているそうで、たいへん華やかな花です。こちらもゴーギャンの才能を認めているという想いをこめて、明るいタッチで描かれているのです。そういう風にゴッホはゴーギャンの才能を認めて友人としてつきあっていたのですが、このころにその仲が破綻してしまって別れてしまいます。その理由の一つとして、ゴッホのほうがゴーギャンに対してあれこれと口うるさく注意などをしてしまったから・・・という者があったそうなのです。親友だからこそアドバイスをしてあげたのですが、それがゴーギャンにとって次第に嫌なものになってしまい、ついには仲違いをしてしまった・・・ということになってしまったようなのです。友人を作ることは大変かもしれませんが、その友人を友人として長くつきあっていくのもこれまた大変なことかもしれません。よかれと思って発言したことが逆に友人の反感を買ってしまって、それっきりとなってしまう・・・ということもよくあることです。友達付き合いとは一体何なのか・・・ゴッホとゴーキャンのケースはまざまざと考えさせられるものとなっているでしょう。「東日本大震災復興支援特別公開 ゴッホのひまわり展」宮城県美術館 2014年7月15日〜8月31日参考文献:テレビ東京「KIRIN ART GALLERY 美の巨人たち」 http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/index.html
2014.07.21
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石ノ森章太郎といえば、言わずと知れた漫画家であります。実際に、生涯で作られた漫画の数でギネスに認定されているほどです。しかし、私にとっては、漫画家と言うよりも映像作家というイメージが非常に大きいです。何しろ、物心が付いた頃からロボコンやゴレンジャーに仮面ライダーをはじめとした数々の特撮に加え、実写ドラマも数多くテレビで拝聴していたものですから・・・。「なつかしの東映×石ノ森ヒーロー大図鑑」という1冊の本になるほどの、相当な数の作品が作られています。それもそのはず、石ノ森は元々は映画監督になりたかった、ということでした。しかし、病弱であった、ということもあり、姉から聞いた話や様々な事柄からをもとに、作品をしこたましつらえてきた、ということです。そうした過程の中で、漫画を描くようになってきたようです。そんな石ノ森・・・いや、小野寺少年は、「墨汁一滴」と呼ばれる回し読み形式の雑誌を手作りしました。最初は地元の友人たちのために作ったのですが、いつしか全国の漫画家のタマゴとも呼ぶべき同志にも展開するようになりました。こういう活動を2年続けた、ということで、漫画の神様と呼ばれた手塚治虫からこの雑誌のためにお祝いのコメントを書いてくれました。それが今回紹介するものです。その中には、「今の時期は、無数に出現した出版社や作家が淘汰される厳しい時期になりました。東日本での会員の中で淘汰された人が出なかったのは喜ばしい限りです。ただし、漫画の連載を持つようになって『いっぱしの漫画家になった』と思っている人は厳に反省するようにしなければなりません。かの第一線で活躍している漫画家でさえ、『50年も続けているけど、いまだに完璧な絵を描けていない』とのたまっています。会員たちの成長を期待します」・・・というような内容が書かれていました。これを読んだ時、まず私が感じたのは、「現状に甘んじては決していけないことだ。もっと精進せねば!」ということです。今の仕事は、慣れてきたということがあるのかもしれませんが、「これでよし!」とは思ってはいけないのです。最近になって大きなミスをやらかしたこともあり、「自分はまだまだなんだな・・・」と思い知らされています。機械というのは正確で完璧に作業をこなしてくれます。しかし、人間は精進すれば機械よりも正確で完璧に作業をこなせることができるのですが、そうはいっても「弘法の筆の誤り」とか「猿も木から落ちる」という言葉があるとおり、それでもミスをすることがあるのです。ましてや、「これでいい」と思って努力や研鑽をやめてしまうと、瞬く間に後退してしまうものなのです。それこそが「自惚れ」のひとつでもあるわけです。私は、このブログを通して、最終的には自分の幸せを手に入れたいと目論んでいるわけですが、書いていることは正論であっても実生活では真逆のことをやっていたり、もしくはこのブログで変なことを書いてしまったりしがちになります。そうなってしまってはこのブログをやる意味が全くといってありません。「言動一致」がいかに大切であるかを肝に銘じ、これからも日々努力研鑽に努めていく所存です。「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」宮城県美術館 2014年5月31日~7月27日
2014.06.01
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秋田県立美術館9月に新築した建物に移転したばかりの新しい美術館です。この美術館は、この番組でも取り上げられたレオナール・フジタこと藤田嗣治の「秋田の行事」を核として作品を展開しています。現在は、その「秋田の行事」にまつわる特別展を開催しているそうです。残念ながら、今回の作品はこの新しい美術館から・・・ではなく、東京の美術館で開催されている特別展からのものになります。わずか15センチ四方の小さなパネルに小さな子供たちが様々な仕事をしている姿が描かれています。その数200枚ほど。まがりなりにもかわいいとは言えないのですが、それでも熱心にひたむきに仕事をしています。これらの作品群で真っ先に思いつくのは、ノーマン・ロックウェルが雑誌の為に描き続けた作品群を思い出します。作品の中で子供たちが生き生きと描かれ、読む者たちに様々なドラマを想像させるようにしています。しかし、今回のは雑誌に掲載させるためではなく、ましてや売るために描いたわけではありません。仮に売るために描いたのであれば、もっと大きなサイズのキャンバスに描くはずです。そのきっかけとなったのは、「秋田の行事」を描いた時期にあります。戦後、地元の人から何か描いてほしいと描いたのが「秋田の行事」でした。その際に、強制的であったものの、フジタがかつて戦争を鼓舞するための絵画を描いたことから、戦争の責任をフジタ本人に押し付けようとする動きがありました。それに嫌気をさして、この作品を描いた後に日本を去ることになりました。しかも、二度と日本の土を踏むことなく・・・。第2の故郷であるパリでも、日本と同じ境遇に立たされていました。フジタに共感する友人もこの世にいなかったそうです。そんなさなかに、貧しくてもたくましく熱心に働いていた職人たちを描くことで、フジタ自身の心の安らぎを得ようとしていたのかもしれません。しかも、働いている人間を大人ではなく純真無垢な子供達にすることで、よりひたむきに働くことを表現したかったのかもしれません。あくどいことのために働くのは言語道断ではあるのですが、それ以外であれば正社員・アルバイト・派遣社員の身分こそあれ貴賤の差はないはずです。一生懸命に働くことが美しいものである・・・それが働くことの神髄であるのかもしれません。テレビ東京系列 2013年9月14日放送BSJAPAN 2013年10月9日放送
2013.10.10
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<その1.プロローグ・仙台駅のステンドグラス>新幹線で仙台に降り立った時、改札口から出てエスカレーターで下に降りることになります。そこはコンコースとなっており、ちょっとした広場みたいになっています。その壁際に、あるステンドグラスがあるのを見つけることができます。その名を「杜の賛歌」と呼びます。仙台七夕をモチーフとしたもので、まさしく仙台を象徴する作品となっています。このステンドグラスを待ち合わせ場所にする人がいたりして、仙台駅のシンボル的作品となっています。このように、芸術作品は自分の技術や権力者の絶大なる権力を誇示したりするものではなく、人々に安らぎや癒しをもたらすものとして存在し得るのです。<その2.マーク・シャガールの人物像>私が抱いているシャガールのイメージは、さぞかしお金持ちの人が好みそうな、いかにもオシャレで芸術性にあふれた絵画ばかりを描いていた・・・というものしか持ち得ません。しかし、現実のシャガールは、絵画ばかりではなく、建築物に華やかさをもたらすシンボル的作品、さらには舞台の衣装デザインまで手掛けていたそうです。20歳の時に美術学校に入学して、そこで本格的に油彩や水彩を学びます。その後、パリに出て前衛芸術家や巨匠の名作を目の当たりにし、それに触発されて才能を開花させていったのです。そんなさなか、ある人物に出会います。その名をシモン・マルク。ステンドグラスの職人です。この人と意気投合して、ステンドグラスを制作することになっていくのです。時を同じくして、部台衣装も手掛けることになります。今回の特別展では「ダフニスとクロエ」という作品の衣装を展示していました。主人公となる二人は非常に簡素なものとなっており、踊りを引き立たせる役目があります。その逆に、脇役の衣装は華やかなものとなり、主役の二人を引き立たせる役割をもっているようです。これらの衣装、いかにもシャガールがデザインしたといえるほど、シャガールが描いた絵をそのまま切り取って衣装にしていった・・・という印象を持ちました。こうして舞台の衣装をデザインしたり建築物に添えるステンドグラスを数多く手がけたのち、南フランスに移り住み、そこを終の棲家とすることにします。そこでは、絵を描くだけではなく、いままで手掛けることがなかったブロンズ像や大理石の彫刻、挙句の果てはろくろを使って陶芸をしていくことになります。<その3.オペラ座の天井画>さて、今回取り上げる作品は「オペラ座の天井画」。さすがに建物に設置されている本物を持ってきて展示するわけにはいきません。この特別展ではそのために描いたスケッチ画や天井画原案を展示しています。パリにあるオペラ座の劇場に設置するものとして、オペラで演じられる様々な作品をふんだんにちりばめられています。主なものとしては、「白鳥の湖」、「ロミオとジュリエット」、「魔笛」など・・・。これらをただ単に配置していけばいいわけではありません。風格ある劇場に設置するわけですから、それぞれの名場面を取り上げ、絶妙なレイアウトで配置していかなければなりません。そのために、シャガールは作品ごとに無数のスケッチをしていったうえで、いくつかの原案を描いていきます。完成された天井画は、まさしく伝統ある劇場に相応しい作品に仕上がっています。壁画を見るたびに、オペラの数々の名場面が再現され、今まさに演じられるオペラに華を持たせて盛り上げていくことでしょう。シャガールは、オペラ座だけでなく、様々な施設に作品を提供していっています。その作品には、聖書に書かれている内容が色濃く影響されているそうです。それは、シャガール自身が東欧系ユダヤ人であったがゆえに、戦争を目の当たりにしたシャガール自身が、これからの未来を平和溢れる世の中にしてほしい・・・そんな思いを作品に込めたのかもしれません。「シャガール展」宮城県美術館 2013年9月3日~10月27日
2013.09.22
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松島湾にそそぐ高城川。一見したところで「ただの川」にしか見えませんが、じつは他の川と比べて一風変わっています。河口からさかのぼると二手に分かれます。一方は小さなトンネルに通じていて、さらにもう一方はしばらく行くと同じようなトンネルに通じています。前者は江戸時代につくられた「元禄潜穴」、後者は明治時代につくられた「明治潜穴」です。その2ルートが合流する地点で川が終わってしまっているように見えるのですが、実はそこを流れている吉田川をもぐって、「鶴田川」と呼ばれる川に繋がっているのです。この変わった構造をしている部分が、いわゆる「吉田川サイフォン」と呼ばれるものであり、今回の通潤橋と似たような構造を持っています。これに深くかかわってきた人物として鎌田三之助がいます。この人がかかわった明治潜穴には、現在では絶対にありえないエピソードもあったりして、非常に興味深いものとなっています。ぜひとも取り上げてほしいですね。さて、熊本にあるこの通潤橋。現地の灌漑のために、江戸時代当時の最新技術をふんだんに使用して作られました。橋だけでなく、その周辺の水路にも使われているそうで、まさにハイテクがつまった橋だとも言えそうです。さらに驚くことに、通潤橋を完成した後に東京に移り住み、現在話題になっている万世橋といった橋も手掛けることになりました。この話もこの番組を通じてみてみたいですね。今回の小芝居に登場した喫茶店、かなりマニアックなお店でした。店主も見たことがあるなぁ~・・・と思ったら、石橋蓮司でした。この人は、仮面ライダーディケイドでカメラ店の店主を演じていて、主人公の士(つかさ)達と平成仮面ライダーの世界の旅に「道連れ」として同行していました。・・・と言うことは、あの後、「じゃあ、さっそく通潤橋の世界に行きましょうか!」などと言って、店ごと熊本に行っちゃったりして・・・テレビ東京系列 2013年8月24日放送BSJAPAN 2013年9月18日放送
2013.09.19
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それでは、今回の1枚を紹介することにしましょう。パリに住んでいた2年間、ゴッホは自分の肖像画を数多く描いてきました。この中に1枚だけ、ゴッホ本人に似てはいるのですが、なぜか違和感を感じるものがありました。大きさとしては15cm~20cmくらいの、絵画としては非常に小さく、あたかも壁にかけていそうな写真の感じがします。スーツを着ています。そして、ゴッホがいつもかぶっていた麦藁帽子をかぶっています。しかし、いつものゴッホの自画像ではありません。同じ大きさのゴッホ本人の肖像画と見比べてみましょう。一方は耳が丸いです。髭がこげ茶色で、きちんと手入れをしています。そしてもう一方は麦藁帽子ではなくてグレーのフェルト帽をかぶっています。こちらの方は耳がとがっています。髭は赤茶色でなおかつ手入れされていません。この2枚をよく見比べてみると、確かにどちらかがゴッホ本人ではないことがわかります。ゴッホが数多く手がけた自分の自画像を見てみると、髭の色は赤茶色で、なおかつ手入れされていません。耳もとがっているように見えます。後になって、ゴッホの耳たぶは肉厚で、なおかつ耳の軟骨もはっきりしており、弟のテオの方は丸い耳であることがわかりました。さらに、髭の色もゴッホの方が「とても赤い色」、テオの方が「赤みのある金髪」であることも判明しました。つまり、この1枚はゴッホを描いたものではなく、弟のテオを描いたものであったわけです。いくらお金がなかったからといって、自分の自画像ばかり描いたわけではなかったわけです。自分を支援してくれた弟の為に記念に肖像画を描いておこう・・・そのような弟想いの一面を持って描いたのかもしれません。ゴッホ自身が愛用していた麦藁帽子を弟にかぶせてあげるところがゴッホのささやかな遊び心を垣間見れるかもしれませんね。さて、生活の為にせっせと多数の作品を生み出して言った割には成功することがなく、苦悩の末に自殺してしまったゴッホでしたが、死後にその評価が認められるようになりました。私は、その秘密は画材にあったのではないか、と思うのです。ゴッホが愛用していた絵具は、貧乏だったゆえに安いものを使用していました。安かったために、質もイマイチだったようで、光にさらされると色あいが褪せてしまいます。しかし、この色褪せがゴッホの自画像に味を生み出すことになり、逆にいい作品になってきたのです。貧乏であったがために後年にいい作品に仕上がることができた、まさしく「怪我の功名」ともいえるのではないでしょうか。「ゴッホ展-空白のパリ時代を追う-」京都市美術館 2013年4月2日~5月19日宮城県美術館 2013年5月26日~7月15日広島県立美術館 2013年7月22日~9月23日
2013.06.01
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1853年に、ファンゴッホはオランダ南部のフロート・ズンデルトに生まれます。当初は美術商としてスタートしますが、挫折を経験して画家に転向します。この挫折が相当苦いものだったのでしょうか。描き始めたころの作品はかなり暗い作風になっていました。特に、「農婦の頭部」は当初もっと暗かったらしく、知人の指摘を受けて背景を明るくしたほどです。1886年に、弟のテオ・ファン・ゴッホが住んでいたパリに移り住むことになります。肖像画を描きたい、という願望があったのですが、いかんせんお金がないため、モデルにする人を雇うことはできませんでした。当初は花ばかりを描いていたのですが、ある時自分を描けばいいことに気が付き、以後自分の自画像ばかりを描くようになりました。食べるために絵を相当描いていたそうですが、あまり売れることはありませんでした。作風の暗さが災いしたのでしょうか。これではいけないと思ったのか、様々な作品から影響を求めようとします。印象派、遠近法、そして浮世絵。浮世絵に影響を受けたのを物語っている一枚が展示されていました。「カフェにて:ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」ル・タンブランというレストランの店主を務めるセガトーリの姿を描いているのですが、背景の右側に何やら服のようなものが描かれています。これは日本の着物であり、ゴッホがこのお店で日本にまつわるイベントを企画していた名残のものでもあるそうです。こうして様々な修行をすることにより、作風の中に明るい光と力強さが生み出されるようになったのです。ところが、パリでの生活に疲れと嫌気を覚えるようになり、1888年に南フランスのアルルに移住します。このアルルでゴーギャンと共同生活を始めるのですが、わずか2か月で破綻してしまいます。以後ゴッホは精神を病んでしまい、自らの耳をそぎ落とす、という事件を起こしてしまいます。そして1890年。野原で拳銃自殺を図り、37年という短い人生を終わらせてしまいます。アルルに移住してわずか2年後の出来事です。
2013.06.01
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本日、宮城県美術館で開催されているゴッホ展を観覧しました。大半が日本初公開であるということもあり、結構たくさんの人が訪れていました。このゴッホ展、実は京都を皮切りに、ここ仙台、そして広島の3都市にわたって開催されることになっています。今回は3回に分けていきたいと思っています。宮城県仙台市。街中をちょっとだけ外れたところにその美術館があります。宮城県美術館。広瀬川沿いに立ってある美術館。そして、仙台城跡にほど近く、仙台市博物館や東北大学、そして宮城県内ではトップクラスの高校である宮城県仙台第二高等学校にも近い、まさしく「文化の象徴」ともいえる施設です。「大きなかぶ」という絵本や、仙台市の象徴でもある銅像をいくつか制作した、佐藤忠良宮城県にゆかりのある佐藤忠良の記念館も併設されています。もちろん、レストランも併設されていて、天気のいい時には外で食べることもできます。この美術館には杜の都に相応しい庭がいくつか存在します。その中で、広瀬川沿いにある北庭には、木々が生い茂っていて自然を満喫できるようになっています。ただし、この庭には、このような張り紙がいくつか貼られています。「ヘビ出没注意」木々が生い茂っているばかりでなく、川沿いでもあるため、この庭にはヘビが出没するそうです。ヘビ嫌いの私にとっては非常にイヤな場所でもあります。そのような「わいるど」な要素もひっくるめて、ジョジョの舞台にもなったここ仙台に相応しい美術館でもある、とも言えましょう。
2013.06.01
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仙石線。あおば通駅から石巻駅をつなぐ路線として、都市間通勤通学輸送を担っているのですが、もう一つの面として、日本三景松島へのアクセス路線があります。陸前富山駅から東名駅までは松島湾の海を添うようにとおっており、その眺めは目を見はるものがあります。その中で、陸前大塚駅という駅があります。その駅の近くに、松ヶ島という島があります。中学生のとき、夏休みの宿題として松島の風景を描く宿題があったのですが、私はわざわざ陸前大塚駅まで行って、この松ヶ島を描きました。電車から見ることができる風光明媚な光景を絵にしてみよう・・・なんて思ったわけですね。このほかにも、知られざる松島の風景があるのでいろいろと楽しむことができます。(註:陸前富山駅から東名駅の途中までは、このように海を添うように走っているのですが、東日本大震災の時には地震による被害はあったものの、津波の被害はさほどではありませんでした。2年後の開通時はこの区間はそのまま使用します)さて、今回の一枚。神奈川県真鶴町の風景を描いています。この一枚を描いた作者は、50歳代から20年間の間、真鶴の漁港を「アトリエ」として、ほぼ毎日スケッチに勤しんでいました。それは、基本的な描き方を知らず、さらに芸術大学に行って本格的な勉強をしてこなかった作者が、本格的に絵を描く技術を磨くために行ったことなのです。この絵は真鶴の風景をデフォルメして描かれているのですが、このデフォルメという言葉は、デフォルマシオンというフランス語が語源となっています。「デフォルメ」というと、実物を小さくかわいく描く、という側面があるのですが、「デフォルマシオン」という言葉を調べてみると、「絵画・彫刻などで、対象を変形して表現すること。」とあります。小さくかわいく描くのもあるのですが、逆に誇張して大きく力強くカッコよく描くのも該当するのかな・・・なんて思っています。そういえば、「ダイエット」といえば、体重を減らすときに使われているのですが、実は「食事療法」という意味もあります。ですから、減らすのもダイエットであるのですから、逆に肥らすのは「デブエット」ではなくて「ダイエット」でいいんじゃないか、と思うんですがどうでしょうか。テレビ東京系列:2013年2月16日BS JAPAN:2013年3月17日
2013.03.18
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かつてこの番組でノーマン・ロックウェルの作品が取り上げられていましたね。かつて横浜に住んでいた時に見た覚えがあります。このノーマン・ロックウェルの作品、アメリカの古き良き時代に生まれた元気なわんぱく小僧が生き生きと描かれているわけですが、その一枚一枚が今回の小芝居のようなドラマを彷彿としてなかなかいいんですよね。今回の「結婚許可証」もさまざまな仕掛けがあって、これを見た人たちがいろんなストーリーを紡いでいくわけですね。小芝居の方も夫婦の幸せなひと時を描き出してウルッときました。自分はまだ結婚していませんが、結婚するときはこのような幸せを感じることになるんでしょうか。今日、藤本ひとみ著「愛するとき・愛されるとき」を読んだのですが、恋愛して結婚するまでは幸せを感じるそうですが、問題は結婚してからの1年間だそうです。その間に相手のアラを目の当たりにし、それを受け入れられるか受け入れられないかで、これからの長い結婚生活がどうなるかが問われるそうです。この他にも、子供が生まれたら自分の人権が子供に全て奪われる形になってしまうのです。そういう状況の中で相手とうまくできるかどうか・・・その試練を試されるわけですね。結婚して相手と生活するようなり、子供もできて、その子供が大きくなった時に、今回の一枚をもう一度見た時、私はどのような感想を持ち、そしてどのようなストーリーを紡ぎだしていくのでしょうか。楽しみでもあり、恐ろしく感じたりしています。テレビ東京系列:2013年2月9日放送BS JAPAN:2013年3月10日放送
2013.03.10
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「バリバリ伝説」や「頭文字D」といったしげの秀一のマンガ。このマンガの魅力は、視覚しかないマンガなのに、音をビンビンと感じ取ることができる・・・というものです。急カーブをそうこうしているときのタイヤがきしむ音。急アクセルとした時のエンジンが唸りをあげる音。ギヨアアアアァァァァァといった擬音が実際に聞こえてくるだけでなく、体にもズンと響いてくるのです。・・・さて、今回登場した藤田嗣治の「秋田の行事」。巨大な絵である、というのもあるのですが、この絵もこれらのマンガと同様に、祭りの音が聞こえてきそうな感じがあるのです。この絵の秘密は、微妙に湾曲しているところです。つまり、この絵の中央に人が立った時に円弧を描くようになっているわけです。さらに、この絵の構図も中央に人が立った時のことを考慮しているそうです。右側だったら中心線が右上を向き、中央側は上を向き、さらに左側は左上を向くのです。このことがこの絵の臨場感を生み出すことになり、あたかも周りから祭りの喧騒が聞こえてきそうな感じが出てくるのです。藤田嗣治はパリで成功を収めます。しかし、そこで壁画に挑むのですが、得意の乳白色や繊細な絵が巨大な絵に向かなかったようで、挫折を味わってしまいます。その苦い体験によって押しつぶされた藤田は、リフレッシュするべく南米を訪れます。その後、メキシコとアメリカを巡って日本に戻ります。ところが、その日本では藤田自身が苦汁をなめた過去の名声を求めてくるのです。そのようなことで辟易とした藤田に手を差し伸べたのが、秋田の資産家である平野政吉でした。藤田の絵に見せられた平野が、秋田に美術館をつくるので、そこに飾る絵を描いてほしい・・・そう依頼したわけです。藤田は、南米で目の当たりにした壁画を思い浮かべ、縦3m65cm×横20m50cmの巨大な作品を174時間・・・つまり、わずか1週間で書き上げてしまったわけです。藤田はこれを書き上げた後に、再度パリに戻ります。そして、この絵を再び見るために秋田に出向くことなくこの世を去ってしまうのです。テレビ東京系列:6月23日放送BS JAPAN:7月22日放送
2012.07.23
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石ノ森章太郎の著書の中に、「ボクはダ・ヴィンチになりたかった」というものがあります。石ノ森自身の生まれてからの人生を書き綴ったものです。私が小学生の時代に、教室の本棚にあったのを読んだことがあります。その中に、「石ノ森本人がレオナルド・ダ・ヴィンチになりたかった」と書かれています。画家としての完成を持ちながら、竪琴を弾かせれば一流、科学的なジャンルでも第一級の業績を残している・・・ということに子供心にあこがれていたそうです。多様な分野の研究を行ったことを実証するのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身が残した7500ページにも及ぶ手稿です。天文学や建築、航空力学、はては解剖学・・・と、様々な分野での研究や考察が克明に書き記されているのです。その中に、このような記述があったそうです。「絵画は想像の行為であって、それを可能にする化学よりもはるかに優れている。なぜなら、例えば幾何学は量を計る物であっても、世界の美を計るものではないからだ」つまり、この手稿に書かれていた多岐にわたる研究や考察は、全てレオナルド・ダ・ヴィンチ自身が手掛けた絵のためのものだったわけです。今回紹介されている「ほつれ髪の女」・・・見事な絵です。どのように描かれているか、というと、まずキャンパス地に石膏を塗って、そこに1色の色を薄く塗ります。そこに同じ色を使って薄く描き、乾いたら透明のニスでキャンパス地を塗ってしまいます。再び同じ色を使って薄く描き、乾いたらまた透明のニスでキャンパス地を塗ってしまいます。これを何度も何度も繰り返すわけです。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナリザの女」を含め、ほとんどの女性は正面を向いているのですが、今回の「ほつれ髪の女」は一風変わっていて、俯き加減で目は伏し目がちです。そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチが理想としていた美しい女性の描き方があって、それはこのようなことです。「女性は慎み深い姿で描かねばならない。顔もうつむき加減にまた少し傾けている。」さらに「美学」がありました。「人間美の中で最も美しい顔が見物人を引き止めるのであって、その豊富な装飾ではない。頭には髪をして、若々しい顔のまわりに、かすかな風と一緒にたわむれさせ、様々な翻り(ひるがえり)によって、これを優雅に飾らしめよ」この「ほつれ髪の女」は、その「美学」に基づいて制作されたものなのです。それには、レオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ちに秘密があるようです。レオナルド・ダ・ヴィンチは、幼少のころに実の母親を分かれることを余儀なくされ、父親の再婚相手の女性の手によって育てられました。それ以降、女性と付き合うような浮いた話はなく、なおかつ結婚もしていなかったそうです。すべては、幼少のころの経験がトラウマとなり、理想の女性像を探し求めたのかもしれません。さて、石ノ森章太郎は、レオナルド・ダ・ヴィンチにあこがれたのですが、漫画家・・・いや、萬画家として成長し、亡くなった現在でも絶大なる人気を誇っています。そして、現在でもテレビで特撮やドラマが作成し続けられており、「仮面ライダーシリーズ」や「おみやさんシリーズ」が制作され続けられているのです。テレビ東京系列:2012年4月7日BS JAPAN:2012年4月22日
2012.04.22
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富士山日本で一番高い山として非常に有名です。これまでにこの富士山をモデルとして描いた絵画は、一般市民を含めて数多く存在しています。この番組でもいくつか取り上げられています。今回は、その中の1枚として梅原龍三郎が描いたものを取り上げられています。梅原は、フランスに5年ほど滞在し、ルノワールに師事して豊かな色合いを使った画法を学びました。そのためか、梅原が描く絵には必ず赤系統の色が使われ、血の通った温かみのある絵を数多く作り出しました。そんな梅原が日本の山を描くようになったのは、戦前のことです。美しくも厳しい日本の自然を描くために試行錯誤を重ねて見つけたのが、日本画の画材として使用される岩絵具(いわえのぐ)でした。この岩絵具をそのまま使わずに、なんと油を混ぜて使っていました。普通にキャンパスに描こうとすると、岩絵具の粉っぽさに加えて油の筆のノリが悪くなってしまい、かすりやムラが出たりして描きづらくなってしまいます。さらにキャンパスのかわりに間似合紙(まにあいがみ)とよばれる、主に襖(ふすま)に使われる厚手の紙を使いました。それでもかすれてしまって描きづらくなるのですが、この描きづらさが絵の表現に深みを持たせることに繋がっていくわけです。まさしく「怪我の功名」ともいえるものでしょう。梅原は、今回の絵を描くのにあたり、厳しい寒さの残る早朝から日の出の時間まで富士山をずっと観察し続けていきました。その日の天候によって富士山の表情が変わっていくため、辛抱強く観察し続けていきました。そういうことを続けていたある日、梅原は納得できる富士山を垣間見ることができ、一気に描き切ったそうです。まさしく執念の一枚である・・・ともいえるものでしょう。私も、決してあきらめない気持ちで努力し続けて、いつしか成功をつかみ取りたい・・・そう思うわけです。テレビ東京系列:2012年3月24日放送BS JAPAN:2012年4月15日放送
2012.04.15
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今回の像は、かなり有名です。洋式トイレで大きいほうをしているときや、ベンチで腰かけているときなどに、とっさにマネをすることがあるでしょう。しかし、正確にマネすることができる人はあまりいません。まず、左手を軽く握ります。その手を、左足の膝小僧に置きます。ここがポイントとなるのですが、右腕の肘を左足の膝に置いて右手を握ってそのうえに顎をのせるのです。かなり窮屈な格好になっていますが、これが正しい「考える人」のポーズです。その原型となったのが、ダンテが書いた「神曲」という作品をモチーフとした「地獄の門」というものです。ここで、様々な人物を構築していき、後に独立させて一つの作品に仕上げていきました。この作品の上の部分に、「考える人」のモデルとなった人物が置いてあります。その人物がいる部分をよく見てみると、左側には裸の女性が舞い降りたりして、人間たちが行列を為しています。そして、右側はおどろおどろしい骸骨がちらほらと散見できます。つまり、左側が「生」を、右側が「死」を暗示し、中央にいる人物は左側にいる人を右側にするかどうかを考えていた「審判の人」の役割を持っていました。その人物を「考える人」として独立させる際、当初は「思想を練るダンテ」というタイトルをつけようとしました。しかし、のちに「考える人」と改題しています。ロダンの作風は、筋肉質であまりにもリアルすぎます。そして、あまりにも不自然です。それは、ミケランジェロの影響をまともに受けたからです。ロダンがミケランジェロの作品がたくさん収録されている博物館に行った時に、体をくねらせた女体の作品があまりにも素晴らしく、思わず手にした手帳にスケッチをしました。まさに、ミケランジェロの美的センスがロダンの作風にモロに影響した形です。それは、現代においても「ジョジョの奇妙な冒険」にも影響されていることでしょう。現実的にはあまりとらないポーズであっても、なぜかそこには美しいものを感じる。だから、現実の世界で「ジョジョ立ち」という形でそのポーズをとってみたい・・・そう感じる人もなかにはいるのです。しかも、作者の出身地でもある仙台でやってみたい。それこそがステータスッ!・・・という人もちらほらといるそうです。この作品を作ったロダンという人・・・50歳までは鳴かず飛ばずの不遇な生活を強いられ、辛酸をなめてきました。その生活に終止符を打ったのが、初めて手掛けた等身大の像でした。わざわざ人から型を取ったのでは・・・という疑惑をもたれるほどリアルすぎました。それが逆に話題になり、ロダンの名が世に知らされるようになったのです。ロダンの人生は、まさに「大器晩成」を地で行くようなものでした。・・・とまあ、私も現在不遇で辛酸をなめ続けてはいますが、有名にならずとも、ある程度は成功をしたいな・・・と思うわけです。そのためには、自分に確固たる信念を持ち続け、決してあきらめない気持ちを持って努力すればいいのではないか・・・などと、トイレで大きいほうをしながら「考える人」のポーズをして考えるわけです。テレビ東京系列:2012年3月17日放送BS JAPAN:2012年4月8日放送
2012.04.08
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ダライアス・・・というゲームがあります。インベーダーでおなじみのタイトーから出されているシューティングゲームです。このゲームの特徴は、テレビモニター3台をハーフミラーという特殊な鏡によって区切れなく表示できるようにし、なおかつ椅子には重音を感じられるようなボディソニックが搭載されています。そして、次のステージが選択できるようになっており、7面構成で選択できる面は全部で28ステージ(AからZまでの26個あり、そのほかの2つはYとZの2つがダブることになります)で構成されています。これの一番特徴となっているのが、各ステージのボスが、魚をモチーフとしたものになっています。シーラカンスをモチーフした「キングフォッスル」をはじめとして、ピラニア、タツノオトシゴ、はてはマッコウクジラなどが、3画面の中で大暴れするわけです。現在は、最新作の「ダライアスバースト・アナザークロニクル」というゲームがまだまだ稼働していますので、ぜひとも遊んでいただきたいと思います。マッコウクジラの凶悪ぶりはすさまじいです。そんなゲームができるはるか以前に、より精巧な魚の模型を作ったベルサー軍の設計技師・・・もとい!芸術家がいます。その名は高瀬好山と言います。明治2年に石川県金沢市で生まれました。幼少の頃に狩野派の絵を学んだそうです。14歳で神戸の海外向けの陶磁器を扱う貿易会社に入り、陶器の製造に携わったようです。その後、富木伊助という名工の下で修行をした後、24歳の時に京都に工房を開いています。今回の作品である「鯉」を見ると、本物にそっくりともいえるほど精巧なものになっています。とくに、本当に泳ぎだすのではないか・・・と言えるほどの動きを見せることができます。その秘密は、輪切りにした胴体には大きさが異なる穴が空いています。そこに胴体をつなぎ合わせるための軸を差すわけですが、穴に遊びがあるためか、リアルな鯉の動きを実現していたわけです。この技術は、なにもないところからできたものではありません。戦国時代の鎧の見事な技術を応用したものだそうです。いつの時代でも、身近にある商品やサービスなどは、戦争から発展したものがほとんどです。インターネットだってそうなのです。だから戦争を起こそう・・・などということは言いたくはないです。戦争は、そういう側面がある、ということです。高瀬好山が生み出した技術はなくなったのでしょうか?いや、そうではないようです。金工をやっている冨木宗行さんが、高瀬好山の技術を継承しているそうです。何の変哲もない金属にリアルな装飾を施して生命を与えています。そんな冨木さんにやってほしいものがあります。ダライアスのボスであるキングフォッスルとグレートシングなどの魚型戦艦を模型化してほしいです。そして、ダライアスの新作を作ることになったらデザインの監修もやってほしいです。これだけの技術力があったら容易に実現はできます。いやぁ、ぜひやってもらいたいですね。
2012.04.02
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