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「あなたがいてくれて、本当に嬉しいです。」礼拝の中で、周りの人とこんな風にあいさつを交わしましょうタイムがありました。何人もの方と、このあいさつを交わしました。何人もの方と、この言葉を交わしていると、どんどん顔がほころんでくるのがわかります。自分も、周りの人も。みんな、満開の笑みです。ちょっと、興奮しちゃいました。席についても、笑顔が元に戻らないほど。「あなたは、uniqueな(唯一の、驚くべき)存在です!」こんなあいさつも交わしました。人はみな、色々な考えを持っていたり、感覚が違ったりします。でも、一つとなって礼拝し、神に仕えるのです。お互いに補い合い、仕え合い、他の人の益になるように、ひとりひとりが違うのです。「あなたは神さまに、とっても愛されています。」とも、あいさつし合いました。神さまは、人を無条件の愛、永遠の愛で愛してくださっていて、それをご自身の喜びとされました。けれど、驚くべき新事実!聖書には「あなたは、愛されなさい」とは書いていないのだと。「愛しなさい。愛し合いなさい。」神さまの愛に、こんな自分でも応えることができることが、より大きな喜びとなるのです。此処でだけでなく、この時にだけでなく、いつもこのような気持ちで人とあいさつを交わすなら、どんなにかみんなが嬉しくなるだろうと、思いました。
2008.05.18
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He has risen!He has risen, indeed!イースターおめでとう。主はよみがえられた。それはただ過去の出来事だっただけではなく、今、私と(あなたと)共に歩いておられる。
2008.03.23
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士師木2章7-19節、6章1節-8章3節 (Biggs,John牧師によるメッセージを主観的に書きとめたものです)ある有名なバイオリニストが、生前自分が使っていた傑作のバイオリンを自分の死後、誰も使わないようにとの遺言を残しました。彼の死後、そのバイオリンは、大切の保管されました。バイオリンはいつも引き手に奏でられるとよい状態を保つことができよい音がでるのですが、そのバイオリンは程なく木が腐ってきてしまったそうです。クリスチャンも、傑作のバイオリンのようによい弾き手である主によって奏でていただくと霊的に健康を保つことができるのです。そうでなければ、霊的に枯れてくるのです。私たちは神の作品であって、よい行いをするために造られたのです。(エペソ2:10)聖書によると、私たちがこの世で苦しみに遭う理由がいくつかあると記されてあります。ひとつは、サタンが人間を失望、落胆させ、神さまから私たちを引き離し、私たちを滅ぼそうとするためです。もうひとつは、主である神さま御自身が、私たちを人間として成長させるためです。また、堕落したこの世から来る苦しみもあります。さらに、私たち自身の愚かな選択や罪から来る苦しみもあります。これは、避けうるものです。イスラエルの人たちも、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、他の神々に従い、拝み、主を怒らせました(2:11-14)。彼らが苦しみ似合うことを許された主は、その苦しみの中でもイスラエル人のなかにさばきつかさを起こして、彼らを救われました。けれど、問題がなくなるといつも逆戻りして、先祖達よりもいっそう堕落しました。このようなパターンが繰り返されました。イスラエル人は、主によって7年の間ミデアン人の手に渡されました。イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を仕方なく自分たちのものにしました。でも主は、ほら穴を永久に後にするようにと望まれていたのです。私たちに人生でも何度も起こるアップダウン、自分にとって快適な状況だと主を忘れ、問題が起こると主に助けを求める。霊的疲れをもたらし、喜びのない人生となっていく。いつも主をNo.1に保っていると、主が壁となって略奪から守られるのです。また、人生の様々な折によい選択ができるようになります。例えば貞節を守ること、人をゆるすこと、これらは「しなければよかった」と後悔するようなものではないのです。さて、ギデオンは酒ぶねの中で隠れて小麦を打っていたほど臆病でした(6:11)。主の使いが現れて「勇士よ」と呼びかけました。主はこのとき、気弱なギデオンの中に確かに勇士を見ていたのです。主はギデオンに「あなたを遣わす」と言われました。ギデオンは、かつてのモーセのように、そんなことできないと言いました。主は「わたしはあなたといっしょにいる。・・・」と、主には可能なのだと言われました(6:16)。主に目を上げ、主をNO.1とするなら、主の御心に耳を傾けなければなりません。気弱であっても、それでも主を信頼するのです。主は、今のあなたではなく、未来のあなたを見ておられるのです。1972年、パイオニア10という探査衛星が木星に向かって打ち上げられました。当時か誠意園に向かうことは不可能だと思われていましたが、パイオニア10は無事に木星に向かい、今なお冥王星を超えて、データを地球へ送信し続けています。その原動力はたった8Wの電力だというのですから、驚きです。私たちも主から注がれ続ける力で、不可能だと思われるようなことが可能となるのです。そのためには、まず自らの偶像を打ち壊さなくてはなりませんでした(6:25-26)。主をNO.1としているでしょうか。人生において神より大切な物や人がいないでしょうか。霊的に満たされ、霊的な健康を与えられるための聖霊の助けを得るには、自らの偶像を打ち壊す必要があるのです。ギデオンは、まだ臆病ではあったけれど、精一杯主の仰せに従い、バアル(異国の神)の祭壇(偶像)を取り壊しました(6:27)。イスラエルがミデアン人に対して立ち上がるために集まっていた時、主の霊が初めてギデオンをおおいました(6:34)。彼が偶像を壊したからです。そしてこのときに、私たちも彼の中に勇士を見るのです。主は私たちに、主にどのように仕えることを望んでおられるのでしょう。どんな人生を選ぶことを望まれているのでしょう。主はギデオンに「あなたと一緒にいる民は多すぎる。」と言われました(7:2)。主は、恐れていた者22000人を帰されました。大胆さを持つ10000人が残りました。更に主は、水の飲み方によって、民を選別されました(7:4-5)。主は、舌で水をなめる者、膝をついて飲む者を帰らせました。残ったのは、口に手を当てて水をなめた者300人でした。主は、素早く、熱心に、格好を気にせず大胆に喉の渇きを満たす者を選ばれました。これは、主御自身の思いをどのように満たすかという態度の象徴でした。主は私たちにも、大胆に素早く主に仕えることを求めておられるのです。残った300人の者たちは、ミデアン人を倒すためのギデオンの尋常でない戦略に、へりくだって言われたとおりに従いました。主の方法は、私たちの考えうる方法と違うのです。へりくだって、不平を言わずに喜んで主に従う時、主は私たちを最も喜んでくださるのです。
2007.06.24
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ルカによる福音書15章1-7,11-32節より (Biggs,John牧師によるメッセージを主観的にまとめたものです。)聖書の中に父親の模範となるような登場人物は実際いません。唯一、イエスが話されたたとえ話に登場する放蕩息子の父親のみです。何故彼は完璧なのでしょう。それは、彼が点の父なる神そのものを表すからなのです。それはこのようなたとえ話が先にあります。「あなたがたのうちに羊を百匹もっている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。・・・」(ルカ15:4)父親は子どもがまだ幼く親の指導が必要で親から学ぶ心がある時には、物理的に連れ戻すこともあります。けれども、子ども達は大きくなるにつれ、親から学ばなくなっていきます。それにつれて親は、少しずつ子どもから離れ、子ども達が自分の選択と行動の結果から自ら学ぶように導きます。時には、子ども達が自ら痛い目に遭う必要があることもあります。子どもが成長するにつれ、1年ごとに5%ずつ自分のやったことの責任を取らせるとよいとの考えがあります。思春期頃には自分の行動の半分ぐらい、成人する頃には自分の行動のすべてに責任をもてるように。聖書の有名な放蕩息子の話では、兄弟それぞれの立場に身をおいて考えることが多いです。弟の立場としては、とくに新しいクリスチャンにとっては父なる神のあふれる愛と憐れみに感謝するでしょう。兄の立場としては、数年間クリスチャンでいるなら人を裁かないようにと自らの戒めとするかもしれません。そしてもう一つ父親の立場としては、子供を手放すタイミングについて語られています。弟は父親に言いました。「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」父はそれを許しました。息子がもう子どもではなく、自由意志を持つ青年として扱いました。大昔から子どもは親に反抗し、問題を起こしてきました。今の世の中だけの問題でもないし、ウチだけの問題でもないのです。たとえ完璧な父親であっても、子どもが問題を起こし心を痛めることがあります。それは、子どもには自由意志があるからです。子どもはどこかへ行って、問題を起こすものなのです。自由意志がある子どもを、どうやってどこへかへ行ってしまわないようにするか、ではなく、問題を起こした時にどうするか。彼は家を出て遠い国へ行き、財産を使い果たし、飢饉にあって食べるにも困りました。その時彼は、息子と呼ばれる資格はないけれど、使用人としてでも父の元へ帰ろうと決心しました。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)弟は、自分の失敗から学び、父の元へ帰ってきたのです。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした。」(20節)父親は、信じられないほど素晴らしい自制心を持っていました。怒りに支配されずそれを手放し、愛と憐れみを息子に示しました。父の元は安全で安心だと、弟は感じたことでしょう。もし怒ったままであるなら、子どもが帰りたいと思った時に、帰ることができるでしょうか。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」(21節)父親は息子に過去に焦点をおくのではなく、今、息子が父親と正しい関係を築こうと努力していることを心から祝いました。子供というのは、いつも自分の努力に対して父からの賞賛を渇望しているものなのです。しかし、父の愛により赦されても、過去の失敗による結果は負わなくてはなりません。弟にはもはや財産は残されていませんでした。子ども達が人生で学ぶ最も大切な教訓は、自らの痛い経験と、生涯そのことによって苦しまなくてはならない犠牲によって与えられるのかもしれません。
2007.06.17
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ヨシュア記1章1-9節、2章1-24節、6章1-25節より (Biggs,John牧師のメッセージを主観的にまとめたものです)イスラエルの民は、主の約束の地にたどり着くためには、エリコという町を通過するためにその町と戦わなくてはなりませんでした。わたしたちも今ある人生の中で大きなエリコの城壁に直面していないでしょうか?豊かないのちを味わい、クリスチャンライフの深みへ行くためには、わたしたち自身のエリコを崩さなくてはなりません。それは、私たち自身の罪や罪悪感かもしれません。あるいは、霊的な怠惰かもしれません。でもその戦いへは、私たち単独では送られないのです。聖霊を通して主が共に戦ってくださるのです。この聖書箇所では、霊的戦いに直面し勝利するための二つの心構えが示されてあります。「強くあれ、雄雄しくあれ(1:9)」「すべてのことを守り行う(1:7-8)」・「強くあれ、雄雄しくあれ」―ラハブが示した霊的な勇気ラハブはいわば社会のはみ出し者でしたが、主によって人生が大きく変わり、信仰の英雄として後々まで覚えられることになった女性です。ヨシュアが2人の者を偵察に遣わしたときに入ったのがラハブという名の遊女の家でした(2:1)。何故2人が遊女の家に入ったのか不思議ですが(いろいろな理由は考えられますが)、既に主は彼女を選ばれていたのです。このことがエリコの王に知れ、王はラハブのところに遣いをやり「エリコの王かイスラエルの民(彼の信じる神)かどちらにつくのか」と迫ります。ラハブは霊的勇敢さをもって、イスラエルの2人をかくまい、逃がします。世の人は、彼らの側につかないと彼らを愛していない、と考えます。たった一人で主の側につくことは勇気が要ります。「どちらにつくのか」という問いは、エリコの城壁を保ちたい方か、エリコの城壁を崩したい方か、という問いなのです。ラハブは、この困難な選択において、主の側を選びました。遊女であったは、主の話を、素晴らしい御技、力を伝え聞いていました。そして「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられる」と信仰告白をします。主の元に帰るのに、遅すぎることはないのです。主が御手を伸ばされて救われない人はいないのです。エリコが崩れた時、ラハブが自分と自分の家族を救いたければ、主の側につくことを公にしなければなりませんでした。窓に赤い糸を結んでおく(2:17-18)ということは、荒野の町では非常に目立つことでした。ラハブは「おことばどおりにいたしましょう(2:21)」と従いました。救われたいと主の側につくなら、イエスキリストを愛するなら、生き方においてもそれを表す必要があるのです。・「すべてのことを守り行う」―ヨシュアが示した忍耐強い信仰ヨシュアは主が仰せになった通り(6:2-5)、立ち上がって行動しました。それがヨシュアの役割でした。城壁を回り、主のための道を備えることでした。人の目には奇異な戦略であっても、7人の祭司たちが7つの角笛(主の臨在を知らせる)を持って契約の箱(神の御座を表す)を持ち武装した者たちと町の周りを回りました。これは主御自身が戦いに挑んでおられることを示すものでした。主の言われた通りに、1度ずつ6日間、7日目の7度目に町を回ったとき(主の完璧なタイミング)に時の声をあげるとエリコの城壁が崩れ落ちました。(6:8-21)実際に城壁を崩すのは、主の役割でした。私たちもあの町(問題)の周りを、祈りながら(主とともに)何度も何度も回るのです。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。(イザヤ55:8)」主の方法は私たちが考える方法とは異なるのです。勝利のための主の戦略は何?と常に主の声に耳を傾けるのです。もしかしたら、既にその方法を知っているかもしれません。それをするかしないかは、私たちの選択なのです。しなさいと言われていることをしていても何の進展もないかもしれません。忍耐強い信仰とは、何も起こらなくても行進を続けることです。ヨシュアは目を主に置き続け行進を続け、約束の地への道が開けたのです。-----主の側につくということを公にすることは、非常に困難なことです。そのことで、自分自身が危険にさらされます。相当の覚悟、霊的な勇敢さが必要です。求めつつ・・・。目の前に大きな頑丈な城壁(問題)が聳え立っているように思われるときがあります。何とかしてそれを崩し先に進みたい。「こうしなさい」と言われていることがわかっていたとしても、同じところをぐるぐると無意味に回っているような気になります。それでも、戦うのは主御自身、私たちは主の臨在を示し道を備えること。主の完璧なタイミングの時に、きっと問題の城壁が崩れると信じて・・・。
2007.06.10
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民数記1章1-34節より (Biggs,John牧師のメッセージを主観的にまとめたものです)今日はペンテコステ(五旬節)でクリスチャンにとってはクリスマス、イースターとともに3大祝日の一つです。クリスマスはキリストの誕生を、イースターはキリストの復活を、ペンテコステはイエスが天に戻られた後、最初のクリスチャン達に聖霊が与えられたことを祝います。聖霊は三位一体の神であり、旧約では一部の、神さまから招命のあった人だけに与えられたものでした。主はイスラエルの民のために、非常によくしてくれていました。奴隷生活を強いられていたエジプトから脱出させ、紅海を割りエジプト軍から逃れさせ、カナンの地を約束し、荒野で水を与え、毎日天からマナを降らせました。けれど、彼らは与えられていることを当然と思い、そればかりか充分ではないと不平を言ったのです。主はこれを聞いて怒りを燃やしました。私たち自身はどうでしょうか?自分は今までに主からどんな親切、思いやりをもらったでしょうか?また、そのことを感謝しているでしょうか?イスラエルの民は、毎日与えられていたマナに飽きたと言いました。エジプトで食べていた濃厚な味の肉や、刺激的な味のするニラ、タマネギ、ニンニクを食べたいと。主の怒りは激しく燃え上がりました。子どもが何度もわがままを言った時に、親の怒りがだんだん激しくなるのと同じです。主は天の親なのです。主は私たちの必要なものをよく知っています。今日の日を乗り越えるために与えられているものがマナです。それは、物質的、霊的、情緒的、様々な形ので与えられます。憐れみ、癒し、励まし、持病のある人が2,3日体調がいいことかもしれません。祈りによる平安、御言葉を通しての解決かもしれません。マナは、主の祈りでも祈られるように、日ごとの糧なのです。主はそれに対して「ありがとう。」「いただきます。」の言葉を聞きたいのです。マナは実にシンプルで素朴な味です。その味わいを見出すには、時間がかかるのです。私たちに与えられている神からのマナを味わうにも、時間がかかります。マナを詩篇31篇のように味わうには、イエスを味わうことから始めるのです。イエスさまはご自身を「天からのまことのパン(ヨハネ6:32-41)」と言われているからです。例えば、日曜日に神の家族と賛美したり、朝に静かに神との時間をとるのです。モーセはこのような民を自分だけで負うことはできませんと、主に言いました。モーセは既に政令を与えられていましたが、自分の無力さを知り、へりくだって主に叫びました。主は、聖霊に満たされた他の人を与えるよと言われました。主のことばにより70人の長老が集められましたが、そのうち2人は呼ばれたにもかかわらず行きませんでした。主が70人に神の霊を与えたときその2人にも与えられましたが、彼らはその素晴らしい贈り物をどのように他の人のために用いるか関心がありませんでした。クリスチャンである私たちも、こんなことがないでしょうか。聖霊のことを話すとき、自分個人にどんな益があるかに焦点を置きがちですが、聖書ではむしろ、周りにいる人を豊かにするため、お互いに重荷を負うためだと言っています。クリスチャンライフを独りで行うのは、健全ではありません。主の家族の中で行い、キリストの体の部分である自分と体全体が、恩恵を受け合うgive and takeの関係を持つことなのです(1コリント12:1-12)。体の部分が祝福されると体全体も祝福されますが、手足は身体に繋がっていないと枯れるのです。モーセは言いました。「主の民が見な、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自身の霊を与えられるとよいのに。」この言葉が、1500年後のペンテコステに成就したのです。祈りの時を持ちましょう。最近主がしてくださった良いこと、先週のマナの祝福を思い返し、感謝しましょう。私の内に与えられている、素晴らしい聖霊を感謝しましょう。そして、独りで留まるのではなく、主の家族の中でともに主を賛美し、お互いを高め合うことができるように。
2007.05.27
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創世記17章15~19節、18章1~15節、21章1~7節より (Biggs,John牧師のメッセージを私なりにまとめたものです)ミシガン州のある研究者によると、子どもは一日に150回笑うそうです。では大人は?一日に15回だそうです。大人になるにつれて生活は忙しくなり、気難しく、皮肉な性格になっていくのです。子どもの笑いは純粋で無邪気で幸せな笑いですが、大人になると照れ隠しや居心地の悪い時、信じがたいことに対しての笑いが多くなります。今日の箇所では、100歳のアブラハムと90歳のサラに神が男の子を与えると言われ、疑って神を笑っいました。そして、1年後に男の子が与えられたサラは、喜びに満たされて神とともに笑ったのです。神さまは24年前に、アブラハムとサラに子どもを授けると約束されましたが、まだ成就していませんでした。アブラハムは待ちきれず、女奴隷ハガルによってイシュマエルという子をもうけており、これを祝福してもらおうとしました。でも、これは神の計画ではなかったため、後々複雑なことになったのです。神は「いやいや、神の計画を待ちなさい。私を笑ったが、待ちなさい、間もなく私と笑うようになるのだから。」神さまは私たちにも、このように言われているのです。アブラハムは、もっとすぐに約束を叶えてくださるに違いないと思っていたので、失望していました。それにもかかわらず、アブラハムは信仰の父として模範となっています。それは、彼らが、主ご自身に希望を置き、しがみ続けることを止めなかったからでした。主を完全にあきらめようと思ったことはなかったのです。アブラハムは25年待ちました。多くの人が、神さまはすぐに○○してくれるだろうと思い込み、その通りにならずに失望し、(信仰の)レースをあきらめてしまうのは残念なことです。アブラハムの笑いは、サラにうつりました。猜疑、皮肉、否定的な笑いは、家族や子どもにうつるのです。神は、ここでアブラハムに言われました。「サラは何故笑うのか。」アブラハムには、サラの中に否定的な感情の種を蒔いた責任があったのです。私たちは子ども達にどんな種を蒔いているでしょうか。口では信じると言っていながら、心の中で疑っていないでしょうか。子ども達は、私たちの中にどんな笑いを見るでしょうか。皮肉、あるいは希望の種は毎日蒔かれているのです。言葉と心はマッチしているでしょうか。それらがマッチしてくると子ども達はそれに気づき、良い種が蒔かれ始めるのです。子どもに、神と共に笑ってほしいと願うなら、自らが神を笑う者ではなく神と笑う者とならなくてはならないのです。約束から25年、神さまは約束されたとおり、仰せられたとおりにサラは男の子を産みました。約束の成就は、神さまにとって難しすぎることはありません(18:14)。神さまはいつも私たちへの約束を守られます(21:1)。サラは、変化しました。新共同訳では「神は私に笑いをお与えになった。」と訳されています。疑いの心が喜びの笑いになりました。それはまわりに命を与える笑いです。私たちがそんな風に笑うなら、家族にもそれが伝染するのです。サラの話は、わたしたちの話です。25年待つ必要もなく、今から笑うことができるのです。-----笑いについて、ドキッとさせられるメッセージでした。自分は一日に何回笑っているのか。その笑いは、皮肉、疑いなのか喜びなのか。確かに、自分が純粋に、あるいは喜んで笑っている時には、家族の雰囲気が和やかです。逆に、何に対してであっても皮肉や疑いの笑いには、冷たいような尖がったような雰囲気があるような気がします。日々の生活を見直し、神様に改善を助けていただく必要がありそうです。
2007.05.13
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テサロニケ人への手第一2:17~3:13より (Maxton,Esther師のメッセージを主観的にまとめたものです)パウロが迫害の中にあったテサロニケの教会へ送った励ましの手紙です。パウロがどのように兄弟姉妹の霊的成長を養ったのかが書かれてあります。ほんの僅かの間しかパウロはテサロニケに滞在することが出来なかったけれど、その後テサロニケの教会の人々は成長し、その地方の信者の模範となったのです。この、新しいクリスチャンの成長をパウロは誉れ、喜びだとしています。パウロは彼らの様子が気がかりで居ても立ってもおられず、自分は行ける状況でなかったのに仕方ないとあきらめず、自分の代わりにテモテを遣わしました。テモテを遣わせるとは、パウロ自身にとっては強力な右腕を暫し失うことになります。不安もあったことでしょう。けれどパウロは、自分の快適さを手放し、他の人のために自らの手を引くことを選びました。テサロニケの教会を強め励ますために。クリスチャンは神の家族とされ、お互いに信頼し合う、チームプレイなのです。そのためにも、キリストにある兄弟姉妹の霊的な成長を、誰かがやってくれるというのではなく、自分が心に留めることが必要なのです。クリスチャンの生き方は苦難に会うようになると、パウロは前もって言っておいたのです。肉は弱く、困難が大きかったり、励ましが少ない時には誘惑に負けることがあることを、パウロは知っていました。誘惑によってパウロの撒いた信仰の種が無駄にならないようにとテモテを遣わしたのです。日本ではあからさまな迫害というものはないかもしれません。けれど「皆と同じようにする」という誘惑は大きいのではないでしょうか。それをすることで、ひょっとしたらキリストから離れることになるかもしれないのです。パウロは自分が与えた信仰の土台、正しい教えの上に堅く立ち、揺るがされることのないように、テモテを送り、確認し、手紙を書き、祈ったのです。テモテはパウロに、テサロニケの教会の信仰と愛について良い知らせを持ち帰りました。そのことで、パウロは迫害の中にあっても、慰めを受けました。彼らが、主にあって堅く立っていて他のクリスチャンの手本となっていてくれるなら、生きがいがあるとさえ言いました。彼らのことで喜び、神に感謝しました。失業したひとりの男の人がいました。長い求職活動の後ようやく彼は工場に再就職しました。それは彼にとって想像以上のきつい肉体労働でした。職場の人間関係も心地良いものではありませんでした。我慢に我慢を重ねましたが、とうとう「明日、この仕事をやめよう」と思いました。その日、ジムのひとりの女性が初任給を持ってやってきました。封筒を受け取り中を見ると、メモが入っていました。「教会であなたをお見かけしました。毎日あなたのことを祈っています。」どんなにか彼は励まされたことでしょう。教会の基礎を築いたパウロのようなリーダーですら、励ましが必要です。誰かが祈ってくれていると知っていることが、どんなにか励ましとなるでしょう。お互いに誰かのために祈り、電話や手紙や何かひとことでも、祈っているよと伝えることは、とても大切なことなのです。パウロ達は彼らのことを、昼も夜も熱心に祈っていました。それは、彼らがトラブルの中にあったからという訳ではなく、彼らの信仰が保たれ、お互いの、また他の人への愛が増し、物質的必要のためだけではなく霊的必要のためにも、自分の快適を手放し、あるいは自分の時間を後回しにして絶えず祈っていたのです。他の人のために祈ることは、重要なミニストリーです。直接誰かの手助けをすることは出来なくても、その人のために、自分のことを後回しにして、祈りの時間を持つことは出来るのです。この箇所からパウロのテサロニケの教会への、親の子どもに対するような愛(1テサロニケ2:7,11-12)を窺い知ることが出来ます。ところで、テサロニケの教会は他の教会の模範となるほどのstrong churchでした。そんな教会に対しての、信仰の不足を補いたい(3:10)という祈りはどう思われるでしょう。私なら、どう思うでしょうか?長くクリスチャンとして歩んでいるし、ちゃんとしたクリスチャンなのにと、むっとするかもしれません。でも事実、人間は弱くまた欠点もあります。このように祈ってもらうことは、大切なことなのです。・神が、あなたがたの信仰の不足があればそこを補ってくださるように。・神が、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ち溢れさせてくださるように。・神が、あなたがたの心を強めてくださるように。・神が、あなたがたが父なる神の御前で、聖く責められるところのない者とされるように。これらがパウロの祈りのポイントです。そして私たちもこのようにお互いに祈ることが必要なのです。
2007.05.06
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出エジプト記13:17~15:13より (Biggs, John牧師のメッセージを主観的にまとめたものです)モーセと二つに分かれた紅海の話です。これはイスラエル史上最も大切の出来事のひとつです。これ以前の約430年間、イすらエス人はエジプトの奴隷とされていました。その状況の中で彼らは、神さまの3つの(土地と子孫と祝福(彼らと、彼らを通して地上の全民族に)を与えるという)約束を希望としていました。辛い奴隷生活の間、神はどこにいるのだろうと思うこともあったでしょうが、実際その430年間にたった70人ほどだったイスラエルの民を、神は何十万人もに増やされました。この紅海の出来事を通して、神は黙っておられても約束をkeepし、時が熟したら必ず行動を起こしてくださるということを思い起こし、希望を持つことができるのです。これはイスラエルの民ばかりでなくクリスチャンにとってもです。エジプト人がみな水に投げ込まれたように、最後の裁きのときには、悪魔が火に投げ込まれます。神がイスラエル人をエジプトでの苦役から救い、約束の地カナンへ導いたように、神はクリスチャンを地上の労苦から解放し、天国へ導いてくださいます。この話の主人公は、私たち(イスラエル人、エジプト人)ではなく神です。神を信じ従うことを望もうと望まなくても、イスラエル人への救い、エジプト人への裁きの両方が、私たちの全てが、最終的に栄光をもたらすことになるのです。神はパロの心を頑なにされました(14:4)。神がそうされたのなら、パロには選択肢がなかったのでしょうか。ここで心を頑なにする、というのは心を強くすると言う意味で、パロの内にあったもともとの意志を神が強くされたということです。神の介入によって、パロの、悪をする勇気が強められたのです。それによって彼らへの裁きが大きくなり、神の正義も大きくなるのです。人生の中の良いこと悪いこと全てが神の栄光を表すためのものなのです。さて、イスラエルのエジプト脱出の後、神は近道であるペリシテ人の国の道へは導かれませんでした。その道は途中にエジプトの要塞がいくつもありいくつもの戦いがひかえ、またペリリシテ人との戦いも予想されました。神は彼ら(=私たち)の限界を知っておられるので、耐えられないような試練は与えられません。神はいくつもの度重なる戦いよりも、エジプトとの紅海での一度の戦いを与えられました。ではイスラエル人(あるいは私たち)の信仰が弱っているのに、なぜ戦いをさせられるのでしょう。それは、戦いがなければ、主の勝利もないからです。主の勝利によって神が掲げられるようになるのです。このことは、この箇所で3度も繰り返し書かれています。神はイスラエルの行く道を、昼は雲の柱の中で夜は火の柱の中で導きました。また、戦いの時にはイスラエルの後(エジプト兵が追いかけてくる方)へ回り、守りました。神の臨在、聖霊を通して、私たちを襲う悪との間に入り、守ってくださるのです。イスラエルは、追って来るエジプト兵を見て神に叫びました。主の応えは「祈っている場合ではない、祈るに時があり、行動するに時がある。前進せよ。」でした。すべての人がそれぞれに役割があります。神の役割、モーセの役割、イスラエルの役割。私たちの役割は、祈り求めること、そして行動すること。行動を起こすことによって救いが起こるのです。様々な問題(借金、人間関係・・・)から解放され、神の恵み、憐れみ、愛が表され、神が掲げられ、神に栄光を帰するのです。イスラエルを救われたのは、イスラエルのためだけでなく、主が掲げられるためです。イスラエルの民は、神の大いなる御力を見、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。そして、神を誉め歌いました。主への健全な恐れ、信仰、感謝と賛美が与えられるのです。
2007.04.29
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出エジプト記3章1節~4章15節より (Biggs, John牧師のメッセージを主観的にまとめたものです)モーセが神さまに言われました。「立ちなさい、そしてエジプトからイスラエルの民を連れ出し、約束の地へ連れて行きなさい。」今聖書を読む私達は「多くのイスラエルの民の中からこんな重要な役割をするために選ばれたなんて、なんと光栄な話!モーセはきっとhappyだっただろう。」と思います。けれど、モーセは違いました。そして、神さまから言われていることをかわすために、次から次へと言い訳をしたのです。私たちも、そんなことがないでしょうか。自分がしたくないようなことを、神さまから「しなさい」と言われているのに、従えない。御許に呼ばれ、十字架の赦しと永遠の命を与えるよと導かれているのに壁を作っている。あるいは、もっと神さまとの関係を深めるための招きがあるのに、忙しくて家族の面倒を見るので精一杯、疲れていて祈れない聖書は難しすぎるなどと言う。教会の中であっても外であっても、家庭で、地域で、仕事での新しい役割が与えられるとき、往々にして心地よいものではありません。でも、たとえどのようなことでも、主に選ばれたということは光栄なのです。あなたが、そのことをすることによって主に栄光を返すことが出来ると、主が認めているのです。主に言われたことを忠実に実行することによってのみ、心のそこから求める喜び、満たしが得られるのです。私の喜びや満たしがどこにあるのかを、主は知っておられるのです。ここでは、モーセの5つの言い訳とそれに対する神さまの返答が書かれてありますが、これらは私たち自身にも当てはまります。言い訳その1(3:11)「私は取るに足りないものです。」モーセは単なる羊飼いでした。そのような彼がエジプトの王であるパロに会いに行き、イスラエルの民を脱出させる交渉をし、イスラエルの民を約束の地へリードするだなんて。でも、40年前は実はエジプトの王の子として育てられていました。確かにそのような資質を備えられていたのです。その経験が準備であったのです。それでもモーセは、神の備えや招きを認めたくなかったのかもしれません。返答その1(3:12)「わたしはあなたともにいる。勇敢でありなさい。」わたし(神さま)が共にいるから、あなたに出来ないことはない。今しなさいと言われていることは、次の招きの準備なのです。私たち自身もAからBのステップに行くのには、一足飛びではなく、間に様々な経験のステップが与えられることで主が備えられていたことに気づくでしょう。それを一つづつ通っていくことで、更に大きなことが出来るようになるのです。言い訳その2(3:13)「私はなんと答えたらよいのでしょうか?」モーセは、自分には知識がないと言いました。返答その2(3:14-15)「わたしがあなたを遣わした者であることを知るだけで充分。」神はご自身を「わたしはある(I am who I am.原語ではYHWHヤハウェに近い音か?)」と言われました。神はご自身が存在するためには誰にも頼らない、ご自身で完全に存在するお方です。何か知らなくてはならないことがあれば、知らせてくださいます。ただ、神が全知全能の神、主であることを知っているだけで充分なのです。言い訳その3(4:1)「彼らは私を信ぜず、私の声に耳を傾けないでしょう。」返答その4(4:2-9)「わたしは、あなたを通してわたしの知恵、力、愛を表す。その時に、彼らはわたしがあなたを遣わしたことを知る。」あなたはただ、わたしがしなさいと言うことをしなさい。わたしがあなたに現れたしるしを、わたしが彼らにあらわすから。言い訳その4(4:10)「私は言葉の人ではありません。私は口が重く、舌が重いのです。」モーセは、自分にはふさわしい賜物(能力、技量、性質)が備わっていないと言いました。神さまは選ぶ人を間違えましたと、思っていたことでしょう。返答その4(4:11)「だれが人に口をつけたのか。・・・それはこのわたし、主ではないか。・・・わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」自分に出来ないと思い込んで、わたし(神さま)の力を過小評価してはなりません。わたしはあなたの限界を知っている。けれど、あなたの限界がわたし(神さま)の限界ではないのです。神さまは欠点だらけの私たちを通して、神さまの目的を全うすることが出来ます。それはまた、私たちが出来ない分野(欠けている部分)で成長させようとして下さっているのです。人には出来ないことでも、神は出来るのです。(マタイ19:26,マルコ10:27,ルカ18:27)神の力は、弱さのうちに完全に現れるのです。(2コリント12:9)言い訳その5(4:13)「どうか他の人を遣わしてください!」モーセの本音が出ました。モーセは、それでもやりたくありませんでした。返答その5(4:14-15) 主の怒りがモーセに向かって燃え上がりました。「わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。」わたしがあなたを選んだ。助け手もいるではないか。聖書を読み進めると、モーセは、主に従いながらもその後死ぬ前まで文句を言っていたことがわかります。不平を言いながらも、それでもcalling(招命)を全うしました。callingは、決して愉快なものではありません。それは痛み、犠牲を伴います。神さまは助け手を送られます。どれほど自分がふさわしくないと思っていても、私たちもそれをしなくてはなりません。それを全うするなら、必ず大きな祝福が用意されており、喜びや霊的な満たしが与えられるのです。-----callingの場合、しなくてはならない、というより、否が応でもせざるを得ない状況になるように思います。この春、私の身に降りかかってきた役割を思い返すと、拒否できない状況でした。そして、神さまがモーセに返答されたような励ましが、少し落ち着いた今になっても、あちらこちらから聞こえてきています。今から与えられようとしている役割は、5,6年前には考えられなかったようなことです。けれど、そのための準備というのは、随分と前からなされていたことが理解できます。20数年前の経験が、その数年後、そして5年前の役割として備えられており、数年前の役割が今回の役割の備えとして与えられていたのかもと思えます。確かに、痛み、犠牲もあります。本音を言えば、自由な時間(=だらだら、ぼーっとできる時間)たっぷりのお気楽な兼業主婦のままがいい。いよいよ始まっても、きっと文句や不平も言ってしまうでしょう。やっぱり私には出来ない、能力不足だと思うこともあるでしょう。けれど、それでも従っていったモーセ(従いつつも不平を言っていたモーセ)の姿を、励みにします。私がこの役割を選んだのではなく、神さまがこの役割として私を選んだのですね。
2007.04.22
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列王記2 6章8-23節より目で見るとは、実際に何が起きているかを見る目があるということ。肉の目に見えるものだけでなく、霊の目で神さまが私たちの周りでしている技を見ること。この聖書箇所には2つの現実が登場します。ひとつは、地上の肉の目で見る現実、もうひとつは、天で起きている見えない現実。肉の目で見えるのは、アラムの王がエリシャがスパイあるいはアラム軍の中にスパイがいると思ったこと。イスラエルの王が見た、アラム軍がサマリヤに来たということ。実はこれらのことは神の業によってなされていました。目で見えない現実として、神が火の馬と戦車でイスラエル(エリシャ)を守っており、神がアラム軍をサマリヤに連れてこられ、神によって敵(アラム軍)の命も守られました。全ての人の安全は、神の御手のうちにあるのです。エリシャも、イスラエル軍も、アラム軍も、この箇所でそれぞれの危機に陥ります。その中で、エリシャのみが天で起こっている現実を見ることができました。(16節)そしてその平安は、周りの者にももたらされました。「あなたも天で起こっている現実を見て、この平安を持つことができるのですよ。」(17節)私たちも周りを包囲されているように思うことがあります。神さまはどこ?!と不安になります。そんな時、地上の現実に心を奪われるのではなく、天の現実を見ることができるのです。時々、間一髪、思いがけず守られたという経験があります。自転車に乗っている時など。それは"ラッキー!"ではなく、神の軍勢、言い換えるとボディーガードに守られたのです!わたし達を救う、守るのは策略ではなく、神の御手だとすべての人に知って欲しいのです。守られるとは、悪いことが全く起こらないというわけではなく、ある程度起こらないようにされる、あるいは起こっても無事に家に帰ることができることです。悪いことが起こっても、クリスチャンにとっては、それを通して神に目を向けることができるのです。「神を愛する人々、・・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・・。」(ローマ8:28)「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント 10:13)それには、神の声に耳を傾け、従うことが必要です。反発した私たちを守る義務は神様にはないのです。守ってくださることもありますが、それは私たちへの憐れみです。私たちも神を見たいと望む前に、モーセと同じように神の声に耳を傾け、聴かなくてはなりません。「私たちとともにいる者・・・」(16節)これは御使いのことです。新約の世界(現在)では、蜜会を送ってくださった方に焦点をおきます。地上の現実からは御使いによって守られますが、私たちの心の中には、その御使いを指揮するイエス(聖霊として)が居られるのです。物理的な危険だけでなく、霊的な危険からも守られるのです。「からだの明かりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。・・・」(マタイ6:22-23)イエスさまは悪い目をも癒し、健全にすることができます。祈り「天で起きている現実が見えるようになるように。」
2007.04.11
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ヨハネによる福音書20章1-22節より Biggs, John牧師クリスマスとイースターはクリスチャンにとって2大イベントです。それは、一続きのお話の前編と後編に値します。クリスマスは、イエスキリストが神の子として地上に来られ、誕生されたというお祝いです。イースターは、そのイエスキリストが全ての人の罪のために十字架にかかられ、新しい命として死から復活されたというお祝いです。クリスマスには、東方の博士が黄金、乳香、没薬の3つの贈り物をイエスさまに持ってきました。イースターには、イエスさまの方から弟子達に、そして今を生きる私たちに3つの贈り物をくださいました。それは復活、昇天、聖霊、です。1.復活(1-10節)イエスが十字架で死なれたのは金曜日、次の土曜日は安息日のためにお墓の世話をすることができませんでした。そして日曜日、ここでいう週の初めの日、マグダラのマリヤがまだ暗いうちに墓に来ました。そこで墓の入口の石が取りのけてあるのを見つけました。ペテロとヨハネが墓に行くと、亜麻布が置いてあり、イエスの頭に巻かれていた布切れがはなれたところに巻かれたままになっていました。それらはもう必要なかったのです。弟子達は、それを見て信じました。イエスがよみがえられたことで、イエスは罪を贖って死んで終わり、ではなく、死に打ち勝ち永遠に生きる方となったのです。この日、天の父なる神さまが"It is finished.完了した(この世の全ての罪がイエスの死によってあがなわれた)"ことを「アーメン!(まさにそのとおり)」と言って受け入れてくださり、イエスを死からよみがえらせたのです。"復活"という贈り物によって、イエスにとって死が終わりでなかったように、イエスを信じ従う者にとっても死が終わりでないこと、確かに永遠の命があることを確信できるのです。イエスは今も生きておられるのです。2.昇天(11-18節)「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなた方の神のもとに上る。」イエスはマリアに、このように"わたしの兄弟たち(=弟子たち)に告げなさいと言われました。マリアは、イエスが生きておられることを知って喜んで弟子たちのところへ行きました。弟子たちを神の子であるイエスさまの"兄弟"と呼んでいるのです。これは弟子たち(イエスを信じる私たち)を神の家族、天の父の養子としてくださることを意味します。ヨハネ14:2-6には、イエスさまは父なる神さまの家に私たちの場所を用意してくださるとあります。私たちが実家に帰ると、3食、暖かいベッドが用意され、温かく迎えてくれる家族がいます。しかも、帰り際に請求書をもらうことはありません。全て"無料"です。ホテルの客ではないのです。同じように、イエスを信じる私たちにとって、天国こそが真の家、ふるさとで天に戻る時には快適な環境と温かい迎えが無料で用意されていて、永遠に神さま、イエスさまと家族として共に過ごすことができることがわかるのです。3.聖霊(19-22節)「平安があなたがたにあるように、父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21節)天国はクリスチャンにとって今すぐにでも行きたいすばらしい場所です。この世の辛い生活はやめてすぐに行きたい!と思ったりもします。けれど、私たちはその日まで忍耐をもって待ち、使命を全うするために遣わされています。今すぐにでも行きたい素晴らしい休暇の計画を忍耐をもって待ちながら、日々の仕事を行うように。私たちのこの地上に生きる使命は、主の栄光を表し、この世の暗闇を照らすためです。でも、一人ぼっちではありません。「聖霊を受けなさい。」(22節)聖霊が私たちの内側に贈られました。この贈り物によって、私たちは人生における目的を全うする力を得るのです。そのために聖霊に満たしてくださいと祈ります。そして、自分が本当に天の父なる神さまに属する者、神の子であると確信できるのです。十字架での罪の赦しも、永遠の命も、天に用意されている家も、私のものだと確信できるのです。-----イースターにはよく、子ども達がエッグハントをします。卵は、硬い殻(イエスさまのお墓の入口を覆っていた石)を打ち破って生まれ出る新しい命を象徴しています。私(たち)も復活にあずかり、天のふるさとを待ち望みつつ、いま遣わされている場所で精一杯生きてゆきます。1人ぼっちじゃありません。新しい年度が始まり、また新しい役割(継続も含む)や仕事が与えられています。その一つ一つ、今できるうちは精一杯取り組みたいと思います。まだ行かぬ道が困難なもののように見えますが、きっと、大丈夫。そう、思えます。ハレルヤ!ハレルヤ!Happy Easter!!
2007.04.08
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マタイ21:1-11より マクストン・エスター師今日はしゅろの日曜日、イエスさまが十字架にかかられる前にエルサレムに入られた日。インドでは聖技祭といってお祭、お祝いの日として興奮、喜びに包まれます。受難節の中にあってこのような興奮、お祭はふさわしくないようにも思われますが、イエスさまがエルサレムにはいられた時が、このような感じだったからなのでしょう。イエスさまがエルサレムに入られたときの人々の興奮、上着を脱ぎ道に敷く者、(しゅろの)木の枝を切って道に敷く者、ホサナと叫び、当時王のいなかったイスラエルにとって、まさに王を迎える方法で。ローマ兵を迎えた時もこのようにはしなかったのです。まずイエスは弟子をふたり使いに出して、ろばの子を連れてこさせます。イエスさまは一緒に行かれなかったのに、ろばがどこにいるか知っておられました。それが、まだ誰も乗ったことのないろばだと知っておられました(ルカ19:30)。ろばの飼い主が何と言うか知っておられました。そのイエスさまは、今も生きておられ、私たちが行くところに何があるか、何が起こるか、仕事や状況や困難にあっても、全て知っておられるのです。私たちが、そのうらにあるイエスさまの考えをわからなくても、イエスさまは私たちに、信じて従うことを望んでおられるのです。イエスがろばを入用だったのは聖書の預言の言葉(ゼカリヤ9:9)が成就するためでした。イエスはご自身について書かれてある預言を全て実現されました。弟子達は、イエスさまが何のためにエルサレムに行くのか知りませんでした(ヨハネ2:16)。イエスさまは、自分が十字架にかかり死にに行くことを知っておられたのです。求められていることは、イエスを信じて従うことです。私たちは、誰が私たちの将来を知っているのか、そしてその方は信じるに値する方だということを知っているのです。イエスがエルサレムに入られると、群集は興奮に包まれ、上着を道に敷き、木の枝を敷き、叫び、こぞって騒ぎたちました。当時、衣服作り単調な辛い仕事で、また高価でした。道も舗装されていない土と石の道です。実際この上着や木の枝の上を歩いたのは、このろばでした。ろばは一生に一度の賞賛を得たように感じたことでしょう。でもそれは、上に乗っておられるイエスのゆえのものでした。私たちも賞賛を受ける時、ちょっと考えてみる必要があります。それは自分の才能のゆえというよりも、私たちの内のイエスさまが賞賛されているのかもしれません。群集は興奮と喜びに満ちていました。私たちもイエスさまの栄光を見るとき、心が満たされます。十字架を見るとき、感謝します。復活を見るとき、喜びに満たされます。それは、イエスが共に生きていることを知っているからです。そしていつの日か御国で共に支配する日がくることを知っているからです。イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言いました。イエスは、4日後には弟子に裏切られ、見捨てられる事を知っていました。茨の冠も、背中への鞭も、手足に突き刺さる釘、十字架での死も全て知っておられました。それでもろばの背に留まり、私たちを気にかけるためにエルサレムに入いられました。神さまと私たちが関係をもち(修復し)、永遠の命を授けられ、共に支配する日が来るためにです。イエスさまを十字架につけたのは、釘というよりも私たちへの愛だったのです。-----イエスさまは、私の行く手を全てご存知です。ただ、信じて従うことを望んでおられるのです。これから、まだ行ったことのない道を行こうとしています。私には、主の計画がわかりません。大きな不安があります。けれど、イエスさまは全てご存知で、全ての状況を整えてくださっているはず。私にかけられたと思っている声は、私のうちのイエスさまへの声かもしれません。この子ろばのようにイエスさまを乗せてただ言われる道を歩んでいきたいと思えました。子ろばとして、使っていただければ幸いだと思えました。
2007.04.01
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1.モーセのデボーション(quiet time)はどのようなものであったか。(出エジプト記33章7-11節)エジプトから、奴隷であったイスラエルの民を連れ出した偉大な預言者モーセ。彼のデボーション(静かに神とふたりきりの時を持つ)はどんなだったでしょうか。彼は、宿営から離れたところに天幕を張って、そこへ神とふたりきりの静かな時を持つために行きました。ただ、神に会いに行きました。この天幕は、誰でも神に会いに行くことができました。当時天幕は2つあり、宿営の真ん中の会見の天幕というものもありました。この天幕には至聖所があり、司祭のみが入ることができ、儀式が行われていました。神殿の原型です。主はここで、顔と顔を合わせて(face to face)モーセと語られました。友と話すように、素顔の自分で。モーセはいつも同じ場所で、イスラエルのリーダーとしてではなく、ただの自分として神と親密に会っていたのです。2.モーセは神と何を話していたのか。(33章12-17節)エジプトからイスラエルの民を導き連れ出した、深い信仰の人であるモーセも、やはりひとりの人間でした。自身がなかったのです。そして、それを正直に、ストレートに、等身大の自分として神に話しました。モーセは神に「どうしたらあなたを知ることができるのでしょう。」と何度も何度も訊ねました。モーセは語り、神が語るのを待ち、聴きました。聖書(神の言葉)を知ることと神を感じることは、イコールではないのです。そして、安心して心を打ち明けられる場所が必要なのです。3.今、栄光を見せてください。(33章18-23節)モーセは主と顔と顔をあわせて話しているのに、神を感じていると思えなかったのです。人間は地上にいる限りは、完全に満たされることはないのです。モーセは地上に置いて最も神を体験できた人だと思われるのに、満たされなかったのです。それどころか、もっともっと、もっともっと神さまの臨在を体験したいと、強く思っていたのでしょう。クリスチャンになってしばらくは、神さまの臨在を感じ喜びに満たされた日々であっても、次第に神さまが感じられなくなる、といったことはないでしょうか。もっともっとしたい求めれば求めるほど、満足できなくなっていくのです。モーセの願いどおり、神は栄光を現されましたが、モーセ自身は神の手でおおわれ、うしろ姿を見ることが最大の体験でした。誰も「ここに行けば神を体験できる。」とは言えません。自ら会見の幕屋に言って話しなさい。そうすれば、神ご自身が示してくれるのです(21節)。失意の中にあったエリヤ(1列王記19章1-13節)は、モーセが神に会った神の山ホレブ(シナイ山)に行きました。そこで髪に合えると思ったのでしょう。ほら穴で一夜を過ごしていると、神はエリヤに「そこで何をしているのか。・・・外にでて、山の上で主の前に立て。」と言われました。ほら穴(自己憐憫、自信喪失)の中でも、神の声は聞こえます。しかし神を体験するには、そこから出なければならないのです。穴は自分で入り込んでしまうもので、奥は行き止まりです。しかしトンネル(試練)は神が与えられるもので、進んで行くと出口が用意されているのです。4.どんな風に神を体験したのか。(34章1-8節)神は言われました。「何も書いていない石の板を持ってきなさい。」主ご自身が書くから。私たちはいつも、自分の願い、祈りを紙に書いて持っていきがちです。けれど、何も書いていない石の板を持って行くということは「神さま、私に何を祈って欲しいですか。」と訊ねることなのです。私たちの多くは日曜の朝のみ神を感じるかもしれません。多くの民と一緒に神を礼拝することは大切なことです。でも、神とふたりきりで会い、何も書いていない石板を持っていくこともまた重要なのです。6-8節には、モーセが神の栄光を体験したことの要約、とても表現しきれないイメージが書かれてあります。これらは単なる文章、神の言葉ではなく、神の栄光の体験そのものなのです。祈り「自分の会見の幕屋(決まった場所、時間)が持てているかどうか、持てるように。 どうやったら神の栄光を体験できるか、直接ききましょう。」-----毎日の生活の中で、決まった"幕屋"を持つことは、忙しい中本当に求め意識しなければできないように思います。また、神さまの臨在を求めれば求めるほど満足できない、という一見矛盾のような事実の中に、信仰の成長の過程が表されているように思いました。私が今ある程度満足してしまっているのは、自分はいつも呼びかけている自己満足だったのではないか、静まって神さまが語るのを聴き、あるいは神さまの臨在をもっと肌で感じたいと熱望していたとは言えないのかもしれません。また、白紙の"石板"を持っていくということ、"神様が自分に何を祈って欲しいかを黙って聴く"という姿勢は、私にとって新たな発想でした。
2007.03.28
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エレミヤ書17:5-14節よりクリスチャンにとって受難節は霊的なチェックをする期間です。ヨハネ10:9-11には「わたしは門です。誰でも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。・・・わたしがきたのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしはよい牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」とあります。信仰をもつこと、信仰を守り続けることは大切です。それは信仰のみによって救われることで、信仰を守り神様の前に真実であり続けることです。毎日イエスさまを主として信頼し続け、緑の牧草を味わうのです。もっと青々とした、もっと茂った牧草を。神さまは約2000年も前にイエスの贖いによって罪を赦されました。今日、その神さまが私たちを心に留め、面倒を見てくださっています。霊的な面だけでなく物質的な面もです。どちらかだけではないのです。どちらも私たちにとって"必要"なものだからです。自分の中で、この部分においては、神さまではなく自分の力を頼みとするということがありがちです。あるいは、配偶者、友人、物、本、テレビ、インターネット、アルコールなどを頼みとしがちです。それは、神に背を向けること、心が神さまから引き、離れていることなのです。神さまを信頼するか、しないか、2つに1つ、どちらかなのです。「人間に信頼し肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」(5節)人間に信頼する者は、神さまからの祝福を受けられません。「主に信頼し、主を頼みとするものに祝福があるように」(7節)と、対比させて書かれています。こうなりたいと思うなら、なれるのです。主は備え主、癒し主、助言者、慰めであり、喜びです。物質的、霊的、感情的全てに主に信頼を置くなら、「その人は、水のほとりに植わわった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、はは茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(7-8節)イスラエルの地は乾燥した地です。水がないということは"死"を意味します。この"流れ"は決して根に水を押し付けることはしません。水を求め、根を伸ばすかどうかは、木の石にかかっているのです。でもその流れ(水)は、見つけるのが難しいわけではありません。「神に近づきなさい、そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)神さまは、いつも何度も見つけられることを望んでおられます。根を伸ばし神さまを信頼するなら、人生に恐れがなくなります。主の命の水が葉を茂らせ、実を結び続けます。そして、全ての考えにまさる平安が与えられます。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(9節)陰険とは、原語で偽りとか騙すという意味だそうです。世の中には、「自分の夢を求め続ければ夢はかなうよ。」というロマンチックな考え方があります。聖書は現実的です。神さまの助言を無視し続けるなら、困難に陥るとしています。「『わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。』しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得るものがある。彼の一生の半ばで、時が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」(10-11節)しゃこの例はたとえ話で、自分で産まなかった卵(自分の夢、心=陰険)を抱いたとしても孵った雛は飛び去ってしまうということです。正しいとは限らない、人の夢を追っても、最終的には全てを失うことがあるのです。一時的な楽しさや夢による、望まない妊娠、不倫、アルコールなどもその例でしょう。家族や仕事など失うものは大きいのです。「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。」(14節)癒されると、よりよい視野で自分や人生を見ることができます。(マタイ6:22-23)そうするとより良い選択ができるようになるのです。根を伸ばし、水を求めてください。祈り、賛美、聖書によって神さまとつながれ、近づいてください。主に従い、行い、実践するなら、よりよい選択をすることが出来るのです。
2007.03.11
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1テサロニケ人への手紙2章1-16節 エスター・マクストン師使徒パウロはテサロニケへ向かう前にピリピで鞭打たれ、牢に入れられるような目に合ったのでした(使徒16章)。パウロはこの手紙で、激しい苦闘の中でも大胆に福音を伝える彼自身の動機について、また彼ら(テサロニケの人々)の中でどう生きたのかを綴っています。1.純粋な福音を語る(1-4節)私たちは神に認められて福音を委ねられている者です。御言葉は力強いので(へブル4:12)飾り立てる必要はなく、聖霊によって働きます。御言葉を自分の権威や力のために捻じ曲げることは、罪であり災難を招くのです。その焦点は私ではなく、キリストの救いなのです。2.責められるところのない生き方をする(5-6、9-10節)福音を言葉で述べるだけではなく、生き方によって、説教を実践することによって伝えます。人生によって福音を伝えるのです。ある人が牧師に尋ねました。「隣人が間違った福音を持っているのですが、どんな書物を読ませたらいいでしょうか?」牧師は少し考えて答えました。「あなたの人生を読み聞かせたらいかがですか。」私たちの人生の目的は、神を喜ばせることです。これは、人に対して無礼にするという意味ではありません。人に好かれるために信仰を妥協するわけではないということです。そして、人が私たちが表すものを通して、イエスさまを好きになることを喜ぶことです。(エスターが)子供のころ、兄弟揃って父に連れられて様々な人と会う機会がありました。人々は父に「なんて行儀のいい子ども達なんだ。」と言いました。父は「家に来てごらん、本当の彼らがわかるから。」イエスさまが私たちを通して輝いているなら、こんなことはなく、家の中でも外でも同じ振舞いをするのです。3.他の人を思いやる(7-8、11-12節)義の生き方は大切です。でもそこに愛がなければno use意味がないのです。神さまへの愛は、人々に対して「天国で共に賛美したい。」という愛の思いを生み出します。そして、他の人に対する柔和な心を生み出します。クリスチャンが、定期的に親しい交わりを持つことで、心の中の信仰の炎を燃やし、苦しみに合う時に互いに励まし合い、慰め合えるのです。4.全ての状況で神さまを信頼する(13-16節)実際にあった話です。あるひどい嵐の夜、豪雨と暴風の中一本の電車が速いスピードで走っていました。強風のため車両はがたがた揺れ、線路には水が上がってきていました。乗客はみな恐れ騒いでいました。と、1人の乗客が、静かに座って本を読んでいる女の子に気付きました。彼は女の子に尋ねました。「怖くないの?」女の子は答えました。「怖くないよ。だって、お父さんが造ったんだもの、脱線するわけないよ。」私たちの父なる神さまに対する信頼があれば、どのような状況でも冷静さと自信を保つことができるのです。また、私たちをではなく神さまを信頼するように教えます。それは、彼らが苦しみに会うときに、彼らが堅く立ち続ける事ができるためです。クリスチャンとして人生を歩むとは、人生を通して神さまに栄光を返すことです。そのために、今日学んだ4つの点が大切なのです。
2007.03.04
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使徒の働き4章1-13節より サム・マクギオン師使徒の働き3章ではペテロとヨハネがイエスの名によって足なえの人を癒しました。人々は驚き、あきれたとあります。4章1-4節で、彼らによる御言葉を聞いた人々がみんな喜んだ訳ではなかったのです。ペテロとヨハネは捕らえられ、翌日には大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデスたち―彼らこそイエスを十字架につける決断をした人々―が使徒たちを尋問しだしました。使徒たち、つまり初代教会のリーダーの危機です。ペテロはイエスが捉えられた時、3度も「知らない」と言ってしまった人です。彼らは、命の保障さえない状況で「もう、このようなことはしません」と言いgive upしてしまいたいという誘惑があったことでしょう。でも、それはすなわち"教会の死"を意味するのです。この危機的状況の中で、彼らはどうしたのでしょう。1.聖霊に満たされ(8-12節)勇気とキリストと共にいることを表した(13節)。ペテロは聖霊に満たされ、大胆に語りました。聖霊による洗礼は完全で1回限りのものです。でもいつも聖霊に満たされている訳ではありません。だからこそ、満たされ続けなさい、と聖書に何度も書かれてあるのです。使徒の働き2:4や4:8にも「聖霊に満たされた」と書かれてあります。聖霊の満たしは感情的な異言や歌って踊るようなことを意味するのではありません。"わたし"の内にある霊、心、思いなどすべてが、自己や酒やこの世の価値観ではなく、神で満たされていることなのです。ペテロとヨハネの大胆さ、勇気は私たちにとっても必要なことです。家庭で、職場で、また街で出会う見知らぬ人に対して。彼ら自身がイエスと共にいてイエスに似るものであることを表していました。2.人々の頑なな心のために準備する(14節)癒された人がふたりと一緒にいるのを見て、ふたりの言っていることの証拠、現実を目の当たりにし、否定できませんでした。尋問した人たちは悔い改める必要がありました。けれど、彼らは"信じないこと"を選んだのです。3.結果がどういうことになろうとも、神様への誠実を守る(18-20節)「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない。」と命じられたペテロとヨハネは「神に聴き従うより、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」と答え、神に従うことを選びました。これは"死"をも覚悟した行動でした。このような最悪の状況の中でも、神さまは働いておられ、ふたりは釈放され、罰することはされませんでした。皆のものが、この出来事によって神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったのです。4.大胆になる(23-31節)釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、このことを聞いた人々はみな、心を一つにして言いました。「主よ、あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です!」彼らの自身の源は、天と地と海とその中のものすべてを造った神にありました。「あなたの指の技である天を見、あなたが整えられた月や星をみますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:3-4)どれほど大きな方が、どれほど私たちのことを気にかけておられることか。雀の一羽さえ父なる神の許しがなければ地に落ちず、私たちの頭の毛さえもみな数えられているのです(マタイ10:29-30)。「神さま、わたしを愛している?」なんて問いたくなるかもしれませんが、それは愚かな質問なのです。「もちろん!あなたを愛しているよ。」神さまを拒むことができる人々がいると、神さまは聖霊によってダビデの口を通して言われています。(詩篇2:1-2)彼らは、神さまの御手と御心によって、あらかじめ定められたこと(イエスを捕らえ十字架につけたこと)を行ったのでした。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべ達にみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」もっと問題を抱えることになるにも拘らず、こう、彼らは祈りました。いとどうは聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語りだしたのです。-----初代教会の危機にあってのペテロとヨハネの行動を見つめていくと、教会のみならず、私個人の日常にも大なり小なり当てはまることがあるようです。私たち一人一人のからだは、私たちの内に住まれる、神から受けた聖霊の宮です(1コリント6:19)。私たちが自分の都合の悪いような状況にあっても、天と地と海とその中のすべてのものを造られた神さまに愛されていることに信頼をおき、大胆に信仰を表すことができるように、助けてください。そんな風に思いました。
2007.02.25
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1列王記19章1-13節よりこの箇所は、霊的成長にとって重要な箇所として知られ、また美しく難解な箇所として様々な理解があります。18節は、預言者エリヤの神が本当の神か偽預言者の神バアルが本当の神か、壮絶な戦いが繰り広げられ、エリアの神が勝利した箇所です。ところが、エリアは命を狙われる羽目になりました。(1-2節)今日の箇所の後、14節以降では、主はエリアに「後のことはわたしに任せなさい。」と言われました。偉大な預言者エリヤは熱心に神に仕え、その働きをし、情熱的な信仰を持っていました。その分、自分の働きの成果が出ていない、形となっていないと感じる時、落ち込みが激しかったのかもしれません。この箇所は、自分の働きミニストリー(働き、祈り)が形になっていないなと感じる時に読むといい箇所です。3節では、エリアは1人になって荒野へはいっていきました。でも、これは間違った行動だったのです。落ち込んでいる時に1人になると、もっと落ち込んでしまいがちだというのです。4節では、彼は死にたいとさえ思いました。自分で命を絶つことは罪ですが、そう感じること自体は罪ではありません。5-6節で、御使いが彼のところにやってきて彼に触れ「起きて、食べなさい。」と言いました。これは出エジプト記16章4節の天からのパン(マナ)を思い起こさせるものです。神さまは、エジプトでの奴隷生活からイスラエルの民を解放し、約束の地への荒野の旅の間、毎日1日分の天からのマナを与え、民を養ったのです。霊的にふさぎ込むとき、神さまは私たちの頭の上にパン菓子を置いてくださっています。私たちは顔の向きを変えてそれを探さなくてはなりません。エリヤが望んだり求めたわけではないのに、パン菓子をすぐそばにおいて下さる、神さまはそんな方なのです。マナのために働かなくてもいいよ、でも落ち込んだまま横になっていてはいけないよ、と言われるのです。霊的な落ち込みを体験するとき、私たちは自分の力で這い上がれないことがあります。そのようなときでも、神さまご自身が私たちのところにきてくださり、マナを置いてくださるのです。霊的な落ち込みとは、心からの賛美、礼拝ができないような時、思い当たる原因がなかったりあるいは祈りが聴かれていないと感じるような時に覚えます。疲れや渇きを覚え、暗闇にいるように感じるのです。そのような時でも、私たちも注意して探すと手の届くところにパン菓子が置かれているのです。6節を見ると、霊的な疲れは一夜で癒されるものではない、回復に時間がかかることがわかります。7節でもう一度御使いが来られ、エリヤをさわります。私たちも疲れているときには、主にさわってもらうことを味わう必要があります。8節でエリヤはこの食べものに力を得て、40日40夜歩いて神の山につきました。「落ち込み体験」というのは、"ある"のです。けれど、そこに居続けていてはいけません。モーセに次ぐ偉大な預言者であると言われるエリヤでさえこのような落ち込み体験をしたのです。私たちが落ち込みを感じることは不思議なことではないのです。霊的落ち込みには「神を愛し、霊的に成長したい」という思いがあるのです。霊的に病んでいる状態(神から離れても平気だと思うような)とは違うのです。9-13節は、聖書の中でも非常に謎めいていて美しい箇所です。神の山で、主が共におられるのに、主は2回もこう尋ねます、おそらく穏やかな慈愛に満ちた声だったのでしょう。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」主は、エリヤを責めるのではなく「わたしに何を求めるのか。」「自分の思いを成そうとしているのか、主の思いを成そうとしているのか。」と尋ねられたのでしょう。エリヤは「こんなに頑張ってきたのです。私は私の役割を果たしたのです。神さまは神さまの役割を果たしていないじゃないですか。だから私は失望したのです。主を愛しているのは自分ひとりなんです。」という思いがあったのでしょう。「主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(11節)ドラマチックな出来事(revival)の中にいつも主が居られるとは限らないのです。多くの場合「細いかすかな声」で、確かに働いておられることを、この箇所で示しているのです。私たちも自分の祈りや働きに対して、ともすれば劇的な変化、自分の思うような反応が見たいと思いがちです。私たちのイメージしたような変化が見られないと、神さまは働かれていないと感じます。でも、そのような明らかな結果が見えなくても神さまはかすかな細い声で囁き、働き続けておられるのです。私たちの霊的形成、成長においても、この「かすかな細い声」に耳を傾けることができるかどうかが大切です。それには"静けさ"が必要です。"奇跡"によって人の人生が変えられるとは思えません。本当の力は"御言葉"にあるのです。それはある意味、神さまの憐れみとも言えます。御技(奇跡)を見たにもかかわらず悔い改めないのなら、裁きの日に厳しく裁かれるからです。私たちが、静まり、「かすかな細い声」に耳を傾けるなら、自分の働き(ミニストリー)の像と神さまの持っている像が一致してくるのです。祈り「どのようにすれば、もっと神さまとの時間を持てるようになるか思い巡らしましょう。もしかしたら、何かを捨て去らなくてはならないかもしれません。」霊的形成、成長において、"ただ、静まる"ことはとても大切です。神さまの愛に満たされる時間を持つといいでしょう。-----週明け、少し落ち込んでいました。霊的だか、感情的だか、両方だか。罪の性質をこんなにも持ちやすい自分というものを目の当たりにしました。でもすぐに、パン(聖書の中で心に残った御言葉、賛美集会、聖書の学びの機会)が与えられ、再び元気になりました。今回は、早い回復!今日から受難節。自らの罪の性質を御霊に探っていただき、悔い改め、イエス・キリストによる贖いが必要な罪人、弱い自分だと認識します。静まる時を、ただ静まる時を持ちたいと思います。
2007.02.21
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ピリピ人への手紙4章2-9節より。子どもは1日中家でじっとしていることはできません。好む好まざるに関わらず、必然的に親も外に出ることになります。子どもは色々なものに興味を示すので、ちょっと自転車を停めて草花を観ます。色とりどりに美しく、生き生きしており、心が安らぎます。自分の心の中もそんな風であればいいなと思います。けれども実際は、不安や心配事でいっぱいで、ラッシュアワーの高速道路のようなこともあります。高速道路というのは、たくさんの重みに耐える目的で造られています。心の中に高速道路を造りたいですか、それとも花いっぱいの庭を造りたいですか?庭造りは、素人でもわかるように大変な作業です。草を抜き、石ころを取り除き、耕し、土を整え、良い種をまきます。心の中に花園を造り神の平安の花を咲かせたいなら、心の中もそのようにする必要があります。神の平安を味わう(体験する)ために、心を整える必要があるのです。今日はそのための3つの方法を見ていきましょう。(2-3節)「あなたがたは、主にあって一致してください。・・・彼女達を助けてやってください。」ピリピの教会には2人の女性の間で不和があったようです。それが教会全体に影響をもたらしていたのでしょう。この2人はお互いに愛し合うことを拒んでいたので、平安がなかったのです。愛のないところに平安はありません。私たちが神さまから受けている無条件の愛を、他の人に同じように与えることを拒んでいると、神さまと私たちの間の平安もないのです。時には、厳しいことを言って波風を立てなくてはならないときもあるでしょう。そのときも愛と自制心を持つべきなのです。恨むこと、挨拶を交わさないこと、目を合わせないこと、これらのことは、せっかく心に咲いている神の平安を枯らせることになるのです。人を恨み続けることを拒み、人に愛を示しましょう。祈り「今、私の心の中に、苦々しい思いを抱いている人がいないでしょうか。」(4-7節)「いつも主にあって喜びなさい。・・・何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」神の平安が瞬間的なものではなくて、留まってほしいと思いませんか。それには主の愛と力に目を留めなければなりません。神さまがこれまでに、そして今も、私たちに示して下さっている愛と憐れみ、それらを具体的に思い出すことで、無理やりではなく、人工的ではなく、真に喜ぶことができます。今置かれている状況のすべてが悪いわけではないことに気づきます。そして、周りの人にも同じ新設を示すなら、神さまの平安が私たちにやってきます。そうすることで私たちは、常に怒ったり他の人に苛立ちを覚えたりすることから守られるのです。イエスさまが再び戻ってこられ、いずれこの困難、悲しみ、痛みが永遠に過ぎ去ることを思い出すなら、心配事の大半は取るに足りないものとなり、神さまの平安が私たちにやってきます。「何も思い煩わないで」原語では"進行形"の意味だそうです。思い煩ったまま、続けていては、神さまに目を留め、主を信頼することを拒むことになるのです。心配するだけでなく感謝をもって祈るとき、ストレス、悩み、心配を主に委ねるなら、神さまの平安が私たちにやってきます。ストレス、悩み、心配そのものは罪ではないけれど、平安を奪い、そのままにしておくと罪に至ります。祈り「今、私の平安を奪おうとしているものは何でしょうか。」(8-9節)「・・・すべての真実なこと・・・誉れあること・・・正しいこと・・・清いこと・・・愛すべきこと、評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば・・・心に留めなさい。・・・学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方とともにいてくださいます。」聖霊の力によって私たちが、罪深い否定的なゴミのような考えを、毎日頭の中から意識的に取り除き、純粋で愛と真に満ちたことに思いを留めるなら、神さまの平安は私たちにやってきます。マルチン・ルターが言いました。「頭の上を鳥が飛ぶのをやめさせることはできないが、頭に巣を作らせないようにすることはできる。」と。良いものを取り入れて悪いものを取り除くのです。ゴミを取り除きよい種を蒔くのです。御言葉に聞き従うなら、神様の平安が私たちにやってきます。私たちは御心に従うことによって神に対する愛を示します。主は自分を愛するものを喜ばれ、そのものと共にいてくださるからです。(ヨハネ14:15,23-24)-----私の心の中にも神さまの平安の花がいっぱい咲くように、ゴミや石ころを取り除き、耕し、良い種を蒔こう。ゴミ、落ちてないかな。石ころ、埋まっていないかな。
2007.02.18
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1コリントへの手紙 13:1-13キリスト教の暦では、来週2月21日からイースター(復活祭)までの約7週間の受難節が始まります。この期間はイエスキリストが十字架につけられたということを思い巡らし、ゆっくりと生活し、祈り、自分の内側を吟味するのです。ちょうど人間ドッグで身体の隅々まで点検するように、心と魂の点検を行い、Dr.Jesusによる霊的健康のためのアドバイスを受けるのです。イースターまでの数週間にわたって、聖霊の実(ガラテヤ5:22)についてメッセージをします。バレンタインデーのある今週はなんといっても"愛"についてでしょう。今日の聖書箇所は、聖書の中でもっとも有名な箇所の一つであり、愛について的確に書かれてあるところです。愛についてのふたつの質問について見ていきましょう。Q1.なぜ愛が、私たちの霊的生活の真髄であるとされるのでしょうか?A1-1.愛がなくては、何をしても神の前には何の値打ちもないからです(1-3節)。この著者であるパウロは、永遠の"救い"について言っているのではなく、"(クリスチャンはイエスの弟子としての)霊的な成長"について言っています。この手紙を受け取ったコリントのクリスチャン達は、熱心に異言をしたり預言をしたり、また完全な信仰をもち、聖書のことも隅々まで知ることなどに熱心でした。けれど、霊的に赤ちゃんのよう(成長していない)で真の愛が育っていなかったのです(3章)。愛がなければ、これらの素晴らしい行いも、神の前には"永遠に価値あるものは何もない"のです。これは、個人に対しても、教会全体に対しても言われていることです。イエスさまのministry(働き)は愛で始まり、愛で実践し、愛で終わるのです。私たちがクリスチャンとしての歩みに真の価値を与えたいなら、神と他の人に対する愛こそが土台となるべきなのです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37-40)A1-2.人生において、私たちが唯一、神と他の人に対して持ちうる完全で永遠なることは愛だからです(8-13節)。キリストが戻られる時、霊的な賜物、ミニストリー訓練は終わりとなります(8-10節)。それらはもはやでなくなるのです(12節)。唯一、愛だけが耐えることがありません(8節)天で唯一私たちに問われることは「あなたは、神を愛したか。あなたは、わたしがあなたの周りに置いた人々を愛したか。」なのです。「あなたは異言をしたか。」とか「あなたは預言をしたか。」とか「あなたは聖書の隅々までよく知っていたか。」ということではないのです。「神は愛です。」(1ヨハネ4:16)だから、私たちが愛を示す時に最も神に似るものとなります。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13節)愛は、霊的成熟を最も表す真のテストであるといえるでしょう(11節)。Q2.私たちの内側に、他の人に対するキリストの愛が育っていることを、どのようにすれば知ることができるでしょうか?A2-1.自分自身の"必要"よりも、他の人の"必要"を思いやるようになります(4-6節)。「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。(尊厳と敬意をもって対応する)」(4-6節)弱い人や未熟な人を受け入れ、傷ついている人やself imageの低い人を思いやり、全てのよきものは神から来るものだと、一緒に喜び、また謙虚になります。自分のやりたいことを押し付けず、イライラせず、尊厳と敬意をもって対応します。愛とは○○だと言い切れるものではありません。たくさんのキリストの性質が組み合わされたものです。本当の愛は、周りの人を輝かせるものです。A2-2.自分を傷つけるものとよりよい関係を心から求めるようになります(7節)。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(7節)本当の愛は、嫌いな人、付き合うのが難しい人、傷つけられた人との間においてこそテストされます。「赦さない権利を放棄」するのです。それは自分が既に赦された者だからです。傷つけられた痛みに耐え、自分を傷つける人の中にも良いところがあると信じ、その人が悔い改めヘ導かれることを期待し、その人のために祈り、聖霊が働くように祈ります。その結果、自分が変えられるかもしれません。そして引き続く痛みを耐え忍びます。聖霊がこれらを助けてくれます。これらの16の例は、受難節に心の中を吟味するのによい助けとなるでしょう。しばらく心の中を探り、祈る時を持ちましょう。-----ここ数年間、身近な人の言動に戸惑い、傷つき、腹が立ち、イライラすることが多くありました。その辛い年月の間に、「それでも、彼らを愛しなさい。」と言われていたことがわかりました。辛い、辛い、と思っていたけれど、聖霊なる神さまは確実にわたしの心の中に働かれ、私自身、そして周りの人たちの心でさえも変えてこられたことを、今はっきりと確信しています。これらのことを通して、神様は"愛"を私の中に育ててくださっています。そう思えると、辛かったことが(決して終わってはいないのですが)感謝の想いに変えられ、辛さも以前ほど感じなくなっていることに気付きます。全く、不思議なことです。自分の力ではありません。「わたし(神さま)は、あなたを愛している。そして、あなたが彼らを愛することを求めているのだよ。」こう、温かな声で語られているように感じます。(何となく、ではなく、実感として)「そんなことできません!」と泣きついた時もありましたが、今は「わかりました。だから、そのようにできるように、どうぞ助けてください。」と応えます。
2007.02.11
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最近の礼拝を通して、「礼拝は捧げもの」ということを学んできた。「礼拝は捧げもの」というのは、神さまが主役。私たちは自分の宝箱を開けて最高のプレゼントを捧げるものだという。精神的に疲れているから癒されに行くとか、賛美をすると心がスカッとするからとか、メッセージを聞いて励まされたいとか、他のクリスチャンに話を聴いてもらいたいなどという動機で礼拝に行くのなら、それはちょっと違う、自分が主役になっているということに目から鱗が落ちたようだった。私自身も「行かなければやってられない」という自己中心的な思いのときが多かったように思う。もちろん礼拝に出席した結果、それらのことが与えられることが多い。けれど、それがもともとの目的ではないのだ。礼拝で自分が何かを受けたい、もらいたいと思いがち。それはなぜだろう。毎日の生活で十分に受けていることを味わい、感謝していれば、日曜日には捧げることができるんじゃないかな。毎日いっぱいいっぱいの我慢の生活をしていると、日曜日の礼拝では、そのときぐらいは受けたいと思うのでは。こんな話が出てきて、なるほどと思った。では、最高の贈り物って、何だろう。自分には何も神さまに贈るようなものを持っていないように感じることがある。でも、最高のプレゼントは時間だ、たとえ何か物を選ぶにしても、相手のことを想いながら考え選ぶ時間こそが尊いのだと、ある本に書いてあるのだそうだ。「礼拝は捧げもの」という意識を持つだけで何かが変わっていくように思う。できることを探しながら。
2007.01.30
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第二ペテロの手紙1:1-13クリスチャンの中には、自らの信仰生活に満足してしまっている人もいれば、そうでない人もいる。どうしてだろうか。これはペテロ自身も抱えていた問題であった。そして、同じ信仰をもつ兄弟を励ますためにこの手紙を書き送った。人生を振り返って神さまが今までに自分にしてくださったことを思い起こす人は霊的成長があるけれど、それを忘れてしまう人はあまり成長しない。「思い出す」ことは、ペテロにとってとても大切なことだった。今までの経済的危機にはいつも必要を満たしていただいた。自分の過去の罪をすべて贖うために、イエスさまを送ってくださった神の愛を思い起こすと、感謝で溢れ、神をもっと知りたい、愛を捧げたいと思うようになる。過去において神がいかに約束を真実に守ってくださったのかを思い起こすこと。ペテロやヨハネは確かに深い信仰をもっていた人たちだったが、それと"同じ尊い信仰を受けた方々へ"(1節)書き送っている。世にある欲のもたらす滅びを免れ(4節)ることからはじまり、神様を深く知ることによって(私たちが救われた目的その1)いのちと敬虔に関する全てのことを私たちに与えられる。嫌いな人を赦したり、困難な状況にあって喜びを見出すことなど、自分の力では出来ない、神から受けなければ出来ないことができるようになる。神を知る時に、これらのことが惜しみなく与えられる。それは、神の性質にあずかる者となるため(救われた目的その2)。神さまは、私たちが神さまと生き生きとした交わりを楽しむようになることを望んでおられる(4節)。心の平安を得るために悔い改めの祈りをしたり、喜びを感じるために賛美することがあると思う。それらは、自分のためのことであって、ちょっと違う。いのちのパンであるイエスさまを味わい、神の性質にあずかる者となると、その結果として平安や喜びが与えられる。全て主のため、主が望むこと。もともと罪のあった私たちは、"赦された罪人"である。罪から解放され、神さまと親しく交わりを持つことを、神さまは望んでおられる。油と水が混じり合わないように、光(神)と闇(罪)は混じらない。イエスさまのようになることでしか神さまを楽しめない。霊的生活は信仰を出発点とし、愛が最終地点である。その間にいくつかの段階がある。信仰には得(高い道徳心、正しいことを知って行おうとする)を、得には知識(神さまを体験し個人的に知ること)を、知識には自制(間違ったことを知って行わないこと)を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔(個人的な聖さ)を、敬虔には兄弟愛(同じ信仰をもつ人たちとの交わりに甘味を感じるなら、見えない神との関係にも甘味を見出す)を、兄弟愛には愛(隣人への)を、あらゆる努力をして加えなさいとペテロはすすめている。努力といっても独りで頑張るのではなく、聖霊との共同作業を行っていく。内側の霊的生活(深く神さまを楽しむこと)に外側の霊的生活(豊かに実を結ぶ)も伴う、両方が大切。霊的にもっと成長させたいと思う人たちは、いつも自分の以前の罪がきよめられたことを覚えていて、いつも感謝し、喜び溢れ、もっと祈り、賛美をする。そうではない人は、以前の罪がきよめられたことを忘れてしまっている(9節)。「あなたがたの召されたことと選ばれた事を確かなものとしなさい。」(10節)永遠の命への希望をいつも持っている(救われた目的その3)ために、過去の、救われた時の自分の決意だけでなく、今どのように歩んでいるかをも確かめてみよう。「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」(11節)神さまはこれらの目的、神様を深く知ること、神の性質にあずかる者(イエスさまのように)なること、永遠の命への希望を持つこと、真の喜び持つことのために、私たちを救って(選び召して)くださったのです。
2007.01.28
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クリスチャン生活における霊的形成の過程にそぐい、例えられる箇所があります。★出エジプト記15:22-27 イスラエルの民がエジプトを出て約束の地への40年間の1ヶ月目エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出し、エジプト兵に追われつつも紅海を無事に渡り、奴隷から解放され、神に賛美を捧げた直後の話です。この喜びは、私たちが罪の奴隷から解放されクリスチャンとなってすぐの喜びと似ています。ところが、荒野を歩いているとき3日間水がなく、たどり着いたマラという地の水は苦くて飲めませんでした。クリスチャンライフも、思ったより苦いものに感じられるのです。イエスキリストの救いを知らなかったときの喜びと、クリスチャンになってからの喜びは、違います。この時期はその過渡期にあるのです。ささやかな喜びを見出すことが難しいのです。イスラエルの民も飲食に不自由しなかったエジプト(奴隷生活)に戻りたいとさえ思ったでしょう。同様に私たちもクリスチャンでなかった頃に戻りたいと思うこともあります。けれど、なぜエジプトに戻らなかったのでしょうか。なぜ、クリスチャンを辞めなかったのでしょうか。(それぞれの理由があると思います。)以前は罪を犯すようなことが楽しかったのです。朝少し早く起きて聖書を読む楽しさと、友人と飲み食いしてはしゃぐ楽しさは、違うのです。24節では、民はモーセにつぶやいて(愚痴を言って)います。「こんな苦い水は飲めない。」するとモーセは神に叫び、新しい水を楽しむことが出来るように、変えられたのです。古い習慣から新しい習慣に変えられていくのです。単に変えられただけではなく、魂がそれを欲し、甘さを見出しているのです。真っ二つに割れた紅海を渡るだけでなく、主に従い、耳を傾け、守るなら「わたしは主、あなたをいやす。」(26節)と仰せられました。27節では12の水の泉と70本のナツメヤシの木のあるオアシスがちゃんと用意されていることが書かれてあります。喜びrejoiceは、訓練して学ばなければ身につかないのです。しばしの休息です。★出エジプト記16:1-8 2ヶ月目オアシスを発ちシンの荒野にはいった民は、口々につぶやいています。「エジプトにいたらよかった。」「エジプトで死んでいたらよかった。」「この全集団を飢え死にさせようとしているのか。」エジプトにおいての奴隷生活がいかに辛く過酷だったかを忘れているのです。クリスチャンになる前は虚しさ、辛さを酒や人間関係などによって忘れようと、満たそうとしていたことを。主は仰せられた。「わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。」主が毎日、新しいパン(食べもの・御言葉)を与えてくださる。それを喜んで食べることを学び、練習するのです。霊にとって悪い食べ物によって病み、よい食べものによって元気になるのです。★民数記11:4-9 39年目、約束の地が与えられるまであと少し相変わらずエジプトの食べものを懐かしむ思いは彼らの内に来ます。けれど、マナ(天からのパン)を楽しむことを覚えました。一見、味気のないマナの喜びを見出すことが出来るようになってきました。マルチン・ルターがこう言いました。「鳥が空を飛ぶのを止めることは出来ない。けれど、頭の上に巣を作らせないことはできる。」気分の高揚を得るための賛美やカリスマ的なものに対する陶酔(ニンニクや玉葱などの刺激のある食べもの)は、現実逃避でright reasonではありません。マナを喜ぶとは、問題に取り組みたいと思っていること、問題が示されていることを喜ぶこと、問題から自由にされていることを喜ぶことです。★ヨハネ6:31-35,41イエスさまご自身がマナ(いのちのパン)であると言われました。罪の告白をするのは、賛美するのは、聖書を読むのは、マナを食べたい(神さまとの関係を求めたい)からです。祈り「主の力によって、苦い水の中に甘さを見出すことが出きるように。」 「ほんとうのマナ(いのちのパン、イエスキリスト)に出会うためにクリスチャンとして歩んでいるかどうかを示していただくように。」
2007.01.24
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ヨハネによる福音書、7章53節~8章11節クリスチャンは二つの悲しい問題を持つ傾向があります。ひとつは、自分を高くしすぎて他人を裁くこと。もうひとつは、自分を低くしすぎて罪悪感を抱くこと。バランスよく、そのふたつの間にとどまるには、自分が"赦された""罪人"であることを覚えていることが必要なのです。赦されたということを覚えているなら、自分を必要以上に低くすることもないし、罪人であることを覚えているなら、自分を高く持ち上げることもありません。自分の過去現在未来の罪をも十字架によって赦されていることを覚え感謝して主を見上げることができます。ここでは姦淫の場で捉えられた女が、イエスを試みようとしていた律法学者とパリサイ人によって連れて来られました。人は、他人の問題に気付きながらも自分の中の同じ問題に気づかないことがよくあります。また、気付いていても同じ問題を持つ人に厳しくなりがちです。姦淫の場には相手の男性も居たはずなのに、奇妙なことに連れて来られたのは女性だけでした。モーセの律法(申命記22:22)によると、ふたりとも死ななければならない(罰を受けなければならない)とされているのです。明らかに彼らは自分自身は聖いと信じ、男性ではなく女性の性的な罪に対して歪んだ基準(double standard)を持っていました。イエスは「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)と、彼らの偽善を指摘しました。彼らは一人一人去っていきました。(9節)イエスは、女が連れて来られた時、指で地面に書いておられました。(6節)聖書の中で「指で記す」ことが書いてあるのは、主(神)がご自身の指によって(モーセに与えられた)十戒を石に記された箇所(主ツエジプト記31:18、32:16)とこの箇所だけです。ここで、イエスの神格を表しており、イエスがこの女(と私たち)の罪を赦す権威(律法の著者)を持っていることを表すのです。イエスは地面に何を書いていたのでしょう。推測ですが、十戒を書いていたのかもしれません。それも、その全部ではなく姦淫の罪についての箇所を書いていたのかもしれません。あるいは律法の箇所(申命記22:22)を書いていたのかもしれません。いずれにせよ、律法学者やパリサイ人たちは自らの罪(おそらくは姦淫の罪)を自覚し、女を石うちにすることが出来なくなったのです。英語では「あなたが誰かを指差すときには、誰かの3本指に指される。」という表現があります。私たちは赦された罪人であり、神の赦しが必要な存在であることを覚えましょう。そうすることで、常に感謝の思いと謙虚さを保ち、周りの人を裁く思いから守られるのです。これはひとつのチャレンジで、赦しを求めるなら(裁く)権利を放棄しなくてはならないのです。誰にも石を投げられることのなかった女にイエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)これは私たちへの言葉でもあります。聖い生き方を始める前に、彼女に赦しを与えられたのです。同じように私たちも、個人的な聖さを求める旅を始める前に主の憐れみによって赦された者であることを確信することが最初のステップなのです。その後の歩みがどんなものであっても、イエスさまの約束に変わりはないのです。
2007.01.07
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ルカ2章21-41節より今年一年ずっと祈ってきたことがあることでしょう。ずっと主の働きを待てきたこと、今この瞬間も主の働きを待っていることもあるでしょう。人との関係性に、自分がどうしても続けてしまう悪い習慣、あるいは経済的なこと。主にあって待つということは、時に非常に難しく感じます。それは私たちだけではありません。聖書においても、アブラハムは25年間も子どもが与えられるのを待ち、イスラエルの民は80年も約束の土地のために待ち、今日の聖書箇所に出てくるシメオンとアンナは生涯かけて救い主を待ちました。主はこれら全ての約束に答えられました。これらの話を聞くとき、神はいつも約束を果たしてくださるということを思い出すのです。幼子はイエスと名づけられ、両親はエルサレムの神殿へ行きました。これは2つの理由によるものです。ひとつは、母マリアが儀式的にきよめられるためです。たくさんの血に触れた人、すなわち出産後の女性や戦地に行った兵士などは、罪があるとされたわけではありませんが、一時的に汚れているとされていました。そのため、神殿に入る前にマリアがきよめられる必要がありました。もうひとつは、律法に従い幼子イエスを主に捧げるためでした。シメオンという、正しく敬虔な人がいて、イスラエルの慰められること、つまり救い主がやってくることを待ち望んでいました。いつ、それがやってくるかは知りませんでしたが、「聖霊が彼のうえにとどまって」「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受け」待っていました。それは特別の、素晴らしい約束であり、希望でした。そして「聖霊に感じて」宮にはいると、イエスを連れた両親が入ってきたのです。私たちにも、聖書、聖霊を通して、特別な約束が与えられているかもしれません。でも「いつ」なのかはわかりません。私たちにできることは、信じ、待ち望み続けることなのです。愚痴を言いながら待ったり失望してしまうのではなく、積極的に待つ、というのがシメオンの選択でした。私たちは、どうでしょう。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)酒や聖霊が私たちをコントロールすることはありませんが、それが多くなると私たちの行動に影響を及ぼします。酒に満たされると放蕩がありますが、聖霊に満たされると聖霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶのです。また、アンナという女預言者で主により頼むことがどれほど大変なことかを知っていた人がいました。彼女は非常に年寄りで、7年間の結婚生活のあと夫と死に別れていました。頼れる夫も両親もない彼女は、主のみを持っていたのです。私たちは、人々にがっかりさせられたらその人を避けたいと思いがちです。神さまにも、そう思ってしまうのです。アンナは不満や愚痴から主を避けてしまうことをせず、あきらめなかったばかりか、昼も夜も断食(プロテスタントではあまりされないけれど、自分の要求や必要、問題ではなく、神(御心、愛)に一番に焦点を合わせる訓練として、現代でも大切なことだと思う)と祈りをもって神に仕えていたのです。そして、彼女も幼子イエスが神殿に入ってきたところに居合わせたのです。ではシメオンとアンナは、待ち望んでいたことが成就した時どうしたのでしょう。シメオンはまず神を褒め称えて、神を祝福しました。主の存在(being)に焦点を合わせ、主の素晴らしさと愛を言葉にして表したのです。アンナは主に感謝を捧げました。それは主の行い(doing)に焦点を合わせ主の憐れみを心から認めることです。さらにアンナは、主がしてくださった良きことを周りの人に伝えるました。それによって周りにいつ人が、私たちの人生における神の愛と憐れみを知り、もっと主を掲げるようになるのです。
2006.12.17
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マタイ2章1-12節よりクリスマスといえば何を一番に考えますか。プレゼント!子供のころは何がもらえるか楽しみでした。成長すると、どんなプレゼントが喜んでもらえるか考えるのが楽しみになります。ではイエス様に喜んでもらえるプレゼントとはどんなものでしょう。この聖書箇所では、3人の博士が自分たちの最善の宝物を3つ持って来ています。もっと尊かったことは自分自身という尊いものを捧げたことです。私たちも心の宝箱を開け、自分自身を捧げますか、それとも出し惜しみするでしょうか。この3人の博士たちがどこからきたのかは、ペルシャなのかアラビアなのかイランなのか、研究者たちの間でもはっきりしていないけれど、何をしたのかはよく知られています。昔から偉大な王たちは、問題に直面した時に助言してもらうために学者をおいていました。彼らは天文学、歴史学、政治学に通じ、祭司としても偉大な王の生誕、偉業を予言することができました。ユダヤ人、異邦人達も東方の博士を高く評価していたので、彼らの言うことに耳を傾けました。「新しい王としてお生まれになった方はとこにおいでになりますか。」ヘロデ王も、エルサレムの人々も、それを信じるがゆえに恐れ惑いました。彼らは博士たちの言うことを本当に理解していたのです。だから、殺そうとしたのです。では、私たちはキリストが主であり王と呼ぶことを理解しているでしょうか。そのために心を備えているでしょうか。私たちの心の王座にキリストに座って頂いているでしょうか。東方の博士たちは聖書を持っていませんでした。しかし神さまは星を用いて彼らを導かれました。博士たちは従うという選択をしましたが、ヘロデ王は殺そうとしたのです。では、先週神さまはどのような方法で私たちの目を向けさせ、私たちをキリストに向けさせようとされたでしょうか。そしてその時、私たちはどのような選択をしたでしょうか。まことの礼拝を捧げる前に、心を向け、心を備えているでしょうか。3人の博士たちは、イエス様を礼拝するために砂漠や荒野を通り1週間以上もの長い困難な旅をしました。けれど、彼らは不平ではなく喜びの思いをもって、イエス様に礼拝を捧げました。(11節)まことの礼拝は、自分中心ではなく、イエス様を掲げひとつとなるのです。日曜日の礼拝は、何かを受けるため(苦しいことを聴いてもらうため?伝道のため?)ではなく、ひとつになって自分を捧げ、主を掲げるためのです。You(Jesus) increase, me decrease. (主が増し、私が衰えるように)私たちのイエス様に捧げる礼拝の姿はまことのものでしょうか。わざわざ時間をとってるのだといううわべだけのものでしょうか。王の王に近づくことができる真の光栄と喜びがあるでしょうか。
2006.12.10
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ルカ1:5-38よりクリスマスは、神が人となって2000年も前に来てくださった日。私たち一人一人に、今日来てくださっていることを知るとき。神さまが今も私たちを愛してくださっており、私たちの人生に、心に来てくださっていることを知り、喜ぶとき。それによって、本当の命、希望を知り、疲れた魂に安らぎを与えられる。これらのことが、クリスマスごとに繰り返し伝えられる。私たちは、神さまのノックにどう答えるのか。迷惑だと思うのか、どうぞお入りくださいと招くのか。今日の聖書箇所に出てくる2人の人物をみてみよう。同じ御使いガブリエルによって2人の異なる人に似たような約束がもたらされました。ところが、二人の反応は違いました。エルサレム神殿の年配の祭司ザカリヤは、正しい生き方をしていました。ところが、神の約束がもたらされた時、本当に信じ自分のものとしたかというと、そうではありませんでした。彼は疑って尋ね返しました。神の約束は聖書の各所に(へブル13:5、創世記15:1、イザヤ41:10、1ヨハネ1:9)出ている。それを信じる心は聖霊が火をつけてくださる。私たちは油を注ぎ(神さまとの個人的な交わり、礼拝、兄弟姉妹との交わり)続けなければなりません。ザカリアは心に火を灯すため聖霊を招く必要がありました。歳を重ねると人生にとってリスクだと思われることに信仰をもって向かって行きにくくなりがち。幼子の心(childlike heart)は幼稚な(chaildish heart)とは異なります。幼子の心のように、私たちも再び心に信仰の火を灯してもらいたいなら、手遅れはない。聖霊にお願いしなくてはなりません。ザカリア「これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私の言ことばを信じなかったからです。」(20節)という厳しい答えを受けました。信仰の薄かったザカリアに与えられた約束は、妻エリサベツが男の子を産み、その子がいずれ偉大な預言者となる(13-17節)という祝福でした。彼には神の訓練が必要だったのです。神の私たちの人生における祝福は、最終的には神の憐れみによるものであり、私たちが正しい信仰や行いによって勝ち取ることではないことがわかります。もう1人のガブリエルから約束をもたらされた人、マリアはどうだったでしょうか。若い、名もない地方の村の人であったマリアは「・・・男の子を産みます。・・・彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」とのことばを、戸惑いながらも信仰によって信じ、神様の扱いをもっと知りたいという想いで尋ねただけでした。そして、更なる答えを受けました。神さまは、私たちに、人生に置ける素晴らしい計画を示すことによって私たちの信仰を報われます。「神にとって不可能なことは一つもありません。」(37節)マリアは「恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(28節)と挨拶され、約束を受けました。マリヤは主を信頼し、主に喜んで従いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)同じように、私たちが主の計画を信頼し、喜んで従う時に、神さまの祝福(恵み)を受けるとともに主御自身(臨在)をもっと体験することができるのです。今週、私たちの心の扉を神さまにノックされたら、私たちはどのように反応するでしょうか。
2006.12.03
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1コリント2章4-16節より「霊的形成 spiritual formation」の主人公は誰か。聖霊(霊なる神)が主人公。霊的形成は花を育てるようなもので、私たちには成長させることができず、草や石(邪魔するもの)を取り除いたり日当たりの良いところに移動させる(姿勢を変える)ことぐらいしかできないもの。わたしたちの信仰は何に基づいているものなのか。聖霊が働く時に、喜び、力が得られる。(2:4-5)「この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者達からの知恵でもありません。」(6節)「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(15節)わかる人に聖霊の働きによってわかるが、わからない人にはわからないのだということ。知恵とは隠された奥義(隠されていたものがあらわになった)、聖霊に導かれて生きること。(7-9節、イザヤ64:4)邪魔するものを除く(remove)・・・プライド、恐れ、心配、人の目、罪・・・日当に置く(action)・・・聖書を読む(神はどのようなお方なのかを知る)、祈る(神との個人的な交わり)、賛美(神に目を向けて長待ているのは自分ではなくて主だと知る)、断食、クリスチャンの訓練された沈黙(神が今までの自分の人生にしてくださったことを思い巡らせる)これらの方法によって成長するのではなくて、あくまでも成長させてくださるのは神様。聖霊が啓示してくださる。(10節)「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみここころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」(11節)神を知ることは、聖書を読んだり、説教を聴くことではない。これらによって神の事実はわかる。"知る"ことは、聖霊によるもの。神を知ることは神によっても知られているということ。(12-13節)「私たちには、キリストの心があるのです」(16節)私たちは御霊を頂いている。太陽は動かないけれど、雲、日食などによって蔭ることがある。自分が動くことによってまた太陽の光に当たることができる。祈り「今の自分の生活において、何が霊的形成を阻んでいるのかを示してください。そして、私たちが光の当るところへ行くにはどうすればいいのか教えてください。」(その場では何となく分かったような気になっていたけれど、後になって書くと分けがわからないなぁ、自分でも)-----私の場合、人の目をいうものが自分自身をがんじがらめにしてしまうことが多いように思う。そして、不確実なことを思い煩い、悩み、落ち込み、浮上できない。さらには、明日明後日のことだけではなく、何年も先の想定を先取りして思い煩っている。問題を解決に向けるには、"自分が"何かをしなくてはいけないような強迫観念に覆われる。そうなっている自分に気付いた時には、誰かに打ち明けて祈ってもらう、また、静まろうと努めなくてはと思う。
2006.11.22
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ヨブ記より。(友人達の問答の部分は今日は省略)ある人がヤママユガのさなぎの羽化の際、穴が小さくてすんなり出てこられない様子を見て、さなぎの殻をハサミで切ってやった。ヤママユガはほどなく出てきたが、体は充分にに大きいのにどうも羽が小さいままだった。時間が経てば延びるだろうと思っていたが、待てども羽は小さいまま。結局そのガは飛ぶことがでなかった。男の人は気付いた、身体を締め付けられるような穴から自分ではいでることが、そのガが飛べるようになるために必要なことだったのだと。誰でも苦しみたくはないけれど、生長するためには搾られるということが必要なのかもしれない。締め付けられるような穴を通る必要があるのかもしれない。神様はヨブのことを「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっているものは一人も地上にハイなない。」(1:6)と誇りに思っていた。サタンは、ヨブが神様を自動販売機のように扱い、祝福を欲しいがために礼拝、祈り、捧げ物をしているんじゃないかと、神に挑戦した。「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(1:11)と。サタンは、ヨブの信仰がどれほど純粋か試したかった。ここで、どんな理由であっても、祝福が欲しいためにであっても、神を求めることはよいこと。私たちも最初に主を受け入れたのは、主のみが与えうるもの(罪のゆるし、永遠の命、聖霊、癒し)を求め、頂いたからではないだろうか。それは自然なことであり決して悪いことではない。ただ、いつまでもそのままでは信仰は浅いままで、霊的成長も望めない。神の御前では、サタンは力のない、蚊のような存在にしか過ぎない。なのに何故だかわからないけれど、神はサタンの挑戦を受け、サタンがヨブの持ち物を打つことを許した。ヨブは子ども達も財産も取られた。「私は裸で母の胎から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。(1:20-22)再びサタンが神のところに来た時、神は「彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」(2:3)と言われた。サタンは「皮の代わりには皮をもってします。人は自分の命の代わりには、すべての持ち物を与えるものです。今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉を打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」(2:4-5)と再び挑戦した。ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物ができた。彼の妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(2:9)とまで言った。しかしヨブは言った。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。(2:10)これらの事を聞き、ヨブの3人の友が慰めようとやって来た。(2:11)彼らは声を投げてなき、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭のうえにまき散らした。・・・七日七夜、・・・だれも一言も彼に話しかけなかった。(2:12-13)友人達は、ただ沈黙の中で共に涙を流し、嘆いた。それは悲しみの中にいる友にできる最大のことだったのではないか。それは私たちにも当てはまるのではないか。その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。(3:1)命を自分で絶つことは罪だったので、自分の人生をのろった。それでも神をのろうことはしなかった。・・・私は神に言おう。「私を罪あるものとなさらないように。なぜ私と争われるかを知らせてください。・・・」(10:2)ここにきてヨブに神への怒りがふつふつと湧いてきた。あなたは、私に罪のないことを知っておられるでしょう?!と神の正義を問うている。でもこれは罪ではない。神を捨て去ってしまうことは罪である。38章にきて、神はヨブの問いかけに答えたのではなく、ヨブに質問を返した。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこのものはだれか。」(38:2)「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)あなたの、物事がこうあるべきだという視点はわたし(神)の視点よりずっと限られたものなのだと。善良な人がどうして苦しむのか、本当の理由は神だけにしかわからない。ヨブの友人のように、推測することは可能ではある。私たちに関しても、天では霊的な戦いが行われている。神の目的(時に火のような苦しみを用いてでも、私たちを純粋で聖いものへと変えること)とサタンの目的(私たちを苦しみに合わせ、紙を捨て、神をのろうようにわたしたちを誘惑する)が行き来する時、わたし達は苦しむことになる。神が私たちの苦しみを与えるのは、私たちを強めるためでもある。とうとうヨブはこう言った。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(42:5-6)苦しみを受けて頑なになってしまうか、あるいは謙虚にされへりくだり、この目で神を見るのか。(信仰の目が大きく開かれる)主が苦しみをゆるされるのは、そのことによって私たちのプライドが砕かれ主に近づくため。そしてもっと完全に主を信頼するようになるため。「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」私たちには"前にある"苦しみの理由や"後にある"神の祝福が見えない。神は私たちを愛しておられることを信頼し、わたしたちの人生に素晴らしい計画を持っておられることを信じることが、私たちの最善。それらの詳細や理由や目的はずっと後にならなくては完全に知ることができない。神はわたしたちを愛し、罰を与えることはしない。神はこの苦しみを、あなたが神に近づくために用いられている。苦しみには必ず終わりが来る。最後に素晴らしい祝福がある。
2006.11.12
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第1コリント 2:1-5霊的形成とは、聖霊に自分の霊の部分に働きかけてもらい、私たちの霊がイエスのようになっていき、聖霊の実(ガラテヤ5:22,23)を結ぶこと。1-2節「・・・私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神の証を宣べ伝えることはしませんでした。・・・イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」これは、"準備"が不要だといっているわけではない。そうではなくて、レトリック(技法)に頼らなかったということだという。筆者であるパウロはうまいことばや話し方で弁論するのではなく、シンプルに神の福音を伝えることに決心した。人にあることを伝えるには、うまく伝えよう、説得しようと思えばできる。当時のギリシャでは哲学が盛んで、有名な哲学者も輩出し、弁論自体が当時の人々の娯楽の対象であった。現代では、コマーシャルや政治家が、どんなに素晴らしい商品か、これを手に入れればどんなに幸せになるか、どんなに素晴らしい約束(公約)かを謳っている。とにかく注目を集めるために、わかりやすいキャッチフレーズを多用したり、有名人に商品を持たせた映像を流したり、良い点だけを強調したりする。けれど、パウロが選んだ方法は、シンプルに福音を伝えること。こんな良いことがあるよという約束だけではなく、信じなかったらこうなるということも含めて、全体を伝えた。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」4節御霊自身が、人に働きかけるのだということ。「それは、あなたがたのもつ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」5節信仰は、人の説得や話法ではなく、御霊によって支えられているもの。クリスチャンは、聞きたいこと(御言葉、メッセージ)だけ聞いていたのでは、成長できない。耳が痛いな、ということを聴くことがチャレンジともなり成長につながる。人の心にチャレンジを与えないのならそれは教会(クリスチャンの群れという意味を含むのだろう)ではない。福音には、癒しとチャレンジ(喝!)の両方が含まれる。「・・・私は、やわく、恐れおののいていました。」3節と、パウロは正直に告白している。彼は教養もあり、弁論という手段を使おうと思えば使うことのできた人だった。にも拘らず、使わない決心をしたのだ。霊的形成(spiritual formation)がされていけば、他人に証する(現せる)ものが自分の人生に形成されていく。一緒にいる人に「この人は、平安があるなぁ、喜びがあるなぁ、愛があるなぁ。この人には、何かあるなぁ。」と感じてもらえるなら、御霊と御力の現れがにじみでている。福音を伝えるのは、うまい言葉でも話術でもなく、にじみ出るもの。祈り「自分の信仰は、人間的な知恵ではなく、神様の知恵に支えられているか。それが人生に現れているか。福音を伝えてくれた人のカリスマ性から信仰を持ったのか、それとも御霊の働きで信仰を持つに至ったのか。自分の心を探っていただこう。そして、今週、御霊に存分に働いてもらうように祈ろう。」-----ああ!今朝、聖霊が私に働こうとしたのを拒んでしまった。私の妙なメンツが勝ってしまった・・・。あれはそういうことだったんだ。ごめんなさい。
2006.10.25
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詩篇139篇1-12、17-18節人々がどんなに孤独を感じているのか、こんな話がある。ある人がこんな新聞広告を出した。「$5で、30分間あなたの話を黙って聞きます。」誰が電話をするのかと思っていたら、1日に10~20件もの電話がかかってくるようになったと。もし電話したいなと思ったなら、詩篇139篇はそんなあなたのための御言葉。主はいつでも共に居られ、あなたのことを、他の誰よりもあなた自身よりも深く完全に知っておられる。30分どころか、いつでもあなたが話したいだけ聴いてくださる。$5なんてお金も要らない。お金ではなくて、あなたの心を求めておられる。人生の落とし穴(依存、浮気などなど・・・)は孤独感から来ることが多い。けれど神は私たちのことを完全に知ってくださり、愛してくださる事を知ること。(1st step)「あなたは前から後から私を取り囲み、御手を私のうえに置かれました。」(5節)「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」(6節)これほどまでに自分のことを知っている人が、周りにいるだろうか。自分自身でさえ、親に対してでさえも自分のことを説明しきれないのに。そんな神様は、神を知り神を愛すること(2nd step)を私たちに望んでおられる。(17節)人間同士がお互いの事を知り、関係を育んでいくのと同じように、神との関係を育んでいく上で真摯な努力が必要とされる。祈り、賛美、交わりを通して神様との関係を育んでいくと、癒しと成長が用意されている。また、私たちを愛してくださっている神様は、私と共にどこにでも居られる。(7-10節)私たちが闇にあっても、共に居られる、と詩篇の作者は自信を持って言っている。(11-12節)主は私たちを導き、守ると約束しておられる。(10節)「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:38-39こんな風に自信を持って言えるように、成長して欲しいと神様は望んでおられる。「私が目覚める時、私はなおも、あなたと共にいます。」(18節)主が真実をもって、どこにいても私たちと共にいてくださるのと同じように、主の希望は私たち自身もどこにいても主と共にいるように務めること。今週、神様のことをもっとよく知ることができるように、神様を追い、共にいるように、お祈りしましょう。-----私(たち)が、自分(たち)のこと、想い、考え、感情をうまく人に伝えられなくて、「わかってもらえない。」「もう、言っても無駄だ。」と思うことが多い。身近にいる人に対してであるほど、わかって(共感して)もらいたい思いが強いのに、わかってもらえたと思えない失望が大きい。でも、この世で只1人、私自身よりも私のことを完全に知り、愛してくれ、いつでもどこでも共にいてくれる神様がいることを、心から実感できるとき(いつもじゃないんだけど)は、心の中に平安がある。失望や不満が、なぜか沸いてこない。心の目をそこに向けるように心がけようと、思う。
2006.10.22
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「霊性と祈り」というテーマで、霊的形成の様々な側面を学んでいる。今回はローマ8:14~27より「人生のうめきの中で聖霊に導かれて歩む」。奴隷とは主人の憐れみにすがって怯えながら生きる、明日はどうなるかわからない我が身。私たちは神の奴隷、ではない。聖霊を受けた神の子として、神の家の中で大切な存在、愛されるべき存在である。(第2テモテ1:7)聖霊が、神の子だということを証している(16節)、原語のギリシャ語では"継続している"というニュアンスのこのメッセージをわたしたちは心で感じ、体験する。さてわたしたちは、この24時間放送のメッセージにチューニングを合わせているか、電源をoffにしているのか、BGM代わりに聞き流しているのか、周りに雑音はないか。神の子どもであるなら、神の相続人でもある(17節)。今の苦しみ、というのは"ある!"。天の栄光と比べると取るに足りないもの。他宗教では、今の苦しみを感じないようにするために、自分を無にしたり、修行をしたりする。キリスト教では"苦しみは、ある"ものとして、それに直面する。苦しみを通ることで、霊的形成がなされる。平和、喜びは、うめきを乗り越えて、得られる。うめく者(物)としてここで3つ挙げられている。被造物全体、私たち、御霊ご自身。御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる。祈りのテーマ「自分が本当に神の子として愛されているということを実感できるように。」「うめき、苦しみを永遠の視点で見ることができるように、天の栄光というものをはっきり示してくださるように。」感想天の栄光というものが、耳で聞き、頭では知っているけれど、実感としてよくわからないので、つい目の前にある苦しみ、辛さに焦点が当ってしまう。それでも、守られ、恵まれている点も、数えてみるといくつも思い浮かぶ。
2006.08.25
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霊性と祈りの会というのに参加した。霊性=spiricual formation、霊的な形成カトリック教会では「心を静める」目的で古くから行われてきた。これは大切なことで、霊性のひとつの面ではあるが、それが全てではない。残念なことに御言葉があまり出てこない。プロテスタントでも近年よく「doing(行為)ではなくbeing(存在)」と言われるようになった。これも霊性のひとつの面ではあるが、その全てではない。そしてそこに出てくる御言葉は、心理学的な思考の目的に合った御言葉を聖書から選り好みしているようだ。これらふたつの霊性の焦点は「自分」である。さて「霊性」について、聖書にはなんと書かれてあるのか。聖霊が人間の霊に働くことによってもたらされる変化。つまり私たちがイエスのようになっていくこと=聖霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶため。すなわち「聖霊」が焦点である。霊性に関して書かれてある聖書箇所は、ローマ8:1~39、1コリント2:10~13、ガラテヤ5:16~25。ヨハネ3:8には風=聖霊とある。風は見えない、自分の周りにある、力強い、コントロールできない、意志がある(吹きたいところに吹く)、強くなったり弱まったりする・・・。聖霊が働いているかなと感じる時、"帆"をあげているかな?とチェックしてみる。聖霊(御霊)のことを思うとは、素晴らしさやその愛に思いを馳せ、賛美し、デボーションをし、紙の家族との交わりを持つ。そうすると、自分の問題に焦点が当らなくなり、聖霊に焦点が合うようになる。聖霊(holy spirit)は心(mind)に良いものをそそのかし、肉(flesh)は悪いものをそそのかす。これが"霊の戦い"と呼ばれるもの。心(思い)が行為を決めるので、心の在り様というものは大事。では、「自分にとって、聖霊に焦点を当てることを阻んでいるものは何か。」そこで一人一人、祈りの時間を持つ。今抱えている問題や気がかり、過去のものも振り返りながら、示されたこと。私の肉の思い、とは、八方美人。つまり他人の反応や評価を気にし、他人に気に入られたいと過剰に思うこと。それに焦点が当ると、聖霊なる神がわたしの最良のために何を言おうとしているのか、聴く耳をもてなくなってしまっていたのではないかと。気づいた時がまた、新たなスタート。
2006.08.11
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