全1651件 (1651件中 1-50件目)
1回精髄が強まり 2回耳、目が冴えて 3回身体の病が消え 4回心の平常心がうまれ 5回血の巡りがよくなり 6回性器に新しい力が芽生え 7回ふともも、お尻に張りがでて 8回全身が健康になり 9回寿命が延びるクンダリーニ瞑想で会陰から背中に回し、一気に頭まで回転して持ち上げます。数回ですが確かに目がさえてきて、元気さが出てくる様です。
2025.02.18
コメント(0)
なぜこの書籍の事を書いているかと言うとこのジルボルトテイラーさんは、脳の左半球の脳卒中により大変な事態に陥りおそらく数年前であれば、生き返ることすら不可能であったと思われます。また生き残ったとしても、それを伝えることなど出来ずにそのまま死去しただろうと思えます。しかし彼女は戻ってくることが出来ました。奇跡的にです。しかし、その証言は前に書いていますが、これは瞑想の超高度な状態を表しているのです。そっくりです。強制的に何年も(8年くらい)その状態に居ざるを得なくなったと言えるのだと思います。言語や、比較する能力を失う事、未来、過去の時間を失うこの事は瞑想で言われている事そのものです。言語(ことば)というものを嫌がります。ひかくする事など(いいとかわるいとか)未来の不安過去の後悔など、それに対して今という物しか無いのだと常に言われている事を思い出します。宇宙と一体となったとか、自他の境界が無くなってくる薄れるとかよく出てくる話しです。またそれらの事は、実はこの病気によって作り出された物であり、よみがえるに従って戻ってきたということは、作られた物であることがよくわかるのです。人々の根底にあるものがなんで有るかという事をよく示しているいるとおもえるからです。またこの状態は、人間であればその根底に誰もが持っている物であると教えています。神の国、涅槃、天国、など様々な言葉で書き現れています。これは全ての人の根底にこれがあるのだと教えてくれて居るのです。またこれがあるなら、これに近づく方法も当然あります。其の発現は大なり小なり、全ての人が今このときにも実は発現しているはずです。この領域は、常にあり、あたかも雲に覆われている状態です。これも常に言われている事です。でもこの雲が晴れる姿、一瞬でもそれを観ることが出来るだろうと思えるのです。だれでもです。わたしはそう思っています。このことは、あなたはほんとうは海のようなものであり、それが沸き立つ波を本当の自分と思っている。けどその下にある大きな海が本当のあなたなのです。またこのようにも、あなたは大海にいる魚、そのまわりには多くの水に囲われているのにそれに気がついていないなど、多くの話が残っています。
2025.02.14
コメント(0)
遠く遙か彼方から月が微笑むように過去からつづくはかなさ静にうつしだされて伝えられないもどかしさ抱きしめ空を仰いで祈るよmoonlight 変わらずにいてmoonlight 逢いに行く きみに穏やかな日々と寄り添う幸せ過去と未来が交差するmoonlight 駆けのぼり きっとmoonlight もういちど逢える月の光 道しるべ迷わずに歩いてゆくもしたどりついたなら遠い記憶にさよならmoonlight 変わらずにいてmoonlight 逢いに行く 君にmoonlight 駆けのぼり きっとmoonlight もういちど逢えるmoonlight 変わらずにいてmoonlight 逢いに行く 君にmoonlight(勝木ゆかり)
2025.02.13
コメント(0)
脳科学者のジルボルトテイラーの著書については以前書きましたがその内容です。脳内出血により左脳が停止しはじめると、特徴的な事が現れます。誰もがこれが自分だと思っている脳内のおしゃべりが消えてしまいました。このことは、このおしゃべりは作られた物で、ほとんどの人はこれを自分であると誤解しているのです。これが消えていくと、その根底にあるものが現れてきます。平和な感覚、あたり一面の平穏な幸福感、神の恵みの様な感覚に浸り、心が和んでいきます。宇宙と融合して一つになる感覚、過去の記憶と未来の夢は消え、何も無い文字は認識されず画素を寄せ集めた織物のように見える肉体的な境界を感じることができなくなっています。(方向定位連合野の消失です。)言語も消失していきます。(ブローカ野からウェルニッケ野の言語中枢の消失)肉体の境界がなくなり大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように魂のエネルギーが流れているすばらしい至福の時、意識はさわやかな静寂の流れにあります。わたしの知覚できるものは、今ここにあるもの それはとても美しい広がる虚空にうっとりと魅せられる 生まれて初めて生を謳歌する自分の体と本当に一体となった左脳が作り出す言葉を失い、数字などの計算の技術を失い、そして体を形成する感じすらも失っていきます。時間の感覚もなくなり、あるのは今という瞬間しか焦点をあてることが出来なくなっていきます。しかし、その場所は静けさと開放感と、穏やかで、守られ、祝福され、しあわせでそして全知であるような感覚の虜となったとあります。
2025.02.09
コメント(0)
当麻曼荼羅は中国製であるという傍証の一つとして則天武后の時代、道教から仏教へ国家の信仰が変わっており、その時に素晴らしい仏教芸術が創作されています。その多くはその後の安禄山の戦火などによって多数失われたと言われています。この曼荼羅は則天武后の時代に造られたのではないかと自分は推定しています。則天武后を調べていくと、皇帝となったとき弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「 大雲経寺」を全国の各州に造らせたとあります。弥勒菩薩は、阿弥陀如来、釈迦如来に続く未来に続く如来となる物なので強い関連があり、これに祈ることは、則天武后への祈りにつながる構造になるからです。その細密な製造から宮廷の専用工房で作られ、その周辺に存在していた物ではないかと思われるからです。
2025.02.08
コメント(0)
中国において唯一女性で皇帝となった人物です。非常に長寿で当時(唐の時代7世紀~8世紀)としては81歳で亡くなっています。頭脳明晰で、当時の女性には珍しく決断力に富んだ人物だったといわれています。当時には珍しく高い教育も受け、道教の道士として修行を行っています。また皇帝となったとき仏教への傾倒から、このとき多くの仏教芸術が花開いたことは前も書きました奈良の当麻寺の当麻曼荼羅が作られた時代です。その長寿法については、新しく歯が生えてきたという逸話があるくらいですから相当な事をしていたのだと思います。おそらくそれは採陽補陰ではないかと思われます。この逆のパターンはよくいわれていますが、これを行った事例と思われる例は睡眠が深くできるようなり、睡眠薬などが不要になった肌つやが良くなり、若返ったように言われる化粧ののりがよくなり、髪も増えて来たと言われるエステではフェイシャルする前からできあがってくると言われた前から書いていますが、身体のこの状態から心が作られてきますので様々な面で、精神的にも良い結果が得られる様です。女性は根源的には男性より強く造られていますので、この方法はそれを増強するものでしょう。ただこの方法は相当能力の高い相手が複数必要になります。簡単には出来ないのですが、女性については方法論がわかりました。
2025.02.08
コメント(0)
この身体と心の関係については、有名な言葉があります。色、受、想、行、識というよく書かれている言葉です。わたしはこれを色(身体)→ 痛(反応)→ 想(思い)と捉えました。痛(いたみ)おかしいのではないかと思われますが実は中国の漢字文化圏に初めて、仏教を伝えたのは 安世高と言われています。(西暦148年に後漢の都の洛陽に来場 20年にわたり翻訳を行う)彼が、初めて色、受、想を翻訳したとき、この受を痛と漢字に翻訳したのです。これは安世高の翻訳ミスだと言われているのですが、どうも私にはそうは見えませんでした。(以前書きましたが)この受(vedana)を痛と書くことについては、その他の研究者も誤訳であるとの説明を見つけました。確かにサンスクリット(推定)で書かれた原本を訳すなら、受を痛は間違いなのですけどそう書いたのにはなにか深い意味があるのでは無いかと書いてあります。その記述の中には、この様な事も書いてありました。そしてその様な身体感覚は、安世高が「我」(attana,atman)をほとんど全て「身」で、あらわしている所から窺われるとありました。がまさにこれもそうです。びっくりです。(わたしという自我は身体がつくりだしてるんですよ)
2025.02.04
コメント(0)
前回のリベットの実験から、私の心に先行して脳が動き出しており、それが私を作り出していると書きました。この事は前も話していますが、私の心を作り出しているものがあるという事になります。それは、この自分の身体であると考えています。自分の身体が先で、それが作り出す私(自我)という構造です。とすれば、心をなんとかするには(調心)、この身体(呼吸を含めて)を先になんとかすべきとなります。この構造は、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだと言えると思います。怒るときに、肩を怒らせて怒るとよく言います。肩を怒らせる身体反応が、心に怒りを呼び起こしていると考えています。一つの出来事が起こっても人によって、怒り方が違うのも身体反応の差と考えています。いつも怒っている人は、体が硬くすぐに怒る様になっている物です。それが癖になっているとも言えます。いつもそうでは健康にも良くないでしょう。苦しいことです。そこで出てくるのが、身体操作としての、ヨガなのです。人の色々な想いや感情は、微妙な物です。それが微妙であれば、身体変動も小さい物のはずでほとんど気がつかないはずなのです。それに気がつき、そのこわばりとでも言う反応が無くなるようになれば楽になります。その反応は非常に小さいもののはずです。だから、ヨガにおいて簡単な動作ほど必要のはずで、難しいポーズは出来ればよいでしょうが無理をする必要がないのは、この理由です。そして、ヨガにはこの身体と心の関連性を見る瞑想が、セットになって行かないとマズいことが理解できると思います。つまり、調心、調息、調身の三点はセットにならざるを得ない意味がここにあると思います。これを行なっていくには、常に三点を気をつけている必要があることが理解でいるはずです。コツは、マズイ心が起こる前に、体が微妙に変化していませんか?これを続けて行けば、とても静かな楽な自分が現れて来ると思います。(頭に来ることはありますけれど)
2025.02.03
コメント(0)
運という訳のわからない物についての研究があり、その結果として以下の4つの結論となった。新しいことに常にチャレンジして行う出来事を前向きに捉える心を持つ(チャレンジに失敗しても、それを次への経験として捉えて。次のチャレンジに向かうことができる)まわりの人への感謝を持ち、親切を心がける直感を信じ活用する以上のことは訓練して身につけることができる。そうなれば運を引き寄せる様になるしかし、このことは全て心の問題であることがわかり、また瞑想などがそれを促進する訓練の一つである事がよくわかる。自分を振り返ってみると、これに沿っている様に思える 恐ろしいほど運が良いとおもう。それは新しい一歩を踏み出したことから始まったように思う。
2025.02.02
コメント(0)
この瞑想法について、どのように行うかという資料を見ることができた。その内容は驚く方法であった。やり方は白隠のなん蘇の法とそっくりなのだけど、甘露降浄法と呼ばれ、チベット密教(後期密教)の秘法とされている。その方法は、此処に書ける内容では無いしかし後期密教の特色である性的な力を生命の力に変換するとはどういうことか明確にわかった。この根源の力こそ、次の生命を生み出すとても力強いものを、変換するとは頭上の光輪、なんと力強い
2025.02.01
コメント(0)
この教室は椅子に座って行うヨガ教室です。普通のヨガ教室から見れば簡単な動きなのです。それだけ見れば、体が動かせない人がやるようにしか見えないでしょう。しかし、心と身体の関係を見れば、実は理にかなっています。その理由は、前から書いていますが心と体はつながっています。これはよく言われることです。よく調心、調息、調身の3者の関係を先生は前回話されています。心は幻影であり、身体が作り出したものである、それから導き出されるのはこの私の心は幻影なのでそれは実は存在しない、つまり無我(わたしはいない)という理解につながるからなのです。前も書きましたが心理学にリベットの実験というものがあります。実験では、被験者がボタンを押す際に、ボタンを押す意識的な意志が最初に出現した時点から、実際にボタンが押されるまでの時間差を測定しました。また、被験者の脳波を記録し、運動の開始に関係する脳活動の出現時期を調べました。その結果、被験者が意識的にボタンを押そうとした時点よりも、約300ミリ秒前に運動開始に関係する脳活動が確認されました。これは、被験者の意識的な意志が運動を開始させるという主観的な印象は幻想であることを示唆しています。この実験の結果から、自由意志は脳の活動の後から生じるということがわかります。つまりボタンを私というものが選択して押したようにみえますが、実はあらかじめわたしとは別のものがその選択を決めており、それに理屈が合うように私がそのボタンを選択した様に心が作り出される。その様にできていると考えています。
2025.01.31
コメント(0)
ヨガ教室で新しい生徒の人が見学に来ていた。といってもこの教室は今まで先生と生徒二人の3人の教室でした。女性の方で5年以上普通で行われているヨガ教室に通っていたのですが、ポーズが難しくなり腰も痛めたみたいですが、ヨガ自体は続けたいので、別の物を探して見学に来たとのことでした。実は現在一般に行われているヨガについては、ハタヨーガという物の、身体操作を取り出して拡げた物です。私の習っているこの教室のヨガを見ると、おそらくこんな簡単な物で良いのかと言う感想になると思います。おそらく相当やりこんでいる方だと思います。先生も説明していましたが、実はヨガの本質は瞑想にあります。あまり知られていませんけど瞑想と身体操作としてのヨガの組み合わせを指導すべきなのです。(私の私見ですが)しかし無理もありませんそれはこころという難しい物を扱う必要が出てくるからなのです。その難しい事を、ヨガを通じて行おうとしているのが、この教室だとかんがえています。
2025.01.31
コメント(0)
インドでは古代、デーヴァダーシと呼ばれる巫女の存在が知られています。6世紀にはその記述が現れるのですが、彼女達はヒンズー寺院に属する舞踊を習得した女性であり、神と結婚した女性と言われています。その出自はアウトカーストなど、カーストの低い出身の人が多かったようです。古代より舞踊という物は、神とつながるものであるというのが最初の始まりであったと考えています。彼女達はムガル帝国の滅亡によりイギリスのインド支配が始ると、悲惨な境遇に陥ってしまった記述は、目を覆うばかりです。この記述を見ていると、後期密教における明妃という存在が重なってしまうのです。
2025.01.30
コメント(0)
小周天法、金剛薩埵の瞑想、なん酥の法など、全て同じで光を動かしているのでは無いかと書きました。この動かし方なのですが、今気がついたのですけど瞑想においてこれを単純に上から下、下から上で動かしていたのですが前も書きましたが、クンダリーニ(らしい)症状を起こしたとき、会陰から湧き上がる快感の渦なのですが、たしか頭上から見て左旋回するように上昇していきました。この動きに沿って、この光を動かし行くべきでは無いかと気がつきました。いまそれを行なっていますが、旋回方向は動かしやすい方向とそうで無い方向があります。
2025.01.29
コメント(0)
熊襲を討つため軍を率い、筑紫の香椎宮(かしいぐう)に向かった。皇后は祭庭(まつりば)に神懸かりする御巫となり、天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(サニワ・神懸かりした御巫に付いて神との問答を受け渡しする役)となり、この戦について占った。このようにあります。この事は、女性(巫女)と男性(サニワ)が一対となって、その事を行なっているのが古代日本から、少なくはなっていますが現在もある姿です。
2025.01.28
コメント(0)
生起次第とは究極的な存在である法身が 修行者の中に顕現する過程を観想する方法である。究竟次第は呼吸法等の人間の生理を何らかの方法によって究極的な存在である法身に至るための実践方法である。この両次第に説かれるところの観法として「微細ヨーガ(suksma-yoga)」というものがある。微細ヨーガは,経典中には具体的に説かれていないが生起次第究竟次第から見るならば本尊あるいは曼荼羅を具体的なイメージとして行者は眼前に作り上げ尚且つ本尊と入我我入するところのヨーガであるといえよう。後期密教より
2025.01.27
コメント(0)
ひかりの身体というこういうことはよく言われるのだけど瞑想中にあらわれたよく考えると当然のことだとおもう。この身体は光目の前に右手があるが、これが光だって なにを変なことをいっているのかと普通そうなるしかし、よく考えてみると じつはそうなっているこの世界は幻影であるとズッと言っているそうであるなら、この右手も幻影という事になる。なにを馬鹿な事をとなるけど、その返答としては今見えている右手はどこになるのかという問いになる
2025.01.25
コメント(0)
大阪市の中央部の地下鉄阿波座駅の近くにこのサムハラ神社があります。ほんとうはもっと難しい字でかいてありますが、看板にもカタカナで書いてありました。ここに参拝してみましたが、小さい神社でした。街のビルの中にありましたがしっかりした感じがあり、そして綺麗に整えられているという感じで、平日ですが途切れなく参拝者がありました。奥宮は岡山県津山市にあるということです。遠くからも参拝者がおられるようで、もし近くに寄られることがあれば、参拝されることをおすすめします。
2025.01.25
コメント(0)
いま簡単なヨガを習っているのですが、これは運動としても非常に優れていると思います。特に高齢者になればなおさらです。今日本のヨガは、一種の体操なのですが何度も書きましたが、これは瞑想の一部分なのです。私の習っているところは、先生がその観点を持っておられるので習っているといえます。体のポーズの後、瞑想が始まりました。その瞑想が前も書いていますが慈悲の瞑想を披露されました。また、説明として調心、調息、調身の関連性を図表として説明が始まりました。なるほど、よくご存じと思いました。非常に納得の行く方針です。ヨガの真髄はその先にあるはずです。
2025.01.19
コメント(0)
神は常在することは無く、どこからかその場に降臨するものでした。神は不可視であることが普通で、特別な能力を持つ者でなければ 見ることすらかなわなかったのです。その神は往々にして能力を持つ者に憑依することで、その口を借り、人々に大切な言葉をもたらしてきました。この神懸かりという状態が。祀られる神と、それを祀る者が同じの関係になったのです。儀礼を主催する者自身が、巫(かんなぎ)がその状態となり、神としての立場からその言葉を人で伝達することを行なっていたのです。神が降臨する場を依代(よりしろ)とよび、その巫自体もその依代と呼ばれるのです。この神と神懸かりする者が同一であると言うことは、今でもよく見られるものです。そしてその信者からは、神そのものと神懸かりする者も、同じように神様と呼ばれるようになるのです。これらの神は、今の日本にも数多く残っているのです。その神懸かりにおいては、憑依という何者かがその人につくことであり、本来の人格と別の人格が現れてきます。またもう一つ脱魂というものも有ります。その人の魂が身体から抜け出して、どこか全く別の場所に到達し、そこで過ごした後にまた再びその身体に戻ってくるものです。その場合、それを見ると巫は失神した状態に見えます。このどちらかの状態が起こると言われているのです。密教では、その成就法には、まず脱魂して、心身を空の状態にした後、今度は仏菩薩を呼び出して、心身に入れ、人と仏菩薩の融合一体を求める方法もあります。古代においては、神道、仏教などはこのような姿を根底としていると考えておりまた日本においては、両者が融合していくのは当然の流れであったと思うのです。卑弥呼、台与、神宮皇后、聖徳太子、最初の出家者の女性(善信尼)、中将姫、真名井御前などわたしはこれらを能力者と呼んでいますが、日本人にはそれが色濃く残っており大小はありますがだれもがそれをうけついているものでは無いかと思っておりそのあらわれが初詣で動く一億人の姿なのだとおもうのです。
2025.01.14
コメント(0)
金剛薩埵の瞑想(チベット)、小周天法(中国)、なんその法(日本)、クンダリー二(インド)これらの瞑想方法は、非常に共通点があります。なにか(光)を体の中で回転させているのです。金剛薩埵の瞑想では、これを下降法、上昇法がありますが、小周天法では体をぐるっと回すので両方を行っていることになります。なんその法では、蘇(しろいもの=光)を頭上から足下へ流していくことから、下降させています。クンダリー二においては、下半身の会陰部からこれが頭上へ向かって回転して湧き上がっていきます。これは大周天法とそっくりです。なんその法は江戸中期に京都で白幽仙人から白隠禅師が教えてもらったとあったので、もっとも新しいですが密教や道教などとの関連性がうかがわれます。それにしても、これらのものは、私は同一の者であるようにみえております。またこれらのものは、健康、長寿と密接な関連のある瞑想と感じられるのです。おそらくはそれ以上のものでしょう。
2025.01.13
コメント(0)
金剛薩埵の瞑想でやはり気になるのは、頭上の光(光輪)が明妃を抱いた金剛薩埵に変化するとあります。この図については、色々と書かれていますし、色々と物議を醸している図なのです。これは、何をあらわしているのかなのです。わたしの考えとしては、これは生命を表しているのではないかと思えるのです。生命、大切なものです。私たちの命はどのように生まれてきたのか、この世に生命を受けたのかと言うことを考えたとき、父と母、男女の交接により生まれてきたのだという事実をハッキリと表している図なのだと思うのです。この光は生命を象徴しているのだと思うのです。このことについては、前にも書きましたお釈迦様の誕生説話です。白象がマヤ夫人のおなかに入ったというお話です。この白象は光の形で入ったのだと理解しており、それこそ生命が宿ったという事を表しているのです。
2025.01.11
コメント(0)
頭頂部分に金剛薩埵を観想する方法には、月環座を作りとあります。これは阿字観における月輪観や、仏像における光輪です。
2025.01.08
コメント(0)
この金剛薩埵についてなのですが、これは普賢菩薩の化身とも言われています。普賢菩薩は華厳経にあらわれるのですが、その姿については法華経の最後にある妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八と仏説観普賢菩薩行法経が有名です。一番気になるのは、普賢菩薩が白い象の上にのって現れるという部分なのです。この白い象が何を顕わしているかですが、もうおわかりと思います。お釈迦様の母である摩耶夫人の受胎説話があります。釈迦の母である摩耶夫人が釈迦を身籠る際に六牙の白象が胎内に入る夢を見たという説話があります。 また普賢菩薩の乗り物も白象です。白象としてあらわしたものは、光なのです。わたしはその様に理解しています。
2025.01.07
コメント(0)
この瞑想においては「甘露降浄法」の観想をします。これは4つの方法が伝えられており「下降法」「上昇法」「蘊の法」「四灌頂下降法」甘露というもの(これは光です)が動くことで、浄化をしていきます。これは、全く同じに見えてしまいます。ちなみにこの光は、光では無く
2025.01.06
コメント(0)
チベット仏教(密教)のゲルク派が行う瞑想があります。そこでびっくりしたのは、前にも書きました江戸中期の名僧白隠が伝える、なんその法に非常に似ていると言う点です。それどころか、チャクラ、ヨーガ、小周天、阿字観などとの関連性まで感じられます。これだけ遠く離れた場所で同じ様なものが存在している。このことは、そこに何か大切なものが残されているように感じます。それはたしかに頭上の光輪が存在しているからです。
2025.01.05
コメント(0)
初詣として参拝する人は、この日本では約1億人がその行動をしているようです。このことから、日本に住む人達は如何に宗教的であることがわかるのです。日本人は無宗教という人がいますが、実は全く正反対なのです。その根底には、見えないが尊ぶべき何かがあるという最も深い根源的とでもいう宗教心とでも言うものがあるからだと思っています。ですから、初詣で神社に行き、お葬式でお寺に行き、結婚式は教会でクリスマスを楽しむそれで良いのだと思うのです。その世界ではその様な争いは起こらないからなのです。
2025.01.05
コメント(0)
朝に祭壇のまえに座る今日も朝を迎えられた今この朝を迎えられない人が、日本では毎日4000人は出ているこの時に座れることは、なんとありがたい事だろうか、もったいないことだろうか礼拝をして、今日も動けるありがたさに感謝して一日を始める
2025.01.02
コメント(0)
年を取ってくると膝などが痛くなってくるものです。これは早期に理学療養士がいる整形外科でのリハビリテーションを行なう必要があると思います。問題は年齢によって、下半身の筋力がどんどん低下していく事が必要で、それを少しでも遅らせる意味でも運動療法は必要と思います。理学療法士から指示される運動プログラムは、やはり三日坊主になってしまうことが多いと思います。非常に簡単な方法ですが、歩く瞑想を取り入れてはどうかと思います。歩く動作は常に行なっていますが、これを瞑想として行ないます。難しいと思われるかも知れませんが、歩く筋肉などを意識し続ける(感じる)という事なのです。(意識性の原則)通常であれば、歩き出せば心は色々な歩くこととは別なことを考え出すように出来ています。わたしは、できる限り、いまという瞬間の動作を常に感じるようにしています。その身体の動きを感じるという事は、その筋肉の動きを常に感じているわけです。トレーニングにおいては、動作する筋肉を意識することで、そうで無いときより、運動の効果が倍ぐらい上がることが知られています。簡単な事ですから、取り入れてみてはいかがでしょうか
2024.12.23
コメント(0)
就寝の瞑想目を閉じて眠る時大体はすぐに寝てしまいます。眠れないという事は無く1分以内に寝てしまいます。もし気にかかる様な事がある時は、ねむれないものですがそう言う時は、瞑想を行っています。ベッドに体を投げ出して、目を閉じ、身体の中で常に動いている呼吸を観察します。息が出入りする場所にタッチポイント(意識する地点)を置いて、底を通過する空気の流れを観ています。呼吸は意識せず、身体に全て任して投げ出しています。私の場合はすぐに閉じた目の前に光輝、光輪が現れます。現れてもそれを観ず、呼吸の流れを追っていきますと、光輪が固定化するようになりますので次はそれをズッと観ていくようになります。大体はその地点で寝てしまうのです。寝返りを打つともう寝てしまっています。さらに観ていく場合その光輪はさらに大きくなり全身をつづむようになります。頭上にある光が全身を流れ下り、呼吸においてそれが体の中へも取り込まれていきます。その全身の光の中で、寝入ってしまいます。
2024.12.21
コメント(0)
小周天というものがあります。
2024.12.16
コメント(0)
せむいしゃというのは観音様の別名です。観音経の最後に是観世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中。能施無畏。是故此娑婆世界。皆号之為。施無畏者。とあります。なぜ、ただただ観音様は何も求めず助けてくれるんだろうかという問いがあります。この理由は、観音様の原型である女神アナーヒターを見れば、浮かび上がります。アナーヒターは、光の神とともに、川、水、大河を司る神でもあります。乾燥地帯においては、水はそれこそ生命の源、富の源、なのです。大河とは、常に流れ下り、人々にその恩恵を与えてくれます。そこには、見返りなど求めず、貴重なる水を常に流し続ける存在、そのものだからです。観音様が水の瓶などを持っているのは、そう言う意味があります。インドの神話に、サラスヴァティー, サラスワティー という女神がでてきますがこれも同じ神様で、実はこれはもう失われた大河なのです。この川はインダス川と並行して流れていました。そしてその川のまわりにはインダス文明の都市がさかえていたのです。しかし、あるときこの川の水は途絶え、文明は消え去っていきました。乾燥地帯において、水の有る、無しは劇的な差を生みます。これはふんだんな水の恵みの有る日本では考えられない差なのです。瓦礫と石ころの荒涼たる大地が、水の存在によって一気に劇的に緑の沃野に変わる姿を見たことがあります。その存在は分け隔て無く、皆に恩恵を与えていく、もう神様としか言えないだろうとよくわかるのです。
2024.12.12
コメント(0)
ここまで観音様の事を書いてきました。なぜここまで書こうと思ったのは、実は女性はこの観音の姿を隠し持っています。わたしはそれを見ることができました。深い瞑想状態にあるとき、それが現れました。別人のように、顔が変化して、とても美しく見えました。まさに聖観音様の姿です。整形でもしたかのように、全くの別人です。その顔は全てが落ちきった表情なのです。神聖さ高貴さまでも感じました。なにか微笑んでいるかのような表情なのです。ほんらいであれば、その姿を書き残したいとまでおもったのですが、絵を描く能力はありません。そこで、探し回って最も近い表情の姿を表したのが、あの聖観音(画家奥田みき)の絵なのです。これを観る事が出来る人は少ないとおもいますが、必ずあらわれるものです。
2024.12.07
コメント(0)
観音様のお姿が、女性形であらわされるのはこの理由によるのです。女性のみが持つ次の世代を生み出していく、豊穣をあらわすものです。観音経にはもし女人ありて、もし男を求めんと欲して、観世音菩薩を礼拝供養せば、すなわち福徳智慧の男を生まん。設し女を求めんと欲せば、すなわち端生有相(たんしょううそう)の女を生まん。むかし徳本を植えて、衆人に愛敬せらる。無尽意、観世音菩薩はかくの如きの力あり、若し衆生ありて、観世音菩薩を恭敬礼拝せば、福、とうえんならず、是の故に衆生、みな応に観世音菩薩のみょうごうを受持すべし。とあります。まさにアナヒターそのものなのです。慈母観音という絵画もあります。次の世代の子供達を守る観音様の姿です。
2024.12.07
コメント(0)
金星は観音様の星といいました。光の女神アナーヒターが観音様の本来の姿ではないかとおもっています。その一つの証として、観世音菩薩は、当初古くは 光世音つまり光の観音様と呼ばれていたのです。また観音様は水の瓶を持つ姿で描かれていることが多いのです。この光の女神アナーヒターは水を司る女神でもあり、アルブルス山から流れ出る川の守護する神なのです。水に強い関連性があります。観音様は龍に乗る姿で描かれることも多いのです。(龍騎観音)龍神は水を司る神なので、ここでも関連が見えるのです。川の水を司るという事は、健康、子宝、安産、家畜の生殖、作物の豊穣を司る事になります。それ故、観音経にある様々な霊験があるのも、まさにこのことを示しているのです。
2024.12.05
コメント(0)
シーター波(Θ)これは脳波で4ヘルツから8ヘルツのゆっくりとした脳波です。これは特に深い瞑想の時に現れ、海馬の増大と密接な関係があります。またこれは、ゾーンと呼ばれる状態の時にも現れ、勉強などにも多大な効果を得られる状態であるとありました。睡眠時はもっとゆっくりしたアルファ波が出ますが、この状態はその前のウトウトしたときにも現れます。半覚醒状態とでも言うとハッキリします。この波が現れるとき脳内の神経細胞の集団が一体となって同期活動を開始するとあります。これが何を意味するかは、よくわかります。いままで研究していたクンダリー二や密教特に後期密教がなぜあのような形になったのかがハッキリしてきました。光輪の形成もそうです。思考を止めていくとこれがハッキリと現れるはずです。ヨガはそれを誘導するのに最適な運動です。病床の阿字観も同じ狙いのはずです。おそらく心身の健康ととても関係があります。そして、ここに書けない部分があります。検証が必要ですが、おそらくそうでしょう。
2024.12.04
コメント(0)
非常に明るい星が見えます。金星です。美しい星 金星 様々にたとえられて来ました。これが観音の星と言えば驚くかもしれません。金星と言えば、美の女神 ビーナス(ローマ神話) アフロディーテ(ギリシャ神話)が有名ですが、この根源はさらに古くゾロアスターの光の女神 アナーヒターに遡ると言われています。アナヒターの星は同じ金星です。アナーヒターが西に向かいビーナスになりました。それが東にむかったのが、観音なのです。観音様 神に性別はないのですが、女性形で表されるのはこのような理由なのです。古くから様々に観音様が描かれて来ました。現在でもこのように美しく表現される方がおられます。(画家、奥田みき)聖観音それは金星なのですから
2024.12.03
コメント(0)
その宝塔の記述の次は、こうあります。所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう。なぜなら、その場は道場であると知って欲しいのです。皆仏となる者達はそこにおいて、法輪=光輪を展開し、その中でにて涅槃(静寂、自由、最高の幸福の状態)を得ることができるでしょう。その様に私には見えてしまうのです。
2024.12.02
コメント(0)
クンダリニーを表す画像で蛇が螺旋をしながらねじり巻き付いている図があります。これについては、其の状態において下部から上に向かってあの図のように巻き上がっていきます。其の状態を表すために、あのような図になった物と推察できるのです。問題は再現性が無い点です。次に伝えるために、あのような物になったというか、あの図があったので何か起こったのかはわかるのです。
2024.11.27
コメント(0)
神戸市の新開地にある真言宗西室院様で、阿字観が行なわれております。今回ここに座禅用座布を寄贈させていただきました。その西室院のインスタグラムにも上がっています。なぜそうしようと思ったのは、もともと普通の座布団を二つ重ねにして阿字観を行なっていましたがどうも勝手が悪いのです。やはりうまく座りにくく下半身を固定化できません。そのため皆さんにも行き渡るように寄贈させていただいたのですがその使用感についてのコメントが多く上がっており座りやすい、集中しやすいという意見が出ていました。これについては以前から書いていますが、次々と湧き上がるこの想いは、実は本当のわたしでは無く自分の身体に、あたかも邪魔な放送局のように、次々と想いを流し込んでくる機能が備わっています。其の発現には、身体のゆがみとか緊張がスタートになっていますのでリラックスとか力を抜いていく事が常に強調される指導は、理にかなっているわけです。座るという作業において、余分な座りにくさというものが少しでも無くなれば、阿字観が進んでいくだろうというのが予想されるのです。やはり1000年を超えて使われている専門の道具というものは、よく考えられている物と想います。
2024.11.26
コメント(0)
大阪の中之島美術館で展示が行なわれています。この図は法華経の如来神力品第二十一の場面を絵巻物にした物です。その経のその場面の内容は以下の通りです。https://plaza.rakuten.co.jp/katu6448979/diary/202411080000/この場面の問題は塔の存在なのです。前も書きましたが、塔とは何かこのような物理的な物の塔なのかという事なのです。
2024.11.20
コメント(0)
11月15日(金)に座るヨガ3回目に参加したのですが、その中で新しい手の指で蓮の花を作るポーズの説明と実行がありました。手を胸のまえで上下に包み込むように作り、それを手を合わせてつぼみとして手指を花の様に開いて上方に広げていく動きです。これを瞑想と組み合わせていくのですが、前から言っていますように頭上に光輪が形成出来ています。これを前に書いた如意宝珠の時と同じように下の左手の上に形成出来ますので、それを右手で包むようにして、花のつぼみのように出来ます。それを蓮が開くように、その光輪を上方に開きあげていくと、光輪が左右上方に開いてい拡大していくことがわかりました。このポーズ自体は、調べるとパドマ(蓮の花)ムドラー(手の形)と呼ばれる物らしいのですが光輪の拡大 阿字観で言う広観というものは、案外と難しい物です。しかし、動作を使うとそれが容易になることが収穫でした。これはまたヨーガで言うところのチャクラの形成の練習と対応しているようです。
2024.11.18
コメント(0)
前回に引き続き座るヨガを別の女子社員2名にしてもらってみました。昼休みに簡単にそのさわりだけですが、やってみてもらったのですがその動きだけでよくわかります。一名はヨガ(ホットヨガ)をしていると、後で聞きました。もう一名は、ストレートネックなど首に異常が出ているようでした。簡単な動きですが、非常にそれがよくわかるのです。日頃からヨガを行なっている人は、動き自体にゆがみとか堅さがありません。スムーズなのです。もう一名の方は、やはり体の動きが硬い事がわかりました。しかし一日目の女子の方よりは、まだマシです。一応簡単な動きと、その後そのポーズ集を渡しましたが、ホントこれだけのことで、よっぽど体がおかしくなっていることがわかるのです。これは座っている状態を観察してもわかりませんが、手を上げたり伸ばしたりするだけでどこが悪いか丸わかりなのが面白い物です。異常を見た人はこれは未病と呼ばれる状態なのでしょう。これが蓄積するともっとマズイ事態になることがよくわかります。また、簡単な動きをするだけで相当改善することがわかるのです。しかし心配しているのは、最初の人です。今日も慢性的な腰痛を訴えています。問題は何もしないと言う点なのです。これ以上は強制できませんし、医者にも行こうとしません。その背中には円背(猫背)が現れているのです。それが何を意味しているかは、よくわかるのです。ヨガ動作だけで、身体のおかしいところが見えるのは面白い発見でした。これは年齢の問題ではないのです。わたしより20歳も若いのですけど
2024.11.14
コメント(0)
会社で座るヨガをやって見せてということで急遽そのさわりだけでもという事で、10種類くらいのポーズを、回数を縮めて女子社員に対してやってみました。20分くらいでしょうか教室では1時間を超えます。その時ビックリしたのが、腕が上がらない、背中が丸められない、胸が開かないなど、ポーズが続けられない、おどろくほ体が硬いというか、カチカチという状態が見られたことです。すぐに放棄してしまうのです。(これでは集中自体が難しくなるはずです。)わたしよりずいぶん若いはずなのですが、これでは慢性的な腰痛や、様々な心身の不調をきたすだろうと思いました。本当に、簡単なねじるだけの動きなのですが、それすらも出来ないというかビックリしました。この状態で瞑想を行なうと、体の変動が様々な心を作り出すため、集中など出来ないはずなのです。物事もすぐ他の心が出てくるはずなので、物事もつづけられないのです。この状態をほぐしていくことが、大切だという事がよくわかりました。ヨーガが瞑想へとつながる準備行動として重要なことが、よくわかりました。wikiより瑜伽(ゆが)は、仏教におけるサンスクリット語「yoga योग」の音写語で、感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をいう。心身の健康法ヨーガ(ヨガ)もこれに由来する。原義は「結びつくこと」「結びつけること」の意で、相合、成、摂、成就、精勤修行などと漢訳される。仏教では、瑜伽行派(Yogaacaara、योगचार)において、このような実践方法が重んじられ、独自の体系のもとに記述された。
2024.11.11
コメント(0)
是の故に汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし。所在の国土に、若しは受持・読誦し解説・書写し、説の如く修行し、若しは経巻所住の処あらん。若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。この塔とは何でしょうか聖徳太子を表したという久世観音の光背それをよく見るとその光背の頂点には、建物が書いてあるのです。光背とは光輪です。
2024.11.08
コメント(0)
こんなことを書いていたら、会社でヨガ教室を開く羽目に成りました。椅子に座るヨガ、簡単なものをやってみようかという事になりました。女子社員もヨガには、興味があるようですが、やはり教室に行くのはハードルが高く無料で教えろという事になりました。
2024.11.06
コメント(0)
現在多くのヨガ教室があり、多くの方(主に女性)がその教室に通われています。体を動かすことは、必要なことで、かつこのような体を痛めることが少ない運動は最適な運動だと思います。家でゴロゴロして座りしぱなしでいると、老化が余計に進んでしまうものです。運動面から見た場合、運動自体がねじりとストレッチなど体幹を中心とした動作で出来ていますので日常の動きの面から見れば、最適な運動といえると思います。激しい運動は害になると常々思っていました。また、動作自体は簡単なゆっくりした動きなので、家の中でもどこでも出来るわけですから非常に手軽であり、それが一つのブームになっていると言えるでしょう。ヨガフェスタなど、見てみましたが、非常に多くの方が参加されていました。しかし、そこで少し話してみましたが、このこころとヨガによる動きという関連の点があまり見えない点が、もったいないという惜しいと思うのです。ヨガ(ヨーガ)の成立には、前も書いていますが、瞑想と心の対応の全てがヨーガと呼ばれていたので、今のヨガはその中で動作の部分だけを、抜き出して広めたからなのです。確かに、このこころの問題を扱うことは、難しいと思いますし、下手をするとトラブルの元になるから、広く一般的にという点を考えると、今のこうならざるを得ないというのはよくわかります。
2024.11.06
コメント(0)
この座るヨガをおこなってよくわかることは、心の問題をどうするかだろうと思います。身体の変異が心を作り出すのですが、問題はその心がさらに身体にフィードバックしてその問題の心をより強くしていく点で問題なのです。昔よくつかむな、離せと言われましたが、心を離すことはとても難しいと思います。自分でも完全にできません。心のこの状態をどうかしようと、あがいていましたが、心で心をどうかしようというのは続かないように出来てしまうようになっています。自分の場合は不安感、それもなんとなく不安が出てくるのです。その時の身体は、やはり肩胸を中心として、なにかこわばっています。その何気ない不安にたいして、大丈夫だとか、考えすぎだとか考えで振り払おうとしますが、その時は、消えるのですが、またやってくるのです不安神経症と自嘲的に自分では言っていました。この不安を観る事を知り、それを観ることで、それが絶対永遠に続かないことがわかりました。(当たり前の話で、不安の身体を続けることは、不安の力を身体にかけ続けるのですから、続くわけが無いようにできているからです。)(そのうち不安を忘れて、他のことを考える様になり、それで不安をどうしように無いという自己嫌悪に心がなり、悪循環です。)この不安に、日本沈没か、世界の最後まで観てやる気持ちで観ると続かないのです。最後はその馬鹿さ加減に気がつくようになると、だんだんと出てこなくなるのです。不安の身体状態が現れたら、心が起こる前にそれを捕まえないようにこころを観る状態から、それを観ると気がつく事ができるようになると思っています。非常に変な言い方ですが、メタ認知という状態とでもいうものです。ふつうのわたしとべつの何かがある状態で、それが何かはわかりません。(何もないものがある 変な言い方です)だから、観ているものは誰?と言い続けているのです。
2024.11.04
コメント(0)
かんたんな瞑想との組み合わせでしたが自律神経の不調などは、ほんとうに良くなることがわかります。からだの不調、病気までは行かないが、なにか不調を感じるなど、多くある事です。こう言う心が不調を感じる時はよくあることですが、こころは、身体が作り出す影のようなものです。ですから、身体の中になにか変な振動、こわばり、などがあるのでしょう。見えないくらい小さいものですが気温の急激な変化などで、自律神経がうまく働かないのでしょう。ほんとに、簡単な、ねじること、体幹を中心とした、伸ばす運動です。終わった後うっすらと汗がでるくらいの負荷です。気持ちよいくらいです。簡単な呼吸を追跡する瞑想もありました。教室が終わって、しばらくすると、二週間くらいの今までの眠いとか,だるいとかの鬱的な感じなどなんとなくの不調が見事に全く消えているのです。体を調整することが、心も調整できる事、その相互関係がよくわかるヨガでした。
2024.11.02
コメント(0)
簡単なヨガの教室に参加することにしました。瞑想とヨガについての教室です。参加して簡単なポーズなどを行ってみました。1時間くらいですが、ほんとうに良い運動になります。マットを使わず椅子に座って行うものでした。早速効果が感じられました。非常に暑い夏が続いており、10月にはいって気候がかわり始めるとやけに眠く、だるい症状が続いていました。へんな状況なのですが、この簡単なヨガを行うと、ほんとに綺麗に消えてしまいました。
2024.11.02
コメント(0)
全1651件 (1651件中 1-50件目)