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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたか、調べてきました。 賢治は、詩「野の師父」では「二千の施肥の設計を終へ」たと書いています。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012100000/ ある程度、事実を反映した表現と思われますが、詩は創作ですから、そのまま事実と認めることはできません。 肥料相談会を手伝った教え子と、岩手県農会職員の記録によれば、最低でも約300枚であると推定しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101190000/ 相談会場を約10か所、相談期間を9日、1日の枚数を30枚、3年間行ったとして、最高は約8000枚と推定しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101160000/ 約300枚から約8000枚のどこかに実際の枚数があると推定しました。 今後の新資料の発見に期待しながら結論としては、次のようにいたします。 【結論】正確な枚数はわからないが、数百枚から数千枚の肥料設計書を書いた。少なくとも、2000枚書かなかった、と断言することはできない。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料設計 #肥料相談 #枚数
2021.01.20
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以前は最高の枚数を推定しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101160000/ 今回は、最低の枚数を推定してみます。 1928(昭和3)年3月15~22日及び30日の9日間、石鳥谷(塚根)肥料相談所で1日あたり30枚書いたと教え子が証言しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101140000/ 1928(昭和3)年のある日、14~15人が並んでいたのを県農会職員が見ました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101170000/ 30枚×9日+14枚=284枚 残り9か所の会場では1枚も書かなかったという不自然な推定で、最低枚数は約300枚になります。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計
2021.01.19
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたのでしょうか。 賢治が肥料相談所・講演会を開いた会場は、11か所のようです。1か所あたりの開催日数は、最長が石鳥谷(塚根)肥料相談所の9日間、最短が湯本小学校の1日間です。 1926(大正15・昭和1)年~1928(昭和3)の期間中、各会場で何回開催したのかが気になります。3年に1回と毎年1回では推定枚数に、3倍の差が出ます。 ヒントとなるのは、現存する肥料設計書です。 現存する23枚の肥料設計書のうち10枚が、前年との比較が可能です。 2年続けて、肥料相談を受けた農家が相当数いたと考えられます。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012070000/
2021.01.18
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先日、宮沢賢治の肥料相談所と講演会場は、10か所と書きました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101150000/ しかし、他にもありそうですので、訂正します。下記の資料のように14~15名が並ぶほどの人気の相談所を前述の10か所の他にも開いていたとなると、肥料設計書の推定枚数は上方修正しなくてはなりません。 さて、資料の説明です。県農会の機関誌に、旧土木管区事務所(現 岩手県花巻地区合同庁舎 花巻市花城町1-41と思われる)で肥料相談を行った様子が掲載されています。 岩手県花巻地区合同庁舎 https://www.pref.iwate.jp/kensei/kanzai/shinkoukyoku/1011356.html 移築された当時の建物 現 花巻市大迫交流活性化センター https://www.city.hanamaki.iwate.jp/shisetsu/bunka/1004122/1004126.html さて、半官半民の技術指導機関である県農会は、当時の、いわば主流の技術者たちの団体です。この資料を読むと、宮沢賢治の肥料相談活動が好意的に評価されていたことが、わかります。 宮沢賢治といえば、生前はあまり評価されなかった人という印象があります。 文学では当時の大半の主流の文学者からは、評価されていなかったり、文化社会政治活動は警察に弾圧されたりしました。 しかし、肥料相談活動が、当時の主流の技術者たちから、評価されていたことは、何かホッとするものを感じます。 文化社会政治活動を制限された、この時期の賢治が、肥料相談に力を注いだ気持ちがわかるような気がします。 タイトルに「特志家」という見慣れない表現が使われています。普通は「篤志家」です。誤字かもしれませんが、「特別な志」という意味かもしれません。 「農界の特志家 宮沢賢治君」より抜粋(『岩手県農会報』第 188号 1928(昭和3)年 26ページ) (本文開始) 最近二度ほど君の仕事を見たに、冬閑には農家の希望によつて学術講演に近村に出掛けて殆ど寧日がないとか、而して決して謝礼を受けない、昨今は旧土木管区事務所に出張して農家の相談相手となり肥料設計をして居る。数日前君の所謂店を利用したるに箱の様な代用机三四脚の腰掛け其処で十四五名の農家は順番に設計の出来るのを待つて居つた、非常に丁寧な遠慮深い農家達だと思つたに、此は皆な無料設計で用紙なども自宅印刷なのであつた。自己を節するに勇敢で他に奉ずることに厚いと噂に聞いて居る宮沢君は世評の如く誠にかざらざる服装で如何にも農民の有力な味方の感があつた。 (本文終了) #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計 #農会 #岩手県農会報 #旧土木管区事務所 #農界の特志家宮沢賢治君
2021.01.17
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたのでしょうか。 各相談所の開催日数が不明であるなど、残された資料が少なくて、正確な推定はできません。 そこで、いっそ最高でどのくらいの数になりうるか、推定してみました。 記録された1日あたり最高の肥料設計書数は、30枚でした。 1か所あたりの1シーズンあたりの最長開催日数は、9日間でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101140000/ 肥料相談、講演の会場数は、10か所でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101150000/ 賢治が肥料相談所を開いた年は、主に1926(大正15・昭和1)年から、1928(昭和3)年の3年間です。 単純に最高の数をかけ算すると、 30枚×9日×10か所×3年=8100枚 ものすごい数になってしまいました。 これは、明らかにありえません。 次回は、ここから削りながら妥当な枚数を探ります。 上記のように、1月16日に書きましたが、訂正します。旧土木管区事務所での肥料相談が抜けていました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101170000/ 肥料相談・講演会場は、さらに増える可能性がありますので、いったん枚数の推定を先延ばしします。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計 #講演
2021.01.16
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたのでしょうか?今回は会場の数を調べました。 石鳥谷(好地村)では、1928(昭和3)年3月15日から3月22日と、好評のため追加で3月30日の9日間肥料相談所を開きました。1日に30枚の肥料設計書を書き、講演も行いました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101140000/ こうした肥料相談や農事講演会を1926(大正15・昭和1)年~1928(昭和3)年を中心に行いました。 肥料相談や農事講演会を開いた主な場所は次のとおりです。 ・十二鏑村 時期不明 ・湯本小学校 1928(昭和3)年2月9日 ・好地村塚根(石鳥谷) 1928(昭和3)年3月15日~3月22日、3月30日 ・ 湯口村 鍋倉 宝閑小学校 時期不明 ・湯本村 大瀬川 時期不明 ・根子村 西一二丁目 時期不明 ・湯本村 狼沢 時期不明 ・花巻下町 宮右商店 時期不明 ・矢沢村母衣輪 時期不明 ・花巻町 新田 時期不明 計10か所のようで、残念ながら、詳しい時期は多くが不明です。湯本小学校のように1日だけの場所もあれば、好地村塚根(石鳥谷)のように9日間行ったところもありました。 上記のように、1月15日に書きましたが、訂正します。旧土木管区事務所での肥料相談が抜けていました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101170000/ 肥料相談・講演会場数は10か所を超えるものと思われます。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計 #講演
2021.01.15
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宮沢賢治が2000枚の肥料設計書を書いたのか、考えています。 賢治は花巻周辺に数ヶ所の肥料相談所を開きました。そのうち最も記録が残っているのは石鳥谷肥料相談所です。建物は現存していませんが、案内板が立てられ、当時の様子を伝えています。 https://www.city.hanamaki.iwate.jp/shisetsu/kanko/1007048.html 案内板の記述からわかるのは次のことです。 ・この記録の相談期間は1928(昭和3)年3月15日から1週間 ・開始前から10人が並ぶほどの人気 ・相談時間は午前8時から午後4時 ・9時、10時とすすむにつれ人が増えた ・開始から午後1時過ぎまで30枚を整理した ・午後は講演であった (本文開始) 石鳥谷肥料相談所跡 昭和三年三月十五目から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。 当時の相談所の面影は写真でしかわかりませんが、菊池信一氏は、「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一文に、その模様を次のように表しています。 『店には八畳敷と土間が提供され、荒作りの大きな卓子(テーブル)と大鉢が二・三個あり、囲りの壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の図が十数枚貼られ、かぜにガワガワゆらいでいた。毎朝七時半の列車で石鳥谷駅におり立った賢治先生は、羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の洋服をまとわれていた。そして、ゴムのだるま靴を履かれ、鞄を抱えた左肩を斜めに上げて右腕を大きく振って来られた。 相談所にはすでに十人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。 毎朝午前八時より午後四時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。 「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。九時十時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の施用肥料の設計をやられた。 大馬力で三十枚ほども整理し、お昼飯をしたのは一時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。 その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽一三二号種を極力勧められた。これにより秋は二割方増収であった。」 この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。 (本文終了) #宮沢賢治 #石鳥谷肥料相談所跡 #肥料 #肥料相談 #菊池信一
2021.01.14
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宮沢賢治は、詩「野の師父」で2000枚の稲作の肥料設計をしたと書いています。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012100000/ ただ詩は創作ですから事実とは限りません。現存する肥料設計書は23枚です。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012070000/ 2000枚とは、超人的な数ですが本当に可能だったのか考察します。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料設計 #水稲 #稲作
2021.01.13
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